信介とは?

岸 信介(きし のぶすけ、1896年(明治29年)11月13日 - 1987年(昭和62年)8月7日)は、日本の農商務官僚、政治家。第56、57代内閣総理大臣。正二位大勲位。
山口県吉敷郡山口町(現・山口市)に、山口県庁官吏であった佐藤秀助と茂世夫妻の第五児(次男)として生まれる(本籍地は田布施町)。信介が生まれた時、曽祖父の信寛もちょうど山口に来ており、早速“名付親になる”といって自分の名前の一字をとって「信介」という名が付けられた[1]。3歳のころ一家は田布施に帰郷し、造り酒屋を営む。中学3年の時、婿養子だった父の実家・岸家の養子となった。
旧制岡山中学に学んだが、2年生になったばかりの頃、松介叔父の肺炎に依る急逝に会い山口に戻り、旧制山口中学(戦後の山口県立山口高等学校)に転校。岡山中学では10番前後だったが山口中学では首席だった。
1914年(大正3年)、中学を卒業すると間もなく上京し中央大学の予備校に通い受験準備の生活に入った。しかし勉強より遊びぐせの方がつきやすくなり受験勉強そっちのけで、しばしば映画や芝居を見に行ったりした。このため第一高等学校の入学試験の成績はビリから2、3番目だった[2]。
高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄、三輪寿壮とは常に成績を争った。
1917年(大正6年)、東京帝国大学に入学。大学の入学試験はドイツ語の筆記試験だけで、難なく合格した。大学時代は精力を法律の勉強に集中し、ノートと参考書のほか一般の読書は雑誌や小説を読むくらいで、一高時代のように旺盛な多読濫読主義ではなく、遊びまわることもほとんどなかった[1][3]。他の高校からやってきた者たちは2人の俊英ぶりに驚かされたという。このころ岸を魅了していたのは北一輝の存在であった。中込に北を訪ねている。のちに岸は北一輝について「大学時代に私に最も深い印象を与えた一人」と認め、「おそらくは、のちに輩出した右翼の連中とはその人物職見においてとうてい同日に論じることはできない」と語っている[4]。1920年(大正9年)7月に東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。憲法学の上杉慎吉から大学に残ることを強く求められ、我妻もそれを勧めるが岸は農商務省に入省した。
役所へ行くとそのころ商務局商事課長だった同郷の先輩、伊藤文吉(元首相伊藤博文の養子)から『外国貿易に関する調査の事務を嘱託し月手当45円を給す』という辞令をもらった。同期には平岡梓(作家・三島由紀夫の父)、三浦一雄、吉田清二などがいたが、入って間もなく岸は同期生およそ20名のリーダー格となった[5]。
1925年(大正14年)に農商務省が商工省と農林省に分割されると商工省配属となり、1933年(昭和8年)2月に商工大臣官房文書課長、1935年(昭和10年)4月には商工省工務局長に就任。1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。1937年(昭和12年)7月には産業部次長、1939年(昭和14年)3月には 総務庁次長に就任。この間に計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5カ年計画」を実施。大蔵省出身で、満州国財政部次長や国務院総務長官を歴任し経済財政政策を統轄した星野直樹らとともに、満州経営に辣腕を振るう。同時に、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、里見機関の里見甫の他、椎名悦三郎、大平正芳、伊東正義、十河信二らの知己を得て、軍・財・官界にまたがる広範な人脈を築いた。
