前田とは?

前田 日明(まえだ あきら、1959年1月24日 - )は、総合格闘技黎明期に活躍した元プロレスラー、元格闘家。現HERO'Sスーパーバイザー。
プロレス界にキックボクシングやサンボの要素を持ち込み、格闘技を身近なものにした。また、プロモーターとして格闘技の大規模興行を成功させ、そのノウハウはK-1に受け継がれた。
少年時代、ウルトラマンがゼットンに倒されたのを見て、打倒ゼットンを志し少林寺拳法を習い始める。北陽高校時代は少林寺拳法、空手、バイクに熱中した。空手は田中正悟(後に田中がリングスの金を持ち逃げして絶縁)から学んだ。
1977年に佐山聡にスカウトされ新日本プロレスに入団。同年8月25日、長岡市厚生会館の山本小鉄戦でデビュー。藤原喜明によると、前田はアントニオ猪木に憧れて入団したわけではなく「肉が沢山食べられるから」「モハメド・アリに会える」が入団の理由であった。
その後、将来のエース候補として渡英しクイックキック・リー(「サミー・リー」(佐山聡)の弟というギミック)として活躍。IWGPトーナメント欧州代表として帰国。日本再デビュー戦の相手はポール・オンドーフ。当時の藤波辰巳とのタッグ名は「フレッシュコンビ」。
1984年に第1次(旧)UWF旗揚げに参加。佐山聡の影響によりキックと関節技を中心とした格闘技色の濃いプロレススタイル(後にUWFスタイルと呼ばれる)が展開されるが、“競技志向の強い”佐山と“興行志向の強い”前田が対立し、同団体は解散。
1985年12月6日、藤原喜明、木戸修、高田伸彦(現:高田延彦)、山崎一夫らと共に業務提携という形で新日本に復帰。前田はリング上で「1年半UWFとしてやってきたことが何であるか確かめに来ました」とマイク・パフォーマンスを行った。
1986年4月29日、三重県津市体育館においてUWFスタイルに危機感を覚えた新日本サイドがマッチメイクしたアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦。シュートマッチだと言われているが、最後はアンドレが試合を放棄してしまい、26分35秒ノーコンテストに終わる。
1986年10月9日、両国国技館で行われた「INOKI 闘魂 LIVE」で、ドン・中矢・ニールセンとの「異種格闘技戦」を制し、「格闘王」と呼ばれ、プロレス界以外からも注目を浴びるようになった。当時、ニールセンとの一戦はファンから真剣勝負と認識されていたが、後にニールセンがfixed fight(結果の決まった試合)であったことをプロレス雑誌『kamipro』で証言した。
1987年11月19日、後楽園ホールにおけるUWF軍対維新軍の6人タッグマッチで、前田が長州力を背後からキックし、長州に右前頭洞底骨折、全治1ヶ月の重傷を負わせた。このことを理由に、新日本プロレスは前田に無期限出場停止の処分を下す。その後、出場停止解除の条件として、メキシコ遠征することを指示されたが、それを拒否した事により1988年2月1日に新日本プロレスから解雇される。後に前田は、プロレス雑誌「Gスピリッツ」におけるインタビューで、天龍・輪島戦の衝撃に対抗するため顔面蹴りを試みたところ、長州が顔を反らしてしまったためにアクシデントに至ってしまったと証言している。
当時、創刊されたばかりの格闘技通信は「プロレスという言葉が嫌いな人この指とまれ」と、前田を表紙に抜擢した。しかしながら、第2次UWFも格闘技ではなく格闘技風のプロレスであった。
その後、前田と神新二社長との間で団体の方向性、金銭的な面で深刻な確執が発生。1990年10月、前田は船木誠勝戦直後に、フロントを非難。これを受けたフロントは前田を出場停止処分とする。この一連の前田とフロントとの確執は前田と所属選手間にも波及。翌1991年初頭に、前田は自宅マンションでの選手集会で第2次UWFの解散を宣言した。
第2次UWF解散後の1991年春、リングスを設立。同年5月11日に横浜アリーナで旗揚げ戦を行なった。リングスの興行はWOWOWで生放送された。更には、UWF時代の人脈からオランダのクリス・ドールマンの全面協力を得る事になった。また、正道会館からは、石井和義館長が佐竹雅昭ら空手家をリングスに派遣した。石井館長はリングス参戦によって大型興行のノウハウを蓄積し、それが後のK-1の飛躍へとつながった。
旗揚げ第2戦前の練習で、前田は前十字靱帯断裂の重傷を負った。その後しばらくはニーブレスをつけて強行出場を続けるが、最終的には手術を行ない長期欠場となった。エース不在の興行的な穴はディック・フライ、ヴォルク・ハン、高阪剛、田村潔司、山本宜久らが埋めることになる。この頃、リングスは旗揚げ当初より続いた外国人頼りのカードから脱却する。
1993年から始まったUFCでのグレイシー一族の出現により、VT(バーリトゥード)方式が盛んになる。当初はそれを拒絶した前田だったが、リングスでもVTルールの試合を実験的に導入した。
1998年に開催されたPRIDE.1では、高田延彦が柔術家ヒクソン・グレイシーに完敗。これを機に、前田はヒクソンとの対戦を宣言するが、ヒクソン戦が実現することは無かった。
1999年2月21日、前田の引退試合としてアレクサンダー・カレリンと対戦し、判定(ポイント)負け。しかしながら、ロシアの英雄であるカレリンをレスリング以外の場に唯一立たせた意味は大きい。
前田引退による興行人気の低下によって、2002年にリングスは活動停止。しかし、リトアニアでは大会は継続され、日本国内でもリングス出身スタッフが運営し、リングスKOKルールを採用した格闘技イベントZSTが開催されている。
2005年、元新日本プロレスの上井文彦に請われ、上井が旗揚げした新プロレスイベントビッグマウスにスーパーバイザーとして参画。同時に、船木誠勝と和解。
2006年2月26日、新生ビッグマウスラウド旗揚げ記念大会・徳島興行で、前田は船木と共にビッグマウスラウドを脱退。前田が提案したプロレススタイル「スーパーUWF」が上井に却下されたこと、資金難で道場の用意ができなかったことが脱退理由として挙げられる。
ビッグマウスとK-1との提携で、「HERO'S」(総合格闘技イベント)発足時より「スーパーバイザー」として参画。しばしば、記者会見等の公の場に姿を現している。
リングス活動休止後、前田と対戦したことのあるディック・フライが雑誌『kamipro』のインタビューで、前田との試合がfixed fight(結果の決まった試合)であったことを証言している。
リングス初期の関係者である日本修斗協会事務局長兼アマチュア普及委員長若林太郎は格闘技雑誌『ガチ』のインタビューで、「KOKルール導入以前は真剣勝負とそうでない試合が混在するいわゆるブレンド興行であった。この状況を改めようと、複数のスタッフで前田さんに直訴したが、手であっちへ行けと追い払われ、リングスを退社した」と証言している。前田はKOKルール導入以前に現役引退をしており、KOKルールでの試合経験が無い。
試合の公平性の観点から、現在、総合格闘家が自分自身の出場する大会のプロモーターを兼ねることは極めて稀である。しかしながら、前田はリングスにおいてプロモーターであり、また、日本人看板選手でもあった。
上記理由から、前田のリングス時代の全試合はfixed fight(結果の決まった試合)だったのではないか、という疑惑がある。
元はWWF(現WWE)インターナショナルヘビー級王座だったが、旧UWFとWWFの関係が消滅したと同時に改称される。)
変形フロント・スープレックス。技の名は入場テーマ曲のタイトルに由来(それ以前は「アキラスペシャル」と称されていた)。
当時のプロレス雑誌で公開された名称によると、ジャーマン・スープレックスホールド、ドラゴン・スープレックスホールド、リバース・アームサルト、ダブルリスト・アームサルト、ウンターグルフ、サルト、リバース・サルト、スロイダー、ハーフハッチ、ダブルアームロック・サルト、デアポート・スロイダーの12種類。
前田独特の軌道を描くニールキック。横にひねりを加えつつジャンプし、踵を相手の顔面や胸元に当てる。縦回転で放つこともある。
航空機が好きで、結婚した際「子供はパイロットにしたい」とコメントしている。夢は零式艦上戦闘機で太平洋を横断する事と語っている。テレビ番組所萬遊記で、所ジョージに「一緒にムスタングに乗りましょう」と誘っている。また、元帝国海軍中尉でエースパイロットの坂井三郎を慕っている。
大の巨乳好きでも有名であり、かつて「リングの魂」(テレビ朝日)が、「最強の巨乳は前田日明が決める!」と題してリングスのイメージガールオーディションを企画したことがあるほど。その企画に審査員として呼ばれた前田は、オーディションに参加した女性(当然巨乳の女性ばかり集まった)の胸をマジックペンの先でつつくなど、その巨乳好きを包み隠さず披露した。
元Macエバンジェリスト(熱烈なMacintosh信者)。数十MBが主流の時代に500MBを超えるメモリーを搭載したMacを使っており、Mac専門誌で冗談のネタにされた事もある。
パンクラス社長である尾崎允実がリングスに出場していた外国人選手と会話していたのを見て、これを引き抜き工作だと考え、ホテルのロビーで尾崎の胸倉を掴むなどして脅迫。民事・刑事両方で前田が敗訴。
