友也とは?

高石友也は日本のフォークの黎明期にリーダー的存在として活躍したシンガー・ソングライターだ。当時フォークといえば「ブラザーズフォー」とか「ピーター・ポール・アンド・マリー」、「ジョーン・バエズ」など、どちらかというと品がいい音楽だった。ボブ・ディランがようやく認められてきて、フォークは若者が主張する音楽として学生たちの間でアンダーグラウンドとして浸透していった。高石友也はそんな中で先駆者的存在であった。
といっても私が彼の存在を知ったのはずっとずっと後のこと、1967年にフォーククルセイダーズが「帰ってきたヨッパライ」で世の中に飛び出してようやくアングラフォークというものの存在を知った。フォーククルセイダーズに続けとばかりに出てきたのが彼、高石友也の「受験生ブルース」や「ケメ子の唄」なんかだった。
私にとって高石友也は十才ほど先輩である。どうも馴染めないでいた。その後岡林信康、高田渡や五つの赤い風船などが出てきて、高石友也は彼等の中心的な存在であるらしいということは分かっていたのだが、当時から引き籠もりであった私はコンサート(当時はライブをこう呼んでいた)などにはいっさい行かず、テレビとラジオ、そしてレコードだけを情報源にしていたために彼等の本質を知る事なく現在まで過ごしてきたわけである。
30年の時を経て、小野アキラさんが送ってくれたこのライブを聞いて私は高石友也という人の凄さに驚いた。小野さんも私と同じ歳である。彼がこのライブを聞いたのが高校三年の時、これが切っ掛けで音楽の世界に生きることを決心したという。いささか大げさに聞こえるかもしれないが、このライブにはそれに値する凄さがあると思う。もし、私がこういうライブにあの頃接していたら、ずいぶん変わっていたのではないだろうか。そんな気がするのである。
高石友也のライブを聞いて思うのは、「歌い手」というものの存在についてです。彼がどんなに受験生の立場になって「受験生ブルース」を歌っても、彼の本当の立場は大学生の肩書きを持ついちフォークシンガーです。「鳶職暮らし」をいくらうまく歌っても本物の鳶職の人には敵わないでしょう。そんなことはたぶん炭坑の町に暮らす会場の人達が一番感じていたことではないでしょうか。それでもなお「歌い手」であることの素晴らしさはそれを歌える、という行為そのものにあるのではないでしょうか。彼は世間の中で弱い立場の人間の心にスポットライトを当てて歌っていきます。しかしそれは自己憐憫や同情といったものではなく、その哀しさ、辛さの中からなにか力強い人間の息吹きを感じさせるのです。それが「歌い手」高石友也の存在理由でもあるような気がします。
彼が先駆者としてプロテストソングと言われた一連の自己主張するフォークソングのブームが終わると、音楽の世界に若者の唄というものが定着して歌謡曲と融合していき、彼がもっとも嫌った体制に組み込まれていきます。それでも彼ほど強烈ではなくても、どこか片隅に大きなものに対する反発を潜めてニューミュージックというものはあったと思います。時代が移っていく中で常に新しい若者がそれなりの主張を表現できる時代は続いているわけで、その切っ掛けを作った意味は大きかったのだと思います。
一つのブームが終わった後、高石友也は「ナターシャセブン」というグループと共に、たぶん彼が本来やりたかったのであろう「ブルーグラス」を続けています。私がもらった葉書にも今年の夏は「ブルーグラス」をやりたいと書いてありました。彼はあの時代、一つの役割を背負って一生懸命僕達を引っ張ってくれました。そのことに対して改めて感謝したいと思います。

[ 10] 高石友也ライブ・1969頃・北海道、芦別にて
[引用サイト]  http://www.good-weather-studio.com/720/takaishi.html



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