起源とは?

結婚の条件として相手の男性に謎解きを要求し、答えられなければその男の命を奪うという残忍なトゥーランドット姫の物語は、謎かけ姫物語の代表的なものとしてよく知られている。
先にこの物語の今世紀までの変遷について考察したが (1)、まだその時点では、トゥーランドット物語の起源をはっきり断定する上での資料は不足していた。
その後、この物語の起源を探る上で重要な文献を、いろいろ入手することができたので(『千一日物語』は、1843年の新版をパリの古書店で入手)、新たに判明した事実をもとに、物語の起源に話を絞って、改めて考察したいと思う。
トゥーランドットの物語の起源については、この題材をもとに書かれたプッチーニの有名なオペラに関する文献の中でもよく言及されている。
しかし、日本やアメリカで出版されたものでは、ゴッツィの同名の劇を原作とするとの指摘がなされるだけで、それ以前の物語の背景についてはまったく触れられていない (2)。
あるいは触れられていれも、カーナの不正確な記述をそのまま踏襲して、『千一夜物語』に由来するなどといった漠然とした説明がなされているだけである (3)。
このフランスのオバニアクの研究が、現在のところ、トゥーランドットの起源に関しては、もっとも示唆に富むように思われる。
すなわち、トゥーランドット物語の本来の起源は、ゴッツィの劇作品ではなく、ゴッツィより50年前に出版されたペティ・ド・ラ・クロワの『千一日物語』の中の「カラフ王子と中国の王女の物語」であるという。
ただし、ペティ以前から、似たような物語がいくつか存在しており、まずそれらについての言及から話を切り出している。
なお、最近の研究によると、1899年から1904年にかけて出版されたマルドリュス版は、世紀末から今世紀初頭にかけて活躍した作家たちからは賞賛をもって迎えられたとはいえ、文学的な潤色や歪曲が多く、底本についても曖昧な上、加筆や削除も目立つなど、学術的には問題が多いとされているようである (4)。
前者の「九十九の晒首の下での問答」は、謎解きに失敗して命を失った99人もの晒首の下で、100人目に挑戦した王子が謎解きに成功するという話である。
ある麗しい王子の両親である国王と王妃は、アラーの試練により、貧困のどん底にあった。王子はある街のスルタンに両親を売る。
父の代償として立派な馬を、母の代償として武装を手に入れた。王子は、求婚者にたくさんの謎をかけ、正しく答えられなかったら首を斬るという王女の住む街へ行く。
カーナは、この物語をゴッツィの『トゥーランドット』の基になった作品としているが (5)、実際にはペティの『千一日物語』の中の物語がそうであるから、これは誤りである。
ただし王子側からの逆提案という要素が既に含まれており、お馴染みのトゥーランドットと類似していることから、カーナも迷わされたのであろう。
この王子側からの謎の内容が、王子自身のこれまでの境遇をもとにしている点は、後述する一連のペルシアでの謎かけ姫の物語群と共通している。
この「九十九の晒首の下での問答」の物語自体、訳者の注によれば、もともと『千一夜物語』に含まれていたものではなく、マルドリュスが自分の版に取り入れたものとされている。従って、ペルシアにおける何らかの謎かけ姫の物語を基に、マルドリュスが翻案してできた物語と考えられる可能性も高そうである。
後者の「金剛王子の華麗な物語」であるが、これにも訳者による次のような注があり、こちらも『千一夜物語』にもともと含まれていたものではない。
これも元来『千一夜物語』にはないヒンドスタン語(ウルド語)の物語で、ヒンディー語の大家 Garcin de Tassy によって初訳されているという。
この「金剛王子の華麗な物語」も別の物語集からマルドリュスにより取り入れられた物語のようであるが、物語の内容は以下の通りである。
まずモホラ姫の国に赴き、「珊瑚の枝」という名の侍女から、ワーカークの街で謎が解明できることを教えられる。
深夜、松毬姫は糸杉王の目を盗んでは、7人の黒人のもとへ出かけ、彼らに暴行されることに喜びを見出していた。
一人だけ逃げ去った黒人が、モホラ姫の寝台の下に潜り込み、姫をそそのかして、この難題をふっかけさせているという。
モホラ姫の宮殿で謎の解明をする際には、誰も気づく者のいなかなかった黒人を、姫の寝台の下からつまみ出し、姫を魔法から解いてやる。
非常に面白い内容の物語であるが、王女の謎かけの原因が、悪い黒人にそそのかされてのことというのは、この種の他の物語には見られない、この物語独自のものである。
ただし、「不義密通、サディズムなどのセックスをめぐるテーマは、アラビアン・ナイトにあまねく行き渡っている」 (6)という観点からこの物語を見れば、極めて『千一夜物語』らしい物語に仕上がっているようとは断言できよう。
そもそもシャフリヤール王が、妃の不貞を発見して以来、一夜明ける毎に女性を殺していたのに、シェヘラザードだけは、話の続きを聞くために、処刑を延期し続けるという設定が、この枠物語全体の出発点でもあることは、周知の事実だからである。
さて、オバニアクはこのあと、ニザーミー (Nizami: 1141〜1202) の『ハフト・パイカル』(七人像)についても触れている。
これは、先の拙文で触れたように、7人の王妃が皇帝バフラームに順番に話をするという設定の枠物語で、4番目のロシア王妃の語る物語が、謎かけ姫の物語として有名である。砦に住む王女は、求婚者に対して次の4つの条件を課す。
ある美青年が、賢者の教えに従い、赤い服を着ることで魔像の力を取り除き、太鼓を叩いて砦の門を探し当てる。最後の王女と求婚者との謎のやり取りが、通常の言葉による問答ではなく、比喩的で謎に満ちたやり方でなされるのが、他の物語と大きく異なっている。
