通いとは?

小町の美しさに魂を奪われた深草の少将は、小町の愛を強要するが、小町は百夜通って満願の日、晴れての契りをむすぶことを約した。少将は99日まで通い、最後の晩、大雪のため途中で凍死してしまうのであった。(京都伏見歴史紀行・山川出版社・山本眞嗣著より)
寺伝に寄れば寛喜2年(1230)から天福元年(1232)道元禅師がこの地で教化に努め、当寺を創建したといわれる。当初真言宗であったが、応仁の乱(1467)後曹洞宗となり、天正・文禄(1573〜92)の頃、僧告厭(こくえん)が中興し浄土宗に改められ、さらに文化年間にもとの曹洞宗に改宗した。
本堂は俗に「伏見の大仏」と呼ばれる丈六の毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)をはじめ、阿弥陀如来像、道元禅師石像などを安置している。
また、当地は昔深草の少将の屋敷があったところと伝えられ、池の東の藪陰の道は「少将の通い道」と呼ばれ、訴訟のある者はこの道を通ると願いが叶うといわれている。なお、池の畔には少将と小野小町の塚と「墨染井」(すみぞめのい)と呼ばれる井戸がある。(京都市設置の説明版より)
「伏見の大仏」一度拝観されることをお勧めします。話の種に拝観されてはいかがでしょうか。と、えらそうに言っている私も初めて2003年6月7日(土)に拝観させて頂きました。私の父親はよく「墨染のお寺に『伏見の大仏』さんがおられる」と言ってましたから拝観したことがあったのでしょう。
大きさ一丈六尺(5.3m)です。美しい仏さんです。唇の朱も鮮やかです。なかなか男前です。私思わす「オー」と声が出ました。江戸時代半ばすぎの作だそうです。大仏様のおられるところが床よりやや低いです。頭は安永3〜5年(1774〜76)に1代目住職が、胴体は寛政3〜8年(1791〜96)に2代目住職が、作られたということです。
大仏造立の契機として考えられることとして、天明義民一揆で悲憤のうちに亡くなった9人の供養のために発願されたとも言われているそうです。ここ深草墨染が一揆の拠点でもあったということです。
私は土曜日に訪れたのですが、拝観料というものを集めておられませんので、インターホンで拝観したい旨告げると本堂を開けて下さいました。いつもそうなのかどうか聞きそびれました。 欣浄寺略記をいただきました。残念ながら大仏様の写真は撮れませんでした。
その他に本堂には道元禅師の石像や小野小町の恋文の灰を固めて作られたといわれる深草の少将の張文像、清涼寺式釈迦如来像(阿弥陀如来像・仁明天皇念持仏)天明年間の「欣浄寺絵図」などがあります。
「欣浄寺の境内は、平安時代の初め桓武天皇から深草少将義宣卿に邸地として賜ったもので、往時は八町四面の広さであったと伝えられている。深草少将は弘仁2年(813)3月16日薨去し、この地に埋葬された。
その後、仁明天皇の寵臣五位少将蔵人頭良峰宗貞(僧正遍昭)が、帝の崩御に遇い、この菩提に念仏堂を建てて帝御念仏の阿弥陀如来像と御尊牌を奉安して念仏浄業にふけられたといわれ、これが現在の欣浄寺の起源と伝えられている。
深草少将は小野小町との物語でよく知られている。少将はここに邸宅をかまえ、ここから山科の小野小町のもとへ百夜通ったといわれている。
境内の一隅には少将と小町の塚があり、またその前に少将遺愛の「墨染の井戸」があって、一に「涙の水」とも「少将姿見の井戸」ともいわれている。弘法大師利剣の名号が納められているこの井戸の水は、今もなお涸れることがない。
随心院は京都市山科区小野御霊町にあります。市バス、京阪バス「小野」下車2分にあります。伏見欣浄寺から行くには、墨染から深草谷口町へ出て、大岩街道を東へ東へまっすぐ行くと奈良街道へでてすぐにあります。距離にして5〜6キロ。歩けば1時間半。この大岩街道は名神高速道路の西の地道(じみち)です。毎夜通うとなれば、なかなかです。それほどの傾斜ではありませんが登り道です。谷口町には多くの墳墓があります。伝仁明天皇深草陵もあります。また江戸時代まではここにある浄蓮華院の東にあるところが、桓武天皇陵でした。仁明天皇をこの「百夜通い」に関係づける意見もありますので要チェックです。
大亀谷には古く天皇や貴族の墳墓が営まれ、聖たちが多く集まっていた。この深草から小野への往還の伝説は、その唱道聖たちと小野の南に当たる醍醐に住んだ雑芸人たちとの交流の中で育まれたものだといわれる。