1939年(昭和14年)10月に帰国して商工次官に就任するが、商工大臣の小林一三と対立、直後に発生した企画院事件の責任をとり辞任する。1941年(昭和16年)10月に発足した東條内閣に商工大臣として入閣。太平洋戦争中の物資動員の全てを扱った。1942年(昭和17年)のいわゆる「翼賛選挙」で当選し、政治家としての一歩を踏み出した。1943年(昭和18年)、日本軍劣勢への対応として商工省が廃止され軍需省へと改組。軍需大臣は東條首相の兼務となり、岸は軍需次官(無任所国務相兼務)に就任。半ば降格に近い処遇により、東條との関係に溝が生じた。
1944年(昭和19年)7月22日にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となった。宮中の重臣間では、木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声が上がり、木戸と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、東條内閣の倒閣工作が密かに進められた。
同年7月13日には、難局打開のため内閣改造の意向を示した東條に対し木戸は、東條自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと、嶋田繁太郎海軍大臣の更迭と重臣の入閣を求めた。東條は木戸の要求を受け入れ、内閣改造に着手しようとしたが、すでに岡田と気脈をを通じていた岸が、閣僚辞任を拒否し内閣総辞職を要求する。東條側近の四方諒二(しかた・りょうじ)東京憲兵隊長が岸宅に押しかけ恫喝するも、「黙れ、兵隊」と逆に四方を一喝して追い返した[1]。この動きと並行して木戸と申し合わせていた重臣らも入閣要請を拒否。東條は内閣改造を断念し、1944年(昭和19年)7月18日に内閣総辞職となる。
1945年(昭和20年)3月11日、岸は、翼賛政治会から衣替えした親東條の大日本政治会には加わらず、反東條の護国同志会を結成した。
1945年(昭和20年)8月15日に太平洋戦争が終結した後、故郷の山口市に帰っていた所をA級戦犯容疑者として逮捕され、東京の巣鴨拘置所に収監された。しかし、冷戦の激化に伴いアメリカの対日政策が大きく転換。日本を「共産主義に対する防波堤」と位置づけ、旧体制側の人物を復権させたため、戦犯不起訴となる。東條ら7名の処刑の翌日の1948年12月23日に釈放、「公職追放」となる。
1952年(昭和27年)公職追放解除となり、4月に「自主憲法制定」、「自主軍備確立」、「自主外交展開」をスローガンに掲げ、「日本再建連盟」を設立、会長に就任した[6]。1953年(昭和28年)、日本再建連盟の選挙大敗により「自由党」に入党、公認候補として衆議院選挙に当選。1954年(昭和29年)吉田茂首相の「軽武装、対米協調」路線に反発し、自由党を除名。11月に鳩山一郎と共に「日本民主党」を結成し幹事長に就任。かねて二大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導、1955年(昭和30年)に新たに結成された自由民主党の初代幹事長に就任した。同年には左右両派に分裂していた日本社会党が再び合同しいわゆる「55年体制」が始まる。
石橋退陣を受け、1957年2月25日に成立した第一次岸内閣。国会会期中であったため、石井光次郎(前列左)を副総理に加えた他は全閣僚が留任した。
1956年(昭和31年)12月14日 自民党総裁に立候補するが7票差で石橋湛山に敗れた(岸251票、石橋258票)が、外務大臣として石橋内閣に入閣した。2か月後に石橋が病に倒れ、首相臨時代理を務めた。巣鴨プリズンに一緒にいた児玉誉士夫の金と影響力を背景に石橋により後継首班に指名された。国会の首班指名時において自民党総裁以外の自民党議員が指名された形となった(首相就任の1ヵ月後の3月21日に自民党総裁に就任)。石橋内閣を引き継ぐ形で、前内閣の全閣僚を留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任した。
