意識とは?
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意識の構成には「清明度」、「広がり」、「質的」の三つの要素が存在するが、このうち一般的に意識障害というと「清明度」の低下についてを指す。「広がり」の低下(意識の狭窄)は催眠であり、「質的」の変化(意識変容)はせん妄やもうろう等を指す。 「意識がある」とは、脳において刺激を認識することが可能であり、刺激に対し明確な反応を示す状態を指す。 無意識は五感に対する刺激が脳で感じ取られず、刺激を認識していない状態である。刺激に対する反応が部分的な状態である。 医療の現場に於いては、意識の状態・反応に応じて「意識レベル」で表示する。救急医療では、先ず負傷者等の意識を確認して「意識レベル」の判定を行う。 現段階では意識の発生のプロセスについて明らかになっていない。胎児の時期に発生することは容易に想像出来るが、それがどのような道筋をたどって発生するのかは分かっていない。 中世において、意識はほとんど良心と同義であり、現在我々が知る心的現象一般としての意識という概念はなかった。意識や心の構造が問われるようになるのは、17世紀以降である。近世前期の哲学において、意識はもっぱら思惟を典型とする認識と表象の能力として扱われたといってよく、ただしこの認識能力は感情や感覚を含むものであった。ルネ・デカルトは方法論的懐疑により、主観的でありしかもなお明証性をもつ "cogito" に立脚した認識論的存在論を展開した。デカルトは世界を「思惟」と「延長」から把握し、思惟の能動性としての認識と受動性としての情念をそれぞれ主題化した。ゴットフリート・ライプニッツにおいては、全表象能力はおのおの明晰さの度を持ち、もっとも完全な認識である悟性が神を直観的に認識するほか、理性は合理的推論を判明に、感性は感覚的把握を明晰に行うとされた。ライプニッツの影響を受けたクリスティアン・ヴォルフは、「意識」の語をドイツ語で造語し、Bewusstsein (字義通りには「知られている状態」)と名づけた。イマヌエル・カントは、デカルトの cogito を「純粋統覚」(reine Apperzeption)とみなし、すべての悟性的認識の根源であるとしたが、意識そのものの主題化には向かわず、各認識能力の身分と能力についての考察をその批判において展開した。 意識がドイツ哲学において全面的に主題化されるのはドイツ観念論においてである。ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは、デカルトやカントが cogito/Ich denke から遡行的に知られるとした "ich bin" 我あり、をデカルトにおいてそうであったような個我の自己認識から、カントが主題化した超越論的認識能力の原理へ拡大し、"das Ich "と呼び、その働きを定式化した。ここで我/自我(das Ich)とは意識の能力にほかならない。つまり、そのような自我は、自己自身を真正の対象とする活動、すなわち自己を認識する活動である(Tathandlung 事行)と把握され、この自らを客観(対象)とする認識主観としての自我を自己意識と呼ぶ。フィヒテのほか、フリードリヒ・シェリング、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルらが自己意識を哲学の問題として取り上げた。シェリングは、対象化された自己意識を「無意識」(Unbewusstsein 意識でないもの、Bewusstlosigkeit 意識を欠いた状態)と名づけた。ユングはシェリングが無意識の発見者であると指摘している。ドイツ圏における意識についての研究は1780年代から1810年頃まで盛んに行われたが、その後は存在論的哲学に再び座を譲った。 19世紀中葉のヨーロッパでは、哲学から心理学が分科した。ヴィルヘルム・ヴントは意識という概念を中心に心理学を組み立てようとした。意識は自分の感ずる「感覚」「感情」「観念」に分けられる。この3つの意識を自分自身が感じたままに観ることを内観法(ないかんほう)という。 自分で現在認識している内容を意識という。つまり、我々が直接的に心の現象として経験していること、これは私の経験だと感じることのできることを総体的に意識という。意識は短期記憶・作動記憶と関係があると思われる。 