残さとは?
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|循環ネットって?|活動の紹介|活動情報|入会案内|ボランティア案内|掲示板|リンク集|E-mail|HOME| 長岡市内88の小・中学校、保育園から、給食で出る野菜クズや調理残さを回収しています。生ごみを焼却処分することは環境にも悪い影響を与え、処理にも経費がかかります。回収した残さは、市内にある3つの畜産業者の協力で、豚やミンクの飼料として利用されています。 長岡市内の小・中学校、保育園を、月曜から金曜日に回収しています。児童・生徒数や効率的に回収できる順路を考え、 生回収の残さは各学校の調理員さんに協力していただいて、餌として使えるもの、使えないものに分けてもらっています。また、残さ量の少ない学校には、EMぼかしという有効微生物群を培養したものを利用してもらい、週に1度回収しています。 回収するには、調理師さんの協力が欠かせません。いかに食べ残しを少なくするか、腕の見せ所です。 残さは80%が水分なので、飼料として利用するには水分量を少なくする必要があります。調理員さんにも水をよ〜く切ってもらっています。量が多いのでこれがけっこう手間なのです…。 出た調理残さはボランティアさんとスタッフで回収して回り、畜産業者に持っていきます。箱の重さは重いもので、10kg前後。結構大変です。ボランティアさん1人あたり、週に1回程度回収に協力してもらっています。心強い味方です。 回収した残さは、市内にある3つの畜産業者に運びます。「餌を持ってきてもらうなんてずいぶん楽ね〜」と思われるでしょうが、畜産業者にとってはここからが大変なのです。残さは全体の80%が水分で、しかも栄養分が一定でないので、餌として利用するためにはこのままでは使えません。しかし、畜産業者さんの努力によって、豚・ミンクは元気に大きくなっています。 冬が近づくととてもふかふか。真っ白できれいです。しかし、歯が鋭いので「カワイ〜!」となでるのは危険です。 ※新潟県中越地震の被害により、牛の飼育が困難になったため現在は飼育していません。(2004年11月) その他に育成豚用(タンパク質が多い)のバケツがあります。学校以外の事業所からも回収をしていて、それらも残さごとに分けています。 回収した残さをバケツに空けていきます。1回の回収で600kgになることもあるので、空けるのもひと仕事です。 ぼかしは、もみがら、米ぬか・糖蜜・EM菌を混ぜて培養させて作ります。そのままだと保存が効きにくいので乾燥させたものを使っています。一般の家庭でも残さを堆肥にする時に利用されています。 バケツに入れ終わったら、EMぼかしをかけ、ぼかし漬の状態にします。こうすることで有効微生物が残さを発酵させ、家畜の肉質や糞尿のにおいの改善に効果があります。ちょうど漬け物など、発酵食品とと同じ状態です。人間にとっても発酵食品はいい影響がいろいろあると言われていますよね? 残さはしばらくバケツに入れておき水を切ります。その後おからやせんべいくずなどを混ぜ、菌体処理機で乾燥させます。残さを餌として使うまでには、繰り返し水を切る工程があります。 上の方にある四角い口から残さなどを入れ、何枚もの刃を回転させて、裁断・撹拌します。バーナーで下から加熱して乾燥・殺菌させます。加熱時間は120℃で約1時間。左の写真は火をおこす部分。この写真ではよくわかりませんが…。燃料には廃食油を利用した改質灯油を使っています。 。バケツから処理機に運ぶにも時間がかかります。何用の餌にするかによって、栄養の配分を考えながら、給食の調理残さ以外にもいろいろなものを混ぜていきます。ここでもEMぼかしやイースト菌などの発酵資材をいれます。菌体処理機への投入から加熱・冷却・排出までには、約3時間かかります。そして乾燥させると、1tの生飼料材が約5分の1の重量になります。 乾燥させた飼料材は、大きな箱に入れ、ビニールシートで空気になるべく触れないようにした状態で発酵させます。期間は4日〜1週間程度。日にちの経ったものから順に使っていきます。 |
[ 176] 活動の紹介|学校給食調理残さリサイクル