この物語は、ベルシアにおける謎かけ姫物語のもっとも初期のもので、極めて重要な地位を占める作品であるが、これについてはまた後述する。
オバニアクは、このあとすぐ『千一日物語』に話を進めているが、ここではその前に、アールネ/トンプソンのよく知られている「民話の型」について触れておくことにする。
まず、ATh 851で「謎が解けない王女」のタイプが立項されているが、ここから派生した ATh 851Aとして、「トゥーランドット」が独立して取り上げられている。
そこで「王女が求婚者に謎をかけ、解けなければ死刑にする」という簡潔な説明が与えられているだけだが、「謎が解けない王女」と同類のものとして扱われていることが興味深い。
このタイプの話としては、グリム童話の「なぞなぞ」(Das Rätsel KHM 22)が代表例であるが、謎をかける王女より、謎が解けない王女の物語の方が、各国における分布度は高いようである。
この意味は、この王子が王女のもとへ来るまでに体験した出来事で、ある老婆から渡された飲み物が飲む前に破裂して馬にかかり、その馬が死んでしまう。
この馬を食べたカラスを、人殺しの悪党12人が食べて死んでしまい、王子は危うく難を逃れる、といった体験である。
これが「謎が解けない王女」の物語の典型例であるが、謎かけ姫物語においても、逆に求婚者の側から王女に謎をかけ、王女が解けずに求婚者と結婚するという要素を含んでいるものも多い。
アールネ/トンプソンにおいて、この2つが表裏一体のものとして扱われるのも、その意味では妥当であるかもしれない。
この「なぞなぞ」で興味深いのは、求婚者が王女に出す謎の内容が自分の体験をもとにしていること、王女が策略を用いて、その謎の答えを探ろうとすることである。
さて、王女が求婚者に条件を課し、失敗したら首をはねるという話は、グリム童話にもう一つ存在する。「あめふらし」(Das Meerhaschen KHM 191)と題されたもので、内容は次の通りである。
次に3番目の兄弟が挑戦する。彼は助けた狐の力を借りて、あめふらし(直訳すると「海うさぎ」の意で、カタツムリのような軟体動物)に化ける。
100人目の挑戦者が成功するという点は、マルドリュス版『千一夜物語』の「九十九の晒首の下での問答」と共通している。
グリム童話においても、このような謎かけ姫物語が(特に有名な作品という訳ではないが)複数含まれているということは、この題材が各地に浸透していることを示すものであろう。
なお、これらの物語の起源はペルシア方面に求めるのが一般的のようで、グリム兄弟自身、採話した民話のうちの数編は、『千一夜物語』に由来することを承知していたという(9)。
今世紀のプッチーニやブゾーニのオペラで知られる『トゥーランドット』の原作については、ゴッツィの同名の劇作品であると一般には言われている訳だが、実際にはゴッツィの劇作品もフランソワ・ペティ・ド・ラ・クロワ(François Pétis de la Croix:1653〜1713)の『千一日物語』(Les Mille et un Jour)の中の「カラフ王子と中国の王女の物語」(Histoire du prince Calaf et de la princesse de la Chine)に由来するものであることが、いくつかの研究からほぼ断定できるようである (10)。
18世紀初頭のフランスでは、1704年から1717年にかけてアントワヌ・ガラン(Antoine Galland:1646〜1715)による『千一夜物語』(Let Mille et une Nuits)が出版され、この物語が初めてヨーロッパに紹介されることになったが、ほぼ同時期の1710年から1712年にかけて、ペティ・ド・ラ・クロワにより、この『千一日物語』が出版される。
この時期のフランスは、メルヒェンの歴史においても重要な時期で、17世紀後半、ペロー(Charles Perrault: 1628〜1703)により童話集が出版され以来、宮廷や上流貴族を中心とする読書界には、メルヒェンや奇談を含む物語集に対する受容基盤もあったとされる (11)。
『千一日物語』は,その書名自体もそんな感じではあるが、『千一夜物語』のイミテーションと考えられることもある (12)。
もちろん多くの例外があるとはいえ、概ね、『千一夜物語』は女性に反感を持つ王子という観点で書かれているのに対し、『千一日物語』は男性に反感を持つ王女という観点で書かれているからだという(もちろん「トゥーランドット」もこれに含まれるであろう)。
ただし、この時期の出版に関しては、ガランの『千一夜物語』の「第七巻に入っている『ザイン・アルアスナーム』や『フダトと兄弟たち』といった物語は、別の東洋学者ペティ・ド・ラ・クロワがトルコ語写本から訳出したものだ。
これはガラン本人のあずかり知らぬことで、同書のまれに見る成功に便乗し金儲けを焦った出版社のしわざだ」(13)との指摘もあるように、いろいろな要因が絡んでいたことも否定できないようではある。
作者のペティについては、日本ではまったくといっていいほど知られていないが (14)、ルイ14世(在位:1643〜1715)のいわゆる「大世紀」(Grand Siècle)の時代に活躍した優れた東洋学者で、歴史家や外交官の仕事もこなしていたという。
1653年にパリで生まれ、父がルイ14世の通訳秘書を務める東洋学者だったこともあり、東洋の言語に関しては早くから精通し、1670年に16歳で、コルベールにより中東の使節として派遣され、エジプト、パレスチナ、ペルシア、アルメニアなどを訪れた。
