オリックスブルーウェーブとは?

オリックス・バファローズ(Orix Buffaloes)は、日本のプロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。大阪府を保護地域とし、府内大阪市西区にある大阪ドーム(京セラドーム大阪)を専用球場(本拠地)としている。この他、2005年から2007年までの3年間は球団旧来の兵庫県も保護地域の一つとしていた。
同球団の二軍(ウエスタン・リーグ所属)の球団名はサーパス。本拠地は兵庫県神戸市北区にある北神戸田園スポーツ公園野球場(あじさいスタジアム北神戸)で、同市須磨区に練習場と合宿所が設けられている。
2004年シーズン終了後、当時パシフィック・リーグに加盟していた大阪近鉄バファローズと合併、旧オリックス・ブルーウェーブが存続球団となり改称し、2005年シーズンから現在の形となった。このページで取り上げる球団の歴史や各種チーム記録等は存続球団の阪急→オリックスの分について触れるが、解散球団の大阪近鉄のそれらについては大阪近鉄バファローズの項目を参照。
1936年阪神急行電鉄(現・阪急阪神ホールディングス)が大阪阪急野球協会(おおさかはんきゅうやきゅうきょうかい)を設立し球団名阪急職業野球団(はんきゅうしょくぎょうやきゅうだん、阪急軍とも)が発足(阪急の小林一三社長が、阪神電鉄の球団大阪タイガースに対抗し結成した。企業名を冠する最初の球団であった)。六大学野球のスター選手である山下実、宮武三郎らを集めて結成し、本拠地を暫定的に宝塚球場とした。なお、阪急はこれ以前に宝塚運動協会というプロ野球チームを所持していた[1]。
戦前は優勝に届かなかったが、戦中にあってもチーム体勢を大きく崩すことなく終戦を迎え、1946年のリーグ戦再開には参加。
1947年のニックネーム導入に際し、まず「熊」をイメージした阪急ベアーズ(Bears)と改称するが、オープン戦で負けが続き、bearに「(株式用語で)弱気、売り方」という意味があることも判明、縁起をかつぐ意味もあって4月18日に阪急ブレーブス(Braves)と改める。「ブレーブス」のニックネームは公募で決まったが、これはアメリカメジャーリーグのボストン・ブレーブスに由来している。こちらの意味は“勇者”。
1949年オフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟。ところがこの時に捕手の日比野武・楠協郎・永利勇吉を全員他球団に奪われ、苦難の道を歩むことになる。
1952年、西宮球場にナイター照明設備を完成。当時のユニフォームが黒地に白のペンストライプというデザインだった上にナイトゲームに強かったことから「夜の勇者」という異名をとった。このころより、梶本隆夫、米田哲也といった名投手2人を擁するもののチームは低迷し「灰色カラー(灰色の時代)」と言われた。
1967年〜1969年、1971年、1972年と5度優勝するがV9に突き進む読売ジャイアンツを倒すことができなかった。
2シーズン制で、阪急は前期優勝、後期最下位という成績。プレーオフで近鉄バファローズを3勝1敗で下したものの通年成績は64勝59敗7分、勝率.520で史上最低勝率でのリーグ優勝となった(それまでの最低記録は1973年読売ジャイアンツの66勝60敗4分、勝率.524)。
日本シリーズに出場し上田利治監督の下、山口高志、山田久志、加藤英司、ボビー・マルカーノ、バーニー・ウィリアムス、福本豊らの活躍でセ・リーグ優勝チームの広島東洋カープを4勝2分け無敗で下し、初の日本一に輝く。このシリーズでMVPに輝いた山口高志の剛速球はプロ野球史上最も打ちにくい球だったと言われ、現在でも語り草になっている。それ以降、1977年まで3年連続日本一、1978年まで4年連続リーグ優勝を達成。「王者ブレーブス」と呼ばれ球団の黄金期となる。
日本シリーズでは長嶋茂雄率いる読売ジャイアンツと対戦。3連勝の後3連敗で窮地に追い込まれたが、迎えた第7戦では敵地後楽園の熱気溢れる満員のジャイアンツファンの大声援を敵に回しながら、ベテラン足立光宏の粘りのピッチングにより4対2で勝利し、ついに念願の「ジャイアンツを倒しての日本一」を達成した。
前期は優勝。後期は追い上げわずかに及ばずロッテオリオンズに0.5ゲーム差の2位だったがプレーオフを3勝2敗で制しリーグ3連覇。
2年続けての対戦となった読売ジャイアンツとの日本シリーズでは力の差を見せつけ4勝1敗で圧倒した。球団がオリックス・ブルーウェーブとなった後の1996年も含め、「長嶋ジャイアンツ」とは日本シリーズで3度対戦し、いずれも勝利を収めている。
2年前同様に前後期連続制覇を達成しているが、これは10年間続いたパ・リーグの2シーズン制ペナントレースの中で、阪急だけが達成した快挙である。
日本シリーズでは広岡達朗率いるヤクルトスワローズと対戦したが3勝4敗で敗れシリーズV4は果たせなかった。またこのシリーズ第7戦では、ヤクルトの主砲大杉勝男の放ったレフトポール際に切れたかに見えた飛球を、セリーグ富沢審判がホームランと判定し、上田が1時間19分の猛抗議を行った。
1981年、日本では日本ハムファイターズの「ギョロタン」に次いで2番目となる球団マスコットキャラクターの「ブレービー」(背番号:100)が登場。ファンサービスに努めたが、観客動員は伸び悩み、チームの強豪振りとは反対に、球団経営は悪化した。
75勝45敗10分で2位ロッテオリオンズに8.5ゲーム差を付けて優勝したが、これが「阪急」としての最後の優勝となった。
ブーマー・ウェルズが打率.355、本塁打37、打点130の成績で外国人選手として初の三冠王に輝いた。
1986年、球団創立50周年を迎え、ファンサービスの強化や戦力の充実により観客動員が伸び、関西パ・リーグ球団で初めて100万人を超える動員(114万5000人・球団発表)を記録した。惜しくも優勝は逃したが、ストッパーとして活躍したアニマル・レスリーが咆哮パフォーマンスで全国的な人気を集めた。
1988年10月19日、阪急電鉄がオリエント・リースへの球団譲渡を発表。黄金期を支えた福本、山田もこの年限りで引退した。
