戦争とは?
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このページは半保護の方針に基づき、一部ユーザーによる編集から保護されています。 この項目では主に国家が軍事力・武力を利用し戦闘を行う行為および状態について記述しています。トランプを使ったゲームについては戦争 (トランプ)をご覧ください。 戦争(せんそう、War)とは、主に国家が、軍事力・武力・国力を利用し、作戦・戦闘を組織的に遂行する行為および状態である。 戦争とは一般的に国家が自国の安全を守るため、または軍事力を用いてさまざまな政治目的を達成しようとする行為(行為説)、または用いた結果生じる国家間の対立状態である(状態説)。戦争は太古から続く人類の営みの側面であり、最も原始的かつ暴力的な紛争解決手段であると言える。 政治だけでなく、経済、地理、文化、技術など広範にわたる人間の活動が密接に関わっており、その歴史的な影響は大きい。近代以降の戦争は陸海空軍の武力戦だけでなく、外交戦、宣伝戦、謀略戦、経済戦、貿易戦、補給戦、技術戦、精神戦などの闘争を本質的に包括しており、相互に関係している。[1]そして結果的には、その規模にもよるが、国際関係や社会や経済など幅広い分野に破壊的な影響を与え、軍人や民間人の人的被害からインフラの破壊、経済活動の阻害など社会のあらゆる部分に物的被害を与えることとなる。一方で科学、技術、外交、戦略論、組織論、戦術論、兵器・武器の発展をもたらしてきた側面もある。また、軍需景気により戦勝国やその同盟国の経済が潤う場合もある。 現在の戦争は軍事技術の高機能化から殺戮破壊の規模が大きくなる傾向や、人道主義の観点から忌避される傾向となっている。不戦条約締結以降、基本的に「自衛戦争」以外の侵略戦争は禁止されている。 しかし国際連合(国連)が行う平和維持活動にも依然課題が多く残っており平和政策の研究が進められる。また外交と限定的な軍事力を組み合わせることで戦争の被害を最小化しつつ国益を最大化する新しいまた戦争の形態が生み出されている。 その発展や勝敗には原則的、法則的な事象が関連していると考られており、軍事学において戦理や戦略・戦術理論の研究、戦闘教義の開発、兵器開発、定量的な作戦研究、戦史研究などが行われている。 軍事的な観点から、戦争は軍事力の実質的な戦闘行動が実行されている状態を指す。その軍事力の主体はしばしば国家であるが、法的な定義とは異なり、その実質的な能力を重視するため、国家ではなく武装勢力に対しても使用されている軍事力の規模によっては用いる場合がある。米軍では武力衝突のレベルを、比較的危機の程度が低く、平和維持活動や対テロ作戦などを展開する「紛争」と、比較的危機の程度が高く、大規模な武力行使を伴う戦闘作戦を展開する「戦争」と区別している。[2]また米軍は紛争を規模によって三段階に分類しており、その中の「高強度紛争」は伝統的な戦争のレベルに該当する。 国際法において、戦争の当事者は一般的に国家であると考えられており、伝統的な慣習国際法の観点からは宣戦布告によって始まり、講和によって終結するものであると考えられる。しかし、歴史上宣戦布告が行われず「実質戦争状態」に突入した事例が存在するため、現在ではこの形式は重要視されていない。また国家以外の武装集団間での武力衝突は、紛争と呼ばれ、たとえば民族間であれば「民族紛争」と呼ばれる。 ただし国家でない集団の対立にも「戦争」という語が用いられることはある。例えば、南北戦争において1861年にイギリスが南軍に対して交戦団体承認を行っている。以下に具体的な例を挙げる。 内戦の当事者は一国内における政府と反逆者(反政府勢力や、革命などにより新政権樹立を目指す勢力・政治団体等も含まれる)である。厳密には国際法上の「戦争」ではない。ただし、既存政府側による交戦者承認があれば国際法上の戦争法規が適用される。 独立戦争の当事者は全体としての国家と部分としての地域や植民地である。これは内戦の一種であるという見方と、独立しようとする勢力を暫定的に国家とみなして国家間の対立とする見方が可能である。ただし、現代においては国連憲章にも謳われている人民自決権の概念が国際社会の根本的な価値として認められたことからも、植民地支配及び外国による占領に対し並びに人種差別体制に対する武力紛争の場合は内戦(非国際武力紛争)ではなく国際的武力紛争として扱われる。これに伴い、国家間に適用される国際人道法ならびに戦争法規が適用されることになる。 戦争は人類の全歴史を通じ、全地域において行われてきた。6000年以内の史料が残っている時代に限定したとしても、戦史家によれば戦争が起こった回数は15000回以上であると考えられている。[3]もっとも、その程度と頻度にはその政治的環境による有意な差がある。何をもって戦争の始まりとみなすかは諸説があり、定見とよべるものはない。 文字記録が残っていない先史時代の戦争形態について正確に知ることはできないが、太古から紛争形態を受け継いでいるアフリカやオセアニアの地域から、その形態を推察することができる。 戦争形態は儀式的な側面が強く、対立勢力が対峙する中で一騎打ちの形態で行われる。使用される武器も鉄製ではないため、死者が出ることはほとんどなく、死者が出てしまった場合はすぐに徐霊の儀式を受けなくてはいけない。このような方法で決着をつけるのには、いくつかの理由が存在する。まず小規模な集団同士の紛争となるため、全面的な対決となれば双方共に壊滅的な被害が生じることが考えられる。また紛争の争点となるものはしばしば領土の所有権をめぐるものであるため、敵を全滅させる必要性が存在しないことも理由としてある。 古代において農業が発達していってからは人口が増加し、富が蓄えられ、国家体制が整えられていき、戦争の規模も拡大する。また土器・石器から青銅器・鉄器を利用した兵器や武器の開発が進み、軍事力の能力が飛躍的に発展して大国化する国家が現れ始める。部族集団が都市国家へと成長し、ペルシアやローマのような帝国に発展したのが例として挙げられる。またこの時代には科学技術が発達して、戦車(二輪)や投石器、弓矢などが新兵器として登場し、戦争の形態をかつての儀式形式から会戦という形態に移行していった。しかし、中世においては儀式的な要素も根強く残っており、一騎打ちの伝統は一部の地域で受け継がれた。 帝国主義に基づく植民地支配は富の集積を実現し、英国は産業革命を実現できた。それによって工業の発達が軍艦や銃器の性能を引き上げ、フランスなどで起こった革命が国民国家の体制をもたらして中央集権に基づく徴兵制によって、軍隊の大規模化を可能とし、戦争の規模やコストは急速に膨らんだ。またナポレオンはこれまでの戦略・作戦・戦術の抜本的な合理化を行う改革に取り組み、国家総力戦の体制の原型を整えた。さらに銃器・火砲などの兵器の発展が被害者数を甚大なものとした。第一次世界大戦や第二次世界大戦では戦争はただの武力戦ではなくなり、国家がその経済力・技術力などの国力を総動員し、非常に多大な消費が長期間にわたるという新しい戦争の形態である国家総力戦が発生し、その戦争形態を維持する必要性から国家総力戦体制と呼ばれる戦時体制が出現し、またこの大戦では戦略爆撃などの実施によって戦闘員だけでなく民間人にも多数の被害者が出ることとなった。 世界大戦の反省から国際連合などの国際機関が発展したこと、大量破壊兵器の登場によって、戦争をかつてのような動機から行うことはできなくなり、かつてのような総力戦の危機は低下した。しかし一方で核兵器やミサイルの発達は核戦争の可能性を生み出すこととなり、また軍事技術の開発が躍進的に進んだことから現代の戦争の勝敗は科学技術の開発に大きく左右されるようになっている。またテロや特殊部隊などの新しい形態の武力が用いられるようになりつつあり、また冷戦後は内戦が世界各地で勃発した。その形態はかつての伝統的な戦争よりも複雑多様化しているのが現状である (軍事史を参照)。 戦争の類型に関しては、時代や戦術・戦略の変化に伴って多様化しており、また観察する視点によってもさまざまな見方ができるため、断定的に行うことは難しい。 総力戦とは国家の軍事力の増強に人的物的資源の全てを投入する形態の戦争であり、第二次世界大戦がこの代表例である。全面戦争とも言う。 限定戦争とは全面的な戦争を避け、外交手段や限定的な軍事力を用いることによって政治目的を達成する戦争の形態である。局地戦、制限戦争とも言う。 長期戦とは長期間にわたって行われる戦争である。作戦戦略的に両者が防勢または一方が防勢に出ている状態である場合が多く、戦術的には陣地防御や後退行動に出ている場合が多い。歴史に見れば、第一次世界大戦は典型的な長期戦であった。 短期戦とは短期間にわたって行われる戦争である。作戦戦略的に両者が攻勢に出ている状態である場合が多く、戦術的には機動攻撃に出ている場合が多い。実際には発生していないが、核戦争が勃発すれば短期戦となると考えられている。 殲滅戦とは短期間において敵戦力の徹底的な撃滅を目指して行う戦い方、またはその戦いを言うものであり、核兵器を用いない限りこれは局地の戦闘においてのみ適応され、戦争全体を言うことは厳密にはできない。 消耗戦とは長期間において敵戦力を徐々に撃滅することを目指して行う戦い方、またはその戦いである。現実の戦争では遅滞作戦などで消耗戦となることが多い。 正規戦とは国家間で遂行される伝統的な戦争の形態であり、近代に特に多く見られる形態の戦争である。堂々と部隊を戦闘展開し、攻撃と防御を行って勝敗を競うものであり、第一次世界大戦や第二次世界大戦がその代表例である。ただしこの形態の戦争は現代においてはフォークランド紛争が挙げられる程度で国家間が直接衝突する戦争の形態は非常に数は少なくなっている。 不正規戦とは、伝統的な国家間の戦争ではなく、非国家の武装勢力と国家の軍隊という非対称的な構図の元に行われる争いのことであり、近年この形態の戦争が増加しつつある。主にテロやゲリラ戦が展開され、長期化する傾向にあることが特徴と言える。ベトナム戦争やチェチェン紛争などが例として挙げられる。 中列度紛争または紛争とは武装勢力同士の武力衝突、もしくは国家間の比較的小規模な武力衝突などを指す。国際法においては厳密な意味において、国家が主体となる戦争よりも包括的な概念である。また米軍においては全面的な戦争と、平時における混乱の中間段階だと認識されている。内戦も代理戦争とならない限り、しばしばこれに分類される。 内戦は諸勢力が一国内において争う形態の戦争である。反政府運動や独立運動、反乱などが含まれ、国民は能動的、組織的に政府軍に対する作戦行動をとる。フランス革命や国共内戦やズールー戦争などが挙げられる。大規模化することは少ないが、現代における戦争のほとんどが内戦の形態である。 低列度紛争は国内の混乱から中列度紛争までの過程を指す。組織的なテロや謀略戦、反乱活動、恐怖政治などがこれにあたる。 恐怖政治とは国家が国民に対して行う武力を積極的に用いる政治であり、反政府の武装勢力が組織化されていない場合は、内乱の形態と非常に類似している。概ね国民は戦争自体を望んでいるわけではなく、組織的な作戦行動も限定的である。近代以降、国家の制度的、法律的な中央集権化が急速に進み、恐怖政治はより一層高度化することが可能となった。恐怖政治においては、通常の戦争よりも遥かに虐殺的な攻撃が政府によって行われる。スターリンや中国共産党などは恐怖政治を行った代表格として考えられている。 核戦争とは、核兵器を主要な兵器として用いた戦争の形態であり、冷戦期においては米ソが核兵器やミサイルの技術開発や軍拡を積極的に行い、核戦争に備えていた。対義語として非核戦争がある。冷戦体制がなくなったため、勃発の危険性は低下したと考えられているが、現在でも核兵器は完全に撤廃されているわけではない(核戦争を参照)。 非対称戦争とは、交戦主体間の軍事技術に大きな開きがある戦争である。典型例としては大航海時代におけるヨーロッパの軍隊と新大陸やアフリカの原住民との戦争が挙げられる。現代の先進国と開発途上国との戦争が非対称戦争と言えるかについては議論がある。 侵略戦争は敵の領土に侵攻し、積極的に敵を求めてこれを攻撃、獲得した都市、領域を占領する攻勢作戦の方式をとった戦争である。戦術的には機動攻撃を行い、獲得した地域や拠点はこれを占領する。 防衛戦争は侵略してくる敵に対してこれを破砕し、自らの領土や財産などを守るための防勢作戦の方式をとった戦争である。戦術的には各種防御を行い、進攻する敵を排除する。 宗教戦争とは主に宗教的(イデオロギー的)な組織による戦争である。熱狂的な信仰者はしばしば確信的な動機を持つため、政治的な外交交渉による解決が不可能な場合がある。