また小アジアを経由してコンスタンティノープルにも赴いた。旅行中は、言語、文学、風俗、習慣、美術なども研究し、ありとあらゆる珍しいものを集め、また多数の写本を王立図書館へ持ち帰った。
ペティは近東諸国の言語を担当する海軍省の通訳秘書にもなり、トルコやモロッコへ学術調査や政治使節として赴いた。
1692年にコレージュ・ロワイヤルのアラビア語の教授に就任し、その数年後、父のフランソワ・ペティ(1622〜1695)が亡くなると、父の務めていた国王の通訳秘書の職も引き継いだ。
1710年から1712年にかけて『千一日物語』を出版し、その後、1713年に亡くなった。『千一日物語』はブルゴーニュ公爵夫人(1685〜1712:ルイ15世の母)を楽しませるために出版されとも言われている (15)。
『千一日物語』については、原テキストは失われてしまっているが、もとの物語集は、イスファハンの聖職者であったモクレ(Moclèt)が、インドの原作をもとに構想したもので、その手稿を、1675年にフランス人の友人だったペティに遺贈したという (16)。
ただし、このモクレという人物が実在の人物であったかどうかについては、オバニアクのように、疑っている研究者もいる (17)。
ペティがこの物語集を権威づけるために、このモクレなる人物を考案して利用した可能性も極めて高いと考えらてもいる。
ただし、内容自体が彼の創作という訳ではなく、ペティが現地で読んだり聞いたりした話をもとに、彼の流儀でまとめ上げた作品であることは確かなようである。
さて、この『千一日物語』の中の「カラフ王子と中国の王女の物語」であるが、内容を検討すると、ゴッツィの『トゥーランドット』の原形がほとんど存在することが確認できる。
謎かけ姫の物語において、登場人物に名前がつけられるようになるのもペティ以降であるが、トゥーランドット以外の主な登場人物の名前についても、ゴッツィ以降、プッチーニのオペラに至るまで、ほぼそのまま継承されている。
オバニアクによれば、Touranといえば、一般にはトルキスタン地方を指し、dochte というのは、フランス語で学者(衒学者)という意味をもつ単語であることから、フランス人ペティ自身が考案した名前ではないかとの可能性も示唆している (19)。
謎かけ姫物語の長い歴史において、王女に名前がつけられるのは、この『千一日物語』が初めてであることから、ペティがつけたのではないかと考えるのも自然な考え方であるように思われる (20)。
皇帝アルトゥン汗の娘トゥランドクトは、美貌と知性に恵まれているが、男性への嫌悪から、結婚を拒んでいる。
そのため「求婚するには、謎に答えなければならない。しかし正しく答えられなければ、宮殿の中庭で首をはねられる」という彼女の結婚の条件に皇帝は同意させられてしまった。
ある日、タタール・ノガイ族の長だったティムルタシュ、彼の息子カラフが、幾多の苦難ののち、北京にやってくる。
この王子の家庭教師から、トゥランドクトの肖像を見せられると、不思議な動揺に襲われ、即座にすっかり魅せられてしまう。
トゥランドクトがカラフを暗殺しようとしていると、彼女はカラフに信じ込ませる。カラフはすっかり動揺し、自分と父の名前を漏らしてしまう。
この作品をもとに、ゴッツィはコメディア・デ・ラルテの劇として、1762年に『トゥーランドット』を発表するが、オバニアクが指摘しているペティとゴッツィの類似点と相違点は次のようである。
以上のことから、オバニアクは「ゴッツィの作品は、細かな違いがあるとはいえ、ほとんどペティの物語の舞台向けの盗作 (démarquage) でしかない」(21)とまで言っている。
内容的には、他にも、カラフが父のティムールと一緒に北京にたどり着くまでの物語の先史となる苦難の行程、タタール・ノガイ族がカリズム皇帝の侵攻を受け、カラフの一家がアストラハンの街を脱して放浪するという物語の背景も、ゴッツィはそっくりそのまま冒頭のカラフとその教師だったバラフとの再会の場面で利用している。
一番大きく違うのは、女奴隷のアデルマ(ペティではアデルミュルク)が最後に自害して死ぬか、死なずに自由を取り戻すかという点であろう。
こうしてみると、確かにゴッツィは物語を劇に改作しただけと思えなくもないが、もしゴッツィが劇作品としてヒットさせなかったら、後世へこれほどまで影響を及ぼしたかどうか。
そうしたことを考えると、素材選択の鑑識眼の高さ、改作とはいえ、ヒットする劇作品に仕上げた力量といった点で、ゴッツィの功績も認められるのではなかろうか。
コメディア・デ・ラルテとして評判をとったお陰で、シラーの翻案を通してイタリアからトイツに紹介される契機ともなった。
同時にまた、ゴッツィが自作に利用した作品を正しく知ることも、ゴッツィ研究の上で必要かつ重要なことであり (22)、今後、フランス以外の国においても、ペティの『千一日物語』が正当に認識評価され、日本でも専門家の手によって、きちんとした翻訳と紹介がなされるようになることを期待したい。
『千一日物語』のペルシア語原典が紛失しているというのは大変残念ではある。また、オバニアクは『千一日物語』の原典を書いたとされるモクレなる人物の存在自体を疑っていて、この物語に権威を持たせるためにそういう体裁をとっただけではないかと考えていることも、先に触れた通りである。
このように、この物語集の出自について、いささか判然とはしない部分も残るが、この物語集の成立事情がどのようであれ、「カラフ王子の物語」に限っても、誰かがいきなり創作した物語ではなく、長年の変遷の末にできた物語と考えられる。
もちろん『千一日物語』において、王女にトゥーランドット(トゥランドクト)と名前が付けられ、後世に知られるようになる訳だが、それに至るまでの過程については、マイアーの「ペルシアのトゥーランドット」という論文で詳細に触れられている。