チーム名をオリックス・ブレーブスに改称。オリックスブルーとブレーブスゴールデンイエローを基調にしたユニフォームとなる。阪急側からの球団譲渡の条件を満たすため、その後2年間は「ブレーブス」の愛称と西宮球場の使用が継続された。
1988年に完成した神戸総合運動公園野球場(グリーンスタジアム神戸)を準本拠地とすることも発表された。完成した1988年は5月の対南海ホークスとの1試合のみだった主催試合がこの年は14試合、1990年も13試合組まれた。当初1989年はダイエー戦は13試合を全て神戸で行う予定だったが、雨天中止のため2試合は西宮で行われた。
ホークスから移籍の門田博光を加えたブルーサンダー打線がチームを引っ張ったが、優勝した近鉄にゲーム差なしの2位となった。
1991年、神戸に本拠地を移し、一般公募により愛称をブルーウェーブ(Blue Wave)に変更。上田利治の監督退任などで「脱阪急化」路線が進んだ(上田の後任監督は神戸出身の土井正三)。
1992年、田口壮、イチローが入団。後の黄金時代への礎となった。ただ両者ともに土井正三監督の指導が著しく悪かったため、実力を発揮するのは数年後になる。
1994年、仰木彬が監督に就任。有望な若手選手の成長と名将の就任でチームには明るいムードが漂った。イチローが高卒3年目、初の規定打席到達にして日本新記録の年間210安打を樹立、当時のパ・リーグ新記録となる打率.385を記録(その後2000年に自らが更新)。このイチローの活躍は社会現象となり、その功績に対してオフには正力賞が贈られた。イチローフィーバーに後押しされたチームは優勝争いにも加わり(最終順位は2位)観客動員も球団新記録を大幅に更新した。
1995年、1月17日、阪神・淡路大震災が発生。一時は神戸での試合開催は不可能かとも言われた。しかし球団を挙げて被災地復興の一躍を担いたいという強い思いのもと、神戸でのペナントレース実施に踏み切った。準備不足が懸念されたが「がんばろうKOBE」を合言葉に戦いを挑むチームは目の色が違った。4月19日には野田浩司が一試合奪三振19の日本新記録を達成。6月には月間20勝を超える躍進を見せ、ペナントレースを独走した。7月末に早くもマジック点灯。前年までの覇者西武には直接対決15連勝を記録し、完膚なきまでに叩きのめした。8月26日には佐藤義則が史上最年長でのノーヒットノーランを記録。「マジック1」とした後の地元神戸での4連戦に全敗し、念願の地元胴上げはならなかったものの、9月19日には球団譲渡後初のリーグ制覇を実現した。被災地とともに戦うチームの姿は大きな感動を呼び、ファンは熱烈な応援によりチームを支えた。この年の「神戸」と「ブルーウェーブ」の関係は、ホームタウンとプロスポーツチームの理想的な関係として各方面で取り上げられた。
1996年は日本ハムに先行を許し、8月前半には5ゲーム差をつけられたが、覇者の貫禄をみせて9月上旬には逆転、9月23日の日本ハム(グリーンスタジアム神戸)との直接対決にイチローのサヨナラ安打で勝利を収めてリーグ2連覇、「神戸での胴上げ」を実現した。日本シリーズでは巨人を4勝1敗で倒し、地元神戸で日本一に輝いた。観客動員数は過去最高の179万4000人を記録。
シーズンオフにイチローがアメリカメジャーリーグのシアトル・マリナーズに移籍。これ以降、主力選手の移籍が相次ぎ、チームは急速に弱体化していく。
2002年から石毛宏典が監督に就任する(就任直後のドラフト会議では同監督は「ドラフト会議はフロントの仕事である」という本人の意向により会議を欠席する)が、1年目はチーム打率.235と投高打低に陥り39年ぶり2度目の最下位。
石毛を早々と解任し、レオン・リーを監督に据えるが今度は投手陣が崩壊し、福岡ダイエーホークス戦で20失点以上を4度記録するなど、プロ野球史上最多の927失点(自責点818点)、チーム防御率も5.95を記録し2年連続最下位となる。
本拠地・グリーンスタジアム神戸が国内初のネーミングライツ(特定企業に施設の命名権を与えるシステム)を導入。情報通信会社のソフトバンクが命名権を取得し、Yahoo!BBスタジアムに改称される。
前年まで西武ライオンズを率いた伊原春樹を監督に招聘、村松有人をFAで獲得、阪神で実績を残した投手ムーアを獲得するなど積極的にチーム改革に挑むも投手陣の崩壊(防御率5.65)は止まらずに3年連続最下位。近鉄との球団統合もあり、伊原もこの年限りで辞任する。
9月、近鉄・オリックス両球団で監督経験のある仰木彬(1988年〜1992年:近鉄監督、1994年〜2001年:オリックス監督)が監督に復帰。史上最年長・69歳の監督としてデビュー(2005年4月29日に70歳の誕生日を迎え、史上初の70歳台の監督となった)。
12月1日、球団経営の抜本的立て直しを目的として、同じパ・リーグの近鉄と合併することとなり、オリックス・バファローズとなった(余談であるが、コミック「かっとばせ!キヨハラくん」でオリックスと近鉄を合併させたチームで「オリッ鉄・バッパローブス」というチームを作っていたストーリがあったが、まさに架空から出た真な話であった)。球団の出資比率はオリックス80%、近鉄20%となる(合併発表から合併調印までの経緯についてはプロ野球再編問題 (2004年)を参照)。同時に近鉄球団職員の多数と選手の約半数を引き継ぎ、残りの半数を東北楽天ゴールデンイーグルスに譲渡している。
近鉄との合併に伴い、2007年度までの3年間のみ暫定措置として、従来からのオリックスの本拠地である兵庫県と、近鉄の本拠地だった大阪府のダブルフランチャイズの形が取り入れられた。この為球団事務所と合宿所は、引き続いて神戸市に置くことになった(球団事務所は2006年オフに大阪市に移転した)。
ホームグラウンドは従前からのYahoo!BBスタジアム(神戸市)に、近鉄の本拠地だった大阪ドーム(大阪市)が加えられた。チームは専用球場(プロ野球協約に定めたメインホーム)を大阪ドームとし、同じく神戸も本拠地に据えながら、両球場共に30試合余りを開催。2005年、Yahoo!BBスタジアムはネーミングライツ契約切れと、Yahoo!BBの親会社であるソフトバンクの福岡ダイエーホークス買収を機に再改称。スカイマークエアラインズ(現スカイマーク)が新たに命名権を取得し、スカイマークスタジアムに改められた。
