題目とは?

お題目とは何にか?お経のタイトルのことでしょうか。よく一般社会では、「政治改革は政治家のお題目にすぎない」という様な使われ方をします。この様な使われ方の場合、辞書で調べると「ありがたそうに唱えているばかりで、内容・実質のない主張」とあります。お題目の「ナムミョウホウレンゲキョウ」という発音だけをとらえがちです。あるいは、経典の名前としか考えられていないようです。経典の名前であることは勿論、久遠本仏の実体であり、心でもあるのです。結論を急ぐなら、日蓮大聖人のお言葉どおり『観心本尊抄』の「釈尊因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等この五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまう。」です。久遠本仏の本来的な因果が妙法蓮華経の五字に具わっていて、南無妙法蓮華経と唱えれば、本仏の功徳が与えられるのです。遥かなる永遠の実体・久遠実成本師釈迦牟尼仏の始まりのない且つ終わりない生命と私達の命と繋がっているということを、お題目を唱えることにって認識するのです。「ナムミョウホウレンゲキョウ」と唱えれば、病気が治るとか事業がうまく行くとか、そのようなキャッチフレーズで勧められたお題目は、最初に言いました「ありがたそうに唱えているばかりで、内容・実質のない主張」といえるでしょう。お題目を唱えれば久遠本仏の因果の功徳を得られるということを、わかりやすく述べなければなりません。
最初から長くなりましたが、上にお話したことはお題目の中味よりお題目を唱えるという意味合いを説明しました。その唱え方については「おこない」で詳しく述べていますのでそちらを参照してください。さて、「本門の題目」ということですが、妙法蓮華経の五字とは何かということです。大聖人は理論的(玄義的又は教相的という)には、このペ−ジの上に引用した「いわゆる妙法蓮華経の五字、名・体・宗・用・教の五重玄也。」という表現と、実践的(止観的又は観心的という)には「一念三千を識(しら)ざる者には、仏大慈悲を起し、五字の内にこの珠をつつみ、末代幼稚の頚(くび)に懸(か)けさしめたまう。」という表現があります。実践的(止観的)なお題目(本法・ほんぽう)については、「一念三千」の項目で説明していますので、ここでは理論的な(玄義的)お題目(要法・ようぼう)について説明します。また「本門のお題目」とは、その両方の意味があるということです。まず、その理論的なお題目を理解するために、本法と要法との関係について少し説明します。
さて、その前に本仏についてお話ししておきます。すなわち久遠本仏のことです。詳しくは久遠実成本師釈迦牟尼仏といいます。法華経第16章・如来寿量品にまします仏です。このホームペ−ジでは、しばしば「遥かなる永遠の実体」という表現をしました。これは、作家石川英輔氏の『未来妙法蓮華経』(講談社文庫出版、660円)の本仏の表現「大いなる宇宙の実体」にヒントを得たものです。要は、実体であるということが証明されているということです。話を進めましょう。仏とは如来ともいいます。その仏には、例えば大日如来、阿弥陀如来、薬師如来というようにいろいろな如来の名があります。これは『大日経』の中で真理の仏として大日如来が説かれ、『阿弥陀経』の中では慈悲深い阿弥陀仏が説かれるのです。しかし、説いたのは誰か?説いた仏は歴史上の釈尊に決まっています。説かれたのはそれらの経典であり、その中で説かれる仏です。しかし、法華経だけは事情が違うのです。法華経は、お経を説いている仏・釈尊が、説いている途中に釈尊自身の永遠性を証明したお経なのです。説かれている仏の存在や慈悲が永遠であるというお経は多いのです。(中国唐代の天台宗の高僧妙楽大師湛然<711〜782>は<法身の非寿は諸経の常談>といって、どのお経でも仏の真理等は永遠であると説いているとし、大聖人もこの釈を引用されました。)大聖人はそれを「法身の無始無終はとけども応身報身の顕本はとかれず」と表現されています。つまり説いている仏自身が永遠であると述べたお経は法華経だけです。法華経の久遠本仏を説いた仏といい、諸々のお経の仏を説かれた仏といいます。
例えば、私にちかめがお説教したとしましょう。そのお話教の中で、自分の知り合いの名前を出して「山田太郎さんは、ほんとにやさしくすばらしい。鈴木次郎さんは、健康そうで百歳まで長生きできる。」というように言ったとしましょう。しかし、たとえ山田さんや鈴木さんが実在の人物であったとしても、お話の中での山田さん、鈴木さんに過ぎないのです。このように、阿弥陀如来や大日如来も所詮、説かれた仏であるのです。それに対して、「法華経の久遠本仏も説かれた仏ではないか」と言い返したくもなるでしょう。「説いている途中に釈尊自身の永遠性を証明した」というが、それも説かれたうちで、証明されたことにはならないという反論があるでしょう。しかし、厳然として証明されたのです。法華経には予言(今としてはこの予言という言葉があまりにも皮相的に使われ、適当な言葉とは言い難いが・・・)として、末法において本化上行菩薩が出現し、しかもその本化の菩薩は迫害に合いながらもこの法華経を広めるとあります。日蓮大聖人がそれを証明したのです。(このことについてはいずれあらためて説明します。)
