あるいはとは?
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「あるいは」ということばに私は欲情してしまったが、なぜ具体的な何かを指し示すでもないことばに刺戟されてしまったのか、なぜそれが書き留めなければならない唯一のことばであると思ってしまったのか、あるいは書き留めなければ誰かに奪われ悔しい思いをするだろうと感じてしまったのか、意識の奥のあいまいな領域からから探り出そうと思い、あるいは逆に意識の表層に浮かんだもの、表層すぎて意識とも思えないほど軽い領域から揺らぎつつうごめく何かをすくい取ろうと思い、あれこれ考えているうちに、私は意識の深みと表層を往復しすぎて、あるいは意識をつきまぜすぎて、あらゆるものを濁らせてしまったらしく、気がつけば、私が「あるいは」ということばにいつ出会ったのかさっぱりわからなくなっていて、私の方から「あるいは」に近づいて行ったのか、あるいは「あるいは」の方から私の方に近づいて来たのか、あるいは何か(その何かが私には思い当たらないのだが)が媒介してくれて偶然出会ったのかもわからず、そんなふうにいつ出会ったか記憶にないからこそ、あるいはどのように出会ったかという記憶がないからこそ、急に欲情し、その欲情にとらわれてしまったのかと思うしかなくなっているのかもしれないのだが、もしそうであるなら、私は「あるいは」ということばに欲情しているというよりも、欲情という概念に欲情しているような感じなのではないかとも反省せざるを得ないのは、私が「あるいは」ということばについて何も知らないからであり、あるいは「あるいは」ということば自身について何も語ることができないからであり、つまり、私に語ることができるのは、あるいは語っているのは、「あるいは」ということばについてではなく、欲情について私が考えていること、あるいは勘違いしていることにすぎないということが反映しており、そのことを考えれば考えるほど、「あるいは」ということばへの欲情は私の内でどのように準備されたのだろうかという疑念が浮かび上がり、私はどのように苦悩していいかわからないほど苦悩し、あるいは何を考えているのかと笑い出すしかなくなってしまうが、あるいはこの苦悩と笑いの交錯というものが肉体の愉悦とどこかで似通ったところがあり、あるいは私はそれを無意識に知っていて、欲情していたのかもしれないという気持ちにもなってくるが、あるいはこうした考えこそまったくの見当違いであり、私は私の求めている何かにたどりつきつつあるのではなく、あるいは何らかの答えというものを手にいれつつあるのではなく、逆に何かから遠ざかりつつあるか、あるいは本当のものを失いつつあるか、あるいは取り返しのつかない状況に陥っているのかもしれないし、あるいは状況はいつでも明晰であり、ただ私の思考が混濁しているために私には何もかもがわからくなっているだけなのかもしれない。 「あるいは」ということばに私は欲情してしまったが、なぜ具体的な何かを指し示すでもないことばに刺戟されてしまったのか、なぜそれが書き留めなければならない唯一のことばであると思ってしまったのか、あるいは書き留めなければ誰かに奪われ悔しい思いをするだろうと感じてしまったのか、意識の奥のあいまいな領域からから探り出そうと思い、あるいは逆に意識の表層に浮かんだもの、表層すぎて意識とも思えないほど軽い領域から揺らぎつつうごめく何かをすくい取ろうと思い、あれこれ考えているうちに、私は意識の深みと表層を往復しすぎて、あるいは意識をつきまぜすぎて、あらゆるものを濁らせてしまったのか、言い換えるなら、私が「あるいは」ということばにいつ出会ったのかさっぱりわからなくなっていることに気づき、私の方から「あるいは」に近づいて行ったのか、あるいは「あるいは」の方から私の方に近づいて来たのか、あるいは何か(その何かが私には思い当たらないのだが)が媒介してくれて偶然出会ったのかわからなくなっていることに気づき、そんなふうにいつ出会ったか記憶にないからこそ、あるいはどのように出会ったかという記憶がないからこそ、急に欲情し、その欲情にとらわれてしまったのかと思うしかなくなっているのかもしれないのだが、こうした場合、私は「あるいは」ということばに欲情しているというよりも、欲情という概念に欲情しているような感じなのではないかとも反省せざるを得ないのは、それはつまり、「あるいは」ということばについて私が何も知らないからであり、あるいは「あるいは」ということば自身について何も語ることが出来ないからであり、つまり、私に語ることが出来るのは、あるいは語っているのは、「あるいは」ということばについてではなく、欲情について私が考えていること、あるいは勘違いしていることにすぎないということが反映しており、そのことを考えれば考えるほど、「あるいは」ということばへの欲情は私の内でどのように準備されたのだろうかという疑念が浮かび上がり、私はどのように苦悩していいかわからないほど苦悩し、あるいは何を考えているのかと笑い出すしかなくなってしまうが、あるいはこの苦悩と笑いの交錯というものが肉体の愉悦とどこかで似通ったところがあり、あるいは私はそれを無意識に知っていて、欲情していたのかもしれないという気持ちにもなってくるが、あるいはこうした考えこそまったくの見当違いであり、私は私の求めている何かにたどりつきつつあるのではなく、あるいは何らかの答えというものを手にいれつつあるのではなく、逆に何かから遠ざかりつつあるか、あるいは本当のものを失いつつあるか、あるいは取り返しのつかない状況に陥っているのかもしれないし、あるいは状況はいつでも明晰であり、ただ私の思考が混濁しているために私には何もかもがわからくなっているだけなのかもしれない。 「あるいは」ということばに私は欲情してしまったが、なぜ具体的な何かを指し示すでもないことばに刺戟されてしまったのか、なぜそれが書き留めなければならない唯一のことばであると思ってしまったのか、あるいは書き留めなければ誰かに奪われ悔しい思いをするだろうと感じてしまったのか、意識の奥のあいまいな領域からから探り出そうと思い、あるいは逆に意識の表層に浮かんだもの、表層すぎて意識とも思えないほど軽い領域からからすくい取ろうと思い、あれこれ考えているうちに、私は意識の深みと表層を往復しすぎて、あるいは意識をつきまぜすぎてしまったのか、つまり私が「あるいは」ということばにいつ出会ったのかさっぱりわからないことに気づき、私の方から「あるいは」に近づいていったのか、あるいは「あるいは」の方から私の方に近づいて来たのか、あるいは誰かが紹介してくれて偶然出会ったのかわからないことに気づき、そんなふうにいつ出会ったか記憶にないからこそ、あるいはどのように出会ったかという記憶がないからこそ、急に欲情し、その欲情にとらわれてしまったのかとも思うのだが、こうした場合、私は「あるいは」ということばに欲情しているというよりも、欲情という概念に欲情しているような感じなのではないかとも反省せざるを得ないのは、それはつまり、「あるいは」ということばについて私が何も知らないからであり、あるいは「あるいは」ということば自身について何も語ることが出来ないからであるという事情が反映しており、つまり、私に語ることが出来るのは、「あるいは」ではなく私の思い、あるいは思い違いにすぎないということが反映しており、そのことを考えれば考えるほど、その欲情は私の内でどのように準備されたのだろうかという疑念が浮かび上がり、私はどのように苦悩していいかわからないほど苦悩し、あるいは何を考えているのかと笑い出すしかなくなってしまうが、あるいはこの苦悩と笑いの交錯というものが肉体の愉悦とどこかで似通ったところがあり、私はそれを無意識に知っていて、欲情していたのかもしれないという気持ちにもなってくるが、あるいはこうした考えこそまったくの見当違いであり、私は私の求めている何かにたどりつきつつあるのではなく、あるいは何らかの答えというものを手にいれつつあるのではなく、逆に何かから遠ざかりつつあるか、あるいは本当のものを失いつつあるか、あるいは取り返しのつかない状況に陥っているのかもしれない。 |
[ 31] あるいは