合併によるチーム力の底上げや仰木の復帰により、チームの成績は前年最下位から、シーズン終盤ギリギリまでAクラス争いをした結果4位でシーズンを終える。
仰木は健康面の問題から1年で退任し、シニアアドバイザー(SA)に就任(12月15日に逝去)。2006年から中村勝広GMが監督に就任。中村は監督専従となり、GM職は当面空席となる。GMから監督になるというケースは球界史上初めてである。
12月19日、プロ野球実行委員会はオリックスの専用球場を2006年度からスカイマークスタジアムに変更する事を承認した。しかし、大阪ドームとのダブルホームタウンの変更はせず、双方の球場で34試合ずつを主催する。その後オリックス(正式には子会社のオリックスリアルエステート)が大阪ドームの施設を買収する方針を固めた。
9月27日の最終戦終了後、成績不振の責任を取って中村勝広監督が辞任した。52勝81敗3分けの5位、勝率.391に終わった。
10月6日、元エンゼルス監督で、ドジャース育成部長であるテリー・コリンズが新監督として就任すると球団が発表。
11月20日、これまで神戸市(神戸総合運動公園野球場内)にあった球団事務所を大阪市北区堂島に移転し、球団業務の大半(球団本部、大阪営業部、ファンサービス部等)をここに集約。なお神戸事務所は神戸営業部等一部の業務のみに規模を縮小する。
オフには東京ヤクルトからグレッグ・ラロッカを、入団テストでは大阪近鉄・巨人で主砲として活躍したタフィ・ローズを獲得。
一方ではローテーションの一角だった前川勝彦が1月6日に不祥事を起こして、後に懲戒解雇処分。そしてブルーウェーブ時代からの主力選手であった谷佳知も巨人に移籍した。
1月17日、球団と契約更改で交渉決裂した中村紀洋を解雇。この際、野球協約に照らし合わせても問題のある交渉をした上、挙げ句には他球団のチーム編成も完了した時期に解雇しており、選手会が厳しく糾弾する事態となった。また特に旧近鉄系のファンには、旧近鉄の選手である中村へのこの冷酷な仕打ちに幻滅して、オリックスのファンをやめたという者も少なくなく、直前の前川の問題も含めて、様々な方面から批判を浴びながらの2007年シーズンのスタートになった。
2月20日、一部のスポーツ新聞で近鉄の球団経営への出資が成績に関係なく今季で終了する方針であることと、それに伴い球団がバファローズに変わる新愛称名の検討に入ったと報じられた。
レギュラーシーズンに入っても、選手起用などで混迷は続いた。4月下旬から5月半ばにかけて17試合で1勝16敗と大きく負け越すなど、優勝争いには全く加わることなく、他パリーグ全5球団に負け越し、合併後初の最下位に沈んだ。
他球団とのトレードにより入団した鴨志田貴司、長田昌浩、辻俊哉はおよそ期待外れの結果に終わった。その一方で、皮肉にも、トレードにより他球団へ移籍した谷佳知、早川大輔は移籍先で活躍し、上述の様な形で解雇した中村紀洋に至っては、落合監督に拾われる形でようやく入団した中日で完全復活を成し遂げ、中日を日本シリーズ制覇させる立役者となり、日本シリーズのMVPを受賞した。
この様に2007年は特にファンにとってはあらゆる意味で踏んだり蹴ったりのシーズンとなってしまい、球団フロントへ批判が集中する事になった。
※リーグ優勝のうち、1975年、1977年はプレーオフ(1975年は近鉄、1977年はロッテを相手にした)で獲得。1976年、1978年は前後期完全制覇により自動優勝が決まった。
1958年から1982年頃までと1988年は阪急電鉄の沿線への配慮から西京極球場を、また、オリックス移行後の1989年、1990年は神戸地区のファン確保のためグリーンスタジアム神戸も準フランチャイズとした
2005年〜 - 大阪ドーム(2006年7月、京セラドーム大阪に改称)、スカイマークスタジアム(2005年、Yahoo!BBスタジアムから改称)
球団合併に伴う暫定処置(ただし、日本シリーズ出場時は日本野球機構に提示した専用球場=2005年は大阪ドーム、2006年はスカイマーク、2007年は京セラドーム大阪を使用予定。2008年以後京セラドーム大阪へ一本化される予定だが、兵庫県=スカイマークなどでの開催数確保も視野に入れている。後述)
過去、近鉄では鈴木啓示投手の1番が永久欠番に制定されていたが、合併時に消滅した。近鉄・オリックス両球団にとっても、永久欠番の扱いは合併時の課題だったが、鈴木本人が永久欠番を継続しない事を了承した。
オリックスでは欠番としてはいなかったものの、阪急時代の福本豊外野手の7番をつける選手はいなかったのでしばらく空き番になっていた。しかし「阪急と近鉄の歴史を消さないために、ぜひこの永久欠番の復活を」との声も出ている。
7年連続首位打者を獲得した偉業を讃えて欠番になったもの。ファンからは「51番をつけたいという選手は出てこないだろう」と言われ、球団も近い将来、正式に51番を1番と7番に代わる永久欠番に制定する事を示唆している。事実、2005年に監督として復帰した仰木彬にイチロー自身が「51番は監督につけてほしい」と勧めたが、仰木も「そんな番号は恐れ多くて絶対つけられへん。」と断っている。
阪急ブレーブス応援歌(歌:ロイヤル・ナイツ) - ブレーブスファンに最も愛された。西宮球場でこの歌を歌い、チームや本拠地への愛着を強くしたファンは多い。
Yes, you win!(歌:早見優) - 1983年のチームスローガン「フレッシュアンドチャレンジ」にちなんで作られた。
問題ないね(歌:タケカワユキヒデ) - 歌詞の中に野球の平和を守るというそれ行け僕らのファイターズの歌詞に似た文言があったのが特徴。
輝け潮流 - 穏やかなメロディでおよそ応援歌らしくなかったが、ラッキーセブンの際には応援団がトランペット演奏していた。
ビクトリーマーチ(歌:マリンサイド・ウォーカーズJR.) - 2000年以降、ラッキーセブンの際に場内に流された。
リトル☆ネプチューン(歌:マリン・ウォーカーズ)- 試合開始前と勝利試合のヒーローインタビュー後に流された。爽やかな曲調は神戸の風土に合っており、ファンに親しまれた。