[引用サイト] http://park16.wakwak.com/~jnet/katudou/001.html
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泊言葉んでぃ言いしがよー 我ったー子供そーいに 子供るやぐとぅ 言葉んでぃいしぇー 家族とぅん 友達とぅん 隣近所ん むる沖縄口びかー使とーしぇーやー。うれー外ぬ人達とぅ話しーするちもーあらんぐとぅや かげーうちぬ話しるやぐとぅ うりが泊言葉でぃいる感覚 ぬーねーんばーてーや。 だんだんふどぅいーしんでー 「泊言葉ー とっとろー言葉やんやー」とぅかやー 「抑揚ぬねーんやー」とぅかんでぃる 言い方さりーたしが 外ぬ言葉とぅ違とーんでぃる感じぇーさんたしがよー。 捕虜ないんでぃいやーに 摩文仁ぬ海岸ぬかい 追い詰みらったるばーによー ゆぬ初年兵ぬちゃーから 大和兵隊やたるはじやしが「ちゃーすが、かーすが」話しそーるばーに すばからよー「いゃーや泊るやるい」でぃ言やーに声かきらりやーに 「うー」んでぃ言ちゃくとぅ「我んにん泊人るろー」でぃ言やーに うぬ人からよー「突撃一番」ぬかい煙草からマッチから入ってーし いーとーるばー。うぬ時分、煙草とぅかマッチとぅか でーじな必要品やぐとぅ 「ありがとうございます」でぃ言いちゃるはじやしがてー。 泊言葉ー まっとーばーでぃいやーに ちむえーん味んねーらんでぃ 思とーたしが 外ぬ人んかい いらしーねーよー 変化ぬあんでぃ言いるばーよ。大和口さーねー「言葉は国の手形」んでぃ言いしがてー 身分証明書ないるばーよーやー。言葉んでぃしぇーでーじやっさー。 「言葉ー文化ろー」とぅか「言葉ー残さわるやしが」とぅかでぃー ゆー言らりーしが やっぱりうれー大切んでぃ 思えーすん。(作家・泊くとぅば) 泊の言葉というけど、ぼくが子供のころは、言葉というと家族や友達、隣近所もみんな方言だけを使っていた。他地域の人たちと話をするつもりではない、地域の言葉だから、これが泊言葉だという感覚はなかった。 成長するにつれ「泊の言葉は平板だな」「抑揚がないな」などと言われた。他地域の言葉と違うという感じはしなかったがね。 (戦時中)捕虜になるというとき、摩文仁の海岸に追い詰められ、同じ初年兵や本土の兵隊だったと思うが「どうしよう。こうしよう」と話をしているそばから「君は泊だろう」と声を掛けられた。「はい」と答えると「ぼくも泊の人間だ」と言って、この人は「突撃一番」(コンドーム)にたばこやマッチを入れたものをくれた。当時はたばこやマッチはとても貴重品だったので「ありがとうございます」と言ったはずだ。 泊の言葉は真っすぐで、面白みも味わいもないと思っていたが、他地域の人は変化があるという。日本には「言葉は国の手形」というのがあるが、身分証明書になるんだよ。言葉ってすごいなあ。 「言葉は文化」とか「言葉は残さなければならない」とか、よくいわれるが、やっぱりこれは大切なものだとは思う。 「沖縄大和口(うちなーやまとぐち)」。若い世代を中心に話される、ところどころに島くとぅばを取り入れた沖縄イントネーションの言葉だ。 昨年十二月に実施したアンケートでは「一つの文化」とする肯定派から「時代の流れだから」といった「仕方ない」派、「言葉の乱れ」とする否定派まで、意見が分かれた。将来、この言葉が「沖縄口(うちなーぐち)」として定着することもあり得るだろう。 一人芝居「うちなー妄想見聞録」など、沖縄大和口の芸風で活躍する藤木勇人さん。四月二日から始まるNHK連続テレビ小説「ちゅらさん」で、ヒロインを演じる国仲涼子さんのアルバイト先の居酒屋店長役で出演するとともに、出演者への「沖縄言葉」の指導も担当している。そんな藤木さんに「沖縄大和口」や「沖縄口」の未来像などについて聞いた。 藤木 撮影は昨年の十月にスタートして、役者の皆さん、制作スタッフ全員がみんな寝る間も惜しんで、少しでもいいものができるようにと、悪戦苦闘しながら進めています。言葉指導は、まず台本を沖縄大和口に書き換え、演出家とすり合わせてOKが出て、完成台本ができたら、ぼくが沖縄の人の役をしている全員分の録音をする。自分の出番がないときも、撮影の現場に立ち会って修正したりしています。 