[引用サイト] http://www.asahi-net.or.jp/~kk3s-yc/yachi/Ppoem/aruiha/05aruiha.html
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あるいは私は「あるいは」ということば以外は何一つ書いていないのかもしれないと思い込もうとしている男を想像してみるが、その男にとって何一つ書いていないと考えることはどんな利点があり、またどんな不利な点があるのか、ということが気になり、それが気になる理由を考えてみると、もし何一つ書いていないということが明らかになれば、それは「あるいは」ということばについて思いめぐらした欲情を否定することになるのか、あるいは欲情が存在したかどうかという判断を保留するだけのことなのか、という疑問が増えて来て、どれが本当に切実な疑問なのか、あるいはどの疑問とどの答え(あったとしての仮定だが)が対応するのか、あるいはそれらの疑問と答えに、そもそも区別や差異があるのかどうかもあやしくなって、こうしたことはあれこれ考えるべきことではなく、私はただ真剣に私は何も書いてはいないと思い込むことが必要なのかもしれないのだが、そのための努力が私に欠けているか、あるいは私はこころのどこかで何一つ書いていないということを本当は認めたくないかのどちらかであるということかもしれないし、どちらにしろ、そうした考えも同じ堂々巡りにすぎず、この繰り返しを抜け出るには、再び「あるいは」ということばを書き記し、点検しなおす必要があるともいえるし、一方で、私にはもう「あるいは」について書くことは何一つないということは明白なことであり、その絶望が強すぎるために、あるいは逆に、私は「あるいは」について何一つ書いてはいないというのが本当のことなのかどうか確かめたい気持ちになってしまっているのかもしれないし、こうした、どれだけ書いてみても状況がまったくかわらないナンセンスなことばを延々とつづけることができるというのは、あるいは「あるいは」ということばそのものの力なのかもしれないし、あるいは「あるいは」には何かを拒むという力が欠けているために虚無的になっていくしかないのかもしれず、その虚無的なものを防ぐ方法は、本当に、この考えを中断してしまう以外にないのだろうか、ということはあるいはきょうのテーマではなく、あしたのテーマであり、(なぜなら、わたしはもう新しいことを考えるきょうの力を「虚無」ということばに出会うことで使い果たし、使い果たせたことにいささかうっとりしてしまっているからなのだが)、きょう書くべきことに事欠いて、あすのテーマまで書いてしまうのは、私には完全に書くべきことなどなくなってしまったということかもしれないし、あるいは、書くことが全くなくなってしまったということこそ、私の知りたい真実かもしれないと思ってしまうのだった。 あるいは私は「あるいは」ということば以外は何一つ書いていないのかもしれないと思い込もうとしている男を想像してみるが、その男にとって何一つ書いていないと考えることはどんな利点があり、またどんな不利な点があるのか、ということが気になり、それが気になる理由を考えてみると、もし何一つ書いていないということが明らかになれば、それは「あるいは」ということばについて思いめぐらした欲情を否定することになるのか、あるいは欲情が存在したかどうかという判断を保留するだけのことなのか、という疑問が増えて来て、どれが本当に切実な疑問なのか、あるいはどの疑問とどの答え(あったとしての仮定だが)が対応するのか、あるいはそれらの疑問と答えに、そもそも区別や差異があるのかどうかもあやしくなって、こうしたことはあれこれ考えるべきことではなく、私はただ真剣に私は何も書いてはいないと思い込むことが必要なのかもしれないのだが、そのための努力が私に欠けているか、あるいは私はこころのどこかで何一つ書いていないということを本当は認めたくないかのどちらかであるということかもしれないし、どちらにしろ、そうした考えも同じ堂々巡りにすぎず、この繰り返しを抜け出るには、再び「あるいは」ということばを書き記し、点検しなおす必要があるともいえるし、一方で、私にはもう「あるいは」について書くことは何一つないということは明白なことであり、その絶望が強すぎるために、あるいは逆に、私は「あるいは」について何一つ書いてはいないというのが本当のことなのかどうか確かめたい気持ちになってしまうのだもと思ってしまい、こうした、どれだけ書いてみても状況がまったくかわらないナンセンスなことばを延々とつづけることができるというのは、あるいは「あるいは」ということばそのものの力なのかもしれないし、あるいは「あるいは」には何かを拒むという力が欠けているために虚無的になっていくしかないのかもしれないが、その虚無的なものを防ぐ方法は、本当に、この考えを中断してしまう以外にないのだろうか、ということはあるいはきょうのテーマではなく、あしたのテーマであり、(なぜなら、わたしはもう新しいことを考えるきょうの力を「虚無」ということばに出会うことで使い果たし、使い果たせたことにいささかうっとりしてしまっているからなのだが)、きょう書くべきことに事欠いて、あすのテーマまで書いてしまうのは、私には完全に書くべきことなどなくなってしまったということかもしれないし、あるいは、書くことが全くなくなってしまったということこそ、私の知りたい真実かもしれないと思ってしまうのだった。 あるいは私は「あるいは」ということば以外は何一つ書いていないのかもしれないと思い込もうとしている男を想像してみるが、この男にとって何一つ書いていないと考えることはどんな利点があり、またどんな不利な点があるのか、あるいはそういうことを考えることや想像してみることが、いったい何の役に立つのか、つまり、それが何も書いていないということを証明するのか、あるいは否定するのか、単に判断を保留するだけなのか、という疑問が増えて来て、どの疑問とどの答えが対応するのか、あるいはそれらの疑問と答え(あったとしての仮定だが)に、そもそも区別や差異があるのかどうかもあやしくなって、こうしたことはあれこれ考えるべきことではなく、私はただ真剣に私は何も書いてはいないと思い込むことが必要なのだが、そのための努力が私に欠けているか、あるいは私はこころのどこかで何一つ書いていないということを本当は認めたくないかのどちらかであるということかもしれないが、どちらにしろ、そうした考えも同じ堂々巡りにすぎず、この繰り返しを抜け出るには、再び「あるいは」ということばを書き記し、点検しなおす必要があるのかもしれないが、私にはもう「あるいは」について書くことは何一つないような気がするのであり、その絶望が強すぎるために、あるいは逆に、私は「あるいは」について何一つ書いてはいないというのが本当のことなのかどうか確かめたい気持ちになってしまうのだと思うが、こうした、どれだけ書いてみても状況がまったくかわらないナンセンスなことばを延々とつづけることができるというのは、あるいは「あるいは」ということばそのものの力なのかもしれないし、あるいは「あるいは」には何かを拒むという力が欠けているために虚無的になっていくしかないのかもしれないが、その虚無的なものを防ぐ方法は、本当に、この考えを中断してしまう以外にないのだろうか、ということはあるいはきょうのテーマではなく、あしたのテーマであり、(なぜなら、わたしはもう新しいことを考えるきょうの力を「虚無」ということばに出会うことで使い果たし、使い果たせたことにいささかうっとりしてしまっているからなのだが)、きょう書くべきことに事欠いて、あすのテーマまで書いてしまうのは、私には本当に書くべきことなどなくなってしまったということかもしれない、あるいは、それが私の知りたくない真実かもしれないと思うしかないのだった。 