ラステアとは?

ミルトニア大陸南方の自治領・ラステアの人口は五千万人。そのうち西方は首都のラステア市に約二千万人、北方の港町コ
ラステアの住民に、陸続きで国境を接している国はと聞けばまず十人中十人が西方のキーリアス王国、と答えるだろう。ツ
ェイ王国もそうなのだが、何しろツェイと陸続きの国境地帯は、『瘴気の谷』と呼ばれる非常に危険な地帯が広がっており、
ラステアとキーリアスの仲は、それほど良い訳ではない。百年前まで、ラステアはキーリアス国の一地方に過ぎなかった。
だが、時の国王レンヴィス5世の圧政をきっかけに、独立。以後たびたびキーリアスからの侵攻を退けているのだった。
キーリアスの先王に、一人の王子がいた。名をレーディルという。彼は15歳で成人して、正式に王太子として国王の後継
者に定められた。だが、程なくして国王が斃れてからというもの、反王太子派――これは主に王弟――がクーデターを起こし、
王弟派に、首都のある西方リラ地方、そして北方リアトリス地方。王太子派に南方アルメリア地方、東方アイフェイオン地
クーデターが起きた当初、不意を突かれた形になった王太子派は、たちまち首都を追われ、アルメリア地方に逃れたのだっ
たが、王弟派の優勢も、五年かかってそれが覆った。機を窺っていた王太子自らの出陣に、各地で身を隠していた心ある名士
王太子派が優勢になると、キーリアスの民はにわかに活気付いた。もともとレーディル王子は少年時代、放浪癖もあってか
庶民からも人気があり、成人前より多くを期待されていた。反対に王弟は腐敗した官の代表格のような人物で、地方領主だっ
そしてこの年――1360年――ついに事態は勢いを増し、あっという間に王太子派は王弟派を一掃。正式にレーディルが
野太い男の声がした。レーディルはそれに応じようとした付き人を制し、大理石造りのテラスから彼を振り返った。
レーディルは男の名を呼んだ。男の容貌は、全体的に野性的な印象を受ける。頭髪はくすんだ草色で、それが精悍な顔立ち
「やはり、決心は変わらぬか? 私としてはおぬしに残ってもらいたい。まだ私は即位して間もないのだ。キーリアス復興の
ためには、賊や王弟派の残党、そして未だに反対の多いラステアとの国交も復活させねばなるまい。一人でも多く、信頼でき
そう言って大仰に両手を広げてみせる。彼の腰に下げている大剣が揺れた。レーディルは、シィズの持つその剣が、かつて
優先種族ドミナントを滅ぼした『人麗蜂起』において、錬金術師たちが鍛え上げた奇跡の魔剣――八魔剣の一・地征剣クロッ
カス――であることを知っていた。それを彼が入手した経緯はあえて聞こうとはしなかったが、おそらく自分がそうであった
レーディルも、西征剣ディモルフォセカの所持者であるのだ。それはクーデターが起こる少し前、王城の宝物庫に眠ってい
「冗談ではない」レーディルは苦笑した。「キーリアスの統一に、おぬしはよく貢献してくれた。おぬしにはなんの縁もない
この地にもかかわらず、ただ虐げられた民を救いたいがために一人で市民を指揮し戦い続けていたとは、会ったときは衝撃だ
「おぬしのその勇敢な武力や指揮能力は、おそらく稟鳳の八千鬼神に勝るとも劣らぬだろうと、私は思っておるのだがな」
「私とて、剣術には自信があったが、結局おぬしからは一本も奪えずだったよ」レーディルは笑い、シィズの方に歩いて行っ
た。「我が臣として、このような者がいたらどれだけ心強いかと、内乱平定後の予想図を毎日頭に描いていた。年齢も同じこ
「分かっておる。だからもう引き止めはせんさ。大陸一の剣豪になる――そう言っていたな? おぬしの故郷ツェイに、目的
「どうしても、俺は勝たなきゃならないんです。キーリアスに流れ着く前――俺が16の時、一度勝負を挑んだだけですが、
「――大陸最強の剣士ガーンか……。あの、王城の城壁を剣圧の一振りで10クォレルまるまる、瓦礫に変えたという」レー