BLUE SPIRITS−蒼きフィールドの戦士たち−(歌:OBSOUL) - 2005年3月発表。主に試合開始前に、ネッピーとリプシーのダンスソングとして使われていた。
BOP(歌:MEGA STOPPER) 2006年シーズンから使用されたオリックスバファローズ第5の公式応援歌 「暁の大空」から始まる曲は何処となく神戸を意識した曲になっているが、球団が使っている映像などでは道頓堀リバープレスや通天閣でのロケが行われている。
戦前の阪急軍の球団旗はキャッチャーミットとボールが描かれており、ミットに「OSAKA(大阪)」と「NIPPON(日本)」、ボールに「HANKYU(阪急)」と書かれていた。戦時中は英語禁止令が出たため阪急にも球団旗の変更命令が出されたが、阪急は「『OSAKA』『NIPPON』『HANKYU』はローマ字であって、英語ではない」と拒絶した。この球団旗は愛称がブレーブスになるまで使用された。
阪急時代は、関西地区には常に複数球団が存在したため、当時より人気の低迷に悩まされてきた。特に阪神タイガースとは本拠地が同じ西宮市であり、この事や阪神偏向の在阪マスコミの姿勢も追い討ちをかけるような状況であった。パ・リーグ加盟当初は南海、テレビ中継の開始以降は阪神の陰に隠れ、黄金時代であっても人気が伸び悩んだ。福本豊、山田久志、ブーマー・ウェルズといった球史に残る選手を輩出しても、人気獲得にはつながらなかった。しかしファンは阪急沿線の風土に象徴されるように上品ながらも内に熱いものを秘めており、チームに抱く愛着や誇りは関西他球団よりも数段上であった。
ブルーウェーブ時代は本拠地を神戸に移したことで、地元神戸に根ざした球団運営が期待された。1994年以降、イチローの活躍や、「がんばろうKOBE」に代表される阪神・淡路大震災を契機とした神戸市民の連帯感が追い風となり、一時は近接する阪神タイガースを凌駕するほどの注目度と人気を集めた。しかし球団名に「神戸」の文字を入れないなど、地域密着に消極的な姿勢が見られたことや、チーム強化やファンサービスよりも経費抑制を優先したため、チームの弱体化とともに徐々に人気は低下し、後の合併によるチーム消滅を招いた。
プロ野球再編問題 (2004年)による球団合併後は資本的には存続球団であっても、「神戸のブルーウェーブ」は消滅し「大阪のバファローズ」として残ったものの、合併以降は年々観客数が減り続けており、2007年シーズン終了時の観客動員は1試合平均4650人の減少・前年比18.2%減を記録してしまった。
この様な結果からブレーブス・ブルーウェーブ時代のファンはおろか、旧・大阪近鉄ファンも含め年々ファンが減少している傾向にある。
1981年から日本ハムファイターズのギョロタンに次いで日本で2番目となる球団マスコット「ブレービー」を採用。西宮球場での試合中、5回裏終了時にスクーターでフィールドを駆けていた。ブレービーは1990年まで使われた。また、1988年にはブレービーの子供として「勇太」が登場したが、同年オフにオリエント・リースに球団が譲渡されたのに伴い、僅か1シーズンのみで消滅した。
ブルーウェーブとなった1991年からは「ネッピー」(背番号111)が登場。ネッピーは海神ネプチューンの息子で、年齢は13歳という設定。また1999年からは「海賊の娘で、嵐で船が難破して海で遭難していたところをネッピーに助けられた」という設定で、「リプシー」(背番号222)が登場。いずれもデザインは松下進。
オリックス・バファローズを応援する際は、旧近鉄系の「大阪私設応援団」と旧オリックス系の「天体観測」の2つの私設応援団が先導して行う。ちなみに「天体観測」の名前の由来は「選手がスター(星)になって、遠い存在になっても応援し続ける」というもの。
合併以降、ラッパなどの鳴り物の多様化やタオルを使った応援など近鉄のやっていたような激しい応援スタイルに近いものとなっている。また大阪私設応援団が応援の指揮をとることが多いなど、外野スタンドでは旧近鉄ファンの勢力が強くなっている。個人応援歌も近鉄の応援団が加わったせいか、従来のオリックスとは違う、迫力のある激しい応援歌になりつつある。
ジェット風船は、旧近鉄のチームカラーである赤色のものと、旧時代からのオリックスのチームカラーである青色のものがツートンで使用される。
神戸移転後、プロ野球初の男性DJの採用、内野グラウンドの天然芝化、内野スタンドのネット撤去、フィールドシートの設置、2004年からは「Take Me Out to the Ball Game」のヤフーBBスタジアム版を演奏など、メジャーリーグのボールパークの雰囲気に近付けるファンサービスを実施したが、観客動員数向上への目立った効果は出なかった(なおフィールドシートの名称が当初「殿馬シート」であったとする俗説があるが、実際には「ドカベン」とのコラボレーションであった「ドカベンチケット」内のみでの名称であり、球場ではこの名称は使用されなかった)。
地元大阪と神戸で開く主催ゲーム(オープン戦・公式戦いずれも)では、地元の企業・団体が1シリーズ(2~3連戦単位)で協賛し、球場のスタンド(大阪は2階席のバックスクリーン、神戸は左中間・右中間のバックスクリーン寄り)に「(協賛スポンサー名)シリーズ」の看板を掲げている。
大阪・神戸のホームゲームではその試合でオリックスが勝利をした場合、1塁側ベンチからクラッカー(キャノン砲)が発射され、紙テープで祝福するのが恒例となっている。
神戸で試合をする場合、5回と6回のイニングスインターバルにアトラクションとして花火ナイターが開かれる。基本的には毎回300発だが、交流戦やシーズン最終戦(神戸での最終戦)など特別な日には「スーパー花火ナイター」としてそれよりも多めに花火を打ち上げる。
