ソ連とは?
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日本の隣国ロシアは不思議な国で、ある人にとっては神秘的な魅力に満ち溢れた国であるのに、別の人にとっては得体の知れぬ近寄り難い国のようです。実際、数多くのお客を彼の地へ案内している旅行会社の社員に聞くと、一度ロシアへ行った人の多くは両極端に別れる傾向があるそうです。一方は、その魅力にとりつかれてその後も繰り返し足を運ぶ人、そして他方は「ロシアだけはもう金輪際行きたくない」という人。 私はどういうわけか前者の部類らしく、1979年の暮れにバレエを見に荒れる冬の日本海をナホトカまで渡ってモスクワとレニングラード(当時)に行ったのを皮切りに、以来今日までかれこれ40回以上にわたって旧ソ連邦とロシアの各地を旅行してきました。 幸か不幸か、私がソ連・ロシアを旅行した時期は、いわゆる「停滞の時代」からペレストロイカを経て“粗野な資本主義”の時代まで、社会と人々の価値観とが大きく変っていった時で、その激変の様子を目の当たりにした二十年余でもありました。ここでは、一旅行者の目で見たその時期のソ連・ロシアの都市と自然、そしてそこに住む人々の表情を何回かにわけてご紹介しようと思います。Copyright(c):石川顯法 1997-2007 一部のHTMLファイルで、<IMG>タグ中の画像の大きさを指定していません。そのため、目次で指定したページと画面に表示されるページが一致しない場合があります。その際は下方へスクロールしていただくと目次で指定したページが見つかります。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。 第1章 サンクト・ぺテルブルクとその郊外 (1997.3掲載/1998.4更新/2006.12一部修正) モスクワよりはるかに新しい町でありながら、心の故郷へ帰ってきたような不思議な印象を与える美しい町、サンクト・ペテルブルク。 300年の間に、文学,演劇,音楽,美術,建築,科学などの巨大な花を開かせた町。 そして同じその間に、建設と破壊,栄華と困窮,蜂起と弾圧,包囲と解放,革命とその崩壊,..と歴史の多様な試練をくぐりぬけてきた町でもあります。 ■■サンクト・ぺテルブルク点描 → 運河のある風景/青銅の騎士像/ネフスキー大通り/ペトロパヴロフスク要塞/要塞監獄/要塞の中の教会/エルミタージュ/聖イサク寺院/カザン寺院/スパース・ナ・クラヴィー聖堂/アレクサンドル・ネフスキー修道院/ゴスチヌィ・ドヴォール/夏の庭園/デカブリスト広場/宮殿広場/芸術広場/ロシア美術館/カザンスカヤ広場/ネヴァ河畔の並木道/水路/フィンランド湾/アストリア・ホテル/アニチコフ橋/トロイツキー橋/エカテリーナII世像/アレサンドリンスキー劇場/ロッシ通り,他/スフィンクス/旧海軍省/中央郵便局/モスクワ駅/地下鉄駅/マリインスキー劇場/シチェドリン図書館/キーロフ・スタジアム/街角/ネヴァ川/ドストエフスキーの墓/チャイコフスキーの墓/グリンカの墓/ボロディンとムソルグスキーの墓/R・コルサコフの墓/ルビンシュテインの墓/ボルトニャンスキーの墓/クラムスコイの墓/シーシキンの墓/プティパの墓/ツルゲーネフの墓/プレハーノフの墓/ワガノワの墓/ニコライII世の墓/日露戦争戦没将兵の慰霊碑/動物学博物館 ■■十月社会主義革命の足跡 → 巡洋艦“オーロラ”/スモーリヌィ/幼時のレーニン/レーニン博物館の展示品/旧レーニン博物館前の装甲車/フィンランド駅/ケレンスキーの閣僚が逮捕された部屋/ラズリフ湖畔“緑の書斎”/レーニンの母と姉の墓 ■■900日の包囲に耐えて → ピスカリョフ墓地/ターニャの日記/「通りのこちら側は危ない」の標識/道路脇のトーチカ跡/勝利の広場 ■■サンクト・ペテルブルク郊外 → 郊外の民家/レーピノ/ペトロドヴォレツ/プーシキン/パブロフスク 子どもは世界のどこの国でも可愛いのでしょうが、ロシアを旅行すると特に子どもたちの可愛さが印象に残ります。もっとも、口の悪い人達は「その分、大人が憎らしい」などと言ったりしますけれど.... イルクーツク/サンクト・ペテルブルク/バツーミ/ナリチク/エニセイスク/プーシキン/フィンランド湾/エレワン/ミンスク/ハバロフスク/キエフ/キシニョフ/レニングラード/ペテルゴフ/セヴェロバイカリスク/マリ(トルクメニスタン)/モスクワ/ティンダ/シカチアリヤン(アムール河畔)/ムルマンスク/ユルマラ(ラトビア)/ナガリク(サハ)/ヴォログダ/ノブゴロド/オデッサ/ヤールツェボ(エニセイ河畔)/ビリニュス/オルジョニキッゼ/ペトロザボーツク/シーダ(バイカル湖畔)/コムソモリスク・ナ・アムーレ/ウラジヴォストク/タリン/テラビ(グルジア)/ヤルタ/ドゥヂンカ/ストールビィ(クラスノヤルスク郊外)/エニセイ最下流域/カムチャッカ/シベリア鉄道/ボルガ河/北コーカサス/グルジア軍用道路/ブハラ/シャフリサブス/ヒワ/アシハバード/トロイツコエ(アムール河畔)/ユジノサハリンスク/アルハンゲリスク/キジ島/オリホン島/ブラワ(アムール河畔)/ボゴロツコエ(アムール河畔)/マンドロギ/スヴィリストロイ/ヤロスラブリ/ザポロージェ/ヘルソン郊外/ゴリツィ(ボルガ・バルト運河)/サラトフ/クリン/クラスノヤルスク 川崎市にある「日本民家園」のように各地の古い木造家屋を集めて展示した施設が、あちらにも各地にあります。旅に出るようになるまで、私はロシアというのは建物を石で作るとばかり思っていましたが、じつは民間は木造家屋が主流だったのですね。何と言っても森の国ですし。