ローズとは?

ローズ・ピアノの生みの親、ハロルド・ローズ(1910〜2000)が、自己のローズ・ピアノ・コーポレーションを設立したのが1946年のこと。この年、教育や軍隊での使用を目的とするピアノの代用品としてPre-Pianoを発表。56年にはギター・メーカーのフェンダーが経営に参入。そして59年、後にドアーズのレイ・マンザレクが使用したことで知られるピアノ・ベースを発売する。しかしこのころまでは、音楽シーンの中で彼の楽器が脚光を浴びることはほとんどなかったといえよう。
そんな状況に変化が訪れるのが65年。フェンダーがCBSの傘下に入り、ローズ・ブランドの生産をCBSが引き継いだこの年、ハロルドは73鍵仕様のフェンダー/ローズ・スーツケース・ピアノを発表(ちなみにCBSは74年に“フェンダー・ローズ”の呼称を単に“ローズ”とすることを決定。ああ、ややこしい!)。以後、ローズ・ピアノは主にフュージョン〜ポップ・シーンで多くのキーボード・プレイヤーたちの支持を集めることになる。
ローズ・ピアノに採用されている発音のメカニズムはいたってシンプル。鍵盤が押されると、音叉に似た働きをする鉄製のトーン・バーをハンマーがたたき、その振動をピックアップが拾って電気信号に変換する……というものだ。
また、ローズ・ピアノには鍵盤部分の下にアンプ(正確にはアンプとステレオ・スピーカー)が置かれたスーツケース・ピアノと、アンプなしのステージ・ピアノの2タイプがある。運搬に際しては、いずれも鍵盤部分にカバーをセットして“スーツケース”状にまとめることができ、スーツケース・ピアノの鍵盤部分とアンプは分割することが可能だ。
スーツケース・ピアノ(写真)はボリューム、EQ(トレブル/ベース)、オート・パン(オンオフ/スピード/デプス)の各コントロールを装備。ステージ・ピアノはボリュームとベース・ブーストのつまみを備えている。また、上記の各モデルには、70年代中期までに以下のような改変が施されている。
71年:ハンマー先端部の覆いをフェルトからゴムに変更。ちなみにフェルトのほうが、よりなめらかな音が出る。
鍵盤部分のトップを、丸屋根からフラット・タイプに変更。これによりローズの上にシンセなどを載せることが可能になる。
ステージ・ピアノ・マークII/54key(80〜85年)、シンセとローズをミックスしたステージ・ピアノ・マークIII“EK-10”/73key(80〜81年)というふたつのカルト機種(どちらもジョー・ザビヌルが使っていた!)を経て、84年にリリースされたニュー・モデル。マークIIで採用されていたプラスチック鍵盤を木製に戻したにもかかわらず、45.4kgと軽量。また、チック・コリアがエレクトリック・バンドで使用していた特製マークVにはなんとMIDIアウトが装備されていた。
レイ・マンザレクやダニー・ハサウェイが使っていたことで有名な鍵盤ベース。初期バージョンには、シルバー/クリーム/オレンジのカラー・バリエーションが存在する。
エンジニアのチャック・モンテが、ローズ・ピアノなどのカスタマイズを行うダイノマイ・ピアノ・カンパニーをスタートさせたのが74年。その後、彼の手腕はトム・コスター、ラッセル・フェランテ、ジョー・ザビヌル、ジョージ・デューク、ラリー・ダンなど数多くのプレイヤーたちの支持を獲得。80年代初期には、多くのレコーディングでこの“ダイノマイ・ローズ”が活躍することになる。
ダイノマイ・ピアノ社によるカスタマイズは非常に広範囲に及ぶが、代表的なものとしては、アクションおよびトーンの微調整、特許を取得したステレオ・イコライザー、3相コーラス、オーバードライブ回路の内蔵などが挙げられるだろう。
87〜97年の10年間、ローズの商標は日本の楽器メーカー、ローランドが所有していた。だが、この時期にローズ・ブランドのもとで発売されたMK-80などのエレピは、俗に言う“デジタル・ピアノ”である。ローズの音色こそ用意されているが、ハロルドが世に送り出した数々の製品とはまったく別種の楽器と考えたほうがよいだろう。

[ 76] ep - rhodes“エレピの定番”フェンダー・ローズについて
[引用サイト]  http://www1.odn.ne.jp/nasica/rhodes.html