1994年に開催された極真空手トーナメント大会に前田が来賓として出席。そこに居合わせた『フルコンタクトKARATE』編集長・山田英司を会場の女子便所内に監禁した。山田は過去にUWFがプロレスであることを暴露し、当時はリングス・パンクラスへの批判記事を雑誌に掲載していた。前田の放った掌底を、格闘技経験のある山田編集長がスウェーでよけたという話がある誌面に出て、前田は「俺の掌底をスウェーでかわした?裁判官立会いで再現したろか」とコメントした。
元弟子でもある安生洋二と、1994年にリングスとUWFインターナショナルとの対抗戦の交渉決裂後に罵りあう。1996年6月にはFIGHTING TV サムライ開局のパーティーで前田が安生を裏拳で小突いた(レスラーやマスコミ等が周囲にいる中での出来事であり、猪木が仲裁した)。1999年11月14日は、UFC-J会場において、安生が背後から前田を殴打。前田は失神し、前田の失神姿がプロレス雑誌の表紙を飾ることとなる。安生は略式裁判で罰金刑。ちなみに前田はかつては「俺を倒したい奴は後ろからでも闇討ちでもやってこい。叩きのめしてやる」と豪語していたが、この事件後は言っていない(安生は「反撃してこないのに驚いた」とコメント)。
米国においてリングスで渉外マネジメントを任されていた女性を殴打し逮捕されるという報道が東京スポーツの誌面を飾ったが、前田が東京スポーツを告訴。東京スポーツは敗訴した。ただし、アメリカでの逮捕は事実であり、本名誉毀損事件は、逮捕の事実そのものを争ったものではない。(名誉毀損においては、真実を報道した場合も損害賠償を請求されることはある。虚名をも保護するというのが法の趣旨だからである)。ちなみに、当初この事件を報道したフライデーに対しては前田はなんのアクションも起こしていない。
在日韓国人三世、民族名は高日明(コ・イルミョン、???)。韓国訪問時に在日コリアンとして理不尽な扱いを受けたことから帰化を決意。1983年に帰化申請を行い、翌年受理された。引退後に在日コリアンであったことを明かした。
デビュー当時のリングネームは「前田明」であったが、「日明」と命名した祖父への思いから「前田日明」に改名したと、後に「週刊プレイボーイ」で語っている。リングネームも「日明」に改名した当初、週刊プロレスで「日は日本の意味で祖父がつけた」とコメントしている。
新日本の若手時代、猪木の付き人を務めていた事がある。トレーニングの一環で猪木と一緒に外でランニングをした際、本来なら猪木のペースに合わせて走るべきところ、「一生懸命走らなきゃいけない」と思い込んでダッシュして、猪木を置いてけぼりにした事がある。また猪木に「スパーリングしてやる」と言われ、「何をやってもいいですか?」と聞き、いきなり金的と目潰しを行った。その後前田は先輩レスラーたちから制裁を受けたという。
桜庭和志との一戦で不正をした秋山成勲を「秋山は可愛い部類」「ステロイドや興奮剤の方が問題」と擁護している。また、この前田の発言を高山善廣は批判している。
『ウルトラマン』で怪獣ゴモラが大阪城を壊した翌日、その様子を確認に行ったが特に変化が見られなかった。そのため、近くで掃除をしていた男性に尋ねたところ「皆が徹夜で修理した」と聞かされた。
カール・ゴッチを尊敬している。しかしその一方、ゴッチから教えを受けた他のレスラーには苦言を呈しており、「数ヶ月とかそんな程度の時期だけちょっと習ったくらいでゴッチの弟子だなんて、ゴッチさんに失礼ですよ」と語っている。 しかし第2次UWF時代、ゴッチが佐山聡のシューティングに指導に行った事を理由として顧問を解任し、絶縁を宣言していた事もある。
天龍源一郎、武藤敬司は、プロレスラーとしての前田を認めている。前田自身もそのファイトスタイルが対極にある武藤を認めており、武藤に「オレにグレート・ムタのコスチューム考えさせてよ」と語った事もある。
ジャンボ鶴田が引退後、他団体で闘いたかった相手として前田の名前を挙げている。「“前田は強い”と言われていたので、その強さがどんなものなのか確かめてみたかった」と発言している。
新人時代の坂田亘を控え室で暴行した映像が、ネット上で「弟子をカメラの前でリンチした動画」として出回っている。これは「次の試合がしょっぱかったら…」と前田が前大会当時に解説席にて「公約」していたもので、実際の放送時にもカットされずに放映された。
JUST A HERO(リングス旗揚げ時に使用された新田一郎作曲のオリジナル曲だったが、しばらくしてキャプチュードに戻している。ただしWOWOWのリングス中継でのBGMとしては長期間に渡って使用された)
カテゴリ: 中立的観点に議論ある項目 | 日本のプロレスラー | 日本の総合格闘家 | 新日本プロレスに所属したプロレスラー | プロレスの関係者 | 格闘技の関係者 | リングス | 帰化日本人のプロレスラー | 朝鮮系日本人の人物 | 大阪府出身のスポーツ選手 | 大阪市出身の人物 | 1959年生

[ 139] 前田日明 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E6%97%A5%E6%98%8E

前田 智徳(まえだ とものり、1971年6月14日 - )は、広島東洋カープ所属のプロ野球選手(外野手、右投左打)。熊本県玉名郡岱明町(現玉名市)出身。血液型はAB型。背番号は1。
熊本県立熊本工業高等学校時代には2年時の春・夏、3年時の夏の計3回甲子園出場を果たした。特に主将として臨んだ3年時の夏の甲子園では4番・中堅手として出場し、敗れた2回戦では最終打者(結果は三振)となった。
1989年ドラフト4位で広島に入団。1990年2月のオープン戦でロッテオリオンズ戦に7番打者として先発出場、5打数5安打(4二塁打)と鮮烈なデビューを飾るなど、高卒ルーキーながら卓越した打撃センスの片鱗を見せた。また2年目の1991年には、1番・中堅で先発出場したペナントレース開幕戦の初回にいきなり初回先頭打者本塁打という形でプロ入り初アーチを記録するなど、入団後、早い時期から何かと注目される選手の一人となった。以後、規定打席到達した年では1991年と2003年の2シーズンを除いてすべて打率3割以上を達成しており、特に1994年と1998年には首位打者争いを繰り広げた。
しかし、1995年の右アキレス腱断裂後から現在に至るまで、その後遺症などを抱え苦悩する。1998年に後遺症の残る足の負担を軽減するため、中堅手から右翼手へコンバートされた。また2000年夏には左アキレス腱にも断裂の恐れが生じ、手術とリハビリを余儀なくされた。
その高い打撃技術からレギュラーに定着して以来、歴代の首脳陣から再三4番打者への転向を勧められている。また実際、1994年に三村敏之が監督に就任した際には前年まで4番を打っていた江藤智が3番、同じく3番だった前田が4番という打順を編成した事がある。しかし共に不調に陥り、前田が「僕は4番というタイプではない。長打力のある江藤さんが4番を打つべきです」と三村に意見し、前年までの打順に戻っている。その後2000年、達川光男(晃豊)が監督に就任した際にも4番に指名された。この際も前田は「自分は4番を打つだけの打者ではない」と固辞し金本知憲(現阪神タイガース)を4番に据えるよう懇願したが結局は達川の説得に折れ、承諾。開幕戦で本塁打と犠飛を放つなど活躍し、同年4月の月間MVPを獲得したものの、その後は故障などで不振に陥ると、5月9日の対ヤクルトスワローズ戦では4打数無安打に倒れ、ベンチでひとり涙した。前田本人は「(4番を打つのは)気持ち的に中途半端で、あまり前向きになれなかった」と語っている。その後も歴代首脳陣からは何度も4番の要請を受けているものの、足に不安材料を抱えることから「4番打者は全試合出られるような人間でないとダメ」と前田自ら固辞している。
なお3割到達回数11回は、現役最多。2003年には右翼手よりも更に負担の少ない左翼手にコンバートされた。2005年シーズンは自身記録を更新し、念願の全試合出場達成を果たした。
2006年は、かつてのチームメイトであるマーティ・レオ・ブラウン新監督から野手のキャプテンに指名された。開幕当初は打撃技術と出塁率の高さを買われて2番打者に指名されたが、打順を意識し過ぎたためか打撃不振に陥った。しかし、従来の5番に戻ってからは冴えた打棒が復活し、最終的には3年連続の打率3割、5年連続20本塁打を達成。同年シーズン終了時点で現役通算2000安打まで残り94本となり、年俸も大台の2億円を再び超えた(金額は推定)。
以前はマスコミの前でも寡黙を通すことが多いことなどから「求道者」「侍」などと評される。かつては決勝打を放ったり好成績をマークした試合でもヒーローインタビューに立つことは余りなかった。だが実は饒舌で、主将に指名された2006年からは積極的にお立ち台の要請を受けるようになった他、同年オフのカープ特番ではかなりの饒舌ぶりを披露していた。また同年のファン感謝デーにおいては共にトークショーに出演した森笠繁に凄まじいまでの駄目出しを披露した。
通算打率.3055(歴代13位 2006年シーズン終了時)※5000打数以上・6000打数以上では、歴代5位。