こうして集められた古い民家や教会を見ていると、何か日本の家々と共通するものがあるような気がしてなりません。 スズダリ/コローメンスコエ(モスクワ)/漁業コルホーズ「ウズバラ」(ラトビア)/ロッカ・アリ・マレ(エストニア)/キジ島/コズモデミャンスク(マリ)/コストロマ/アルハンゲリスク/ノブゴロド/窓飾り/軒下の飾り ロシアといえば冬の“トロイカ”ですが、車輪のついた馬車も健在。むしろ、馬橇は観光用のものしか見たことがありません。たぶん、私が観光地ばかりを歩いていて人々の地道な生活の場をきちんと見ない、そんな旅行をしているせいでしょうね。 シベリアの大地を1週間かけて走り抜ける鉄道の旅。誰でも一度は憧れる旅ではないでしょうか。それとも「『憧れる』なんてとんでもない!1週間も乗りっぱなしでは退屈この上ないじゃない。」と思ってらっしゃいますか?それが不思議なことに何度乗っても退屈することなんか全然ないのですよ。 ウラジオストク /ハバロフスク/車窓の風景(枯れた草原)/ウラン・ウデ/イルクーツク /バイカル湖/旅は道連れ/エニセイ川/クラスノヤルスク/ノボシビルスク/車窓の風景(オビ河畔の農地)/ペルミ/ヤロスラブリ/セルギエフ・パッサート/モスクワ 黒海に突き出たクリミア半島、とりわけその南岸は変化に富んだ地形と温暖な気候で古くからロシアの人々によって保養地として利用されてきました。厳しい寒さと単調な大森林や大平原の中に住むロシア人にとってここが憧れの地であろうことは双方の土地を比べてみるとよくわかる気がします。今でも、モスクワっ子にとって、夏の休みにクリミアなど黒海沿岸に行って肌をちょっと黒めに焼いて帰ってくるのはステイタスを自慢することになるんだそうです。 ヤルタ(燕の巣,リバディア宮殿,アルプカ宮殿,チェーホフの家,裏通り,ヤルタ港,海岸通り,公園,教会の塔,黒海を望む,葡萄畑と黒海,薄暮と夜景,森と湖)/フォロス/セワストーポリ(入り江,モニュメント,海に面したゲート,海港,軍港,大通り,裏通り,ナヒーモフ像,レーニン像,入り江を望む,ウラヂーミル教会,黒海艦隊博物館,臨海公園,堡塁跡,ジオラマ館,遺跡)/バフチサライ/シンフェローポリ郊外 ロシアとヨーロッパのはざまに位置し、歴史の過酷な試練にさらされ続けてきた小国ベラルーシ。しかし、ソ連崩壊に先立つこと40年も前から国連に議席を占めていた誇り高い国でもあります。 ミンスク(旅客駅,駅前広場,勝利の広場,街角,教会,アフガン戦争戦没兵士慰霊碑,バレエ・オペラ劇場,トロエツカヤ旧市街区,ロシア社会民主労働党第1回大会会議場)/ハティニ/チェルノグラディ/ゴメリ/ブレスト(要塞,ブレスト講和締結地,中央駅,ドラマ劇場,教会,市場,子どもたちの像,街角) ロシアの首都モスクワは、その名が初めて文献上に現れて以来1997年で850年になるということで、その年の9月に850年祭を盛大に祝いました。そのモスクワの名所を「観光案内」風にご紹介してみます。 赤の広場/レーニン廟/片山潜の墓/グム/ワシーリー寺院/歴史博物館/ホテル「ロシア」/クレムリン/クレムリン内の教会群/武器庫/鐘の王様/大砲の王様/中心部鳥瞰/道路元標/アレクサンドロフスキー庭園/マネージナヤ広場/勝利の公園/凱旋門/バリケード型のモニュメント/ゴーリキー公園/コローメンスコエ/郊外の団地/オスタンキノ/ВДНХ/動物園/植物園/モスフィルム/製菓工場/トヴェリ通り/カリーニン通り/アルバート通り/寒暖計のネオンサイン/ペレストロイカの風/レーニン像/マルクス像/ユーリー・ドルゴルーキー像/チャイコフスキー像/ゾルゲ像/ジューコフ像/ノヴォヂビチ修道院/ダニーロフ修道院/カザン聖母聖堂/救世主キリスト大聖堂/プーシキン美術館/トレチャコフ美術館/露天彫刻美術館/ボリショイ劇場/モスクワ芸術座/高等音楽院/チャイコフスキー・コンサートホール/動物劇場/サーカス/レーニン図書館/モスクワ大学新館/モスクワ大学旧館/モスクワ川/セブ/ホワイトハウス/シャンペン工場/石細工の工場/「クロコヂール」編集部/日本人学校/星の街/地下鉄駅/鉄道駅/河港/空港 ブレジネフのソ連時代、我々外国人旅行者がまず驚いたのは、パン屋といい肉屋といい、どこでも必ずと言っていいほど長い行列があることでした。そんな時代にあってほとんど唯一供給が需要を上回っていたのが年賀はがきだったのです。いえ、私がそう言っているわけではありません。当時ソ連大使館広報部から発行されていた「今日のソ連邦」という雑誌にそう書いてあったのです。でも、図柄の素敵なのも少なくなく、何よりも価格が安かったので私は現地で大量に買い込んでは、日本へ帰ってから子ども達への年賀状として使ったものです。 モスクワ・クレムリン/グジェリ陶器/平和を訴える/冬の森/小鳥とチョウザメ/子ども達のために/おとな達にも/ザルービン氏作品集/森の動物たち/封書用ニューイヤー・カード/クリスマスカード兼用/新生ロシアの官製年賀はがき/官製クリスマスカード/封書用私製クリスマスカード/バースデーカード/グリーティングカード モスクワの北西のバルダイ丘陵に源を発し、はるか南のカスピ海まで3500km以上を流れる大河ボルガは、その位置と豊かな水量と全体を通じての緩やかな勾配から、古くからロシアの人々にとって、農業・漁業・交通・エネルギーをはじめ美術や音楽に至るまで、それこそ文字通り「母なる川」だったのです。そのボルガに沿って岸辺の町々をご紹介してみようと思います。 