リンカーンとは?

建国の父である初代大統領ジョージ・ワシントンや(アメリカ独立宣言の起草者)第3代大統領トーマス・ジェファーソンとともに、アメリカ合衆国国民に最も愛された大統領の1人。
リンカーンは大統領になるまではあごひげは無かった。195センチの長身ではあったが、痩せていて、そのうえ、何かものさみしげな雰囲気を漂わせていた。これでは大統領選に勝てないとリンカーン自身が思っていたとき、「“あごひげ”を付けたほうが立派に見える」という内容の手紙をグレースと名乗る少女のからもらい、"あごひげ"を生やして見事大統領選に勝利した。
ケンタッキー州の貧しい農場の、戸口が一つ、窓が一つ、そして暖炉の煙出しがあるだけの粗末な丸太小屋で出生(2日)。父はトーマス・母はナンシー
ホィッグ党(Whig party=1834年に国民共和党が反ジャクソンの意味で改称したもの)から州議会に立候補(落選)
共和党の大統領候補に指名され、第16代アメリカ大統領に51歳で当選(6日)。大統領選のキャッチコピーが、「丸太小屋からホワイト・ハウスへ」であった。リンカーンは一般投票では、39.8%しか獲得できなかったが、選挙人等投票ではニュージャージー州を除く自由州の全てを獲得
南部サウスカロライナ州の州議会が満場一致で連邦から離脱を決定(20日)。以後、ミシシッピ、フロリダなどがこれに続き、翌、1961年にはジェファーソン・デービスを大統領とするアメリカ南部連合(Confederate
States of America)が結成され、最終的には11州が南部連合(人口900万、内350万は奴隷。唯一の資源は綿花〕として連邦を離脱(北部は23州・2,200万、大西洋から太平洋にまたがり、各種の農工業資源を有していた)
サウスカロライナ州チャールストン港に孤立していた連邦のサムター要塞を救援する為に船隊を派遣。これに対して南軍が要塞を攻撃、4年間の内戦(Civil
War in America=南北戦争)が勃発(1861年4月12日から1865年4月9日のアポマトックスの休戦まで)。北部で奴隷解放の声が強まる
「1863年1月1日の時点で合衆国に対して反乱状態にある南部諸州の奴隷は、ただちにすべて解放する」との内容の奴隷解放宣言(the
戦争のゆくえを決したペンシルヴェニア州の南部の交通の要衝(ようしょう)ゲティスバーグの戦い(南軍7万5,000人対北軍8万6,000人による3日間の戦闘での犠牲者は、南軍2万8,000人、北軍2万3、000人=史上最大の惨事)
ゲティスバーグの戦いでの戦死者を弔うゲティスバーグ(Gettysburg)の戦いの跡地に新しく建設する国立戦没者墓苑の墓地献納式において、わずか10の文で構成された272語・3分間の「人民の、人民による、人民の為の政治=The
1863(文久3年−第14代将軍家茂〔いえもち〕の時代。この年『新撰組』が結成された)年11月19日
「いまから87年前、われわれの祖先は、この大陸に一つの新しい国を生み出しました。それは、自由の中にはらまれ、『すべての人間は平等に作られた』という主張にささげられた一つの新しい国でした。
いまわたしたちは、その国が---もしくは、このようにしてはらまれ、このような主張にささげられた、いかなる国にせよ---それがはたして長くつづき得るかどうかをテストする大きな国内戦に従事しています。そして、わたしたちはその戦争のなかの一大戦場に、いま、こうして集まっています。わたしたちがここにきたのは、この国が生きながらえるようにと願って、ここでいのちをささげた人びとのために、その最後の安らぎの場所として、この戦場の一部をささげるためであります。わたしたちが、このようなことをするのは、まったく適切でもあれば、当然でもあります。
しかし、もっと大きな意味では、わたしたちには、じつは、この土地をささげるなどということは、できないことなのです。この土地を神聖なものとして、この土地に栄光を与えることは、わたしたちにはできません。生き残ったと戦死したとを問わず、ここで戦った勇敢な人びとこそ、この土地を神聖な土地としているのです。わたしたちには、それに対して何かつけ加えることもへらすことも、とうてい、できません。全世界の人は、いまここでわたしたちの語っていることなどを、長くは記憶していないでしょう。しかし、あの勇士たちがここでしたことは、けっして忘れることができないでしょう。ここで戦った人びとが、ここまで、このようにりっぱに進めてきた未完の事業に、むしろ、生きているわたしたちこそ、ささげなければならないのです。
わたしたちこそ、われわれの前に残っている偉大な任務に身をささげなければならないのです。そして、その未完の事業、偉大な任務とは、ほかでもありません。これら名誉の戦死者が最大限の献身をおこなった、あのたいせつな主義に対して、わたしたちがますます彼らから献身を学びとること、また、わたしたちが、これらの戦死者の死をけっしてむだ死にとはさせないことをここで高く決意すること、さらにまた、この国が神の御手(おて)のもとに、もう一度自由の新たな誕生をむかえるようにすること、そして、人民の、人民による、人民のための政治を、断じてこの地上から死滅させないこと、であります。」
S.Grant)将軍に降伏して内戦は、60万人を超える犠牲者を出して終結。350〜400万人の黒人奴隷達を解放
ワシントンのフォード劇場で“Our American Cousin”(『我がアメリカのいとこ」』)を妻のメアリーと2人のゲストとともに観劇中、狂信的南部主義者の俳優のジョン・ウイルクス・ブース(27歳)にピストルで狙撃(そげき)される(14日)。弾丸はリンカーンの左耳の下に当たり、脳を貫いた。観客の中にいた医師が大統領の傷を調べたが、すでに手のほどこしようがなかった。9時間後(翌15日午前7時22分)死亡(享年56歳。墓地は、第2の故郷であるイリノイ州スプリングフィールド市の北郊の州立の公園の中)。なお、ブースは「暴君の運命は常にこうなるのだ。南部の仕返しをしたのだ」といって逃走、4月26日、ヴァージニア州の田舎の納屋に潜んでいるところを北軍によって射殺された
憲法修正第13条に基づいて合衆国内のすべての元奴隷に全ての公民権(公民としての権利。公職に関する選挙権・被選挙権、公務員として任用される権利などの総称=市民権)を確保する公民権法可決(9日)
第1節 奴隷またはその意に反する苦役は、犯罪に対する処罰として当事者が適法に有罪宣告を受けた場合を除いて、合衆国またはその管轄に属するいずれの地域内においても存在してはならない。