ニザーミーの叙事詩以降、様々な散文での形態による数世紀の変遷を経た末に成立している事情が手によるようにわかる。
この論文は1941年の『ドイツ東洋学会誌』に掲載されたものだが、戦前のドイツにおける東洋学研究の水準の高さをうかがわせると同時に、トゥーランドット研究において、今日でも重要な文献であろう。
そこで、最後に、このマイアーの論文に沿って、ペルシアにおける謎かけ姫物語の変遷と展開を追ってみたいと思う。
まず、1197年に完成されたニザーミーの叙事詩『ハフト・パイカル』(七人像)が、現在残されているものの中では、謎かけ姫物語のもっとも古い形とみなされている。
この物語の内容については既に触れたように、王女と求婚者との謎のやり取りが、通常の言葉による問答ではなく、真珠などのやり取りによって行われるのが、その後のものと違っている。
ただし、殺されて城門にかけられた求婚者の首については、後年のゴッツィ以降の「トゥーランドット」で、王女の肖像により魅せられる求婚者という設定は、『千一日物語』でそれぞれ取り入れられている。
Gelpke によるこの作品のドイツ語訳では、この物語がトゥーランドット物語の先駆的なものであることから、王女の名前を敢えてTurandocht として表記しているほどである。
ただ内容的にみると、求婚者が謎のやり取りに成功したあと、王女が何の躊躇もなく求婚者のものになる感じで、王女の心理的な側面が、後のものとは異なっている。
その後、最初に散文形態で書かれたのが13世紀で、'Aufiにより1228年にデリーで書かれた "Dschawâmi 'ul-hikâyât"という膨大な物語集である。その中に次のような物語が含まれているという。
一家はペルシアに移住し、息子は父を売って驢馬を買い、母を売って鎧を買い、そしてこのギリシアの王女を得ようとした。
王女は翌朝まで猶予を乞う。王女は2人の女官に豪華な服を着せ、自分は召使いに変装して、晩に一緒に男のもとへ出向く。
この物語では、求婚者による逆の質問が導入されている。この質問の謎は、求婚者のこれまでの体験をもとにしたものであるが、これにより、王女の質問と求婚者からの質問と、物語における緊張が2個所形成されることになる。
これはオックスフォードのボドリアン図書館(Bibliotheca Bodleiana)が所蔵する写本、Ouseley Adds.69と呼ばれ、その内容は、以下のようである。
両親がこの娘の結婚を考え始めた頃、彼女は自分の出す質問に答えられる者だけが自分を妻にでき、答えられない者は死でその身のほど知らずを償い、その財産は自分のものになる、との申し出をした。
さらに謎かけを続けるようとするが、父は思いとどまらせ、この王子との結婚と、王国の半分を持参金として与えることを提案。
内容的には、極めて簡素なものだが、中国が舞台になっていることが、後のトゥーランドット物語の先駆となっている。
『千一日物語』に一層近い内容を含んでいると考えられるのが、同じオックスフォードのボドリアン図書館に所蔵されている Ouseley 58と番号がつけられたペルシア語の写本である。
これまでの写本と違って、物語の全体が詳細にわたって記されているという。作者の名前は残念ながら不詳である。
この写本と似た内容のものが、ロンドンの India Office Library 所蔵のNr.2541 写本にも残されていて、これには、1645年12月20日とのデータが記載されており、年代的にもほぼ『千一日物語』の前段階のものと考えられる。
また同内容の物語の不完全な形での写本が、イスタンブールのアヤソフィア大聖堂の図書館に、Nr.1814写本として所蔵されているという。このように、この時期になって、謎かけ姫物語が徐々に大きなまとまりを見せてくるようになる。
ある晩、白い鷹が王子のところにやってくる。この鷹を街へ連れて行くと、この街の国王が長いこと探していた鷹だという。
そして彼に託された手紙を読んでみると、そこには、この手紙を持参した者を即刻殺せ、と書いてあることがわかった。
まず彼女は求婚者に顔を見せ、彼の平静さを失わせる。それから謎を言い渡す。解けない者は、死ななくてはならない。」
王子は一晩中、目を閉じることができなかった。翌朝、馬に乗って城に出かけると、一人の若者が首をはねられるところであった。王女への罵声も耳にした。
やがて夜空の月のように光輝く王女が登場する。彼女は玉座に座り、王子に向かい側の椅子に座るよう指示する。
「落ちぶれて、家も宮殿も玉座も失った王子。父と母により身支度を整え、パンを求めてさまよっていると、第1の死に出会う。
まず腹心の侍女を呼び、高貴な服装と装身具を身にまとわせ、ワインの入った瓶を持たせて、王子のもとへ遣わす。
もう500人もの王や王子を死なせました。私は謎解きでのあなたの見事な振る舞いに、すっかり惚れてしまいました。
彼女は王子をワインで散々に酔わせる。王子が彼女をものにしようとする直前に、娘は謎の答えを教えてくれるように頼む。王子は次のように答える。
父を売って馬を手に入れ、母を売って衣装と武具と整えた。パンを探すために道をさまっているとき、若い男に出会った。彼は中国の皇帝の使者だという。
私の方が立派なので、私に代わりに使者になれと言う。私は手紙を小脇にかかえ、彼と一緒に進んだ。すると突然、激しい雷雨が襲ってきた。
道に迷い、この男も見失った。探しても無駄だった。水も住まいもない砂漠で渇きに襲われ、死ぬかと思った。
これが第1の死である。やっとのことで井戸にたどり着き、水にありついた。手紙を開けてみた。すると『これを持ってきた者を殺せ』と書いてあった。