「明日にでも」シィズは太い眉をやや上げて苦笑する。「どうもせっかちな性分でしてね。だからこれが、最後の挨拶ってわ
シィズは笑んで、差し出されたレーディルの手を握り返す。レーディルももはや名残惜しい気持ちを捨て、目の前にいる友
アスティスは現在、『ベルガモット』の本部で、家政婦の仕事をしている。彼女の他にも何人か手伝いの者はいたが、彼女
父であったルピナスの市長が魔獣に襲われて死亡したのは二年前。アスティスが14歳のときだった。週に一度の、ラステ
ア全体の運営方針を決定する評議会の帰り道でのことだった。首都ラステアからルピナス市まで延びる公道を、いつものよう
身辺警護の傭兵は二人ほど雇っていた。『ベルガモット』には審査で通らなかったものの、数の少ない魔獣相手なら問題な
しかしそのとき現れた魔獣は、彼らだけの手には負えるものではなかった。アスティスの耳にその知らせが入ってきたとき
自分がどれだけ取り乱していたのか、自分でもよく覚えていない。それでも彼女は一応気持ちの整理をつけると、父の遺し
何故彼女がそこで働く決心をしたのかは自分でもはっきりとは説明できない。ただ、以前に何らかの縁で知り合ったメンバ
明るい声をかけてきた青年がいる。彼は薄い青色の目を細めていた。手には何日間か暮らせそうなだけの荷物を抱えている。
「うん、まあな。俺とエイシアとフィリエスで、コルンに行くことになった。まだ出発は明日だけどな。キーリアスが落ち着
アスティスは少し悪戯っぽく微笑んで彼に聞いた。ヒリャッツは少し驚いたように目を丸くすると頭をかいた。
アスティスが笑うと、ヒリャッツは「おいおい……油断ならないな」と大げさに苦笑してその場を去ってしまった。
アイリアとは、城砦都市であるラステア市の、ある雑貨屋の看板娘の事だった。去年あたり魔獣に襲われていたところを間
一髪でヒリャッツが救ったのだった。それからというもの、ヒリャッツはアイリアの訪問を何度も受けているらしい、と『ベ
綺麗な響きの声が聞こえてきた。振り向くと、長い金の髪を胸元で、赤いリボンで結わえたシェレーナだった。彼女は元々
は、大海を隔てた東方の大陸ルドベキアの稟鳳国出身である。かつて稟鳳では八千鬼神という世界に並びなき将に数えられて
それから様々な紆余曲折があったのだが、彼女はこの『ベルガモット』の傭兵として働くことになっていた。彼女も住み込
「あ、やば」彼女は週に四日、大学に通っている。専攻は歴史学。あまりもたもたしていると、今日の講義時間に遅れてしま
シェレーナの声を背に聞き、アスティスは小高い丘に建てられた『ベルガモット』本部からの階段を駆け下り、ラステアに
リーヴスラシル大学は、学科が豊富だ。文学、言語学、兵法学、法学、考古学、歴史学、種族学、術法学、測量統計学と多
岐に渡る。その中でも、術法学の『理術科』や『錬金術科』は、ミルトニアの大学どこを探しても、このリーヴスラシル大学
少し急ぎすぎたようで、アスティスが着くと、まだ講義が始まるまで15分ほど余裕があった。この日の講義は『考古学本
論』である。歴史学部のアスティスにとっては必修ではないが、いくつかは履修しておかなければならない単位のうちの一科
考古学部のランサーと、言語学部のリョウが話し合っていた。ドミナ族(ドミナント)についての話だったようだが……
リョウは良く暗い色の衣服を着ているが、性格は暗くない。彼は北東のツェイの出身であるのだが、どういうわけかこのラ
ステアのリーヴスラシル大学に来ている。ツェイの港からラステアの港まで片道3日はかかるから、通うのは不可能だ。おそ
らく住まいもこちらに借りてあるのだろう。とりわけ不真面目でもなく成績は全体的に良いが、しかし欠席が目立つ。
ランサーも彼女の方を振り向いた。アスティスは一瞬だけ、どきりとする。ランサーは絵に書いたような優等生。しかし成
績はそれほど報われていないらしく中くらいである。穏やかな性格と怖いくらいに優しく整った顔。衣服はリョウと正反対の
