大映とは?

大映株式会社(だいえいかぶしきがいしゃ)は、1942年から2002年まで存在した映画会社。「大日本映画製作株式会社」の略。現・角川映画の前身。
1942年、戦時統制により小規模な会社を整理・統合する戦時企業統合があらゆる産業分野で進められ、映画業界でも新興キネマ、大都映画、日活の製作部門が合併し「大日本映画製作株式会社」となる。当初の案では映画会社は松竹と東宝の二社のみとすることになっていたが、新興キネマ京都撮影所長だった永田雅一の尽力で統合案は2社から3社に変更された。
もともと新興キネマは松竹の傍系会社であった。にもかかわらず、同社を軸として大映は成立した。この尽力について、立案をした情報局第五部の第二課長に贈賄をしたという黒い噂は60年以上たった現在でも消えていない。但し、情報局へ政府の「統制会社」としての大映の立場をアピールした点は永田の勘がスバリと的中した結果でもある。業界からの密告により収賄の疑いで永田は逮捕、拘禁されている。但し、大映の社史にもこの件と噂は隠さず記録している。
日活の京都にあった太秦撮影所、調布にあった多摩川撮影所(現・角川大映撮影所)と新興キネマの京都太秦撮影所(現・東映京都撮影所)、大泉撮影所(間もなく閉鎖。現・東映東京撮影所)、巣鴨の大都映画撮影所(間もなく閉鎖)ならびに三社のスタッフ・俳優を引き継ぎ映画制作を開始。
1945年、社名を「大映株式会社」に改める。1947年、独占禁止法の趣旨に基づき日活との関係が無くなる。以降、大映は純然たる民間映画会社として存続する。この点、他の「統制会社」が敗戦で解散したのに比べてなぜ大映だけ?という素直な疑問が生じる。
1948年 - プロ野球団金星スターズを買収して「大映スターズ」(後の大毎オリオンズ)を結成。三益愛子主演の「母物シリーズ」が始まり10年続く大人気シリーズとなる。
1954年 - 『地獄門』(監督・衣笠貞之助)がカンヌ国際映画祭グランプリ受賞。たてつづけに『山椒太夫』(監督・溝口健二)ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞受賞。
1950年代から1960年代前半にかけて長谷川一夫を筆頭に三大女優の京マチ子・山本富士子・若尾文子、そして市川雷蔵と日本映画史に残る大スター達を擁し、さらに他社専属やフリーの高峰秀子、鶴田浩二、岸惠子らも出演し名作を多数送り出す。1960年代に入ると勝新太郎、田宮二郎が頭角を現す。一方で台湾など海外との合作による大作や70ミリ映画「釈迦」「秦・始皇帝」(←2作とも大ヒット)を制作するなど超大作路線を歩む。また、ウォルト・ディズニー作品の日本における配給権を握っていた。
1962年 - 東京都荒川区南千住にプロ野球専用球場・東京スタジアム(東京球場)を建設。現代劇で活躍していた人気若手スター・川口浩(川口松太郎の長男)が退社。
1963年 - 戦前から日本を代表する二枚目であり、戦後の大映映画の大黒柱だった長谷川一夫が映画界から引退。そして、日本一の美女と言われ、美人の代名詞であった看板女優・山本富士子が他社出演の許可と出演本数を少なくするという約束を守ってほしいと頼んだところ永田社長の怒りを買い、一方的に解雇され、五社協定にかけられ他社の映画や舞台にも出演できなくなる。以降、山本富士子は「山本富士子アワー」などのテレビドラマに主演して好評を得た後、舞台に進出し、現在まで舞台で主演を続けている。期待された叶順子もこの年、引退。こうして看板スターを相次いで失った大映の映画館は空席が目立つようになる。
1967年 - 勝新太郎が石原プロ・三船プロなどのスターによる製作プロダクションブームに刺激され勝プロを設立。一方、大映は映画製作の赤字などによる巨額の負債が表面化。