2005年度から吉本興業と業務提携を結んだ。3月27日の朝日放送「なにわ人情コメディ 横丁へよ〜こちょ!」(NGKで3月9日収録)に仰木監督や選手が劇中に出演し、チームをPRした。また3月28日のホームゲーム開幕戦・ロッテ戦(大阪ドーム)では、国歌斉唱をDonDokoDonの山口智充が担当した。この業務提携は2006年度も「よしもとプロデュース・Bsミックスモダン大作戦」として継続。3月31日の関西テレビ「NGKにバファローズがやってきた! ミックスモダン大作戦〜結束〜」(NGKで3月9日収録)には中村勝広監督・清原和博・中村紀洋らが出演してチームをPR。4月2日の大阪ドーム開幕戦(北海道日本ハムファイターズ戦)では友近が国歌斉唱、また4月4日の千葉ロッテマリーンズ戦では池乃めだかが国歌斉唱、レイザーラモンHGが始球式を行った。
2005年8月、魔法戦隊マジレンジャーとのコラボレーション企画が実施。これは仰木彬監督の采配が「仰木マジック」とマスコミに称されていたことと、マジレンジャーが様々な魔法を使って悪を退治していくという物語のつながりから実現したもので、マジレンジャーの映画化記念イベントを兼ねて企画された。
2006年7月からはJ1ガンバ大阪と連携。2006年には宮本恒靖(現ザルツブルク)と清原和博のポスターやグッズを合同で作製したり、オリックスの試合で宮本が始球式、ガンバの試合で吉井理人と北川博敏がキックオフセレモニーに出場した。なお、GS神戸を本拠としていた時代、隣接するユニバー競技場を本拠地としたヴィッセル神戸と提携し、ホームゲームが重複して開催される日は共通チケットを発売した。
ただ、京セラドームの観客動員がやや伸び悩んでいることや神戸のファンの確保などの観点から、協約上のダブルフランチャイズが終了する2008年以後も兵庫県内(主として神戸)で20試合程度の準本拠地開催を行えるよう、兵庫県をフランチャイズとする阪神タイガースと交渉を進めている。
1936年の公式戦スタート時から存続する伝統ある球団でありながら、OB監督にこだわらず積極的に外部の血を受け入れる傾向にある。このため、生え抜き監督は選手経験のない村上実を除くと、山下実・井野川利春・浜崎真二・西村正夫・梶本隆夫の5人しかいない。また井野川と浜崎は入団と監督就任が同時であることからも、OB監督にこだわっていないことがうかがえる。
兵庫県競馬組合の特別レースに協賛しており、2004年までは「ブルーウェーブ特別」として行っていたが、チームの合併と名称変更に伴い2005年から「バファローズ特別」にレース名を改めている。
1936年 現在のホーム用にあたる白地に飾り文字、ビジター用にあたるユニフォームは紺が使われていた。
1937年〜1940年 チームカラーがオレンジに変更される。また紺地に白のペンシルストライプが登場。
1945年〜1949年 「H」マークが復活。ビジター用に当たるグレーは「HANKYU」のロゴ。当時はペンキで描いていた。
1947年〜1952年 ロゴの「H」マークが丸くなり、ホーム用に阪急独特のナール型(丸文字)背番号が登場。ビジター用は同じ書体で丸味のない角型。茶の「Braves」は1950年まで使用。
1955年〜1959年 アトランタ・ブレーブスを意識したホーム用ユニフォームが登場。同時にチームカラーが赤(阪急電車のカラー)に変更される。1957年から帽子のマークを変更。
1960年〜1961年 「Braves」の書体が変更され1980年代初頭まで使われる。前立てラインが登場。また帽子のツバを赤に変更。
1969年より ビジター用の「HANKYU」のロゴが太くなって、ホーム用の左袖に「HANKYU」の文字が追加される。
1970年より 袖に両サイドを黒で挟んだオレンジラインが入り、胸ロゴ、背番号、胸番号にオレンジの縁取りが入り、帽子の「H」マークがオレンジになる。
ちなみに縦縞は、当時の戸倉勝城監督と西本幸雄コーチがかつて所属していた毎日オリオンズにあやかって導入された。この時にオールドファンからの抵抗も予想されたため、1962年にペンシルストライプのビジターユニフォームが3度目の登場を果たしたが、成績不振によりわずか1年で廃止された。
1972年〜1983年 衣類の技術的進化によりカラフルな色が出せるようになり、丸首ニット製ベルトレスユニフォームを採用。プルオーバーとなる。ロゴ、胸文字、背番号が赤(縁取り:黒)、アンダーシャツ、ストッキング、が黒、首、袖が赤、黒、白のライン、帽子は黒地にHマーク、ツバが赤。マイナーチェンジを重ねつつ、1983年まで基本スタイルが踏襲され、黒、赤、白=常勝阪急のイメージが定着する。
1975年〜1979年 袖とパンツのラインが太くなり、首部分に伸縮ゴムが入る。1975年〜1977年の3年連続日本一(1975年〜1978年は4年連続リーグ優勝)になったゲンのいいユニフォーム。ビジター用はグレーからスカイブルー、スパイクが黒から赤地に白ラインとなる。
12球団で唯一、長音母音にマクロン(長音記号)がついていた。一般でいう訓令式ローマ字である(その他のチームは全てヘボン式ローマ字)。例えば、加藤英司の場合、「H.KATOH」が一般的だが、阪急では「H.KATO(Oの上にマクロン)」と表記。しかし、福本豊の場合、訓令式だと「HUKUMOTO」であって「FUKUMOTO」と表記しない。実際に福本のユニフォームは「FUKUMOTO」になっていて、「フ」を「FU」と表記するのはヘボン式であるため混同して採用されたらしい。これは1988年まで続いた。
1980年〜1983年 アンダーシャツ・ストッキングを赤に変更。同時に、ベルト式になり、ボタン型となる(但し、第3ボタンまでがボタン式であとは飾りボタンのプルオーバー型)。スパイクが白地に赤ラインになる。
1984年〜1988年 帽子のマークが「H」から「B」に変わり、前面が白になる。同時にホーム用がモデルチェンジ。ボタン無しのVネックプルオーバータイプとなり、「Braves」のロゴが筆記体から変わる。また、1947年以来続いていたナール(丸文字)型の背番号の書体が変更となり、角文字になり、胸番号が丸ゴシック体になる。
1985年〜1988年 ビジター用もモデルチェンジする。デザイン書体などはホーム用同様で、胸ロゴが「HANKYU」から「Hankyu」へと小文字のゴシック体にかわる。左袖にはブレービーのワッペンがつく。
