俊作とは?
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来年1月放送予定の『相棒』の工藤の出演シーンを昨日までで全部撮り終えた。『相棒』の現場はほんとうに面白くて、いい現場だった〜。脚本も面白いし何よりもクリエイティヴになれる!ああ〜いい現場だった…。撮影が終わってしまうとちょっと寂しい…。その夜、クリエイターの金田君が新大久保で食事会をセッティングしてくれてたので、すご〜〜く遠いロケ現場から高速道路すっ飛ばして東京に戻った。舞台以来久しぶりに会う山口君と永倉大ちゃんと翔子さんと飯山女史、水上竜ちゃん京都帰りから直に合流。夜中に遅れて殺陣師の二家本さんと弟子のホンジョ−到着。工藤、車の為…1滴も酒のめず。ウーロン茶トマトジュースで朝まで久々に盛り上がった。ほんとに情熱の”カタマリ”みたいな人たち。仲間!大切です。。。 今日は羽田附近の水辺でロケ。近所の皆様や釣りを楽しむ方、ジョギングしてる方、散歩、学校帰り、デート中…さまざまな人達が水辺の防波堤沿いを歩いてる…。工藤、久々に海辺に来たのでまだ時間あるし天気も良いし、しばらく歩いてみた。さわやかな風とともに眼を閉じて歩く。とっ、海に落ちそうっ、、 防波堤の下はたくさんの釣り船が繋留しており、釣り客を待ってるようだ。今年の3月だかにイカ釣りに相模湾沖に出た事を想い出した。そうだそうだ、あの時黒ちゃんと約束したんだっけ!今度は大物狙いでいきましょうと…。はあ〜やっぱり海はいいなあ〜…。 釣りがしたい!! 今日は陸・海・空三軍合同の自衛隊の観閲式に早起きして行った。私は国防オタクではないが…ガンアドバイザー栩野さんと連れ立って行って来た。詳しく教えてもらう。今年の御殿場火力演習に続き、現在なにかとお騒がせ防衛省のパレード。観閲官は福田総理。主催者は石破防衛大臣。今日のパレードは最前列に陣取り、かぶりつきで観る。戦車の車列が目の前を通るたび、地響きがものすごい〜!動画も撮った。自衛官が自動小銃を担いで行進してゆく。。。観ている人達のほとんどが前を行進するのに合わせて日の丸の小旗を振っている。。。映画やドラマでよく見る出征兵士に向かって小旗を振る…あのシーンを想い出して、気持ちのいいもんではない。現代の平和とは、ミリタリィバランスによって保たれていると…。観閲式はお昼に終わったので、いったん家に帰る。夕方からドラマのロケがあり、少し仮眠して出かけた。そーいえば、宣伝するのを忘れてた!26日から全国TSUTAYAで『89323−ヤクザ23区−』がレンタル開始したそうです。ガンアドバイザーの栩野さんが監督した『杉並区編〜高円寺ブルース』も収録。工藤主演。ぜひ御覧下さい。写真は防衛省自衛官広報部の方と。本物の戦闘服をお借りして。その夜はドラマ刑事役。 何がガッカリかって?それは仕事上の事なので書けません。。。大変残念でなりません……。先日NHKスペシャル『100年の難問はなぜ解けたのか 〜天才数学者失踪の謎〜』を見てて非常に興味を惹かれた。”ポアンカレ予想”と呼ばれる難問中の難問…らしい。当の問題を解く為にさまざまな数学者達が挑戦し、解けないまま100年が経過して、ソレを解いたロシアの数学者ペレリマン博士が、世間から行方をくらましたという内容のドキュメンタリィー番組。なにが面白いかって?天才とよばれる数学者、科学者、物理学者の発想、空想の出発点がヒジョーにユニークでユーモラスに富んでて、おかしくてたまらない! でもソレを実証証明する為に孤独な闘いがある点が天才たちと私みたいな凡人との違いなんだろうけども…。然し、あの発想や着眼は”使える”!日常生活の中にも活かせるものだと感じたな。だけどロシアのおっさん、解いた後、失踪しよった!まるでこの世にすでに解く問題が無くなったかのように…。たぶん頭の中で宇宙のカタチを見ちゃったんだろうね。わかっちゃったんだね、宗教も数学も物理も宇宙も!恐らくわからないのは、自分の胸に空いた空洞がどうしても埋まらないんだろうね… ガッカリ…結局解けない永遠の難問は人の心にアリ、ってか? 舞台終了後次の撮影に入り、ようやく怒濤の様な時期を過去の写真の様にやり過ごした感じだ。やっと地に足がつく生活に戻れた。というのも束の間…来年のプロジェクトの話。また自身の舞台も企画中。現在撮影の作品は明年早々、放送予定。まだ秘密。今年も栗がたくさん届く。栗って、栗ごはん以外に家庭で出来る料理は無いものか…。茹で栗もそのまま茹でて皮を剥いて食べるだけで、すぐに味に飽きてしまう。ならばと思い、フライパンでフタをして焼き、食べたが、天津甘栗のようにはいかない…。どうすれば、あの天津甘栗のように香ばしくて甘いものができるのだろうか〜どなたか調理法知ってたら教えて下さい……!またほかの栗を使ったデザートでも良いですから。暇な時に時間をかけて作ってみたい! 『蒼蠅』全日程終了。お陰様で概ね好評をいただく。東京倶楽部は稽古段階で俳優の即興に委ねる事が多い。脚本はある。それを東京倶楽部的風味、味付けにしていく為に出演者に即興を求める。つまり東京倶楽部演出部(菅田、工藤、勝矢)が今年はこうこうこうで、こうなる話をやろうと演出菅田氏が話し、それはこうならこうなりますよね、とか勝矢と私がその世界観を拡げていく。今年の春頃、脚本は私が担当のはずが…中国ロケにでかけてしまい、中国からメールで書き上げるつもりだったが、それどころか、過酷なロケで思考する事さえままならなくなり、帰国。結果、映画監督 藤原健一氏(『is-A』等)が書き上げて下さった。それを元に舞台的、演劇チックにしていく為に役者に即興演技を求める。演出部も即興的にセリフをその場であてていく。すぐその場で”ぽ〜ん”と珠玉のセリフを生み出さねばならない。出て来た言葉が的確であれば採用。ダメならカット。その日の体調にも作用される。良いセリフに良い演技なんだがたまたまその日の体調が悪く、稽古でやってウマくいかなければ不採用… 演出部もその日機嫌が悪いとカット。さらに即興的にシーンを増やしたり、引き延ばし入れ替える。この手法に慣れない俳優は明らかにとまどう。台本に書いてない事をやっているので、一日稽古を休むと次の日に来た時はまるっきり変更してるので驚いてしまう。セリフの変更の書き取りをパソコンで入力(池田大空)。池田は今回全身真っ白に塗り、舞台に立った。”おいしい”シーンも追加した。今回の若手成長株だ。ケガの無い様にと思っていてもケガの多い東京倶楽部。今年もいろいろあった。永倉氏、初日アゴ打撲、翌々日肋骨ヒビ。他ノ俳優たちも腰痛、擦り傷打撲当たり前。男劇団だが女優陣も打撲、傷も多かった。特に橋本君には迷惑かけた。ともあれ、多くのお客様に観に来ていただき、ありがとうございました。年々口コミでひろがり大して宣伝もしてないに等しく、にもかかわらず観客動員数の増加は嬉しくて、ひとりでも多くのお客様に観ていただことに大感謝です!「今回で解散ですか?」と聞かれたりメールをいただく。来年の事は正直なところまだどうするか考えてませんが、また役者が集まれば何かやるかも知れません。写真は私の尊敬する孫鉄監督。ちょうど来月公開の映画『北京の恋〜四郎探母』の宣伝の為に来日して私に会いに来ていただいたので舞台を観ていただいた。日本語さっぱりわからないのにえらく感激された。通訳のワコーの山形様ありがとうございました!11月3日(土曜)よりロードショー上映館:銀座シネパトスwww.pekingnokoi.jp 言わずと知れたGODIVA。毎日甘い何かを食べてる。私が尊敬してるお客様から頂戴したもの。公演中、痩せるはずが…カロリー消費には気を配らなければ…楽屋には甘いお菓子が溢れんばかり!男が多い劇団なのに、何故?(笑)片っ端から食べてます…身体が欲してるんですね、きっと!ありがとうございました!今日千秋楽です。 舞台観に岐阜県から来られたお客様から頂いた栗きんとん。恵那栗。名物お菓子。初めて食べた。美味しかった!ありがとうございます!千秋楽頑張れます。俊作 中国でお世話になりっ放し、豪快な孫鉄監督が昨日、日本へやって来た。4日間の滞在らしい…現在NHKの中国語会話の司会に出てる前田智恵さん主演の中国映画『北京の恋〜四郎探母』公開の為のインタビュー等取材関係での来日らしい。北京から電話が有り、何かよく解らんが工藤が出演した映画、受賞したらしい。その何か俺に渡すとの事。まあ、よくわからないが、会った時にじっくりと話したいな…久しぶりに会える!豪快にして緻密な演出!大好きな監督だ! ユーモアたっぷりな人柄で、その反面撮影中は強烈にベストアクトを要求して来る。そこも好き。現在工藤が舞台やってるのを観たいという…まるっきり日本語わからないのに!いいのかなあ…俺出番少ないし、変な役だし…メイクも犬みたいだし… まあいいか! 紆余曲折の末、やっと芝居が完成!昨夜初日でした。御覧いただきましたお客様ありがとうございました。14日まで毎日夜19時開演。新木場駅徒歩2分のファーストリングというプロレス会場、『蒼蠅ブルーボトル』上演中です。 セット完成。二階窓から顔を出す。それから、ラストの曲を流してみる。かつて自分と伴にすごしたひとの事を振り返ってみた。ごつんと、音がするほど泣きたくなった。『道』という映画を想い出した。 と、とどくのでしょうか?劇団 東京倶楽部KAORU MEMORIAL七回忌公演、ラストランです。東京倶楽部独自の濃厚でエネルギッシュな芝居も、最終公演。来年からの先の事は考えてませんが、1年に1度のペースで舞台芝居を続けて来たこの身体が、来年から物足りなさを感じてまた映像の仕事をかいくぐって求めていくでしょう。どうなるかは決めてませんが、とりあえず今回で打ち止め!10/6 から/14まで毎日夜のみ18:30開場 19:00開演です。昭和のニオイがプンプン漂うセット…主演は『仁義」シリーズや主演作めじろ押しの山口祥行です。やはりVシネマや映画でいつも共演してる仲間の俳優達、永倉大輔、宮本大誠、加えて愛染恭子さん、我が兄貴菅田俊も全公演出ます。 