藤木 時代背景がほぼ現代に近いということで、必然的に沖縄大和口にならざるを得ない。役者の皆さんにせりふを渡しますが、ぼくらがしゃべっているレベルの沖縄大和口では、まず全国に通用しない。冷静に考えたとき、沖縄大和口というジャンルは、まだしっかりと確立されていない。 沖縄口も標準語もしっかりとしゃべることができない世代が、安易な選択の中でごちゃ交ぜにしている言葉が沖縄大和口じゃないですか。そこには確固たるものや基本的なものがないわけだから、その中から何を抽出して、沖縄大和口として役者さんにしゃべってもらい、全国の人たちが沖縄を言葉から感じてくれるか、ということに挑戦しなければならないんですよね。 藤木 無理ですね。各地方を題材にした過去のドラマを見ても分かると思いますが、地元の雰囲気は醸し出しているけど、見る側が分からない言葉をしゃべっているのは、ほとんどない。ちゃんと何らかの形で意味は伝わっているんですよ。 本土の役者さんは、何もかもが初めてなので、ぼくを信じてしゃべるしかない。中には納得できないイントネーションもあったりするが、少なからず「共通語ではない」というしゃべりを選択してくれればいいかな、というところもあります。田中好子さんとかは、イントネーションが際どくなると標準語に自然に戻し、そしてまた沖縄イントネーションにもっていく流れがすごく自然で、きれいに聞こえたりするんですよ。そういうのを聞くと、新しい沖縄大和口がNHKを通して開発されていると思うわけですよね。 逆に、意外と沖縄の人たちが苦戦する部分もあります。せりふは全国に伝わらないといけないものだから、沖縄の人がなかなかしゃべらないような、きれいな標準語のせりふだったりするんですよ。それを沖縄イントネーションに直さないといけないというところもあって、平良とみさんあたりでも苦戦することもあるんですよ。 ―一人芝居の藤木さんの芸風も沖縄大和口。沖縄口は次第に沖縄大和口や大和口に変わっていくものとの考えなんでしょうか。 藤木 言葉は時代の生き物だから、大衆がどういう方向に意識せずに引っ張っていくのか、全然測れないと思っています。沖縄芝居や古典の世界で残っている沖縄口がありますね。あれもしっかり残す。その対極に標準語というのがあれば、その間にもっと計算された全国に通用する沖縄大和口があってもいいのではないか、それをジャンルとしてしっかり残す必要もあるのではないかな。 藤木 ぼくも思いっきりは話せない。迷うとイントネーションを沖縄風にした標準語を話す。言葉自体も地域で違う。何を残すかとなると、その地域の言葉を残すことも重要でしょうね。 沖縄口は安易に日本語に訳せないでしょう。沖縄口が持つ言葉の裏に潜む意味だとか、本当は日本語に訳せないようなところを安易に訳すのではなく、日本語の文章になってもいいから訳して解読して、その時代や今のぼくらがずっと継承してきている「うちなーんちゅの心」みたいなものを、言葉の中で殺さずに、生かしていくことは重要だと思います。 「ちゅらさん」が始まると、言葉に対する賛否両論があると思いますが、新しい沖縄大和口の可能性を探る作業となっているので、応援してほしいですね。(社会部・船越三樹)(毎週水曜日掲載) 連載へのご意見・ご感想のほか「島くとぅば」に関する取り組みや行事、笑い話、なぞなぞ、失敗談、昔はやった言葉・遊びなどの情報を、沖縄タイムス社・社会部までお寄せください。 島くとぅばの音楽といえば、まず真っ先に思い浮かぶのは民謡。最近ではりんけんバンドや喜納昌吉&チャンプルーズなど、琉球音階を駆使した新しい沖縄の音楽が隆盛を極めている。一方では若者向けのリズムに沖縄の言葉を当てはめた、より新しいタイプの音楽も現れてきている。今週から三回にわたって、そんな音楽とミュージシャンの思いを取り上げる。 ドレッドヘア付きの派手な帽子をかぶり、サングラスをかけた瞬間、先ほどまでの“ゆんたくー営業マン”が“ゆんたくーミュージシャン”に変身した。 フーピン(42)=本名・富浜宗信さん=のデビューは四年前。それまで勤めていた会社を辞め、「今しかできない」と、この世界へ。 中米・ジャマイカの音楽、レゲエのリズムに乗せた「アイエーナーナー」やカントリー調の「食(か)まん食めえ」など、島くとぅばにこだわった作品を発表。