[ 175] リンカーン大統領
[引用サイト]  http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/rinnkann.htm

リンカーン(Lincoln)はアメリカのフォード・モーターによって製造・販売されている高級車のブランド名。ブランド名の由来は創設者が尊敬していた第16代アメリカ合衆国大統領、エイブラハム・リンカーンにちなんだものである。キャディラックと並んでアメリカを代表する高級車として知られる。
1917年、リンカーンはヘンリー・マーティン・リーランドによって設立された。 リーランドはキャディラックの創設者のひとりでキャディラックがゼネラルモーターズに吸収された後も同部門の責任者を務めていた。第一次世界大戦中、 リーランドは政府からの要請で航空エンジンの生産に乗り出そうとしたが、ゼネラルモーターズの創立者ウィリアム・C・デュラントに反対されたため、ゼネラルモーターズを辞して、リンカーン・モーターカンパニーを設立した。 リンカーンは終戦までに6500基のリバティ航空エンジンを納入している。戦後、リンカーンは高級車メーカーとして再出発を遂げた。
リーランドは1920年に最初の試作車を完成させ、徹底した品質管理と群を抜いた性能によって大きな評判をとったが、この車には大きな欠点があった。デザインである。リーランドは機械的な精密さを追究する事には熱心だったものの、この種の高級車の販売促進に不可欠だったはずのデザインには無頓着だったのである。加えて戦後の不況や合衆国政府による戦時中の利益に基づく追徴課税がリンカーンを直撃、激しい財政難に遭遇し、その結果、1922年、リンカーンはフォード・モーターに買収された。 買収後もリーランドはリンカーンの責任者を務めていたが、フォードとの意見の対立からわずか4ヵ月後には会社を辞してしまう。リーランドの辞職を機にリンカーンはフォード・モーターの高級車部門として本格的に組み込まれていく事になる。
当初、フォード・モーターの創設者ヘンリー・フォードは高級車部門への参入には消極的だった。フォード・モーターも創立初期の頃には高級車を手がけていたが、フォード・モデルTの成功によって、高級車からは手を引いていたからである。 結局、ヘンリー・フォードは息子のエドセルにリンカーンを委ねる事になる。この時、エドセルは『父は世界一の大衆車を作ったが自分は世界一の高級車を作りたい』と決意を語ったという。エドセルは自動車に関する高い見識の持ち主であり、特にデザインに関しては当時のアメリカでは並ぶ者がなかったという。リンカーンを手中に収めてからのエドセルはアメリカのカーデザインの中心人物になったといっても過言ではない。
エドセルは数々の有名コーチビルダー(当時の高級車の場合、自動車メーカーはシャーシーのみを製作、顧客の好みに合わせたボディをコーチビルダーで架装するのが一般的だった)と契約、優美なボディを架装する事が可能となり、これによってリンカーンの商業的成功をもたらした。やがてリンカーンはキャディラックやデューセンバーグなどと並びアメリカを代表する高級車のひとつという評価を勝ち得ていく。1927年からは、グレイハウンドを象ったマスコットがリンカーンのフロントグリル頂点を飾るようになり、現行のダイヤモンドの光芒を象ったエンブレムに変えられるまでの戦前期リンカーンの大きな特徴のひとつとなっている。
1936年、リンカーンはゼファーの投入によって、中級車市場にも進出、その斬新な流線型のデザインと相まって大好評をもって迎えられた。ゼファーはアメリカ車一般に流線型のデザインが普及する嚆矢となった車種として自動車史上に名を留めている。その後エドセルはゼファーのコンセプトを発展させた車の開発に注力、その結果リンカーンによって作られた中で最も成功した車といえるコンチネンタルに結実する事になる。コンチネンタルはエドセルがフロリダでの休暇中に乗るための試作車として開発された。 ヨーロッパから帰国直後だったエドセルは試作車のデザインを欧風にするよう命じた。エドセルがこの試作車をフロリダで乗り回した所、それを見た多くの人がこの試作車の量産を熱望、これをきっかけとしてリンカーン伝統の車種コンチネンタルが誕生する。