私が小脇にかかえていたもの、これが第2の死。もしこの手紙を王に渡していたら、私は殺されたのだから。私は手紙を破り、井戸に投げ捨てた。
このあと、盛大に結婚式が取り行なわれる。アヤソフィア写本はここで終わっているが、ボドリアン写本ではさらに後日談がさらに続き、王子は両親を取り戻し、また王位を追われた国も回復することになる。
このボドリアン写本の物語の内容は、『千一日物語』のカラフ王子の物語の内容と似ている点が極めて多く、以下のような類似点も指摘されている。
以上、マイアーの論文の概要に沿って、ペルシアにおける謎かけ姫物語の系譜を辿ってみたが、この最後のボドリアン写本を『千一日物語』の中の「カラフ王子と中国の女王の物語」が生まれる契機となった作品とみなすのは、内容の完成度の高さから見ても、極めて妥当であろう。
また『千一日物語』の成立にまつわる事情がどうであれ、「カラフ王子を中国の王女の物語」がペルシアの謎かけ姫物語の長年に渡る変遷を経ての一つの到達点の観があるのは、ペティ・ド・ラ・クロワの構想力と筆力によるところが大きいように思われる。
主要な登場人物に Tourandocte などを始めとするお馴染みの名前を与えたのも、おそらく彼であろう。
何はともあれ、今回、プッチーニのオペラで名高いトゥーランドットの物語に、こうした深い背景があることを知ることができたのは、大きな収穫であると同時に驚きでもあった。
(1) 最上英明 「トゥーランドット物語の変遷」 『香川大学経済論叢』第70巻第2号(1997年)169〜181頁。
(3) 高崎保男 「プッチーニ:歌劇《トゥーランドット》」ポリグラム【カラヤン盤CD、レヴァイン盤LDなど】。
同論文によると、マスウーディー(896〜956)の物語でも、アレクサンダー大王と賢者との間で、こうした比喩的言語によるやり取りが見られるという。
(20) Bürgelは、ドイツ語版『ハフト・パイカル』の注で、別の2つの解釈を示している。

[ 123] トゥーランドット物語の起源
[引用サイト]  http://www.ec.kagawa-u.ac.jp/~mogami/turan2.html

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韓国起源説(かんこくきげんせつ)とは、日本や中華人民共和国など外国の諸文化の起源を朝鮮半島にもとめる主張の総称。その分野は剣道、柔道、合気道、相撲といった武道を始め、茶道、盆栽、日本刀、侍、武士道、刺身やうどんなどの日本食、じゃんけん、さらには英語など世界中の言語にいたるまで多岐にわたる。
韓国起源説がいつごろ始まったかは定かではないが、近年のインターネットの普及により広く知られるようになり、日本でも『マンガ嫌韓流』などで取り上げられて注目を集めるようになった。韓国内ですら受け入れられていない説[1]から、韓国外でも信じているものが多い説まで様々である。
このようなものを揶揄して日本のネットユーザー、特に2ちゃんねるでは、朝鮮語で「私達の」を意味する「ウリ=??」とかけて「ウリジナル」と呼ぶことも多い。なお、ウリジナルは元々、韓国人がウリナラ(我が国=韓国)オリジナルという意味で使っていた言葉である[要出典]。このウリジナルという言葉は、週刊『新潮』や『文春』、『SAPIO』などでも取り上げられた。
このような起源主張は韓国以外にも少なからず存在するが[2]韓国起源説の場合は、量が日本などのそれとは比較にならないことや、大韓剣道協会のような大団体や、朝鮮日報、東亜日報のような大手新聞社が堂々と主張したり、映画が作られたりと活動が大規模なものもあり、場合によっては国際的影響力を持ちつつあることなどに特徴があるといえる。
恐らく最も有名な例が侍及びその派生である武士道、剣道の韓国起源主張であり、侍起源を百済に求める映画『サウラビ』(朝鮮語で「ssaul-abi(戦う男)」を意味する)[3]や、『武士』(ムサ)[4]というタイトルの映画が製作された(サウラビについてはそちらの方を参照)。
その他、韓国の剣道団体である海東剣道が高句麗の「士武郎」(「サムラン」と発音)に侍や武士道の起源を求めたりしている。(海東コムド団体が侍の起源は古代朝鮮で存在した士武郎(サムラン)であると主張したが、韓国内で裁判が行われた結果、士武郎起源説は捏造であったことが発覚した[5])。
剣道は韓国でテコンドーと並ぶ人気武道であり、日本の剣道との差は蹲踞(そんきょ)がないことや袴の色や形程度のものなのであるが、韓国系移民が中心となり米国を始めとした各国で「kumdo」(「コムド」と発音。「剣道」の朝鮮語音)の名で韓国の競技として広めている団体も少なくなく(例:アイオワ大学コムドクラブ、世界コムド協会、US HwaRangKwan等 )、海外においては「剣道」と「コムド」の「他流試合」が行われることもあるほどである(詳しくはコムド参照)。
韓国最大の剣道団体である大韓剣道協会はその公式ホームページにて、剣道の起源が韓国にあると主張しており[6]、国際剣道連盟(International Kendo Federation)に参加していながらも、その英語の正式名称はkendoではなくkumdoを固持し(Korea Kumdo Association)、剣道の真の宗主国として当然であるとしている[7]。この剣道韓国起源説はインターネットの発展に伴い、日本剣道連盟がその公式ホームページにおいてわざわざ否定する文章を掲載しなければならないまでに普及した[8]。
