美輪とは?
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美輪 明宏(みわ あきひろ、1935年5月15日 - )は、日本の歌手、俳優、演出家、タレント。長崎県長崎市出身。本名:丸山 明宏、幼名 臣吾(しんご)。海星中学を経て国立音楽大学附属高校中退。愛称はマルさん、美輪さん。 1971年までは本名の丸山 明宏名義で活動していた。兄と姉と弟のいる四人兄弟の次男。 美輪の実家は長崎市内でカフェを経営していた(その規模や華美さは当時を知る人達の語り草であったという)。美輪が幼い日を過ごした当時の長崎は、昭和モダンの最盛期で非常に賑わいがあり、また、竹久夢二の長崎十二景そのままに、様々な国籍を持った人々が幻の様に暮らす美しい街だった。 しかし、当時の体制の右傾化・軍国主義化、更には長崎市への原子爆弾投下が、美輪をはじめ、一家を長年苦しめる事となる。父は“敵性文化(を商売にする事)は時局にそぐわぬ”と言われ、カフェを閉店せざるを得なくなり、金融業に転業した。幻の様に美しかった長崎も、原爆投下により本当に幻と化してしまう。当時10才の美輪は、爆心地に近い父方の実家に居たが、奇跡的に無傷で助かっている。しかし、原爆で父の貸付先が相次いで破産・他界した為、美輪一家は貧乏生活を余儀なくされ、加えて、美輪の父の後妻(美輪は2歳の時、病気で母親を亡くしたが、父の後妻は美輪にとっては優しい養母であった)が他界し、後々妻も失踪する(後々妻は父の連れ子である美輪達とも不和だったという)などの不幸に見舞われ、美輪は幼い異母弟達と辛い日々を送った。 終戦後、11歳の時に観た映画に出演していた加賀美一郎のボーイソプラノに衝撃を受け、程なくして声楽とピアノのレッスンを受け始める。海星中学では同期に西岡武夫がいた。エンリコ・カルーソーやベニャミーノ・ジーリの様なオペラ歌手、コンサート歌手を夢見て、高校進学のため15歳で上京する。 1957年、 フランスのシャンソン『メケ・メケ』を日本語でカバーし、大ヒットとなる。元禄時代の小姓の衣装を洋装に取り入れ、レース地のワイシャツなどを身に纏うユニセックスファッションと、「天上界の美」と三島由紀夫が絶賛した美貌で、マスコミから「神武以来の美少年」、「シスターボーイ」と評され一世を風靡する。同じ1957年製作の映画『暖流』(増村保造監督。大映)に歌手で出演しており、カラー映像で50年前の当時の美輪の姿を見る事ができる。 「衣装革命」と称し、始めたこの活動も当初は世間から冷遇され、全国紙に「丸山明宏を芸能界から追放せよ」と言った内容の批判記事が掲載されたり、見も知らぬ人から石やビール瓶の蓋を投げ付けられもしたと言う。(しかし近年ではヴィジュアル系の元祖「美輪様」として大いに尊敬され、ゴスロリ系雑誌にインタビューが掲載される程である) 『メケメケ』以来のブームは1年程で沈静化し、その間に雑誌を通じて同性愛者である事を公表(カミングアウト)した事や、旧来のシャンソンのイメージ(美輪曰く 蝶よ花よ、星よ月よに終始する「おシャンソン」)に無い、自ら訳した生々しい内容のシャンソンを歌った事に対する反発もあり人気は急落する。 そんな逆風の中、作詞作曲活動を開始。今もって美輪の主要なレパートリーとなっている『うす紫』、『金色の星』、『ふるさとの空の下』等はこの頃、既に作詞作曲していた。しかし、歌い手が自ら作詞作曲した歌を唄う事には当時の聴衆からも歌謡界からも理解を得られず、レコード化すらできなかった。美輪曰く「人様の情けに生かされた」不遇の時代が続いた。 しかし1963年には中村八大らの助力により日本初の全作品自らの作品によるリサイタルを開く等、徐々に理解者が現れ始め、翌1964年には『ヨイトマケの唄』を初めてステージで披露する。 1966年、前年の内にレコード化されたヨイトマケの唄(『ふるさとの空の下』とのカップリング)が注目され人気が再燃。こうした事から「日本のシンガーソングライターの元祖」と言われている。 