1989年〜1990年 球団がオリックスに売却され、球団名がオリックス・ブレーブスに改称。チームカラーをオリックス・ブルー(青)とブレーブス・ゴールデン・イエロー(黄色)に変更。阪急時代のプルオーバーのVネックが継続される。ビジター用の上着は青になる。背番号、胸番号の書体が高校野球型の書体となる。ビジター用のワッペンは1989年夏から変更。
1991年〜2000年 本拠地の神戸移転とチーム名変更を機にロゴを「BlueWave」に変更。基本デザインは従来どおりの紺と黄色(チーム名が変更されたため、この黄色も「ブルーウェーブ・ゴールデン・イエロー」と変更された)のユニフォーム。この間、右袖だけのワッペンだけのマイナーチェンジが繰り返される。
右袖は1994年までは「KOBE」、1995年から1998年までは「がんばろうKOBE」、1999年以降は「KOBE」の上に選手の特徴を表したネッピーのイラスト(近鉄と合併する2004年まで)。
ネッピーのデザインは監督・コーチ・投手・捕手・外国人・スライディング・キャッチング・ランニング・左打者の9種類。基本的にホーム・ビジターともに同じイラストだが、イチローと田口壮には異なるイラストがついていた。また投手転向前の萩原淳のユニフォームにはアメリカ人バージョンのネッピーがついていた。
2001年〜2004年 プルオーバーを廃止しボタン式に変更。帽子やアンダーシャツ、ソックスの色がより濃い紺色になり、さらに前ラインが入り、選手名、背番号書体が丸ゴシックになり、斜体がかかる。
2005年 近鉄との合併によりオリックス・バファローズとなる。ユニフォームは「BlueWave」を「Buffaloes」に変更しただけでそれ以外は従来どおり。新しいユニフォームを見た旧近鉄選手やファンなどからの批判もあり、急遽大阪ドーム用のユニフォームを作成することに。
大阪ドーム用ユニフォームは帽子と胸の左側部分に、従来とは異なるデザインの紺に黄色の縁取りがある「Bs」マークを使用。ロゴは水牛の角をモチーフにデザイン。前立てにはブルーウェーブ時代のユニフォームと同様に紺のラインが入っている。また紺のラグランスリーブと袖口の赤いラインに近鉄のイメージが残るように配慮されている。ラグランスリーブは1974年から1996年までの近鉄のユニフォームに使用。また赤は近鉄のチームカラーだった。
戦前の1939年5月6日、甲子園で行われた南海とのダブルヘッダー第2試合では、南海の宮口美吉・平野正太郎両投手にノーヒットに抑えられながら2-1で勝った。4回裏に1点を先制されたものの6回・7回に犠打・エラー・四球をからめて1点ずつを取り逆転勝ちしたもの。ノーヒットに抑えられながら得点をあげた試合(無安打有得点試合、「ノーヒットありラン」とも言う)は他に1939年の金鯱(8月3日、vsイーグルス・西宮)・1959年の巨人(5月21日、vs阪神・甲子園)・1964年の南海(5月13日、vs近鉄・大阪)があるが、勝ったのはこの時の阪急だけである。
6回表:西村四球、山田投手前バントを投手宮口がエラーして1・2塁、上田投手前バントで西村3塁・山田2塁へ、山下死球で満塁、黒田左翼犠牲フライで西村生還するも、山田3塁へ走り左翼手平井猪三郎−捕手中田道信−三塁手鶴岡一人の送球でアウト
7回表:岸本四球(ここで南海の投手が平野に交代)、田中3塁前バントを三塁手鶴岡が1塁に悪送球して岸本生還・田中3塁へ、日比野投手ゴロ、重松左翼ファウルフライ、西村左翼フライ
1940年4月6日に西宮で開かれた南海との「近畿ダービー」で、阪急は32-2の30点差という大量得点で勝利を飾った。しかし2003年、これと同じ組み合わせ(オリックスvsダイエーとして)で2度も大量失点試合をしてしまった。まず7月26日に福岡ドームで7-26、続いて8月1日にヤフーBBスタジアムで1-29と大敗を喫した。後者は2リーグ以後の最多失点試合、並びに最多失点差敗戦試合記録となってしまった。ちなみにこの年はダイエー相手に6月17日に盛岡で11-21、9月14日にヤフーBBスタジアムで11-20で敗れている。同一カードでの20失点4試合はワースト記録。
1953年8月30日(西宮球場)での試合は当時パ・リーグの試合規定で23:45までの時限をオーバーしながら延長18回・23:54まで試合を続け、パ・リーグの最も遅い試合終了時刻を記録している。
偶然にもブレーブス(当時)とホークスの球団身売りも同じ1988年であった。しかも、売却先は同じ大阪府を発祥の地とする企業だった。
まず9月に当時の南海ホークスを南海電気鉄道からダイエー(当時登記上の本社は神戸市にあった)に身売り(正式な身売り日は11月1日)。本拠地も福岡県に移動したが、そのわずか1ヵ月後の10月19日に阪急ブレーブスもオリックス(当時はオリエントリース。こちらは登記上の本社は東京都)に身売りすることを決めた。
1999年6月11日からはダイエーの本拠・福岡ドームでダイエーとの3連戦をオリックスの主催ゲームとして開催した。これは神戸が屋外球場であるため梅雨時の試合消化が難しくなることを懸念してダイエー側の許諾を得て福岡ドームで主催ゲームを開催することになった。しかしベンチのスペース上、主催のオリックスは3塁側、ビジターのダイエーは1塁側と通常のダイエー主催ゲームと同じ配置だった。13日には試合途中で控えの内野手を使い切ってしまったため、外野手のイチローが3塁を守るというハプニングもあった。イチローが公式戦で外野以外のポジションを守ったのはこの時だけである。
オリックスのホームゲームであるにもかかわらず観客の大半がダイエーを応援し、ダイエーが勝った試合では試合終了後に花火が上がりヒーローインタビューが行われるなど、ダイエーのホームゲームと変わらない球場の雰囲気であった。オリックスファンからは、ダイエーの人気が高く多数の観客動員が見込める福岡で主催することにより、地元神戸のファンへのサービスよりも観客収入による営業面を優先させたとの批判も出た。
2002年5月14、15日にダイエーの主催ゲームとして台湾・台北市立天母棒球場で2連戦が開催された。日本のプロ野球が海外で試合を行うのは戦後3回目(1961年5月20日の西鉄vs東映、1962年6月13〜14日の阪急vs大毎が当時アメリカ合衆国の占領下にあった沖縄で行われた)であるが、台湾での公式戦は戦後初である。尚、試合は2試合ともオリックスが敗戦した。