また、柔道においても剣道と同じようにYudo(「ユド」と発音。柔道の朝鮮語音)の名で海外で普及活動が行われており、全米ユド協会(United States Yudo Association)はその公式ホームページにおいて、柔道の起源を朝鮮半島にあるとし、「豊臣秀吉の朝鮮出兵で日本に伝わりその後朝鮮半島では柔道は廃れ、20世紀になって日本から再輸入された」と主張している(実際には柔道の基である柔術の発祥は秀吉の朝鮮出兵よりも前に遡ることが出来る)[9]。また、柔道韓国起源説に対して全柔連教育普及委員長、講道館資料館部長は否定コメントを出している[10]。
また、多くの韓国起源説に共通する主張として、「日帝による文化抹殺」というものがある。これは日本による朝鮮半島統治時代に日本が朝鮮半島の文化を抹殺したというもので、現在の朝鮮半島に起源主張している文化が存在していない理由として主張されるものである。また、起源主張していない文化についても、自己文化の伝統と正当性の根拠付けとしてよく用いられる。主な例として弓道[11]や折り紙[12]が挙げられる。
他にも主な例として以下のような物がある。ただし韓国国内及び諸外国においてどの程度信じられているかは不明。
韓国語韓日の言語比較の結果、日本語の起源は韓国語と主張。韓国語と日本語は語順、助詞の存在等文法的に似ている点が認められ、日本国内でも日本語と韓国語の関連性の研究は古くからなされているが、現在は一般的には孤立した言語とされており、少なくとも語彙の関連性は殆ど無いとみなされている。この記事で紹介されている研究は韓国語で顔を意味する「ナッ」と日本語の「なつく」を対応させているが、対応させている単語が恣意的で、本来対応させるべき「ナッ」と「カオ(顔)」の発音の違いを無視しており学術的信憑性は薄い。 [13]
「日本の神社が古代朝鮮半島の直接的影響を受けて作られ、日本人は今も韓国の神を祭っている」と主張。高麗神社や飛鳥戸神社といった渡来人を祭っている神社を根拠に神社そのものが朝鮮半島起源であると拡大解釈。 [14][15]
ホン・ユンキ韓国外国語大学教授の主張。うどんも元々をたどれば中国起源であり、朝鮮半島起源ではない。[16]
しゃぶしゃぶは日本やモンゴルの食べ物ではない、高麗時代に韓国からモンゴルに伝わった料理だと主張。根拠不明。[17]
日本人研究者が日本酒の起源は慶州の法酒だと語ったとされているが、実際にはただある一つの説を紹介したに過ぎないものを韓国記者が故意に曲解したのだという。[18]
さらに、近年、日本酒のルーツがマッコリであると多くの在日朝鮮人系酒店及び韓国料理店がWebサイトにて主張して問題となっている。この主張は明らかに誤りであり、日本酒の本来のルーツである どぶろくは口噛みの酒などに遡る事ができ、その発展と共に発酵方法や歴史的な流れも異なる。詳しくは日本酒とマッコリを参照
「竹島」という名前が竹島の韓国名「独島」(トクド)に由来するという主張。ここで説明されている1900年10月25日大韓帝国勅令第41号の「石島」が今の「独島」であるという説の根拠は方言の発音という一点しかなく根拠に乏しい。日本の研究者には「石島」は現在の「観音島」を指すとするものもいる。少なくとも日本が現在の竹島を「竹島」と呼ぶようになったとき(1905年。それまでは「松島」と呼んでいた)には、朝鮮半島においても「独島」という語は一般化しておらず、また、「竹島」の呼称は自然発生したものではなく政府によって命名されたものなので、「独島」が訛って「竹島」になったという主張は明らかに無理がある。[19]
一般に日本産のサクラとして知られているソメイヨシノ染井吉野は本当は済州山(チェジュサン)の王桜、つまり韓国産のサクラであるとする主張。この件に関し「日本が歴史教科書まで改竄している」と書かれている。1932年に小泉源一がそのような説を唱えたことが根拠となっているが、当時から疑問視されており、DNA鑑定により現在では否定されている。しかし韓国政府はこの説を支持し、積極的に桜の植樹を行っている。[20]
ハロー!プロジェクトの番組『ハロー!モーニング。』内でのある韓国人男性の主張。根拠不明。じゃんけんのような三竦みの遊びは世界各地で見られる。[21]
[4]参照。また朝鮮新報は「茶においては1千年前の新羅の時代の礼法がほとんどそのまま日本に取り入れられた」とまで言っている。[23]
相撲の本流を韓国の「シルム」としている。コムドと違い、シルムは日本の相撲から発生したものではないが、日本の相撲の起源という証拠はない。[25](中央日報、2004年2月16日)
「居合道も高麗時代日本に渡っていった我々の剣術に過ぎません 」。[26](嶺南日報 1996年5月21日)
李寧煕なる人物が、「もう一つの万葉集」(ISBN 4163435603)なる本を出版し主張している。
李寧煕なる人物が、「もうひとりの写楽―海を渡ってきた李朝絵師」(ISBN 4309902774)なる本を出版し、写楽は朝鮮通信使だった。そして、十返舎一九の父親もまた李朝の高官だった。などと主張している。また、檀園・金弘道と写楽が同一人物であるという説もある。[27]源義経がチンギス・ハーンだというのと同じ程度の主張。
歌舞伎の起源を百済技楽としている。しかし歌舞伎とは似ても似つかないものであり百済技楽自体過去に存在したかどうかも不明である。[28]