トヴェリ/モスクワ/モスクワ運河/ドゥブナ/ウグリチ/岸辺の教会/リビンスク貯水池/リビンスク/ヤロスラブリ/コストロマ/ニジニ・ノブゴロド/コズモデミャンスク/カザン/サマーラ/水門/川岸の風景/「緑の休息」/サラトフ/ボルゴグラード/アストラハン 高校生のときに誰もが習った元素の周期表で知られるD・I・メンデレーエフは、日本の高校化学の教科書に登場する唯一のロシア人でしょう。このメンデレーエフが生きた足跡がサンクト・ペテルブルクに残されています。 メンデレーエフ像/建物の壁に書かれた周期表/ペテルブルク大学/メンデレーエフ博物館/手書きの周期表/墓 第12章 バルト三国今昔(いまむかし) (1998.1掲載/1999.2更新/2002.11一部修正) ずいぶん以前、まだソ連に行き始めの頃のことですが、あるときロシア人のガイドと話していてバルト諸国のことが話題になりました。すると彼は「あそこは、反ソ感情が強いから」と言うのです。私は「おいおい待てよ。『反ソ』って言ったってあそこはソ連じゃないか?」と思ったものです。ゴルバチョフのペレストロイカがやってくると15の連邦構成共和国の中で最も早く独立の声を上げたバルト三国、それには私たちのはかり知ることのできないような厳しい歴史の背景があったはずです。今から約20年ほど前のソ連時代のものと、独立後しばらく経ってから撮影した写真とをご覧いただきます。 ■■ソ連時代のバルト三国 → ビリニュス/トラカイ城/沿道の農村/国境/リガ/サラスピルス/ユルマラ海岸/漁業コルホーズ/タリン/ロッカ・アリ・マレ ■■独立後のバルト三国 → ビリニュス(ゲディミナス塔,国会議事堂,バリケード,積み石,慰霊碑群,アンタカルニス墓地,ソ連兵の像, 自動車道路,郊外の団地,鉄道駅,オペラ・バレエ劇場,大学,教会,通り)/カウナス(カウナス城,旧日本領事館,通り,広場)/国境/リガ(自由記念碑,石碑,広場,教会,石畳の道,城壁と塔,街角,ユーゲントシュティール建築)/タリン(街並,通り,太っちょマルガレータ,市役所,大聖堂,タリン港,日本大使館) ソ連邦崩壊の直後に書かれた日本のある新聞記事によると前章のバルト諸国とは逆に「連邦構成15共和国中、最も“不本意な”独立を遂げた」とされる中央アジアですが、古来よりシルクロードの要衝として幾多の興亡を繰り広げてきた深い歴史を持つ国々としてよく知られています。ほんとうに“不本意”だったのかどうかは知りませんが、その中央アジア諸国のうち旧ソ連邦の南側の国境に近い地域を私が訪ねた1991年暮れには既に独立国としての確かな一歩が踏み出されている気がしました。この章ではさまざまな古い遺跡を中心にご紹介します。 ■■ウズベキスタン → タシケント /サマルカンド/シャフリサブス/テルメズ/ウルゲンチ/ブハラ/ヒワ ■■タジキスタン → ペンジケント ■■トルクメニスタン → アシハバード/ニサ/アナウ/メルブ 函館からの飛行機がオホーツク海に出て数十分後にはもうサハリン島の上空で着陸態勢に入ります。ドア1枚隔てた隣のお宅のような土地サハリンの春と夏の表情です。 ■■春のサハリン → ユジノ・サハリンスク(市街,劇場,郷土博物館,戦没者慰霊碑,教会,日本製車両,花屋,物売り)/コルサコフ(港,駅,コルサコフ像) ■■夏のサハリン → ユジノ・サハリンスク(街角,サハリン鉄道本社,鉄道駅,郷土博物館,美術館,チェーホフ像,樺太神社跡,市場,公園,戦勝記念碑,教会,幼稚園)/コルサコフ(市役所,街角,丘の上の住宅群,市内俯瞰,港)/ブズモーリエ(鉄道駅,海沿いの集落,神社跡) 黒海からカスピ海にかけて5000mにも及ぶ高さの山々が連なるコーカサス。それは果てしのない平原と起伏のない森ばかりを見ているロシア人にとって、きっと別世界のようだったでしょう。プーシキン、レールモントフ、トルストイ、イッポリート・イワーノフなど多くの作家や音楽家、画家などがコーカサスに魅了されていることからもそのことが想像できます。 また、このあたりは多くの民族が入り混じっていて、古くから交易も盛んなかわりに紛争も絶えない地域でした。「片手に剣、片手に盃」というのはこの地方の人々にとってまさに実感だったのでしょう。 ■■ロシア → ピャチゴルスク/山麓の青空市場/ナリチク/渓谷/コーカサスの山々/オルジョニキッゼ ■■グルジア → カズベキ/グルジア軍用道路/アナヌリ/ムツヘタ/トビリシ(メテヒ教会,ナリカラ城趾,市街,ルスタヴェリ広場,ルスタヴェリ大通り,自由広場,街角,バルコニーのある家,鉄道駅,クラ川,城壁の跡,シオニ教会,ジナゴーグ,オペラ・バレエ劇場,動物園,サーカス,トビリシ貯水池)/テラビ/ゴリ/ツハルトボ/クタイシ/バツーミ(市街,イルカ,植物園,ツィヒス・ジリ遺跡,黒海) ■■アルメニア → アルメニア北部地方/ハフパット修道院/セヴァン湖/ガルニ/ゲガルト/エレワン(共和国広場,国立美術館,大虐殺のモニュメント,サハロフ像,芸術家の像,マテナダラン,黄昏)/リプシマ/エチミアジン/ガイヤネ/ズワルトノツ/エレヴァン郊外の修道院跡 ■■アゼルバイジャン → バクー(市街と高台,乙女の塔,城壁,キャラバンサライ,拝火教の寺院) ロシア民謡にも歌われてあまりにも有名なシベリアの湖バイカル。その深さは世界一で、地球上の淡水の5分の1がこの一つの湖に貯えられているといわれます。透明度もおそらく世界一。固有種の藻や小海老が水を浄化する働きをしているそうです。広さも琵琶湖の50倍近く、私が訪ねたのはその広大な湖のほんの隅っこにすぎません。 ロシアに比べたら穏やかな気候と肥沃な黒土とに恵まれて旧ソ連の穀倉の役割を果たしたウクライナ、そしてそれに隣接するモルダヴィア(モルドヴァ)の風景です。 