広島県民栄誉賞(2007年9月12日)※史上7人目。広島東洋カープの選手としては山本浩二、衣笠祥雄、北別府学、野村謙二郎に次いで5人目。
ゴールデングラブ賞を獲得、ベストナインに選出。パウエル(中日)と首位打者争いを繰り広げ打率2位に終わる。
5月23日ヤクルト戦で走塁時に右アキレス腱を断裂。以降、慢性的な足の怪我と付き合わなくてはならないことになる。
怪我の影響もあって休養を挟みながらの出場であったので、チーム最終試合の9回終了時点で規定打席にわずかに足らなかった。しかし、延長戦に突入、前田に打席が回ってきたので到達できた。
9月13日ヤクルト戦で23度目の猛打賞。それまで、与那嶺要が持っていたセ・リーグの猛打賞最多記録を46年ぶりに更新。
FAで巨人へ移籍した江藤智の穴を埋めるために4番で起用されるが、後半からは怪我が悪化し休養。左アキレス腱を手術する。オフにはFA権の放棄を発表した。
打率.314でシーズン終了。通算11度目の3割(長嶋茂雄と落合博満に並ぶプロ野球歴代5位タイに浮上)。
通算打率で長嶋茂雄を抜き、通算4000打数以上の中で13位となる。なお、2006年終了時点での打数は6239に達し、あくまで現時点での話だが、日本プロ野球界での成績に限れば6000打数以上の打率が3割台を維持している現役の打者は前田だけであり、同史上においても、前田のほかには、若松勉、張本勲、川上哲治、落合博満、長嶋茂雄、谷沢健一、王貞治の7人しか存在しない。
9月1日の対中日戦(広島市民球場)で、8回裏、投手久本祐一からライト前2点タイムリーヒットを放ち、史上36人目(メジャーリーグに所属している松井秀喜、イチローを含めると38人目)の2000本安打達成となった。
シーズン31三振で、4年連続となるリーグ最少三振(規定打席到達者中)を記録。三振率.075もリーグ最小(2位は谷佳知の.089、リーグ最低はウッズの.328)。
プロ入り1年目のキャンプを訪れた野球関係者が前田の打撃を見て「これは将来凄い打者になる」と口を揃えた。当時広島の打撃コーチだった水谷実雄は、一発長打の魅力を持つ江藤と卓越した打撃技術を持つ前田に英才教育を施すべく、2人を競わせる形で猛特訓を課し、揃って主軸打者に成長した。また、当時オリックスの二軍監督をしていた福本豊は二軍戦で前田の打撃を目の当たりにし「なぜこんな選手が二軍にいるんだ」と驚愕したという。前田はほどなく一軍に昇格、プロ初出場初先発で初安打を放った。
前田は野球に対する取り組み方から「侍」「求道者」などと呼ばれる。落合博満、長嶋茂雄、星野仙一らは前田の野球センスについて「天才」と評価する。特に落合は「前田の打撃フォームはシンプルで無駄がない。これから野球を始める子供達がぜひ参考にすべきフォーム」などと絶賛している。だが当の前田本人は故障がちな身体になぞらえて、自らを「ガラクタ」と評している。また「天才」と呼ばれることに関しては「本当の天才だったら、4割打ってますよ。だいたい、落合さんやイチローのようにタイトルを獲った経験がありませんから」と語るなど、あまり気に入っていない。「侍」についても、自身が幾度も故障していることなどから「侍は、そう簡単に倒れるもんじゃないんですよ」と語っているが、自分の持ち物に『武士魂』と書き入れるなど、こちらについてはまんざらでもないようである。
このように天性の野球センスを評される一方、己の技術を高めるために努力を厭わない「練習の虫」でもある。前田は現在でもチーム随一の練習量をこなしている。本拠地・広島市民球場の試合前には早出特打で汗を流すのが日課。練習をこなした後にはマッサージを受け、さらに足回りにテーピングを施して試合に臨み、試合後にも夜遅くまで入念なマッサージを受ける。さらに自宅に帰ってからも深夜遅くまで素振りを行い、時にはバットを抱えて床に就く事もあるほどである。衣笠祥雄は「今の前田があるのは練習の賜物」と評し、達川光男も「あいつは天才じゃない。研究熱心で、相手が自分をどう攻めるかを考えながら練習している」と舌を巻き、小早川毅彦も「夏場の練習で他の選手が『きつい』と悲鳴をあげても、前田だけは黙々とバットを振っている」と、野球に対する厳しい姿勢を評価している。
また前田の出身校・熊本県立熊本工業高等学校のOBで、かつて「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治も「天才肌だが、こつこつと努力する野球にひたむきな男」と後輩を評している。なお、同校関係者は前田を「歴代最高の天才打者」と評価している。
さらに彼らのみならず、多くのOB・評論家も前田のセンスや姿勢に強く共鳴している。辛辣な評論で知られる豊田泰光に対して自らの持論を堂々と述べたことで、かえって豊田の高い評価を得た。さらには当時NHKで野球解説をしていた原辰徳には「前田選手とイチロー選手の2人は、他の多くの選手とは打撃センスの次元が違う」と言わしめた。また掛布雅之は1995年の開幕前に「彼にとっては3割3分が最低ノルマ。他の打者と同じ基準で考えたらいけない」とコメントした(皮肉にも前田がアキレス腱断裂の大怪我を負ったのはこの年であった)。
現役選手の多くが前田を信奉しており、前田を目標としてプロ入りした選手も多い。イチローは前田の大ファンで、プロ入り時、オリックス・ブルーウェーブ(現オリックス・バファローズ)入団の際には空いている背番号の中から、前田がかつて付けていた「51」を選択したほど。プロ入り以来「一番会いたいのは前田さん」と話していた。1994年にオールスターゲームに出場した際、前田との初対面を果たし、握手を交わしたイチローは満面の笑みを浮かべていた。その後も「僕なんて天才じゃない。真の天才とは前田さんの事を言うんです」と語っている。また松井秀喜は読売ジャイアンツ時代の1995年、「週刊ベースボール」誌上の「『男』を感じさせる選手は誰か?」という設問に、他の11球団の選手が自球団の選手の名前を挙げる中、松井は「前田さんの背中に『男』を感じます。怪我が治ったらまた同じグラウンドでプレーしたいですね」と、右アキレス腱断裂で戦線離脱した前田にエールを送り、その後も前田について「打撃が素晴らしいし凄みもある。広角に打てるし好機にも強く、いつも打ちそうな雰囲気が漂っている。日本で一番いいバッターかもしれません」と語っている。さらに小関竜也も「憧れの選手は前田さん」と公言している。小関がプロ入り時に西武ライオンズで最初に付けた背番号は「51」。その後本人の希望で「31」に昇番、さらに読売ジャイアンツ移籍2年目からも「31」を付けており、この事からもそれが窺える。
中日ドラゴンズの監督に就任した落合は、2005年の秋季練習で福留孝介、森野将彦ら左打者に対して前田の打撃を引き合いにし「真似していいのは前田だけだ。前田だけを見習え」と語っている。実際に福留も「理想のバッティングは前田さん」と公言しており、この秋季練習では前田の打撃フォームを参考にしてフォーム改造を試みた。また熊本工業高校の後輩である荒木雅博も前田を尊敬しており、同年のオールスターゲームに出場した際にはずっと付き添い、打撃論や野球哲学についてアドバイスを受けた。また前田から最も多くの安打を喫した山本昌は以前、浜松球場での試合で外角低めの難しいコースを本塁打された事があり「あのコースを引っ張ってホームランにされた事は今まで無かった。その時に天才だなと思いましたね」と振り返っている。
さらに前田自身も、落合に深い尊敬の念を抱いている。二人の関係について、前田は以前「野球以外でも、いろいろありますよ」と思わせぶりなコメントを残している。
その一方で江川卓、中畑清ら一部のプロ野球解説者は、前田のプレースタイルを疑問視しているといわれている。彼らも技術に関しては絶賛はしているものの、前田が自分の打撃に満足いかなかった際にやる気を失くしたような仕草を時折見せる事や、凡打を打った際に早々に走塁を諦め、一塁まで全力疾走しない事などを挙げ、これらを批判の的としている(特にアキレス腱断裂以後は走塁面での積極性が少なくなった)。例えば、ある試合で前田が一塁へ全力疾走しなかった際、中畑は「子供達だって試合を見に来ているんだから、何事にも全力でプレーすべきでしょう」と批判。当時の実況アナがすかさず「前田選手は足に不安を抱えていますからね」とフォローしたものの、中畑は間髪入れず「だったら、休んで完璧に足を治すまで出場しなければいいんですよ」と突き放し、さらに次打席で前田が本塁打を放つと「こんなに素晴らしいホームランを打てる選手なんだから、先ほどのような怠慢なプレーは絶対にして欲しくない」と駄目を押した。この一連の発言は当時「前田の故障はスポーツ選手としては完治するものではなく、にもかかわらず高いパフォーマンスを発揮しているプレーに対する解説をする者として知識不足であり、徒に批判を煽っている」などとファンの間で物議を醸した。