小屋入り(倉庫入り?)しました。ほぼ舞台セット、装置立ちました。雰囲気出て来たようですが、細かい部分の直しや色塗りがまだ有ります。男たちは何人か徹夜作業で作り物。今回タッパがあるので3段イントレ組んで照明や吊し物を作業。工藤高い場所ニガテです。出演者全員で明日までセットを完成させます。 ”朝に道を問わば夕べに死すとも可なり”好きな言葉。教訓。然し、少しは前進出来たのか?おまえよ…たまに弱音を吐いて他人の同情を惹いて、「なっ、俺は疲れ果ててんだよ!」とかなんとか云って、俺を捜さないで下さい!と、置き手紙して地球の裏側まで逃げていきたくなる…事は無い…のかあ?とにかくもうすぐやって来る舞台初日。。。役者の事で悩むだけならどんなに気が楽か、ああ〜よくわかった!!まじめな話、演出家や監督って、ほんと苦労絶えないんだな…集団を統率するだけでも後でガッツリとストレスが来る。ソレに加えて作品の評価… 今更ながら尊敬… 頭下がる。 今朝は天気がよく、空は晴れ渡り空気の中に何となく秋のニオイが…撮影も終わり夕方に帰る頃には雨がけっこう降っていた。御殿場滞在中、道路が渋滞して距離的には15分くらいの距離を1時間もかかってホテルに戻る2日間。世間は連休で富士の周りは大混雑でした。御殿場といえば、富士サファリパークやサーキット、アウトレット・モールがあり、休日は賑わう反面、幹線道路が少ないのですぐに渋滞する。事故でもあれば忽ち大渋滞。ヘロヘロになりながら帰った。居眠り運転が恐いので、途中コンビニでガムを買い、音楽ガンガンかけてた。なんとか無事に…。気づいたらもう舞台初日まであと3週間をきってしまった!!危険危険〜 危険が危ないゼ!! 焦りまくり。。。。。詳細を告知します。東京倶楽部 第7回公演『Blue Bottle −蒼蠅−』作・藤原健一 演出・菅田俊出演・山口祥行 工藤俊作 藤原常吉 河端保成 勝矢 山崎栄 成瀬勝也 木庭博光 佐藤日出夫 針生楊志夫 佐藤良洋 池田大空 寺中寿之 森了蔵 格清俊光 田谷亘司 山田浩市 佐藤邦洋 吉沢季代 吉見麻美 中山沙織 小林珠里 鶴岡睦美 金濱夏世 橋本有希 HARUKA (ゲスト)永倉大輔 宮本大誠 町田政則 関根大学 愛染恭子 一青妙 櫻りん 菅田俊◎10月6日(土曜)〜〜10月14日(日曜) ◎全ての日程 開場18:30 開演19:00◎公演会場:新木場1st RING(ファーストリング)(レスリング会場になります!)J R線、りんかい線、東京メトロ有楽町線『新木場駅』徒歩2分前売3800円 当日4000円 全席自由*当日受付にて、「工藤」の名前で前売り扱いに。コレにて東京倶楽部、最終公演。 今日は朝早く出発して御殿場までロケに来ました。早朝の富士山がクッキリ見えたので撮ってみました。二泊する予定なので稽古中の息抜きになりますが返って気になってしょうがありません。天気は上々ですが、少し心は曇ります。 今回の芝居のテーマ、根底にある”生命力”を主題に、どんな人でもどんな情況や環境に於いても自分の人生の不遇さに嘆くことなく、強く生きていく人間を描いてみたい。演出助手として、また脚本改訂に大きくたずさわると、やはり自分の人生は”はたして嘆いてはいないのだろうか?”と考え込んでしまう…。自分を見つめ直すのにちょうどいいかもしれない。軌道修正、自分の人生の羅針盤をみつめるのにいい機会かもしれない。劇団 東京倶楽部は今年、区切りというかひとつの節目として幕をおろす事になる。私が菅原文太氏の弟子として入門した当時、菅原加織はまだ中学生になりたてだった。その彼がこの世を去ってしまって今年が七回忌にあたる。生前彼が熱く”こんな芝居がやりたい!”と語っていた事が原点である。もとより自分より先に年下の人が逝ってしまうと、やりきれない寂寥感がいつまでもいつまでも心に残ってしまう。まして永く同じ時を過ごした仲ならば尚更だ。故寺山修司氏が”人間は生まれた瞬間から死に向かう不完全な死体”という言葉の意味を、私は”だからこそ生きている瞬間瞬間を感じとり、充実感の有る人生”していく事だと思う。舞台の芝居は決して1人の力ではどうにもならない、個人でできる能力なんてタカが知れてる。己の人生もそうだと思う。家族や友人達、社会のあまねく自分に関わる人達とともに生きる事によって、初めて自分の役を知り、人生が見えて来るもんだと思う。フシメというものはそういうもんなんだなあ… ◎映画『手紙』、『ホテルルワンダ』、『007カジノロワイヤル』、 『ハンニバルライジング』をDVDで観賞。◎舞台『Waiting for the Sun ー天気待ち』を池袋芸術劇場小ホールで 観賞。舞台稽古始まる。演出席からの悪戦苦闘のノート2日目…。ぐちゃぐちゃ! 長く苦悩の日々。感触としてはかなり面白いモノになると思う。まず… フライヤー出来た!↓ すいません…遅くなりました。過日の工藤の誕生日にメッセージ等諸々ありがとうございました!!明日から今年の東京倶楽部ファイナル公演の稽古が始まるんですが…その前に…広島カープ前田智徳選手が2000本安打を達成したものですから、今年最後の東京遠征にお祝いのつもりで神宮球場に、今年4月5月の仕事で一緒だった広島出身のカープファンである近永助監督と応援に行って来ました!! 前田選手スタメンから今日は外れてる…ガッカリ…試合結果…1-0で負け。。。あっさりした試合内容で、これまた早い終了時間。しかし8回前田選手が代打で登場した時は球場全体がスタンディングオベーション!! そこだけが唯一の盛り上がりでした。さあ、明日から今年の最後の舞台稽古です!! 初日は10/6〜になりました。今年はどーなるか、私もまったくわかりません……。 昨日26日、陸上自衛隊の富士総合火力演習へ。この演習は簡単に言ってしまえば自衛隊への理解と存在意義を国民に知ってもらう為に行っている様です。特に今年は『庁』→『省』へ変わり、国家の安全保障に関してよりシビアな問題になって来ていると実感させられます。演習開始と同時にF2戦闘機が遥か彼方の上空から爆音を響かせ、観ている我々の上空に現れ、爆撃!火柱が地面に上がる。勿論火力は常備の何分の1かにおとしているんでしょうが、かなりの威力。あっという間もなく雲間に消える。最初はまるで華火見物でもしているかの様に心躍らせる自分がいましたが、次々に出て来る圧倒的な銃火器、りゅう弾砲、対戦車ヘリ、自走砲、特に戦車の砲弾の破壊力を目の当たりにして、現代の有事における戦闘の恐ろしさを感じて鼻筋になにかじーんと痺れるものを感じました。本当に本当に戦争になってはいけない!平和の重要性、いや、そんなもんじゃない!本当に恒久平和を実感させられました。憲法第九条改正がちらつきます。たくさんの子供たちもこの演習を見に来ていました。この子たちは夏休みの終わりになんて日記にこの日の事を書くのだろうか…。工藤役柄として銃火器を持つ役、軍人、特殊部隊、警察関係等、今まで様々な役を演じさらにこれからもそうなる事があるんでしょうが、役を感じる上でニュアンスとして自分との距離をかなり修正できた。上記したことと分裂してるようですが、平和であってこその文化、フィクション世界の仕事です、だったらあまり必要とされない職業の1つなんだろうね… でも人に伝える”その時”の為に必要な職業だからこの日の演習も脳裡に焼き付けなければ…。 |
[ 36] A DOVE IN ARK
[引用サイト] http://blogs.dion.ne.jp/actorkudo/
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現在の我国には軍人を必要以上に悪くいったり、蔑視する人が多くいます。しかし、世界の方々に尊敬されている我国のりっぱな軍人も多くいらっしゃったのです。 当店のホームページを御覧になってくださり、東京にお仕事でいらした時に御来店いただいた事もある「学習者」さんがメールでお教えくださった「敵兵を救助せよ」という本に書かれている工藤俊作海軍中佐もそうです。 著者の恵隆之介氏は一九五四年沖縄コザ市生まれ。七八年防衛大を卒業した後、江田島の海上自衛隊幹部候補生学校を経て護衛艦勤務のち退官(二等海尉)された方です。 以下、特に表記のない場合は手元にある恵隆之介氏の著書「敵兵を救助せよ」(草思社平成十八年刊)によります。 平成十五年十月十九日、一人の元英国海軍士官が日本の土を初めて踏んだ。元海軍中尉サムエル・フォール卿である。 フォール卿は、戦後、外交官として活躍し、その功績によってサーの称号を受けている。外交官を定年退職後、一九九六年に自伝「マイ・ラッキー・ライフ」を上梓しているが、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と銘記し、顕彰した。 英国海軍士官がこれほど敬服した工藤俊作海軍中佐とは。(写真は海軍少尉のころの工藤俊作 恵隆之介氏の著書「敵兵を救助せよ」より) 大東亜戦争が始まってまもなくの一九四二年二月二七日から三月一日にかけて、ジャワ島北方のスラバヤ沖で日本艦隊と英米蘭の連合艦隊一五隻との間で行われた海戦で、日本艦隊は三月一日までに、十五隻中一一隻を撃沈(四隻は逃走)した。三月一日にスラバヤ沖で撃沈された英海軍の巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」の乗組員四百数十名は漂流を続け、翌二日彼らは生存の限界に達していた。このとき、偶然この海域を航行していた日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」に発見された。 この時英国海軍中尉だったフォール卿は、「日本人は非情」という先入観を持っていたため、機銃掃射を受けていよいよ最期を迎えるものと覚悟した。 ところが、駆逐艦「雷」は即座に「救助活動中」の国際信号旗を掲げ、漂流者全員422名を救助したのである。