1958年(昭和33年)4月25日に衆議院を解散。5月22日の第28回総選挙で勝利し(自民党は絶対安定多数となる287議席を獲得)、6月12日に第57代内閣総理大臣に就任し、第2次岸内閣が発足した。
当時の岸内閣は、警察官職務執行法(警職法)の改正案を出したが、「デートもできない警職法」と揶揄され、社会党や総評を初めとして反対運動が高まり、撤回に追い込まれた。また、日本教職員組合(日教組)との政治闘争において、日教組を封じ込める策として、教職員への勤務評定の導入を強行した。すると、これに反発する教職員により、いわゆる「勤評闘争」が起こった。
岸の総理大臣在任中の最大の事項は、日米安全保障条約・新条約の調印・批准と、それを巡る安保闘争である。1960年(昭和35年)1月に全権団を率いて訪米した岸は、アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意した。
しかし、帰国後の新条約の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾。5月19日には日本社会党議員を国会会議場に入れないようにして新条約案を強行採決するが、国会外での安保闘争も次第に激化の一途をたどった。警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本登美三郎を使者に立て、暗黒街の親分衆の会合に派遣。錦政会会長稲川角二、住吉会会長磧上義光やテキヤ大連合のリーダー尾津喜之助ら全員が手を貸すことに合意。さらに三つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請。ひとつは岸自身が1958年に組織した木村篤太郎率いる新日本協議会、右翼とヤクザで構成された[要出典]全日本愛国者団体会議、戦時中の超国家主義者もいる日本郷友会である。”Far Eastern Economic Review”誌によると「博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、アイゼンハワーの安全を守るため『効果的な反対勢力』を組織した。最終計画によると1万8千人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の動員が必要であった。彼らは政府提供のヘリコプター、セスナ機、トラック、車両、食料、司令部や救急隊の支援を受け、さらに約8億円(約230万ドル)の『活動資金』が支給されていた」と書かれている。
連日デモ隊に包囲され、6月10日には大統領来日の準備をするために来日した特使、ハガティ新聞係秘書(大統領報道官)が羽田で群衆に包囲されてヘリコプターで救出され避難する騒ぎになった。6月15日には、ヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、国会構内では警官隊との衝突により、デモに参加していた東京大学学生樺美智子の死亡事件が発生した。こうした政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。岸は、「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には"声なき声"が聞こえる」(サイレント・マジョリティ発言)と沈静化を図るが、東久邇・片山・石橋の三人の元首相が岸に退陣勧告をするに及んで事態は更に深刻化し、遂にはアイゼンハワーの訪日を中止せざるを得ない状況となった。