正統武芸道場 正気館ホームページ(和訳、報道資料日本語訳)に「合気道は三国時代の新羅三郎 源義光が始祖」と書かれているが、源義光は新羅神社で元服したから新羅三郎なのであり、朝鮮半島とは何のかかわりも無く、基本的な事実確認が行えていない。世界ハプキドー協会は「現代合気道(ハプキドー)のような武道技術はAD372年の高句麗への仏教の伝来と共に古代朝鮮に伝えられた。その証拠はその時期の古代壁画及び洞窟絵画、彫刻から見出すことができる」と主張している(韓国起源説では、古代壁画を持ち出して起源主張するものが多い)。また、ここでの日本の朝鮮支配についての記述「全ての市民の自由が奪われた」「韓国語も韓国の歴史も抹消した」「韓国の武道はおろか韓国のスポーツも許されなかった」などは完全に事実誤認である。コムド、ユドと並び諸外国で「韓国のスポーツ」としての認知が広まっている代表的韓国起源説。詳しくはハプキドー参照。
カタカナの起源を新羅に置いている。しかしこの証拠だけでは新羅が起源であるという裏づけにはならない。[30]
韓国動物保護研究会のユンシングン会長が「秋田犬」を 珍島犬(全羅南道珍島産の犬)が現地化したものと主張している。[31] 一方、秋田県の公式サイトによれば、「秋田犬はヨーロッパからソビエトを経て北海道を経由して秋田に土着したもの」とのこと。[32]
池を作る技術が百済から日本に伝わったことと朝鮮半島の故事に鯉に関わるものがあることから、錦鯉のルーツを日本ではなく韓国にあるものとしている。[33] しかし4世紀の中国の書物にすでに様々な色のコイについての言及があり、この主張は韓国発祥の証拠にも日本に伝わった証拠にもならない(コイ自体は西アジア原産)。錦鯉と呼ばれる種類が出来上がったのは19世紀の新潟。[34]
朝鮮半島には土着文化の一形式として原始的生け花が存在し、仏教伝来と同時に生け花の一様式が百済に伝来し、それが日本に伝わり、その後朝鮮半島独自の生け花は日帝(日本による朝鮮半島支配)により抹殺されたと書かれている。[35]
韓国・成均館大学の博士学位である鮮于栄俊・首都圏大気環境庁長は 沖縄の旧称である『琉球国』が『古代の鬱陵島住民の移住によって建国された』と主張している。[36]
韓尚勳・野生動物連合常任議長は、 「日本の生態系の根は韓国」「韓国の優秀な生態系が日本に伝わった。日本の生態系の“根”が韓国であるということを日本人に知らせる」と主張している。[37]
韓国サッカー協会が自身のウェブサイト上で「サッカーの起源は朝鮮半島」と書いて、多くの抗議を受け削除したとのこと。全く根拠不明。[40]
韓国固有の医術として世界文化遺産登録しようという動きがあり、中国医学会と論争を起こしている。[41]
韓国発祥の「世界無形文化遺産」としてユネスコに申請してそれが認められてしまった。端午の節句は中国が起源。[44]
四大文明全ての起源は桓国であると主張。韓国人の起源である桓国が世界最古の国家であるとしている。[46]
「『兎と亀』など韓国の童話をテーマにした庭園」と書かれている。もちろん『兎と亀』はギリシャの『イソップ物語』であろう。[47]
韓国の某豆乳メーカーが「韓国は数百年前から家庭で豆乳を作っていた。韓国が豆乳の発源地」主張。中国が反発している。[48]
このような韓国起源説が、韓国及び韓国人コミュニティにおいて特異的に騙られる要因として、幾つかの分析が行われている。その幾つか代表的なものを記載する。
『マンガ嫌韓流』などで主張されている。韓国は、清朝末期までの長い期間中国朝廷の属国としての歴史が長く、中華文化こそ正しいとする事大主義文化が続き、自国独自の文化を蔑んできた歴史があった。
その後、戦後独立により、国民国家形成と国際的な認知を得るための確固たる国家的独自性やアイデンティティが存在していなかったため、既に現在ある文化、特に既に世界に知られている侍、柔道、天皇などを韓国起源と主張することで、植民地期に築かれた日本に対する劣等感を克服し、国民のアイデンティティの形成と同時に海外からの認知を容易にいっぺんに得られるからであると考えられる[49](事大主義が強かった朝鮮半島では独自の文字であるハングルさえも、作られたのは15世紀だが一般に普及したのは日本併合時代である。戦後独自の国民アイデンティティの形成のために漢字教育を捨てハングルのみを用いるようになった)。
韓国人の起源主張は外国文化だけではなく、東亜日報によればソウルの店には「元祖」を主張する看板だらけであり、「韓国人ほど元祖に拘って執着する民族も珍しい」という。[50]。
韓国の文化剽窃癖については、韓国の教育、特に教科書に多くの問題があると複数の国や研究者から指摘されている。例えば、韓国の国定教科書初等学校(日本の小学校に相当)社会では、「わが民族の海外進出」の項目に以下のような記述が為されている。[51]
ちなみにこの「あげた」という言い方は朝鮮語においては「親が子供に、先生が生徒にといった目上の人が目下の人に使う表現」[52]である。 またこの項目で日本に伝えたものとして紹介されている紙、筆、墨、絵具、儒教、仏教なども元をたどればその殆どが中国かインド起源であり、朝鮮半島起源ではない。だがそれらの文化の一部が朝鮮半島経由で日本に伝わったものがあることは事実である。(ただし古代の日本と中国が直に交流していた事もまた後漢書東夷傳などの記述で明らかになっている)
これらの多くも国定教科書にも「朝鮮半島起源」と書かれているわけではなく、正確に言えば「韓国起源説」の一つとは言えないが中国には殆ど言及しておらずことさらに「民族」が強調され、あたかも日本文化の全てが朝鮮半島から伝わったものであるかのような誤解を助長しているといえる。また伝説的人物である檀君を、「史実」という言葉を用いて歴史上の人物としてあつかい、朝鮮半島の歴史が非常に古いもの(紀元前2333年から。中国最初の伝説的王朝夏王朝より250年、存在が確認されている最初の王朝殷より700年も古い)であるという認識を学生に与え、古代文明が全て朝鮮半島起源であるとか、数多くの文明、文化の韓国起源主張のバックボーンとなっている。