「うん。僕の持論としては、ドミナントは人間より後に、地上に現れた種族ではないかと思っているんだ。何故なら、紀元前
のドミナントの化石は、未だに発見されていない。人間のものならばいくつも発見されているというのに、ね」
「ああ、そのことなら私も聞いたことある」じっと聞き入っていたメイディが話に加わった。「だからドミナントもある時期
「でもそれもおかしいだろ」これはリョウだ。「だったらその瞬間を見たっていう意見が現れても不思議じゃないさ。博物館
に置いてあるのとかもあるだろうし。……俺としては、ランサーの説に期待してみたいね。そもそもドミナントに関する考察
自体、虐げられてきた人間側はあまり快く思っていないから、ドミナントに関する書物も812年の『人麗蜂起』の際に燃や
しつくされてしまったと言うじゃないか。今までそういった研究すら進んでいなかったわけだが、ランサーのが認められると、
アスティスはついそんなことを言ってしまった。ランサーから不思議そうに薄緑の瞳を向けられ、彼女は顔を赤く染めたの
二人ともこういった状況では、あまり多弁にはならない。ただお互いに側にいられることが心地良いと思える。そんな関係
「ああ。コルンの市長から依頼されてさ。あちらに着くまで約5日、契約が一週間だから……半月は会えなくなるな」
「この仕事はそもそも、そういった仕事だからな。俺だってこの剣の腕で、やっていける自信があったから、入ったんだし。
しかし……入ってみれば俺程度の剣技を持つ奴はいくらでもいたな。エイシアとはこの前の手合わせで一本取られて負けたし、
フェイルリシュは長く前線を退き、主にソァーラの補佐にまわってしまったから、今ならば勝てるかもしれないが、フィリ
グリフォン。8クォレル大の鷹のような生き物で、その尾は竜。鋭い鉤爪によって、港町の漁師たちの被害は甚大だ。必然
グリフォンはミルトニアにおいて幻の神獣と言われ、ほとんど書物や壁画においてのみその姿を認めることができる。実物
が滅多に人間界に姿を現すことなどなかったのだ。伝説の上ではドラゴンと対等の地位を得て神の信を得たとも言われる。そ
「今回は、少数精鋭で行くしかないだろうな。下手に自警団を全員連れいていけば、被害はそれだけ大きくなる。なまなかな
アイリアは言った。それは、アイリア自身に言い聞かせている言葉であることをヒリャッツは見抜いていたが、彼は言葉に
シィズは荒い息をつきながら、自分の剣に残る感触を確かめていた。隣で見届けていた王宮からの使者が、一瞬唖然とし、
倒れた男の周囲、白い絨毯のような雪原に、赤い斑点がいくつも広がっていた。その斑点の内いくつかは、シィズの身体か
その男を、シィズは破った。どちらも引かなかった。引かなかったから、どちらかが死ぬまで闘りあうことになってしまっ
心の奥で、何かがざわめいていた。胸を掻き毟りたいような、何かを我慢できないような、何かに追い立てられているよう
な。とにかく大声で叫びたかった。焦り? 昂揚感? ―――虚無感? その正体を掴めず、彼はただ、倒れたガーンを眺め
ガーンの持つ剣は北征剣スパティフラム。シィズの地征剣クロッカスと同じ、八魔剣の一つだった。シィズはガーンの手か
王宮に公式に決闘を申し入れ、それが受諾されてから約三ヶ月。ガーンと最初の一合をかわしたときに悟った。
もちろんガーンの剣技は芸術の域に達しており、重ねた年月もあって円熟を増していた。だが、力、体力、そのどちらもが、
シィズが上回っていた。結果的には100合以上を打ちあったが、70合を境に、ガーンから攻めの剣を繰り出してくるこ
技術においてはおそらく同等、いやガーンの方がわずかに上だったのかも知れない。しかし勝負を決定的付けたのは、より
そもそもシィズは、彼の噂を聞いて剣術を志したのだ。誰もが知る、大陸一の剣士。堅牢なツェイの王城の一部に立て篭も
幼い頃に聞いたその甘美な響きは、決して色あせることなく彼の心に深く刻まれた。十年前、彼に一度敗北して、より一層