小野随心院に小町伝説が定着した背景として考えられるのは、随心院のあるところが、古代小野氏ゆかりの小野郷に当たるからということが言えるようです。それに加えてこのお寺の前身である曼荼羅寺の開祖仁海、及び2代目の成尋が、祈雨で有名であったということも関係するのではないかというのです。神泉苑でたびたび効験のあった仁海は「雨の僧正」と呼ばれたそうで、雨乞い説話と縁が深い小町が結びつくのは容易だということだそうです。
深草の少将が百夜通いの折、小町が日数を、榧の実で数え、後に里に播いたと伝えられる。今も山籠もりの修験者に食される榧の実は、古く虫下しや塗り薬として珍重されたという。小町榧と呼ばれ、榧の実売りが売って歩いたという。
・卒塔婆小町像・・・老年の小町の立て膝姿の像。謡曲「卒塔婆小町」など容色を失ってからの小町を扱ったものしか謡曲にはない。なぜなのか?この像も老境に入った小町の像である。
・小野小町文張地蔵尊像・・・多くの人々からよせられた文を下張りして作り、罪障消滅を願うとともに、有縁の人々の菩堤を祈ったものといわれている。
深草の少将は小町から百夜通いを求められ通い続けるが、99日目の大雪に「代人」をたてたため小町に愛想をつかされて、小町に会うことは出来なくなる。その後小町は毎年「はねず」の咲く頃を老いの身も忘れたように里の子供たちと楽しい日々を過ごしたという。
9世紀中ごろ(平安前期)の歌人。生没年は不明。文屋康秀、僧正遍昭、在原業平、安倍清行、小野貞樹らと歌を贈答している。出羽の国の郡司小野良真の子で姉がひとりある。采女であったというが、たしかではない。『古今集』に18首の歌が見え、家集『小野小町集』もある。古今集の序文では六歌仙のひとりに数えられ、〈古(いにしえ)の衣通姫(そとおりひめ)の流れなり。あはれなるようにて、強からず。いはば、よき女の、なやめる所あるに似たり。強からぬは、女(をうな)の歌なればなるべし〉といわれ、海棠(かいどう)の雨を含んだ風情(ふぜい)のように批評されているが、作品を実際鑑賞してみると、しっとりとした趣はなくて、むしろ、奔放であり、情熱的であり、弱いというところはない。美人であったと言われ、全国各地に数々の小町伝説が伝えられている。(西下経一)
古くから美女の代名詞となっているこの女性は、日本の伝説の上で和泉式部と並んで興味深い存在である。現在なお、小野という姓が諸国の神官に多いことからも想像できるように、日本の固有信仰と深い関係を持ち、かつ全国を移住し歩いた家柄であって、篁、道風、妹子らの学者のほか、《浄瑠璃物語(十二段草紙)》の作者と伝えられる小野お通も小野氏より出た女性であった。小野小町の生地、死没の地、あるいは墓所は数多くあって、そのために小野小町は一人ではなかったろうと、古くからいわれていた。群馬県甘楽郡小野村(現富岡市)は地名が小野であり、ここの薬師につたわる難病とその平癒に関する小町の話は、和泉式部のこととして遠く九州の地に伝えられる話と同一である。すなわち、中世以来、信仰を伝えて諸国を遊業した女性の一群があって、その人々がこういう伝説を運搬し歩いたものと考えられる。たまたま小野とよばれる土地があり、由来ありげな古塚があり、清い水のかれることのない井があったりすると、伝説はそこに土着し根をおろして、小町の墓、化粧の井というふうに後代に伝えられたのであろう。なお小町の〈まち〉の語源は〈まうちぎみ〉で、神につかえるという意味がある。(丸山久子)
*これは小町の歌をよまなければと思いました。ここに書かれている「固有の信仰」というのが何なのか、おそらく、中世に流行ったものなのでしょう。「信仰を伝えて諸国を遊業した女性の一群」というのは初めて知りました。
この中で山村美紗氏は小野小町は仁明天皇の更衣で小野氏の出身の小野吉子であろうと考えておられます。仁明天皇の妻と言える女性は13人。小野吉子は『続日本後記』に承和9年(842年)正月8日、正六位上に任じられたと記されている女性で、正六以上は更衣に相当する位だそうです。
小町の町という名がつく他の女性は古今集の中であと二人あり、いずれも更衣なのだそうです。天皇の妻で女御より低い身分で常寧殿という建物の中を仕切って部屋を与えられたもので、その方形に仕切られた区画を町と言ったそうです。