また殉教の思想が戦闘員に普及している場合は、より積極的、好戦的になる傾向があるため、敵対勢力に対する攻撃が無差別テロなどに結びつく危険性がある。 「自衛戦争」「予防戦争」「制裁戦争」などと類別されることもあるが、これには当事者の主観の入り込む余地が大きく、客観性に欠ける分類になる傾向がある。 フランスの軍事史学者カステラン(Georges Castellan)の歴史的な観点から見れば以下のように分類できる。 戦争史において作戦地域の拡大、交戦兵力の増大、必要な兵站能力の上昇などによって、戦争はその規模と複雑性を徐々に増大させてきた。その結果、ある交戦団体が政治目的を達成するために他の交戦団体に対して武力を行使する戦争(war)、地域的、時間的に別の複数の相互に関連ある作戦によって構成される戦役(campaine)、任務を達成するためにある比較的に大規模な部隊が連続的に行う軍事行動である作戦(operation)、比較的に大規模な部隊が作戦において時間の余裕を持って、または地域を保持するために行う戦闘行動である会戦(battle)、任務を達成するために戦術的な単位部隊が行う戦闘行動である戦闘(combat)と構造化されて理解されるようになっている。 戦争は人間社会における対立によって生じるものであり、何らかの意志や理由を伴う。しかし戦争の原因についての一般理論は未だ完成されていない。その発生の過程にはさまざまな要因、誘因、環境が有機的に起因するは確かである。ここではいくつかの戦争の原因として考えられている学術考察または理論について述べる。(戦争哲学をも参照) 国際政治学ではまず国際社会において戦争が生じる理由は国際政治は無政府状態(アナーキー)であることがまず挙げられる。すなわち国際政治には国内政治のように中央政府のような集権体制が不在であり、紛争の平和的解決が強制できない。従って各国は自助努力を行う必要性に迫られる。第二に情報の不完全性がある。つまり戦争を回避するために必要な情報が必ずしも入手できず、例えば軍事情報についてはしばしば軍事機密によって秘匿されるために合意達成が確認できず、ここに猜疑心が生じる可能性がある。そして三つ目の原因として国内政治と国際政治の相互作用の関係が挙げられる。国家政策は国内政治と国際政治の双方向の作用によって形成されるものであり、つまり国内的に非戦の方針であったとしても国際的な政治的影響などによって戦争に踏み切る可能性がある。[4] 軍事史上の戦争を調べて、その戦争を開始する直接的な要因に注目して統計化すれば大まかに直接的な不満、国内的な混乱、軍事的な優位、軍事的な劣位、以上の四つに分類できると言われる。[5] 長期的な不満とは領土問題、国境問題、地方の独立要求など、長期的に慢性化した不満を指す。この例としては日露戦争、パレスティナ問題、中東戦争などが挙げられる。 国内的な混乱とは国内の民族間対立、反政府運動など、国内における諸勢力の対立による収集不可能な事態を指す。この例としてフランス革命、ルワンダ内戦などが挙げられる。 軍事的な優位とは、軍事力が非常に優位にあると認識し、戦争を簡単に解決できると考えることである。政府や世論にとってその認識が戦争開始の判断材料となる場合があるが、その優位の認識が実際の軍事力を把握していない現実性のないものであった場合、開戦しても予想通りの戦果を挙げることができず、戦争が長期化、悪化する可能性が高い。この例として冬戦争、独ソ戦、朝鮮戦争、イラン・イラク戦争が挙げられる。 軍事的な劣位とは、軍事力が非常に劣位にあると認識し、先制攻撃だけが残された手段であると考えることである。この認識によって政府や国民が恐怖や焦りに支配され、軍事的優劣や戦争遂行の見通しを忘れてしまい、戦争開始を決断する場合がある。この例として奴隷反乱、インディアン戦争、太平洋戦争などが挙げられる。 世界的な大国が存在することによってその統一的な影響力を用いて国際秩序を安定化させる「単極平和論」が存在する。このような国際体制においては反抗できる勢力がそもそも存在しないため、戦争が発生する可能性を大きく低減できる。また反抗勢力を圧倒することによって覇権国家も政治的目的を達成するために軍事力を行使する必要がなくなる。ただしこの場合、属国群が長期的な不満を覇権国家に対して形成する危険性がある また勢力が均衡する二つの大国が互いに拮抗する場合、戦争が発生しにくいとする「双極平和論」も論じられる。ただし、この理論は不確実性による誤認・誤算によって戦争が勃発する点に注目し、双極であれば相互に相手の動向により的確に対応できるようになるため、安定的に勢力が均衡する可能性を論じている。 また複数の大国が存在する場合、戦争は発生しにくいとする「多極平和論」もある。複数の国家がより柔軟かつ適切に同盟や勢力圏を形成することが可能となるので、対立関係が硬直化しにくいとし、勢力均衡を維持しやすいと論じている。 しかし、どの勢力分布も歴史的に見れば戦争の頻度や規模を最小化することについて最適な組み合わせではないと一般的には考えられている。[6](勢力均衡を参照) 1970年代になるとそれまでの勢力均衡理論による静態的な国際情勢の理解から転換して、世界秩序の構成要素の国力などは可変的であると考える動態説が現れた。例えばウォラスティン(Wallestein)は16世紀以降の資本主義の発達は世界に強国と弱国の格差を生み、巨視的には中核、準周辺、周辺の世界システムを形成した。さらに中核においても、時代的には長期的優勢と中期的優勢の二種類があることが認められ、長期的優勢では生産力の拡大からプロレタリアートの政治運動に次いで福祉国家化及び社会主義的世界経済へと段階的に進んでいき、中期的優勢では資本主義の矛盾が表面化、経済成長の停滞、恐慌などに次いで準周辺国への技術移転並びに相対的な優位の低下という段階を進むとしている。また1987年にはモデルスキー(Modelski)によって大規模な戦争は大体100年周期で発生する点に注目した100年周期説が提唱された。これはあらゆる秩序のエントロピー的衰退、国際的な秩序形成の衝動などが理由として挙げられているる。[7] 経済と戦争の危機には全く相反する視点がある。 まず第一に国際経済が停滞・後退すれば戦争の危機は高まるという考え方である。経済成長が不況や恐慌などによって悪化すれば、その縮小した利益をめぐる利害関係が国内経済、国際経済において悪化し、それが戦争の危機を高めることになると考えられる。また軍事費の拡大によって市場に資本を投入し、経済成長を促すため、軍拡競争が激化することも考えられるからである。 一方で、戦争にかかる膨大なコストに注目し、経済の成長が順調でなければ戦争が起こせないため、成長期にむしろ戦争の危機は高まるという考え方も存在する。経済成長を目指して資源や戦略的な要所の必要性が高まるため、競争が激化しやすくなる。また経済成長があるからこそ軍事費を増大することが可能となり、軍拡競争が発生し、経済成長を維持するために膨張主義的な世論や社会的な心理が形成されると考えられる。[8] ただし、経済と戦争の関係性についてはデータや指標が非対称である場合や研究途上であることもあって、完結に結論できない。[9] 囚人のジレンマによると、例えば核兵器の保有を両方が自制するのが最も平和で安全であるが、疑心暗鬼の心理が働いて両方とも核保有で自国の安全と相手国の支配権を得たいと考える。しかしながら自国だけ自制して相手国が核を保有した場合には自ら不利になることを選ぶことになる。ただし両国とも核保有すると核戦争勃発の危険が最大となる。 チキンゲームによると、例えば両国とも利益の追求を完全に放棄すれば最も平和で安全であり、また互いに申し合わせた妥協を履行すれば二分した利益と安全を確保できる。一方で相手国が譲歩することを衝突の直前まで期待して強行策を実施して成功すれば半分以上の利益を確保出来るが、失敗すれば戦争が勃発することになる。[10] ただし戦争とは大規模になればなるほど、上記した要因以外に、さまざまな軍事的、政治的要因だけでなく、法的、経済的、社会的、集団心理的、文化的な外的・内的な構造や誘因がより高度に複雑に関係して発生する重層的な事象であり、個人の人間性や一国の内部事情などにのみその根本的原因を求めることは非常に非現実的、非歴史的な考えと指摘できる。[11] 歴史から学び、国内的な事情と国外的な環境を関係させ、個人の感情や意思を内包した歴史的必然性に戦争の原因というものは求められるべきものである。バターフィールドの『ウィッグ史観批判』で「歴史の教訓とは、人間の変化はかくも複雑であり、人間の行為や決断の最終的結果は決して予言できるような性質のものではないということである。歴史の教訓は、ただ細部の研究においてのみ学ぶことができ、歴史の簡略化の中では見失われてしまう。歴史の簡略化が、歴史的真理と正反対の宣伝のため企てられることが多いのもそのためである」と論じられているとおり、[12]本質的に戦争、特に近代における複合的な国際政治の展開によって発生する戦争は単一の誘因によって引き起こされたとする考えはきわめて側面的な考えである。[13] 軍事学において戦争はその作戦戦略の差異を主体別に見て侵略と防衛の二つの作用が衝突して発生するものであると考えられる。 まず侵略には法的な定義も存在するが、軍事的な定義としては外敵または内敵によって軍事力が先制行使され、侵入(invasion)、攻撃(attack)などの攻勢の作戦行動が実行されることである。[14]一方で防衛は狭義には侵略に反応してこれを排除するために軍事力が使用され、防御や後退などの防勢の作戦行動が実行されることであり、広義には抑止活動をも含む。 侵略はその手段から直接侵略と間接侵略に分類される。直接侵略は外国が軍事力の行使を行う伝統的な侵略方式であり、間接侵略は防衛側の国家内の反政府勢力などを教唆、指導したうえで反乱、革命などによって軍事力を間接的に行使する侵略方式である。実際の侵略はこの二種類の手段を同時に使用する場合や、時間差で使用する場合などがある。 また敵が内敵であれば、これもまた区別して考えられる。内敵とは国内の勢力が主体とり、政府転覆や国体の破壊などを目的を持ち、武力を行使する敵である。内敵の侵略は外国に一時的に外国に逃れ、外部から侵略する外部侵略と、内部でゲリラ戦や反乱、クーデターなどを行う内部侵略の方式がある。内敵と外敵は軍事目的が同じであるので、結託しやすい。 防衛は安全保障形態から集団安全保障と個別的安全保障に大別される。集団的安全保障は集団内の国家が侵略を行った場合にその他の国々が侵略国に制裁を行うことによって防衛国を援助することで安全を保障することである。個別的安全保障は防衛国が独力で、または同盟国の援助によって安全を保障することである。 個別的安全保障はさらに単独防衛(自主防衛)、同盟、集団防衛、中立の形態がある。集団防衛は防衛的な性格のみを持つために集団安全保障の側面も持つ。同盟にはその作戦目標から侵略的な場合と防衛的な場合がある。自主防衛は防衛線の位置によって前方防衛、国境防衛、国土防衛に区分される。前方防衛は国境よりも遠隔地において侵略してくる敵を排除する防衛方式であり、公海上で行われることが多い。国境防衛は国境において軍事力を準備し、侵略する敵を待ち受けてこれを排除する防衛方式であり、国境線を要塞化することが多い。国土防衛は国境を突破して国土に侵略する敵を国内において排除する防衛方式である。 戦争は永遠に続くものではなく、一定の段階を過ぎれば収束していく。(ただし、ゲリラ戦や断続的なテロ攻撃は戦線を維持する必要がないため、戦争とは本質的に性質が異なる)兵力や軍需物資の補填などの兵站能力的限界から、どのような国家、勢力でも激しい戦闘を長期間にわたって継続することは不可能であるからである。その発展の過程は無秩序に見えるが、ある程度の段階が存在していると考えられている。[15] 安定的な秩序が維持されており、各国(一部の国では平時においても国内の不安定がある)は基本的に平和に過ごしている。戦争の危機は認識されておらず、準備もなされていない。 戦争勃発の誘因となりうる事件や問題が発生・表面化し、急速に事態が緊張化していく。奇襲を受ける場合はこの段階を通過しない場合もある。この時点ではまだ戦争を未然に防止することは外交によって可能であると考えられるが、不安定化末期から準戦時の外交交渉はしばしば非常に切迫したものとなる。 戦争の危機が高まり、急速に事態が緊張化して制御不能となっていく。国家として戦時体制が敷かれ、軍隊が動員され、外交交渉は絶望的になっていく。