しかし今の彼にあるのは、夢を叶えたという達成感よりも、虚無感だった。己の渇きは、癒されていないということを知っ
シィズは確信していた。ガーンを倒すことによって登りつめることができると思っていた剣術の頂。それは新たに現れた頂
そう思うと、萎えかかった己の闘志が湧き上がってくるのを覚えた。強く、強く。かつて自分が目指した、ピーク時のガー
彼はガーンの死体を近くに埋めると、二つの魔剣を携え、雪原をゆっくりと歩いていった。とりあえずは、あてもなく。し
アイリアのもとに、コルン市での一件の噂が舞い込んできたのは、ヒリャッツが任務終了する予定の3日前のことだった。
「グリフォンは退治されたっていうけれどねぇ……、あの八千鬼神すら破った『ベルガモット』がここまで苦戦するっていう
常連客は、どうも事実の一面しか知らないようである。八千鬼神の件は、そもそも実力での勝敗はつかなかったと、アイリ
『ベルガモット』は今から三十年前、総帥のファーリが設立した傭兵の産業だ。この産業のおかげで、もともと豊かだった
ラステアはさらに潤うこととなった。キーリアスとの国交も復活し、今では大陸全土の規模にもなりつつある。
コルンから『ベルガモット』のメンバーが二人、帰還したと聞いてから、アイリアは飛ぶように『ベルガモット』本部へ向
本部に着き、取り次ぎを願う。玄関に出たアスティスという薄い金髪の少女は一瞬ためらった後、帰還してきた一員に代わ
玄関から客室に通され、アイリアは待った。扉が叩かれ、入ってきたのは赤い髪をした、冷たい印象の受ける女性だった。
彼女がそう口を開いた時、アイリアは自分の足元がぐらっと揺れるのを感じた。それは決して比喩ではなく、彼女はよろめ
必死で彼女は懇願した。どうか探してください。きっと生きています。依頼に必要な手続きなら今すぐにでもします。依頼
と言ったのだった。エイシアは、依頼料は取らない、自分の持ち金には困っていないから、何とかすると言った。
エイシアは、主にラステアのコルンから、ツェイのブーゲンビレア地方にある港町エルグ間を当たると言った。彼女はアイ
アイリアは待った。全てを捨てて自らも探しに行くことすら考えたが、先立つものがなかった。だから待つことが、彼女に
シィズは打ち寄せる内海の波をぼんやりと見ながら、携えた二つの剣を所在なく弄んでいた。何でもこの内海を隔てた向こ
う側、ラステアの港町コルンあたりに、瘴気に当てられたグリフォンが出没するのだそうだ、という噂を聞きつけて彼はこの
彼とて無謀ではない。グリフォン相手に一対一で勝てるなど思えない。腕に覚えのある者を幾人か見繕って退治に向かおう
彼は海が好きだった。海を見ていると、いつも剣に夢中になっている自分の足元を、ふと気付かせてくれる。そんな大らか
な光景が好きだった。いつもの自分では信じられないくらいのどかな気分になって、彼は近くの貝殻を拾い上げた。
ふと人の気配を感じ、後ろを振り返る。そこに立っていたのは、港に情報を集めに行っていたパーディオだった。彼の過去
は分からない。ただ、行き倒れていた所を彼が助けた、それだけの縁だ。だが、その身のこなしは尋常ではない。特殊な訓練
三人とはいえ、それでも凄いことだ、とシィズは思う。『ベルガモット』はツェイにも支部を構え、そこにも十数人のメン
バーが在籍しているという。何でも南方の瘴気の谷付近で、麗魔が出没するらしいというので慌ただしいらしい。
シィズはにやりと笑い、二つの魔剣を手に取った。どうやら当てが外れた。グリフォンを拝むことはできそうにない。
「……そう、それとこれはさっき入った情報だ。ツンベルキアの領主が昨夜何者かに殺害された。犯人は捕まっていないらし
「何!?」今度はさらに驚いた。ツンベルキアの領主と言ったら、現在在位36年になる国王ロージサス三世の遠縁にあたる、
由緒正しい家柄だ。確か十年前、国王の一人娘であるティリア姫の許婚相手も、その領主の息子だったという。王位継承権