また江夏豊は以前、広島が低迷している原因の一つとして、前田が満身創痍の状態でプレーしていることを挙げ「こんな痛々しそうにプレーしている姿を見せて、何のためになるのか。パ・リーグの球団に移籍してDHとして出場した方が、彼のためにも広島のためにもなるのでは」などと辛辣なコメントを寄せたことがある。実際、前田も2004年オフ「このままではチームに迷惑が掛かる」と、パ・リーグ球団へのトレードをフロントに申し出たが、交渉がまとまらず広島に残留。しかし翌2005年には自身12年ぶりの公式戦全試合出場を達成、シーズン自己最多の32本塁打を放ち、守ってもシーズン無失策、補殺数でも1位を記録するなど気を吐いた。
かつては中堅を守り、1991年から4年連続でゴールデングラブ賞を獲得した経験もあるが、故障以後は脚力が失われたため守備範囲も狭くなり、歴代の首脳陣も守備での負担を軽減するため中堅から右翼、さらに左翼とコンバートを行っている。それでも守備力は現在も健在で、返球の正確さには定評がある。また時にはランニングキャッチやダイビングキャッチなど果敢なプレーを披露し、球際の強さも見せている。
故障する以前の前田は打撃のみならず、走攻守を含めた全てのプレーに全力を注ぐのが信条であった。また常々「最も重要なのは、最後まで諦めない事」と語るなど、チームの勝利に貢献することを重要視している。このため現在でも体調が万全な時には、凡ゴロを打っても併殺を免れるため一塁へ全力疾走したり、時にはヘッドスライディングを見せるなど、果敢なプレーを試みることもある。
このように、前田の打撃技術は周囲から高い評価を受けている一方、彼自身が目指すレベルが異常なまでに高く、また練習などの取り組み方にしても、時には「奇行」に見えてしまうこともあるほどである。その一例として高校時代、全体練習後には夜な夜な黙々とティー打撃を続け、思うような打球が飛ばないとスパイクで土を蹴り上げたりバットを叩き付けて怒り出したり、時には頭を抱え込んで悩んだり、といった事を繰り返していたという。プロ入り後も、フリー打撃などで思うような打撃ができなかった時には何度も声を荒げたり不貞腐れたりを繰り返し、遂には水谷実雄打撃コーチに「打撃投手が怖がって投げられないだろう」と説教を受けた事がある。また水谷の下で江藤智と共に猛特訓を受けていた頃にも、二人一緒に素振りをしていたところ、突如前田が練習早退を申し出たため理由を訊くと「江藤さんのスイングスピードの速さには、とてもかなわない。凄く悔しくて、気が抜けてしまいました」と話した事もあるという。現在でも完璧にミートした快打を放っても、その内容に納得がいかないと首を傾げたり、悔しそうに苦笑いしたりする事がしばしばあるが、これについて前田自身は「野球人として、バットマンとしてのこだわりがありますから」と語っている。またかつて「安打製造機」として名を馳せ、現役晩年には「奇人」と呼ばれたこともある榎本喜八(元東京オリオンズなど)は以前「前田には自分と共通するものがある」とコメントしている。
だが普段は柔和で饒舌であり、同僚や若手からの信望も厚い。キャンプや練習でも、若手選手に声を掛けたり質問に答えたりするなど、率先してチームを牽引している。オフの選手会ゴルフでは例年、佐々岡真司らベテラン選手は同じベテラン・監督と一緒の組だったのに対して、前田は若手などと回ることが多いことからも、若手に慕われている面が見える。また、シーズン中に練習や身体のケアを世話している打撃投手やトレーナーにも気配りを欠かさず、オフには自宅に彼らを招いてホームパーティを開くなど、感謝の意を示している。
2001年春に結婚し、チームリーダーとして自覚が高まっていく中、次第にメディアに対して胸中を語る機会が増えた。2004年終盤頃(特に同年の再編騒動前後)からは、メディアやファンへの態度や語り口調からも少しずつ角が取れ、物腰の柔らかな面も見せている。また、2005年シーズン前には球団のPR用中吊りポスターのキャラクターに選ばれ、ポスターに大書きされた「前田智徳は、誤解されている。」というセンセーショナルなキャッチコピーが話題を呼んだ(小見出しには「けっして、天才じゃありません」「ひたむきな野球馬鹿“背番号1”」とも書かれていた)。前田は「野球もファンサービスもしないと」と語っている。実は後日談があり、前田はこのポスターを非常に気に入ったものの、フロントに「ポスターが欲しい」と自ら言い出すのが恥ずかしかったため、夫人に球団事務所へ行って貰って来るよう頼み込んだ、というエピソードが残っている。
2006年シーズン前には黒田博樹と共にキャプテンに選ばれた。前田と黒田のユニフォーム右肩にはキャプテンを示す黄色い「C」マークが入れられている。本人はキャプテン就任を言い渡された際「キャプテンに選ばれたからには、(チームのために)何をすべきなのかは分かっているつもりです」と決意を述べた。だがその一方で、チームメイトへの接し方については照れもあるのか「無理矢理にでも朗らかにしないといけないかな」とも語っていた。
それまでは足への負担から、キャンプ・練習は別メニューで調整することが多かったが、同年からはキャプテンとしてチームを引っ張るために、アップの段階から若手と共に同じメニューをこなすようになった。当時前田は「キャプテンとして、例え壊れてもやる覚悟です」と述べている。
2006年シーズン前に広島出身でカープファンのアンガールズが練習中の前田を直撃インタビューをしたが、気分良くインタビューに答えていた。しかし、彼らの持ちネタ「ジャンガジャンガ」はさすがにやらなかった。
2006年シーズンから、球団は前田のイラストをモチーフにしたキャラクターグッズを発売している。ユニフォーム姿の前田を写楽の浮世絵風にアレンジしたキャラクターをはじめ、球団のペットマーク「カープ坊や」を模した「前田坊や」、マスコットのスラィリーを模した「前田スラィリー」、さらには童話「星の王子さま」を模した「星の前田さま」などといったキャラクターが次々と登場した。前田はこうしたキャラクターグッズについて「ファンに喜んでもらえるなら」と快諾している。
意外にも甘党である。酒はほとんど飲まないがアイスクリームや炭酸飲料、スナック菓子などジャンクフードが好物。食事においても肉を好んで食べるなど、20代までは日常の食生活に関して全く無頓着であった。だが、こうした不摂生が仇となり、ある年の健康診断では医師に「40代並みの血液」と釘を刺された事もある。また、このような食生活が度重なる故障を引き起こした遠因ではないかという指摘もある。そこで新婚の2001年オフ、夫人の勧めで杏林予防医学研究所の食事療法を取り入れた。前田は当初「そんなんでよくなるわけがない」と疑心暗鬼だったが、主食を白米から玄米にし、肉食を控えて魚と野菜を中心にした食事に切り替え、また前田自身も甘い物や脂物の摂取を極力控えるなどしたこともあって体質は劇的に改善、大きな故障も少なくなった。現在は体調に合わせて処方されたサプリメントを摂取するなど、健康管理に務めている。
趣味はゴルフ。腕前はプロ並みで、スコアは平均70台で回るほど。選手会ゴルフのハンディキャップも「1」である。義父(夫人の父)もゴルフ好きで、結婚前に顔を合わせた際にはゴルフ談義に華を咲かせたという。オフに熊本に帰省した際には、かつての同級生と練習場で打ち放しに興じている。だが何時間も練習に没頭し、帰りたがる友人を強引に付き合わせることもしばしばで、ここでも「自分が納得するまでとことん執着する」という性格が見え隠れする。
広島には前田姓が複数在籍していた時期があり、1993年と1994年の2年間、前田耕司が在籍していた際には、スコアボード表示や報道ではそれぞれ「前田耕」「前田智」と表記していた。だが、2007年に前田健太が入団したものの、前田智徳のスコアボード上の表記は単に「前田」となったままである(但し報道などでは区別が必要なため「前田智」と表記している)。前田耕司の退団後は12年間、前田姓が1人しかいなかったことや「カープの“前田”といえば『前田智徳』というイメージが定着している」ことなどがその理由とされており、表記を変更しないままなのは本人の意向ではないとのことである。
前田はこれまで、野球人生の節目やインタビューで数々の発言を残している。好成績を挙げても尚、自らのプレーについて自戒や自嘲、自虐を交えて評し、チームの勝利のために何をすべきかと常に思案し続ける言葉の数々は、ファンの信望をより一層集めている。それら発言の一部を下記に取り上げる。
但し前田自身は「野球をやっている間は、本音はあまり言わないようにしている」と語っており、『前田智徳』という人物像を演じている部分もある。また性格的にも凝り性で執着心が強く、事ある毎に涙をこぼす泣き虫。そして自他共に認める無類の照れ屋でもある。そのため、下記の発言全てが前田の本心を示しているか否かは定かではない。
高校時代、前田は熊工野球部の主将を務め、また4番を打ち主軸として活躍した。3年時の1989年夏、全国高等学校野球選手権熊本大会の決勝戦(藤崎台県営野球場)で対戦相手は東海大二高。0-1と東海大二リードで迎えた4回表、前田に打席が回ってきた。東海大二側ベンチは前田の長打を警戒し「敬遠してもいい」と指示を出した。マウンド上の左腕・中尾篤孝はその指示に従ってボールをふたつ先行させたところ、前田は突如バットを持ったままマウンドに血相を変えて歩み寄るや「勝負せんかい! ストライク入れんかい!」と一喝。これに中尾も「何やと!」とやり返したため、球審が慌てて間に割って入った。プレー再開後、頭に血が上った中尾は先の指示を無視して勝負を挑み、内角にストレートを投げ込んだ。フルスイングした前田のバットから弾かれたライナー性の打球は、右翼スタンド中段に突き刺さった。