(最後通牒、宣戦布告を参照)この段階になればもはや事態を収拾しようとすることは極めて困難となる。この時点で戦争勃発を阻止しようとするのは遅すぎる。 開戦を告げる宣戦布告が行われ(これは伝統的な国際法に基づく行為であり、現代では行われない場合もある)、軍隊が戦場に展開し、敵戦力との戦闘に入る。また戦時体制に基づいてあらゆる経済、情報開示、生活が軍事上の必要から統制される。この段階で戦争の経過を当初の計画通りに進んでいるかなどを考慮し、いかに有利に戦争を収束させるかという点が注目される。 一方が圧倒的な勝利を獲得した場合、また戦況が双方にとって好転せず停滞的になった場合、対立している両国が講和を行うことを決定すれば、その戦争は収束に向かう。この際に締結されるのが講和条約と呼ばれるものである(休戦協定は戦闘の一時的な中断であり、戦争の終結ではない)。しかし、講和の交渉とは外交官にとって最も困難な外交交渉の一つであり、その交渉過程にはさまざまな不満や問題が発生することもある。 戦争終結してもその決着が新たな問題や不満を生んでいれば、それが起因して新しい戦争をもたらすこととなる。外交的な解決が不可能となった場合、戦争は軍事力を以って自国の利益を相手から奪うことができる。ただしその過程で失われるものは人命、経済基盤、生活の安全だけでなく、勝敗によっては国際的な信用や政府、国家主権が奪われる場合もある。 戦争には武力を用いた戦闘から、諜報活動、輸送、外交交渉など非常にさまざまな分野で争いが発生する。英語ではこのようなさまざまな闘争の局面を「warfare」と呼ぶ。ここでは戦争に伴って起こりうるさまざまな分野における闘争について述べる。[16] 武力戦は戦争において最も激しい闘争の局面であり、主に戦闘において行われる。対立する戦力同士が互いに支配領域の制圧、敵戦力の無力化や撃破などを目的として作戦し、武力を行使して敵対する勢力を排除する。この過程で殺傷・破壊活動が行われ損害が生じる。戦闘を遂行するためには兵士たちの体力と技能だけでなく、戦術、武器や爆発物の知識、兵器操作の技能、戦術的知能、チームワーク、軍事的リーダーシップ、また後方においては作戦戦略、戦場医療、兵器開発などの総合的な国家、組織、個人の能力求められる困難な活動である。(戦闘を参照) 情報戦は戦争において情報優勢を得るために発生する闘争である。主に諜報活動によって行われ、相互に相手の軍事的な情報に限らず、経済的、政治的な状況に関する情報を得るために合法的に外交官や連絡将校を送り込んだり、相手国内に協力者を獲得するためにさまざまな活動を展開する。同時に防諜として相手国のスパイを摘発するための国内における捜査も行われ、敵の情報活動を妨害する。 補給戦は後方支援または兵站を巡る闘争であり、特に補給と輸送を行う際に発生する闘争の局面を言う。兵力や物資の補填がなければ前線の部隊は戦闘力が維持できず、また戦闘以外の被害による損害は戦闘によるものよりも時には非常に多くなるため、戦闘が活発でない時期であっても物資は絶えず輸送されなければならない。すなわち戦場には常時消費物資を送り続けなければ戦闘力が低下することにつながるため、輸送作戦を確実に実施することは前線の勝敗を左右する作戦である。この輸送作戦を的確に実行するのに必要な経済的、軍事的、事務的な努力は非常に巨大なものである。また相手国も航空阻止、破壊工作、後方地域への攻撃などでこの輸送作戦を妨害してくるため、輸送部隊の司令官は強行輸送や強行補給という手段を用いて、これに対抗しなければならない場合もある。つまり戦争においてはどのようにして効率的な輸送作戦を遂行し、適量の物資を調達して、適地に輸送し、的確に分配するかという兵站上の困難に常に直面することになる。 外交交渉は戦争中には行われる場合と行われない場合があるが、戦争を収束させるためには絶対に避けては通れない争いである。講和や休戦を行うためには政府間の利害関係を調整する実務的な交渉が必要であり、またその過程には双方が国益を最大化するための交渉の駆け引きが行われる。また同盟やさまざまな支援を取り付けるための外交も戦争の行方に大きな影響を与える。(外交交渉を参照) 電子戦とは通信機器などで用いられる電磁波を巡る争いである。平時においても情報収集などを目的とした電波の傍受や分析などの電子戦は行われているが、戦時においては指揮組織、通信拠点、SAMシステムに対してより攻撃的なECMが実施される。現代の戦争においては非常に重要な通信手段は電磁波を用いたものが多く、また通信手段は指揮統率における要であるため、その重要性は大きい。日露戦争以降世界各国の軍隊が電子戦に対応する部隊を保有するようになっている。 謀略(military artifice)とは敵国の戦争指導を妨げる活動であり、一般的に極秘裏に遂行される。間接的には政治的・外交的・経済的・心理的な妨害活動があり、直接的には軍事的な破壊工作がある。破壊工作とは交通拠点、政府機関、生産施設、堤防、国境線などの重要拠点に対する爆発物などを用いた放火や爆破などの活動のことである。しばしば敵国に特殊部隊やスパイを送りこんで実行するが、秘密裏にかつ迅速に行われるために無効化が難しい。敵部隊の戦闘力の無力化などを目的とした戦闘とは性格が異なり、対反乱作戦や対テロ作戦に分類される。 心理戦とは、テレビや新聞などを用いた広報活動、政党や思想団体の政治活動、学校教育などによって情報を計画的に活用し、民衆や組織の思想や考えを誘導し、自らに有利に動くように間接的に働きかけるさまざまな活動と、敵の同様の手段へ対抗する活動の総称である。戦争が開始されれば両国とも自国の正統性を主張し、支持を得ようと試みる。また相手国の国民に対して、自国に有利になるように反政府活動を支援したり、相手国の非人道性を宣伝することによって政権の行動を制限することなどが可能である。これは対ゲリラ作戦や対テロ作戦、政権転覆などさまざまな局面で実施される。(心理戦を参照) 軍備拡張競争は軍備の量的な拡張と軍事技術の開発競争を言う。現代の戦争において勝利を納めるには、兵力や戦略のみならず、優秀な兵器が不可欠である。そのため、敵国・対立国より優れた兵器を多く保持することが重要になり、戦時中はもちろん平時においても、その開発・生産が活発に行われている。例えば、東西冷戦においては、米ソの直接の交戦こそなかったものの、核兵器や戦車などの熾烈な開発競争が行われた(核兵器については、開発競争により核戦力の均衡が保たれていたからこそ現実に核戦争が起こらなかったとする見方もある)。また、人類を宇宙や月に送った宇宙開発競争も、ロケット技術が核兵器を敵国に運ぶICBMなどのミサイル技術に直結していたことが大きな推進力となっていた。一方で現代兵器は優れた工業製品でもあるため、その開発・生産は国内・国際経済においても重要な位置を占めている。 戦争に関する国際法には大きく二つの体系がある。軍事力の行使が合法かどうかを定めている「開戦法規(jus ad bellum、ユス・アド・ベルム)」と、戦争におけるさまざまな行為を規律する「交戦法規(jus ad bello、ユス・アド・ベロ)」の二つである。前者は国連憲章が基本的に根拠になっており、後者は「戦時国際法」「武力紛争法」「国際人道法」とも呼ばれ、その主な根拠となっている条約にジュネーブ条約などがある。一般的に戦争犯罪と呼ばれる行為とは、戦時国際法に違反する行為を指す。(極東国際軍事裁判におけるA級戦犯はこの戦時国際法とは無関係である)また戦時国際法は作戦領域から、陸戦法規、海戦法規、空戦法規に分類されることもある。[17] 伝統的国際法においては、戦争は国家の権利であったが、現代国際法においては武力行使の禁止に伴い、戦争そのものが禁止されている。具体的には,1928年のパリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)および1945年の国連憲章2条4項により、武力行使は違法化された。ただしパリ不戦条約では実質的な紛争解決機能が盛り込まれなかったために第一次世界大戦が勃発し、そのため国連憲章が改めて定められた。国連憲章において国際社会の平和と安全が破壊される違法行為があれば、集団安全保障体制で場合によっては軍事的措置を講ずることも定められた。また国連加盟国は個別的、集団的自衛権の行使が認められている。すなわち現代における戦争を行う原則は以下の通りとなる。 戦争においては無制限の暴力が交戦国によって行使されるが、しかし現代の戦時国際法においては「軍事的必要性」と「人道性」の原則がある。軍事的必要性はさまざまな軍事作戦の遂行に不可欠な行動などを正当化する原則であり、一方で人道性とは最小限の人命損失、不要な破壊、文民に対する攻撃、過剰な苦痛などの軍事作戦にとって不適切な行動を禁止する原則である。またこのほかにも戦時国際法においては攻撃目標、戦闘方法、非戦闘員の対応、中立国との関係などが定められており、軍隊の各級指揮官や部隊の戦闘行動を規定している。この戦時国際法を違反することは、国際社会からの非難を受けることや、責任者が戦争犯罪に問われることなどによって処罰されることになり得る。(戦時国際法を参照) ^ 猪口孝、大澤真幸、岡沢憲芙、山本吉宣、スティーブン・R・リード編『政治学事典』(弘文堂、平成12年)657項 - 658項 ^ ジェイムズ・F・ダニガン、ウィリアム・マーテル著、北詰洋一訳『戦争回避のテクノロジー』(河出書房、1990年)37項 ^ リデル・ハートは『戦争に関する考察(Thoghts on War)』において戦争の原因は突き詰めれば心理的なものであると考え、全感覚(あらゆる方面における知覚)を用いて戦争を理解しなければ、戦争を防止する展望は持ち得ないと論じた。松村劭『名将たちの戦争学』(文春新書、2001年)18項を参照 ^ 戦争哲学の前提として戦争の原因論はその性質から観察者の哲学的・政治的・歴史学的・法学的な立場やバイアスなどに大きく関わる。例えば決定論の立場で戦争の原因論を考察した場合、あらゆる要因がその戦争の発生を決定付けているために人間は本質的に戦争に責任を持つことができないということとなり、原因は起因したそれら諸要素となる。 ^ 国際政治学において侵略と認定する条件として、第一に武力行使、第二に先制攻撃、第三に武力による目的達成の意思、が挙げられており、自衛や制裁などの免責理由がないこととして価値中立的な定義としている。ただし、侵略の条件に「意思」が挙げられていることはこの定義の法律的性質を現すものであり、ある特定の価値観が存在していると指摘できる。そのため、軍事上の事実的行為として侵略は武力の先制使用であると考えられている。服部実『防衛学概論』(原書房、1980年)33項―34項 ^ 防衛大学校・安全保障学研究会編『安全保障学入門』(亜紀書房、2005年)182項の『軍事力によるエスカレーションの具体例』の図、及びジェイムズ・F・ダニガン、ウィリアム・マーテル著、北詰洋一訳『戦争回避のテクノロジー』(河出書房、1990年)32項―36項を参考とした。 ^ 防衛大学校・防衛学研究会『軍事学入門』(かや書房、2000年)及びジェイムズ・F・ダニガン著、岡芳輝訳『新・戦争のテクノロジー』(河出書房新社、1992年)などを参考にし、主要な闘争の局面について整理した。 |
[ 105] 戦争 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E4%BA%89