6月15日と18日には、岸から自衛隊の治安出動を打診された防衛庁長官・赤城宗徳はこれを拒否[7]。安保反対のデモが続く中、一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と死を覚悟する所まで追いつめられたが、6月18日深夜、条約の自然成立。6月21日には批准、昭和天皇が調印した。「私のやったことは歴史が判断してくれる」の一言を残し、新安保条約の批准書交換の日の6月23日、混乱の責任をとる形で岸内閣は総辞職した。辞任直前には暴漢に襲われ、瀕死の重傷を負っている。
内閣を辞職した岸であったが、その後も政界に強い影響力を持ち、日韓国交回復にも強く関与した。時の韓国大統領朴正煕もまた満州国軍将校として満州国とか関わりをもったことがあり、岸信介・椎名悦三郎・瀬島龍三・笹川良一・児玉誉士夫らとは満州人脈が形成される。
日韓国交回復後、岸・椎名・瀬島らと日韓協力委員会を作る。岸らは日韓の反共政策を支持し、「統一教会」にも好意的で、教祖文鮮明が「国際勝共連合」を結成することにも協力している。
総理辞任後も政財界に幅広い人脈を持ち、愛弟子の福田赳夫と田中角栄による自民党内の主導権争い、いわゆる「角福戦争」が勃発した際も、福田の後見人として存在感を示した。
1972年(昭和47年)7月、第3次佐藤内閣改造内閣が倒れた後、憲法改正を目指し密かに政権復帰を狙った[8]。自民党総裁選挙で福田赳夫が田中角栄に完敗したことで、大変落胆した[9]。
1979年(昭和54)10月7日の衆議院解散を機に、派閥を福田赳夫に地盤を吹田あきらに譲り、政界引退。国際連合から「国連の人口活動の理想を深く理解し、推進のためにたゆまぬ努力をされた」と評価され、日本人初の国連平和賞を受賞[10]。晩年は、御殿場の別邸で悠々自適の生活を送る一方、保守論壇の大立者として、自主憲法制定などに関し、積極的な発言を続けた。これは息子安倍晋太郎、孫安倍晋三など後世に大きな影響を与え、自民党清和政策研究会の基本政策となって現在まで受け継がれている。
1986年(昭和61年)、住友銀行による平和相互銀行乗っ取りに暗躍し、暴力団稲川会石井進に協力させた。この事は、東京佐川急便事件の遠因となった。死ぬまで自民党内での影響力は衰えを見せず、事実上の安倍派(福田派)の元老であり、フィクサー、黒幕とも呼ばれた。
1920年(大正9年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。外国貿易に関する事項の調査を嘱託。9月、外国貿易に関する事項の調査嘱託を解かれ任農商務属、商務局勤務
1921年5月 - 任農商務事務官、叙高等官七等商務局勤務、監理課勤務、叙従七位。11月、長男信和生る
1922年(大正11年)7月、兼任農商務参事官、叙高等官七等、農商務事務官として山林局勤務、大臣官房文書課勤務
1925年(大正14年)3月、大臣官房文書課兼務を免ぜらる、農林事務官。4月、任特許局事務官兼商工書記官、叙高等官六等、大臣官房文書課勤務(兼)。7月、叙高等官五等。8月、叙従六位
1926年(大正15年)2月、商務局兼務。4月、欧米各国へ出張。5月、米国に於ける製鉄事業の企業、組織及印度に於ける製鉄事業の情況並英本国との斯業関係調査を嘱託
1928年(昭和3年)6月、長女洋子生る。11月、昭和三年勅令第百八十八号旨に依り大礼記念章を授与さる
1929年(昭和4年)4月、木戸大臣官房文書課長海外出張中代理、商工審議会幹事被仰付。8月、陞叙高等官三等。9月、叙従五位。
1930年(昭和5年)5月、工務局兼務、欧州各国へ出張。6月、任臨時産業合理局事務官兼特許局事務官兼商工書記官、叙高等官三等、臨時産業合理局第一部勤務。12月、臨時産業合理局第二部兼務
1932年(昭和7年)1月、任商工書記官兼臨時産業合理局事務官叙高等官三等、工務局工政課長、臨時産業合理局第一部勤務
1933年(昭和8年)2月、兼任外務書記官(〜1934年3月)、通商局勤務。12月、大臣官房文書課長、工務局工政課長兼務
1934年(昭和9年)1月、大臣官房統計課長兼務、統計主任、工務局工務課長兼務。4月、叙勲五等授瑞宝章、従軍記章を授与さる。9月、叙正五位