そして小町は仁明天皇の寵愛をそれほど受けたわけではないが、天皇の死後も慕い続け貞節を守って他の男の誘いを断り続けたのではないかというのです。それは平安時代当時の恋愛観からすると変わっていると思われたのではないかと言い、そういう純粋性が、高慢というような伝説につながったと考えておられます。美人であったという伝説についてはおそらく、衣通姫(そとよりひめ)の流れという紀貫之の仮名序の意味は、歌が似ていると言うより美人の流れととるのが妥当という見解です。
小町が落ちぶれた、落魄したという伝説が生まれる背景には、その歌に「空しい、侘びしい、悲しい」という歌が多いところからくるのではないかというのです。小町の言う空しさは、愛する人が来ないことからくるものなのですが、それを経済的に苦しく老衰したときの落魄と取り違えたのではないかというのです。そして、更衣という身分の女性は、次の天皇が即して宮廷を追い出されても「更衣田」という田地を与えられるので経済的には安定していたはずだというのです。
「小野小町は、古(いにしえ)の衣通姫(そとおりひめ)の流れなり。あはれなるようにて、強からず。いはば、よき女の、なやめる所あるに似たり。強からぬは、女(をうな)の歌なればなるべし」
*小野小町が確かに活躍していたという確かな証拠はこの「古今集」の「仮名序」と「古今集」にある18の歌であるようです。紀貫之の『あはれなるようにて、強からず』という評に対して「しっとりとした趣はなくて、むしろ、奔放であり、情熱的であり、弱いというところはない」と西下経一氏は書いておられます。果たしてどうでしょうか。
*衣通姫(そとおりひめ)は19代天皇允恭天皇の寵妃で、「その艶(にほ)へる色衣を徹して晃(ひか)れり」と『日本書紀』に記された美女。同母姉の皇后から妬まれ都(藤原京)を離れて河内へ逃れ、天皇を恋い慕いつつ寂しい生涯を終えたといいます。「古今集」の宣下があった(905)のは小町が活躍した仁明天皇時代(833〜50)から50〜70年後です。衣通姫の「流れ」というのはもちろんその歌のことでしょうが、その境遇も似ていたのではないかというのが、『36歌仙の舞台』(京都新聞社・平成4年)を書かれた樋口茂子さんの説。つまり小町の恋歌の相手は仁明天皇ではないかいうのです。
*1は小倉百人一首にもあるもので、色香衰えていく自分を嘆く歌。2はうたたねで恋しい人を見てからというもの夢に期待しているという歌。3は現実でも夢でも逢うことをはばからねばならないという嘆きの歌。どうも歌の解説は難しいですね。未完。
これには女の名前は記されず、男は四位少将となっているそうで、これが小町と結びつけられるのは、やや後のことになるようです。
「徒然草」を見ていたら小野小町のことを兼好法師が書いているのを見つけました。そのまま書いてみます。
小野小町が事、きはめて定かならず。衰えたるさまは、*1玉造と云う(ふ)文にみえたり。この文、*2清行が書けりという説あれど、*3高野大師の御作の目録に入れり。大師は*4承和のはじめにかくれ給えり。*5小町がさかりなる事、その後の事にや、なお覚束なし。
*2清行・・・三善清行。参議。917年没、72才。安部清行(古今集の作者。900年讃岐にて没)ともいう。
*4承和・・・834〜848年。仁明天皇の御代。中家実録に「承和上下呉音」とあり、ロドリゲスの日本大文典には、(ショウワ)とある。今読みくせに従っておく。
兼好法師が「徒然草」を書いた時代は鎌倉時代末〜南北朝動乱の時代です。その頃には分からなかったのです。そうでしょうね。500年ぐらいの隔たりがありますから。
読んでみましたが、あんまりおもしろいモノではありませんでした。これは「長文の序をもつ古詩」であると書いてありましたがその通りで、多分漢文に堪能な方はこの文章が韻をふんでいたりのおもしろさが分かるのかもしれません。また浄土教真言宗との関係もあるので平安時代の宗教や死生観について研究されている方にはおもしろいかもしれません。私のように物語として読もうと思った者には退屈な比喩(中国の故事に精通してないと分からない)の連続です。平安時代の貴族や僧侶はこういう教養があってはじめて文章を書いたのだなということは分かります。