キエフ(シンボル,祖国の母の像,キエフ市創始者の像,ウラヂーミル大公像,黄金の門,独立広場,道路元標,外務省ビル,街角,フレシャチク大通り,大祖国戦争のモニュメント,アフガン戦没者慰霊碑,キエフ大学,オペラ・バレエ劇場,鉄道駅,民族楽器,市内の公園,シェフチェンコ像,フメリニツキー像,歩行者天国,並木道,植物園,広場,レーニン像,農業集団化犠牲者慰霊碑,ロシアとウクライナの友好の碑,ケーブルカー,公園の石像,地下街,ペチェルスカ修道院,ソフィア寺院,アンドレイ教会,ミハイロフスキー修道院,ウラヂーミル教会,教会跡,イコン)/ドニエプル川/道路/オデッサ(オデッサ港,ポチョムキンの階段,オペラ・バレエ劇場,街角,裏通り,鉄道駅,並木道,広場,シェフチェンコ公園,通りの風景,戦艦ポチョムキンの碑,永遠の炎,チェルノブィリ犠牲者慰霊碑)/ザポロージェ/ヘルソン/ドニエプロペトロフスク/農村/向日葵畑/葡萄畑/ワイナリ−/キシニョフ(通り,商店街,物売り,噴水) 「黄金の輪」と呼ばれる古都群をはじめ、モスクワ周辺の有名無名の町や村を紹介します。モスクワの町を一歩離れると、そこには話に聞いていたロシアの原風景が広がります。 郊外への道/ウラヂーミル/スーズダリ/ヤロスラブリ/セルギエフ・パッサート/トヴェリ/クリン/トゥーラ/オリョール/ヤースナヤ・ポリャーナ ロシアといえば北の地という印象なのに、その中でもまた北の地域。冬には昼間がほんの数時間しかないとか気温が零下30度にも下がるという所です。しかし豊かな森林資源や漁業資源を背景に古い時代から人々の営みがありました。 ボルガ・バルト水路/ゴリツィ/キリーロフ/ベーロエ湖/コヴジャ川/オネガ湖/キジ島/マンドロガ/スヴィリストロイ/スヴィリ川/スヴィリ川河口/ヴァラアム島/ネヴァ川/ペトロザボーツク/ムルマンスク/鉄道沿線の村々/アルハンゲリスク さきの大戦で戦勝国側の一員だったとは言え、ソ連は他の国々とは比べものにならないほどの戦争被害を受けました。ことに戦争で亡くなった人の数は2千万ともそれ以上とも言われています。戦後の復興も敗戦国の日本以上に困難だったという面もあります。それだけに、為政者の思惑がどうであれ、人々の中には平和を心から願う気持ちが強いのです。 モニュメント(ボルゴグラード,レニングラード,コーカサス北麓,サラトフ)/陣地跡(オデッサ郊外)/要塞跡(ブレスト)/収容所跡(サラスピルス)/工場跡(ボルゴグラード)/埋葬記録(レニングラード)/永遠の炎を守る(オデッサ,キエフ,イルクーツク,ハバロフスク,ブレスト)/戦没兵士の記憶(コムソモリスク・ナ・アムーレ)/横断幕(キエフ)/ポスター(ハバロフスク)/街頭活動(ハバロフスク)/日本人墓地(ハバロフスク,イルクーツク)/戦没者慰霊碑(ナリチク,ヴォログダ,ミンスク) ロシアに幾度も行くようになって、どうしてロシアばかりにそう度々行くのかとよく聞かれます。自分でも一言では答えにくいのですけれど、はっきり言えるのは旅先で出会った人々との関係で不愉快な思いをしたことが殆ど無いことです。無類のお客好き、おせっかいとも言えるほどの親切、そして日本ではもう3-40年も前に失われてしまったような純朴さ、..そんなものにひかれてつい何度も足を運んでしまうのかもしれません。 歓迎/ガイド/通訳/運転手/車掌/ウェイトレス/客室係/船員/船長/船の受付係/歌舞団員/バラライカ弾き/踊り手/船客/読書する女性/鍵番/売り場係/堂守/聖職者/祈る人/祝福を受ける人/鐘撞き/デザイナー/製パン職人/露天商/ワイン醸造家/左官/花に水をやる人/コルホーズ長/工場長/仕立屋/ピロシキ売り/売り子/農婦/猟師/老闘士/生物学者/ロシア語教師/大学教師/音楽教師/幼稚園長/編集長/学芸員/自然公園管理人/調理員/旅行会社社員/ペンション・オーナー/音楽家/兵士/警官/小荷物係/青年/カップル/カップル風/新婚の夫妻/民族衣裳を着た娘さん/犬を連れた奥さん/父親/父と子/学生/師弟/生徒/少女/ハイカー/店番/別れ ロシアというとモスクワとかあちらを頭に浮かべがちですからずいぶん遠い所とつい思ってしまいますけれど、サハリンは別にしても、日本海のすぐ向こう岸がロシアなのです。飛行機でならほんの2時間、船でも一昼夜もあれば着いてしまう文字通りの隣国です。その中でも日本から「片道5時間」以内の極東と東シベリアの表情をお伝えします。 ナホトカ/ウラジオストク(港 ,鉄道駅 ,湾内,街角 )/ハバロフスク(広場,ハバーロフ像,通り,坂道,街角,人工池,内戦のモニュメント,教会,建物,木立ち,アムール川,スタジアム,日本人墓地,慰霊公苑)/イルクーツク(図書館と博物館,自由市場,冬景色,オベリスク,永遠の炎,アンガラ川,鉄道駅,キーロフ公園,金沢通り,デカブリストの家,ドラマ劇場,日本人墓地,修道院,朝,並木道,教会,民家,郊外のタイガ) ロシアやその他の旧ソ連各地で買ったり贈っていただいたりしたお土産の数々です。「モスクワ饅頭」とか「キエフ羊羹」とかはありませんけど、その土地土地の風土が育んだ素朴なものが多いのが特徴です。もちろん写真は現地で撮ったものではなく、デジタル・カメラを使って我が家で撮影したものです。 