1935年(昭和10年)1月、対満事務局事務官被仰付。3月、第六十七回帝国議会商工省所管事務政府委員被仰付。4月、商工省工務局長心得、臨時産業合理局第二部長、叙高等官二等、臨時産業合理局第二部長、任臨時産業合理局事務官兼商工省工務局長
1936年(昭和11年)4月、任商工省工務局長兼臨時産業合理局事務官、臨時産業合理局第二部長。10月、満州重工実業部次長として渡満
1943年(昭和18年)10月、任国務大臣、商工次官兼任、叙高等官一等。11月、国務相、軍需次官(〜1944年7月)
1957年(昭和32年)2月、内閣総理大臣(〜1960年7月)。3月、自由民主党大会開催、総裁に当選
1987年(昭和62年)8月7日、死去。享年90。墓所は山口県田布施町及び静岡県御殿場市の富士霊園。
岸がかつて住んでいた東京都渋谷区南平台(地区は松涛)の私邸の隣に世界基督教統一神霊協会(統一教会)があり、しばしば統一教会の本部や統一教会系の反共の政治団体、「国際勝共連合」の本部に足を運んだ [11]。日本での「国際勝共連合」の設立の際に児玉誉士夫、笹川良一と共に岸は協力した。[12]。
1974年5月7日、東京の帝国ホテルで開かれた、統一教会の教祖文鮮明の講演会「希望の日晩餐会」の名誉実行委員長は岸であった[13]。
台湾の蒋介石総統とは勝共連合の設立を通じて親密であり、日本に亡命してきた台湾独立運動(民主化運動)家の強制送還に関与、蒋介石死後も日本における「蒋介石総統遺徳顕彰会」の中心として活躍した。当時、共同通信社の政治記者であった古沢襄は岸の名刺ひとつで蒋介石や息子の蒋経国に会うことができたと語っている[14]。
孫の安倍晋三は自著で「小さなころから、祖父(岸信介)が『保守反動の権化』だとか『政界の黒幕』とか呼ばれていたのを知っていたし、『お前のじいさんは、A級戦犯の容疑者じゃないか』といわれることもあったので、その反発からか、『保守』という言葉に、逆に親近感をおぼえたのかもしれない」と書いている[15]。
CIAに協力することで、児玉誉士夫と共にA級戦犯から外してもらったという疑惑がより強まった。なお、外国から選挙資金をもらうことは、当時も現在も法に違反している。
実家の佐藤家について、自伝の中で「佐藤家は貧乏でこそあれ家柄としては断然飛び離れた旧藩時代からの士族で、ことに曽祖父・信寛の威光がまだ輝いておったのである。また、叔父、叔母、兄、姉など、いずれも中学校や女学校などに入学し、いわゆる学問をするほとんど唯一の家柄だったのである。[16]、[17]」、「佐藤の子供だというので、自然に一目も二目も置いて付き合われたので、好い気になって威張っていた傾きもあった[18]」と述べている。
子供たちの教育はすべて母・茂世の手で行われスパルタ式の教育で信介ら兄弟が泣いたりして家へ帰ろうものなら叱りつけて家の中に入れなかったという。また、佐藤家の家運が傾き貧乏になった時も「ウチは県令と士族の家柄ですからね!」と頑として挫けず、対外的な意地を張り通したという[19]。
大学時代、我妻栄と二人で法律学の勉強に精を出した。お昼の弁当を食べた後や休校ができた時などは大学の運動場の片すみや大学御殿下の池の木などで最近聞いた講義の内容や二人が読んだ参考書などについて議論をたたかわしたものだった。大学2年の時に高等文官試験に合格した。高文試験の成績については「遂に確かめる機会はなかったが相当によい成績であったろうと自信あるものだった」と岸は述べている[20]。
戦後政治史上において、吉田茂とは鋭く対立した岸だが、安保改定に当たっては、同条約締結時首相の任にあった吉田を敬意を表し、神奈川県の大磯町の別荘に隠棲していた吉田の元に度々足を運び、吉田もその都度丁重な礼状をしたため、家人をもって岸邸に届けさせたという[21]。