も与えられていたほどの人物だったが、今に至るも行方不明。ということは――「――臭うな、ツェイはこれから荒れるぞ」
「俺に考えがある」パーディオは提案した。「これからツェイは荒れるだろう。それは俺も想像がつく。だが、それで巻き込
「無論、弱者だ」シィズは彼の言わんとしている事を悟って、ふっと笑った。「……俺にはその方が、性に合っているかも知
「ここから公道を通って、首都まで進む。その頃には内乱でも起こるかもしれない。行く先々での弱者を守る程度なら、俺と
ふと、港の方から深いフードを被った女性が歩いてくる。一目で分かった。相当腕が立つ。シィズは心なしか緊張した。
パーディオに応じ、シィズは彼に向かって笑んだ。女とすれ違っても、彼女は別段シィズを見て何の反応も見せなかった。

[ 40] ドミナント
[引用サイト]  http://users.ejnet.ne.jp/~jus/novels-f/domina21.html

崩れ落ちる憐の身体。短剣が貫いた部分は、間違いなく彼の心臓の位置を捉えていた。それを見誤るヒリャッ
フレイアルは哄笑を上げ、血塗れた短剣に舌を這わせる。ヒリャッツは、その場から遠ざかるべきか、憐の亡
骸に駆け寄るべきか、迷った。いや、亡骸に駆け寄ったからといってどうということはない。ただ自らも麗魔の
フレイアルはその指先に魔力を集中させている。魔術はそもそも、かつてドミナントの使った『理術(律)』
ヒリャッツはその場を去ろうと決心した。憐の亡骸には無数の魔獣が飛び掛り、食い荒らす。そのおぞましさ
前方からエイシアが駆け寄ってきた。異常に気付いて様子を見に来たつもりだったのだろう。どうやら彼女が、
エイシアはいつものように冷静さを失わなかったが、その顔は厳しいものだった。彼女はもう一度剣圧をその
「うかつだった……。麗魔が出るという情報があったのに、どうしてあんな行動をとってしまったんだ! 俺は
「それは、私も反省しなければならないわ」エイシアはヒリャッツの沈んだ横顔を見つめながら言った。「もっと
自分の不備が招いた結果なのだから、それはより重くヒリャッツの肩にのしかかってくる。憐はヒリャッツが
「本部への通達は本部から借り受けた文鳥で出したわ。明後日にでも届くでしょう。あの麗魔はいくら私たちと
はいえ、手におえるとは思えない。彼はまた、やってくるはずよ。……最低限の守備だけに止めていれば、こん
なことにはならなかった。指示が来るまで調査は打ち切りにして、街に流れてくる魔獣のみに対処するしかない
この日より頻繁に、麗魔が出没するようになったのだった。それは主に下級麗魔だったが、それでも彼らは、
廊下全体に鋭い金属音が鳴り響く。二人の八千鬼神が、片方は大きな妖刀を振りかざし立て続けに攻め、片方
防戦に徹しているとはいえ、シェレーナは自らの不利を悟らないわけにはいかなかった。既に四十合を渡り合
っているものの、彼女の身体のあちこちには裂傷が入り、そのうちいくつかは、無視できぬ痛みを伴っている。
狂気をたたえた瞳で、さらに猛攻を加えようとする劫に、シェレーナはもはや覚悟を決め、自らも斬りかかる
べきと判断した。このままではじりじりとやられるだけである。可能性は薄いが、問答無用のまま斬り捨てられ
シェレーナはそれに足を取られてしまった。ガクッと前のめりになり、しかしそこで体勢を何とか立て直そう
「おそれながら殿下」劫が口を開く。「シェレーナは捕虜であるこの街の長のみならず、娘を独断にて逃してご
「で、殿下……申し訳ございません。このまま戦を仕掛けるにしても、捕虜を抱えたまま戦うこと、士道に悖る
「ほぅ……そなたは余の方針が不服と申すか」蜻蛉は冷ややかに彼女を見下ろした。「士道に悖るとは、一体ど
「よいかシェレーナよ、稟鳳の民は既にわずか五名しかおらぬ。それでも彼らが余を崇帝と言うてくれるのなら
ば、余はまだ彼らの希望であり続けよう。祖国の復興を願う彼らの心を無下にせぬためには、余は断じて引き下