話者(この話しを伝える者)が、大路小道そぞろ歩きをしていたら、気の毒なくらい老いさらばえ着るものもなく、素足で履くものもない、そして食べるものにも窮している女人に会った。その老婆に身の上話を聞いたら、こんな話しを聞かせてくれた。
「私は置き屋の子で、良家の子さ。女盛りの頃は贅沢の限りを尽くした。衣服は蝉の羽のような薄絹でなければ着やしなかった。食事はノロジカの牙のような白米でなければ食わなかったさ。錦繍の縫いとりの服は、いつも蘭香くゆる部屋に満ちあふれ・・・」(と、こういう説明が長々続いて飽きてくる)
「こんなに幸せだったが、17歳で母を亡くし、19歳で父を亡くし、21歳で兄を亡くし、23歳で弟を亡くす。それが不幸の始まりで、このように路上をさまよう生活になりました。」
「今は仏にすがりたいと思うけれども、仏にお供えするものもなく、御仏の十力におすがりすることもできません。どうかもろもろの御仏様、きっと孤独の我が身をお導きたまえ」
私(話者)はこの話しを聞いて、蒼天を仰いで老女の悲惨を悲泣し、白日の下、身をふせて愁吟した。富貴は天の与える所のものである。東西南北に移動する雲の色は変転極まりない。愛楽は人の賞で感ずるものである。生老病死の四苦の風声は時を待たずして訪れてくるものである。
路のほとりに年老いた女がいた。気力みな衰えなえて、痩せ疲れた容顔。身には風葉のような衣すら身につけることを欠き、口には露花のようにはかない物すら食うことは希である。・・・父母と死別してから、猟師の下に嫁ぐことになった。その猟師には妻が二人いた。やがて男の子が生まれたが、それから自分の形体(すがた)は衰えてしまった。殺生を生業にする夫の罪は限りなく死後の地獄の苦しみは比類がない。父母は先立ち、我は生き残った。子は病み倒れ,また夫も亡せた。父母は身罷って身を寄せる所を失った。眼前の幸福はものの数ではなく来世の安寧をもっぱら求めよう。(ということでこのあと釈迦と阿弥陀仏に頼りたいと言い、極楽浄土の様を描写して)すべての仏の功徳を讃えるために、筆をとってこの詩を作ったのである、で終わる。
・解説者(杤尾武さん)はこの壮衰書はもともと小野小町を題材にしたものではなく、原壮衰書は「女人壮衰書」とでも称したものと考えられると言う見解である。
・作者は空海で、空海は小町のことを書いたのではなく、女の壮衰を書いたが、後世小野小町伝説の普及により、浄土思想も付加されて現壮衰記が成立した。その時期は真言宗に浄土思想が組み込まれる平安中期以後と考えられる。
謡曲百番には「通小町」「卒塔婆小町」「関寺小町」「鸚鵡小町」が入っていますが、その他に「草紙洗小町」「雨乞小町」「清水小町」があり、この7つを「七小町」といいます。葛飾北斎も「七小町」を題材に浮世絵を制作しています。
この4つに共通するのは小町の晩年が哀れであったということです。晩年哀れは平安時代にすでにできあがっていた小町像のようです。「玉造小町子壮衰書」と小野小町が結びついた結果こういう話しが作られたようです。
京都八瀬の里で修行している僧のところへ毎日薪や木の実を届ける女がいた。今日もやって来たので名を尋ねると「小野とは言はじ、薄(すすき)生(おい)たる、市原野辺(いちはらのべ)に住む姥ぞ」と言って消える(中入り)僧は小野小町の歌説話を思い出して、市原野へ出かけ弔う。小町の霊が現れて弔いを喜ぶが、その後を追って、やつれ果てた面差しの四位少将の霊が現れ、小町を引き留めその成仏を妨げようとする。かつて少将は「百夜通へ」という小町の言葉に従い、通い続けたが、あと一夜を残して死に、思いを果たせず、死後も地獄で苦しんでいるのだった。僧が「懺悔に罪を滅ぼし給へ」と勧めると、少将の霊は百夜通いの有様をまねて見せ、共に成仏することができた。
シテ(四位少将の霊) さらばおことは車のシヂに、百夜待し所を申させ給へ、我は又百夜通えし所をまなふで見せ申候べし。
シテ 思いもよらぬ車のシヂに、百夜通へと偽(いつわり)りしを、誠と思い、「暁ごとに忍び車のシヂに行けば
同 かように心を、尽くし尽くして シヂの数々、算(よ)みて見たれば、九十九夜(くじふくよ)なり、今は一夜よ、う れしやとて、待(まつ)日になりぬ、急ぎてゆかむ、姿はいかに
ただ一念の悟りにて、多くの罪を滅して、小野小町も少将も、共に仏道なりにけり、共に仏道なりにけり。