多くの異名を持った事でも知られる。旧満州国での官僚時代、軍部・財界の実力者であった東條英機、星野直樹、鮎川義介、松岡洋右らと共に、満州の「2キ3スケ」、長州出身の同郷人、鮎川義介・松岡洋右と共に「満州三角同盟」とも呼ばれた。総理辞任後の晩年は、依然として政財界に隠然たる影響力を有した事から、「昭和の妖怪」(元々は西園寺公望の綽名)などと称された。
巣鴨プリズンを出所した当日、岸は次の如く語った。「出て来たばかりで世の中がサッパリわからない。何しろ3年3ヶ月の獄中生活だったからね。2畳の独房だったが食事は十分だった。巣鴨では人間のほんとの姿を見せられた。人間も金ピカで立派な椅子についていては真価を判断することは難しいが、あんな境遇になると素っ裸だから、今まで自分が抱いていた戦犯の諸君に対する印象もいろいろ改められるものがあった。こまったことは月に2回ずつ決まって夢精することだったよ、年甲斐もないとは思うがこればかりは仕様がないんだよ、おまけにあとの洗濯が寒い日などつらくてねー」[22]。
晩年は福田派のプリンスとなっていた娘婿の安倍晋太郎を総理にすることに執念を燃やし、「岸の安倍狂い」と言われた。
1952年(昭和27年)の政界復帰の際に右派社会党への入党を打診したが拒否され、自由党から出馬している。
2006年(平成18年)10月5日、岸の外孫に当たる安倍晋三首相は衆院予算委員会で、菅直人元厚相に東条内閣の商工相だった岸元首相が太平洋戦争開戦の詔書に署名したことへの認識を問われ、「指導者には祖父を含め大きな責任があった。政治は結果責任だから当然、判断は間違っていた」と述べた。
長男:信和(妻・仲子は山口県議会議長を務めた田辺護の二女。田辺は日産コンツェルン創始者鮎川義介の従兄に当たる)
毛利元就が陶晴賢と厳島沖で戦って大勝を収めた際、寝返って毛利方についた船の調達人が“ガン”と称する帰化人であったという。毛利はその功績によって“ガン”を田布施周辺の代官に召したてた。この“ガン”を岸家の先祖とする説がある[23]。母の実家佐藤家は源義経の家臣佐藤忠信の末裔であると伝えられている。佐藤家は江戸時代、代々長州藩士だった。佐藤家の家紋は“源氏車”である。[24]。
岸信介、佐藤栄作兄弟の出身地、田布施町郷土館内に設置。国連平和賞、ノーベル平和賞などの、遺品や関連文書を展示し、両元首相を顕彰している。
岸が晩年の17年間を過ごした静岡県の邸宅は、2003年(平成15年)に長女によって地元御殿場市へ建物が寄贈され、土地は御殿場市の財産区が購入した。現在同市では、2年後の公開を目標に文化施設「東山かくれ家の森(仮称)」として整備を進めている。なお、御殿場市の市制50周年を記念して、2005年(平成17年)10月5日から10月10日まで一般公開された。
^ “小泉・安倍・中川の“政治的DNA” 『歳川隆雄のコンフィデンシャル情報』” 2007年8月26日閲覧.
^ 原彬久「ポスト小泉の麻生氏と安倍氏、祖父が争った国のかたち―闘い方が時代を占う指標に」(『朝日新聞』2005年12月15日夕刊、14面)
『現代法学全集(23) 保険業法・取引所法・税法・担保附社債信託法』(南正樹・星野直樹・栗栖赳夫共著、日本評論社、1928年)
岸信介の後援会誌『風声』に昭和28年第2号から昭和31年第11号にわたって連載された「我が生い立ちの記」の全文から成るもの。
春名幹男『秘密のファイル――CIAの対日工作(下)』(共同通信社、2000年/新潮文庫、2003年)
井上馨 - 伊藤博文 - 大隈重信 - 青木周藏 - 榎本武揚 - 陸奥宗光 - 西園寺公望 - 大隈重信 - 西徳二郎