1967年、寺山修司の演劇実験室・劇団天井桟敷旗揚げ公演で、寺山が美輪の為に書き下ろした『青森県のせむし男』や『毛皮のマリー』に主演。 更に1968年、三島由紀夫に熱望され舞台『黒蜥蜴』(くろとかげ、原作・江戸川乱歩、戯曲化・三島由紀夫)に主演し、歌舞伎、新派の女形に続く現代女形の創始者として高い評価を得る。この『黒蜥蜴』は深作欣二により同年、映画化され、舞台同様にヒットした。また1990年代初頭にはニューヨーク、パリなどでこの映画が上映され、『ニューヨーク・タイムズ』誌にも大々的に取り上げられる程のヒットとなり、ニューヨークでは美輪を英語でトカゲを意味するリザードにちなんで「リズ」と呼んでいた(「リズ」は元来エリザベス・テイラーの愛称)。 『黒蜥蜴』以降も『椿姫』、『マタ・ハリ』、ジャン・コクトー原作『双頭の鷲』(王妃の演技に対し、日本初の女王役者誕生と賞賛された)といった舞台や『黒薔薇の館』、『雪之丞変化』等の映画・テレビドラマでの主演を続ける。また1970年からはTBSラジオ「ラジオ身の上相談」を担当する様になったが、その回答の的確さから芸能人が担当する人生相談としては異例の25年という長期に渡り続いた。 1971年、読経中に『美輪』の字が浮かび、神様が下さった名前だと思い、姓名判断を調べると完全無欠な画数だった為丸山明宏から美輪明宏に改名。女優引退宣言(女性役を演じなくなるので、当時こう表現された)をし、舞台を離れ歌手活動に専念し始める。銀巴里やジァンジァンでのライヴや全国各地でのリサイタルを精力的に行い、『白呪』等のアルバムも多数発表した。また男性役では映画(1977年 井上ひさし原作『日本人のへそ』)やドラマ(1976年『さくらの唄』)に出演している。 1978年『枯葉の寝床』(原作 森茉莉)で舞台活動を再開するが、この頃より慢性気管支炎になり、年々悪化。俳優、歌手活動に支障をきたしはじめ、トークショー等のテレビ出演を控えるようになる。しかし、その後も演劇では1979年にエディット・ピアフの生涯を描いた、自作自演となる『愛の讃歌』を初演したり、1980年の「メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行」では夜の女王役を好演している。 1983年には『毛皮のマリー』や『青森県のせむし男』を再演した。更に1984年には『双頭の鷲』を再演するが、体調は悪化する一方で1985年の『大典礼』(原作・演出 フェルナンド・アラバール)を最後に1993年の『黒蜥蜴』再演まで再び舞台から降りる事となった。病状は深刻で、激しい咳のため肋骨が折れたこともあったという。 歌手としては1984年にパリで、1987年にはパリ、マドリッド、シュトゥットガルトでリサイタルを行い『ル・モンド』、『リベラシオン』を始め多数の新聞・雑誌に紹介・絶賛された。また1986年からは現在も続くPARCO劇場でのロングリサイタルが始まり、それ以外にも全国各地でのリサイタル公演を行い、舞台に立てなくなった後も切れ目なく活動を続けた。 1990年、東京芸術劇場のこけら落し公演『マリー・ローランサン』を演出。この時既に『黒蜥蜴』再演の企画は持ち上がっていたが、体調面から断念している。またこの年、40年近く唄い続けて来た銀巴里が閉店となり、美輪は最後の日の「さよならコンサート」で自ら作詞作曲した『いとしの銀巴里』を涙ながらに歌い上げた。この模様を各メディアは挙って大きく報じ、また翌1991年の映画『黒蜥蜴』のニューヨークでのヒットなども重なり、この頃から美輪が言う「メケメケ、よいとまけ、黒蜥蜴に続く四回目のブーム」の時期が訪れ、テレビやCM等への出演が増え、リサイタルのチケットも入手しづらい状況になって来る。 1993年、1985年の『大典礼』以来舞台に立てない程に悪化していた持病が前年に奇跡的に完治した事で、24年ぶりに待望の『黒蜥蜴』を再演。前売りのチケットは発売日当日に完売するなど世間の注目を集めた。