ここで小町は「本より我は白雲の、かかる迷いのありけるとは」と言っています。つまり四位少将が自分を成仏させずに地獄まで追ってくるほどの執念をもっているとは知らなかったと言っているのです。『百夜通い』は小町の体の良い「断り」だったのでしょう。しかし一途に思い詰める四位少将は、「車で来られては人目に立つからやめて」(むちゃくちゃいやがられていることを悟るべきです、この時点で)と言われたら「輿車」に変え、山城の木幡の里には馬もいたけれど、裸足で蓑笠つけて、竹の杖をついて通ったと言います。雪の夜の寒さも耐え、雨の夜に鬼が出そうな恐ろしさも耐えて通ったのに、小町は、「月は待らん、月をば待つらん 我をば待たじ、虚言(そらごと)や」と私を待たずに月を待っていた、嘘つきだと責め立てます。そして、いよいよ百夜目に、身なりを整えカッコよく出かけた・・・とここで「百夜通い」で百日目に自分がどうなったかは語られていません。そして、『飲酒戒を守ったから二人は仏道なりにけり』となってます。正直言ってこの百日目の様子が知りたかった私としてはガッカリ。それにしてもここで語られる四位少将は死んでから、小町が自分を思ってなかったことが分かるわけで、小町にしてみたら今で言うところの「ストーカー」とかわらないと思っていたのでしょう。それを恨んで地獄でまで小町を成仏させずにいるのは情けないというか、男らしくないというか。情けないヤツです。私は小町が思わせぶりな『百夜通い』を男にさせて男を手玉に取る、美人を鼻にかけたイヤなやつだなとこの『百夜通い』の話を捉えてましたが、違いますね、少なくともこの謡曲「通小町」から分かることは。これはストーカーの話です。小町は被害者です。
謡曲「通小町」[卒塔婆小町」は、小町の悟道への願いを象徴的に表現したと考えられなくもない。世に伝えられる小町晩年の零落の姿は、小町の一人の人(仁明天皇)への純一な愛ゆえに、おのが思いを遂げられなかった男たちの、恨みつらみの所産といえよう。
樋口さんの「おのが思いを遂げられなかった男たちの、恨みつらみの所産といえよう」という見解に賛成です。小町は美人だが恋多き女性で思わせぶりだったというのはどこかで私の中で作られていた人物像だったのです。深草少将に肩入れしたくなるのは私が男だからでしょうか。
高野山の僧が仏教に出会った喜びを述懐しつつ都へ上る途中、鳥羽の辺りで老醜を恥じ、都を逃れた乞食の老女に出会う。朽木と思い倒れた卒塔婆に腰掛けている老女を教化しようと卒塔婆の功徳を説く僧。ところが老女は僧の言葉に反論し、迷悟は心の問題であり、本来無一物と気づけば仏も衆生も隔たりはないと論破する。教化するつもりが逆に言い負かされた僧は三拝する。僧に名を問われた老女は小野小町と答える。突然、小町は狂乱し「小町の許へ通おう」と叫び「人恋しい」と訴える。四位少将の霊が憑いたのだ。そして少将の怨霊は百夜通いのさまを繰り返す。やがて憑いた霊も去り、小町は後生安穏を願う。
情景 近江国逢坂山。前半ー関寺近くの老女の庵室のあたり。ある年の七夕の夕暮れ。後半ー関寺の庭。同じく夜半から明け方。
7月7日のこと、近江国関寺の住職が稚児を伴い、近くに住む老女の庵を訪ねる。老女が歌道を極めていると聞き稚児の和歌の稽古のためである。老女は僧の頼みを一旦断るが、問いに答えて話す。衣通姫(そとおりひめ)の事や小町の歌の対応から僧は小町だと悟る。素性を知られた小町は栄華を誇った往時を回想するが今は歌道のみが慰みのようである。僧は関寺の七夕祭に誘う。小町は祭りの稚児の踊りを見ているうちに、誘われるように立ち上がり昔忘れぬ舞を舞う。そしてやがて夜明けと共に自分の庵に寂しく帰っていく。
百歳過ぎた小野小町が近江国(今は京都市山科区)にある関寺あたりにさすらい住んでいると聞かれた陽成院が新大納言行家を遣わして小町を憐れむ歌を送った。今は物乞いにの境涯の小町に、行家は歌を詠んでやる。「雲の上は有りし昔に替わらねど見し玉簾(たまだれ)のうちや床(ゆか)しき」つくづくと承っていた小町は、ただ一字で返歌せんと言い「内ぞゆかしき」と変えただけの「鸚鵡返し」で返歌する。そして和歌の風体や鸚鵡返しの由来を語って聞かせ老残の身を嘆く。やがて求めに応じて業平の舞をまねて舞い、日暮れとなり行家は都へ、小町は杖にすがって柴の庵へ帰っていく。
歌人伝説物。小町は美人の代表とされ、謡曲にも『卒塔婆小町』以下数曲の小町物がある。「古今集」序をはじめ歌書から多く引き、謡曲を援用し、美男の典型とされた業平を絡ませたもの。小町は如意輪観音、業平は十一面観音の化身という本地物に近く、仏教色も強い。