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−−非核三原則、原子力の平和利用原則を逸脱する原子力文化振興財団の宣伝パンフレット 11/19 「対テロ戦争」への加担に反対し、イラク・インド洋からの自衛隊撤退を求めるシリーズ(その7)[投稿]ペシャワール会中村医師が語るアフガンの実状とテロ特措法の批判 主催:アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名事務局 <詳しくは> 政府・文科省へ検定意見の撤回と記述回復の声を届けよう!(外部リンク) 「対テロ戦争」への加担に反対し、イラク・インド洋からの自衛隊撤退を求めるシリーズ(その7) [投稿]ペシャワール会中村医師が語るアフガンの実状とテロ特措法の批判 「数百人単位でアフガン人の命が落とされている。この油の元が日本から来る」 「戦争どころではない。アフガンの最大の問題は砂漠化をどうくい止めるかだ」 「対テロ戦争」への加担に反対し、イラク・インド洋からの自衛隊撤退を求めるシリーズ [投稿]グァンタナモ:釈放の基準は「敵意の収束」? デタラメな「テロとの闘い」 [投稿]「私はテロとは戦いません」−−“太田総理”の弁論(?)に聞きいってしまいました −−「もしあなたが、自分の子どもや家族を目の前で殺され病気にされて・・・絶対やったやつを恨むでしょう。ますます憎しみをつのらせるでしょう。でしょ?」 宋神道さんの人生と裁判から、私たちは何を学び、そして何ができるのか 在日の慰安婦裁判を支える会・編『オレの心は負けてない』(樹花舎) [速報]11.8インド洋派兵・給油新法反対国会前ヒューマン・チェーン テロ特措法を失効させた運動の力で、インド洋給油・新テロ特措法を廃案に追い込もう! *事務局に寄せられたメッセージ等は事務局の判断で随時「短信」ページなどに掲載させていただきます。差しさわりのある方や匿名を希望される方はその旨をお書き添え下さい。 署名運動ニュース(不定期)の購読をご希望の方は事務局までお問合せ下さい。 このホームページの更新情報等のメール配信(不定期)をご希望の方はご連絡ください。 「対テロ戦争」への加担に反対し、イラク・インド洋からの自衛隊撤退を求めるシリーズ 補給艦“ときわ”が直接給油した米強襲揚陸艦ペリリューとESG−1が、ペルシャ湾で軍事作戦を行った事実関係を明らかにせよ! □防衛省は、イラクの自由作戦海上阻止行動による「テロリスト拘束」を、自衛隊の給油活動の「成果」と主張するのか!? 海上阻止行動(OEF−MIO)で拘束したのは「海賊」なのか、「テロリスト」「アル・カイダ」なのか−−日本政府は明らかにせよ! Tokyo 2007 @東京タワー下」が、東京タワーの見える芝公園4号地で行われました。署名事務局も代表を派遣し、東京のピースニュースの人たちと共に集会・デモに参加しました。 集会では、インド洋給油問題の行き詰まりが安倍首相の突然の退陣の理由の一つであること、テロ特措法が依然臨時国会の最大の焦点であり、ポスト安倍政権に対して、「対テロ戦争」への加担をやめ、インド洋からの自衛艦撤退を要求する運動をさらに強める必要が強調されました。(more...) 昨日の緊急院内集会に続いて、9・11テロから丁度6年目のこの日に、「テロ特措法延長反対! 廃止を! 武力で平和はつくれない!アフガンに平和を! イラクに平和を! 自衛隊をすぐもどせ!9・11WORLD PEACE NOW 衆院議面集会&官邸前行動」が5時半から行なわれ、130人の国会議員や市民が参加しました。 臨時国会が始まった今日3時半から、「民意に従い安倍内閣は退陣を!緊急院内集会−−テロ特措法反対、改憲のための憲法審査会反対、集団的自衛権の行使反対、憲法改悪反対、憲法9条を守れ」が、5・3憲法集会実行委の主催で、衆院議員会館で開かれ、社民党、共産党、無所属の国会議員13人と市民約130人が集まりました。 安倍政権は即刻退陣せよ! 安倍の改憲=「戦争国家」づくり路線を挫折に追い込もう! 靖国神社に近親者が合祀されている遺族による「靖国合祀イヤです訴訟」がはじまって約1年になります。この間の裁判を傍聴してきた支援者として、裁判の経過を紹介し、この国の軍国主義と復古主義と闘うにあたって靖国神社のもつ意味を考えていきたいと思います。(more...) −−安倍首相自身が北朝鮮に対する先制核攻撃論者、「非核三原則」見直し論者−− 中学生のための「慰安婦」展のチラシを偶然手に入れて、初めて「女たちの戦争と平和資料館」を訪れた。・・・入り口に一歩足を踏みいれて驚いた。「慰安婦」を名乗り出られた、韓国、朝鮮民主主義人民共和国、フィリピン、台湾、中国、オランダ、日本、東ティモールの方々の100人の顔写真がずらりとこちらを向いているではないか。・・・狭義の意味で強制はなかったとする安倍首相や、強制を証明する文書は残っていないとする恥ずかしげな新聞広告をアメリカで掲載する面々は、一度でいいからこれらの写真と正面から向き合ってどうか。一瞬にして自らの化けの皮を剥ぎ取られずにはおくまい。(全文) 5月27日、京都市の「みやこめっせ」において、改悪教育基本法の具体化を許さない5.27全国集会が実行委員会の主催で行われた。600名収容の会場は参加者であふれ、主催者は750名の参加と発表した。集会には、大阪、京都を中心とした関西圏と、首都圏、四国、九州、中国、中部、東北など全国から結集していた。私たち署名事務局も大阪から参加した。(全文) 国家構造の根本的転換を目論む反動的改憲阻止のために−−「公益」の名による権利の包括的制限 5月21日6時半から防衛省前で、辺野古新基地建設の着手強行に反対し、それへの海上自衛隊派遣に抗議する集会が、85名の参加者のもとで行なわれました。海上自衛隊が掃海母艦「ぶんご」を沖縄近海に進出させ、米軍普天間基地の辺野古移設調査に海上自衛隊員を派遣するという前代未聞の異常事態が生じています。これは、自衛隊による反対運動に対するあからさまな威嚇・弾圧行動であり、法的根拠も何もない全くの違法行為です。 集会では冒頭、沖縄の「命を守る会」代表である金城祐治さんの死に黙祷をささげた後、沖縄から、首都圏から、労組から、市民団体から、怒りの抗議、連帯の挨拶が続きました。 最後に、防衛省係官に抗議文を手渡して、「辺野古基地建設を許さない!」などのシュプレヒ・コールをあげました。 (写真は、1.防衛省前での集会の様子、2.防衛省係官への抗議文読み上げ場面) −−過去の侵略戦争・植民地支配・戦争犯罪隠蔽策動は、安倍の改憲=「戦争ができる国」路線と一体−− 「全国一斉学力テスト」(正式名称;「全国学力・学習状況調査」)が今月24日に迫っています。全国一斉学力テストは安倍政権登場以前から文部科学省が実施を決定していたものですが、今や安倍「教育改革」の大きな目玉になろうとしています。それは、改悪教育基本法の具体化=教育三法(教免法、学校教育法、地教行法)や、教職員評価・育成システム導入などと一体となって、学校現場をさらに破壊するものです。(more...) イラク開戦4周年に向け、ブッシュのイラク新政策に立ち向かうアメリカの反戦平和運動 −−戦争予算に反対する占拠プロジェクト、戦争を止めるためのキャンプ行動から3.17ペンタゴン行進へ−− −−バグダッド掃討作戦でさらに深刻化する殺戮と破壊。高まるイランへの戦争拡大の脅威−− カストロ首相とキューバに対する亡命キューバ人組織によるテロを利用してきた米政権、その首謀者をかくまう イタリア国営放送「ライニュース24」がレバノンで検出された濃縮ウランの特集番組を放送 『教育基本法「改正」を問う−−愛国心・格差社会・憲法』 大内裕和・高橋哲也共著 教基法改悪反対の闘いは、私たちが教育の主権者であり続けるための闘い 韓国挺対協が「戦争と女性の人権 博物館」建設のための基金を呼びかけています。日本軍「被害者」ハルモニたちの闘いを記録し記憶するために、この闘いを継続していくために、日本の仲間の皆様に協力をお願いします ベネズエラ・チャベス政権に対する米国の反動的なプロパガンダが活発化している。それは、カリブ海での大軍事演習と合わせて考える時、極めて危険な動きであると言わなければならない。署名事務局の記事でも紹介したように、米国は、ベネズエラとキューバに対するあからさまな軍事的挑発を行ない続けている。そして、それと並行して、それを正当化するための心理作戦をも展開し、虚偽と悪意に満ちたプロパガンダを世界中に撒き散らしている。(more...) アブグレイブ:ブッシュ政権中枢の第一級の国家戦争犯罪――「対テロ戦争」=先制攻撃戦略に組み込まれた組織的虐待・拷問・虐殺システム 「初めて明かされる!サマワ帰還米兵、イラク住民の劣化ウラン被曝」 イラクウラン被害調査緊急報告集会・記録( UMRCアサフ・ドラコビッチ博士講演会 in OSAKA UMRCドラコビッチ博士調査報告集会の記録−−湾岸戦争・アフガニスタン戦争・イラク戦争での劣化ウラン/ウランによる深刻な汚染と被害を暴く 「アフガニスタン戦争での劣化ウラン/ウランによる汚染・被害の実態」 |
[ 106] アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名運動
[引用サイト] http://www.jca.apc.org/stopUSwar/
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この項目では第二次世界大戦の太平洋戦争について記述しています。チリ共和国とボリビア共和国、ペルー共和国との間の太平洋戦争については太平洋戦争 (南米)をご覧ください。 太平洋戦争(たいへいようせんそう、英:Pacific War)は、第二次世界大戦の局面の一つで、1941年12月8日(大本営発表日)から1945年8月15日の玉音放送(ポツダム宣言受諾)を経て、9月2日に降伏調印の期間における、日本と、主にアメリカ・イギリス・オランダなど連合国との戦争である。 なお、大東亜戦争という呼称については、1941年12月12日の閣議決定により支那事変をも含むと定義されており、正式な呼称としては太平洋戦争に代替しうるものではない。また、日本の現行法令では条文中に太平洋戦争という呼称が使用されており、定義はされていないものの、日本政府によって太平洋戦争が正式な呼称として認められている(詳細は下記「呼称について」を参照)。 1937年に勃発した日中戦争において、日本軍は、北京や上海などの主要都市を占領し、中国国民党の蒋介石総統率いる中華民国政府の首府である南京をも陥落させたが、アメリカやイギリス、ソ連からの軍需物資や人的援助を受けた蒋介石は首府を重慶に移し、国共合作により中国共産党とも連携して徹底した反日抵抗戦を展開した。日本軍は、豊富な軍需物資の援助を受け、地の利もある国民党軍の組織的な攻撃に足止めを受けた他、また中国共産党軍(八路軍と呼ばれた)はゲリラ戦争を駆使し、絶対数の少ない日本軍を翻弄し、各地で寸断され泥沼の消耗戦を余儀なくされた。 アメリカ、イギリスは日本に対して中国からの撤兵を求めた。アメリカは戦争継続に必要な石油と鉄鋼の輸出制限などの措置をとり、イギリスも仏印進駐をきっかけに経済制裁をはじめた。これらを自国に対する挑戦であると反発した日本はドイツ、イタリアと日独伊三国軍事同盟を締結し、発言力を強めようとしたが、かえって日独伊と英米などとの対立に拍車をかける結果となった。 1941年4月から日本の近衛文麿内閣は関係改善を目指してワシントンでアメリカと交渉を開始したが、7月に日本軍が南部仏印へ侵出すると、アメリカは在米日本資産の凍結、日本への石油輸出の全面禁止という厳しい経済制裁を発動した。 9月3日、日本では、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。だが10月16日、近衛文麿内閣はにわかに総辞職する。後を継いだ東条英機内閣は、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降、大日本帝国陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化した。 11月6日、南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令され、南方軍総司令官に寺内寿一大将、第14軍司令官に本間雅晴中将、第15軍司令官に飯田祥二郎中将、第16軍司令官に今村均中将、第25軍司令官に山下奉文中将が親補された。同日、大本営は南方軍、第14軍、第15軍、第16軍、第25軍、南海支隊の戦闘序列を発し、各軍及び支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。 11月20日、日本はアメリカに対する交渉最終案を甲乙二つ用意して来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使にハル国務長官に対し交付し以後の最終交渉に当たったが、蒋介石、イギリス首相チャーチルの働きかけもある中、アメリカ大統領ルーズベルトは、11月26日朝、アメリカ海軍から台湾沖に日本の船団の移動報告を受けた[1]こともあり、ルーズベルトは両案とも拒否し、中華民国・インドシナからの軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む、いわゆるハル・ノートを来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使に提示した。これを日本に対する最後通牒と受け取った東条英機内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を決定した。 