またこの再演時には自ら主演、演出、美術、衣装、選曲を担当し、以降上演される舞台は1994年、1996年の『毛皮のマリー』以外、全て主演する美輪自身の演出となり、多くの場合 美術・衣装・選曲も務め、脚本・振り付け(美輪明宏版 椿姫)原作(愛の讃歌)を兼ねた作品もある。 1994年には『毛皮のマリー』を海外から演出、照明、音楽など当代一流のスタッフを招き再演し、話題になる。この劇場側が用意した形式は1996年の再演時にも引き継がれるが、美輪曰く「演出があんまりひどい時は私が手直しした」そうで、結局2001年の再演では自ら初演出する事となる。キャストも美少女を含め全員男性で演じる本来の形式に戻され、決定版と言える公演となった。 1996年、三島由紀夫が30年来熱望していた美輪演出・主演による『近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町』をついに上演。三島を歓喜させた当初のプラン通り、ダリと尾形光琳を取り入れた舞台デザイン(葵上)や99歳の老婆から19歳の美女への早替り(卒塔婆小町)など趣向を凝らした舞台となる。また、その年の秋には『愛の讃歌』を17年ぶりに再演した。 1997年、13年ぶりの『双頭の鷲』再演で読売演劇大賞優秀賞を受賞。 映画『もののけ姫』では山犬神、モロの君の役で声優を務め、東京スポーツ新聞社主催映画大賞(審査委員長 北野武)助演男優賞を受賞する。 1998年には再び『葵上・卒塔婆小町』を上演、秋にはデュマ・フィス原作「美輪明宏版 椿姫」を30年ぶりに上演し、いずれも好評を博す。この年2本の芝居を上演したのを最後に翌年の『双頭の鷲』以降、舞台作品は年1本の上演ペースとなる。一方、美輪が舞台活動を再開した1993年以降、芝居のスケジュールとの調整が必要となり公演が無い年(1996、1997年)もあったPARCO劇場でのロングリサイタルは1998年以降「音楽会」と名を改め、毎年行われる様になり、以来、美輪のステージは春先の芝居、秋の音楽会で定着し、現在に至っている。 2000年、銀巴里閉店後、唯一のライヴ活動の場となっていた渋谷ジァン・ジァンが閉場となり、2000年3月29日が美輪のジァンジァンにおけるラストライヴとなった(閉場は2000年4月25日)。 一方でこの年、名作として名高いアルバム『白呪』が再発売され、桑田佳祐がフジテレビ系『桑田佳祐の音楽寅さん〜MUSIC TIGER〜』内で『ヨイトマケの唄』を歌った(美輪はそれをとても喜んだ)ことが話題となり、元祖シンガーソングライターとしての美輪に注目が集まり始める。これ以降も槇原敬之や米良美一を始めとして、多くのアーティストによる「ヨイトマケの唄」の優れたカバーが発表されている。長く放送自粛となっていた民放各局(NHKでは自粛対象ではなかった)で放送される機会も増え、ついに美輪自身もテレビ東京『たけしの誰でもピカソ』内でこの曲を歌い、オリジナルシンガーならではの歌声を聴かせた。 2002年、芸能生活50周年を迎えた。この年には三島由紀夫の三十三回忌に際して「近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町」を再演している。 2005年、『オーラの泉』が始まり、「愛の伝道師」として人々に生きる知恵を伝えている。そして現在、芸能生活で通算五回目のブームの時期になっている。 かつて実家が料亭やカフェ・銭湯など手広く経営しており、美輪はそこを遊び場として育った。そして、そこでボーイや女給・客達により繰り広げられる様々な人生模様を見る内、人を見る目が自然に養われたという。 貧乏を経験している事から、駆け出しの役者などの面倒見がいい。秋野太作は新人のころ美輪に「あなたお腹すいてるでしょう」と言われ、うな重をおごってもらった事がある。渡辺えりは「化粧をしないブスは漬物石にもならないわよ」と美輪に言われた上に楽屋で美輪に化粧を施された事がある。 大変義理堅い人物としても知られ、マネージャー、舞台スタッフ、バックバンドのメンバー、レコード会社の担当者など、30年、中には40年以上の関わりを持つ関係者が大半である。 