大隈重信 - 青木周藏 - 加藤高明 - 曾禰荒助 - 小村壽太郎 - 加藤高明 - 西園寺公望 - 林董 - 寺内正毅 - 小村壽太郎 - 内田康哉 - 桂太郎 - 加藤高明 - 牧野伸顯 - 加藤高明 - 大隈重信 - 石井菊次郎 - 寺内正毅 - 本野一郎 - 後藤新平 - 内田康哉 - 山本權兵衞 - 伊集院彦吉 - 松井慶四郎 - 幣原喜重郎 - 田中義一 - 幣原喜重郎 - 犬養毅 - 芳澤謙吉 - 齋藤實 - 内田康哉 - 廣田弘毅 - 有田八郎 - 林銑十郎 - 佐藤尚武 - 廣田弘毅 - 宇垣一成 - 近衛文麿 - 有田八郎 - 阿部信行 - 野村吉三郎 - 有田八郎 - 松岡洋右 - 豊田貞次郎 - 東郷茂徳 - 東條英機 - 谷正之 - 重光葵 - 鈴木貫太郎 - 東郷茂徳 - 重光葵 - 吉田茂 - 芦田均 - 吉田茂
吉田茂 - 岡崎勝男 - 重光葵 - 岸信介 - 藤山愛一郎 - 小坂善太郎 - 大平正芳 - 椎名悦三郎 - 三木武夫 - 愛知揆一 - 福田赳夫 - 大平正芳 - 木村俊夫 - 宮澤喜一 - 小坂善太郎 - 鳩山威一郎 - 園田直 - 大来佐武郎 - 伊東正義 - 園田直 - 櫻内義雄 - 安倍晋太郎 - 倉成正 - 宇野宗佑 - 三塚博 - 中山太郎 - 渡辺美智雄 - 武藤嘉文 - 羽田孜 - 柿澤弘治 - 河野洋平 - 池田行彦 - 小渕恵三 - 高村正彦 - 河野洋平
河野洋平 - 田中眞紀子 - 小泉純一郎 - 川口順子 - 町村信孝 - 麻生太郎 - 町村信孝 - 高村正彦
岸信介 - 三木武夫 - 川島正次郎 - 福田赳夫 - 川島正次郎 - 益谷秀次 - 前尾繁三郎 - 三木武夫 - 田中角栄 - 福田赳夫 - 田中角栄 - 保利茂 - 橋本登美三郎 - 二階堂進 - 中曽根康弘 - 内田常雄 - 大平正芳 - 斎藤邦吉 - 櫻内義雄 - 二階堂進 - 田中六助 - 金丸信 - 竹下登 - 安倍晋太郎 - 橋本龍太郎 - 小沢一郎 - 小渕恵三 - 綿貫民輔 - 梶山静六 - 森喜朗 - 三塚博 - 加藤紘一 - 森喜朗 - 野中広務 - 古賀誠 - 山崎拓 - 安倍晋三 - 武部勤 - 中川秀直 - 麻生太郎 - 伊吹文明
周山会(佐藤派)→※七日会(田中派)、(周山クラブ・保利系→福田派に合流×)→木曜クラブ(田中派)→※経世会(竹下派)、(木曜クラブ・二階堂系→×)→平成研究会(小渕派)、(※改革フォーラム21・羽田系→離党×)→(橋本派)→(津島派)
宏池会(池田派)→(前尾派)→(大平派)→(鈴木派)→(宮澤派)→(※大勇会・河野系→為公会・麻生派)→(加藤派)→(※宏池会・堀内派→丹羽・古賀派→古賀派)→(小里派)→(谷垣派)
十日会(岸派)→党風刷新連盟(福田派)、藤友会-愛正会(藤山派→×)、(南条・平井系→福田派に合流×)、交友クラブ(川島派→椎名派→×)に分裂→紀尾井会(福田派)→八日会(福田派)→清和会(福田派)→(安倍派)→(三塚派)(※政眞会・加藤系→新生党に合流×)→(森派)→(※日本再生会議・亀井系→旧渡辺派と合併×)→清和政策研究会(森派)→(町村派)
春秋会(河野派)→春秋会(森派→園田派→福田派に合流×)、新政同志会(中曽根派)に分裂→政策科学研究所(中曽根派)→(渡辺派)→志帥会(村上・亀井派)、※近未来政治研究会(山崎派)→(江藤・亀井派)→(亀井派)→(伊吹派)
政策研究会-政策同志会-政策懇談会(三木・松村派)→(※松村系→×)→番町政策研究所(三木派)→(※早川系→×)→新政策研究会(河本派)→番町政策研究所(高村派)
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 日本の内閣総理大臣 | 日本の閣僚経験者 | 日本の官僚 (農商務省・商工省) | 日本の国会議員 (1890-1947) | 日本の国会議員 | ファシズム | 太平洋戦争の人物 | 満州国の人物 | 東京裁判 | 山口県の政治家 | 田布施町 | 1896年生 | 1987年没

[ 150] 岸信介 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B



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