江川とは?

江川(えがわ)は、洞海湾奥の北九州市若松区の二島から遠賀郡芦屋町の遠賀川河口に通じる河川です。江川の東は洞海湾に注ぎ、西は遠賀川の河口で合流して、響灘に注ぎます。そのため川の流れは、二つの海の潮の干満に影響されます。江川は、江戸時代以来大きく変容しています。それは、洞海湾岸の埋立てとともに、現在の江川流域も埋め立てられ、新田開発が行われたためです。また江川は、古くから舟運に使われました。神功皇后が洞海湾から江川を通って、芦屋に着いたことが伝えられています。豊臣秀吉も神功皇后に倣って、肥前名護屋に行く際、江川を通って芦屋に着いています。
江川を洞海湾から遠賀川に向かって紹介します。洞海湾の方向を振り返っています。左が若松区二島、右は八幡西区御開(おひらき)です。両岸とも埋立地です。二島は、埋め立て前に、洞海湾に二子島があったため、その名が付けられました。御開はその名の通り、福岡藩による新田開発で、埋め立てられた土地です。左手の建物は、日本板硝子若松工場の跡地に建てられた、イオン若松ショッピングセンターです。橋は栄橋で、その先の橋、奥洞海橋で、洞海湾になります。 
御開橋から江川大橋を振り返っています。大橋は国道199号線が通っています。左手の大橋を渡った先が鴨生田(かもうだ)交差点になります。その北西角に若松区役所島郷(しまごう)出張所があります。島郷は、古くは村名にも使われた地名ですが、この一帯は古くは湾内で、いかにも島に見えたので、その名が付いたようです。遠くに見える山は皿倉山です。
江川の近くを通っている県道北九州芦屋線を西に進み、払川(はらいがわ)交差点を北に入ります。交差点と洞北中学校の中間の、西側の田圃の中に石碑が立っています。魚鳥池之碑です。神功皇后の怒りを鎮めるため、この地方の豪族熊鰐(くまわに)が干潟に魚と鳥の池、魚鳥池(ぎょちょういけ)をつくり、魚と鳥を集めた、と伝えられています。詳しくは、「北九州の歴史」の「古墳時代」の「古墳時代前期」「4.神功皇后伝説」をご覧ください。右の見える鳥居は魚鳥池神社のもので、その上の森の中にお社はあります。1685(貞享2)〜1688(元禄元)年、蜑住(あまずみ)から竹並の洞海湾岸が埋め立てられ、払川の土地ができました。
県道北九州芦屋線の蜑住入口の交差点から江川沿いに出て、前方を見ています。左手は塩屋(しおや)で、右手は蜑住です。両方とも若松区で、ともに海に因んだ地名になっています。前方に見える建物は、福岡障害者職業能力開発校です。塩屋は、海辺で塩を焼いてつくっていたので、この名が付いたといわれています。蜑住は、この辺りに海で生活する海人達が住んでいたので、海人住、海士住とも書かれていたといわれています。
県道北九州芦屋線の大鳥居交差点付近で坂井川が江川に合流します。その交差点の横、若戸病院の近くで工事が行われています。都市基盤工事で、江川の改修工事が行われています。川の南北とも若松区で、北は大鳥居、南は小敷(こしき)です。ともに中世、麻生氏が建立した小竹(おだけ)の白山神社に由来します。大鳥居に白山神社を建立の際、大きな鳥居を建てたといわれています。小敷では、白山神社の祭礼の際、竈(かまど)を設けて、甑(こしき、蒸し器)をかけて、神に捧げる酒食を調理したと伝えられています。
学術研究都市の西側の道路の汐分大橋から、江川を振り返っています。左端は若戸病院の建物で、中央のこんもりした木立の中に地蔵菩薩のお堂があります。汐分(しおわけ)というのは、この付近が洞海湾と遠賀川の汐が干満でぶつかったり、分かれたりする場所になります。米をはじめ物資の舟運に利用された江川は、江戸時代には、遠賀郡の農民を動員して、年1回の川ざらえを行いました。遠賀川を下った川ひらた(五平太船)は江川を通り、洞海湾を経て若松に着きました。
芦屋に向かって江川の左手は小敷で、右手が高須に入る所に太閤水というバス停があります。高須は高い州であったので、太閤水は太閤秀吉の井戸に由来します。1592(文禄元)年、豊臣秀吉は朝鮮出兵のため肥前名護屋に出陣しました。秀吉は江川を通った折、小敷で村人に井戸を掘らせて、飲み水を補充しました。その井戸が江川の畔の藤棚の下にあります。現在は、地下を通る炭鉱の坑道によって、井戸水は枯れています。
先に行きますと、右手は若松区の高須のままですが、左手は八幡西区の浅川に変わります。浅川は沿岸の田地の開墾が進んだため、この付近の川は浅くなったとして名付けられました。この付近はその先で、右手は高須で、左手は八幡西区三ツ頭といいます。三ツ頭(みつがしら)は江川・曲川・遠賀川が合流した所を、満潮で潮流が川を遡る様子からつけられた地名です。この先は県道北九州芦屋線と水巻・芦屋線の向田橋交差点になります。江川は北上します。向田橋交差点の北で江川に曲川が合流します。交差点付近は、北九州市若松区・八幡西区、遠賀郡芦屋町・水巻町が隣接する地域です。
県道水巻・芦屋線が江川に沿って走っていて、その河口近くの道路横に、江川河畔公園があります。この付近は芦屋町山鹿です。手前が江川で、先の遠賀川の河口近くで合流します。右に見えるのは山鹿城跡の城山です。源平の合戦の時、城主山鹿兵藤次秀遠(やまがひょうとうじひでとう)は、平家とともに滅亡しました。その後、関東から西下した宇都宮氏、後の山鹿氏の居城となりました。その山鹿氏は、後、庶流の麻生氏が主流となりました。豊臣秀吉によって、麻生氏は筑後に国替えになり、中世の終焉とともに山鹿城は廃城になりました。正面が遠賀川の西岸の芦屋町の市街地です。
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[ 122] 江川
[引用サイト]  http://homepage2.nifty.com/kitaqare/tenw04.htm



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