美輪明宏に見初められた人(横尾忠則・菅原文太・豊川悦司・渡辺えり・ビートたけし・タモリ・明石家さんま・爆笑問題・吉井和哉ら)は必ず売れるという伝説がある。 「天草四郎ならびに神功皇后の生まれ変わり」であると自称している。またフランス公演の際、インタビュー中「私の前世はサラ・ベルナール」と発言し現地の記者から喝采を浴びたと言う。地元の新聞・雑誌にBrava Miwaと賛辞とともに紹介された。 近年は『オーラの泉』の番組の影響もあって、非常に真面目な人物として認識されがちだが、実際にはウィットとユーモアに溢れた人物でもある。かつて『さんまのからくりTV』に出演した際には珍答・奇答を連発し、正解はなかったが "ナイスなボケ" に対して付与される「ナイスボケ」を4つ獲得し優勝した事もあった。また『トリビアの泉』に出演した際には「仮面ライダーとウルトラマンの共演作があった」というトリビアを「こんな馬鹿馬鹿しいの大好き」と笑い、満へぇを打った。また、挨拶で「白鳥麗子でございます」「宮沢りえでございます」「もののけ姫でございます」と発言する事もある。 戦争経験者ゆえ、戦争に関するものは悉く嫌悪する。「トリビアの泉」では「タイ王国では徴兵の対象をくじ引きで決める」のトリビアが出た時には、顔を曇らせた。また、テレビの対談番組やラジオの冠番組で戦後言い訳ばかりに終始したとする帝国陸軍の将官の例を持ち出し、戦争を肯定・賛美する極右・保守論客に対して罵倒交じりの強い調子で批判していた。 入浴時には肌の為に石鹸を使用せず伯方の塩で身体を洗う。『トリビアの泉』で「伯方の塩は国産ではない」というトリビアを知ると、がっかりしたものの「海は世界でつながっているものね」と発言した。 三島由紀夫が自殺した翌年=1971年(自身36歳)頃には一気に白髪になったと語っている。長らく髪の毛を黒く染めていたが、最近は風水に基づき黄色く染め、更に絵画モナリザのようなロング・ヘアーにしている。従って現在地毛は黄色である(テレビで時折見かける栗色の短髪はウィッグ(=かつら)を被った姿)。自身の黄色く染めた髪の毛を指し「前世はピカチュウもしくはトウモロコシ」と発言していた。 また自宅で飼っていた犬の名前が「そうめん」、「ラーメン」、「ジャージャーメン」、「アラレ」、「ピカチュウ」だった時もあったらしい[要出典]。 好きな食べ物は?との問いに、「人の悩みを食べて、涙を飲んで生きてるの」と発言していた[要出典]。実際は、出身である長崎のちゃんぽんやカステラが好物である。 現在の愛車はトヨタ・クラシック。限定100台の高級車である。他にジャガー(ピンク色)、日産フィガロがある。 作家の佐藤愛子が北海道の自分の山荘でラップ現象などが発生した事を美輪に相談したところ、その山荘の状況を言い当て「あなた、大変な所に家を建てちゃったね」と佐藤愛子に言った事があるなど、霊感があり、数々の霊現象の体験があるという。また、占いや迷信に関しては「日本全国『道場破り』をした事があるのよ」といい、あらかたの占い師や霊能者を否定する。 自らが同性愛であるとカミングアウトした為に排撃された事と、裕福で厳格な家庭に育った友人が振った相手(男性)から、同性愛者だと暴露・非難されたがために家族会議にかけられて吊るしあげにあい、結果自殺してしまった体験から、LGBTのために戦おうと宣言。LGBTの権利拡大に心血を注いでいる。 ファッション評論家など批評家に対して厳しい批判を行う(小林秀雄については、その評論が時代や内容を離れても、一個の芸術作品として通用する文章だとして評価している)。また、現代建築家達についてもその建築が機能性のみの造形であるなどとして、厳しく批判している。 銀巴里時代から現在まで、数多くの作家(三島由紀夫、江戸川乱歩、澁澤龍彦、吉行淳之介、瀬戸内寂聴、なかにし礼、大江健三郎など)や画家(東郷青児、中原淳一、横尾忠則など)、演劇人(17代目中村勘三郎、18代目中村勘三郎、杉村春子、初代水谷八重子、2代目水谷八重子、寺山修司、蜷川幸雄、坂東玉三郎、渡辺えりなど)、作曲家(池辺晋一郎など)、歌手(フレディ・マーキュリー、吉井和哉など)と稀有な才能を持った芸術家との交流の経験や数々の芸術に触れた事が現在の幅広い活動に繋がっていると言える。 