最後通牒は日本時間で12月8日月曜日午前3時、ワシントン時間で12月7日午後1時に手交する予定であった。 12月6日午前6時30分の「第901号電」パイロット・メッセージから7日午前2時までに14部ある最後通牒と7日午前3時30分の「第907号電」(12月7日午後1時に手交の指令)はアメリカにある日本大使館に分割電送、指令により電信課の書記官2名が暗号解読タイプすることになった。 書記官室の寺崎英成書記官(敗戦後に外務次官)転勤の送別会が終了した後(タイプの奥村勝蔵一等書記官は友人とトランプをした)、井口貞夫参事官の指示で当直もなく、午前10時に出勤した電信課により最後通牒が作成され、日本時間で12月8日月曜日午前4時20分、ワシントン時間12月7日午後2時20分に来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使が米国務省のコーデル・ハル国務長官に「対米覚書」を手交した。[2]。すなわち、日本は真珠湾を奇襲した後で対米最後通牒を手交したのである。このことは「日本によるだまし討ち」として米国民に広範な憤激を引き起こし、卑劣な国家としての日本のイメージを定着させる原因となるが、公開された公文書によると、既にアメリカは外務省の使用した暗号を解読しており、日本による対米交渉打ち切り期限を、3日前には正確に予想していた。対米覚書に関しても、外務省より手渡される30分前には全文の解読を済ませており、これが現在いわれる真珠湾攻撃の奇襲成功はアメリカ側による謀略であったという一部でいわれる説の根拠となっている。 1941年12月8日日本時間午前1時30分(ハワイ時間12月7日午前6時)、日本陸軍はアジアにおけるイギリスの拠点であるシンガポール攻略のために、当時イギリスの植民地であったマレー半島の、タイ王国国境に近いコタ・バルに上陸作戦を仕掛け、戦争が開始された。 ハワイ時間12月7日午前7時10分(日本時間12月8日午前2時40分)、アメリカ海軍駆逐艦ワードが、ハワイオアフ島真珠湾周辺のアメリカ領海内の航行制限区域に侵入していた日本海軍の特殊潜航艇を、砲撃および爆雷攻撃、撃沈した(ワード号事件)。 ハワイ時間12月7日午前7時49分(日本時間12月8日午前3時19分)、日本海軍第1航空艦隊は、アメリカ太平洋艦隊の基地であるハワイオアフ島の真珠湾に対し攻撃を行った(真珠湾攻撃、ハワイ海戦)。山本五十六連合艦隊司令長官が考案した、後に一般的となった航空母艦を主力とした機動部隊による攻撃戦術であった。 攻撃によりアメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊をほぼ壊滅させたものの、アメリカ空母機動部隊は出払っていたため損傷を免れ、これが原因でこの後の戦況に大きな影響を与えることになる。完全に撃沈したと思われた艦艇も後に引き上げられて戦線に投入された。また、2回行った航空攻撃では港湾施設と重油タンクへの攻撃はほとんど皆無で、3回目の航空攻撃を進言した部下の意見を南雲忠一第1航空艦隊司令長官は主攻撃目標であったはずのアメリカ空母機動部隊の所在が掴めなかったことと、燃料不足が理由で了承しなかった。 日本の攻撃を受けルーズヴェルト大統領は、攻撃を受けた翌日に議会において日本に対する宣戦布告決議を行い、宗教的理由で反対票を投じた議員1名を除く全会一致で可決した。さらに、12月11日に日本の同盟国のドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告したことで、これまでヨーロッパ戦線においても虎視眈々と参戦の機会を窺っていたアメリカが連合軍の一員として正式に参戦し、これにより第二次世界大戦は名実ともに世界規模の大戦争となった。 12月10日、マレー沖海戦で日本海軍はイギリス海軍の最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈した。航空機が戦闘航行中の戦艦を撃沈するのは史上初めてであり、この成功はその後の世界各国の戦争戦術に大きな影響を与えることとなる。後に当時のイギリス首相のウィンストン・チャーチルは、このことが「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語っている。 前年12月の日本と連合諸国との開戦後も、東南アジアにおける唯一の独立国であるタイ王国は中立を吹聴していたが、日本の圧力などにより12月21日に日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで、この年の1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに対して宣戦布告した。 山下奉文大将率いる日本陸軍は2月15日にイギリスの東南アジアにおける最大の拠点であるシンガポールを陥落させた。また、3月に行われたバタビア沖海戦でも連合国海軍に圧勝し、相次ぐ敗北によりアジア地域の連合軍艦隊はほぼ壊滅した。まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領した。アメリカの植民地であったフィリピンでも、アメリカ軍の総司令官であったダグラス・マッカーサーは多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに逃亡した。また、日本陸軍も3月中にイギリス領ビルマの首都であるラングーンを占領した。こうして、日本軍は戦略目標としていた資源産出地域の占領に成功し、日本軍の南方作戦は先制攻撃であることを含めても当初の予想を大きく下回る損害で成功裏に終わった。 4月、海軍の航空母艦を中心とした機動艦隊がインド洋に進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン(現在のスリランカ)のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。これによりイギリスの東方艦隊は航空戦力に大打撃を受けて、日本海軍の機動部隊に対する反撃ができず、当時植民地下に置いていたアフリカ東岸のケニアのキリンディニまで撤退することになる。この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三〇潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツ(正式にはドイツ占領下のフランス)へと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。 この頃イギリス軍は、友邦フランスの植民地であったものの敵対するヴィシー政権側に付いたため、日本海軍の基地になる危険性のあったアフリカ東岸のマダガスカル島を南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。この戦いの間に、日本軍の特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させる等の戦果をあげている。 また2月に、日本海軍の伊号第一七潜水艦が、アメリカ西海岸沿岸部のカリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊のエルウッドにある製油所を砲撃し製油所の施設を破壊した。続いて同6月にはオレゴン州にあるアメリカ海軍の基地を砲撃し被害を出したこともあり、アメリカ合衆国は本土への日本軍の本格的な上陸に備えたものの、短期決着による早期和平を意図していた日本海軍はアメリカ本土に向けて本格的に進軍する意図はなかった。しかし、これらのアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍のアメリカ本土上陸に対するアメリカ合衆国政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。 日本海軍は、短期間の間に勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめとする連合軍と停戦に持ち込むことを画策していたため、負担が大きい割には戦略的意味が薄いと考えられていたハワイ諸島に対する上陸作戦は考えていなかった。また、真珠湾攻撃の成功後、日本海軍の潜水艦約10隻を使用して、サンフランシスコやサンディエゴなどアメリカ西海岸の都市部に対して一斉砲撃を行う計画もあったものの、真珠湾攻撃によりアメリカ西海岸部の警戒が強化されたこともあり、この案が実行に移されることはなかった。 しかし、それに対してフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領以下のアメリカ政府首脳陣は、ハワイ諸島だけでなく本土西海岸に対する日本海軍の上陸作戦を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退計画の策定やハワイ諸島で流通されているドル紙幣を専用のものに変更するなど、日本軍にハワイ諸島が占領され資産などが日本軍の手に渡った際の対策を早急に策定していただけでなく、本土西海岸へ上陸された際の中西部近辺への撤退計画とその後の反撃計画の策定まで行っていた。 第一段作戦の終了後、日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリアの間のシーレーンを遮断しオーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。これを阻止しようとする連合軍との間でソロモン諸島の戦い、ニューギニアの戦いが開始され、この地域で日本は戦争資源を消耗してゆくことになる。 1942年5月に行われた珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合軍の空母機動部隊が激突し、歴史上初めて航空母艦同士が主力となって戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は空母レキシントンを失ったが、日本軍も空母祥鳳を失い、翔鶴も損傷した。この結果、日本軍は海路からのポートモレスビー攻略作戦を中止した。日本軍は陸路からのポートモレスビー攻略作戦を推進するが、山脈越えの作戦は補給が途絶え失敗する。 4月のアメリカ海軍機による突然のドーリットル空襲により、アメリカ海軍機動部隊を制圧するためミッドウェー島攻略が決定される。その後6月に行われたミッドウェー海戦において、日本海軍はアメリカ海軍の空母1隻を撃沈したものの、作戦ミスによりアメリカ空母艦載機による攻撃で空母4隻を失うなど開戦後初の敗北を喫した。空母と多くの艦載機とベテランパイロットとを失ったこの敗北は、翌年になり前線が延びきった日本海軍をじわじわ痛めつけることになる。なお、大本営は、相次ぐ勝利に沸く国民感情に水を差さないようにするために、この海戦における敗北の事実をひた隠しにする。 また、アメリカ海軍機による日本本土への初空襲に対して、9月には日本海軍の伊一五型潜水艦伊号第二五潜水艦の潜水艦搭載偵察機である零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲し、火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。なお、アメリカ政府は、相次ぐ敗北に意気消沈する国民に対する精神的ダメージを与えないために、この爆撃があった事実をひた隠しにする。これに先立つ5月には、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたオーストラリア海軍の船艇1隻を撃沈した。 8月にアメリカ海軍は日本海軍に対する初の本格的な反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸し、航空基地を占領した。これ以来、日米両軍の間でガダルカナル島の戦いが始まる。また、同月に行われた第一次ソロモン海戦でアメリカ、オーストラリア海軍などからなる連合軍は日本海軍に敗北。10月に行われた南太平洋海戦でもアメリカ海軍は、日本海軍機の猛攻により空母ホーネットや駆逐艦を失った他、他の空母も航行不能に陥り多数の搭載機を喪失するなどの大損害を負い敗北した。このため、太平洋戦線におけるアメリカ海軍の稼働可能な空母は一時的に0隻となった。 