「フェルディナント様は違います!!」シェレーナは叫んだ。これでは、快く彼女に同調してくれた彼にまで罰
が下るであろう。下手をしたら、死罪にもなりかねない。「フェルディナント様は……それとは知らずに……」
「黙らっしゃい!」蜻蛉は劫の言を一蹴した。そうしてシェレーナに向かって声をかける。「余の前で、嘘をつ
「では何ゆえか言うてみよ。何ゆえ、あのようなことをした。何ゆえフェルディナントを庇う? そなたのこと
「蜻蛉殿下……私は……もはや八千鬼神でいるべきではないと」シェレーナは威圧感に耐え切れず、苦渋を飲ん
「ならば! 余ごとこの地の法に従えとぬかすか。現人神たる余に、崇帝を降りろと言うか? 民の期待を背負
シェレーナは絶望に目の前が真っ暗になったようだった。逆賊という、この上ない不名誉な響き。今まで天才
剣客と周囲から常に一目も二目も置かれてきた彼女にとって、間違いなく、これが最初の、最も大きな挫折とな
絶望のあまり耳鳴りが激しい。そこに飛び込んでくる劫の「かしこまりまして」という声が、何故だかやけに
市長と、市長の娘が保護を要請してきたとき、ズィーザはフィリエスと共に今後の作戦を練るため話し合って
「保護した市長の娘が、何かうるさくわめいてるそうだな。八千鬼神の女を助けろとか何とか。信用するのか?」
「さて、これはあちらの罠かも知れぬ。市長と娘を介して、こちらの内部崩壊を狙っているのだとしたら……。
それに、シャリンが率いていた二千人近くの市の自警団は、彼らによって一網打尽にされたというからな。五百名
「だが……八千鬼神同士に亀裂が入った、という情報は魅力的だな」ズィーザは目を閉じた。「ひょっとしたら
こちらの宣戦布告とも言える文書が、思った以上の効果を生んだのやも知れぬ。あえて乗らぬ手も無いように思
「ちっとばかし、良いですかい」声の主は、彼らが情報屋として雇った市井の民だった。もちろん、適任だろう
ズィーザが応じる。扉が開かれ、陰気な顔つきの男が部屋に入ってきた。彼は元々は野党団の頭目であったが、
「へへ、旦那。たった今市長館で、八千鬼神の筆頭と、もう一人若ぇ女が逆賊として蜻蛉の命によりひっとらえ
「いや、そんだけですがね。何でもあちらの現人神さんとやら、たいそうな怒りようで、金切り声が市長館の外
「おそらく……罠ではない。そもそも我らの送りつけた文書を引き金にして、このような事態に陥ったと判断す
るならば、それは出来すぎている。まだ幼い蜻蛉殿下だけならいざ知らず、それに気づかない奴らではないだろ
「……ああ。しかし、長い漂流の末に辿り着いた先で、いきなり仲間を裏切ったりするか? 今まで苦難を共に
フェイルリッシュが様子を探りに行ってから、約二時間が経過した。もうそろそろ彼が帰ってくるはずである。
蜻蛉は、本来であれば市長が座る椅子に、足を組んで座っていた。その前に膝をつき控えるのは元帥のカウス。
「は……申し訳ございませぬ」カウスは頭を下げた。「しかし……この地の攻略にあたり、まだ両名の力は必要
「………ならぬ。彼らはもはや余の臣ではありえぬ。潔く罪を認めるならば、酌量の余地を残してもよいが、断
シェレーナとフェルディナントが捕えられている二階のある一室では、エルエラが二人を見張っていた。二人
「馬鹿なことをしたものだ」エルエラが、切れ長というには細すぎる目をシェレーナに向けた。「殿下に背くと
「エルエラ……私は後悔してはいません。この地の者とて、平和に暮らしているのです。無闇に戦など仕掛けて
は、それこそ殿下の御名に傷が付くというもの。そもそもこの市の自警団を壊滅させた時、私は大変な罪を犯し
縄で縛り上げられてエルエラの顔を見ることもおぼつかない。シェレーナの隣には、無言のまま、同じく自由
「殿下は未だ、我らも含め十四名の民に対し多大な責任を負われている。それを理解できぬおぬしらだとは思わ
「私とて、殿下に背くつもりはなかったのだ」フェルディナントが口を開いた。「だが、こちらの地にも民はい