その監督作品RAMPOが美輪から絶賛されながら、松竹を追放された奥山和由に対しては、その後奥山が設立した会社「チームオクヤマ」の名付け親になるなど応援し続けている。 華道家の假屋崎省吾が美輪の大ファンで美輪明宏のおっかけ(本人公認)を自認しており、美輪から「美をつむぎ出す手を持つ人」と評される事を誇りにしており、美輪邸に花を飾らせてもらった事がある。 交友関係のあった作曲家、故古賀政男の最後の門下生であった佳山明生の名付け親でもある(本名の丸山明宏より苗字と名前のそれぞれ一文字ずつとっている)。 2006年8月19日、NHKのスポーツ番組にゲスト出演した際、第88回全国高等学校野球選手権大会の決勝戦(駒大苫小牧(南北海道)対早稲田実業(西東京))について、アナウンサーからの勝利予想の質問に対し「どちらも頑張っているので、引き分けになってほしい」というような回答をした。翌日の決勝戦では延長15回1−1の引き分けになり、翌日再試合となった。 また、斎藤佑樹投手の人柄を絶賛している。 SMAP×SMAPで、中居正広の前世がピカソであると発言したが、実は中居が生まれたころピカソはまだ生きていた。 日本人のへそ 1977年 須川栄三監督 日本ATG 会社員、偽学生=ヤクザ、助教授の3役(男女登場人物全員同性愛者という状況下で唯一のノンケの男性として困惑する場面まである) 非情のライセンス 第23話「兇悪のシャンソン」(1973年9月6日、東映 / NET) - ICPO捜査官・サリー丸山役 「爆笑問題の!ニッポン民俗学〜霊魂と死についてマジメに語ろうスペシャル」(2005年10月11日TBSテレビ) (井筒和幸・井上ひさし・香山リカ・姜尚中・木村裕一・黒柳徹子・猿谷要・品川正治・辛酸なめ子・田島征三・中村哲・半藤一利・ピーコ・松本侑子・森永卓郎・吉永小百合・渡辺えり)『憲法を変えて戦争に行こう―という世の中にしないための18人の発言』(岩波書店[岩波ブックレット],2005年,ISBN 4000093576) カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 日本のシンガーソングライター | 日本の俳優 | 日本の演出家 | オカルト | 被爆者 | LGBTの人物 | 長崎県出身の人物 | 1935年生 |
[ 11] 美輪明宏 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E8%BC%AA%E6%98%8E%E5%AE%8F
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この本は三日前に美輪さんから貰った。三島由紀夫の近代能楽集『葵上・卒塔婆小町』をPARCO劇場に観にいって、楽屋をたずねたときのことである。 舞台はすこぶる充実していて、美輪さんの演技も演出もいよいよ佳境に入っていた。これは演技賞ものだとひとしおの飛来を感じたが、「そりゃ無理よ、だって批評家なんて来ようとさえしてないんだもの」。美輪さんは芝居が終わった直後の疲れも感じさせずに、いつものようにホホホと笑った。 そのあと、あれこれ歌舞伎や新派の話やら昨今の惨状ニッポンの話やらを交わし、そろそろ辞そうとしたら、「あら、この本まださしあげていませんでしたわね」と、あいかわらずの綺麗な日本語で、如意輪観音の膝のまるみのような笑みを浮かべ、本書を手渡してくれたのだ。 赤と金の装禎である、総ルビである、岩田専太郎・田中比左良・富永謙太郎らの懐かしい挿絵が散っている、です・ます調のおくゆかしくもラディカルな語り口調になっている、そういうこともさることながら、全編がいちいち頷ける「正負の法則」に溢れていて、気持ちがよくなった。 実は、PARCO劇場に行くとき、ぼくの体調はいささかおもわしくなかったのだが、芝居を観ている2時間半くらいのうちに、なぜだか気持ちよくなっていた。