自分で現在認識していないが、努力すれば思い出すことができる内容を前意識という。前意識は長期記憶と関係があると思われる。 自分で現在認識しておらず、努力しても思い出せない内容を無意識という。精神分析学では通常の方法では思い出せない無意識下にあるものを、自由連想法などを用いて意識に持ってゆくことで無意識を理解しようとした。 人工知能の分野では、人間が人工知能に質問などをして、その人工知能が意識を持っているかのように反応し、人間の反応と区別がつかなければ、意識を持っているとみなす(チューリング・テスト)。 科学的に意識の理論を構築しようと試みている研究者も存在する。新しい方程式や様々なモデルが提出されているが、研究者の立場により定義、内容もさまざまで、議論が分かれているのが現状である。 一部内外では、心の哲学における細かい論点に対する科学の分野における議論が未熟であること、意識そのものの捉え方が研究者ごとに大きく異なり曖昧になっていること、などを問題視・疑問視する声もある。 今後は、従来の分野の域を超えた学際的な議論が期待される。 フランシス・クリックとともに、科学が意識の問題に挑む第一歩として、「意識と相関する脳活動(NCC)」を神経科学の実験により追求していくことが得策であるとして具体的な研究手法を提案した。意識の機能を脳活動と対応づけていくことが着実な進展につながると考えている。意識の機能として将来の行動のプラニングが重要であることから、前頭葉に直接投射のある脳部位の活動がNCCの一部となっていると考えており、解剖的に前頭葉へ投射していない第一次視覚野の活動は直接意識に上らないという「V1仮説」を提唱している。その他にも、意識に関して理論的考察から、「非意識ホムンクルス」などの概念も提唱している。クオリアは計画モヂュールなどの一歩手前のニューロン連合からつくられると考えている。これはジャッケンドフの「意識の中間レベル理論」に準拠し、意識の内容は常に知覚の形式をとると主張している。一方、より抽象的な「思考」などは非意識に遂行されると考えられる。現在カリフォルニア工科大学教授。 理論物理学者、現在オックスフォード大学教授。意識に関する次のような独自の仮説を提唱している。すなわち「脳内の神経細胞にある微小管で、波動関数が収縮すると、意識が生起する」と。この仮説はペンローズの量子脳理論と呼ばれている。微小管とは細胞骨格の一種で、細胞の構造を維持する役割を担っているタンパク質の複合体。微小管という耳慣れない言葉を持ち出してきた背景には、脳内の広い範囲で、ある程度の時間量子力学的な重ね合わせ状態を維持できそうな構造物が、微小管以外に見当たらなかったためだという理由がある。このペンローズの量子脳理論は三つの大きな仮定の上に組み立てられている。ひとつは「人間の思考はチューリングマシンの動作には還元できない」という仮定、もうひとつは「波動関数の収縮はチューリングマシンで計算することが不可能な、実在的物理プロセスである」という仮定、そして最後は「量子論と相対論を理論的に統合することで、意識の問題も同時に解決される」という仮定である。これら個々の仮定はどれも、科学者コミュニティーの間で一般的に受け入れられているものではないが、それらを更に一つの理論として結びつけてしまったのが、ペンローズの量子脳理論である。しかしながら、こうした仮定の上に仮定を重ねて構成された、基礎のハッキリとしない理論であるため、理論物理学関係者からの人気はすこぶる低い。それでも著名な理論物理学者ペンローズによって提唱された仮説という事もあり、知名度は高い。また、ペンローズの仮説の詳細を良く理解しないまま、疑似科学的な主張に都合良く利用されているケースもある。 脳科学者、現在Sony CSL上級研究員。基本的な立場としてはデイヴィッド・チャーマーズと同じ路線を歩んでおり、クオリアまでをも含んだ全ての現象を扱いうる「拡張された物理学」を志向している。茂木の著書「クオリア入門」も「心も自然法則の一部である」という表題から始められており、「意識のほんとうの科学を目指す」という自身の方向性をはっきりと明示している。また茂木は「脳内でのニューロンの時空間的な発火パターンに対応してクオリアが生起している」という独自の作業仮説をとり、そこからクオリアが持つ(であろう)何らかの数学的構造を見つけることが出来るのではないか、として研究を行っている。