コンチネンタルは第二次世界大戦の中断をはさんで戦後も生産が続いたが1948年に生産が終了した。しかし、コンチネンタル復活の要望は根強く、フォード側も従来のリンカーン部門とは別にコンチネンタル部門を立ち上げて新車種の開発をはじめ、1955年にコンチネンタル・マークIIという形で復活した。 価格がロールス・ロイスと同じ1万ドルという超豪華車の人気は最初のうちは好調だったものの、やがて売り上げは減少、わずか3000台あまりを生産したのみでマークIIの製造は打ち切られ、コンチネンタル・マークIIIに移行したがこれも不評でマークIIIの生産中止を機にコンチネンタル部門も解体されてしまう。しかしコンチネンタルという車種名そのものは存続、1981年にコンチネンタルの最上級グレード、タウンカーが車種として独立するまでリンカーンの旗艦車種という位置付けが変わる事はなかった。
1980年代以降、リンカーンはオイルショックや新車種の開発の遅れによってヨーロッパや日本の高級車との競争に遅れをとったと言わざるをえない状況が続いた。そんな状況を吹き飛ばしたのは1998年に発売されたSUV、ナビゲーターの成功である。さらに2004年からの4年間に5つの新車種の投入計画を掲げ、新世紀を迎えたリンカーンは新車種発表ラッシュを迎えつつある。
1970年代よりカルティエやグッチ、ビル・ブラスやエミリオ・プッチなどのファッションデザイナーに内外装を仕上げさせた「デザイナー・シリーズ(Designer Series)」を用意しており、現行型では担当デザイナーこそ存在しないものの、その名称がタウンカーの最上級グレードとして受け継がれている。
リンカーンは、キャディラックと並んでリムジンを合衆国の大統領専用車として提供して来た長い歴史を持つ。
初めてリンカーンがホワイトハウスに納入されたのは1924年、カルビン・クーリッジが合衆国大統領を務めていた時代だった。この車はクーリッジ、ハーバート・フーヴァーの二代の大統領に仕えている。
1942年、フランクリン・ルーズベルト時代のホワイトハウスに納入されたのは「サンシャイン・スペシャル」という愛称で親しまれた巨大なリンカーンV12オープンカーである。ルーズベルトがフォード工場を視察するのに合わせ、ヘンリー・フォード自らの命令で製作された。1940年の製造中止後もストックされていた大型リンカーンのモデルK(1939年型)シャーシを延長、これに1942年型リンカーン・ゼファー似のボンネットと、サッシュ付防弾ガラス窓を備えたオープンボディを載せたものであった。ルーズベルトと次代のハリー・S・トルーマンによって1950年まで愛用され続けた。
「サンシャイン・スペシャル」が引退した年に納入された専用車は「バブルトップ」というニックネームの、1950年型リンカーン・コスモポリタンのストレッチバージョンであった。客室部分の屋根が、当時最新素材である透明なプラスチック製になっているのが特徴で、トルーマン・アイゼンハワー・ケネディ・ジョンソンと4人の大統領に仕えた後、1965年に引退した。
ケネディが大統領に就任した1961年、リンカーン・コンチネンタルのオープンカーがホワイトハウスに納入されるが、この車は1963年、ダラスで起きたケネディ大統領暗殺事件の主役を演じ、史上最も有名な大統領専用車として人々の記憶に刻まれた。しかし、実はこの「ケネディ遭難車」は、翌1964年にクローズドトップ仕様・1964年モデル用グリルへの交換が為され、リンドン・ジョンソンの公用車に再充当されているのである(この実に強神経な措置が、ジョンソンの意向か否かは不明)。 その後1968年、ジョンソンの在任期間中に再びコンチネンタル・リムジンが納入されている。
1989年に納入されたリンカーンが現在のところ最後の『プレジデンシャル・リンカーン』である。ライバルのキャディラックは1983年、1993年、2001年、2005年にリムジンをホワイトハウスに納入している実績を誇っているのに比べ、やや低調なところである。
リンカーン・ゼファーコンチネンタル (1940-1942, 1946-1948)、後のリンカーン・コンチネンタル

[ 176] リンカーン (自動車) - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%B3_(%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A)



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