中尾(卒業後協和発酵硬式野球部入り。現在は山口県で少年野球などを指導)は後に「本塁打を打った後、あいつが無表情のままダイヤモンドを一周したことが悔しかった。前田には打てないコースや球種がない。しかもボール球を振らないから、こっちは喧嘩腰で向かっていくしかなかった。今となってはいい思い出です」と語っている。
決勝戦は3-2で熊工が勝利し、甲子園に出場。初戦の対戦相手は日大三島だった。前田は1回表、中前へ安打を放ち、幸先よく1点を先制した。ところが攻撃が終わっても、前田はベンチから立ち上がろうとせず「だめです。俺はもうだめです」と頭を抱え込んで泣き崩れ、田爪正和野球部長が説得するまでなかなか守備につこうとしなかった。というのも当時、前田は同学年の元木大介(上宮高等学校、のち読売ジャイアンツに入団)を強くライバル視していた。本塁打を連発する元木に負けじと臨んだ初戦で、長打にできる球を打ち損じて単打にしてしまったことが納得できなかったのだという(まして、元木は初戦で2本塁打を放っていた)。試合は13-4で熊工が圧勝、前田自身も5打数2安打3打点と勝利に貢献している。
前田はこれ以前にも、日常の練習や練習試合などに於いても同じように納得行く打撃ができないと、深く考え込んだり落ち込んだり、時には当たり散らしたりすることが何度もあったという。こうした事は、前田が高校時代から打撃の内容にこだわっていた事実を端的に示している。
前田はその打撃センスを高く買われ、大会後になると熊工には西武ライオンズを除く11球団の、また前田の自宅にも8球団のスカウトが挨拶に訪れたほどだった。中でも地元九州の福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)は上位指名を示唆するなど熱心だったが、同年11月に行われたドラフト会議では広島が4位で指名。福岡ダイエーからの指名はなかった。前田は会見場でその様子を伝えるテレビ中継を見つめると、視線を落として悔しさを噛み殺し、1時間近く俯いたまま涙をこぼし続けた。前田は一旦プロ入りを拒否。挨拶に訪れた当時担当の宮川(村上)孝雄スカウトに対して無言を貫いた。何度訪問しても口を開かない前田に痺れを切らした宮川は遂に「ダイエーは指名しなかったが、俺達は(指名の)約束を守ったぞ。男だったら約束を守れ」と叱責、訥々と打撃理論を語った。前田は宮川の人間性に惹かれて広島入りを決意。同年広島が指名した6名の選手のうち、入団が決定したのは前田が最後だった。
また田爪は、前田はドラフト後の夜、当時の田爪の自宅で「ティッシュペーパー1箱が空になるほど号泣した」と証言しているが、前田は「田爪先生は嘘ばっかり言うんですよ」と笑って否定しており、真偽は定かではない。
こうして前田は1990年、広島の一員となった。初めて臨んだ日南の春季キャンプのフリー打撃では、高卒ルーキーなら手こずるはずの打撃マシンを相手に快打を連発。高卒同期入団の浅井樹は後に「同い年で自分より凄い男を初めて見た」と振り返っている。
ある日の練習中、バント練習の合間に達川光男から「打席でどんな球を待っとるんや?」と訊かれると、前田は一言「いや、来た球を打つんですよ」。達川は「凄いな、お前」と思わず感心してしまった。これが2人の最初の会話だった。
同年2月24日のオープン戦・対ロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)戦(鹿児島)に7番で先発出場し5打数5安打、しかもそのうち4本が二塁打と大器の片鱗を見せた。だが前田は試合後「しっかり打てたのは4打席目だけでした」と打撃内容を振り返り、さらに「これは(記事に)書かないで欲しいんですけど」と前置きした上で「実は、それ以外の打席は当てただけみたいな感じでした」と話した。
本塁打を打っても喜びを露にする事は非常に稀で、ボールを完璧にとらえ、飛距離も軌道も完璧な一打を放ったにもかかわらず、ベースを一周しながら首を傾げるなど不満そうな表情を見せたり、ベンチの出迎えに、首をすくめながら照れ臭そうにハイタッチする姿も見られる。さらに試合後のヒーローインタビューでも「当たり損ねですよ」「まぐれ。たまたまです」と話す事がある。
プロ入り3年目の1992年のある日、前田はテキサスヒットについて「速球投手が相手の場合は、わざと詰まった打球を打つんです。そうすれば、打球は必ず外野手の前に落ちる。これが打撃の極意ですよ」と語っている。しかし、テキサスヒットはいわばミスショットであり、彼が常に完璧な打撃を求め続けていることを鑑みると「当たり損ねが安打になったのを照れ隠ししたのではないか」とも推測されている。もっとも、前田の高い打撃技術からしてみれば、実際に狙っている可能性も決して否定はできない。なお、イチローらも同様の発言をしたことがある。
同年9月13日の対読売ジャイアンツ24回戦(東京ドーム)、1-0と広島リードで迎えた5回裏二死無走者、前田は川相昌弘の中前への当たりを飛び込んで捕球しようとしたものの後逸してしまい、川相はそのまま本塁を駆け抜けて同点にされてしまった(記録は前田に失策がつかず、川相のランニング本塁打となった)。前田は悔しさの余り、涙をこぼした。先発北別府学は勝利投手の権利を失ったまま6回で降板。前田は8回表一死一塁、決勝打となる勝ち越し2ランを放った。この際前田は打った瞬間に渾身のガッツポーズを見せ、そして涙を流しながらダイヤモンドを一周した。この一打で勝ち越した広島はそのまま3-1で逃げ切った。決勝打を放った前田はヒーローインタビューに呼ばれたものの、前田はこれを拒否。試合終了と共にロッカーで身支度を済ませるとバスに向かって歩き出し、呼び止める報道陣にも小声で「すいません」と繰り返すばかりだったという。この試合を中継していたラジオ・テレビ各局は、前田のインタビュー拒否の理由について「自分のミスで同点にされ、その後にいくら決勝本塁打を放ったからといって、その男がヒーローになるのはおかしい」などと発表した(広報を通じての本人弁)。前田本人は後日、決勝本塁打について「最悪でも、あれぐらいはやらなきゃ取り返しがつかないと思った」と振り返り、また本塁打後の涙について「自分に悔しくて涙が出た。ミスを取り返さなければいけなかった次の打席(6回表二死二塁)で中飛。それに腹が立って泣いたんです。最後に本塁打を打ったところでミスは消えない。あの日、自分は負けたんです」と語っている。
1994年5月18日の対読売ジャイアンツ戦(福岡ドーム)で、巨人・槙原寛己がプロ野球史上15人目の完全試合を達成。広島は成す術なく敗れたが、前田はこの試合を欠場しており「この借りはいつか返す」と心に誓っていた。そして同年7月9日の同カード(広島市民)で、前田は槙原からバックスクリーンへ本塁打を放った。前田は「完全試合以来、槙原さんが出てくると(気持ちが)熱くなった。明らかに普通とは違った緊張感がありました。そうした逆境が僕を燃えさせるんです」と語った。
怪我が相次ぐ以前、前田は打撃や打球に強いこだわりを持ち、完璧な打撃を求めていた。あるインタビューで「自分で納得できる打球を打ったことがあるか」と問われ「(安打では無いが)ファウルならあります」と答えたこともある(後に『野球小僧』にて「冗談ですよ」とのコメント)。同年、パ・リーグではイチローが台頭。当たり損ねの内野ゴロでも俊足を活かして内野安打を量産していた。前田はあるインタビューでそんなイチローについて「あんまり内野安打は打って欲しくないですね。僕の場合、打ち損じたり、相手ピッチャーに打たされて内野安打にでもなろうものなら、この世が終わったんじゃないかというくらいのショックですよ。そんな時はわざとゆっくり走りたい気分になりますよ」と話した。
だが一方で前田は、常にチームの勝利を最優先に考えている。故に実際にはチームプレーに徹するべく、凡ゴロでも一塁へ全力疾走したり、時にはヘッドスライディングを試みたりすることもある。また蛇足だが、ボテボテの当たりを内野安打にした時には「ラッキーでした」とコメントすることもある。
なお前田は同年終盤、中日アロンゾ・パウエルと首位打者争いを繰り広げるも、2厘8毛の僅差で打率2位に終わった。同年12月17日の契約更改交渉では年俸が1億円(推定)を突破。記者会見では「プロに入った時には、打球がスタンドにも届かないような選手でしたから」と自嘲を込めて喜びを語った。
順風満帆だった前田の野球人生に、大きな試練が訪れた。1995年5月23日の対ヤクルトスワローズ7回戦(神宮)の1回表、二塁ゴロを放った前田は一塁走塁の間に右足のアキレス腱を完全断裂。一塁を駆け抜けた直後、前田はもんどりうってフィールドに倒れ込み「切れた!切れた!」と叫び声をあげた。当時遊撃を守っていたヤクルト池山隆寛はその瞬間「ブチッという音がはっきり聞こえてきた」と証言している。そのまま球場近くの慶應義塾大学病院に搬送されて診察を受けたところ「全治4ヶ月」の重傷である事が判明。翌日手術を受け、2ヶ月間入院。そしてその後はリハビリのため長期離脱を余儀なくされることとなった。