艦長・工藤俊作中佐は、英国海軍士官全員を前甲板に集め、英語で健闘を称え、「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」とスピーチしたのだった。そして兵員も含め、全員に友軍以上の丁重な処遇を施した。 戦闘行動中の艦艇が、敵潜水艦の魚雷攻撃をいつ受けるかも知れない危険な海域で、自艦の乗組員の二倍の敵将兵を救助したのだった。もちろん艦長の英断であった。 フォール卿はこの艦長への恩が忘れられず、戦後その消息を捜し続けてきた。そして、昭和六二年、工藤中佐が八年前に他界していた事を知った。 しかし、自身の齢も八十四歳を数えるようになってきたため、ついに意を決し、「人生の締めくくり」として来日したのである。 フォール卿の来日を知った外務省や海上幕僚部は、観艦式に卿を招いた。それも海上自衛隊最精鋭の艦隊である第一護衛隊群に所属する四代目「いかづち」にである。(写真はフォール卿 恵隆之介氏の著書「敵兵を救助せよ」より) フォール卿を迎える「いかづち」では、一行のため、へり格納庫上に設置されている搭乗員待機室を休憩室として提供し、海上幕僚部から士官二名を世話係に配置するなど万端の準備にて迎える。 平成一五年一〇月二六日午前九時五〇分、横須賀より出港し、観閲艦隊随伴艦の二番艦として観艦式に参加。 「いかづち」艦長は高草洋一二佐(四九歳)、フォール卿のエスコートは外務省欧州局西欧第二課長市川とみ子。 フォール卿は迎えいられた「いかずち」の士官室にて、同席した方々に戦時中を振り返り、そして、「自分や、戦友の命を救ってくれた『雷』艦長御遺族を始め、関係者に会ってお礼が言いたい。できれば工藤中佐の墓前に自分が著した書を捧げたい」と語っている。 観艦式航海中のフォール卿は、海上自衛隊の指揮統率能力の高さに感嘆し、また後部の飛行甲板で音楽隊が演奏の初めに英国国歌を演奏した時、不自由な身体を押して直立不動の姿勢をとり、その後姿に何度も同行した者たちを「英国紳士とはかくなるものか」と感嘆させたそうです。 フォール卿は「いかづち」が帰港し、岸壁から外務省が手配した車に乗り込むまでの間に要所に配置された自衛隊の下士官にたいしても、不自由な身体でありながら、いちいち立ち止まり、彼らに、「ありがとうございました」とたどたどしい日本語でお礼を言い、丁寧にお辞儀をされたそうである。 フォール卿の来日の目的は、かなうことなら艦長の墓参をし、遺族に感謝の意を表明したいという積年の思いを遂げることであった。ところが、来日してみたもののその願いはかなえられず、フォール卿は恵氏に艦長の墓と遺族を探し出すことを依頼して帰国する。 どうして、工藤俊作中佐をフォール卿は探し出せなかったのであろうか。どうして堀内豊秋海軍大佐のように世に知られなかったのであろうか。 じつは昭和五四年八月一四日には、遠洋航海で英国ポーツマスに寄港した海上自衛隊の練習艦隊司令官植田一雄海将補(海軍少将相当、海兵七四期)は、英海軍連絡士官から工藤中佐の消息を探してくれるよう正式な要請を受けていた。 一、工藤元艦長は戦後、海軍兵学校のクラス会にほとんど出席していない。このため、クラスもその消息を掌握していなかった。 二、「雷」は、昭和一九年四月一四日、ウォレア近海で、米潜水艦「ハーダ−」(一五二五トン)の雷撃を受けて轟沈しており、艦長生永邦夫少佐(海兵六〇期)以下全員が散華している。 三、「雷」に乗艦していた元士官二名が存命しているが、先任で「雷」元航海長だった谷川清澄少佐(海兵六六期)に対しては、どうしても尋ねる雰囲気になれなかった。谷川は終戦直後、自決する覚悟であったが、寸前に思い止まっていた。同時に、戦前戦中の思い出と決別するつもりで、すべての写真、資料を焼却してしまっていたのである。 もう一人、田上俊三大尉(海兵六七期)はこの美談を都合よく解釈し、ともすれば自分自身の存在を誇示するかのような言動を繰り返し、協力する気配が見られなかった(階級はいずれも終戦時) 元海軍中尉サムエル・フォール卿が英タイムズ紙に投稿し掲載された一九九八年四月二九日とは、翌月に予定されている天皇の英国訪問が公表され、それに対してかつて日本軍の捕虜となった退役軍人たちが中心となり反対運動が起きていた。捕虜として受けた処遇への恨みが原因であった。 しかし、「元日本軍の捕虜として、私は旧敵となぜ和解することに関心を抱いているのか、説明申し上げたい」と前置きして、自身の体験を語ったこのフォール卿の投稿によって、以後の日本批判の投書はことごとく精彩を欠くことになった。 米海軍機関紙「プロシーデングス」昭和六二年新年号にも、フォール卿は「騎士道(Chiv-alry)として工藤艦長の行動を執筆した論文を七ページにわたって掲載し、米海軍軍人をも驚嘆させている。 どうして、国際法上昭和二七年四月二八日の講和条約成立によって解決済みのこのような事が英国などにてぶり返されるようになったかというと、アホ首相のひとりである細川護煕が謝罪をした以降、バカ売国奴村山冨市が平成七年八月一五日にいわゆる村山談話を出し、平成八年一月に、これまた支那のハニートラップに引っ掛かった色気違い売国奴の橋本龍太郎が、英国大衆紙「サン」に、大東亜戦争の英国人捕虜の扱いに関する謝罪文を寄稿するなど、アホがアホなことをなんどもやったからである。 「アジアの国々における脱植民地運動は、日本のお陰で勢いづいた」と断じ、「東南アジアで日本軍がアメリカ、イギリス、フランス、オランダの植民地を素早く撃破したことこそ、戦後に欧米列強が再びアジア(植民地支配)に戻ることを困難にしたのである」 <平成一七年五月、インド国防省元次官で国際政治学者K・サプラーマンヤム氏がインドの有力紙「ヒンドゥスタン・タイムズ」に、小泉首相がバンドン会議で胡錦濤首相に謝罪したことについて。P一一> フォール卿の工藤俊作海軍中尉についてのエピソードとして、平成四年、スラバヤ沖海戦五〇周年記念式典がジャカルタで行われ、インドネシア海軍将官および同盟国各国武官が参列した。 また、翌日は同地で英国関係者二〇〇人が集まって「トラファルガー・デイ」(戦前日本の「海軍記念日」に相当)が催された。 二つの式典で、フォール卿は記念講演を行い、ここでも工藤中佐の功績を称え、「日本武士道の実践」と強調した。いづれの会でも、万雷の拍手とスタンディングオベーションが起こったという。 インドネシア政府は、独立の最高功労者として、昭和五一年八月一二日、元海軍ジャカルタ武官府長官前田精中将(鹿児島県出身、海兵四六期)に対して最高位のナラリア勲章を贈っている。 昭和二〇年九月一九日、スカルノが初代大統領として独立宣言を発した際に、警備を受け持った日本陸軍代一六軍は、独立を阻止しようとする連合軍から「発泡しても集会をさせるな」と命じられていたが、それを無視し、独立宣言を行わせた。当たり前である。「われわれインドネシア民族は、ここにインドネシアの独立を宣言する。権力の移行、その他に関する事項は適当、かつ迅速に処理される 17・8・05 」という独立宣言文を作る現場には 前田精海軍中将だけでなく、吉住留五郎氏(新聞記者)、三好俊吉郎氏(陸軍司令官通訳)、西嶋茂忠氏(海軍嘱託)の四氏がいたのである。 当時、第十六軍の参謀をしていた 前田精海軍中将と同郷の宮元静雄陸軍中佐は、独断で演説を許可したばかりでなく、スカルノを護衛するために彼の隣に座った。 大東亜戦争後、オランダとの間で戦われたインドネシアの独立戦争に元日本兵約二〇〇〇名が加わり、多大な犠牲をだし、そのご遺骨は、インドネシア英雄記念墓地に埋葬されている。 そのような国情にあって、フォール卿によって語られた工藤艦長の行為は、大きな感動をインドネシア国民にもたらした。 恵氏は著書で、指揮官の判断の対照として、工藤俊作海軍中佐の行動と平成七年一月一七日の阪神・淡路大震災の時に、現地の惨状の把握しようともせずに、あろうことか東京で財界関係者と朝食をとっていた陸上自衛隊最高指揮官である歴代最低のボケ首相の村山冨市とともに、自衛隊法を墨守し部隊行動を即座に起こさず、多くの住民の方々が犠牲になったとして陸上自衛隊中部方面総監松島悠佐陸将(防大五期)をあげています。 そして、恵氏は現在の自衛隊幹部教育が術科教育(実務教育)偏重に陥っている事をも指摘し、有事に際し工藤艦長のようなリーダーシップが的確に発揮されるかどうか疑問視されていると書いています。 その象徴的な出来事として、海上自衛隊幹部候補生学校で、校長が帝国海軍出身者から防衛大学出身者に引き継がれて以来の出来事として、各自習室に掲示されていた三人の写真の撤去をあげています。その三人とは東郷平八郎元帥、広瀬武夫中佐、佐久間勉大尉であり、いずれも帝国海軍の象徴的人物であるだけでなく、我国だけでなく列強海軍軍人より今でも敬意を払われている人物なのです。 佐久間勉大尉(三十一歳、海兵二十九期)は、明治四三年四月十五日、広島湾で潜水訓練中の第六号潜水艇(五七トン)が事故で沈没した時の艇長であった。 酸素が消耗していく艇内で遺書をしたため、天皇に対し、潜水艇を沈めた責任を詫びた後、「部下の遺族をして窮するものなからしめ給わらんことを」と結び、さらに事故の原因、改良すべき点について呼吸が停止するまで記録していたのである。これを読んだ明治天皇は、感泣されたという。 当初海軍は、事故後、艇を引き揚げハッチをあける際、凄惨な状況が呈されているものと恐れていた。ところが、艇内には、艇長以下十四名全員が各配置についたまま従容と最後を遂げていたのである。 佐久間艇の船体は、海軍潜水学校に運ばれたが、関係者は、御神体に触れるかのように船体を神妙に扱った。 この模様は全国に伝えられ、公開された佐久間艇長の遺書は我国国民の胸をうった。また、日本帝国海軍は、海軍礼装を着用した佐久間大尉生前の写真を公表した。 