小結とは?
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ここで、特に出土量の多かった丸底坏aについて、また、朱雀大路に関連する調査区内の遺構の変遷について所見を述べ、まとめとする。 今回の調査では丸底坏aが大量に出土した。個々を観察すると制作手法は一様であるが、器形に若干の違いが見られた。そこで、まとまって出土した丸底坏aの器形についてタイプ分けして報告を行った。 体部と底部の境が不明瞭であり、かつ器厚は全体的に均厚なもので、底部押し出し前の坏の原形が残らないタイプ 体部と底部の境の外面に稜が入り、かつその部分の器厚が最大となるもので、底部押し出し前の坏の原形を残すタイプ Aについては、器壁が平均して薄く、このため重量が比較的軽いものが多く見受けられる。 器形は半球に近い形をしており、全体に丁寧な作りをしていることが窺える。Bについては、Aに比べて雑な印象が見受けられ、量産による手抜きが見受けられる印象を受ける。Cについては、その中間タイプということでバリエーションがある。全体をみると、大きくAとBに分かれる。Cの中にはAに近いタイプ、Bに近いタイプがあるが、ここではまとめてCとしている。 Aは、丸底坏aのなかでも良品の一群と考えられ、Bは、製品としてはAに劣る一群といえる。土器の優劣は筆者の主観によるものであるが、「丸底坏」と呼ぶこの土器は製作段階で坏の底を丸くしようとする意識が働いていると考えると、このタイプの違いは当然認めてよいと考える。 遺構毎に若干の差はあるが、同一遺構においてはAB両者とも比率はあまり変わらない。また、タイプ毎の口径の法量の傾向をみても両者とも大差がないようである。 丸底坏の器形に大きく2タイプあることに着眼しタイプ分けを行ったが、このタイプの差について今回は結論には至らなかった。後考に委ねることとして、今回はデータの提示に留めておく。(Tab.1参照) 今回の調査の最大の成果は、大宰府の推定朱雀大路西側溝(以下、西側溝)が検出されたことである。推定朱雀大路関連の遺構は、当市および筑紫野市における大宰府条坊跡の発掘調査で、これまで東側溝が第64・142次調査(太宰府市)で、西側溝が第107次調査(筑紫野市)で検出されている。これらの成果を基にした朱雀大路関係の総合評価は後考に委ねるが、ここでは今次調査における所見とまとめを記す。なお、今回検出した西側溝に関する座標値等は、Tab.2及び別表を参照していただきたい。 本調査の最も古い遺構は、奈良時代の西側溝と考える133SD010とその西に展開するピット群の一部である。奈良時代の遺構は133SD010の東側には展開していない。このことは133SD010の東側を道路の路面部分と考える根拠の一つである。これから推定される朱雀大路の幅は、約35.5m(溝心までの距離を中軸線で折り返した数値)となる。 133SD010の北端は調査区内で切れており、その延長上にある133SX020が溝として続くと考えている。朱雀大路側溝が一本の溝ではなく、連続した溝である可能性を今回の調査で得られたことは主要な成果である。ただし、この位置で西側溝を切り、陸橋を造った理由については今回の調査ではわからなかった。今後の周辺の調査により解明されるであろう。 133SD010は8世紀後半〜末には人為的に埋め戻しされる。この後朱雀大路は縮小化の道をたどることとなる。まず、井戸が路面の一部に侵出してくる。133SE035、133SE040がそれである。特に133SE040の侵出が大きく、133SD010から東に約4.5mの位置に造られている。ただし、朱雀大路の空間は基本的に保持されており、道路としての機能は失われていないようである。これらが掘削された時期については、それを示す遺物の出土や他の遺構との切り合い関係はなかったためはっきりしないが、井戸の最終埋没時期から遡り、9世紀前半から中頃であると考える。 井戸は、9世紀中頃から後半にかけて廃絶するが、その後133SE040の真上を通るように133SD015が掘削されている。この溝と133SD010との間にはピット等が若干掘削されているが、これ以東には遺構がないことを考慮すると、9世紀代に設定された朱雀大路の路面幅は、その後133SD015存続時期まで変化がなかった可能性も考える必要があろう。この時の朱雀大路の幅は、推定約26.4m(溝心までの距離を中軸線で折り返した数値)となる。 133SD015の掘削時期はわからないが、廃絶したのはXIII期(12世紀前半)である。133SD015廃絶頃、井戸やピットが再び朱雀大路の路面部に侵出してくる。ただし遺構は少なく、また133SE045付近から東に約3mは遺構を検出していない。このことから道路としての空間は狭いながらも確保されていた可能性もあろう。 以上、本次調査における朱雀大路の変遷について簡単に所見を述べた。大宰府の道路において8世紀後半から末に側溝が埋まり、9世紀中頃から後半に規模の縮小がおこるのは、朱雀大路だけでなく、水城西門を通る官道の調査でも同様の所見が得られている。奈良時代前半頃において、この官道と朱雀大路は大宰府政庁に至る一連のルートと考えられており、側溝の埋め戻し、路面の縮小、衰退が始まる時期が軌を一にしているところは興味深い。 今回の調査区は狭小であり、十分な資料が得られたわけではなく、推測部分を含んだまま所見を述べたが、周辺の調査・整理により、今後朱雀大路に関する明らかになっていくものと思われる。 |
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[引用サイト] http://dazaifu.mma.co.jp/fureai/houkoku/3.html