「遥かなる永遠の実体」「大いなる宇宙の実体」の名前としては、空間的にも時間的にも超越している説いた仏の名前ですから「久遠実成」となり、また歴史上の仏陀世尊は釈尊ですから「本師釈迦牟尼仏」となります。つづけると「久遠実成本師釈迦牟尼仏」となるのです。仏教において本仏といえば釈尊であるの当然です。大聖人は「教主釈尊を本尊とすべし」とさけばれ、だからこそ鎌倉時代当時の他宗の教えをあれほど批判されたのです。ですから「久遠実成の阿弥陀仏」とか「久遠元初の自受用身本仏日蓮大聖人」とくれば、これはもう阿弥陀教であり、日蓮教の世界です。「久遠実成の山田太郎」と言っているの同じです。久遠実成と山田太郎との関係が全く明らかでなく、最早仏教を逸脱していると言えるのです。
ここで、本法と要法の説明にもどります。遥かなる永遠の実体である久遠本仏が悟った悟りそのもの、宇宙の大真理が本法です。本来的に存在する法、本有の法だから本法です。そのような真理とか真如とか法理とかいう表現もできる本法に、確固たる名前が必要なのです。本仏はその本法に名前を付けたのです。我々一切衆生にわかるように、本仏は妙法蓮華経と名づけたのです。それが要法です。大聖人はそれを「名・体・宗・用・教の五重玄」とも述べられたのです。すなわち理論的(玄義的)な面から言及したお題目といえるのです。
では、その「名・体・宗・用・教の五重玄」とは一体どういうことでしょう。これは天台大師の『妙法蓮華経玄義』略して『法華玄義』という書物の中で述べられた言葉です。「妙法蓮華経」という経題の五字のみを解釈した書物です。その中で「名無くんば以って法を顕すこと無し。故に初めに名を顕す。名は法に名づく。法はこれ体なり。名を尋ねて体を識る。体は宗に非ざれば会せず。体に会して自行すでに円なれば、体より用を起こして含識を導利するに、利益既に多く、すべからく教相を分別すべし。」と述べられています。久遠本仏が悟ったその宇宙の大真理に「妙法蓮華経」と命名しただけでなしに、「妙法蓮華経」はその本体であり、因果であり、作用であり、教えそのものということです。その根拠として、『法華経』の第21章如来神力品の「その時に仏、上行等の菩薩衆に告げたまわく<中略>要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法(名)。如来の一切の自在の神力(用)。如来の一切の秘要の蔵(体)。如来の一切の甚深の事(宗)。皆この経(教)に於て宣示顕説す。」の経文が挙げられます。重要なことは、本仏がこの本法を上行菩薩に託された、付嘱されたということです。繰り返しますが、真理の大法が「妙法蓮華経」という要法となるのです。
お題目を理論的に説明したため、すこし難しくなりました。もう少し難しいところをお話しすると、天台大師は法華経の経文を逐一解釈した書物に『妙法蓮華経文句』略して『法華文句』があります。その如来神力品のところでは、「要を結するに四句有り。(如来の)一切(の所有の)法とは、一切は皆仏法なり。これ一切皆妙名を結するなり。(如来の)一切(の自在の神)力とは通達無碍にして八自在を具す。これ妙用を結するなり。(如来の)一切(の)秘(要の)蔵とは、一切処に辺して皆これ実相なり。これ妙体を結するなり。(如来の)一切(の甚)深事とは因果はこれ深事なり。これ妙宗を結するなり。皆於此経宣示顕説とは、総じて一経を結するに、唯だ四のみ。その枢柄<すうへい>を撮って、これを授与す。」と解釈されています。最後の「その枢柄を撮る」とは、譬えれば水を飲むときに柄杓(ひしゃく)取って飲みます。その柄が妙法蓮華経という名前であり、それをとることよって体も宗も用も具わっているのです。その教えが妙法蓮華経であり、本仏は上行菩薩に「妙法蓮華経」として授与したのです。
かなり専門的なお話になりましたが、結論は、宇宙は大真理が妙法蓮華経の五字に極まるということです。久遠本仏の悟られた本来的な真理・本法の名が「妙法蓮華経」。その本法の本体の中味も「妙法蓮華経」。本法の因果すなわち宗も「妙法蓮華経」。その真理の作用も「妙法蓮華経」。その悟られた教えも「妙法蓮華経」であるということです。どうしても妙法蓮華経という漢字でなければならないのです。もっと具体的にいうと、妙法蓮華経は法華経の名です。法華経は何を説くのかといえば、妙法蓮華経を説きます。法華経はどのような修行を勧めるのかといえば、南無妙法蓮華経。お題目である南無妙法蓮華経を信仰してどんな利益があるのかというと、それも妙法蓮華経。そしてその教えはというと、もちろん妙法蓮華経です。そして上行菩薩すなわち大聖人に託された、お題目・南無妙法蓮華経と唱えれば、遥かなる永遠の実体・久遠本仏及びおおいなる宇宙の大真理と一体化するのです。