楽屋で話していると、さらにハイにさえなった。 こういうことは美輪さんと出会っているとしょっちゅうおこることで、それをもってすぐに「ヒーリング」とか「癒し系」という言葉をもちだす気はないけれど、美輪さんが類い稀な念彼観音力の持ち主であって、かつ「そこにさしかかるもの」には無類の優しさをもって抱擁する大天使らしき一族の何者かであろうことは、なにもぼくだけが感じてきたことではあるまい。 以前に、田中優子を公演後の楽屋に連れていったときは、目の前に美輪さんを前にしただけで涙を溢れさせていた。声も嗚咽したままだった。そのときの短い会話では、美輪さんはあることについて、「ええ、そういうことって、そう、あるのよねえ」と包んだだけなのだ。たったそれだけだったのに、あとで彼女に聞くと、「美輪さんの前ではすべてのことが了解されるんだってことがすごくわかったから。この優しさって何だろうと思ったら、泣けてきた」と言っていた。 だから、ほんとうは誰しもが美輪さんと出会うべきなのである。実際にも美輪さんは辻説法をも辞さない人で、どんな人たちともよく喋る。また言いたいことは歯に衣を着せない。 が、時間は足りないし、スケジュールはつまっているし、ファンというものは勝手気儘の傍若無人なもの、いつも美輪さんが相手をするというわけにはいかない。 それに、なんといっても美輪明宏は自身が稀代格別の表現者なのである。そもそもその存在そのものがジェンダーを越えているだけでなく、歌も演劇も、所作も台詞も、加えて姿も形も、この世のものではない美しさに満ちている。芍薬(しゃくやく)が露を払って零(こぼ)れた、牡丹が花車となってぐらっと動いた、白蓮が闇の帳(とばり)を破ってぬっとあらわれた、なんてものじゃない。そばで一緒にいるとよくわかるのだが、まさに一挙手一投足、その笑みや目尻や指先のひとつひとつが、たえず李白の詩魂であってリルケの詞華であり、蕪村の俳諧でありつつボードレールの悪の華なのだ。 こういう美輪さんの表現世界については、その歌、その舞台、その声、その演技について、いちいち世間のほうでちゃんとキャッチウェーヴしなければいけない。そしてその感想を美輪さんにも、世間にも、返していかなければいけない。日本はそういうことを、どうもほったらかしにしすぎてきたようだ。 いつもおもうことだが、美輪さんの舞台はクロージングやカーテンコールがこのうえなくも極上である。 それまで涙を堪えてきた者も、ここにいたって玉の緒で縛ってきた感情がついに解き放たれ、目頭がぼうっと熱くなる。ぼくもむろんそうである。そこまではいいとして、そこで会場が明るくなってぞろぞろとロビーに、ホワイエに、街に出る段になると、誰もが急に素知らぬ顔に戻ろうとする。だっておまえら、美輪明宏を体験したんだろう。譬えようもない感動がやってきたんだろう。隠すことはない。そういうときは、互いにその感想を露呈すべきなのだ。 まあ、こういうことが繰り返されるので、業を煮やして美輪さんがときどき本を書くことになるわけなのである。 さて、本書に書いてあることは、ぼくが数十年をかけて感じてきた価値観のエスキースを、いともやすやすと披瀝したものになっている。それは「負の先払い」ということだ。 その「負の先払い」について、美輪さんは実に丹念にいろいろの例をおもしろおかしく、ときに夜叉般若になり、ときに菩薩明王になって綴っているので、忖度安易に要約すべきでないのだが、ここではセイゴオ流に要約編集をして諸兄諸姉にその入口を指し示すことにする。気になれば、ぜひとも赤と金の一冊を手にしてもらいたい。 これは、神様にこっそり内緒でつくった人生のカンニングペーパーなのである。そのペーパーには、世の中には「正と負」というものがあって、この正負の両方をそれぞれどのように見るか、見立てるかが、その人間の魂の問題のみならず、人生全般を決定的に左右すると書いてある。これが正負の法則だ。 このことを理解するには、まず「儚さ」を知る。