あるいは私は「あるいは」ということば以外は何一つ書いていないのかもしれないと思い込もうとしている男を想像してみるが、この男にとって何一つ書いていないと考えることはどんな利点があり、またどんな不利な点があるのか、あるいはそういうことを考えること、想像してみることが、それが、さらに何も書いていないということを証明するのか、あるいは否定するのか、単に判断を保留するだけなのか、という疑問が増えて来るだけであり、こうしたことはあれこれ考えることではなく、ただ真剣に私は何も書いてはいないと思い込む努力が私に欠けている、あるいは私はこころのどこかで何一つ書いていないということを本当は認めたくないかのどちらかであるというのも、また同じ堂々巡りにすぎず、この繰り返しを抜け出るには、再び「あるいは」ということばを書き記し、点検しなおす必要があるのかもしれないが、私にはもう「あるいは」について書くことは何一つないような気がするのであり、その絶望が強すぎるために、あるいは逆に、私は「あるいは」について何一つ書いてはいないという気持ちになるのだと思うが、こうしたナンセンスなことばをこうして延々とつづけることができるというのは、あるいは「あるいは」ということばそのものの力なのかもしれないし、あるいは「あるいは」には何かを拒むという力が欠けているために虚無的になっていくしかないのかもしれないが、その虚無的なものを防ぐ方法は、本当に、この考えを中断してしまう以外にないのだろうか、ということはあるいはきょうのテーマではなく、あしたのテーマであり、私はまた「あるいは」の領域を、その虚無を無残に広げてしまったのかもしれない。 |
[ 32] あるいは
[引用サイト] http://www.asahi-net.or.jp/~KK3S-YC/yachi/Ppoem/aruiha/12aruiha.html
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HOME > 雑誌サイト > 日経ものづくり > 工場見学(あるいは案内)のススメ 日経BP社は8月14〜16日の間,お休みをいただきます。当欄の更新もお休みし,21日から再開します。ですので,あまり重たい話題は避けて参りたいと思います。さて,休み中の予定がまだ決まっていない方にお勧めしたいのが工場見学であります。 日経ものづくりでは,2006年8月号で「最新VIP工場」という国内の新鋭工場を紹介する特集を組みました。この特集に関して「日経ものづくり読者モニター」の皆様からご意見を募っていますが,よそにはない情報で参考になった旨のお言葉を多数いただいております。ありがたいことです。記者冥利に尽きます。 ただし,中には「掘り下げが不十分」「もっと詳しい情報が欲しい」などの厳しいご指摘もありました。すべてのご意見をまとめて筆者なりに解釈しますと「本特集の掘り下げは専門家から見れば物足りない面もあったが,そもそも工場関連の情報はそれほど出回っていないので,それなりに役に立った」といったところでしょうか。やはり工場は現場が生命線ですから,そもそも文章化するのが難しい対象といえます。必然的に世の中に出回る情報は少ない。こうした事情もあってか,記事に求められる質のしきい値が比較的低いのかもしれません。もちろん,それに甘んじてはいけませんし,そのつもりもないのですが…。 筆者が工場取材に行きますと,よく「他社の工場はどうしているのですか」といったご質問をお受けします。各社でも積極的に工場見学を実施されていると思いますが,それにしても全員が行けるわけではないでしょうし,外部の情報に飢えている方も少なくないと思われます。 例えば学習研究社が運営するWebサイト『学研キッズネット』中にある「全国工場見学ナビ」では,見学可能な工場がさまざま業種にわたって紹介されています。キッズネットというくらいですから子ども向けのコンテンツなのでしょうが,大人だけで行っても差し支えないようです。ぜひ,子どもの心をもって 楽しんで 学んでいただきたいものです。難点は,お盆中に操業停止してしまう企業が多いこと。その場合は,お盆があまり関係ない業種が狙い目です。革新の種は,異業種にこそあるように思います。(ここはやや強引ですね…) また,最近ではWebサイト内で仮想的に工場見学体験ができるコンテンツを充実させている企業も多いようです。企業名と「工場見学」のキーワードで検索すると,このようなコンテンツがひっかかります。実際に見てくるほどではないにしろ,いろいろ発見がありそうです。