翌1996年に戦線復帰。オープン戦では6本塁打を放ち、4月5日の開幕戦・対中日ドラゴンズ1回戦(広島市民)では宣銅烈からボテボテのゴロを放つも、一塁へ全力疾走して内野安打にし復帰後初安打をマークする(この試合後、前田は「右足で一塁を踏んだ時は、物凄く怖かったですよ」と話している)など好調な再スタートを切ったかに思われた。だが4月13日の対阪神タイガース2回戦(甲子園)で右大腿部を傷め、1ヶ月間戦線を離脱。それでも5月17日からはシーズン最終戦を除く全試合に出場した。
前田は、復帰前と比較して打撃をはじめ走塁や守備などプレー全般に精彩を欠いたことを嘆き「この足(右足)はもう元通りにはならないだろうし、いっその事、もう片方(左足)も切れて欲しい。そうすれば、身体のバランスが良くなるらしい。それで元に戻るんだったら」と語った。そんな状況にありながら、同年から1999年まで4年連続で打率3割をマークするなど打撃センスは衰えなかった。
とはいえ、故障前と比較すれば打撃内容は本人にとって満足のいくものではなく、またアキレス腱断裂により脚力を失ったことから走塁や守備の面ではかつてと比べ物にならず、「トリプル3(3割・30本塁打・30盗塁)に最も近い男」と評されたほどの身体能力を取り戻すのは非常に困難であった。前田は打撃のみならず、走攻守全てに於いて常に完璧なプレーを目指すのが信条であったが、満足にプレーする事ができなくなったのが余りに不本意だったのだろうか、1996年頃から「俺の野球人生は終わった」「前田智徳という打者はもう死にました」「プレーしているのは僕じゃなく、僕の弟です」「あれは高校生が打っていたんです」などといった発言を繰り返す。またこの頃から打撃成績に関しては具体的な目標を掲げないようになり、理想の打球へのこだわりも薄れ、個人成績の目標として挙げるのは「公式戦全試合出場」だけとなった。
このアキレス腱断裂は、前田の野球人生にとって大きな転機となった。前田は1996年春のあるインタビューで「怪我する前は“自分がどこまで成長できるか”と考えると、毎日が楽しかった。(野球をやってきて)これまで努力した事はない。普通通りの事をやっていただけ。コーチから新しい事を教わっても、すぐ出来た。神様から与えられた素質、天性だけで野球をやっていたのが(怪我で)全て崩れ、訳が分からなくなってしまったんです」と語っている。また、この右アキレス腱には既に前年から不安を抱えていたことも明かし「シーズン中は何とか我慢して、シーズンが終わってからメスを入れるつもりでした。切れた後、どうして早く治さなかったのかと後悔しました」と語っている。さらに復帰後の一時期には「もう打席に立っているのがやっとという時もあった。投手に『頼むから急いで投げてくれ』と言いたくなる時もありました」と苦悩していた事も明かしている。
傷めた右足首をかばっているうちに大腿部、ふくらはぎを傷め、さらに左足や腰にも影響が及んだ。前田の下半身は幾度もの故障に蝕まれ、いつしか試合前後のマッサージと足回りのテーピングが欠かせなくなっていた。前田の野球人生は文字通り“故障との闘い”でもある。
新庄剛志とは同じ九州出身で同学年、プロも同期入団であった。新庄が阪神時代華々しく活躍している傍らで、マスコミ記者から「ライバルの新庄をどう思いますか?」と聞かれて「あんなヤツはライバルじゃねぇ」と言った。
しかし実際は、前田は新庄を嫌っているわけでも互いに不仲なわけでもなく、むしろプロ入り後一時はお互いの連絡先を教える程の間柄となっていた(阪神タイガース刊「月刊Tigers」より)。この事からも、自分と全く持ち味や性格の異なる彼とを単純に比較される事を嫌っての発言だと考える方が妥当であろう。
「がんばって」と声をかけた女性ファンに対し、前田が「お前に言われんでも分かっとる!」と怒鳴り付けた、という逸話がファンの間で語り草になっている。これは1998年9月15日付の朝日新聞に掲載されたもので、この際前田は車の中から怒声をあげたと言われているが、その状況には不自然な点が多々ある上、由来についても「女性ファンが常連の追っかけである」「記者が又聞きした話を誇張したもの」など諸説あり、このエピソードそのものの真偽は定かではない。しかしそれ以来、このエピソードは前田の代名詞として「お前に言われんでも○○」といった形で頻繁に用いられている。
1998年10月12日の対横浜ベイスターズ27回戦(横浜スタジアム)は、両チームとも公式戦最終戦。横浜は既にリーグ優勝を決め、この一戦は首位打者争いに注目が集まっていた。横浜・鈴木尚典は.337で打率トップ。前田は僅差の.335で追っていた。しかし前日、報道陣が横浜監督権藤博に対して両者の首位打者争いについて尋ねたところ、権藤は「前田が出るのなら、全打席敬遠しますよ」と話し、前田と広島側を強く牽制した。これに対し前田は敬遠合戦になることを恐れ「ファンにみっともない物を見せたくない」と話し、出場しない旨を首脳陣に申し出て欠場。一方の鈴木尚も疲労を理由に欠場し、結局両者の直接対決は実現せぬまま、鈴木尚の首位打者が確定した。
余談だが、権藤は同年オフに行われたあるインタビューで「鈴木尚典を出さないことは最初から決めていたが、前田が出てきたら全打席敬遠しなきゃならないので、(広島監督の)三村に『前田を出さないでくれ』と頼んだ」と語っている。
同年は4月と8月に月間MVPを獲得し、通算安打も1000本に到達。9月13日には当時のセ・リーグ新記録となるシーズン23回目の猛打賞を記録、前述の通りシーズン終盤には鈴木尚と首位打者争いを繰り広げた。しかし9月15日の阪神タイガース戦(甲子園)で走塁中に右ふくらはぎを痛め、翌9月16日は欠場。目標としていた「シーズン全試合出場」を逃すことになった。前田の公式戦全試合出場は同年時点までで1992年と1993年の2度しかなかったこともあって、目標を達成できなかったのが何よりも悔しく「全部出れるつもりでいたが、気の緩みや油断、スキがあったのかもしれない。『お前はここまでの選手』と言われたようなもの。2度目の野球人生も終わりました」と発言した(なお全試合出場は2005年、12年ぶりに達成している)。
2000年、前田らと共にクリーンアップを構成し、4番を打っていた江藤智がフリーエージェントの権利を行使して巨人へ移籍。同年から広島監督に就任した達川光男(登録名:晃豊)は前田を4番に指名した。前田は固辞したものの、達川の説得に折れて4番を打つこととなった。そして迎えた3月31日、開幕戦の対読売ジャイアンツ1回戦(東京ドーム)では2回表に回ってきたシーズン初打席で、巨人先発上原浩治の初球を叩いて先制ソロ本塁打を放つと、4回には二塁打、8回にも犠飛を放つなど3得点に絡み、最後は巨人の追撃をかわして5-4で逃げ切った。前田はヒーローインタビューで、開幕4番について「はっきり言って、気持ち的には中途半端で入った。前向きに考えるのが難しかったけれど(監督に)『チームのために頑張ってくれ』と言われた。それがいい結果で出たんでよかった」と話し、さらにチームのムードについて「やっぱり緊張感の中で勝てたのは大きいし、これから頑張っていきたいと思う。みんなで力を合わせて頑張るっていうのがウチの野球なんで」と語り、江藤の穴を全員でカバーしていく事を誓った。この「みんなで力を合わせる」という文言は同年シーズン序盤、前田の常套句となった。
前田がプレーする上で重要視しているのが「最後まで勝利を目指し、絶対に諦めない事」。そして「諦めずに最後までやり通すのは大変な事だけれど、それはプロとして当然の事」などと、勝利に対する執念を常々語っている。その真骨頂ともいえるのが同年4月9日の対阪神タイガース戦(広島市民)である。4-6と阪神リードで迎えた8回裏、広島は阪神のクローザー・カート・ミラーを攻め立てて二死満塁とし、この日無安打の前田を迎えた。前田はミラーのスライダーを叩き、右翼へ逆転満塁本塁打。そしてこれが自身通算150本目の本塁打となった。序盤戦にして緒方孝市、野村謙二郎を故障で欠く中、前田は試合後のヒーローインタビューで「ああだ、こうだと考える前にバットを振ろうと思った。走者がいる時にいい結果を出したいと思っただけ。みんなで力を合わせ、最後までやらなければと思い知らされた。野村さんがいないのは寂しい。みんなで力を合わせてやるしかない」とチームを鼓舞し、そして「最後まで諦めちゃいけないという事を、今日また思い知らされたような気がします」と語った。
だが同年夏、前田に再び試練が襲いかかった。6月30日の読売ジャイアンツ戦(広島市民)で左膝に自打球を受けて以来、左足首の違和感を訴えていた。その後痛みが激しくなり先発を外れ、代打出場などを続けていたものの、オールスターゲーム期間中の7月23日に広島市南区内の病院で診察を受けたところ、アキレス腱が伸び切って炎症が悪化し、このままでは断裂の恐れがあることが判明した。前田は前回の反省からトレーナーらと話し合い、メスを入れる決断をした。7月27日に群馬県館林市内の病院で左アキレス腱の腱鞘滑膜を切除する手術を受け2週間入院。その後はリハビリの為またも長期離脱を余儀なくされる事となる(この間2度渡米し、同じく故障離脱していた野村、緒方と共にリハビリに励んだ)。