上述のような起源説だけではなく、実際には単純に無知ゆえに勘違いしていたり類似文化を普及度で本家主張しているだけの場合もある。さらにこのような事態を揶揄して、新たな韓国起源説を捏造して面白がる日本人もおり、そのような嘘を本当に韓国人による起源主張だと勘違いして広める者もいる(例:クリスマス韓国起源説)。
また、韓国起源説が日本でもよく知られるようになったことで、韓国が別に起源主張しているわけでないものまで韓国起源説として誤解されることがある。例えば、ユンソナが『ドラえもん』を韓国人が作ったキャラクターだと思っていたという事実を「ドラえもん韓国起源説」と認識した日本人もいるが、実際には現在韓国においてもドラえもんは日本のマンガとして扱われ、94年から刊行が始まった正規出版の単行本では作者名Fujiko F Fujioと日本語名で書かれている。ユンソナがドラえもんを日本のマンガと知らなかったのは個人の知識の問題であり、確かに韓国では長い間ドラえもん等日本のマンガ、アニメがあたかも韓国製であるかのように改竄された海賊版が出回っていたが(『トンチャモン』)、それは起源主張ではなく韓国政府の日本文化排斥政策と著作権の問題であり、すでに世界に知られている日本文化を韓国が起源であると世界にアピールする韓国起源説とは異なる。
^ 例えば日本で明治時代に木村鷹太郎が『海洋渡来日本史』(木村鷹太郎の世界)において日本人は古代エジプト人であり、古代ギリシャ人であり、古代ローマ人でもあってかっては世界を統一した大文明を築いていたと主張していたりジンギスカンが源義経であるという伝説があったり、イランが「世界初のアニメーション発見」(世界初のアニメ発見?5千年前のイランが起源)を主張していたりする
^ 「こうした刀剣の機能と技器が後代に日本に伝わってこんにちの剣道の母胎になったのだが、これは誰も否認できない歴史的事実だ。」??? ??(和訳)
^ 「日本の酒専門家「韓国の伝統酒、日本の酒党たち魅了するだろう」」(東亜日報、2005年12月2日)
^ 小笠原圭一 、「秋田犬とその由来」(秋田大学総合科目研究紀要"秋田の自然と文化特集号"101-116 (1987))
^ 週刊新潮2006年11月23日号、可笑!?国人?明了?字?--文学--人民网(人民日報、2006年10月25日)
^ (石渡延男監修、三橋ひさ子他訳「国定韓国小学校社会科教科書」明石書店、2001年、44-46頁)

[ 124] 韓国起源説 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E8%B5%B7%E6%BA%90%E8%AA%AC

クローズアップ初回はレースクイーン(以下:RQ)基礎知識の一貫として、その起源と変遷について述べてみたいと思う。
RQはそのネーミングから海外から入ってきたスタイルのように思われがちだが、実は日本独自の文化である。起源は84年の鈴鹿8耐と言われており、その時はじめて水着にチーム名を刻んだ女の子がパドックに現われた。それまでもピットレポーターと呼ばれる女の子がいるにはいたが、今のスタイルに直結するスタイルが見られたのは84年からである。
その後、RQのコスチュームは各チームごとに趣向を凝らすようになって行き、ハイレグの角度もより鋭角的になって行った。そんな刺激的な出で立ちゆえか、マスコミからも注目を浴びるようになり、RQの存在は徐々に市民権を得て行った。
この当時、ひときわ脚光を浴びたのが御存じ岡本夏生(敬称略)である。ハイレグにパラソルという定番ファッションを名刺代わりに、テレビにたびたび登場。明け透けなキャラクターが重宝がられ一躍、時のRQとなる。その後、彼女はタレントとして芸能会に身を置くこととなるが、RQという肩書きを持ったままメジャーになったのは、後にも先にもも彼女が唯一無二である。
このような流れでRQは広く知られるに到るが、バブルの崩壊と共にレースから撤退するチームが続出。一般にも知られていた有名レーサーの相次ぐ引退や事故死などで、レースそのものの注目が薄れていった。必然的にRQも激減し、このまま衰退するのではないか、と言う声さえ囁かれたが、ファンの根強い支持により、出版物やビデオなどで再ブレイク。現在は第2次ブームとして、新たな展開を見せ始めている。
確かに出版物やビデオなどは96年頃から激増している。最近ではインターネットの普及により、RQ本人やファンがHPを続々と立ち上げ、オンライン写真集やデジタルグッズ(スクリーンセーバーやデスクトップカレンダーなど)の発売も盛んだ。またCSやインタネットTVなどでRQ主体の番組も始まり、マイナーながらテリトリーを広げつつある。
*)こういったメディアとの絡みは非常に興味深いので、いずれ独自の項目で掘り下げる予定である。
以上がRQの起源とその後の流れである。昨年は韓国で「フォーエバーピース2000」と題されたツーリングカーのイベントに現地RQが登場し、日本からも「SUPER
GIRL」や「ENDLESS」RQ達が参戦した。徐々にではあるが国際的にもなっているようだ。果たしてこのような動きが今後のRQシーンにどのような影響を及ぼして行くのだろうか。興味の在り処は今後も尽きなさそうだ。

[ 125] RQの起源と流れ - [レースクイーン]All About
[引用サイト]  http://allabout.co.jp/entertainment/racequeen/closeup/CU20010211/



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