また,これらのコンテンツを楽しむのもよいですが,自社でも作成してみる,あるいは作成しないまでも作成するならどうするかを想像するだけでも新たな発見があると思います。 筆者は日経BP社に入る前,小学生〜高校生を対象にした学習塾で講師のアルバイトをしていましたが,この仕事を通じて,自分がやるのと人に教えるのでは天と地ほどの差があることを痛感しました。生徒に何かを教えようとすると,自分の理解していない個所が必ず浮き彫りになります。これを放置して授業に臨むと恥をかきます(何回もかきました)。実際,筆者は数IIIにおける微分や積分の意味するところを,大学の3年くらいになってようやく(高校3年生に教えられるほどに)理解できたような気がします。もはやほとんど忘れてしまいましたが。とにかく,問題を解くのと問題の解き方を教えるのとでは,求められる知識の質・量が違うわけです。 工場見学(案内)はどうでしょうか。見学者(しかもプロ)にラインの特徴を説明しようとすると,やはりラインの欠点が白日の下にさらされるはずで,それを嫌でも自覚することになります。工場は一切見せないという方針を掲げている企業は決して珍しくありませんが,人に見せることで成長するという側面も無視できないと思います。工場見学の時間も余裕もないという方は,取りあえず工場案内のイメージトレーニングをして冷や汗をたっぷりかくのもいいかもしれません。いつもより少し涼しく過ごせるのではないでしょうか。 ■車の渋滞に巻き込まれない工場見学ツアーのご提案,有り難うございました。明日から行ってきます。(2006/08/11) Annex会員の方はAnnexにログインしていただくと,クリッピングした記事をここに表示します。(ログイン/Annexへの新規登録 | Annexとは?)'; 12月から3回にわたって,放電加工の基礎と展望について第一人者が解説します。基礎理論に加え,学校で十分学べなかった実践的内容や最近の動向などを織り交ぜる予定です。 ものづくりに全身全霊を傾ける技術者たちの姿を克明に記録したのが本書。トヨタ自動車のフラッグシップである「レクサスLS」の開発など,6件のものづくり事例にフォーカスし,現場で奮闘する技術者の実像に迫る。 中国で蔓延し,日本メーカーの正当な利益を奪っているコピー商品。日本メーカーを悩ませるこの問題への対抗策を考える際に役立つ情報を本書は提供する。 2007年10月に発行した『再入門・材料力学』(基礎編,応用編,実践編)の続編。機械設計において盲点となっているところや,事故に直結するために特に注意すべきところなどを拾い上げ,材料力学の視点から分かりやすく解説した。 ニーズと技術を的確に押さえることで,事業のネタはいくらでも探すことができる。ただそのためには,事業に関係する「ひと」「組織」「技術」「金」に関する考え方を大きく改め,「コト」の重要性を認識しなければならない。その考え方を改めるきっかけになったできごとの数々を筆者が語る。 「自動車の排ガスに含まれるCO2を大気汚染物質と見なす」との歴史的判決が出たのは、2007年4月、早春の米国ワシントンにおいてであった。 思索は事件をキッカケに始まる。自分の書いたものを振り返ってみると、どうもそのようである。その事件とは、ミートホープに段ボール肉まん、白い恋人、比内地鶏…あれ、詐称事件ばかりではないか。 「ウソも数撃ちゃそのうち当たる」とか軽く言っていたらホントになりそうで、僕自身、驚いてしまっている。まあ、ここまではけっこう簡単に事が運ぶのだがその後が…。 各種システムの障害は,ソフトウエアの不具合によるもののほか,システムを構成する電子機器,もっと言えば,電子機器に搭載されているさまざまなデバイスの故障・劣化によることが少なくない。 今回はイノベーションについて考えてみたいと思います。製造業はグローバルに競争が激化しています。そんな中で競争力を高めるためには,イノベーションが必要不可欠となってくるわけです。 BPnetTRENDYnetビジネスパソコンITテクノロジー医療建設・不動産安全・安心経営とIT動画転職 |
[ 33] 工場見学(あるいは案内)のススメ - 日経ものづくり - Tech-On!