しかし、次第に制海権を失いつつある日本海軍に対し、アメリカ海軍はドイツのUボート戦法に倣って、潜水艦による輸送艦攻撃を行い、徹底して通商破壊作戦を実行、物資や資源輸送を封じ込めた。国力に劣る日本は守勢に追い込まれていく。 1943年1月、日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖で行われたレンネル島沖海戦でアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを撃沈した他、駆逐艦ラ・バレットを大破するなど、その技量と機動力を生かして一方的な勝利を収める。日本海軍の損失はわずかに一式陸上攻撃機10機のみであった。 前年8月から続いていたガダルカナル島の戦いは、艦艇・飛行機の消耗戦となり、同海域で4度の海戦が行われたが、結果的に2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。物量と補給、技術の差が勝敗の鍵になったといわれる。また、その後3月に行われたアッツ島沖海戦では両軍ともに損害を与えられずに終結した。 4月18日には、日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将(戦死後海軍元帥となる)が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたロッキードP-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(詳細は「海軍甲事件」を参照)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を1ヶ月以上たった5月21日まで伏せていた。しかし、この頃日本海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており、アメリカ軍は日本海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。 その後、7月にソロモン諸島で行われたコロンバンガラ島沖海戦でアメリカ海軍は、日本海軍艦艇の巧みな雷撃により駆逐艦グインが撃沈され、他にも駆逐艦1隻が大破、軽巡洋艦2隻が大破するなどまたもや一方的な大敗を喫する。しかし、この頃ニューギニア島では日本軍とアメリカ、オーストラリア中心とした連合軍との激しい戦いが続いていたが、8月頃より少しずつ日本軍の退勢となり、物資補給に困難が出てきたこの年の暮れごろには、日本軍にとって同方面最大のラバウル基地は孤立化し始める。戦いは南西太平洋方面連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦」により島嶼を奪い合うものとなリ、11月には南太平洋のマキン島とタラワ島における戦いに日本海軍が敗北し、同島がアメリカ海軍に占領されることになる。 同月に日本の東条英機首相は、満州国やタイ王国、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を内外に誇示した。しかし、この年の年末になると、開戦当初の相次ぐ敗北からようやく態勢を立て直した上、ヨーロッパ戦線でドイツ軍に対して攻勢に転じ戦線の展開に余裕が出てきたイギリス軍、アメリカ軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍などの数カ国からなる連合軍と、中国戦線の膠着状態を打開できないまま、太平洋戦線においてさしたる味方もなく1国で戦う上、相次ぐ勝利のために予想しなかったほど戦線が延びたことで兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に問題が出てきた日本軍の勢力関係は急速に逆転して行く。 日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていたイギリス領インドおよびビルマ方面において3月に日本陸軍が行なった、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦は、スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開せんとする9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、補給線を軽視した杜撰な作戦により約3万人が命を失うなど、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。 5月には中国大陸で攻勢に出て洛陽を占領するなどしたものの、連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、アメリカが日本本土に本格的な空襲を行える長距離大型爆撃機(ボーイングB-29)を急ピッチで開発しているとの情報を密かに入手し、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設けた。 しかし、6月にその最重要地点であったマリアナ諸島にアメリカ軍が来襲する。日本海軍はこれに対し反撃すべくマリアナ沖海戦を起こすが、失策が重なりアメリカ海軍の機動部隊に敗北する。その後陸上では7月に海軍南雲忠一中将の守るサイパン島が陥落し、多くの非戦闘員が両軍の戦闘の中死亡した。続いて8月にはテニアン島とグアム島が連合軍に占領され、即座にアメリカ軍は日本軍が使用していた基地を改修し、大型爆撃機の発着が可能な滑走路の建設を開始した。このことにより日本の東北地方の大部分と北海道を除くほぼ全土が本格的な本土空襲の脅威を受けるようになる。実際、この年の暮れには、サイパン島に設けられた基地から飛び立ったアメリカ空軍のB-29が東京にある中島飛行機の武蔵野製作所を爆撃するなど、本土への空爆が本格化する。 これに対して、アメリカやイギリスのような大型爆撃機の開発を行っていなかった日本軍は、この頃急ピッチで6発エンジンを持つ大型爆撃機「富嶽」の開発を進めるものの、開発完了にはまだ時間がかかった。そこで日本軍は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、大型気球に爆弾をつけて高高度に飛ばしアメリカ本土まで運ばせるといういわゆる風船爆弾を開発し、実際にアメリカ本土へ向けて数千個を飛来させた。しかし人的、物的被害は数名の市民が死亡し、ところどころに山火事を起こす程度の微々たるものでしかなかった。また、日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「伊四〇〇型潜水艦」により、当時アメリカが実質管理していたパナマ運河を搭載機の水上攻撃機「晴嵐」で攻撃するという作戦を考案したが、戦況の悪化により中止された。 各地で劣勢が伝えられる中、それに反してますます軍国主義的な独裁体制を強化する東条英機首相兼陸軍大臣に対する反発は強く、この年の春頃には、中野正剛などの政治家や、海軍将校などを中心とした倒閣運動が盛んに行われた。それだけでなく、近衛文麿元首相の秘書官であった細川護貞の大戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派であった高松宮宣仁親王黙認の上での具体的な暗殺計画もあったと言われている。しかしその計画が実行に移されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り東条英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職した。 この頃日本は、昨年末からの相次ぐ敗北により航空および海軍兵力の多くを失ない、その上、大量生産設備が整っていなかったこともあり武器弾薬の増産が思うように行かず、その生産力は連合軍諸国の総計どころかイギリスやアメリカ一国のそれをも大きく下回っていた。しかも本土における資源が少ないため鉄鉱石や石油などの資源をほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた上に、連合国軍による通商破壊戦により外地から資源を運んでくる船舶の多くを失っていたために、戦闘機に積む純度の高い航空燃料や空母、戦艦を動かす重油の供給すらままならない状況であった。 10月には、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した。日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、レイテ沖海戦が発生した。この海戦で日本海軍はアメリカ海軍の空母3隻を撃沈したものの、空母4隻と連合艦隊主力戦艦3隻など多数の艦艇を失い事実上壊滅し、作戦会議には、参加できなくなった。また、この戦いにおいて初めて神風特別攻撃隊が組織された。その後12月に行われた礼号作戦(ミンドロ沖海戦)で日本海軍は駆逐艦1隻を失うものの、アメリカ海軍の輸送船4隻を撃沈した他、飛行場などの軍施設を砲撃し地上の航空機多数を破壊するなど勝利を収めたが、この地域における大勢を変えるまでには至らなかった。 レイテ沖海戦で日本海軍はほぼ壊滅状態となり、以後はまともな作戦行動は出来なくなった。一方、特攻は過大評価され、そのまま日本海軍の重要作戦として位置づけられ終戦まで続けられることになる。この神風特攻はアメリカ海軍の乗組員達を恐怖に陥れはしたが、戦局を変えるには至らなかった。 アメリカ軍はレイテ島の戦いに勝利を収め、1月にはルソン島に上陸した(マッカーサーは1月9日にリンガエン湾に上陸)。フィリピン全土はほぼ連合軍の手に渡ることになり、日本は南方の要所であるフィリピンを失ったことにより、マレー半島やインドシナなどの日本の勢力圏にある南方から日本本土への船艇による資源輸送の安全確保はほぼ不可能となり、自国の資源が乏しい日本の戦争継続能力が途切れるのは時間の問題となった。 日本軍は、1940年のドイツによるフランス占領より、親枢軸的中立国のヴィシー政権との協定をもとにフランス領インドシナに駐留し続けていたが、前年の連合軍によるフランス解放ならびに、フランス新政権(フランス共和国臨時政府)を率いるシャルル・ド・ゴールによるヴィシー政権と日本の間の協定の無効宣言が行われたことを受け、駐留していた日本軍は3月9日に「明号作戦」を発動してフランス植民地政府および同政府軍を武力によって解体し、ベトナム帝国、ラオス王国、カンボジア王国をそれぞれ独立させた。なお、この頃においてもインドシナに駐留する日本軍は戦闘状態に置かれることが少なかったため、かなりの戦力を維持していたため、連合国軍も目立った攻撃を行わず、また日本軍も兵力温存のために目立った戦闘行為を行なわなかった。 2月から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われ、最終的に日本は硫黄島を失い、アメリカ軍は硫黄島をB-29爆撃機の護衛のP-51D戦闘機の基地、また日本本土への爆撃に際して損傷・故障したB-29の不時着地として整備することになる。この結果、サイパン島に築かれた基地から飛び立ったB-29による日本本土空襲が本格化し、アメリカ軍のカーチス・ルメイ少将の指揮による、非武装の民間人に対する無差別空襲が頻繁に行われるようになる。 3月10日には東京大空襲が行われ、この頃から日本の大都市や軍需工場の多くが本格的な空襲を受けて行くことになる。あわせて連合軍による潜水艦攻撃や、機雷の敷設により制海権も失っていく中、東京、横浜、大阪、名古屋、福岡、富山、徳島、熊本など、東北地方と北海道を除く多くの地域が空襲にさらされることになる。室蘭では、製鉄所を持ちながらも、迎撃用の航空機や大型艦の配備が皆無に等しいことを察知していたアメリカ軍は、艦砲射撃による対地攻撃を行う。 迎撃する戦闘機も、熟練した操縦士も、度重なる敗北で底を突いていた日本軍は、十分な反撃もできぬまま、本土の制空権さえも失っていく。日本軍は練習機さえ動員し、特攻による必死の反撃を行う。 この頃満州国は、日本軍がアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍と戦っていた南方戦線からは遠かった上、日ソ中立条約が存在していたため、ソ連との間は戦闘状態にならず、開戦以来平静が続いていたが、この年に入ると、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業基地が、中華民国領内から飛び立った連合軍機の空襲を受け始めるようになった。 