1968年 - 看板俳優の田宮二郎が映画『不信のとき』(原作:有吉佐和子)に主演したが、クレジットが4番目であることを抗議すると激怒した永田社長により一方的に解雇され、五社協定にもかけられ他社の映画にも出演できなくなる。しかしその後、田宮も1969年スタートのテレビ番組「クイズタイムショック」(NETテレビ、現・テレビ朝日系列)の司会で成功を収め長寿番組とし、大映倒産後の1970年代には映画界にも復帰。また、テレビドラマでもシリーズを持ち、多数のヒット作を送り出した。日本映画黄金期を支えてきたスター・システムの崩壊と五社協定の弊害が明らかに。同年、人気若手女優・姿美千子も退社。
1969年 - 最後の頼みの綱だった看板俳優・市川雷蔵が37才の若さで急逝。大黒柱の看板スター達を相次いで失い、大型の新人スターも輩出できず、映画産業全体の斜陽やテレビ界の発展にも圧され、大映映画の観客数の落ち込みがさらに深刻になる。
1970年 - 4月、同じく経営不振に喘いでいた日活と配給網を統合し、ダイニチ映配を設立。旧来の撮影所システムの映画作りが無効になる中、暴力・エロ・グロを中心に企画を打ち出す。日活側は『野良猫ロック』『ネオン警察』『戦争と人間』シリーズなどを送り、大映側は「でんきくらげ」「十代の妊娠」「おさな妻」などの『ジュニア・セックス・シリーズ』、『高校生番長』シリーズなど若者を狙った映画のほか、勝プロなどによる佳作も配給したが、この弱者連合はすぐに行き詰まる。
1971年 - 8月ダイニチ映配から日活が離脱。11月29日、全従業員に解雇通告がなされ、ついに大映倒産。直前に本社からの分離独立で大映テレビが発足し多数のスタッフが異動。京都・太秦の大映京都撮影所を閉鎖。当面、労働組合が会社を管理し、経営の引き受け先を探すことになる。
1974年 - 労働組合は徳間康快率いる徳間書店と経営再建で合意。徳間の傘下の映画制作子会社となる。大映京都撮影所は大映映画撮影所(貸しスタジオ)となるなど、土地資産の売却や人材のリストラで負債を減らしていった。また徳間書店の出版する小説の映画化(西村寿行の『君よ噴怒の河を渉れ』『黄金の犬』など)も始まる。
1982年 - 国交10周年を記念した日中合作映画『未完の対局』公開。永田大作路線に続く、徳間大作路線の始まり。
1988年 - 前年のSF大作『首都消失』に続き、日中合作の超大作映画『敦煌』公開。史上最大の45億円を投じた。
1992年 - 25億円を投じソ連解体の激動のロシアで撮影した『おろしや国酔夢譚』公開。これら超大作路線による借入金の増大とバブル崩壊などにより、大映のみならず徳間書店グループ自体の累積赤字が膨らんだ。『ガメラ』シリーズ、『Shall we ダンス?』など佳作にも果敢に投資しヒットさせたが、徳間書店は住友銀行の管理下におかれることとなり、大映の売却も話題に上る。
2002年 - 7月、角川書店は徳間書店から、大映が保有する映画、ビデオ製作、配給、調布市の大映スタジオ(多摩川撮影所)の運営などの全事業を取得することで合意。11月、角川の映像子会社「株式会社角川大映映画」が設立され、大映は営業権のすべてと従業員を譲渡して60年の歴史に幕を下ろした。
なお、この時代に大映は、東光徳間(徳間書店東光徳間事業本部)と共同で中国映画・韓国映画の配給・提供なども手掛けた。
2004年 - 角川大映映画は角川の他の映像子会社と再編のため合併。角川映画株式会社となり、大映スタジオ(多摩川撮影所)も、角川大映撮影所に改称した。
この「大映」は、映画に関連した書きかけ項目です。加筆、訂正などをして下さる協力者を求めています。(P:映画/PJ映画)
カテゴリ: 徳間書店 | かつて存在した日本の企業 | 映画会社 | 映画関連のスタブ項目