具体的には発火しているニューロンの時間的・空間的パターンをミンコフスキー空間内で幾何学的または位相幾何学・グラフ理論的に抽象化し、そこに群論的な数学的構造を見出そうとしていると思われる。 工学者、現在慶應義塾大学機械工学科教授。専門はロボティクス。前野はロボットに人間と同等の機能をもたせるようプログラミングする、といういわゆる人工知能の問題を追いかけている途上で、意識に関する仮説「受動意識仮説」を見出し、広く世間にその真価を問うている。工学者の前野らしく、意識についてかなり具体的な分かりやすい議論を展開する。 RobinH, et al. "Consciousness Studies" (2005年-) - ウィキブックス英語版にある意識研究についての概説書。アリストテレスから始まり、現代の神経科学、心の哲学までを丁寧にレビュー。リンクをクリックすればそのまま読める。 (百科事典)「Consciousness」 - スタンフォード哲学百科事典にある「意識」についての項目。(英語) この項目「意識」は、医学に関連した書きかけの項目です。加筆・訂正などをして下さる協力者を求めています。(ポータル 医学と医療/ウィキプロジェクト 医学) |
[ 43] 意識 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98
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意識障害(いしきしょうがい, disturbance of consciousness)とは、物事を正しく理解することや、周囲の刺激に対する適切な反応が損なわれている状態である。 意識の構成には「清明度」、「広がり」、「質的」の三つの要素が存在するが、このうち一般的な意識障害とは「清明度」の低下についてを指す。「広がり」の低下(意識の狭窄)は催眠であり、「質的」の変化(意識変容」はせん妄やもうろう等を指す。 2007年現在、意識とは何かという問いかけに対して明確な解答は得られていない。古くから哲学の分野で様々な研究がなされているが大きな謎のままである。いわゆる精神病といわれる分野を除き、意識障害を起こすメカニズムとしては意識の構成のうち覚醒(清明度)と認知(質的、内容)の障害の2種類に関してはよく研究されている。覚醒の主座は脳幹網様体調節系にあるとされている。これは脳幹にある上行性網様体賦活系と視床下部調節系からなると考えられている。上行性網様体賦活系にはあらゆる感覚刺激に対しての入力が存在する。即ち、痛み刺激や呼びかけ刺激は上行性網様体賦活系を介して、覚醒度をあげると考えられている。もうひとつ認知に関しては大脳皮質全体に存在すると言われている。基本的に意識障害がある場合はこのどちらか、あるいは両方が障害されていると考えられる。但し、脳自体に器質性の疾患がなくとも全身性疾患ならば両方を障害することは可能である。即ち、基本的に意識障害の人間を見た場合は脳幹、大脳皮質、全身性疾患の3つを考えればよい。 意識障害の患者をみたとき、最も重要なのは診断をすることではなく、救命することである。これはBLSやACLSを参照すればよい。気をつけるべきことは低血糖の否定を必ず行うことである。低血糖発作でも眼球偏位や片麻痺を起こすことはあり、誤った治療を行う恐れがある。またヒステリーによるものも否定した方が良い。ヒステリーによるものは患者の様子から診断するべきだが、迷った時はarm drop testを行う。手を落とすと顔にぶつかるようないちでこのテストを行うとヒステリーの患者は無意識に顔を避けるように落下させることが多い。また病歴も診断の助けとなる。薬瓶が手元に落ちていたら過量服薬を疑う。これら基本的な情報収集とBLSといった救命措置ができたのなら、次に考えるのは脳幹障害があるかである。これは脳幹には呼吸中枢があるため、脳幹障害があると呼吸できない即ち、気管挿管の必要があるからである。脳幹障害を判断するには眼球頭反射などを用いるとよい。これは人形の目徴候ともいわれるものである。首を横に振っても眼球が一点を注視せず頭部が振り向いた方向を注視する場合(眼球頭反射陰性)は、脳幹障害と考える、これは脳死の判定基準にも含まれている。注意するべきことは脳幹障害は身体診察で判定するべきであり、CT、MRIといった画像診断で判定してはいけない。CTで脳幹部の圧迫や出血がみられていても、眼球頭反射などがみられ脳幹機能が保たれていれば、その時点では脳幹障害は存在しない。