2004年、オリックスは最下位であったが、特にダイエーには4勝23敗と大敗。これはこのカードの最多敗戦記録であり、プロ野球全体でも同一カード最多敗戦タイ記録である。プロ野球では1967年にサンケイが巨人に3勝23敗と負け越して以来37年ぶり4度目で、パ・リーグでも1961年に近鉄が南海に5勝23敗とされて以来43年ぶり2度目である。
2004年のオールスター戦以降はダイエー戦10戦全敗。これについて当時監督だった伊原春樹は、「後半戦はダイエー戦の前にいつも西武戦が組まれていて、ダイエー戦ではまともな投手がいなかった」と述べている。
1950年11月5日、西宮球場で開かれた、毎日オリオンズ戦。当時阪急の監督だった浜崎真二は毎日の湯浅禎夫総監督に「(毎日の)リーグ優勝が決まった後なので、わしが投げるからあなたもどうだろう」と持ちかけて、湯浅も「よし」と快諾。両監督が先発投手になった。
この当時の年齢は浜崎が48歳10ヶ月、湯浅が48歳1ヶ月で2人合せて96歳11ヶ月という最年長先発投手となった。浜崎は3回2/3(4回の2アウトまで登板)したが、21人の打者に対して8本の被安打、5失点(自責点も5点)で敗戦投手。一方の湯浅は4回を投げて勝ち投手にはなれなかったが19人に対して2本の被安打、2失点(自責点も2点)と好投した。
1968年のドラフト会議は史上空前の大豊作で、現在でも「巨人と近鉄以外は大成功だった」と語り継がれるほどである。その中でも大成功を収めたのが阪急で、この年だけで3人の名球会選手を輩出している。
実はこの年、阪急の指名順は予備抽選で11位(最後から2番目)と決まっており、その点で運に見放されているかのように思われていた。事実この年最大の注目選手で巨人(指名順8位)入りを熱望していた田淵幸一(法政大学)は指名順3位の阪神に指名され、巨人から「田淵を指名できなかったら君を1位で指名する」と約束されていた星野仙一(明治大学)はその約束を反故にされ、指名順10位の中日に指名されていた。
「さすがにもういい選手はいないだろう」という雰囲気が漂う中、阪急が1位で指名したのは富士鉄釜石の下手投げ投手・山田久志。山田は翌年8月のプロ入り直後は2年越しの7連敗という苦しいスタートとなったが、背番号を25から17に変更した1971年から頭角を現し、長嶋茂雄や王貞治さえもなしえなかった3年連続MVPを獲得、1988年の引退までに284勝を記録した。
2位指名は松下電器の一塁手・加藤秀司。加藤は黄金時代の阪急をクリーンナップの一員として支えた。選手生活の後半はトレードが続き苦労したが、南海時代の1987年(加藤にとっての現役最後の年)に山田からの本塁打で名球会入りを達成した(最終的に2055安打)。
7位で指名した加藤の同僚・福本豊は、ただ脚が速いだけの選手だったが、ツチノコ型バットの導入によって打撃も向上し1番打者として定着。1984年には当時ルー・ブロックが持っていた通算盗塁記録を更新、「世界の盗塁王」と呼ばれるまでになった。また福本が1番に定着したことで、「福本が四球で出てすかさず盗塁、大熊(忠義)がバントで送って、加藤の犠牲フライで福本が生還」という、いわゆる「ノーヒットで1点を先制する野球」が対戦相手にとって脅威となった。福本は1988年の引退までに2543安打、1065盗塁の記録を残した。
またこの年は、12位でクラレ岡山の外野手・門田博光を指名している。門田は入団を拒否して翌年のドラフト2位で南海に入団したが、1992年の引退までに2566安打を記録した。その門田はオリックスとなった後、1989〜1990年の2年間在籍した。
1969年のペナントレースがスタートすると、当時の監督・西本幸雄はロッテの1位指名で入団した有藤通世を見て、「こんなええ選手もおったんか!」と驚いたという。
阪急時代の1983年4月、西宮球場で開かれた試合のアトラクションで福本豊、バンプ・ウィルスの2選手と競走馬の脚比べと題された企画が行われた。しかし、競走馬は野球場の人工芝に慣れなかったのか全く脚が伸びず最下位となった(1着はバンプ)。また、簑田浩二選手も出場予定だったが、出場を取りやめた。
2004年、現在のフランチャイズが確立してから関西に本拠地を置く球団としては初めて東京都(東京ドーム)で主催公式戦・対北海道日本ハムファイターズを開催した。これは前述の福岡ドームでの件とは違い、これまで同地を本拠としていた日本ハムが札幌ドームに移転したために伴うものと、オリックスが会社設立40周年を迎えたことを記念して、現在のオリックスの本社がある東京で主催ゲームを開催することにしたもので、オリックス・バファローズとなった翌2005年も東京での主催遠征(組み合わせは同じく日本ハム戦)を行った。
2006年は東京ドームでの主催ゲームはなかったが、2007年は対西武ライオンズ戦2試合が東京ドームで行われる。西武が東京ドームでパリーグのチームと試合をするのは日本ハムが北海道に移転する前の2003年以来。
オリックスは阪急から球団を引き継いだ1989年から11年間Bクラスに落ちたことがなかったが、2000年以降は一転してAクラスに入れない弱小チームになった。2002年から3年間はそれまで阪急時代の1963年の1回だけだった最下位に低迷し、特に2003年はワースト記録も多かった。
2003年9月19日の千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)では、7回表にレフトスタンドに「宮内オーナー 日本経済再建の前にBW再建し、強いチームを返してください」という横断幕が掲げられた(「日本経済再建」とあるのは宮内が政府の規制改革・民間開放推進会議議長など、政府の経済再建に関わる会議の委員を務めていたため)。90年代には優勝を争えるほどのチームだっただけに、主力選手を次々と放出しながらもその補強を怠り、結果として低迷を招いたチームに対するオリックスファンの抗議だった。9月23日の日本ハムファイターズ戦でも横断幕が掲げられた。
1944年5月16日、西宮での産業戦の7・8回に記録。その時の打撃は以下のとおり(太字は押し出し四球)。