このことは昭和二年以降終戦直後まで、「尋常小学校終身教科書六」の「第八科・沈勇」に掲載されていた。 ところが、日本が再起できないように、日本人の精神面よりの破壊をするために、戦後進駐軍により削除され、潜水学校に展示保存されていた佐久間艇は解体された。 昭和三十一年、「ニューヨーク・タイムズ」記者で、ピュリッツアー賞受賞作家、米国海軍兵学校出身の軍事評論家ハリソン・ボールド・ウィン氏による、その著書「海戦と海難」の中に「日本六号潜水艇の沈没」として章を設けて佐久間艇長の遺書を紹介し、「佐久間の死は、旧い日本の厳粛なる道徳、サムライの道、または武士道を代表したもの」と強調したのである。 このことによって、カリフォルニアの高校教科書「リーダーシップ」の項にこの佐久間艇長の行為が引用された。 小官の不注意により陛下の艇を沈め部下を殺す,誠に申し訳なし。されど艇員一同死に至るまで皆よくその職を守り沈着にことを処せり。我等は国家のため職に斃れしと雖も唯々遺憾とする所は天下の士はこれを誤り以って将来潜水艇の発展に打撃を与ふるに至らざるやを憂ふるにあり。希くば諸君ますます勉励以ってこの誤解なく将来潜水艇の発展研究に全力を尽くされんことを。さすれば我れ等一も遺憾とするところなし。 瓦素林潜航の際過度深入せしため「スルイスバルブ」をしめんとせしも途中「チェン」きれ依って手にて之れをしめたるも後れ後部に満水せり。約二十五度の傾斜にて沈降せり。 一,配電盤つかりたるため電灯消え,電纜燃え悪瓦斯を発生呼吸に困難を感ぜり。十五日午前十時沈没す。この悪瓦斯の下に手動ポンプにて排水に力む。 一,沈下と共に「メンタンク」を排水せり,灯消えゲージ見えざれども「メンタンク」は排水し終われるものと認む。電流は全く使用する能わず,電液は溢るも少々,海水は入らず「クロリン」ガス発生せず唯々頼む所は手動ポンプあるのみ。 余は常に潜水艇員は沈置細心の注意を要すると共に大胆に行動せざればその発展を望む可からず,細心の余り萎縮せざらんことを戒めたり。世の人はこの失敗を以って或いは嘲笑するものあらん。されど我れは前言の誤りなきを確信す。 一,司令塔の深度計は五十二を示し排水に勉めども十二時迄は底止して動かず,この辺深度は十尋位なれば正しきものならん。 一,潜水艇員士卒は抜群中の抜群者より採用するを要す,かかるときに困る故。幸ひに本艇員は皆よく其職を尽せり,満足に思ふ。 我れは常に家を出づれば死を期す。されば遺言状は既に「カラサキ」引出の中にあり(之れ但私事に関すること,いふ必要なし,田口,浅見兄よ之れを愚父に致されよ) 英国海軍はこの佐久間大尉の遺書を英訳し、現在も潜水艦乗組員の精神教育のテキストとして使用している。 恵氏自身も、一米海軍大佐より「私は幼少の頃から、軍人だった父親から、日本海軍について敬意をもって教わった。ところが、海上自衛隊士官に戦史を尋ねてみると、まったく知らない、いったいどういう将校教育をしているのだ」と質問された事があったそうです。 工藤俊作は、明治三十四年一月七日、山形県東置賜郡屋台村竹森、現在の高畠町大字竹森で父七次三十三歳(大正十一年、七郎兵衛襲名)、母きん二十九歳の次男として生まれた。 祖父は寺子屋で教育を受けており、士族に負けないほどの博学であった。算術と漢学が得意で、とくに漢学は武田竜湖の薫陶を受けていた。 この祖父は、明治十九年八月、長崎に入港した清国海軍水兵が市民に暴行をはたらいた事件と、五年後、清国海軍の軍艦六隻が神戸と横浜に入港したことを知った時「日本は、本格的海軍を持たないと、隣邦にさえバカにされる」と発言していたという。 その後、日清、日露の両戦争で、海軍が勝利の決定的要因を占めたことを知って、自分の考えに間違いなかったことを確認した。そして、孫の俊作を何としても海軍に進めたいと思うようになった。 祖父が幼少の頃、アジアは列強の侵略を受け、蚕食され尽くしていた。わが国も列強から不平等条約を押し付けられて、辛うじて独立を維持する状態にあった。 祖父九歳の時、幕府は、ペリー提督率いる米国艦隊の威嚇に屈して日米和親条約に調印、その結果権威を失墜した。 祖父二十二歳の時大政奉還、これに続いて発足した明治新政府と、東北諸藩が対立して戊辰戦争が勃発する。まさに動乱の時代を祖父は生きてきた。 一方、ロシアは満州を占領し朝鮮半島に迫ったため、明治三十七年二月十日、日本はロシアに宣戦を布告、翌年五月二十七日、東郷平八郎大将(英国ウ−スター商船学校卒)が指揮する日本帝国連合艦隊は日本海においてバルチック艦隊を破り、一躍世界五強国の一つになった。 工藤俊作は明治四十一年四月に屋代尋常小学校に入学。明治四十三年四月十五日に先に書いた佐久間艇長乗り組む第六潜水艇の事故があり、当時屋代尋常小学校では、佐藤貫一校長が、佐久間艇長の話を朝礼で全校生徒に伝え、責任感の重要性を強調し、呉軍港に向かって全校生徒が最敬礼した。 工藤はこの朝礼の直後、担任の淀野儀平先生に「平民でも海軍仕官になれますか」と尋ねている。淀野先生は「なれる」と言い、米沢興譲館中学への進学を勧めた。 工藤は、三学年後半から、猛然と勉強するようになり、屋代尋常小学校創立以来の高得点を維持し続け「神童」と称されるほどになっていた。 工藤は米沢興譲館中学に大正四年四月七日に合格順位三位で入学した。(正式名称は山形県立米沢中学校)米沢興譲館中学はその元を旧米沢藩の名君第九代藩主鷹山(上杉治憲)により明和八年(一七七一)に藩校として設立されたもので、「興譲館」と正式に命名されたのは、創立から五年後の安永五年(一七七六)九月一九日である。 明治に入り山形県立米沢中学校となり、米沢士族の学校としてステイタス・シンボル的な学校で、海軍大将三名、中将一六名、少将一二名を輩出している。この数は旧制中学では群を抜いている。軍人のみならず戦前財界のトップリーダーであった池田成彬、民法学者の我妻栄、国際ジャーナリストのカール・カワカミなどである。 工藤は兵学校進学希望者の進路指導担当であった英語教師の我妻又次郎(我妻栄の父)の熱心な教えもあり、難関中の難関である海軍兵学校には興譲館の入学成績が一位、二位の級友の小林英二、近藤道雄とともに進んでいる。 当時、一流中学校の成績抜群で体力のすぐれた者が志すのは、きまって海軍兵学校への受験。次が陸軍仕官学校、それから旧制高等学校、ついで大学予科、専門学校の順であった。 日本の兵学校の凄さは、欧州のそれが貴族の子弟しか入校できなかったのに比べて、学力と体力さへあれば、誰でも入校できたことである。しかも、入学資格は、中学四年終了程度とされていたが、戦前義務教育課程であった高等小学校しか出ていなくとも(現在の中学校卒業相当)、専検に合格さえすれば受験できた。 その所在地より英国のダートマス、米国のアナポリス、日本の江田島、これらは戦前世界三大海軍兵学校の代名詞とされていた。 工藤俊作は海軍兵学校五一期として大正九年に入校する。この時代は八八艦隊構想により、入学人員の大幅な増員により二九三名だった。 海軍は徴兵制の戦前においても、一水兵に至まで志願制で、海軍独特のリベラリズムの気風があった。とくに海軍兵学校は「士官たる前に紳士たれ」とされ昭和二十年十月に閉校するまで継承されたライフスタイルは、長髪をゆるされ、英国流で洗練されていた。 この「敵兵を救助せよ」の著者である恵隆之介氏が引用されている写真集に書かれている言葉がある。幸いなことに私もこの写真集を持っているので、恵氏の引用文より少し長くなるが引用させていただく。「海軍兵学校」(真継不二夫 国書刊行会 昭和五三年 初版は大東亜戦争中に出版されたものであり、これは回天の考案者のひとりである仁科関夫中尉の遺筆となった書き込みをそのまま復刻させたもの)には、海軍兵学校生徒の印象について真継氏は次のように書いている。 「兵学校に来て、私が強く印象づけられたのは、生徒の顔の端正なことである。これほど揃って、整った容貌を持つ聖徒が、他の学校にいるであろうか。眉目清秀の謂いではない。精神的なものの現れた、きびしい美しさである。鍛えたものの美しさだといってもよい。無垢で、清純で、玲瓏である。そして、ここには一号、三号、四号の段階を、明瞭に現している。清純なうちに可憐さを残す四号生徒に比して、一号生徒には鍛えたものの美しさが一層強く現れている。環境は人をつくるというが、私は兵学校へ来て、男の男らしい美しさを見た」 鈴木貫太郎中将(海兵一四期)が校長として赴任し、約半年の十一月末までであるが工藤たち五一期はその影響を強く受けていくこととなる。 ロシア革命の原因を引用し、「ロシア軍将校による兵への慣習化した殴打が主因であった」と強調して、将来、部下指導の際の戒めとした。 「日本の下士官兵は諸外国に比べて品行方正、優秀である。また、日本古来の武士道には鉄拳制裁はない。これらの観点から、部下指導には公務のための威厳を主とする時は別として慈愛をもって臨め、鉄拳制裁は一種の暴行である」(要約) 工藤ら五一期生は、この教えを忠実に守り、鉄拳制裁を一切行わなかったばかりか、下級生を決してどなりつけず、自分の行動で無言のうちに指導していた。 鈴木中将は、大正八、九年の両年にわたって、明治神宮鎮座祭当日に「明治天皇の御遺徳を偲び奉る事に就いての訓話」を行っている。この祭、 鈴木中将はこの時、明治天皇が、水師営の会見の際、「敵将ステッセルに武士の名誉を保たせよ」と御諚され、ステッセル以下列席した敵軍将校の帯剣が許されたことを生徒に語っている。 大正六年三月八日、ロシア黒海艦隊で水兵の反乱が起きた。その際に水兵が、司令官アレクサンドル・コルチャコフの指揮刀を取りあげようとしたところ、「旅順で自分を捕らえた日本軍でさえ、この刀を取り上げはしなかった」と発言、直後に自らそれを海に投げ捨てている。 昭和一九年夏、海軍兵学校を訪ねた鈴木は、時の井上成美校長に「井上君、兵学校教育の本当の効果があらわれるのは、君、二十年後だよ、いいか、二十年後だよ」と繰り返し言っている。 