る。自警の者を斬り伏せた時の我が剣の震えは、故国で賊を相手にしたときのそれとは全く違っていた。――た
シェレーナは覚悟を決めていたとはいえ、やはり恐怖した。朗々たる声でカウスが詔を読み上げるのを絶望と
共に聞いていた。もはや、このまま不名誉な存在のまま、罰せられるのみである。カウスが二人を試すため、偽
市長館の表口には八千鬼神のアルファドルとサーティスが見張っている。そこに一人の大柄な男がゆらりと現
れた。男は酒臭い息を吐きながら、みすぼらしい格好で、市長館の表口に立ち、サーティスの前に立つと、途端
にろれつの妖しくなった言葉を次々とまくし立てた。何を言っているのか全く聞き取ることが出来なかったサー
男は何と、その場に倒れこんでしまったのだ。このまま放っておくには、蜻蛉殿下の威信に関わるし、支配者
としての印象も悪い。最悪、街の者が乱を起こすやも知れぬ。フェルディナントにもひけを取らないぐらい立派
な体格をしたその男を、二人がかりでやっと運びこみ、介抱せんとする。そこに今度は、市長館の裏口、今は屡
李が番をつとめている場所から、黒煙が上がった。どういうわけかその煙を吸い込んだ屡李は、体調不良を訴え
劫が駆けつけてきて叫ぶ。アルファドルとサーティスは、真っ先にあの酔っ払いが妖しいと判断し、事情を説
サーティスは三叉矛を掴み、怒りに任せてその場の壁を突き崩した。そこにどこからか放たれた衝撃が、三人
アルファドルとサーティスは衝撃をかわして身を守り、共に得物を構える。劫はまともに術を食らったようだ
埃から現れた劫の姿は、しかし術の効果など気にも止めた様子などなく、注意深く意識と視線を周囲に彷徨わ
「申し開きは後ほど聞こう。もしかすると、賊は二階にいる民を狙うかも知れんぞ。エルエラを向かわせたが、
エルエラは二階での物音を聞きつけ、民が避難した場所から一歩外に出た。物音は逆臣の両名が監禁されてい
エルエラはそちらに向かった。自らの愛刀を抜き放ち、扉を開く。どのような賊であろうと、そして何人相手
部屋に足を踏み入れたとき、エルエラはまず前方から投じられた刃物を刀で打ち捨てる。投じた賊は優雅な動
その後方では、どういうわけか二人の男が、逆臣と彼らの武器をそれぞれ肩に担いで、破った扉から逃げ出そ
エルエラは果敢に斬りかかった。とりあえず目前にいる金髪の男を何とかせねばなるまいと判断したのだ。だ
が、男の反応は、彼女の予想を遥かに越える速度だった。エルエラの本気の斬撃を、直剣で受け流し、一転して
エルエラはそれでも相手の攻撃を横に飛びのいてかわし、二人の男を追おうと向きを転じたが、金髪の男は巧
怒りにまかせて刀を振るい、男に距離をとらせる。そうこうしている内に二人の男は窓口から外へと飛び越え
エルエラは改めて金髪の男に向き直る。だが、男は何も交わす言葉はない、といったような表情でにやりと笑
おそらく牽制のためだったのだろう。明らかに彼女を狙ったものではなく、目くらましに使ったようだった。
フェイルリッシュ、ズィーザ、フィリエスの三名は、捕われていた八千鬼神のフェルディナントとシェレーナ
を運び、一目散に市長館を後にした。フェイルリッシュはしんがりをつとめ、見張りとして一階に残っていた三
フィリエスは、自分と同じくらい大柄の身体を持つフェルディナントを易々と担ぎながら言った。並走するズ
「勘違いしないでもらいたい」ズィーザは言った。「別に助けようと思ったわけではないのだからな。あんたた
そのまま彼らが向かった先は、取ってあった宿ではなく、路地裏にある小さい民家のような場所だった。そこ
「ああ。言っておくが、この街の民なら、非常時には私たちの協力者となることになっている。あんたの上官た
「無謀? 違うね」フェイルリッシュは彼らを見下ろしながら言った。「勝算はかなり高い確率であった。まず、
したらアスティスは泳がされているのではないかと。だが、君達の中にどうやら裏切り者がいて、その二名が捕