この深草の少将という人物は、正史にその名をとどめていないと言います。それで、後の僧正遍昭(右近衛少将、従五位上 良岑朝臣宗貞)が深草の少将に一番近い人物といえると山本先生は結論づけておられます。 京都伏見歴史紀行・山川出版社・山本眞嗣著より
『小倉百人一首』に有名なこの歌の作者が僧正遍昭です。この歌の意味は「天女を迎えに来る雲の道を閉ざせ。天女のように美しいこの未通女(をとめ)をいましばし私の元に留めさせよ」という意味で「古今集」には「五節のまひひめをみてよめる、よしみねのむねさだ」とあります。俗名良岑宗貞(よしみねのむねさだ)。桓武天皇の孫。大納言安世の子。「五節の舞」は11月大嘗祭新嘗祭の辰の日に奏せられる少女の舞で、舞姫は5人でした。小町はこの五節舞姫であったと伝えられており、この歌の「をとめ」は小町ではないかと言うのです。この宗貞がなぜ僧になったかというと、自分が使えていた「仁明天皇」が崩御した時に少将宗貞は姿を消し比叡山に隠れ、出家したそうです。そのくらい君に忠心を抱いていたということになるようです。そしてこれが墨染桜の話につながります。その話を細川幽斎から聞き感動した豊臣秀吉は墨染桜寺(「伏見の桜」参照)を保護するわけです。欣浄寺と墨染桜寺はすぐ近くです。
正月に遍昭が清水寺に籠もり、陀羅尼経をよんでいたら、ふいに文を渡されます。小野小町からでした。歌が書いてあります。
『36歌仙の舞台』の樋口茂子さんは、仁明天皇をただひとりの人と思っていた小野小町であり、その仁明天皇をこよなく愛した遍昭であるから二人を結びつけるのは無理だという見解です。遍昭は仁明天皇の」文使いとして小町の元を訪れ恋心ぐらい抱いたかもしれないが、深草の少将のような激しい思慕を寄せたとは思えないとのことです。
京都府北部に大宮町というところがあります。もう7,8年前にテニスの合宿で出かけたことがあります。泊まったところのお風呂が温泉で「小町湯」という名前でした。小野小町をえらい宣伝してるなあ。なんでこんなところに小野小町が関係するのかと思ったのですがそれほど関心もありませんでしたので深く調べることもありませんでした。この「百夜通い」調べてたら絵本を見つけました。その話を紹介します。小町も深草少将も出てきます。では。
五十日(いかが)村の甚兵衛さんが村へ帰ろうと道を歩いていると、前を美しい女性が歩いています。いっしょに道を歩いているうちに夜更けになり甚兵衛さんは、自分の村へよるように誘います。その女性は丹後宮津の天橋立のお寺へ向かう途中だと言います。女性は甚兵衛さんの好意に甘え天津というところで泊めてもらいます。雪が深いためその女性は春まで長居することになりました。
ある日この村に火事が起こります。この村はよく火事が起こり火事はこの村の悩みの種でした。その女性は「五十日村」の「日」が良くないので「日」を「河」に変えるように進言します。その女性の言うとおりするとそれから火事はなくなったと言います。
その女性は「都の人」と呼ばれるようになったといいます。「都の人」は春になるとやはり、天橋立へ出発します。甚兵衛さんは途中まで送ります。長尾坂まで行ったとき「都の人」はうずくまり歩けなくなります。甚兵衛さんはそのまま「都の人」を家へ連れて帰り介抱しますが、なくなってしまいます。
ある寒い日、都から深草少将が尋ねてきます。そして、小町が死んだことを知ると、彼もまたその場に倒れ死んでしまいます。深草少将のためにも祠を建て手厚く葬ったと言います。
「信仰を伝えて諸国を遊業した女性の一群があって、その人々がこういう伝説を運搬し歩いたもの」と言われるものの一つがこのお話なのだろうと思います。この話でも水が関係してます。やはり小町と水は切れない関係のようです。

[ 8] 深草の少将百夜通い
[引用サイト]  http://shigeru.kommy.com/momoyogayoi.htm

ベケットと並び、不条理劇の双璧と言われる作者。日本に紹介されてから早や四十年を過ぎる。当時はよく日本でも上演されたが、その後は見当たらず、最近また復活の兆しが見える。だが、珍しいと言う気が先立つ。戯曲では、登場人物三人の年齢、服装はもちろん、舞台の進展に伴っての感情や態度の変化までも細かに書かれてあり、装置描写もごくリアルで、舞台となる教授の部屋の窓から見える町の景色までも記述されてある。