[引用サイト] http://techon.nikkeibp.co.jp/article/TOPCOL/20060811/120149/
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@IT総合トップ>MONOist>組み込み開発>職人芸、あるいはブラックボックスの悲劇 組み込み開発の現場では、製品の高度化に伴ってコーディング量の増大や納期短縮といった厳しい現実にさらされている。ソフトウェア開発に新しい手法を導入しなければ、今後の組み込み開発は行き詰まってしまうだろう。本連載では、組み込み開発の従来手法で何が問題なのかを洗い出し、次なる一歩を踏み出す前提条件を明らかにする。(編集部) 読者の多くは、組み込みソフトウェアの開発にかかわっていると思いますが、ご存じのとおり、今日の開発現場はさまざまな問題に直面しています。市場のニーズが急速に複雑化、多様化したことが大きな要因です。デジタル家電に代表されるように、開発案件数の急激な伸びに対して開発効率が追い付いていないというのが現状でしょう。その結果、いままで当たり前だった開発手法では立ち行かない状況になっています。 日本の製造業を支えてきたのは、日本文化ともいえる職人気質でした。日本のお家芸といわれる組み込みソフトウェア開発も、「職人技」が大きな役割を担ってきました。現場主義。たたき上げ。勘と経験。「良い仕事をしたい」という気質。これらには、日本製品の品質を支えてきたプラス面もありましたが、一方で開発ノウハウが属人的となり、職人技をチームで共有できないというデメリットもあります。現在は「その人にしか分からない」という属人性が、市場の変化に対応できない原因の1つとなっています。 プロジェクトの進ちょく確認は欠かさないという某社のソフトウェア開発部隊。過去の痛い経験の反省から、情報共有と進ちょくの把握は重要だとの考えに至り、プロジェクトごとの進ちょく会議を習慣化することにしました。リーダーから報告を受けるのは、部門長です。 部門長:「実際にどうなのかと担当者に直接聞いてみると、『進んでいる、あと10%で終わる』というんですよ。『ただ、ちょっと難航しているだけだ』とか何とか」 しかし、計画書を確認してみると、実際とは懸け離れています。計画の変更は計画書には特に書かれていないし、最新の計画を確認できるものもありません。そもそも、計画は最初に立てるだけで、変更は計画書に反映していないようです。それなら、あの「90%」って、何? 部門長:「何をベースに90%といっているのか、根拠がありませんでした。皮膚感覚みたいなものでしょう」 部門長:「でも、そのリーダーを責めるつもりはありませんよ。そういうやり方でやってきた、という事実ですから」 プロジェクトの最初に計画は立てるが、その後の変更は計画書に反映していないという、よくあるケースです。計画に対して現時点でどれだけ進ちょくしているかが分からないのは、もちろん非常に危険なことです。それでも遅延が起こらなければよいのですが、ソフトウェア開発でまったく遅れがないということは、まずないといっていいでしょう。計画もあいまい、進ちょくの判断も個人任せ、これでは「綱渡り」のようなものです。 ソフトウェア要件が、以前に行ったプロジェクトと似ていることがあります。某家電メーカーの3人のプロジェクト。初めて新規プロジェクトを任された若手のリーダーは、過去のプロジェクトと類似していることに気が付きました。しかも、メンバーの1人は、半年前のそのプロジェクトにかかわっていたとか。リーダーは本人を呼び出して、聞いてみました。 スタッフ:「ああ、これだったら同じやり方でいけるはず。あのときの設計をベースにして、変更すればいいのではないかと思いますよ」 ところが調べていくうちに、リーダーの胸の内に「同じやり方」に対する疑問がわいてきました。設計書とソースコードが一致しないのです。最初の設計書は確かにありますが、どうやらプロジェクトの途中で発生した修正については、設計書が残っていないようです。 しかし、それだけでは解決しませんでした。ソースコードは、最新のものしか残っていないというのです。 スタッフ:「納期が迫っていて、設計書を修正している時間もなかったし……、あれじゃ無理ですよ」 無理なのもごもっとも。あのときと「同じやり方」というリーダーのもくろみは、もろくも崩れ去りました。 ちょっとした設計変更なら設計書の修正は後回しというのも、よくあることです。時間もないし、手を動かした方が早い場合も多いですから。それに開発メンバーなら設計は頭の中に入っているし、どこを修正すればいいのか予測がつきます。しかし、この場当たり的対応のツケは、後になって回ってきます。 まず、このエピソードのように同じような要件があっても、前のプロジェクトを活用できないため、一向に効率が上がりません。加えて、履歴が残っていなければ、どこがうまくいったのか、どこが予想外だったのかも分からず、自らの成功や失敗を次のプロジェクトに生かすこともできません。とはいっても、変更履歴を残すための時間的余裕がないのも事実ですが。 「○○さんに聞いてみて」というのは、開発現場ではよく聞くフレーズですが、その人が辞めてしまったら、過去の開発ノウハウは「闇の中」です。 @ITMONOist トップ組み込み開発フォーラム トップ会議室利用規約プライバシーポリシーサイトマップ |
[ 34] 職人芸、あるいはブラックボックスの悲劇(1/3) − @IT MONOist
[引用サイト] http://monoist.atmarkit.co.jp/fembedded/chaos01/chaos01a.html