皮肉にも両足のアキレス腱を傷めることとなった前田は同年フリーエージェントの権利を獲得し、オフの動向が注目されたが、10月30日に記者会見を行い「まだ乗り越えなくてはいけない物がたくさんあるし、カープで最後までいいプレーをしたいという気持ちになったので、今回はFA宣言というものは自分には関係ないという気持ちです。大きな怪我もあったがここまでやれるとは思わなかったし、チームとファンに恩返ししたい。今年権利を行使しないということは、来年もしないという事です」と、広島に残留する旨を表明した。
2001年3月16日、前田は広島市民球場内で、元タレントの夫人と同月7日に入籍したことを報告。前田は「こういう柄じゃないんですよ」と赤面しながらユニフォーム姿のまま会見場に現れた。直後に始まった会見でも、球団から報道陣に配布されたプレスリリースを指して「これ渡したから、もう(会見しなくても)いいでしょ」と苦笑したり、質問攻めに遭うと照れながら「もう勘弁して下さい」と小声で口走るなどし、会見中には何度も席を立とうとした。さらに「最初で最後のお願いですから、大袈裟にせんとって下さい。野球の事は何を書いてもいいですから」と頭を下げるなど、終始照れまくっていた。しかし最後にシーズンへの決意を問われると「(結婚という)励みがなくても頑張る。早く体調を整えることで、頭がいっぱいです」と、気を引き締めていた。
だが足の状態が思わしくなく、同年シーズンの公式戦出場は僅か27試合にとどまり、本塁打もなし。前田の本塁打ゼロはルーキーの1990年以来11年ぶりのことだった。
しかし夫人は「彼の捌け口は私しかいない」と、栄養学を学んで食事療法を取り入れるなど、前田を献身的に支え続けた。
2002年4月5日の対中日ドラゴンズ1回戦(広島市民)の6回、山本昌から実に2年ぶり、復帰後初となる1号2ラン本塁打を右中間最前列へ放った前田は涙を浮かべてダイヤモンドを一周。ナインとハイタッチを交わした直後、ベンチ裏で当日中継を放送していたテレビ新広島のインタビューに応じ「ちょっと詰まったんですけど、よかったです」と涙をこらえながら喜びを噛みしめた。続いて放送ブースから、実況の神田康秋に「待ちに待った一発だったね」と声を掛けられると、遂に涙をこらえ切れなくなり「長かったですね」と嗚咽交じりに答え、さらに故障離脱時の広島監督で、この中継で解説を務めていた達川から「前田、よかったのう」と労われると感極まり「すみません。(監督の時には)ご迷惑をお掛けしました」と涙した。この試合は4-0で広島が勝利。また前田も計3安打を放つなど活躍し、文字通り“復活”を遂げる一日となった。
だが、翌4月6日の同2回戦(同)、前田は好機で凡退したり、守っても打球を後逸するなどプレーに精彩を欠いた。さらに8回裏の攻撃ではルイス・ロペスから走塁を巡って詰問される騒動に巻き込まれる(詳細はルイス・ロペスの項を参照)などし、結局終盤の追い上げも及ばず6-8で敗戦。ゲームセット後、前田はベンチからフィールドをただただ呆然と見つめていた。
なお、前田は同年123試合に出場して打率.308を記録し、カムバック賞を受賞した。12月の授賞式では「(引退という)最悪の事態は逃れる事ができました」と笑顔を見せた。
球界再編問題に揺れた2004年秋、前田は「このままではチームに迷惑が掛かってしまう」と、球団フロントにパ・リーグ球団への移籍を直訴した。度重なる故障によって守備力が徐々に衰え、自分自身のみならずチームにも負担が掛かると考え、指名打者の制度があるパの球団で再起を期す覚悟を決めた。フロントも前田の意向を汲んで各球団にオファーを掛けたものの交換条件が合致せず、トレードは白紙に。結局広島残留が決まった。
明けて2005年、1月はグアムで自身初の海外自主トレを敢行。2月の春季キャンプでは「守備重視」というチーム方針もあってレギュラー特権を剥奪される厳しいスタートとなったが、毎日早出・居残りで身体をいじめ、鍛錬を続けた。キャンプ中盤の2月14日、練習後の取材に応じた前田は「今までのように(マイペースで)調整させてもらっている立場じゃない。周りから『走れん』とばかり言われているが、文句を言われんように、また走れるようになりたい。試合で(身体を)作っていくのがベストだし、オープン戦もできれば全部出たい。賭けだよ、賭け。駄目なら賭けはおしまい」と来たるシーズンへの意欲を見せた。オフの間から下半身強化を図り、さらに足に負担を掛けないよう膝を曲げてストライドを取る走法を取り入れた。それらが奏功し、例年になく順調な仕上がりを見せていることもあって、インタビューの締めには「よっしゃ、見とれや!逆立ちしてでも走ったる」と笑顔でジョークを交えてみせた。
同年シーズンに入ってからは好調を維持して公式戦全試合出場を継続。7月にはサンヨーオールスターゲームのファン投票(外野手3位)で選出され、これが自身7年ぶり、ファン投票選出では実に9年ぶりのオールスター出場となった。7月23日の第2戦(甲子園)では初回一死一、三塁から中前適時打を放つと、3回にも右前打、5回無死三塁でも左前適時打を放つなど4打数3安打2打点の活躍を見せ、MVPに選出された。前田は試合後「自分でも信じられない。いろいろな怪我があったし、また出られるとは思ってなかった。ファン投票で選んでもらって感謝の気持ちでいっぱいです」と感謝の弁を述べ、「奇跡に近い。信じられない。(公式戦に)スタメンで出られる状態になってファン投票で選んでもらい、こういう賞をもらえる活躍ができて本当に熱くなった。いい状態なら、また(来季以降も)選んでもらえると思います」と喜びを語った。また後半戦については「一つ一つ頑張っていくしかない。残り全試合出場を目指します」と目標を語った。また前田にはMVP賞品として賞金200万円と大型液晶テレビが贈られたが、賞金の使い道については「身体のケアに使いたいです」と話した。
2006年、監督に元チームメイトのマーティ・レオ・ブラウンが就任。ブラウンは前田を野手のキャプテンに指名した。またシーズン序盤、ブラウンは前田の打撃技術と高出塁率を買い、ケース打撃を求めるべく2番に前田を置くオーダーを組んだ。春季キャンプ中に2番を打診された前田は「最初聞かされた時は驚いた。でもマーティにアイデアがあるのなら、それを信じてやるだけ」と意欲的に取り組んだものの、日本で定着している“繋ぎ役”という2番打者のイメージに囚われた前田は開幕から打撃の調子が上がらず、打率も4月後半まで2割台半ばを行ったり来たりという苦しい時期が続いた。開幕カードの中日ドラゴンズ3連戦(ナゴヤドーム)では“2番打者はどうあるべきか”を聞こうと川相昌弘、井端弘和ら2番経験者にアドバイスを請うなどしたものの「俺とはタイプが違う」とますます迷路に入り込んでしまった。結局開幕3連戦では好機に相次いで凡退するなど精彩を欠いた。4月4日の阪神タイガース戦(広島市民)が雨天中止になり、練習後に取材に応じた前田は「オープン戦からいろいろやってみた。右方向へ進塁打を打つのか、四球を選んだ方がいいのかが分からない。周りは“今までと同じように打てばいい”と言うけど、どうすればいいのか。頭の中で上手くいかないんだから、実際に打つ時に上手くいくはずがない。3番や5番の時のように打席に入っていけなくなってしまった」と苦悩していることを明かし「投手が頑張って抑えてくれているのに、本当に申し訳ない。何とかきっかけが欲しい。言い訳したくない」と目頭を押さえた。
前田本人はこのスランプについてシーズン後「俺は周囲から『3割打って当たり前』と思われている。あのままだったら、もう現役を辞めようとすら覚悟していた」と振り返っている。
だが4月中旬以降、慣れ親しんだ5番に復帰すると徐々に復調。5月23日の対オリックス・バファローズ1回戦(広島市民)では、0-2とオリックスがリードして迎えた3回裏、広島が逆転に成功して1点リードを奪い、尚も二死一、三塁という場面で前田は貴重な追加点となる3ラン本塁打を放った。結局前田は3打数2安打5打点をマークし、通算安打も1800本を突破。試合も打線が奮って12-4で圧勝した。ヒーローインタビューには前田が呼ばれたが、本拠地でのお立ち台は実に2年ぶりの事だった(2005年は5度、同年も1度お立ち台の要請があったが固辞していた)。前田は先述の3ランについて「いい場面で打てましたね」と水を向けられると「大した事はないと思う。逆転した直後だったので、楽な場面でした。プレッシャーは無かった。もっとプレッシャーのある所で試合したいですね」と言ってのけた。広島は前年、セ・パ交流戦で大幅に負け越して失速したが、同年の交流戦はこの試合に勝利した時点で7勝5敗とし、またシーズン通算でも19勝21敗2分で残る借金は「2」となり、開幕直後以来の貯金へ向けて上昇ムードが高まっていた。そんな事もあって、前田はお立ち台で「夢の貯金に向かっていきたいと思います」とリップサービスし、スタンドの喝采を呼んだ。普段は決して大風呂敷を広げることのない前田が珍しく景気の良い言葉を発したこともあって、一部の広島ファンはこの「夢の貯金」という文言を合言葉に応援熱を上げた程であった。ところが、その翌日から広島は突如失速。オリックスには残り2試合連敗し、次カードの東北楽天にも負け越し、更にその次の西武ライオンズ戦(インボイス西武ドーム)では打線が振るわず、西武の裏ローテに対して3連敗を喫するなど、貯金どころか借金が増えるばかりとなってしまった。前田もさすがにこれを気にしたか、次のヒーローインタビューに呼ばれた際、最初に「もう大それた事は言わない」と話した。