井上も敗色濃厚な時代ではあったが、兵学校のカリキュラムを普通学に重点を置いたエリート教育を行った。恵氏は、工藤俊作の兵学校在学中に最も影響を与えた人物は、この鈴木貫太郎中将をあげ、その発言したとおりに、二十年後、大東亜戦争中に開花し、それを最も具体的な形で示したのが工藤俊作であると書かれています。(p九一) 満州事変勃発から七カ月後の昭和七年四月二十四日、軍人勅諭下賜五十周年を記念して、生徒自習室に東郷平八郎元帥謹書の勅諭を掲げた。これと同時にこの五省が始められたので、工藤俊作の在校時にはなかった。 工藤俊作は駆逐艦「雷」の艦長として、昭和十五年十一月一日として着任する。工藤の艦長としての勤務は駆逐艦「太刀風」に昭和十三年三月に就任して以来四隻目となる。 身長一八五センチ、体重九五キロと大きな体に、柔道三段で得意技は跳ね腰の猛者でありながら丸眼鏡をかけた柔和で愛嬌のある細い目をしていた。とても猛禽類の」ような目をした駆逐艦艦長のイメージでなかった。 着任の訓示も、「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する」というものだった。乗組員は目を白黒させる。 乗組員たちは当初工藤をいわゆる「軟弱」ではないかと疑った。ところが工藤は決断力があり、当時官僚化していた海軍でも上に媚びへつらうことを一切しなかった。しかも辺幅を飾らず、些細なことにはこせこせしなかった。 洋上訓練が終了し単艦行動に移った時には「ようそろー横須賀」と号令し、速力を上げて寄港した。そして下士官兵を労り、接岸すると非番下士官兵を即座に上陸させた。 酒豪で何かにつけて宴会を催し、士官と兵の区別なく酒を酌み交わす。 好物は魚の光り物(サンマ、イワシ等)で、仕官室の食堂にはめったにでないので、兵員食堂で光り物が出る時、伝令のと自分のエビや肉と交換したり、自ら兵員食堂まで仕官室の皿を持って行って「誰か交換せんか」と言ったりもした。 工藤は日頃士官や先任下士官に、「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」と口癖のように言っていた。 見張りが遠方の流木を敵潜水艦の潜望鏡と間違えて報告しても、見張りを呼んで「その注意力は立派だ」と誉めた。 このため、見張りはどんな微細な異変についても先を争って艦長に報告していたという。工藤艦長の指導の結果、見張りには、四〇〇〇メートル先の潜望鏡を識別でできるベテランが続々と誕生する。当時、これほどの識別能力を確保していれば潜水艦の電撃を充分回避できた。 (当時世界最強といわれたわが国の九三式酸素魚雷の性能は速力五〇ノット、射程二万メートル。他国の魚雷は速力二〇ノット、射程八〇〇〇メートルであった) 二ヶ月もすると、「雷」の乗組員たちは、工藤を慈父のように慕い、「オラが艦長は」と自慢するようになり、「この艦長のためなら、いつ死んでも悔いはない」とまで公言するようになっていった。艦内の士気は日に日に高まり、それとともに乗組員の技量・練度も向上していった。 「特型駆逐艦」または「吹雪型」と称される大正十二年度の建艦計画で設計され、大正十五年から昭和八年まで二四隻が就航した、日本海軍建艦史の中で最多のシリーズである。 昭和一六年一二月四日午前、工藤は高雄港に錨泊中の「雷」の前甲板に全乗組員を整列させた。マストには、日本海海戦で初代「雷」が使用した軍艦旗がひるがえる。 昭和一六年一二月八日に大東亜戦争開戦。その大東亜戦争開戦の二日後、昭和一六年一二月一〇日、日本海軍航空部隊は、英国東洋艦隊を攻撃し、最新鋭の「不沈艦プリンス・オブ・ウェールズ」と戦艦「レパルス」を撃沈した。 駆逐艦「エクスプレス」は、海上に脱出した数百人の乗組員たちの救助を始めたが、日本の航空隊は救助活動にはいると一切妨害せず、それどころか、手を振ったり、親指をたてて、しっかりたのむぞ、という仕草を送った。さらに救助活動後に、この駆逐艦がシンガポールに帰港する際にも、日本軍は上空から視認していたが、一切攻撃をしなかった。 昭和一七年二月一五日、シンガポールが陥落すると、英国重巡洋艦「エクゼター」と駆逐艦「エンカウンター」は、ジャワ島スラバヤ港に逃れ、ここで、アメリカ、オランダ、オーストラリアの艦船と合同して、巡洋艦五隻、駆逐艦九隻からなる連合部隊を結成した。 当初、「雷」は開戦以来、敵潜水艦二隻、哨戒艇一隻撃沈という戦闘力の高さを買われて、艦隊後方で指揮をとる主隊の護衛任務についていた。 そこに「敵巡洋艦ヨリナル有力部隊発見、我交戦中」との信号を受けて、主力は戦場に向かった。しかし、到着した時には、敵艦隊はスラバヤに逃げ込んで、肩すかしを食らった。 敵艦隊は重巡「エグゼタ−」「ヒューストン」、軽巡「デ・ロイテル」(旗艦)「バース」「ジャワ」、駆逐艦米四隻、英三隻、蘭二隻に対して、日本艦隊はこの連合部隊に、日本海軍の重巡「那智」「羽黒」以下、軽巡二隻、駆逐艦十四隻の東部ジャワ攻略部隊が決戦を挑んだ。日本海海戦以来、三七年ぶりの艦隊決戦である。 そして、午後六時三〇分頃、巡洋艦「エグゼタ−」が被弾し、艦隊最後尾にいた蘭駆逐艦「コルテノール」に軽巡「神通」が発射した魚雷が命中し、轟沈した。この海戦において英海軍の英雄的行動もあった。被弾損傷した「エクゼター」を守ろうとして、英駆逐艦「エレクトラ」が「エクゼター」の日本艦隊側側面に進出してきて、「朝雲」「峯雲」の二艦がこれに至近距離から集中砲火を浴びせ撃沈した。 「英駆逐艦「エンカウンター」は、被弾損傷した「エクゼター」を護衛し、かつ「コルテノール」の乗組員百十五名を救助してスラバヤに帰投した。 二月二八日、スラバヤに帰投していた「エクゼター」は被弾箇所の応急修理を終え、午後六時、「エンカウンター」と米駆逐艦「ポープ」を護衛につけて、インド洋のコロンボへと逃亡を図った。 まもなく、日本の探索機によりこの艦隊を発見する。そして、三月一日には別行動をとっていた「雷」第六駆逐隊第二小隊の僚艦「電」を含む日本の駆逐艦隊に取り囲まれ、攻撃を受けた。 北西側より重巡「足柄」「妙高」駆逐艦「曙」「電」、南東側から重巡「那智」「羽黒」駆逐艦「山風」「江風」に挟撃される。 午後一二時三五分、「電」は指揮官旗を翻す「エクゼター」に距離一五〇〇〇メートルにまで接近して砲撃を開始した。「エクゼター」はボイラー室に被弾して、航行不能に陥った。午後一時一〇分、高木司令官より「撃ち方止め!」の号令が下され、敵艦に降伏を勧告する信号が発せられた。しかし、艦長オリバー・ゴードン大佐は降伏せず、自沈作業を開始した。やがてマストに「我艦を放棄す、各艦適宜行動せよ」の旗流信号を掲げ、僚艦に自艦を見捨てるよう指令した。 その時「エクゼター」の乗組員たちは、次々と海中に飛び込み、日本艦隊に向かって、泳ぎ始めたのである。 午後一時三〇分、「電」が接近して魚雷二発を発射、間もなく「エクゼター」は右舷に傾き、艦尾から沈んでいった。そのとき「電」艦内に、「沈みゆく敵艦に敬礼」との放送が流れ、甲板上の乗組員達は、一斉に挙手の敬礼をした。その敬礼に見送られて、「エクゼター」は船尾から沈んでいった。 「エクゼター」では、士官が兵に対し、「万一の時は、日本艦の近くに泳いでいけ、必ず救助してくれる」といつも話していた。「プリンス・オブ・ウェールズ」沈没の際の日本海軍の行動が記憶にあったのだろう。 まもなく「海上ニ浮遊スル敵兵ヲ救助スベシ」の命令が出された。(恵氏は発令者は第三艦隊司令部と思われるとしている) それにより、救命ボートに乗っている者、救命用具をつけて海面に浮かんでいる者に対して、「電」の乗組員は、縄ばしごやロープ、救命浮標などで、救助にあたった。蒼白な顔に救出された喜びの笑みをたたえ、「サンキュウ」と敬礼して甲板にあがってくる者、激しい戦闘によって大怪我をしている者などが、次々と助け出された。 甲板上に収容された将兵には、乾パンとミルクが支給された。「電」によって救助された「エクゼター」乗組員は三七六名に上った。 また、恵氏は「電」艦長竹内一少佐は救助の命令を受ける前から、脱出した「エクゼター」の乗組員の状況を司令部に発信し、救助の許可を仰いだものと推測しています。 恵氏はその理由として、旗艦「足柄」は、「エクゼター」沈没以前に、「エンカウンター」と「ポープ」攻撃のため高速で東方に移動しており、「エクゼター」のその後を視認することはできなかった。要するに、時間的に見て「エクゼター」の乗組員である敵兵救助命令は「電」からの許可の要請がない限り出せないものと思われると書いています。 この「電」による救助活動によって助けられた元英海軍士官二人が、平成一六年六月現在、英国に御健在だそうで、現地で恵氏のインタビューに「日本海軍は偉大だった」(グレム・アレン元英海軍大尉)と答えています。 駆逐艦「エンカウンター」は、旗艦「エクゼター」が停止した時、その「各艦適宜行動せよ」という命令に従い、単独での航行を続けた。艦長モーガン少佐は「エクゼター」の乗組員を救助すべきかと、一瞬迷ったが、「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」沈没の際の日本海軍の行動を覚えていたので、こう決断したのである。 しかし、その「エンカウンター」も日本艦隊の追撃を受け、八千メートル東方の海域で、三〇分後に撃沈された。この時、二〇歳の砲術士官だったフォール卿は、こう証言している。 「艦長とモーターボートに乗って脱出しました。その直後、小さな砲弾が着弾してボートは壊れました。・・・この直後、私は艦長と共にジャワ海に飛び込みました。」(昭和一七年三月一日、午後二時過ぎ) 「間もなく日本の駆逐艦が近づき、われわれに砲を向けました。固唾をのんで見つめておりましたが、何事もせず去っていきました。」(恵氏は駆逐艦「曙」と推定) この時期には、米蘭の多くの潜水艦がジャワ海で行動しており、わが国の艦艇も犠牲になっていた。