気管挿管の必要性を判断したら、テント上病変(認知障害)かテント下病変(覚醒障害)か、あるいは全身性病変かの診断となる。外傷の検査も同様に行うことも重要である。バイタルサインでCushing徴候(高血圧で徐脈)が見られれば、脳圧亢進を疑えるし(逆に低血圧では全身性病変の方が疑わしい)、外傷があり低血圧ならば、神経原性ショックのほかに骨盤骨折による出血や胸腔内、腹腔内出血なども検索する。また薬物による場合も多く、ベンゾジアゼピン、有機リンの中毒は必ず念頭におかなければならない。小児、高齢者は誤薬や過量服薬をしやすいし、麻薬、犯罪目的の薬物投与も少数ながらみられる。血中の薬物濃度や尿中トライエージも必要ならば行うべきである。 日本においては薬物中毒による意識障害はそこまで多くないが、アメリカなどでは非常に多いため昏睡カクテルというものを用いる場合がある。昏睡カクテルとはメタボリン(50mg/1ml/A)を2A、即ち100mgと50%ブドウ糖液20mlを2A(40ml)と塩酸ナロキソン(0.2mg/1ml/A)を2A(0.4mg)静注することである。メタボリンはウェルニッケ脳症を予防するために投与する。はじめにブドウ糖を投与するとウェルニッケ脳症が憎悪するので注意が必要である。麻薬中毒は縮瞳や注射跡があるときに積極的に疑う。ベンゾジアゼピン系の拮抗薬アネキセートはルーチンでは投与しない。これはてんかん歴のある患者や、複数の睡眠薬を服薬している患者が痙攣を起こすリスクがあるからだある。 GCSが8以下の場合は原則として気管挿管、あるいは気道確保の適応がある。但し、急性アルコール中毒のように速やかに意識の回復が見込める場合はこの限りではない。挿管困難例では下顎挙上やマスク換気を行う。意識障害と嘔吐がみられるばあいは制吐剤を投与するが改善が見られなければ気管挿管の適応となる。 救急医学において意識障害の鑑別疾患としてaeioutipsという覚え方が有名である。これはどちらかというと原因不明の意識障害で診断がつかなかったときにしらみつぶしとして一つずつ精査していくためのものである。日本ではアイウエオチップスと覚えている人もいる。 外傷など意図されない意識障害の尺度としてはJCSやGCSがある。麻酔、人工呼吸器使用中など意図的に意識障害を作り出した場合はRamsay scaleやSASといった尺度がある。 意識障害では必ず疼痛刺激を与えて意識レベルの判定を行うのだがその際、特有の姿勢反射が誘発されることがある。間脳レベルで障害をうけると上枝が屈曲し、下肢が伸展するこれを除皮質硬直という。中脳赤核〜橋に病変が及ぶと疼痛刺激に対して四肢が伸展する姿勢反射が誘発されるこれを除脳硬直という。繰り返し意識レベルを判定していると除皮質硬直であった姿勢反射が除脳硬直となることがある。これは病変が間脳から上位脳幹まで及んだ、即ち病変が進行したという意味となる。さらに進行し延髄にまで病変が及ぶと四肢の筋トーヌスは完全に弛緩性となり、なんら姿勢反射が誘発されなくなる。 世間でいう植物状態である。両側大脳の広範な意識障害で高度の痴呆に陥った状態である。通常の意識障害とは睡眠覚醒パターンがある、開眼して注視する、嚥下があるという点で鑑別できる。頭部外傷で一年間、無酸素脳状態で3か月間この状態が持続すれば不可逆と判定して良いといわれている。脳死との違いを説明するときによく登場する言葉である。 意識は清明であるが、橋底部の両側障害で四肢麻痺、仮性球麻痺、両側顔面神経麻痺、外転神経麻痺がおきて意志の伝達が不可能となった状態である。動眼神経は正常なので眼球の上下運動と眼瞼挙上でコミュニケーションが可能である。脳底動脈血栓症で多い。 無意識な情緒葛藤が通常ならば随意神経系によって調節されている身体機能の変化または喪失として表現される精神障害である。器質疾患の除外とhand drop testによってある程度、可能性を考えることができる。通常は自然に回復するので、後日精神科受診を考える。 意識障害と異なり、すぐに意識が回復する。殆どが循環器障害や自律神経反射によるものである。脳底動脈支配領域の神経症候が主症候となる。脳の上位部から虚血が起こるので後頭葉障害で眼前暗黒感、上位脳幹網様体障害で意識障害、延髄の前庭脊髄路障害で失立となる。反射性に交感神経が刺激され冷感を同時に感じることが多い。 敗血症、レジオネラ肺炎、脂肪塞栓症があげられる。