[ 70] 大映 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%98%A0

大映テレビ株式会社(だいえい-)は主にテレビドラマの制作を請け負う会社で、大映(現・角川映画)の完全出資子会社として1971年に創設された。前身は1958年10月に発足した大映のテレビ映画制作セクションである大映テレビ製作室(大映テレビ室)。
1971年、大映の倒産直前に分社化され、その後の徳間書店グループ傘下になって、さらにその後角川グループに吸収されて角川映画になった映画会社の大映とは、資本的な関係はなくなっている。しかし、かつては映画監督の増村保造や俳優の宇津井健など旧大映に所属していた人物が作品に関わるなど、人脈的には一定の流れは汲んでいる。
以後、1970年代半ばから1980年代半ばにかけて話題作を次々とテレビドラマを製作。TBSでは山口百恵の赤いシリーズや『スチュワーデス物語』『不良少女と呼ばれて』『スクール☆ウォーズ』でヒットを飛ばし、フジテレビでも『スタア誕生』『ヤヌスの鏡』『花嫁衣裳は誰が着る』などのアイドルが主演するドラマを制作し、黄金時代を迎えた。
2007年現在はいわゆる昼ドラや2時間ドラマなどを中心に制作している。なお、2000年代に入ってからの一時期、いくつかバラエティ番組なども制作したことがある。
ちなみに、分社後の大映もいわゆる「徳間大映」となって以降、2時間ドラマ等の制作を請け負うようになった。よって、この期においては「大映テレビ制作」と「大映制作」のテレビドラマが混在しているのだが、文献によってはそれらを混同しているケースがある。学術論文等で、それらを厳密に区別する必要がある場合には、ドラマのDVD等の原資料に当たって、正確を期す必要がある。
1970年代から1980年代にかけて大映テレビが制作した実写ドラマは、当初から同業他社のプロダクションが制作する作品に比べ、「大げさな、感情の起伏の激しい芝居」「泥沼にはまるようなストーリー展開」「一見冷静に解説するような体裁をとりつつ、時に状況をややこしくするナレーション」「わざとらしい効果音の挿入」などの独特な演出から、他のドラマと区別する意味で「大映ドラマ」と呼ばれ、コアなファンを獲得していた。
なお、作家の小林信彦はこの特色を映画会社の大映の社風にルーツを求めている。映画会社大映は時代劇が売り物だったが、第二次世界大戦で敗戦を迎えて、GHQにより占領下の日本では時代劇が禁止されたため、時代劇スターが現代劇を演じざるを得なくなった。そのオーバーな芝居の時代劇のノリによる現代劇が大映ドラマだという。また大映では、生みの母と育ての母と娘との関係を描く母物映画と呼ばれる映画を31本制作しており、大映ドラマの出生の秘密を巡るパターンもここにあるという[1]。
一方、当時の大映テレビ作品を野添和子とともにプロデュースしていた春日千春は 発想の原点を幼少時に親しんだ講談本や紙芝居であるとし、特徴的なナレーションは紙芝居の口上にあたるものと語っている[2]。
1980年代後半以降はこうした過剰な演出の大映ドラマはかつてのような高視聴率を得られなくなり、その後は「大映ドラマ」と言えるまでの独特な演出は行われていない。
他のプロダクション製作ドラマが、放送局製作と同様にビデオ撮影に移行していくなかで、大映テレビも1984年の『青い瞳の聖ライフ』、1987年の『プロゴルファー祈子』など1980年代半ばからビデオ撮影を行なうようになったが完全には移行せず、1990年代前半まで、フィルム撮影でのテレビ映画として製作が踏襲されていた。フィルム撮影で製作された大映テレビ製作の連続ドラマの最終作品は1990年から1991年まで放送された『スクール・ウォーズ2』である。
青春オーロラ・スピン スワンの涙(宮沢りえ、武田久美子、村井国夫、柏木由紀子、五十嵐めぐみ、寺泉憲)
^ 小林信彦「「大映テレビの研究」批判」『コラムは笑う エンタテインメント評判記 1983-1988』筑摩書房、1989年
^ 大野宏「「赤い疑惑」 百恵主演、大映テレビ調の代表作」『テレビ番組の40年』読売新聞芸能部編著、日本放送出版協会、1994年、p262-p267
「大映テレビのドラマ」『That'S テレビドラマ 90's』小松克彦編著、ダイヤモンド社、1999年、p91

[ 71] 大映テレビ - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%98%A0%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93



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