人生そのものが儚く、成功が束の間のもので、どんな充足も失意も現状からは決して窺い知れないものだと思いなさい。美輪さんは、まずそこを言う。 たとえ合格や儲けや結婚が正に見えたところで、その価値はいつまでも同じように続くわけではなく、たとえ病気や借金や裏切りにあろうとも、それだけで負の不幸だとはいいきれない。「はか」とは日本中世の人生の単位であるけれど、だから「はかがいく」「はかばかしい」とは、いろいろなことがうまく進捗することではあるけれど、その「はか」がたとえうまくいかずとも、それを「はかなし」と見て、無常や儚さという美を立ち上げていったのが、かつての日本人だった。 いま、その「はかなさ」を知ることをみんなが恐れるようになっている。これはいけませんというのが美輪さんの出発点なのだ。 正があれば、必ず負がやってくる。負を避けつづけようとすればするほど、正は歪んでいく。ここは、おおきに見方を変えるべきなのである。まずは負を先払いする気持ちが必要なのである。 世の中、光があるから影がある。夜があるから昼がある。歴史があって現在がある。資金が流れるところがあるから、溜まるところもある。それで溜めておけば勝ちなのかといえば、まとめて投資した土地が一気に下落してパーになることもある。 いつまでも正が正であるとはかぎらない。すべてがダメということもありえない。絶対の孤独もないし、長期にわたる至福というものもない。孤独なときはそれなりに誇らしく孤独であればよく、そんなときにつまらぬ相手と連(つる)むことはない。 万事は相対的なのである。惚れすぎれば憎さも募るし、子供のころは憎かった親が、いつしかありがたくなるときもある。巨乳に憧れたところで、やがて歳をとれば巨乳はかえって垂れ萎んで、自分でもぞっとするほど醜悪になる。最初から小さなおっぱいならそういうことはない。正負の見方を変えるべきなのだ。 そこで美輪さんは、「前もって負をもちなさい」という画期的な方法を提示する。「そこそこの負を先回りして自分で意識してつくるといいでしょう」というふうに言う。 もともと美輪さんが生まれ育った長崎の家は、まわりが女郎屋や遊郭で囲まれていた。貧富の差も激しかった。そこでは「美人(ト 花街では美人は最初は売れっ子になるものの、たいていはしだいに落ちぶれる。病気にもすぐかかる。それにくらべて貧しい女たちはよく働き、体も丈夫で、そこそこの暮らしで満足できている。美輪さんはいやというほど、そういう例を見て育ったようだ。 それだけでなく、美輪さん自身の人生がめちゃくちゃに苦労を負いつづける日々だった。女の子っぽいというだけで化け物扱いをされ、つねに揶(から)かわれ、徹底的にいじめられてきた。やっとデビューしても、行き倒れになったこともあれば、シスターボーイと日陰者扱いもされた。 そうしたなかで美輪さんは、クラシックの音楽修行からシャンソンに転出し、さらに自分で歌をつくるところまでこぎつける。その変わり者ぶりが江戸川乱歩・川端康成・三島由紀夫の目にとまることになったわけではあるが、それは世間が正の美輪明宏を認めたわけではなく、負をおもしろがったともいえた。 美輪さんは自身の来し方をよく見据えて、世の中を見る。天界から人界の評価観と価値観を見る。美輪さんを称賛した人々にも毀誉褒貶があることを見る。美輪さんを遠ざけた者たちのその後の生き方を見る。そして、誰もが見過ごしてきた重大な見方に気がついていく。 なぜ、そういうことが美輪さんに集中して深化したかということは、いまさらぼくが説明するまでもないだろうが、たとえば、いちはやく美輪さんを評価した川端・三島の二人が、二人ともに自害したなんて、いったい他の誰に降りかぶさるだろうかということを思い合わせただけでも、美輪明宏にして語りうる人生哲学があってよろしいということになるはずなのだ。 こうしたすべてを観察し体験してきた美輪さんは、あるときハタと悟ったのである。 なんだ世の中、正だけでは動かない。負だけがダメだということじゃない。そこには正負のめまぐるしい変転があり、正負の端倪すべからざる取引がある。 