[ 154] 本門の題目
[引用サイト]  http://www.hct.zaq.ne.jp/renjouji/daimoku.html

題目(だいもく)とは、日蓮系・法華経系の宗教団体などにおいて勤行の際に用いられる南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)の文句のことである。お題目とも言う。元来は題名の意であり、法華経(サッダルマ・プンダーリカ・スートラ)の翻訳題(あて字)である妙法蓮華経(鳩摩羅什【くまらじゅう】による訳)の五字のことを指しているが、南無(帰依するの意)を加えて七字にしても「題目」と呼ぶ。
鳩摩羅什(クマーラ・ジーヴァ)が漢字に翻訳した法華経一部八巻二十八品の題目(題名)は、「妙法蓮華経」の五字である。「南無妙法蓮華経」とは、妙法蓮華経(法華経)の法{御教え(みおしえ)}に帰依(きえ)することである。題目を連続して唱える行は、法華経の教えを信じ、従うことを宣言する修行である。この漢字に翻訳された五字・七字の題目を連続的に唱えることで、経典のすべてを読み実践するのと同じ功徳があるとされている。
また、漢字翻訳によるこの五字の題目を本仏の名号と見なして南無(帰命)しようとする立場の者から見れば、五字の題目に込められた教えの実践法とは八巻二十八品ではなく、七字の題目すなわち「南無妙法蓮華経」となる。
既に平安中期の天台宗では称名念仏の影響で題目も唱える様になってたが、題目そのものが教義に組み込まれることは無かった。題目そのものを教義に組み込んだのは日蓮が最初である。
法華経系の宗門では、様々な修行の中、この「唱題行」を「正行(しょうぎょう)」と呼び、最も重視している。他に、滝に打たれたり、断食行や無言の行を行ったりしても、それは「助行(じょぎょう)」と呼ばれ、補助的な修行方法に過ぎない。
唱題の際、日蓮宗(主に一致派)などでは「なむみょうほうれんげきょう」と発音している。富士門流(日蓮正宗など)や在家宗教系である創価学会などでは、「なんみょうほうれんげきょう」と発音する。
また、日蓮正宗の勤行には、唱題とは別に「引き題目」と呼ばれる作法もあり、この時は「なーむーみょーほーれんーげーきょー」と一音一音が長く引き伸ばされて唱えられる。今では使われてないが、数年前の創価学会では「なーむーみょーほーれーんげーきょーなーむー・・・」と「れん」を伸ばして唱えていたが、日顕法主は「れんー」と唱えている。なお、日如法主も登座以降は同様に唱えている(住職時代は不明)。
また、仏教においては三宝・三学・三大秘法など数字の3を尊ぶところから、本尊への礼式として勤行や法要の始まりと終わりには「題目三唱」の化儀が広く用いられている。日蓮宗系では、「なむみょうほうれんげきょう、なむみょうほうれんげきょう、なむみょうほうれんげきょう」と一息に一唱ずつ区切って唱えるが、富士門流系の多くでは「なんみょうほうれんげきょうなんみょうほうれんげきょう、なんみょうほうれんげきょう」と、一唱目と二唱目を連続して唱えて後に息継ぎし、三唱目を唱えている。
ただし富士門流系の中でも冨士大石寺顕正会だけは例外で、「なんみょー、ほぃーれーんげーきょー、なんみょーほぃーれーんげーきょー、なんみょーほぃーれーんげーきょー」という独自の発声法、「小声で二度『なんみょうほうれんげきょう』と唱えながら礼を二回・題目三唱・もういちど題目三唱・最初と同様に礼を二回」という起源不明の作法(「ご挨拶」と呼ばれる)などが採用されている。
浄土信仰の宗門の称名は現世に見切りをつけ、西方浄土を目指す、どちらかと言うと来世に対して積極的な指向性(来世指向)が有る。
称名で唱える「名号」のうち、「南無釈迦牟尼仏」の釈迦牟尼仏は、確かに正史においても実在の人物とされている。しかし、他の如来は歴史上存在しない。「南無阿弥陀仏」の「阿弥陀仏」という如来は架空の存在で想像上の産物(フィクション、虚構)と切り捨てられると反論が難しい。
これに対し、法華経信仰の宗門の唱題は現世こそ重要、というわけで現世を逞しく乗り切る、という積極的指向性(現世指向)が有る。
唱題で唱える題目は経の題名であり、信仰の対象が経典として実在する。日蓮は経の文字のひとつひとつを金色の釈尊と見るべきと書いている。経典の文字はさすがに如来には見えなくても、最低限、字には見える。漢文の法華経(妙法蓮華経)ならば、漢字の羅列には見えるはずであり、文字として存在する安心感がある。仮に経の内容が架空ないし嘘でも、経典の文字が明らかに実在することは正しいと言え、真実と言える。