1968年8月、アメリカ生まれ。外野手。左投左打。背番号20(近鉄→巨人)。ウエスタンヒル高校から大リーグのアストロズに入団。その後カブスに移籍し、1994年には大リーグ新記録となる開幕戦3連発を放った。レッドソックスを経て、1996年に日本の近鉄と契約して入団。
1年目にパリーグタイ記録となるシーズンサヨナラ本塁打3本を放つなど日本野球に適応し、打率.293、27本塁打、97打点の好成績を残し、以後コンスタントに好成績を収める。
そして、1999年には打率.301、40本塁打、101打点の大活躍で、チームは最下位になったものの本塁打王・打点王の2冠に輝いた。
2001年には王貞治以来37年ぶりに日本タイ記録となるシーズン55本塁打を記録し、ローズの本塁打量産によって勢いづいた近鉄は12年ぶりのリーグ優勝を果たした。続く日本シリーズでも2本塁打を放ったものの、ヤクルトに1勝4敗で敗れて日本一を逃した。
2001年のシーズン成績は、打率.327、55本塁打、131打点という抜群の成績で、文句なしのシーズンMVPに選ばれている。同僚の中村と合わせた本塁打数は101本であり、これは同一チーム内のコンビとしては史上最多である。
2002年も46本塁打、117打点を叩き出し、打点王を獲得しているが、カブレラが55本塁打を放ったため、本塁打王は逃した。
2003年に51本塁打で3度目の本塁打王を獲得すると、2004年からは巨人に移籍して超重量打線の一角に加わり、45本塁打で4度目の本塁打王となった。
バットをバックネット方向へ水平に寝かせた独特の構えから繰り出されるシャープなスイングでセンターを中心に広角に打てるホームランバッターである。
大リーグのカブスに所属していたローズは、1994年4月4日、メッツとの開幕試合でスタメン出場すると、初回に好投手グッデンから先頭打者本塁打を放った。
第2打席の3回、第3打席の5回にも本塁打を放ったローズは、大リーグ史上初の開幕戦3連発を達成。試合は、8−12でメッツに敗れたものの、ローズの名前は全米に知れ渡った。
結局、大リーグでは6年間で225試合に出場。590打数132安打で打率.224、13本塁打。1996年に新天地を求めて日本の近鉄と契約を結ぶことになる。
ローズのタフさは、来日後もはっきり見てとれる。1年目の1996年から130試合にフル出場。2年目も135試合制となったがにフル出場。
2000年にも135試合すべてに出場し、シーズン本塁打55号を達成した2001年にも140試合フル出場を果たしている。
ちなみに日本好きになったローズは、サインやバイクにも「狼主(ろうず)」と書いており、そのバイクに乗って球場に向かう途中、警察官に暴走族と間違われて職務質問されたこともあるという。
1999年、来日4年目のローズは、来日以来最高の調子を維持し、シーズン40本塁打、101打点の活躍で本塁打王・打点王の2冠王に輝いた。
しかし、近鉄は低迷を続け、54勝77敗4分で23もの借金を背負って4年ぶりの最下位に転落した。チームが最下位で2冠王を獲ったのは、ローズと翌年の中村紀洋(近鉄)だけである。
それなのに、2001年には防御率4.98ながらローズの55本塁打などで常識破りのリーグ優勝を果たしてしまうのだ。
4月から西武のカブレラがパワーを見せつけて飛距離抜群の本塁打を量産すれば、6月以降はローズが爆発力を発揮して本塁打王争いを繰り広げた。
そして、9月12日、大阪ドームで行われた近鉄×ロッテ戦の1回裏、ローズは、ロッテの先発吉田からバックスクリーンに叩き込む54号本塁打を放ち、1985年のバース(阪神)と並んで歴代2位となった。
9月24日、大阪ドームで行われた近鉄×西武戦で5回裏、ローズは、西武の怪物投手松坂大輔から右翼席中段へ豪快に55号本塁打を運んだ。これは、1964年の王貞治(巨人)と並ぶ歴代1位の記録で、王貞治が140試合目で達成したのに対して、ローズは135試合目で達成。同時にこの試合に勝った近鉄は、優勝へのマジックを1としている。
2001年9月30日に福岡ドームで行われたダイエー×近鉄戦は、近鉄の優勝が既に決まっているにも関わらず、満員の48000人の観客が詰め掛けた。ローズの56本塁打達成の瞬間を見たいがためである。
ダイエー側の姿勢に憤慨したローズは、第3打席・第4打席では、無理やりボール球を振りにいって凡退し、憮然とした表情を浮かべた。
この日、田之上がローズに投げた18球のうち、ストライクはわずか2球。ファンからは容赦ないブーイングが浴びせられた。
試合後、ダイエーの若菜嘉晴バッテリーコーチは、「ONはプロ野球の象徴で、うちの監督は記録で残る人。それを守ってやらないと。おれたちにできるのは、それしかないんだ。監督は勝負しろというが、監督と同じユニホームを着ているんだ。そこで反発しても、あの人の下で働いているものとして許されるだろう」(サンスポ2001/10/2)と発言し、王貞治監督不在のミーティングで田之上に四球攻撃を指示したことを認めた。
それを知った川島広守コミッショナーは、激怒。「個人記録にかかわり、ファンから不評を買う試合が散見することについて」という声明文を発表した。このような声明文が出されるのは極めて異例のことだという。
その中で「新記録の達成チャンスを故意に奪うことは、フェアプレーを至上の価値とする野球の本質から外れており、ファンに支持されるとは到底思えない」(毎日新聞2001/10/2)とダイエーのとった四球攻撃を痛烈に批判。
また、小池唯夫パ・リーグ会長も「プロ野球である以上、お互いが力を出し合って決着させるべきだ。ファンからいえば、真剣勝負をやってもらいたかったと思う。ファンの気持ちを大切にしないといけない」(サンスポ2001/10/2)と発言。
このニュースは、アメリカでも紹介され、ニューヨーク・タイムズは、日本の偏狭さと島国根性を批判している。
結果的に1985年に55号を目指すバースに対して巨人が行った四球攻撃事件を再び繰り返すこととなった。記録とは破ることによって、次なる選手達がさらに高みを目指すようになり、競技自体を進化させていくものである。
「助っ人」と呼ばれる外国人選手に、日本で何十年も前に作られた記録を破らせまい、とするアンフェアな行為は、今後も繰り返されるならば、日本野球の発展に大きく水を差すことは間違いないだろう。
2001年はローズが55本塁打の日本タイ記録を樹立したが、ローズの後ろに控える四番打者の中村紀洋も46本塁打を記録した。
この記録は、1985年の阪神がバース54本・掛布40本で達成した94本塁打を大きく7本も上回って日本新記録となった。
この年のチーム本塁打数211は、1980年に近鉄が記録した239本に及ばないものの、防御率4.98の投手陣をカバーして余りある強力打線の象徴だった。

[ 77] タフィ・ローズ
[引用サイト]  http://www.webmie.or.jp/~m-yama/player/sportsrhose.htm



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