しかし、世の中はいまや正常値ばかりが社会の全面で登録されるようになった。法律的に正しいものだけが罷り通っている。健康という正の基準が決まり、二酸化炭素やPCBの安全比率が決まり、食品の賞味期限が決まっていった。精神さえ正常が尊ばれ、異常は犯罪者としてすら負とみなされる。なんでもが正、大事なことはみんな正。そうでないものは、すべてが負に貶められるばかりなのである。 これでは当然ながら、みんなが挙って正を求めることになる。みんなが中流の正の席に着きたいと争い、みんなが正の生活を貪ることになる。ところが、そんなことはとうてい不可能なことなのだから、そのうちの多くの者が突然の負に出会って傷ついていく。その傷ついた親のもとに育った子にはトラウマが残っていく。 それでいいのか。そんなニッポンでよろしいのか。誰もが幸福になる日本構想なんて実現できるのか。みんながみんな正になれるのか。美輪さんはここで断固として、ベルカントで叫んだのである。「これは、どこかが間違っている!」。 かつて、童謡というものは「おうちはだんだん遠くなる」と歌ったものだった。「赤い靴はいてた女の子」は「異人さんに連れられて行っちゃった」のである。 金襴緞子の花嫁人形はしくしくと泣き、叱られれば町までお遣いに行かなければならず、雨が降っても傘はなく、紅緒の木履(かっこ)の緒は切れる。動物にだって、悲しいことも儚いこともおこっていた。ウサギは木の根っこに転び、ちんちん千鳥は泣くばかり、歌を忘れたカナリヤは後ろの山に棄てられ、背戸の小薮に埋(い)けられた。 大正期はこういう童謡を、北原白秋・野口雨情・三木露風・西条八十らの大人たちが、全力でつくっていたものだった。そのことが何を意味するかは、ぼくも『日本流』(朝日新聞社)の序章をつかっていろいろ書いておいたけれど、一言でいうのなら、これは子供たちにも正ばかりの社会ではなく、負の社会や負の人生や、負の一日だってあるということを、中山晋平や本居長世の曲にのせて歌っていたということなのである。 いまは、それがまったくなくなった。誰もが同じ正を求めて、エルメスを買い、グッチに群がり、かっこいいベッドを買って、おいしいランチの自慢をしあう。 女の子は美白じゃなければダメ、子供はいじめるのもダメだが、いじめられるのもダメ、英語が喋れなければダメ、だから第二公用語にしてでも英語を喋れるようになるのが正、オリコンチャートの上位に上がった歌だけがヒット曲で正・・・などなど。これでは、オリンピックで負けた者はうなだれ、リスラ社員は戸惑い、いい小学校に上がれなかった親は他人の子を殺したくなり、マスコミはヒーロー・ヒロインを探すか、そうでなければアンチヒーローばかりをくりかえし映像にする。 これでいいはずはないのだが、ではどうすればいいかということは誰もがはっきり提示していなかった。 負を買いなさい。先に負をもてばいいじゃないですか。誰にだって負はあるんです。それをちゃんと自分で意識しようじゃないですか。 そう、美輪さんが言い出したのだ。これが正負の法則であり、ぼくがやたらに気にいっている「負の先払い」というものだった。 美輪さんについてはまだまだ伝えたいことがあるけれど、いささか長くなってきたので、またの機会としておこう。「負の先払い」についてももっと説明をしたいが、このことについては、これまで「千夜千冊」でも何度かふれてきたし、これからも書きつづけるだろうから、それにいまぼくは日本の山水画について「負の山水」ということをめぐった一冊の本を書いたので、それを読んでもらうことにする。 美輪さん、先日はどうもありがとうございました。また、NHKでは『白月』を、また鏡を、ありがとうございました。明日の舞台も、華麗に激越に、正負に満ちて、そして恙なく盛況であらんことを。いつか二人で辻説法に出る日があるやもしれませんね。それでは、また。 |
[ 12] 松岡正剛の千夜千冊『ああ正負の法則』美輪明宏
[引用サイト] http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0530.html