会社勤めの傍ら、宜野湾市の「ライブスポット・ふきのとう」での月一回のライブや沖縄市・FMチャンプラでのDJなどを中心に活動している。 島くとぅばの歌というとまずは「民謡」。でも三線が弾けない。「だから別の方向から、方言を紹介しようと思った」。フォークやロックでギターの経験は若干あった。 ビートルズやディープパープルの音楽を歌詞の意味を分からないまま「かっこいい」と聴いていた。「方言にも素晴らしい言葉がある。自分がビートルズを聴いていたように、若い人たちに音楽を通して方言に興味を持たせたかった」 ロックのリズムだと速すぎて、島くとぅばの良さが失われる。いろいろ試してみて、スローテンポのレゲエが一番しっくりきた。 最近ラテン音楽もやっている。四歳から四年間、ペルーに住んでいたので、スペイン語は少し分かる。招かれてスペイン語で歌ったとき、聴いていた外国人が感激して泣きだした。スペイン語を母国語にしている人だった。そのとき、「海外に長く住んでいるうちなーんちゅが民謡を聴いたら、同じようにきっと泣くだろう」と言葉の大切さを実感した。 歌詞は、日ごろ友達に話しているような言葉で、生まれ育った環境や実体験、記憶をモチーフに書いている。「敬い言葉だと字余りになるんですよね」と笑う。「アイエーナーナー」では「こんな優しいおじさんが周りにいた良き時代の風景を詞にした」と話す。 「初めて聴く人、本土の人も意味は分からなくても乗ってくれる。意味を知りたいと来たら、ちゃんと教えてあげます。若い人から聞かれることがうれしいですよ」 詳しい歌詞は、フーピンのホームページで見ることができます。アドレスは、http://www.ryucom.ne.jp/users/sakae |
[ 177] 沖縄タイムス 特集 残さびらな・島くとぅば
[引用サイト] http://www.okinawatimes.co.jp/spe/kotoba20010328.html
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我んねー北谷うてぃ生まりてぃ 今から何十年ないびーがや しまから出じーるばそー 北谷なかえー 北谷城んあい 浜川御嶽 竜宮神も 海ん美らさいびーたん。 やしが 大和から帰てぃちちゃぐとぅ まーがまーなとーら分からん。我ったーしまー あいえーなー わん見じーねー 「いゃーや元気やてぃ」「まー出ーじゃが」んてぃ 言葉びかーぬ 残とーいびーん。 わー夫やてぃん わー親ぬ言葉聞ち「太郎 那覇や街んやい。わったー静 哀れーしみんなよーやー」んでぃいちゃる言葉さーに 「米をつくる家」とぅかぬ せりふんちくてーん。やくとぅ 夫ぬ残ちゃる言葉 いちまでぃん我んねー忘てーならんち ありがたい夫やさーんでぃ思とーん。 我ーが一番困たしぇー ちょうる那覇んかい 家たっちんじ当座 わんねー真楽座んかい いっちさぐとぅ 田舎うとーて「んまんとー」でいしぇー。那覇うて「んままで 出じくーいー」んじし 「んまんとぅー 出じくーいー」でぃ。「んまんとぅーでぃしぇーぬーが。いゃーや馬ぬ尾るやええさに」でぃいち 黒板ぬかい 書かってぃ 皆にむぬ笑えさったるくとぅんあん。 今なー 夫うらんてぃん 二才達がまじゅんし 考えてぃくぃてぃ 力なてぃくぃーぐとぅ わんねーあまくまんじん 舞台ん立っちょーい。 夫ぬくとぅ考らんぐとぅ 子ぬちゃーん孫んうい 弟子っくゎぬちゃー 自分ぬ兄弟んでぃ思てぃ。今ちきてぃ わんにんかい くぬ年なてぃ「静姉」さってぃ。一番うりが 楽しいやいびーん。(沖縄芝居女優・北谷くとぅば) 私は北谷で生まれて、今から何十年たちますか、古里を出るときは北谷城もあり、浜川御嶽(ウタキ)や竜宮神、海もきれいでした。 でも、本土から帰ってきてみると、どこがどうなっているのか分かりません。私の古里は、なんということでしょう。私を見かけると「元気だったか」「どこに行っていたの」というような言葉しか残っていませんでした。 私の夫(故大宜見小太郎さん)も、私の親の言葉を聞き「太郎、那覇は街だから、私たちの静子を苦労させないでよ」とかの言葉で「米を作る家」などのせりふをつくりました。ですから、夫の残した言葉をいつまでも忘れてはならないと、ありがたい夫だなあと思っています。 