7回表(産業の投手は森井茂):山田伝四球、上田藤夫投手ゴロ失策、野口明3塁内野安打、高橋敏左翼越え2塁打で山田・上田生還、阪田清春中堅前安打で野口生還、打者大平茂の時に阪田2盗、大平3塁ゴロで高橋本塁封殺、打者伊藤健一の時に大平2盗、伊藤1塁ゴロ野選、坂井豊司四球で阪田生還(産業の投手が井上嘉弘に交代)、笠松実四球で大平生還、山田四球で伊藤生還(産業の投手が松尾幸造に交代)、上田四球で坂井生還、野口四球で笠松生還、高橋三振、阪田2塁ゴロで野口2塁封殺
8回表:大平四球、伊藤四球、坂井1塁内野安打、笠松四球で大平生還(産業の投手が加藤正二に交代)、山田2塁ゴロ失策で伊藤生還、上田四球で坂井生還、野口三振、三木久一四球で笠松生還、阪田中堅前安打で山田生還、大平投手フライ、伊藤左翼前安打で上田・三木生還、坂井右翼フライ
1963年8月14日に開かれた近鉄戦で阪急は1回裏、ロベルト・バルボン、岡嶋博治、戸口天従、中田昌宏、早瀬万禧の5者が連続ヒットを放ちながらも、バルボンは盗塁失敗、戸口のヒットで岡嶋が3塁進塁を図るもアウト。更に早瀬のヒットの時に戸口はホームでタッチアウトとなり無得点に終わる。
更に1971年7月4日の同じカードで今度は延長10回表にバントと連続敬遠四球で1アウト満塁のチャンスに更に3人の打者が連続四球。さらには死球と犠牲フライでヒットなしの5得点という記録を持っている。
ボールのかごを持った猿の「ゴウ(背番号555)」がやってきて、審判にボールを手渡すという、広島、千葉ロッテのベースボール・ドッグに対抗したものである。でしかしながら、登場した過去3戦中2戦(対北海道日本ハム戦、対東北楽天戦)はいずれも逆転負けという結果になり(但し、9月20日に千葉マリンで行われた対千葉ロッテ戦では1-0で勝利している)、縁起担ぎが強いプロ野球で来年から採用されるかは微妙である。
2000年〜2002年のドラフトで契約金ゼロ(+出来高制)の選手を入団させ話題になる。しかし一時の話題にはなったものの、故障などもありほとんど戦力になることはなく、中島俊哉(現:東北楽天ゴールデンイーグルス所属)ただ一人を残して他全員が2005年までにプロ野球界を去った。のちに球団ゼネラルマネージャーに就任した中村勝広(現同球団SA)はこのことを「プロでやれる見込みのない選手に甘い夢を見させ、本人の人生を狂わせるようなことをしてはならない」とはっきり批判しており、以後は契約金ゼロで入団した選手はいない。
契約金ゼロで入団した選手は高見沢考史・北川智規・高橋浩司・庄司大介(以上2000年入団)、板倉康弘・深谷亮司・藤本博史・橋本泰由(以上2001年入団)、塩屋大輔・中島俊哉(以上2002年入団)の10名。
関西地区:NHK、在阪民放準キー局(毎日放送、朝日放送、関西テレビ、読売テレビ、テレビ大阪)、サンテレビ
2005年まではフジテレビ系列、2006年まではテレビ朝日系列でも全国中継していた。ほか、1989年〜1990年代末期まではTBSテレビ系列でも放送されていた他、対巨人のオープン戦に限り日本テレビ系列で放送されたが、いずれも現在は放送していない。
ラジオ大阪 「ラジオ大阪ドラマティックナイター」(2005年は金曜日にも「オリックス・バファローズ ナイトスタジアム」として放送されていた)
ほかABCラジオ「ABCフレッシュアップベースボール」MBSラジオ「MBSタイガースナイター」でも予備カードで放送。
^ 佐藤光房『もうひとつのプロ野球 山本栄一郎の数奇な生涯』 朝日新聞社、1986年、146-149頁
81大石大二郎(ヘッド兼内野守備走塁)|75ジョン・ディーバス(打撃チーフ)|90水口栄二(打撃)|74松山秀明(外野守備走塁)|85別府修作(ブルペン)|78米村理(トレーニング)|80赤川貴弘(コンディショニング)
96住友平(監督)|77弓岡敬二郎(チーフ兼守備走塁)|71古屋英夫(打撃)|82三輪隆(バッテリー)|76大島公一(内野守備走塁)|72吉原孝介(ブルペン兼育成)|88安田昌玄(トレーニング)|84本屋敷俊介(コンディショニング)|73小川博文(育成兼野手補佐)
6デイビー|11川越英隆|14岸田護|15加藤大輔|16平野佳寿|17香月良太|18山口和男|19金子千尋|20山本省吾|22ユウキ|26加藤康介|28小松聖|33高木康成|34本柳和也|35大久保勝信|39鴨志田貴司|42清水章夫|43菊地原毅|45光原逸裕|47延江大輔|48阿部健太|49中山慎也|59梅村学人|65近藤一樹|68仁藤拓馬|99吉川勝成|未定宮本大輔
0森山周|4阿部真宏|5清原和博|9平野恵一|10大引啓次|12木元邦之|23北川博敏|24後藤光尊|30ラロッカ|31塩崎真|54一輝|56柴田亮輔|57筧裕次郎|58長田昌浩|60牧田勝吾|64田中彰
3村松有人|8ローズ|36下山真二|38平下晃司|46迎祐一郎|50大西宏明|52坂口智隆|53相川良太|55岡田貴弘|63吉良俊則|66由田慎太郎
読売ジャイアンツ | 東京ヤクルトスワローズ | 横浜ベイスターズ | 中日ドラゴンズ | 阪神タイガース | 広島東洋カープ
北海道日本ハムファイターズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 埼玉西武ライオンズ | 千葉ロッテマリーンズ | オリックス・バファローズ | 福岡ソフトバンクホークス
北海道日本ハムファイターズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | グッドウィル | 千葉ロッテマリーンズ | 読売ジャイアンツ | 東京ヤクルトスワローズ | 湘南シーレックス
日本シリーズ | オールスターゲーム | 日本野球機構・日本プロフェッショナル野球組織 | 日本プロ野球選手会 | 名球会 | 独立リーグ

[ 34] オリックス・バファローズ - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA



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