らわれたらしいという情報が、私たちの元に舞い込んできた。信頼できる市民の情報だ。これはもしかしたら本
当に、八千鬼神内部で不和が起きているのではないかと私たちは考えた。確かめるには、実際に行動するしかな
いな? だからフィリエスは、酒をあおり、泥酔者の振りをして市長館に向かわせた。フィリエスは酒をいくら
「彼の大きな身体を抱えるためには、門番は二人がかりだ。君達二人が既にお縄だったことは、外から見た雰囲
気から言っても明らかだった。これで手の空いている八千鬼神は、残り四人。元帥も含めると五人か。ああそう
だ、裏口の門番は気の毒だった」フェイルリッシュはくくっと笑い、楽しそうに話した。「市長館の裏口には、
ラステア特有のアルセルドルという植物が茂っていてね、ちょっとした傷の手当てとかには最適なんだが……、
「私の魔術でその植物を焼き払い、裏口の門番にはご退場いただいた。それから撹乱のために客室に向け一撃」
「さて、これで残る相手は三人。さすがにこの時にはもう、あちらも何かの作為的な襲撃だと思わざるを得ない
だろう。そうなるとまずあちらは、殿下の身の安全を確保しなければならないね。そのお供に一人割く。そして
裏口の様子を確かめに行くだろう人間に一人くらい割くかも知れない。それから、伝聞とはいえ南方の岸に漂着
した人数を数えてみても、あちらには稟鳳の民もいる可能性が高い。その安全にも一人か。そこに、ようやく酔
っ払いを置いて、自由になった二人、襲撃だと知らされれば真っ先に酔っ払いを怪しむだろう。だがフィリエス
は、もうそのときには混乱に乗じて市長館の外に出、二階の一室にロープをかけていた……。さすがにここの市
長館の構造は、私たちの知るところだから、だいたい二人が捕らわれているであろう部屋に見当をつけることは
「さすがに君達がいる部屋に、一人の八千鬼神の女性が入り込んできたのにはヒヤリとしたけどね、私だって剣
実際、フェイルリッシュは逃走にかなりの力を費やしていた。剣圧を二度も放ち、両腕は悲鳴をあげている。
フェイルリッシュはそれを聞くと、途端に冷ややかな調子の表情と声になり、一言一言、言い含めるように言
「――君達は、こちらの市民と、密かに結託していた。だから裏切った。そして捕らわれたところに、傭兵が助
「だが、今ごろ市長館では、そういった憶測が飛び交っていることだろう。実際私も、捨て台詞として思わせぶ
フェルディナントは戦慄した。それはまずい。相手方に攫われて、何故無事に戻ってくることができるのかと
殿下はご立腹になるだろう。敵の情けにおめおめと帰ってくるとは、と。そしてそれは即ち、傭兵側と通じてい
たという状況証拠として成り立ってしまう。殿下の、君主としての経験の未熟さから考慮してもほぼ間違いなく、
もしかしたらもう、自分たちが八千鬼神として殿下のもとに復帰することは、あり得ないのではないかと――
実の所、フェイルリッシュは、今この場で自分が語ったような効果が、実際に稟鳳側に起きているかは疑わし
いと思っていた。しかし、元帥や他の八千鬼神はともかく、蜻蛉はその幼さゆえか、すっかりフェイルリッシュ
の期待する通りの反応を見せていたのであった。部下の進言も意に介さず、八千鬼神からフェルディナント、シ
ェレーナの両名を除籍し、このラステアを統べるには『ベルガモット』を何とかしなければならないと判断した。
既に六人となった一騎当千の強者たちと、それを束ねる元帥は、『ベルガモット』からの度重なる和議の要請
にも応じず、ラステア中央を貫く公道からやや南に外れた、魔獣の徘徊する危険な森林地帯――ルピナス市と、
だが、かつて東方に栄えた稟鳳が誇った忠誠心厚き猛者と、そして現人神としての責任と矜持に固執するあま

[ 41] ドミナント
[引用サイト]  http://users.ejnet.ne.jp/~jus/novels-f/domina2.html



お気に入り



  • track feed
    • seo