三月一日には、この海域で輸送船「加茂川丸」が敵潜水艦の攻撃を受け沈没。船長であった工藤の兵学校時代の教官であった清水巌大佐(海兵三九期)が船と運命を共にしている。 戦闘詳報には二月二七日から三月一日にかけて、ジャワ海で「敵潜水艦合計七隻撃沈」の報告もなされている。それほど危険な海域なのである。敵の攻撃をいつ受けるか分からない状況では、国際法上は、海上遭難者を放置しても違法ではない。 「エンカウンター」の乗組員たちは、約二一時間も漂流し、「エクゼター」の場合と異なり、沈没艦から流出した重油の海につかり、多くの者が一時的に目が見えなくなる。 「救命浮舟に五、六人で掴まり、首から上を出していました。見渡す限り海また海で、救命艇も見えず、陸岸から一五〇海里も離れ、食糧も飲料水もない有り様でした。この時、ジャワ海にはすでに一隻の連合軍艦船も存在せず、しかも日本側はわれわれを放置してしまうという絶望的な情況に置かれていました。」 ところが一夜を明かし、夜明け前になると精気が減退し、沈鬱な気分になっていきました。死後を想い、その時には優しかった祖父に会えることをひそかに願うようになっていたのです」 「一九四二年三月二日の黎明を迎えました。われわれは赤道近くにいたため、日が昇りはじめるとまた猛暑の中にいました。 仲間の一人が遂に耐えられなくなって、軍医長に、自殺のための劇薬を要求し始めました。軍医長はこの時、全員を死に至らしめてまだ余りある程の劇薬を携行しておりました」 このような情況の中、そこに偶然、通りかかったのが、駆逐艦「雷」だった。二番見張りと四番見張りからそれぞれ、「浮遊物は漂流中の敵将兵らしき」「漂流者四〇〇以上」と次々に報告がはいる。工藤艦長は「潜望鏡は見えないか」と見張りと探信員に再確認を指示し、敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、午後一〇時頃「救助!」と命じた。 「午前一〇時(正確には午前一〇時一〇分頃とおもわれる)、突然二〇〇ヤード(約180メートル)の」ところに日本の駆逐艦が現れました。 当初私は、幻ではないかと思い、わが目を疑いました。そして銃撃を受けるのではないかという恐怖を覚えたのです」 「雷」は直ちに、「救難活動中」の国際信号旗をマストに掲げ、第三艦隊司令部高橋伊望中将宛てに「我、タダ今ヨリ、敵漂流将兵多数ヲ救助スル」と無電で発した。 工藤は先任将校(浅野市郎大尉海兵六三期当時二九歳)に救助全般指揮をとらせ、航海長(谷川清澄中尉二五歳)に後甲板を、砲術長(田上俊三中尉二四歳)に中甲板における救助の指揮をとらせた。 敵側から、ロープ送れの手信号があったのでそうしましたら、筏上のビヤ樽のような高級将校(中佐)にそれを巻き付け、この人を上げてくれの手信号を送ってきました。五人がかりで苦労して上げましたら、この人は『エクゼター』副長で、怪我をしておりました。それから、『エクゼター』艦長、『エンカウンター』艦長が上がってきました。 その後敵兵はわれ先に『雷』に殺到してきました。一時パニック状態になったが、ライフジャケットをつけた英海軍の青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然となりました。 この人は、独力で上がれない者には、われわれが差し出したロープを手繰り寄せて、負傷者の身体に巻き、そして、引けの合図を送り、多くの者を救助をしておりました。『さすが、イギリス海軍士官』と、思いました」 「彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。艦に上がってきた順序は、最初が『エクゼター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿が青年士官という順でした。当初『雷』は自分で上がれる者を先にあげ、重傷者はあとで救助しようとしたんですが、彼らは頑として応じなかったのです。 その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』の乗組員として、カッターで沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、この光景と対象的な情景を目にしました」 浮遊木材にしがみついていた重傷者が、最後の力を振り絞って「雷」の舷側に泳ぎ着いて、「雷」の乗組員が支える竹竿に触れるや、安堵したのか、 ほとんどは力尽きて次々と水面下に沈んでいってしまう。甲板上の乗組員たちは、涙声をからしながら「頑張れ!」「頑張れ!」と呼びかける。この光景を見かねて、二番砲塔の斉藤光一等水兵(秋田出身)が、独断で海中に飛び込み、続いて二人がまた飛び込んだ。立ち泳ぎをしながら、重傷者の体にロープを巻き付けた。 「先人将校!重傷者は、内火艇で艦尾左舷に誘導して、デリック(弾薬移送用)を使って網で後甲板に釣り上げろ!」 もう、ここまで来れば、敵も味方もなかった。まして海軍軍人というのは、敵と戦う以前に、日頃狭い艦内で昼夜大自然と戦っている。この思いから、国籍を超えた独特の同胞意識が芽生えたのであろう。甲板上には負傷した英兵が横たわり、「雷」の乗組員の腕に抱かれて息を引き取る者もいた。一方、甲板上の英国将兵に早速水と食糧が配られたが、ほとんどの者が水をがぶ飲みした。救助されたという安堵も加わって、その消費量は三トンにものぼった。便意を催す者も続出した。工藤は先任下士官に命じて、右舷舷側に長さ四メートルの張り出し便所を着工させた。 「私は当初、日本人というのは、野蛮で非人情、あたかもアッチラ部族かジンギスハンのようだと思っていました。『雷』を発見した時、機銃掃射を受けていよいよ最後を迎えるかとさえ思っていました。ところが、『雷』の砲は一切自分達に向けられず、救助艇が降ろされ、救助活動に入ったのです」 「駆逐艦の甲板上では大騒ぎが起こっていました。水平たちは舷側から縄梯子を次々と降ろし、微笑を浮かべ、白い防暑服とカーキ色の服を着けた小柄で褐色に日焼けした乗組員がわれわれを温かくみつめてくれていたのです」 「艦に近づき、われわれは縄梯子を伝わってどうにか甲板に上がることができました。われわれは油や汚物にまみれていましたが、水兵たちは我々を取り囲み、嫌がりもせず元気づけるように物珍しげに見守っていました。 それから木綿のウエスと、アルコールをもってきて我々の身体についた油を拭き取ってくれました。しっかりと、しかも優しく、それは全く思いもよらなかったことだったのです。友情あふれる歓迎でした。 私は緑色のシャツ、カーキ色の半ズボンと、運動靴が支給されました。これが終わって、甲板中央の広い処に案内され、丁重に籐椅子を差し出され、熱いミルク、ビール、ビスケットの接待を受けました。私は、まさに『奇跡』が起こったと思い、これは夢でないかと、自分の手を何度もつねったのです」 「すると、キャプテン(艦長)・シュンサク・クドウが、艦橋から降りてきてわれわれに端正な挙手の敬礼をしました。われわれも遅ればせながら答礼しました。」 「諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである」 「『雷』はその後も終日、海上に浮遊する生存者を捜し続け、たとえ遙か遠方に一人の生存者がいても、必ず艦を近づけ、停止し、乗組員総出で救助してくれました」 「雷」は午前中だけで四〇四人を救助した。午後は十八人を救助した。(水没したり甲板上で死亡した者を除く) この頃、我国にとってはまさに「石油の一滴は、血の一滴」といわれた時であり、また艦内の真水をつくるために造水装置も作動させるにも燃料を消費する。そのため、直接燃料を制御する機関長以下の機関科員は、絶えず燃料節約に努力し、また乗組員は真水を節約するため、洗面や飲料水にも細心の注意を心がけていた。 それを、工藤艦長は、敵兵救助のために艦の停発進を繰り返して燃料を激しく消耗し、重油で汚染された敵兵を洗浄するため、アルコールやガソリンを使い、さらに真水まで使用している。 海の中から上がった喜びも束の間、今度は赤道直下の灼熱の太陽が容赦なく敵兵を襲った。一時間も経過すると、身体の重油を落とすために使用したガソリンやアルコールが災いして、今度は彼らの身体に水泡ができた。 そこで工藤艦長は全甲板に大型の天幕を張らせ、そこに負傷者を休ませた。艦が走ると風も当たり心地よい。ただ、これで全甲板の主砲は使えなくなった。 「雷」の上甲板面積は約一二二二平方メートル、この約六〇%は艦橋や主砲等の上部構造物が占める。実質的に使えるスペースは、四八八平方メートル前後である。そこに、約三九〇人(約二〇人から三〇人は士官で、艦内に収容)の敵将兵と、これをケアーする「雷」の乗組員を含めると一人当りのスペースは驚く程狭いスペースしか確保できない。 蘭印攻略部隊指揮官高橋伊望中将はこの日夕刻四時頃、「エクゼター」「エンカウンター」の両艦長を「雷」の付近を行動中の重巡「足柄」に移乗するよう命令を下した。舷門付近で見送る工藤と、両艦長はしっかりと手を握り、互いの武運長久を祈った。 高橋中将は双眼鏡で、「足柄」艦橋ウイングから接近中の「雷」を見て、甲板上にひしめき合う捕虜の余りの多さに、唖然とした。 この時、第三艦隊参謀で工藤俊作と同期の山内栄一中佐が高橋中将に、「工藤は兵学校時代からのニックネームが『大仏』であります。非常に情の深い男であります」と言い、高橋司令長官を笑わせた。 高橋中将は「それにしても、物凄い光景だ。自分は海軍に入っていろいろなものを見てきたが、この光景は初めてだ」と話していたという。 高橋中将の命により、翌三月三日午前六時三〇分、パンジェルマシンへ入校し、救助された英兵たちは、停泊中のオランダの病院船「オプテンノート」に引き渡された。移乗する際、士官たちは「雷」のマストに掲揚されている旭日の軍艦旗に挙手の敬礼をし、また、向きを変えてウイングに立つ工藤に敬礼して「雷」をあとにした。