[ 155] 題目 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%8C%E7%9B%AE

藤女子大学保育学科は北海道で唯一の私立の保育系四年制大学です。現代社会の子ども達を取り巻く環境が複雑になるなかで、保育士や幼稚園の先生など保育の専門家に対して、社会から大きな期待が寄せられている状況を迎えています。本学科では、そのような社会の要望に応えるために、40年間の歴史を持つ短期大学を改組して、2000年に四年制大学として新たなスタートを切りました。本学科の主な特徴は、以下の4点です。
多くの入学者が漠然と、「子どもが好き」ということを入学の理由に挙げていますが、もちろんそれだけで良い保育者になれるわけではありません。今日の保育者は、子どもたちを取り巻く問題が家族や社会の問題と密接に関連していることを学び、広い視野と深い見識を伴った高い専門性が求められているからです。その上で、その高い専門性と自分が将来やりたい事をどのようにつなげていくのかを追及し、しっかり自分の将来を見つめていく事が大切です。幼稚園教諭、保育所の保育士、養護施設の保育士など、それぞれの専門性をより深く学ぶ必要性があります。どのような保育の道に進みたいのか、一人一人自分の将来像を、短大の倍の年月をかけて思い描くことが出来ます。そして、その夢に向かってじっくり勉強して必要な経験を積む事が出来るのです。
本学科では、保育者に必要な知識と技術を学ぶ多様な専門教科を設定し、子ども理解を深めていますが、保育の理論をより実践的に学ぶために、2年次という早い時期から実習を取り入れています。この入学後初めての実習は、本学の系列園である藤幼稚園と羊丘藤保育園で行われるため、園児たちへの親近感から厳しさのなかにも暖かく充実した実習となっています。このように、本学科では、理論と実践が絶えず平行しておこなわれ、理論と実践が有機的に結びついているのです。この学内実習は、学外実習への予備実習としても成果を挙げており、実習の充実が高い専門性を支える土台として本学科の特徴をなしています。
共生の時代を迎えた今日、幼児教育にも福祉の視点を持った保育観が求められています。本学科では、幼稚園一種免許状と保育士資格の他に、人数制限はありますが特別支援学校教諭一種免許状(幼稚部)が取得できます。北海道には、幼稚部のある養護学校は2校だけですので、就職に直結するわけではありませんが,健常児と障害児が共に過ごし、共に学べる「統合保育」が広まりを見せるなか、幼児教育の様々な分野で大きな力を発揮できます。
本学科では、2年次から10名程度の少人数のゼミ(演習)を行い、思考力や問題を解決する力を養っています。これは、3年次のゼミに継続されて研究の進め方や論文のまとめ方などを学び、4年次の卒業研究または卒業制作につなげることが出来ます。このように、物事を本質的に理解して問題点や解決したいテーマを見出し卒業研究として深めることで、各自に専門性の核ができて自信を持って自分を発揮できる保育者として成長していくことが出来るのです。
幼稚園・保育園への就職者は全体の80%にのぼります。また、病院やデパート等でも保育士を募集する等これまでにない就職先が現れて、保育士の可能性が広がっています。
●社会福祉主事(任用資格) 社会的な保護・援助を必要な人の相談・指導 ●司書(任用資格)

[ 156] 藤女子大学 - 保育学科の特徴
[引用サイト]  http://dept.fujijoshi.ac.jp/modules/t9/



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