私が一番困ったのは、ちょうど那覇に嫁いできたころ。私は真楽座に入っていましたが、田舎では(そこまでというのに)「んまんとー」ですが、那覇では「んままで 出じくーいー(そこまで 行ってきます)」と言うのに「んまんとー 出じくーい」となって。「『んまんとー』って何だ。お前は馬のしっぽだろう」と黒板にも書かれ、みんなに笑われたこともありました。 今は、夫がいなくても若い人たちが一緒になって考えてくれ、力になってくれるので、私はあちこちで舞台に立っています。 夫のことも考えず、子や孫もいるし、弟子たちも自分の兄弟と思って。今でも私にこの年になっても「静姉さん」と呼んでくれて。一番これが楽しいです。 旧暦1月20日の「じゅり馬行列」は、かつてこの地が遊郭であったことの名残でもある=2月25日、那覇市辻 旧暦一月二十日の「二十日正月」に当たる二月二十五日、那覇市辻で正月行事の祝い納め行事の「じゅり馬行列」が行われた。あでやかな紅型の衣装に馬の頭をかたどった小道具を付けた踊り手が「いゅい、いゅい」とはやしながら練り歩く。この行事は戦前、この地が遊郭であったことの名残でもある。 ここには「辻言葉(ちーじくとぅば)」と呼ばれる独特の言葉がある。いや、もはや「あった」と言うべきだろうか。消えゆく運命にある言葉の一つであることは確かだろう。 地域に伝わる純粋な「島くとぅば」とは言い難いかもしれないが「このような言葉も存在した」という歴史的事実から、取り上げることにした。 辻の歴史は古い。沖縄大百科事典によると、辻は一六七二年、仲島とともに摂政・羽地朝秀によって、私娼(ししょう)を集めてつくられた公娼(こうしょう)地帯。薩摩や中国との関係上、対外国人政策として、一般の女性らを守るという風紀維持の面から創設されたとある。一九〇八年には仲島と渡地が辻に合併し、唯一の遊郭となった。 辻には辻売り(ちーじうい)という慣習があった。貧しい農村地域などから、辻の遊女(じゅり)として少女を身売りすることだ。「恨む比謝橋や 情き無ん人ぬ 我ん渡さとぅ思てぃ 架きてぃうちゃら」の琉歌を詠んだとされる女流歌人、吉屋チルも、その一人として伝えられる。 辻は単なる遊郭としてだけではなく、宴会などを開く社交場としての一面もあった。客も県内だけでなく、本土や外国からも多く出入りした。 女性は、県内各地から幼くして連れてこられた。ほとんど十歳未満だったという。辻に来る前は、当然古里の言葉を使っていただろう。しかし、そのままだと接客の際、話が通じないという不都合が生じる。しつけや礼儀作法を重んじた辻。そこで、独特の辻言葉が生まれた、と推測される。 全国的に有名な江戸(東京)の遊郭・吉原は、語尾に「〜ありんす」をつける「花魁(おいらん)言葉」が知られる。この言葉は、地方から来た女性が、方言を隠すことを目的に発展していたものといわれる。 しかし、今でも辻言葉の雰囲気を伝える人がいる。那覇市久米で琉球料理の店を営む山本彩香さん(65)は辻で八歳まで育った。おそらく辻言葉を話せる最年少者と言えるのではないだろうか。店で出す料理も辻にこだわっている。 山本さんは、二歳のとき、実母の姉である伯母の養女となった。「東京から浮島丸で那覇に着き、人力車で真っすぐ辻に入った」。戦後もずっと、養母と一緒に暮らした。意識して覚えたものではない。周りに辻言葉しかなかった。「だから今でも辻の言葉しか分からない」 辻言葉は、徹底した敬い言葉。「にふぇーでーびるたい(ありがとうございました)」「わっさいびーたんたい(すみませんでした)」など、語尾に「〜たい」が多くつくのも特徴。例に挙げた二つとも「〜たい」がなくても、十分敬い言葉として成り立つ。 客商売だけに、それは当然のことだろうと思っていた。しかし、山本さんは「銭(じん)いらりーぐとぅや あらん(お金がもらえるからではない)。真心を尽くしたもてなしの心が、言葉になって表れているんです」と、こちらの薄っぺらな考えを、やんわりと否定した。 「単語自体は、首里や那覇の言葉とあまり変わらない。違うのはイントネーション」と山本さん。「母ちゃん(養母)は、那覇の『棒投ぎんねー(ぶっきらぼう)』でもない。