工藤艦長は、丁寧に一人一人に答礼をしていた模様である。これに比べて兵のほうは気ままなもので、「雷」に向かって手を振り、体一杯に感謝の意を表していた。 「エグゼタ−」の副長以下重傷者は担架で移乗した。とくに工藤艦長は、負傷して横たわる「エグゼタ−」の副長を労い、艦内で療養する間、当番兵をつけて身の回りの世話をさせていた。副長も「雷」艦内で、涙をこぼしながら工藤の手を握り、感謝の意を表明していたという。 「前甲板の上はビスケットの粉々になったのが彼らの垂れ流した小便でこびりついてつるつる滑る。素足になって海水を流し、デッキブラシでゴシゴシやって、やっと元の甲板に戻りました」 「オランダの病院船からマサッサルの捕虜収容所まで徒歩で行進しました。路上でみた住民たちはかなり親日的で、軒ごとに日章旗が掲揚されていました。それに反して、彼らは自分たちをかなり敵愾心をもって見ているようでした。 捕虜収容所はオランダ軍の施設でした。当初は鉄条網もなく、さほどの束縛もありませんでした。土間に寝起きさせられましたが、後に、小さなベットと蚊屋が支給されました。ここには、英海軍、オランダ海軍、少数の米海軍(撃沈された潜水艦乗組員)の士官を含め兵卒もまじって収容されていました。 ある時、オランダ海軍士官が脱走を試みました。ところが、買収したはずのインドネシア人が日本軍に通報し、それは失敗に終わったのです。これ以降、自分は英国海軍の上級士官から二度とこういう行為はするなと言われました。 日本兵はわれわれが勉強することを許してくれました。そのため、私はこの環境を利用してオランダ語、マレー語、インドネシア語を学んだのです。このことは戦後自分の外交官活動に大変役立ちました。 一九四二年の暮れ、ある日本人のジャーナリストが捕虜収容所を訪問し、私は取材を受けました。彼は長年の滞米経験があり、われわれに同情的でした。彼は私にインタビューし、その内容を東京放送で必ず放送すると約束してくれました。その時、私が語ったのは次のようなことでした。 戦後になってわかったことですが、この放送はロンドンのアマチュア無線家によって受信され、両親に電話で知らされていました。 両親はすぐにこれが偽物でない事を確信しました。なぜならメレーデは、私のフィアンセの愛称だったからです。これは、当時スウェーデンにいたメレーデの兄にも伝えられました。 その後、捕虜は分けられて、セレベスの東岸にあるパマラに移され、そこで終戦を迎え、一九四五年一〇月二九日にリバプールに帰還したのです」 先に書いたようにフォール卿は、戦後、外交官として活躍し、定年退職後、平成八年に自伝『マイ・ラッキー・ライフ』を上梓し、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した。 平成一五年一〇月、フォール卿は日本の土を踏んだ。八四歳を迎える自身の「人生の締めくくり」として、すでに他界していた工藤艦長の墓参を行い、遺族に感謝の意を表したいと願ったのである。しかし、あいにく墓も遺族も所在が分からず、フォール卿の願いは叶えられなかった。部下であった田上俊三大尉などは「戦後間もなく病気で死んだ。子供もいないから、その後どうなったかわからない。墓もわからない」と語気強く言い切ったそうである。それでいて、自分はテレビ局(あのNHK)を連れてきて「救助隊私機関で活躍した」「工藤艦長の兵学校のクラスは大量採用の時代であった」とかたり、それだけでなく兵学校出身者と思えないぐらいの偏った歴史観をもち、それだけでなく、自分自身とフォール卿とは孫をホームステイさせるほどの仲と吹聴している。 田上のそれは平成一五年十一月二一日午前五時三八分に放送された「おはよう日本」のなかで「半世紀を超えた友情」と報道された。 その中で、田上は工藤艦長の名前は一切語らず、いかに自分が敵兵救助に活躍したかを言った。その後、こう熱弁を振るったそうである。 「絶対戦争をしてはいけないということは、この時すでに考えていた。こういうバカなことをやってはいけないと思いながら戦っていた・・・・」 フォール卿から依頼を受けて、著者・恵隆之介氏はわずか三ヶ月後に、遺族を見つけ出した。工藤俊作氏は終戦後、高畠にあったかよ夫人の実家にいた。苗木の挿し木などをして収入を得ていた。敗戦で、残念なことであるが陸海軍人に対する視点が一八〇度変わった。かっての職業軍人に戦争責任のすべてを転嫁する風潮が全国的に起こっていたのである。ところが、高畠や米沢にはこういった日和見な傾向は微塵もなかった。 工藤俊作の出身地である屋代村村民も同様、戦前戦後の価値観の価値観の転換はなかった。村民は、工藤が駆逐艦艦長時代、碇泊中に郷党の兵が表敬のため舷門を訪ねると、階級にこだわることなく艦長室に招き入れ、歓待してくれたことを決して忘れなかった。 とくに元海軍下士官の二階堂敬三氏は、戦後、何度も感激をもって次の話を村民にしていた。(平成一二年、八一歳で死去) 「水兵時代に『雷』を訪問し、『工藤艦長に表敬したい』と舷門にいる下士官に申告したことがあった。下士官は即座に『兵の分際で、艦長を表敬とは何事か』と怒鳴った。そこに、折良く工藤艦長が通りかかり、『二階堂君ではないか』と、艦長室に案内し、歓待してくれた」というのだ。 工藤は高畠から自転車で、屋代村の兄家族を度々訪ねているが、途中、村人たちは農作業の手を止めて頭を垂れていた。 かよ夫人の姪が、この地で医院を開業することになり、工藤は事務を、夫人は入院患者の賄い婦としての生活が始まった。 この頃になると、同期や、旧部下が、工藤の所在を探し当てて訪問するようになる。戦後まっ先に工藤を訪ねてきたのが、艦長伝令をしていた佐々木確治氏であった。その次が第一砲塔砲手の橋本衛氏であった。二人とも玄関で、「艦長、戦時中はお世話になりました」と発声するや、後は声にならずただただ、工藤に肩をたたかれて、涙を滂沱するだけであった。 海上自衛隊や、クラスが在籍する大企業からの招きも全部断わった。さらに戦後のクラス会には出席しようとしなかった。工藤の日課は、毎朝、死んでいったクラスや、部下の冥福を祈って仏前で合掌することから始まった。楽しみは、毎晩かよ夫人に注がれる晩酌と、毎月送られてくる雑誌「水交」に目を通し、先輩、後輩の消息を知ることであった。 昭和五四年一月一二日、七八歳の生涯を静かに閉じた。いよいよ最後という時、クラスの大井薫氏や、正木生虎氏が病室を訪ねた。付き添い中の夫人が、「大井さんと正木さんですよ」と耳元で囁いた。 「ああ大井か、正木か。貴様たちはおおいにやっているようだが、俺は独活の大木だったなあ」と言いつつ、静かに目を閉じたという。 この七カ月後に海上自衛隊の練習艦隊が、英国ポーツマスに入港した。練習艦隊司令長官植田海将補が英国海軍連絡士官より工藤俊作海軍中佐の消息調査を依頼された。 著者の恵氏は同じ頃、英国海軍訓練支援艦L十一(一三〇〇〇トン)士官室で、リチャード・ウイルキモ海軍大尉から次の激励を受けていた。 「恵少尉、我々は日本海軍を尊敬している。ドイツが戦後海軍旗を変更したが、海上自衛隊は、帝国海軍旗を世襲した。われわれはこの事に最も敬意を表している」そして「米国にコンプレックスを決してもつな」と言われている。 そして、恵氏は後一年早く知っていれば、工藤元中佐、フォール元中佐の感激の再会が実現していたのにとこの著書に書かれています。 そして、工藤俊作の甥・七郎兵衛氏は「叔父はこんな立派なことをされたのか、生前一切軍務のことは口外しなかった」と落涙した。我国海軍のサイレント・ネービーの伝統を忠実に守って、工藤中佐は己を語らず、黙々と軍人としての職務を忠実に果たして、静かにこの世を去っていったのである。 |
[ 37] 工藤俊作
[引用サイト] http://www.tamanegiya.com/kudoustunsaku.html
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青島俊作(あおしま しゅんさく)は1997年1月〜3月にフジテレビ系で放送された刑事ドラマ『踊る大捜査線』及びその劇場版の主人公。演じた俳優は織田裕二。 かつてはコンピュータシステムの開発会社「シンバシマイクロシステムズ」に勤務する成績ナンバーワンの営業マンであったが、刑事ドラマの刑事に憧れ[2]、警察官に転職。TVシリーズ第1話の冒頭部分の模擬取り調べでは、容疑者役にカツ丼を勧めるなど昔風の刑事ドラマに出てくるような取り調べを行い、「刑事ドラマの見過ぎ」と言われている。交番勤務の後、湾岸署に配属され、念願の刑事になった。「脱サラ刑事」と揶揄されることもあったが、サラリーマン時代に培ったスキルが捜査に役立つことも度々あった。 いつも市民のことを真っ先に考え、常に自分の信念に従って行動する今時珍しい男。組織内部のかばい合いや官僚主義を嫌っており、上からの命令を無視したり、はちゃめちゃな単独行動をとったりすることもしばしばあるため、警視庁一の問題児と見られている。一度、捜査一課に派遣された際、出世や成績のことしか考えない本庁の捜査員と意見が対立し、事件に優劣をつける本庁捜査員の考え方や警察の縦割りなどに疑問を感じるようになってゆく。以後は事件の大小を考えず、所轄でじっくり捜査していくタイプの刑事に成長した。基本的に昇進試験や出世などに興味はない。室井慎次が昇進して現場の刑事が正しいことをできるようにしてくれることを願っている。 恩田すみれが襲われそうになった際には野口からすみれを守り抜き、柏木雪乃が濡れ衣で逮捕された際には真犯人を見つけ出すことに成功した。真下正義が銃撃された事件でも室井と協力して被疑者を見つけ出すが、この際の単独行動が問題となり処分を受ける。TVシリーズ最終回のラストでは、この処分によって湾岸署刑事課を離れ、湾岸署の前に配属されていた練馬署の交番勤務となるが、それでもめげることなく働いている。