同年10月14日、高卒同期入団の浅井樹が現役引退を表明。引退試合となった10月16日の対中日ドラゴンズ最終戦(広島市民)で、前田は「最高の形で浅井を送り出してやりたい」と5打数4安打3打点1盗塁、三塁打が出ればあわやサイクル安打という活躍を見せた。7回には代打出場した浅井の姿を大粒の涙を流しながら見つめ、試合後のセレモニーでは花束を手渡すと、浅井の胸にすがって号泣。チームメイトと、同じく同期の中日井上一樹とともに同級生の引退を惜しんだ。
2006年シーズン後の秋季練習の初日に「うまく打撃のコツもつかみたいし、そのためにはバットを振るのは普通のこと。まあ、多分つかめはしないんだろうけど。何年やっても、どう打っていいか分からん」と発言。
プレー中に笑顔を見せる事は滅多にない前田だが、満面の笑顔を見せた事がある。2007年はシーズン中盤から故障(右足肉離れ、打撲)と不振に喘いでいたものの、ガリバーオールスターゲームのファン投票ではリーグトップの得票数を得て出場。7月20日に開催された第1戦(東京ドーム)の7回裏、代打で登場した前田は、福岡ソフトバンク・馬原孝浩が投じた内角低めの直球に反応し、上手くすくい上げるようにスイング。打球はセ・リーグファンで埋まる右中間に飛び込む本塁打(自身オールスター初本塁打)となった。一塁を回ったところで打球の着地点を見届けると拳をグッと握り締め、さらに三塁手前に差し掛かると笑顔で手を叩いて小さくガッツポーズを取り、ホームイン。ダッグアウト前でナインと嬉しそうにハイタッチを交わした。前田は「落合さん(博満・セ監督)からは『楽しめよ』と言われていたし、ファン投票で選んでもらったからには頑張りたかった。三振だけはしないようにと思っていたが、まさか本塁打になるとは思わなかった。本当に嬉しかった」と話し、さらに「東京ドームは球が飛びますね。僕は力がないですから」と照れつつも自嘲気味におどけて見せた。
なお、前田はオールスター出場決定の御礼を兼ねて落合に挨拶した際「ファン投票で選ばれたからには、スタメンで出させて下さい」と直訴したが、落合は不振に悩む前田を気遣いつつ「お前、最近調子悪いんだろう?」と、代打出場を奨めたそうである。前田は「(不調を)見抜かれてショックでした」と振り返っている。またこの日、前田は東京ドームに午後2時に一番乗りして練習を開始したが、打撃練習ではまたも落合に「やっぱ年か?」と駄目を押されたそうで「改めてショックだった」と苦笑いしていた。
通算安打数を「1999本」として迎えた同年9月1日の対中日ドラゴンズ17回戦(広島市民)、前田はこの試合、7回裏2アウトでの第4打席まで無安打(7回裏の最終打者)。試合も6-7と中日にリードを許した。だが迎えた8回、広島は嶋重宣の代打3点本塁打で逆転に成功すると(この時点で逆転したため9回表に同点、もしくは逆転されないと9回裏の攻撃を迎えないまま試合終了となる)、その後も中日リリーフ陣を攻め立てて二死満塁とし(前田の前の打者新井はフルカウントから四球を選ぶ)、7回裏での最終打者の為、打者一巡しなければ回ってこない前田に打席が回ってきた。前田は久本祐一の3球目を叩いて右前へ運ぶ2点適時打を放ち、遂にプロ通算2000安打に到達した。前田は一塁上で安堵の笑顔を見せ、一塁コーチの永田利則からヘルメット越しに頭を3回叩かれる手荒い祝福を受けた。中断の間、塁上で新井貴浩、中日立浪和義と祝福の握手を交わし、更に長男・二男から花輪を受け取った(このとき前田は子供たちに「お母さんはどこにいるの?ありがとうって伝えておいてね。」と言った)。結局この回、広島は一挙8点を奪う猛攻で試合をひっくり返し14-7で勝利、前田の金字塔に華を添えた。試合後、お立ち台に立った前田は、自らの記録よりもまず「自分個人の事でここまで騒がれるのは非常に残念な事。ここまでチームの戦い方を考えると悔しい思いばかりだし、自分が(怪我などで)いいシーズンを送れていないので、責任を感じています」とチームと自らの不振を詫び、さらに「怪我をして、チームの足を引っ張って…。こんな選手を応援して下さって、ありがとうございます」と声を詰まらせながらファンに感謝の弁を述べ、そして「最高の形で(自分に打順を)回してくれたので、ここで打たなきゃと思った。今日という日は一生忘れないと思います」と喜びを語った。その後記念のボールを手に場内を一周してファンの声援に応え、チーム全員で記念撮影を行った。また試合後の記者会見では「今日は何となく負けるような展開だったが、みんなが凄い力を発揮して、最後に打たせてもらった。18年やっているけれど、こんな凄い試合は初めてです」と8回の攻撃を振り返り、「こういう記録を達成できて、こんな選手にいろんな声援を送ってくれたのに、充分応えることができなかった。これからも暖かい応援を頂きたい」とファンにメッセージを送った。
余談だが同日夜、テレビ新広島の特別番組収録で達川光男と対談した前田は、永田の手荒い祝福について「永田さんは殴り過ぎですよね。今度仕返しします」と笑顔で振り返っていた。
さらに翌9月2日の同18回戦(同)では初回に先制適時打、3回には13号3点本塁打、7回にも駄目押しの適時打を放つなど3安打5打点の活躍。連日のお立ち台で「ここに立つと喜びも倍になる。昨日、今日と応援して頂いて、野球選手には最高の幸せ。『(シーズン終盤に来て)今さら』って言われるかもしれないが、残り試合でもいいプレーをして多くの勝利を見せてあげたい」と話した。また会見では、残り13本となった通算300本塁打について「個人記録には余り興味がないけど、打ちたいね。大事な場面、流れを変えられるような場面で打って、チームに貢献したい」と、次なる目標へ意欲を見せた。
ササキ様に願いを - バットに執拗に拘るキャラとして登場。オールスター戦ではいつも佐々木主浩など他のキャラに折られる。
75ジェフ・リブジー(ベンチ)|72内田順三(打撃統括)|88小早川毅彦(打撃)|73小林幹英(投手)|87澤崎俊和(ブルペン)|77高信二(内野守備走塁)|85永田利則(外野守備走塁)|84植田幸弘(バッテリー)|89水本勝己(ブルペン補佐)
76山崎立翔(監督)|82浅井樹(打撃)|80山内泰幸(投手)|74岡義朗(内野守備走塁)|83朝山東洋(外野守備走塁兼打撃補佐)|78熊沢秀浩(バッテリー)
11小山田保裕|13佐竹健太|14篠田純平|15黒田博樹|16宮崎充登|17大竹寛|18前田健太|19上野弘文|20永川勝浩|21ダグラス|22高橋建|23横山竜士|24河内貴哉|28広池浩司|29佐藤剛士|30森跳二|36青木勇人|39梅津智弘|42長谷川昌幸|46大島崇行|47青木高広|48フェルナンデス|53林昌樹|58小島心二郎|60齊藤悠葵|62今井啓介|65相澤寿聡|67丸木唯|68金城宰之左|93マルテ|95カリダ|122山中達也(育成選手)|(未定)中村憲
00山崎浩司|2東出輝裕|4尾形佳紀|5栗原健太|6梵英心|10比嘉寿光|12小窪哲也|44喜田剛|45松本高明|52大須賀允|56中谷翼|57甲斐雅人|59山本芳彦|(未定)安部友裕
0井生崇光|1前田智徳|9緒方孝市|26廣瀬純|33鞘師智也|35中東直己|41森笠繁|43アレックス|50鈴木将光|51末永真史|54吉田圭|55嶋重宣|69天谷宗一郎|(未定)松山竜平|(未定)丸佳浩|(未定)山内敬太(育成選手)
金田正一 - 小山正明 - 米田哲也 - 鈴木啓示 - 堀内恒夫 - 山田久志 - 平松政次 - 東尾修 - 村田兆治 - 北別府学 - 佐々木主浩 - 高津臣吾 - 工藤公康
山内一弘 - 野村克也 - 長嶋茂雄 - 広瀬叔功 - 張本勲 - 王貞治 - 江藤慎一 - 土井正博 - 高木守道 - 松原誠 - 柴田勲 - 藤田平 - 衣笠祥雄 - 福本豊 - 山崎裕之 - 山本浩二 - 有藤通世 - 若松勉 - 谷沢健一 - 加藤英司 - 門田博光 - 大島康徳 - 新井宏昌 - 秋山幸二 - 駒田徳広 - 立浪和義 - 鈴木一朗(イチロー) - 清原和博 - 古田敦也 - 野村謙二郎 - 石井琢朗 - 松井秀喜 - 田中幸雄 - 前田智徳
ヴィクトル・スタルヒン - 若林忠志 - 野口二郎 - 別所毅彦 - 中尾碩志 - 藤本英雄 - 川上哲治 - 杉下茂
カテゴリ: 雑多な内容を箇条書きした節のある記事 - 2007年11月 | 日本の野球選手 | 熊本県出身のプロ野球選手 | 広島東洋カープ及び広島カープの選手 | 名球会 | 1971年生

[ 140] 前田智徳 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E6%99%BA%E5%BE%B3



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