人形(マトリョーシカ,ロシア,ウクライナ,ウズベキスタン,グルジア,カムチャッカ,北方地方,リトアニア,ロシア[壁掛人形],ロシア[布製の人形],ベラルーシ)/藁製品(帽子,トレー,小箱)/サモワール/木の製品(鶴,小熊,寄木の小箱,白樺細工の小箱,壁掛け,匙,柄杓,木製のトレー,書見台)/塗りもの(ホフロマ塗り,パレフ塗り風の絵,ブローチ,木馬のミニチュア,復活祭の卵,台所用の木板)/石の加工品(孔雀石,ネフリート,琥珀)/焼きもの(小皿,グジェリ陶器,素焼きの人形,素焼きの鶏,料理用の壺,笛,飾り皿,小さな壺)/ガラス製品(白鳥,花瓶,愛の形,泡の芸術)/金属製品(鋳物,チェカンカ[銅の打ち出し細工],真鍮製のトレー,花柄のトレー,飾り匙,国旗をデザインした匙,灰皿)/布製品(プラトーク,民族模様の刺繍,ヴォログダ・レース,中央アジアの帽子,ぬいぐるみ,壁掛け,国旗のミニチュア)/動物製の品々(皮革製表紙の手帳,壁掛け,先住民の工芸品,牙細工,角製の置物,根付風のキーホルダー,マンモスのキーホルダー)/遺跡の木片/キーホルダー/バッジ/絵(小さな油絵,砂で描いた絵,小石を貼った絵,壁掛け,自筆の絵)/写真/蓮の実/石/ロウソク 観光でよその土地を訪れたとき、その土地の人々の生活のにおいをいちばん感じることができるのはきっと市場でしょう。だから外国へ行くと市場に寄るのが好きという人は多いはずです。私もその一人ですが、あちらの人々には写真を撮る時はきちんと身なりを整えてという考えが強くあるようで、作業着や普段着で写真を撮られることをあまり好みません。そのため、ちょっと腰の引けた写真になってしまっているのが残念です。 リガ/タリン/サマルカンド/ヒワ/ウラジヴォストーク/イルクーツク/エニセイスク/ドゥヂンカ/バクサン渓谷(北コーカサス)/コストロマ/エレヴァン/カヘチア/テラビ(グルジア)/ユジノサハリンスク/ブズモーリエ/ニコリスコエ(ボルガ河畔)/モスクワ/ハバロフスク/スズダリ/ヴォログダ/エリゾヴォ(カムチャッカ) 「クレムリン」という語はもともと“城砦”の意味で、その町々の聖俗の権力機関・行政機関の置かれた中心地でもありました。ですから、モスクワだけでなく中世以来のロシアの都市には、クレムリンそのものやあるいはその跡が今でも残されているところが少なくないのです。 モスクワ/ノブゴロド/ニジニ・ノブゴロド/カザン/アストラハン/プスコフ/ヴォログダ/コストロマ/ウグリチ 街の通りやその他の場所で見る看板や広告の写真を意識的に撮ってきたわけではありませんが、今になって手元にあるネガの中からこうして並べてみるとこの十年余の社会の変化が垣間見える気もします。 屋上のスローガン/大会準備/劇場の広告/演奏会案内/オペラの広告/商店の看板/西側のチェーン店/野球試合のポスター/地震被災者の救援/独立運動/チェルノブィリ子ども基金/大統領選挙/大統領/新しい市名/古い市名/ペレストロイカ/政党の看板/消されたレーニンら/制限時間/モスクワ850年祭/赤十字の看板/日本文化への関心/日本料理店の宣伝/遺跡案内/車窓の注意書き/エコマーク/有朋自遠方來/落下物注意 ロシアの人々の生活と歌や音楽とは切っても切り離せません。音楽はしっかりと生活の一部になりきっているのです。あちらの音楽で私がいちばん気に入っているのはロシア正教の教会音楽。聖堂の中でそれを聞いていると自分が地上にいるのか天上にいるのか判然としなくなるというのもあながち作り話とは思えなくなります。ロシアの人々の豊かな音楽性は教会で培われたに違いありません。でも、神聖な場所での撮影はためらわれて教会音楽の写真は1枚もなく、ここでは世俗的な写真ばかりです。 キエフ/オデッサ/セワストーポリ/ザポロージェ/コラ/エレヴァン/ゲガルト/コムソコリスク・ナ・アムーレ/スズダリ郊外/モスクワ郊外/ナガリク/カムチャッカ/ヴォルガ川/エニセイ川/ネヴァ川/ハバロフスク/レニングラード/サンクト・ペテルブルク/ペテルゴフ/ヤロスラブリ/モスクワ/セヴェロバイカリスク/ティンダ/ブラワ/シカチアリヤン/黒海/アルハンゲリスク/イルクーツク 広いロシアを縦横に走る交通機関。その乗り物の写真をと思ったのですが、ソ連時代には飛行機からの俯瞰は言うに及ばず、飛行場も鉄道の分岐点もみな撮影禁止だったので、手元のネガの中にも乗り物の写真は意外に少ないのです。 飛行機/海洋フェリー/河川用の客船/列車/列車の室内 /地下鉄/地下鉄の車内/市電/バス/トロリーバス/山岳用バス/系統タクシー/都市交通の切符/水中翼船/ヘリコプター どの町や村にも無数にある「通り」。人と同じでその表情はなかなか個性的です。ぜひ見比べてみてください。 旧市街の路地(ビリニュス,リガ,タリン)/路地裏(タリン)/石畳の道(タリン)/城壁の間(タリン)/城門の向こう(タリン)/城壁の外(アストラハン)/落書きのされた歩道(サンクト・ペテルブルク)/幅の広い歩道(キエフ)/幅の広い中央分離帯(ドニエプロペトロフスク)/幅の広い階段(オデッサ)/幅の広いプロムナード (ヤルタ)/ビルの谷間(リガ)/建物脇の歩道(モスクワ)/朝の通り(モスクワ)/歩行者天国(モスクワ)/古都の通り(ブハラ)/石畳の坂道(ヤルタ)/冬の夜道(レニングラード)/雨の歩道(レニングラード)/並木のある歩道(ユジノサハリンスク)/明るい歩道(ペトロパヴロフスク・カムチャツキー)/繁華街(サラトフ)/運河沿いの道(レニングラード)/川岸の通り(ハバロフスク,ボルゴグラード,プスコフ)/緩やかな坂道(ペトロパヴロフスク・カムチャツキー)/並木道(ボルゴグラード)/樹木に囲まれた階段(キエフ)/分離帯を兼ねた並木道(キエフ)/色づき始めた並木道(キエフ)/街路樹のトンネル(トビリシ)/樹氷のある通り(レニングラード)/バスの走る通り(レニングラード)/トロリーバスの走る通り(イルクーツク)/大学の見える道(モスクワ)/墓地の小径(サンクト・ペテルブルク) /山の見える道(カムチャッカ)/雪の降る道(ハバロフスク)/水溜まりのある道(ドゥヂンカ)/村の道(スズダリ)/村の「大通り」(トゥルハンスク)/曲がった道(トゥルハンスク)/タイガを貫く道(イルクーツク郊外)/森の小道(クラスノヤルスク郊外)/雪原に延びる道(シャフリサブス〜サマルカンド間) /樹氷のある街道(サマルカンド〜タシケント間) ソビエト連邦の崩壊、そしてその後のロシア経済の混乱のために、国内で流通する紙幣や貨幣はここ10年ほどの間にずいぶん変わってきました。