同じく日本軍の勢力下にあったビルマにおいては、開戦以来、元の宗主国であるイギリス軍を放逐した日本軍と協力関係にあったビルマ国民軍の一部が、日本軍に対し決起した。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗するため」との名目で、指導者であるアウン・サンはビルマ国民軍をラングーンに集結させ、即座に日本軍に対しての攻撃を開始した。同時に他の勢力も一斉に蜂起し、イギリス軍に呼応した抗日運動が開始された。最終的には5月にラングーンから日本軍を放逐した。 4月、連合軍は沖縄諸島に戦線を進め、沖縄本島へ上陸し、沖縄戦が開始される。多数の民間人をも動員した凄惨な地上戦が行われた結果、両軍と民間人に死傷者数十万人を出した。なお、沖縄戦は日本国内での降伏前における唯一の民間人を巻き込んだ地上戦となった。日本軍の軍民を総動員した反撃にも拘らず、連合軍側は6月23日までに戦域の大半を占領するにいたり、すでに濃厚であった敗戦の見通しを決定づけた。また、支援の名目のもと、沖縄に向かった連合艦隊第2艦隊の旗艦である戦艦大和も、4月7日に撃沈され、残るは燃料にも事欠いた、わずかな空母や戦艦のみとなり、ここに日本海軍が誇った連合艦隊は完全に壊滅した。 5月、有力な同盟国であったドイツが連合国に降伏し、ついに日本はたった一国でイギリス、アメリカ、フランス、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国と対峙して行くことになる。このような状況下で連合国との和平工作に努力する政党政治家も多かったものの、この期におよび、敗北による責任を回避しつづける大本営の議論は迷走を繰り返すばかりであった。一方、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げて、「日本国民が全滅するまで、一人残らず抵抗を続けるべきだ。」と唱えた。日本政府は当時日ソ中立条約によって国交のあったソビエト社会主義共和国連邦による和平仲介に期待したが、黙殺される。 既に一国のみでの孤独な戦いを続ける日本の降伏は、もはや時間の問題となった。この前後には、ヤルタ会談での他の連合国との密約、ヤルタ協約に基づくソビエト連邦軍の北方からの上陸作戦にあわせ、アメリカ軍を中心とした連合国軍による、九州上陸「オリンピック作戦」と、その後に行われる本土上陸作戦が計画されたものの、日本軍の軍民を結集した強固な反撃により、双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想され、計画の実行はされることがなかった。11月に計画されていた「オリンピック作戦」には、福岡、長崎の市街戦において、アメリカ軍としては初めてとなる、化学兵器(毒ガス)の使用が予定されていた。 アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は、最終的に、本土決戦による自国軍の犠牲者を減らすという名目と、日本の分割占領を主張するソビエト連邦の牽制目的、さらに非白人種への人種差別意識の影響、且つ人体実験を目的とした放射能による影響計測のため、史上初の原子爆弾の使用を決定する。8月6日に広島へ投下、次いで8月9日に長崎への投下が行われ、投下直後に死亡した百万人弱にあわせ、その後の放射能汚染などで、現在までにあわせて百万人以上の死亡者を出した。なお、日本でも原子爆弾の開発を行っていたものの、制海権を失ったことなどから、開発に必要な原料の調達が捗らなかったことなどから、ドイツやイタリアからの亡命科学者を中心に開発を行っていたアメリカに先を越されることになった。 その直後に、1941年4月より日ソ中立条約を結んでいた共産主義国であるソビエト連邦も、上記のヤルタ会談での密約(ヤルタ協約)を元に、締結後5年後の1946年4月まで有効である日ソ中立条約を破棄し、8月8日に対日宣戦布告をし、満州国へ侵攻を開始した(8月の嵐作戦)。ソ連による調停の望みはここに絶たれる。 ソ連軍の侵攻に対して、当時、満州国に駐留していた日本の関東軍は、主力部隊を南方戦線へ派遣し、弱体化していたため総崩れとなり、敗退した。 逃げ遅れた多数の日本人開拓民のうち、多くがソ連軍に殺害され、強姦された女性も多数存在した。また、日本への引揚の混乱の中で家族と生き別れ、中国人に拾われた子供は、中国残留孤児として残ることとなった。 このソビエト参戦により、満州と南樺太などで行われた戦いで、日本軍の約60万人が捕虜として捕らえられ、シベリアに抑留された。その後この約60万人は、過酷な環境とソ連政府による強制労働や私刑の犠牲となり、6万人を超える死者を出した。 このような事態に至ってもなお、日本軍上層部は降伏を回避しようとし、御前会議での議論は迷走した。しかし鈴木貫太郎首相が天皇に発言を促し、昭和天皇自身が和平を望んでいることを直接口にした事(いわゆる「御聖断」)により、議論は収束した。これを受け1945年8月10日、日本政府は同盟通信社及び日本放送協会の短波を利用して、「天皇の大権が侵されない」ことを条件に、ポツダム宣言の受諾を全世界に通告、8月14日に御前会議において宣言の受諾を正式に決定し、8月15日、昭和天皇の声明を録音したレコードで、全国に同宣言の受諾を国民に知らせる玉音放送が行なわれた。この後鈴木貫太郎内閣は総辞職した。 敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還をもくろみ、8月15日未明に宮内省などを襲撃(宮城事件)し、鈴木首相の私邸も襲われる事件があったものの、玉音放送の後には、厚木海軍飛行場にあった第三〇二海軍航空隊の小園安名大佐率いる将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊するなどの他には大きな反乱は起こらず(同反乱も8月22日に終息)、日本軍は戦闘を停止した。 翌16日には、連合国軍が中立国のスイスを通じて、占領軍の日本本土への受け入れや、各地に展開する日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼し、19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かう(8月21日に帰還、26日・28日の米軍厚木基地到着の文書をもたらす)等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と、武装解除は順調に遂行された。しかし、少しでも多くの日本領土の略奪を画策していたスターリンの命令により、ソ連軍は8月末に至るまで南樺太・千島・満州国への攻撃を継続した。そのような中で、8月22日には樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」、「第二新興丸」、「泰東丸」がソ連潜水艦の雷撃・砲撃を受け大破、沈没し、多数の犠牲者を出した。 また、日本の後ろ盾を失った満州国は事実上崩壊し、8月18日に退位した、皇帝の、愛新覚羅溥儀ら満州国首脳は、日本への逃命を図るも、侵攻したソ連軍によって身柄を拘束された。その後8月28日には、連合国軍による日本占領部隊の第一弾として、アメリカ軍の先遣部隊が厚木海軍飛行場に到着し、8月30日には、後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国による日本占領の指揮に当たることになる、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着、続いてイギリス軍やオーストラリア軍などの日本占領部隊も到着した。 9月2日には、東京湾内に停泊したアメリカ海軍の戦艦ミズーリにおいて、イギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリア、フランスやオランダなどの連合諸国17カ国の代表団の臨席の元、日本政府全権重光葵外務大臣と、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに、太平洋戦争はついに終結した。しかし、沖縄や南洋諸島においては、兵士達による局所的な戦闘が散発的に続けられ、南樺太と千島列島では、9月4日までソ連軍との戦闘が行われた。 戦争中にアメリカ、ペルーをはじめ南米13カ国日系移民をアメリカ本国や自国の強制収容所に強制移動させられた。詳しくは日系人の強制収容を参照。 戦後、東京にアメリカ陸軍の元帥であるダグラス・マッカーサーを総司令官とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が置かれた。沖縄、奄美諸島、小笠原諸島、トカラ列島は日本本土から切り離されアメリカ統治下におかれた。千島、樺太、歯舞、色丹はソ連に軍事占領されたが、未だに日本固有の領土であることを認められていない。 まず初めに戦争責任を追及する東京裁判が開かれ、元総理の東条英機陸軍大将、外交官で元総理の広田弘毅らが連合国により戦犯として裁かれ、7名がA級戦犯として死刑(絞首)に処されたほか、元内大臣の木戸幸一、元陸軍大臣の荒木貞夫らが終身刑、元外相の東郷茂徳は禁固20年、元外相の重光葵は禁固7年となった。なお、昭和天皇は裁判を免れたほか、岸信介、児玉誉士夫、笹川良一、正力松太郎らは不起訴となった。また、フィリピンや中華民国など各地で同じように戦争裁判(B、C級戦犯)が行われた。一部の人々は、これらの裁判に対して、裁判の体を成していないものも多く、多くの無実の人も罪に問われ処刑されたと、批判している。その理由は全てが事後法による裁きのためである。また、連合軍は無差別攻撃(東京大空襲等や原爆投下)等の国際法違反行為に対する裁きを受けておらず、勝者による一方的な裁判であるとの批判もある。 GHQは大規模な国家改造を行い、大日本帝国の国家体制(国体)を壊滅した上で、新たに連合国(特にアメリカ)の庇護の下での国家体制(戦後体制)を確立するために、治安維持法の廃止や日本国憲法の制定を行った。また、内務省の廃止や財閥解体、農地改革など矢継ぎ早に民主化と称し、日本の国力をなくし米国への抵抗力をなくすための改革を行ったが、民主化政策はその後の冷戦体制のため変更され、警察予備隊の設置や共産党員の公職追放(レッドパージ)が行われた。その後締結された1952年のサンフランシスコ講和条約により連合国総司令部は廃止となり、戦後処理は終了した。 アメリカをはじめとする連合国側では、戦時中から太平洋戦争という呼称が使用されていたが、この呼称は日本側にも存在した。 戦時中の日本では、対米英並びに対蘭及び対中戦争を大東亜戦争と呼称していた。この呼称は1941年(昭和16)12月10日の大本営政府連絡会議によって決定され、12月12日に閣議決定された[3]。当時、大半のアジア諸国が欧米諸国の植民地支配下にある中で、大東亜戦争と呼称するのは、「大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして戦争地域を主として大東亜のみに限定する意味にあらず」(情報局発表)として、この戦争はアジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指すものと規定し、これは1943年(昭和18)11月の大東亜会議で「再確認」がなされている。 太平洋戦争という呼称は、降伏後の占領期間中に、当時の大東亜戦争という呼称が連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP)により公文書における使用を禁止されたため、連合国側表記に合わせる形で利用されるようになった。これ以降の戦後制定された法律では全て「太平洋戦争」という語句が用いられており(「沖縄振興特別措置法」平成十四年三月三十一日法律第十四号 等)、法律用語としてはこの呼称が定着している事から、現在でも一般的には「太平洋戦争」が使われることが多い。また、日本海軍は呼称を決定する大本営政府連絡会議の席上で「太平洋戦争あるいは対米英戦争等」の呼称案を提出しており[4]、大戦中にも内部ではこの呼称が用いられたといわれている。これは日中戦争にはさほど関与しておらず、海軍にとっての戦争は真珠湾攻撃以降であるという認識に起因するものであると考えられる。 