特にレジオネラ肺炎は髄膜炎と間違いやすい。胸部X線写真にて確認をするのが大切である。 肝性脳症の疑いがある。浅い意識障害時に上肢を伸展させると律動的な不随意運動がおこる。羽ばたき振戦なども含まれるが、本態はミオクローヌスであり、アリテリキシスともいう。 急性大動脈解離が考えられる。特に内頚動脈の解離が、脳梗塞と間違えやすい。左右の腕の血圧や縦隔拡大、心エコーで心タンポナーデの確認などをする。脳梗塞と誤診し血栓融解療法を行うと悲惨なこととなる。低血糖で脳梗塞様の症状をきたすこともある。 この項目「意識障害」は、医学に関連した書きかけの項目です。加筆・訂正などをして下さる協力者を求めています。(ポータル 医学と医療/ウィキプロジェクト 医学) |
[ 44] 意識障害 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98%E9%9A%9C%E5%AE%B3
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<5>仏教では広義の意識作用は、視・聴・嗅・味・触の五感によって知覚される五識のほかに意識・末那識(まなしき)・阿頼耶識(あらやしき)を加えて八識からなるとする。 (1)意識は知識・感情・意志からなり内的世界における心の働きを指す。意識の構造は知識によって与えられるので、両者はしばしば同義に用いられる。意識は外的世界に対応して形成され、外的世界を映しだし、その外的世界に働きかける。この意味から、あらゆる現象は自身の意識から現われ意識に収まる。人間生存の各局面において、外的世界との相互作用を通して宇宙との一体化を指向する「意識の拡大化」が見られる。これらの見解は基本的に共同主観論ないし唯識論の立場と共通 している。これが電脳経済学における意識の捉え方である。 さらに付け加えれば次のようになる。知識は内的世界のモデル構造に、感情は知識への情報の入力に、意志は知識からの情報の出力に対応し、これらの統合作用としての意識はその人の行動様式を規定する。この環境と人間を巡る「情報の流れ」は意味深長である。知識の形成は環境の内部化であり、感情は環境からの入力に、意志は環境への出力に相当する。情報はさらにエネルギー発現つまり運動や労働に形(パターン)を与え、前記の行動様式とはこれを指す。人間意識は、このように知識と環境の差異を汲み取ることによって学習を積み重ね、自身の環境をより的確に定義して行く認識主体の中核をなす。意識の拡大化はこの差異の解消過程を通して自己の解放を目指す。 (2)(3)(4)は西洋哲学における先験的観念論の流れを汲む立場からの規定で、一方の唯物論や心理学の立場からは意識作用を脳髄の生理的活動の面から捉える。古代ギリシアに始まりすべての著名な哲学者は意識に対する考察を巡らしている。ちなみに、意識は元来ラテン語の良心を意味するが、デカルトは懐疑を介して思惟の含意を与え、思惟する確実なものとしての「自我の存在」を確認した。この文脈から、意識は良心による善悪判断を基準に形成される。ここで注目すべきは、統一的かつ根源的な自己意識が外的世界における善悪判断を基準に形成される点である。いずれにしろ、意識を巡る論議に客観性・論理性のある結論を見出すことは出来ない。なぜなら、意識は状況適応的な発達過程を通して各個人固有に形成されるので、各自が所与の知見に照らして主体的に規定する外ない。 (5)仏教では意識を五識と末那識・阿頼耶識のインターフェイスとして捉えている。末那識とは煩悩が整理されていないドロドロした精神状態を指し、阿頼耶識とはさらなる深層部の無意識を意味する。つまり、意識は外的物質世界と内的精神世界を結ぶ位置を占めるとともに内的世界はその深奥部において潜在的無意識として万人万物の共通意識に繋がっている。この意識構造は、しばしば海に浮かぶ島として例えられる。 仏教ではまた人間を形成要素にしたがって「父母所成」「飲食所成」「意識所成」に区分する。これはそれぞれハードウエア、維持管理、ソフトウエアに相当する。さらに述べれば、それぞれ物質循環、エネルギー代謝、情報蓄積(「物理要素の働き」と呼ぶ。)に対応している。つまり、意識は情報との不即不離の対応関係のもとに捉えるべきである。 |
[ 45] ai2 意識
[引用サイト] http://www.yk.rim.or.jp/~mitsunob/f-term/ai2.html