その変化を振り返ってみます。デジタルカメラでいい加減に撮ったものですから、向きがまっすぐでなく、几帳面な方には気になるとは思いますがどうぞお許しください。 ソ連の通貨(5ルーブル紙幣,25ルーブル紙幣,硬貨,記念硬貨)/新生ロシアの通貨(100ルーブル紙幣,500ルーブル紙幣,1000ルーブル紙幣,ルーブル硬貨,新しい1000ルーブル紙幣/10000ルーブル紙幣)/デノミネーション後の通貨(10ルーブル紙幣,50ルーブル紙幣,100ルーブル紙幣,硬貨,ルーブル硬貨,記念硬貨)/ベラルーシの紙幣/ウクライナの貨幣/バルト三国の通貨(エストニアの貨幣,ラトビアの貨幣,リトアニアの貨幣) お札や硬貨のことに触れると、それよりもずっとコレクターの数の多い郵趣関係者から切手もという声が出そうですが、旧ソ連では切手で外貨を稼ごうとしたのではないかと思うほど多くの種類の切手が発行されていて、切手だけ取り上げても一つのWWWサイトには到底収まりきれません。実際、旧ソ連の切手を扱った日本語のサイトもありますし、ここでは私の手元にあるごく限られたもののご紹介に留めます。 ソ連の切手(特殊切手の例,「諸国民の祝日」,小型シート,年賀切手,アルメニア地震救援,日ソ共同宇宙飛行記念)/臨時切手(ウクライナ,ロシア)/加刷切手(アゼルバイジャン,ロシア)/ロシア以外の国の切手(ウクライナ,ベラルーシ,ウズベキスタン,リトアニア,ラトビア,エストニア) ロシアの子どもたちと仲良しになって手紙がくるようになると、そこに必ず書かれているのが家族のこと。パパやママのことは言うまでもなく、おばあちゃんやらお姉ちゃん、それに飼い犬のことまでことこまかに書かれていて家族の絆がともて強いことを感じさせられます。対する私の返事はと言えば、妻子についてなど一度も触れたことはないのにです。 イルクーツク/アルハンゲリスク/サンクト・ペテルブルク/シベリア鉄道/ボルガ川/モスクワ/エヴパトーリア/トビリシ/サマルカンド/タシケント/ラトビア/バトゥーミ沖/ヴォログダ/コムソモリスク・ナ・アムーレ/ハバロフスク/エニセイ最下流域 シベリアを東西に分かつ大河エニセイは流域に住む人々にとって文字通り命綱の役割を果たしています。ここでは中流のクラスノヤルスクから北極圏までの流域の町や集落、そしてそれらを包む豊かな自然の表情をご紹介します。 クラスノヤルスク/ストールビィ/タシキノ/カサチンスキー早瀬/川の表情/アンガラ河口/川岸の風景/レソシビルスク/エニセイスク/ヤールツェヴォ/浮き桟橋/ヴォローゴヴォ/タイガ(コムサ)/レーベジ/トゥルハンスク/イガルカ/川の上の空/鴎/ドゥヂンカ/ツンドラ/トナカイ放牧地/ウスチ・ポルト/エニセイ川 ソ連時代は表向きにはクリスマスを大々的に祝う習慣がありませんでしたから、そのかわりという訳でもないでしょうけれど、新年を迎えるお祝いは盛大でした。ソ連が崩壊してクリスマスが祝われるようになった現在でもその習慣は生き続けています。 モスクワ/キエフ/レニングラード,他/サンクト・ペテルブルク/ムルマンスク/ヴォログダ/年頭の挨拶/カレンダー 私がソ連に行き始めた今から20年ほど前は「インターネット」という言葉すら知りませんでしたから自分が撮った写真を他人に見せる機会があるなどとは思ってもみませんでした。旅に出ても風景を写真に撮ったりするよりも絵はがきを買ったほうがずっと良いと考えて、写真を撮るかわりに絵はがきを買ったものです。ただ、その絵はがきをここに掲載すると著作権の問題に触れますので、ここでは絵はがきセットの表紙だけをご紹介することにします。いわば絵はがきのカタログです。お気に入りのものが見つかりましたらどうぞ現地にいらしてお買い求めください。 モスクワ/セルギエフ・パッサート/スズダリ/カリーニン/ノブゴロド/プスコフ/レニングラード/ラズリフ/ペトロドヴォレツ/プーシキン/パブロフスク/キリロフ/ヴァラアム島/キジ島/ペトロザボーツク/ソロヴェツキー諸島/ムルマンスク/アルハンゲリスク/ヴォログダ/ヤースナヤ・ポリャーナ/ボルヂノ/リガ/リトアニア/ミンスク/キシニョフ/キエフ/カネフ/ザポロージェ/ヘルソン/ニコラエフ/オデッサ/セワストーポリ/バフチサライ/ヤルタ/リバディア/ゲラチ/コルヒーダの洞窟/トビリシ/アルメニア/バクー/エルブルス近傍/オルジョニキッゼ/カルバジノ・バルカル/ミネラリヌィ・ヴァディ/アストラハン/ボルゴグラード/サラトフ/カザン/チェボクサリ/コズモデミャンスク/ニジニ・ノブゴロド/プリョス/コストロマ/ヤロスラブリ/リビンスク/ムィシュキン/ウグリチ/エラブガ/ペルミ/シベリア鉄道/アシハバード/ウズベキスタン/ブハラ/サマルカンド/ヒワ/タシケント/クラスノヤルスク/ノリリスク/タイムィル/ブラーツク海/イルクーツク/バイカル湖/ハバロフスク/ハバロフスク地方/コムソモリスク・ナ・アムーレ/ウラジヴォストーク/沿海州/サハリン島/ユジノ・サハリンスク/カムチャッカ/ペトロパブロフスク・カムチャツキィ キエフが日本の京都にあたる古都だとすれば、鎌倉あたりに相当する古い町々がレニングラード州の周囲の地域にあります。町の中をどちら向きに歩いても古い教会に出会い、教会の中に町があるかのような錯覚すら覚える町々です。ここでは、ノブゴロド州,プスコフ州,ヴォログダ州のそれぞれ同名の州都の様子をご紹介します。 ■■ノブゴロド → クレムリン,ロシア1000年記念碑/ソフィア寺院/ゴスチヌィ・ドヴォール/ユーリエフ修道院/教会 ■■プスコフ → クレムリン/ヴェリカヤ川/教会/鐘楼/広場/修道院/塔/解放記念碑/大通り/天然の冷蔵庫/鉄道駅 ■■ヴォログダ → 夕暮れ/クレムリン/教会/記念碑/公園/木造の宮殿/アパート/民家/鉄道駅/大通り/レース/シャラーモフ博物館/スパソ・プリルツキー修道院/郊外の道 ロシアの人々は「森の民」で、森からたくさんの恩恵を受けて生きています。また、花々も大好きで、野草を摘んでよく人にあげたり窓辺を飾ったりします。この章に置いたのは旅先でふと立ち止まって撮った木々や草花の写真です。 荒れ野と林/林の入口/野の花/露の花/茸/エーデルワイス/紫陽花/白樺/湿地の花/バラ園/赤い実/赤い実のなる木/青い実/赤い葉/自然公園の植物/路傍の草花/森の花/公園の花/庭の花/玄関先の花/樹氷 /路傍の樹木 ソ連時代の旅行では三度の食事はそれほど楽しみではありませんでした。なにしろホテルもレストランも国営。つまり役所が食事を出してくれるようなものだったからです。ところが庶民の家庭でごちそうになる料理の味はぜんぜん別。いや、家庭まで行かなくても通りのピロシキ屋さんでさえ「えっ、外国人にはあんなもの食べさせて、自分たちはこんな美味しいもの食べてるの!」という感じでした。写真では味は伝わりませんから、料理の写真も手元にほとんど無いのですけれど、その数少ないものをお見せします。 宴の前/船の料理/レストランの料理/アイスクリーム/山小屋の料理/家庭でのおもてなし/調味料/シャシリクを焼く/ブリヌィ/機内食/車内食/日本食 日本列島と同じく環太平洋火山列を構成するカムチャッカ。タイガや平原が延々と続く大陸のロシアとは全く違う景観だけでなく、変化に富んだ手つかずの自然がふんだんに残されているという点でも私たちをひきつけます。 ペトロパヴロフスク・カムチャツキー/アヴァチャ湾/ハラクチル海岸/エリゾヴォ/パラトゥンカ/アヴァチャ山麓/コリャク火山/ナリチェヴォ自然公園 ドストエフスキーの代表作の一つ『罪と罰』は、サンクト・ペテルブルクのごく狭い区域の中で物語りが展開していきます。そのあたりを訪ねてみました。ただ、小説は夏のペテルブルクが舞台なのに、写真のほうは冬景色ばかりなのでちょっと違和感がありますけれど、いずれ夏に訪れる機会があったら撮り直すことにして、しばらくはこれらの写真でご容赦ください。 S横町/K橋/ラスコーリニコフの下宿/センナヤ広場/中庭/金貸し老婆の家/ドストエフスキーの家/V通り/T橋/ペトロフスキー島/ユスーポフ公園/エカテリーナ運河/ニコラエフスキー橋/鉤の手になった短い横町/ソーニャ・マルメラードワの家/小メシチェンスカヤ通り/ヴォズネセンスキー橋/K横町/ドストエフスキー博物館/ドストエフスキー像/ドストエフスキーの墓 タイガに覆われたシベリアの山中を太平洋に向かって走るBAM(バイカル・アムール)鉄道。ソ連邦の一大国家プロジェクトとして建設が進められてきましたが、2001年春の「セヴェロ・ムィスキイ」トンネルの貫通で、まもなくその大工事も終わろうとしています。真冬には気温が氷点下60℃にも下がって、寒さのために空を飛んでいる鳥が突然落ちてくるとも言われるあたり、列車に乗って旅をしていても、鉄道建設がどんなに過酷な労働だったのかを思わず想像してしまいます。 コムソモリスク・ナ・アムーレ/ノーヴィ・ウルガル/イサ/フェブラリスク/ティンダ/ノーヴァヤ・チャラ/コダール山系/タクシモ/セヴェロムィスキイ山地/キュヘリベクスカヤ/ノーヴィイ・ウオヤン/セヴェロバイカリスク/コルシューニハ・アンガルスカヤ/ブラーツク/ヴィホレフカ/チュナ 中露両国の間を流れてきたアムールは、極東の中心都市ハバロフスクから北東に向かい、オホーツク海に流れ出ます。ヨーロッパ部の大河ボルガが母なる河と呼ばれるのに対し、極東最大のこの川はロシア人に「父なるアムール」と呼ばれるのだそうです。ここではハバロフスクから500kmほど下流のボゴロツコエまでの間を往復する船旅の折りに撮った写真の一部をお見せしようと思います。 ハバロフスク/アムール川/川岸の風景/シカチアリャン/「緑の休息」/トロイツコエ/船内でのエンタテイメント/コムソモリスク・ナ・アムーレ/タンボフカ/ブラワ/航路標識/ボゴロツコエ/川を行き交う船/船旅の魅力 日本でも、どんな寒村へ行ってもお寺も神社も見あたらないということはありません。ロシアも同じ。いたるところに教会や修道院、あるいはその跡を見ることができます。この章には由緒ある建物だけでなく、通りがかりにちょっと見かけた、言ってみれば田舎の実家が檀家になっている小さなお寺に相当するような教会の写真も置きました。 モスクワ/サンクト・ペテルブルク/クリン/ノブゴロド/キジ島/アルハンゲリスク/ヴォログダ/ブレスト/エニセイスク/オデッサ/ハバロフスク/キエフ/コストロマ/アストラハン 旧ソ連の時代、大きな河には遊覧船が配置されて、川が凍結していない夏の季節には、大人たちはもとよりピオネールの子ども達まで、いく日もかけてゆったりとしたクルーズを楽しんだものです。そんな川船の中で、ほとんど唯一海にまで漕ぎ出すのがこのドニエプル川のコースです。ウクライナの首都キエフから黒海までの「ウォーター・フロント」の表情をご覧ください。 キエフ/川岸の風景/航路標識/クレメンチュク閘門/鴎/クレメンチュク/川岸の風景/ヨット/川岸の小さな家/可動橋/驟雨/教会/夕焼け/ドニエプロペトロフスク/パイプライン/電線/ザポロージェ/川の風景/ヘルソン/ドニエプロ・デルタ/オデッサ/セワストーポリ/ドニエプル航路の客船/黒海の夕陽 ロシアの誇る世界的な美術館“エルミタージュ”。