首里の『ニッチリケーチリ(懇切丁寧)』でもない、その二つを合わせたものと言っていた」 鼻から息を抜きながら「ふぅーん」(活字では表しにくいが、便宜上このように表現する)と発するのも特徴だ。つやっぽいが、変にこびるようなものではない。 「ほかでもやったかどうかは分からないけど」と前置きし、辻の風習として新しい着物を仕立てたときには「着物のえりを家の柱にあてて『着物(ちのー)みーくみーく 命(ぬち)ぇーながながーとぅ(着物は新しく、命は長く)』と言ってからそでを通しました」と教えてくれた。着物に対する辻の女性の強い執着を感じる。 「私は、半分は本土の人の血が流れています。でも私は辻に育ててもらった辻人(ちじんちゅ)です。だからなくなると残念。悔しいくらい。でもそういう運命なんでしょうか…」。山本さんは、そっと涙をぬぐった。 連載へのご意見・ご感想のほか「島くとぅば」に関する取り組みや行事、笑い話、なぞなぞ、失敗談、昔はやった言葉・遊びなどの情報を、沖縄タイムス社・社会部までお寄せください。 与那城町宮城は、海中道路で沖縄本島とつながる宮城島の中の一集落。区長の根保幸徳さん(67)は、一九八一年、同年代の四人の友人らとともに、島の言葉を集めた冊子「しまくとぅば・宮城島の方言」を刊行した。 今でこそ「方言が衰退している」との声を聞くのは珍しいことではなくなったが、根保さんらは、二十年前には既にその思いを持っていた。 編集メンバーは当時、根保さんを含めた四人が教員、農協関係が一人。忙しい中、月に一度集まって語彙(ごい)をまとめる作業を行った。グループの名称は、宮城小学校のある場所が「アカチチ(赤土)ムイ」と呼ばれていたことにちなみ「あかちち会」と名付けた。 メンバーだけでは忘れかけていた言葉もあり、地域の年配者から確認のための聞き取り調査も行った。出版まで約三年を要したという。 「島の方言が(沖縄)本島化され、もともとの言葉が廃れつつあったという危機感はあった」と話す根保さん。取りまとめのきっかけは、同じような危機感を持つ先輩方から頼まれたこと。後輩たちからの要望も強かったという。集めた語数は約千二百語に上る。「五人とも仕事の関係で島を離れ、本島にいた。外にいたからこそ愛着があった」と根保さんは話す。 かつて「高離島(たかはなりじま)」と呼ばれていた宮城島には宮城、上原、池味、桃原の集落がある。根保さんによると、このうち桃原は、以前に首里や那覇の士族が移り住んだ「屋取(やーどぅい)集落」。残る三集落には、隣の伊計島や平安座島とも違った宮城島独特の「はなりくとぅば」があるという。 「『お召し上がりください』をここでは『あごーりば』と言う。周辺にはないが、伊江島や先島には似たような言葉があります」と根保さん。 宮城の言葉の特徴は、手ぬぐいの「さーじ」を「はーじ」、櫛(くし)の「さばち」を「はばち」、着物の「ちん」は「しん」、綱の「ちなー」を「しなー」と発音するように、県内各地で多く使われる「ち」が「し」、「さ」が「は」で表されること。 また、他地域と違う言葉でおもしろい例として、ニンジンの「ちでーくに」を「あかでーくに」、毒ヘビの「はぶ」を「きーむん」、ゴキブリの「とーびーらー」を「やまたー」と呼ぶことなどが挙げられる。 「ここの言葉で『ちんぬくじゅーしー』を歌うと、おもしろいんですよ」と、根保さん。その歌詞は「あんまー たむのー きぶとんどー きぶしぬきぶはぬ みーなだそーそー(中略)すーぬゆうばん ぬーやがてー しんしんしんぬく るーひーめー」。 老人会などの祝い事などで司会を務めることの多い根保さんは「集まりのときなど、歌うと受けるんですよ」。 宮城の言葉について根保さんは「残したいが、自分も完ぺきに話せないというもどかしさもある。古里の言葉がなくなるのは、古里がなくなるのと同じ。純粋な言葉は、島出身者の多いペルーやアルゼンチンなどに残っているのではないだろうか」。 冊子には、「第一集」とあったが、第二集の予定は「今のところないですね」と根保さんは苦笑い。後輩が引き継ぐことを願っているようだった。 |
[ 178] 沖縄タイムス 特集 残さびらな・島くとぅば
[引用サイト] http://www.okinawatimes.co.jp/spe/kotoba20010321.html