当時、来演した「ユシェット座」やいくつかの日本の劇団が上演した舞台の記憶をたどってみると、内容をよく理解しがたいままの中で、インテリ人である教授が、若い娘である生徒を殺してしまったあと、丈夫そうな百姓女のようである女中マリーに頼りっきりになる様子が、強く印象に残っている。そして、ハーケンクロイツの腕章、棺桶が四十もという台詞が、浮かび上がる。もう一つ、年老いたという教授の年齢指定が五十歳から六十歳くらいとある。当時からみても、急速に人間の寿命は伸びたようである。これは発見か。
この舞台では、四角な演技空間が設定され、そこには白いA3大の紙片が折り重なって積もっている。その上に登場人物。顔から身体一面、包帯に巻かれた女(女中らしい)がいる。何かを整理している。男が包帯を解く。
コミュニケーションの破壊と偏在と歪曲。その繰り返し、その先にある殺人。とは、パンフにあるコトバ。舞台の進行は戯曲通りのはずである。授業が始まる。1+1、数の概念。兆より上の単位の積の暗算、生徒は出来る。言語学に進む。女中が必死で止める。授業は進む。生徒は「歯が痛い」と授業に集中しなくなる。ナイフという言語、取り出して説明していくうちに、教授は生徒を刺殺する。慌てて女中を呼ぶ。二人の絡み合い。白い紙がザワザワと舞い上がる。不条理というよりも、象徴的な舞台という印象。何を象徴しているのか。感じるには後半がややしつこい。
[作]ウージェーヌ・イオネスコ[訳]安堂信也・木村光一 [演出]外輪能隆
A=会社の同僚の結婚式。二次会散会帰りのタクシーに乗り合わせた三十台の男女。男は新婚、女は独身。その酔い紛れての会話。その会話内容、テンポが軽やかで面白い。ただ、題名とのつながりは何か。ラストの抱き枕を置いていく意味は。分からない。
B=充分以上に取り散らされたアケミの部屋に、男と別れたと、荷物ともどもやってくるトモミ。これが若い女の部屋かと思うほどのなかで、交わされる会話。屑袋から見つけた紙片を読み、トモミは出て行く。この変化が分かりにくい。BGMとカセットCDの区別が付きにくい。
C=嫉妬深いゼウスの妻ヘラはゼウスの愛人たちを雷で殺す。その前提があり、同郷の若者がマンションの一室で語り合う。そのうち、既婚の男が友人の妹と関係を持ち、とうの妹が兄の許にくることが明らかになる。そのやりとり。台詞よりも表情を使いすぎ。妹が来る途中で雷にうたれるのも作りすぎ。
D=パンツ一枚の裸の若い男が登場。部屋を動き回る。そこへ若い女が入ってくる。男から逃れようと部屋中ドタバタと逃げ回る。その間、終始無言のままが数分続く。ようやく落ち着き、台詞。男の正体は古アパートで、一酸化中毒でつい先日死んだ〈幽霊?〉である。「出るなら同棲相手のところに出ろ」と女はなじる。途方もない話である。これも設定は面白い。だが、ラストのオチがさほど決まらない。
この試みも3年目を迎えた。脚本をあらかじめ募集。「演劇まつり」の日程が終わったあと、参加劇団から、演出者・スタッフ・出演者が希望で決まり、劇団の枠を払ったメンバーで舞台を創り上げていく。これまで、組み合わされたことのない出演者と演出。中々興味深い舞台が出来る。スタッフも参加劇団の中で支えあっている。こういった交流からまた新たなものが生み出されるだろう。
今年度も去る4月10日から8月1日まで4ケ月に亘って「春の演劇まつり」が開催され、合同公演、プロデユース公演を数えると20以上の劇団が参加し、18本の演目が上演された。
小説からの脚色2本を合わせると書き下ろし11本、既存作品7本。歴史のある劇団を中心に全体的に高いレベルの作品が上演された。会場も上演No10は一心寺シアター倶楽、13は谷町劇場、16はフジハラビルで上演されたがそれ以外の15作品は全て森の宮のプラネットホールで上演された。
4月になれば、週末森の宮に行けば芝居が観られる環境を作り続けたユースサービス大阪を核とする主催団体と参加劇団で構成される実行委員会の労を多としたい。
大阪府の財政の困難な状況はマスコミにも何度も取り上げられているが、文化の火を守り、育てる為28回を数える春の演劇まつりがさらに長く継続できるような施策を強く望みたい。