日本においては閣議で正式に決定した呼称であり、戦後も日本政府がこの決定を公式に否定した事実はなく、東京裁判史観に基づいた侵略戦争としての側面を徒に強調するものであるので、太平洋戦争の呼称ではなく、大東亜戦争の呼称を用いるべきであるし、日本が主権を回復した現在では「大東亜戦争」が正式な呼称である。 太平洋戦争という呼称では太平洋における対米戦のみがクローズアップされてしまい、中国大陸や東南アジア各地で行われた数々の戦いが軽視される懸念がある。 また、上述のように大東亜戦争が1937年7月7日に勃発した支那事変をも含めた一連の戦争として定義されているのに対し、連合国側の太平洋戦争という呼称は一般に1941年12月8日の対英米開戦以降の戦闘を指すことが多い。このため大東亜戦争を太平洋戦争という語句にそのまま置き換えては齟齬が生じるという指摘もある。 これに対し、大東亜戦争の呼称に否定的な意見としては、大東亜戦争の呼称の使用を主張する意見は、右派勢力を中心に大東亜戦争の思想背景でもある大東亜共栄圏の理念を揚げ、戦争は解放戦争だった、良い面もあったなどといった自国中心の見解を示す者が多いこと、またこのことから「大東亜戦争」の呼称を使用する事が「戦争賛美」、「復古的国粋主義を煽る」、「中韓を初めとしたアジア諸国への侵略に対する反省が乏しい」ことを表しているとして、使用に反対する意見も根強い。 なお、他の呼び方として、1931年の満州事変、1937年の盧溝橋事件に始まる日中戦争を太平洋戦争と一体のものとして十五年戦争やアジア太平洋戦争と呼称することもあるが、そもそもそれらを一続きの戦争とみなすことが妥当かについては議論の余地が残る。また、イギリスの歴史家・ソーンは極東戦争(Far Eastern Conflict)という呼称を提唱している。 日本政府は、「太平洋戦争」という用語について政府として定義したことはないとしている[5][6]が、現行法令の条文等にはこの用語が使用されており、正式な用語として認識されているとみなされる。 一方、「大東亜戦争」という用語に関しては、その定義が1941年12月12日、当時の内閣によって閣議決定されたことを事実として確認している[6]が、現在この用語を政府の公文書では使用していないことも明らかにしている[5]。これにより、「大東亜戦争」という用語が正式な用語として認められていないことがわかる。 太平洋戦争の評価については、これの戦後以来ずっと歴史家だけでなく知識人、作家、一般市民などを巻き込んだ議論の的となっており、さまざまである。 もともとアジア圏は欧米諸国に植民地されていた歴史を持ち、日本がこの体制を解放させる立場なのか、それとも新たな植民地政策国として居座ることを目したものかという、相反する見方によって議論が引き起こされる。 加害者としての見方は、日本がアジアの近隣諸外国に対して行った侵略や植民地化などの行為を、誤った政策とし、太平洋戦争を否定的にとらえるものである。この見地にたつ人々の一部は、日本が太平洋戦争の被害者の立場(長崎市・広島市の被った原子爆弾投下など)を強調し過ぎるものとし、侵略者=加害者としての立場からの反省が足りないと、主張している。 これに関連して、中華人民共和国、韓国を中心とした日本に対する戦争責任の追及については、単なる反日教育によるアジテーションというよりも、アジア諸国に見られた閉鎖的で抑圧的な独裁体制の下にあって権利を主張することができなかった当事国の民衆が権利意識の高まりによって戦争の当事国である日本に国家、権力者の過ちによる戦争での被害の権利回復を求める運動の一環と主張する当事者も少なくない。近年になって日本の加害責任の追及の声が大きくなっていることについては、こうした点が背景にあるとの意見が加害責任を追及する人々を中心に主張されている。 解放者としての見方は、アジア諸国が太平洋戦後に独立を果たせたのは、アメリカやイギリスなどの植民地化政策を行った国々との間での戦争であることが要因の一つであるとし、太平洋戦争そのものを肯定的に評価する立場である。この見地にたてば、日本は加害者であるという戦争理解や、近隣アジア諸国に対する謝罪への要求といった事態は、自虐的過ぎるということになる。 また、自衛戦としての見方は、ABCD包囲網によって日本が圧迫され、これを打開するために対英米蘭戦に踏み切ったとするものである。また、アメリカが日本の大陸利権を否定することで圧力を加え、併せて人種的偏見による移民規制や、日系アメリカ人に対して人種差別的な政策を行ったことが、日本人の反米感情を刺激し、対米戦へと踏み切らせたとの考えもある。 だが、どの資料を見てもABCD包囲網やそれに類する条約が結ばれたと言う証拠はない。故に、旧帝国が戦争を正当化するために恣意的に使用したとも考えられる。 この戦争には「2つの側面」があるという研究者がいる。きっかけは中華民国への侵略や勢力拡張を目的とした仏印への進出だが、結果としてそれを理由にした米国の石油をはじめとする対日全面禁輸は、日本を予想だにしていなかった国家崩壊の危機に直面させた。すなわち、貿易全依存国である日本は石油がなければ船舶を動かすことはできず、船舶が動かなければ工業材料はおろか、食糧まで一切輸入することはできず、そうなれば産業崩壊はもちろんのこと餓死者さえ出かねないのである。また動かなくても排水の為に常に石油を消費する海軍は当然のことながら壊滅してしまい、もし日本が事態を放置して無抵抗状態になった時に、米西戦争の時のように、米国が何らかの口実で日本に宣戦布告をしてきた場合、日本は満足に戦闘さえできないことが懸念された。 そのうえ、米国の最後通牒と呼ばれたハルノートには日本との交渉再開の条件として中国からの撤退(原案では満州を除くという但し書きがあったが、米国側は手交前に敢えて削除した。)というおよそ短期間には実現不可能な条件が記されており、しかもその見返りは「交渉を再開する」というだけであり、禁輸解除は記されていなかった。したがって、ハルノート受諾を含む外交による事態打開を目指しても、日本が破滅的な状況に直面する公算は極めて高いと予想され、進退窮まった日本は強行策として欧米植民地の資源地帯の軍事力による強制奪取とその防衛を目的とした東南アジア・太平洋地域への戦争を開始した。 このようにアヘン戦争やアロー戦争と似たような構造の侵略戦争である日中戦争と、米国や米国が指導した全面的な経済制裁に対する自衛が目的としての対米英蘭戦争という、目的・性質の異なった二つの戦争が併存していたのが太平洋戦争であるという見方である。 実際に日本が侵略した中国(当時は中華民国、現在は中華人民共和国)や、日本に併合されていた朝鮮半島(現韓国・北朝鮮)においては日本の責任を厳しく問う意見が強い。しかし、かつて植民地・占領地でありながらも日本から直接被害を受けていない中華人民共和国・南北朝鮮以外のアジア諸国からは、日本を加害者とする評価だけではなく、それ以外の評価を見ることができる。加害者とする以外の評価があるのは、アジアには多民族国家が多く各集団によって世界観が大きく異なるためであるとも言われている。そのうち、直接に被害を受けていない地域では日本を評価する声があるとも、実際のところは少数派であるとも言われている。これには、当地の人々にしてみれば独立は主として自分たちの力で達成したものという意識が反映していることに加えて、すでにそれぞれが以前に比べて国民国家化していることも関係する。 一部のアジア諸国で日本の責任を厳しく問う意見が弱い理由については、純粋に日本の侵攻が独立に貢献したと評価されているケース、建国の功労者に、日本の後押しで権力の座に就いた者がいるケース、戦後の独立戦争において旧日本軍人が指導・協力したケース、また単純に反米的なイデオロギーを持っていたケース、あるいは軍事政権の雛形として評価せざるを得ないケースなど様々であり、その理由を一概にまとめることは難しい。日本の責任を厳しく問う意見が弱い理由として、日本の支配が強圧的であれども旧宗主国のそれに比べれば相対的にマシなものであったからという説もある。また、そもそも旧宗主国の植民地支配によって蒙った被害があまりに甚大であるが故に支配期間においては圧倒的に短い日本による被害が問題にされにくいという面もある。これとは逆に、日本の支配ののちに侵入してきた支配者への反感から日本への責任を問う声が比較的厳しくないという地域もある。 また、日本に協力する人々がいた一方、宗主国に協力して日本と敵対する人々もいた。この場合は、戦争が終わったのち、親日派も宗主国協力派も独立のために戦ったケースが多い。 当時は日本による統治下であった台湾島では戦時中、アメリカ合衆国軍による空襲等はあったが、地上戦は行われなかった。また、台湾自体が兵站基地であったため、食糧など物資の欠乏もそれほど深刻ではなかった。 戦後になって大陸から入ってきて強権政治を行った過去のある中国国民党に対する批判により、相対的に日本の植民地政策を評価する人もいる。(「犬(煩いかわりに役には立つ)の代わりに豚(食べるばかりで役たたず)が来た」と言われている)また、それらの大日本帝国を評価する勢力の一部には太平洋戦争についても「解放戦争」であったと位置付けている人もいる。 台湾は中華民国ないし中華人民共和国の一部であると主張する勢力の中には、日本の支配を中華民国への侵略行為に過ぎないと評し、太平洋戦争も侵略であったと評する意見がある。 戦時には台湾でも徴兵制や志願兵制度などによる動員が行われ、多くの台湾人が戦地へと赴いた。これについての評価も分かれている。当時は日本国民であったのだから当然とする人もいれば、不当な強制連行であったと批判する人々もいる。「当時は日本国民であったのに死後靖国神社に祀られないのは差別である」と批判をする人もいれば、その反対に「靖国神社への合祀は宗教的人格権の侵害である」として日本政府を提訴している人々もいる。また、戦後、軍人恩給の支給などについて日本人の軍人軍属と差別的な取り扱いがなされたことに対する批判もある。 また、中華民国にも大韓民国、フィリピン共和国、オランダ王国などと同様従軍慰安婦になることを強いられた女性達がいるとして、日本国政府を相手に損害賠償を求める動きも出ている。なお「従軍慰安婦」という言葉自体、議論の対象になっている。つまり自発的にそれになったもしくは怪しげな業者にだまされたりしたもの。一例として当時のいわゆる従軍慰安婦は軍票の簿価の総計だけのみで換算して「当時の日本の総理大臣をはるかに上回る収入を得ていた」とする試算もある。現在台湾では、太平洋戦争・その前段階の日本統治時代についてどう評価するかについては政治的な論点のひとつとなっている。日本の支配に対する評価についての詳細は、日本統治時代 (台湾)にある戦後の評価の項を参照。 (なお、台湾島での戦争観を語る際に、台湾本省人が親日であり日本支配肯定論、外省人が反日抗日的であるとの見方があるが、実際はそれほど単純ではない。省籍矛盾については特定の政治家が選挙運動で煽ることによって起こる面も否定できず、そうした背景を理解しないで台湾の戦争観を論じると誤解が生じるおそれがある。本省人には、福建系と客家系がいること、また台湾人を語る際には台湾先住民の問題が欠けている傾向が見られること、省籍については近年外省人、福建系をはじめとした本省人の垣根が解消される傾向にあること、外省人はエリートと低所得層との格差が激しく多様であること、低所得層の外省人と台湾先住民との婚姻のケースが多いなど単純ではない)。 『太平洋戦争の謎 魔性の歴史=日米対決の真相に迫る』佐治芳彦 大日本帝国文芸社 ISBN 4-537-25080-1 斎藤充功『昭和史発掘 開戦通告はなぜ遅れたか 』新潮新書 新潮社 ISBN 4-106-10076-2 『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』佐藤卓己 筑摩書房 ISBN 4-480-06244-0 ^ 平成6年(1994年)11月20日公開された1946年調査の外務省の公文書『「対米覚書」伝達遅延事情に関する記録』による。 ^ a b 「大東亜戦争の定義に関する質問主意書」に対する答弁書(第165臨時国会答弁第197号、2006年12月8日) ^ a b 「大東亜戦争の定義等に関する質問主意書」に対する答弁書(第166通常国会答弁第6号、2007年2月6日) 南方作戦 | ソロモン諸島の戦い | ニューギニアの戦い | ミッドウェー作戦 | ビルマの戦い | 中部太平洋の戦い | フィリピンの戦い | 沖縄戦 | 日本本土空襲 | ソ連対日参戦 | その他の作戦と戦い |
[ 107] 太平洋戦争 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