交番での勤務中に吉田のおばあちゃん{実は、吉田警視副総監の母。青島は気づいていない)と再会し、貰ったお守りに命を救われたことなどを話してその礼を述べている。この吉田のおばあちゃんと話すシーンをもってTVシリーズは終了する。 TVシリーズの時点では、当時の東京都知事青島幸男と同じ姓(そもそも「青島」の名はここからきている[3])であったため、「都知事と同じ名前の青島です」が自己紹介の決まり文句であった。ちなみにこのセリフは世界都市博の中止で湾岸地区の開発に一旦ブレーキがかかったその空き地に都市博中止の決定を下した男と同じ名前の刑事がやって来るという皮肉が込められている。『THE MOVIE』パンフレット巻末のプロファイリングによれば、都内の所轄における始末書の数は漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の両津勘吉と1、2を争うほどの多さである。尚、名前の「俊作」は亀山千広が『探偵物語』の主人公・工藤俊作から取って名付けた[4]。 『踊る大捜査線 歳末特別警戒スペシャル』では、当初杉並北署捜査資料室にいた[5]。当初は室井と警察幹部との約束では半年で湾岸署に戻ってくることになっており、本庁は約束通り半年後に湾岸署に戻る辞令を出したにもかかわらず、杉並北署でその辞令が書類の中に埋もれて忘れられ放置状態になっていた。後に青島が湾岸署に戻っていないことに室井が偶然気づいたことで、青島はやっと湾岸署に帰ってくる。だが湾岸署ではどの部署も青島を引き受けるのを嫌がり結局課長同士で押しつけあった結果、交通課が引き受けることになるが、小学校の傷害事件のためにミニパトを走らせたため、警務課へ異動。さらに小学校の傷害事件の捜査をしたため生活安全課へ異動。その後も小学校の傷害事件犯人を見つけ勝手な行動をとったために地域課へ異動といろいろな課を回されたが、最終的には刑事課に戻ってくる。 『踊る大捜査線 番外編 湾岸署婦警物語 初夏の交通安全スペシャル』では青島はアメリカ合衆国のロサンゼルス市警に一ヶ月の研修出張しており、登場するのはラストシーンのみである。 『踊る大捜査線 秋の犯罪撲滅スペシャル』では、コンピュータ会社のサラリーマンだった経歴を生かして潜入捜査を行い、犯人を突き止めるといった功績を挙げたりもした。しかし、別の事件で犯人の女性に同情してかくまっているのではないかと疑われた恩田すみれを調べるように命令されたが、それに逆らって本部へ情報を伝えなかったため減俸処分になる。その際に警察庁監察官だった室井と大きな対立を生むが、『踊る大捜査線 THE MOVIE』で和解した。 『踊る大捜査線 THE MOVIE』では、副総監誘拐事件の犯人・坂下始の母親に包丁で腰を刺され重傷を負う。刺された直後は死んだのかと思われたが、実は3日間寝ずに働いていたために疲れて寝込んでしまっただけであった。『THE MOVIE』における青島の「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きてるんだ!」というセリフは、映画のヒットも相まって流行語となった。 『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』の前に起きた作中の世界のみに登場する潜水艦事件では、室井の指揮でコンピュータ技師に扮して潜水艦「むつしお」内で起きた殺人事件を調べ、犯人逮捕に成功するも海上自衛隊に公務員職権乱用罪で告訴され、津田誠吾の弁護を受ける。 『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』では、序盤にSAT隊との演習の際に犯人役を務めたが、官僚達の見ている中、犯人役を務めながらSAT部隊全員をやっつけてしまうという前代未聞の不祥事を起こしてしまった為に、湾岸署の署員達全員が減俸処分にされてしまうということになり、危うく近くにいた同僚達にリンチされる寸前であった。また、「もっとしゃきっとした事件は無いんですか」といった初心を忘れて事件をえり好みするような発言もしている。最後はこの事件での功績により室井とともに警視総監賞を受けるが、新たな事件の捜査のためにその授賞式をすっぽかしてしまう。 スピンオフ作品には登場していないが、変わらず湾岸署にいると思われ、『交渉人 真下正義』では、雪乃が真下とデートするためにすみれに当番を替わってもらったので、そのお礼に食事をおごろうとしたところ一緒について来たことや、『容疑者 室井慎次』では、「スリーアミーゴス」を通して「室井さんは何をやってるんだ。」と発言していることなど、その時点での動向が語られている。 2006年5月にオリコンが行った「男性が選んだドラマに出てくる憧れの主人公の職業ランキング調査」において「青島俊作 刑事」が第1位を獲得している。 青島が警察官になったその日に購入したコートで、購入時に店の気さくな店主に安くしてもらったものである。それがあってか、青島は長年愛用している。「踊る大捜査線 THE MOVIE 2」では、「THE MOVIE」で青島が刺された際に開いた穴の部分はきれいに修繕されている。事件後はクリーニングに出された。ちなみに劇中で織田裕二が着用しているものは特注されたものでポケットの位置が一般に販売されているものとは違っている。 実際に米陸軍の放出品のコート(ユニオントレーディング(株)〈旧マキノ商事〉製のM-51コート:米陸軍で1951年に正式採用)である。肩にエポレット(肩章)があるところからもわかるようにカジュアルコートというよりは軍用コートで、ガンマニアの青島らしいアイテムといえる。また1960年代のイギリスで「モッズ」と呼ばれる若者達が好んで着用していた事から別名「モッズパーカー(モッズコート)」とも呼ばれる。色はモスグリーンのものを着用。合理的な軍用コートらしく内側に中綿入りライナー(オプション)をボタンで装着できるようになっている(青島もライナーを装着し着用している)。また、「THE MOVIE 2」では、このコートは3着(うち1着は血糊を付けたもの)用意され、交代で着用されている(「THE MOVIE 2」公開時のプログラムより)。 「THE MOVIE2」公開時、フジテレビ公式踊る大捜査線サイトで青島コートのレプリカが販売された。コートの背中部分にはシルエット、織田裕二のサイン等が印刷されている。あたたかいインナーは取り外し可能。類似品も出回っているが、数回にわたってユニオントレーディング(旧マキノ)からも復刻版が販売されている。サイン・シルエットが入っているのは初回限り。 余談だが、「踊る大捜査線 秋の犯罪撲滅スペシャル」では、犯人護送中に立ち寄った店が強盗に襲われた際、その強盗の1人が青島のコートと色・デザイン共に似た物を着ていたため、店に潜入した青島は隠れていた女性店員に犯人の仲間と間違われ、関節技をかけられる羽目になった。 ^ シナリオガイドブックなどの公式資料には青島の持っている資格として「特殊無線技師(乙種)」と記載されているが、「特殊無線技師」という名称の資格は実際には存在しない。なお、これと似た名称の「特殊無線技士」という名称の資格は過去に存在した。この資格は現在の「陸上特殊無線技士」等に相当する。 ^ 少年時代の青島俊作があこがれていた架空の刑事ドラマ「デカ・ウオーズ」とそれにあこがれていた少年時代(1979年とされる)の青島俊作を描いたシナリオが君塚良一の著書「裏ドラマ」に収録されている。 ^ THE MOVIE 2の特番で述べられている。また、2007年1月27日『トリビアの泉 今夜復活踊る大へぇへぇ祭り!!』内にて放送された警護官 内田晋三の制作会議でも亀山千広が述べている ^ これもTHE MOVIE 2の特番で述べられている。また、「踊る大捜査線THE MOVIE 2レインボーブリッジを封鎖せよ!完全調書 お台場連続多発事件特別捜査本部報告書」収録「第三取調室 踊る小道具辞典 青島俊作」P51にも記されている。 「1997年3月に湾岸署から杉並署に異動し、同年12月に湾岸署に復帰した」とする公式資料(「踊る大捜査線 湾岸警察署事件簿」、「踊る大捜査線THE MOVIE シナリオガイドブック」など)と、 「1997年3月に湾岸署からまず(湾岸署に来る前までいた)練馬署の桜交番に異動し、同年8月に杉並北署捜査資料室に異動、同年12月に湾岸署に復帰した」とする公式資料(「踊る大捜査線THE MOVIE 2レインボーブリッジを封鎖せよ!シナリオガイドブック」) TVシリーズ最終話のラストシーンで交番勤務の青島が吉田のおばあちゃんに再会し、刑事になる前に貰ったお守りに効果があったことのお礼を述べているシーンがあるため、1997年3月の時点には湾岸署に来る前にいた練馬署の交番勤務に戻ったと思われること。 歳末スペシャルの当初青島の上司であった篠原浩三の所属が杉並「北」署の捜査資料室になっていること(すべての公式資料で一致)。 を合わせ考えると後者の記述が正しいと思われる。「杉並署」が「杉並北署」になっているのは「杉並署」が実在する警察署であるために変更されたものと考えられる。 踊る大捜査線THE MOVIE 2レインボーブリッジを封鎖せよ!シナリオガイドブック(キネマ旬報社キネ旬ムック 2003年9月16日)ISBN 4873766028 踊る大捜査線THE MOVIE 2レインボーブリッジを封鎖せよ!完全調書 お台場連続多発事件特別捜査本部報告書 (角川書店 2003年7月) ISBN 4-04-853645-1 カテゴリ: 踊る大捜査線 | テレビドラマの登場人物 | 映画の登場人物 | 架空の警察官 |
[ 38] 青島俊作 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B3%B6%E4%BF%8A%E4%BD%9C