上演作品のうち5作品については既に当誌48号でも紹介されているが、全18作品を下記で取り上げる。
乗り物としての自転車が効果的に使われ、人間の移動では表現できないスピード感があり総合的に完成度がたかい。自転車は車になり、椅子になり、状況の変化に応じて自在に変化し、違和感を生まない。「おれはあんたの気をひきたかった」と言う単純な行動が、747を食べることで表現するという男の想い。あなたのためにタージ・マハールを建てるというおとこの想い。それこそが至高の愛の物語り。と銘打ったエンターテイメント。人の心に大切なものを届ける方法は単純なことが最も力を発揮する、とあらためて思う。
土本ひろき、阿部一徳、たきいみき、京ララ、外輪能隆という存在感のある俳優陣に交じり14歳の虎走萌も充分対応力を発揮、完成度を高める為の役割を充分果たした。(初日はピアノ生演奏つき)
今年も参加20劇団による18演目の多様な舞台に接することが出来ました。その個々の舞台については米村さんが具体的に評していますので、その18の舞台全体を通しての思いを簡単に記させて頂きます。まず、結論から云いますと、個々のその内容と劇への姿勢です。其の劇を上演する当事者(劇団)と、その『劇(作品)』との関わり方です。劇団の多くが(特に若い人達の劇団が──)上演する作品(戯曲)そのものの内容と、各々の距離の近さに驚きます。それは戯曲の内容(世界)と直接関係しています。既成作品は5作品。1作品は既成推理小説の脚色。そして、12作品がオリジナル作品であったことに直接つながります。劇(戯曲)自体の内容はとも角、それは劇への積極的姿勢だと見ることが出来た様にも思います。そして、その各々の思いが託された劇作品(舞台)に、一様に《個的な世界》への傾斜が見えたところに、今年の(実は今年だけの事ではありません)特色というか、或る一つの傾向を観た様に思います。劇が対社会的課題、世の中の情況、或いは生活とつながっての問題が各々の劇に込められて在った、かつての時代の劇の在り様とは大きく変化を見せるその所に、今、我々が《劇をスル》ことの課題が大きく横たわっているのではないか、という思いがします。《劇をスル》ということは、スキ、キライ、無関心、いずれの姿勢に関わらず、『観客』という他者に観てもらう(観客が存在する)ことで成り立つ行為です。その限りに於いて《社会的行為》です。その認識に立って、次への劇作り、劇への行動につないでいって欲しいと念じること頻りです。既成作品による5つの舞台と併せて、劇が身近な事柄への興味に即した劇作品であったにも拘わらず、それら劇の世界が、あくまでも「表現」(その出来不出来は別として)あるいは「劇」のための行為として、自己との距離の近さにも拘わらず、『創り出された世界』──お話、物語り──であったところに、逆に『今』という時間での劇への行為の有り様と、劇をスルことの課題を見ることが出来たと云えます。
さて、あと先が逆になりましたが、参加20劇団中、新しく参加した劇団は6劇団。14劇団が昨年に続いての参加だったことは嬉しい事でした。そうした反面、「春演」を立ち上げ、その中心として支えて来た「劇団大阪」「劇団きづがわ」が不参加だったことは、今年のプログラムに或る淋しさを感じさせました。その事と、「春演」は春の演劇の《お祭り》である筈ですのに、心をわくわくと揺さぶる楽しさ、触発する舞台、劇へ引き寄せる劇的な動き、高揚感が見られなかったのが残念です。そして、ちんまりとプラネットのステージに納まり、収束されていく舞台が殆どだったのも残念でした。観客を挑発する様な舞台が欲しかったのは、筆者一人だけの思いでしょうか。《劇》と《演》の文字の本来の意味に思いを馳せながら……。(04/8/16)
さて、今年の各部門への受賞された方々は、次の通りです。今年はこれ迄、受賞の無かった『作品賞』(舞台全体の成果、出来への総合賞)が初めてありました。これも今年の舞台の成果のあらわれの一つです。
1.作品賞 エレベーター企画『ぼくは747を食べてる人を知っています』PHOTO▼
メルマガ┃劇評┃作品アンケート┃稽古場&ワークショップ雑記┃evkk.net検索

[ 9] 劇場通い
[引用サイト]  http://www.evkk.net/evgekijougayoi.html



お気に入り



  • track feed
    • seo