その膨大な所蔵品については、それらを紹介する書物もTV番組も数え切れないほどありますから、あらためてその写真をここに載せるのはほとんどやめて、美術館の雰囲気をお伝えすることを試みようと思います。 外観/階段/玉座のある広間/居間のような部屋/書斎/いろいろな部屋/天井/天井近くの壁/玉座/回廊/展示室/絵画/彫塑/陶磁器/ステンドグラス/織物/参観者/子供たち ロシアでも、人々はあるときには動物たちに心を慰められ、あるときには動物たちに生活を支えられてきました。人々と動物たちの間には深い絆があります。ところで、ロシアをテーマにしたサイトに「動物たち」の章を置くのなら、どうしても熊の写真を載せたかったのですが、幸か不幸か野山で熊に出会ったことはまだ一度もないものですから....。 私がロシアやウクライナの川・湖・海を旅したときの記録です。テキストだけで、写真はありません。 (1997.9掲載/2005.9追加) ロシアや旧ソ連に関係のある内容の日本語によるサイトのうち個人によって作られたものをできるだけ収録したいという希望を持っています。そのようなページをお持ちの方で、ここのリンク集に掲載しても良いとお考えになってくださる場合はメールでご連絡くださいませんでしょうか。よろしくお願いいたします。 左上にある黄色地に青文字の標題プレートをクリックすればリンク集に入ることができます。 このWEBサイトについてのご意見・ご感想だけでなく、ロシアや旧ソ連に関することなら何でも書き込んでいただける掲示板を用意しました。様々なご質問も含めてお気軽にご利用ください。 左上にある黄色地に青文字の標題プレートをクリックすれば掲示板に入ることができます。 ご覧になってくださってお気づきの点などがございましたらぜひお聞かせください。お待ちしています。 なお、ご質問にもできる限りお答えしたいと思っておりますが、なにぶんにも私はロシアについての専門家ではなく単なる旅人にすぎませんので、私がお答えできることは極めて限られます。ご質問は、私個人宛のメールではなく、上の『掲示板』に書き込んでいただいたほうが、ご期待にそうお答えの得られる可能性が多少とも高くなると思われます。 メール・アドレスに誤りがあるとご返事が差し上げられませんので、お手数でももう一度ご記入ください。 憲法9条「改正」に反対します。石川顯法 ・上のロゴ・マークは (株)音楽センター が著作権を有するものです。 ・ロゴ・マークのリンク先は「九条の会」です。 |
[ 289] RUSSIA & USSR (写真で見るロシアと旧ソ連の国々)
[引用サイト] http://www.asahi-net.or.jp/~ri8a-iskw/
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ソビエト社会主義共和国連邦(ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう、略称:ソビエト連邦(ソビエトれんぽう)、ソ連(ソれん))は、1922年に設立された世界最初の社会主義国である。1991年に連邦は解消され構成国は独立した。 間接代表制を拒否し、労働者の組織「ソビエト」(協議会、評議会)が各職場の最下位単位から最高議決単位(最高ソビエト)まで組織されることで国家が構成されていた。 但し、ソビエト制度が有効に機能した期間は殆ど無いに等しく、ソビエトの最小単位から最高単位まで全てに浸透した私的組織(非・国家組織)であるソビエト連邦共産党が全てのソビエトを支配しており、一党独裁制の国家となっている(但し、ソ連はレーニン時代初期とゴルバチョフ時代に複数政党制であった)。党による国家の各単位把握及びその二重権力体制はしばしば「党-国家体制」と呼ばれている。 首都はモスクワ。国旗の赤は革命を、交差した槌と鎌はそれぞれ労働者のシンボルと農民のシンボルであり労働者と農民の団結を意味し、その上の五芒星は五大陸の労働者の団結を意味している。 日本語表記は、ソビエト社会主義共和国連邦。通称、ソビエト連邦(「ソビエト」は「ソヴィエト」「ソヴェト」とも)。略称はソ連、または単にソヴィエト。戦前はソ同盟と訳されることが多かった。ソビエトとはロシア語で「評議会」の意。固有名詞(地名)を含まない唯一の国名だった(但し、連邦を構成する諸共和国名には地名が入る)。ソ連邦という場合もある。 英語圏以外の非共産圏においても一般的にはロシア(に相当する各言語の単語)と呼ばれることが多く、日本はソ連、ソビエトという呼称が一般的に定着した稀有な事例である。また、中国などの漢字文化圏においても蘇聯と呼ばれる。 ソビエト社会主義共和国連邦は当時において世界一の広さを誇った国であった。西はノルウェー、フィンランド、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア。南はトルコ、イラン、アフガニスタン、モンゴル、中華民国(1949年以降は中華人民共和国)、北朝鮮(1948年以降)、日本と接していた。全域で寒波の影響が非常に強力なため、冬季は北極海に面したところや内陸部を中心に、とてつもなく厳寒である。 長い国境のうちにはいくつかの領土問題を抱えており、1960年代には軍事紛争(中華人民共和国との間におけるダマンスキー島事件)になったケースもある。海を隔てた隣国の1つである日本とは北方領土問題を持っており、この問題はロシアになった現在も続いており解決されていない。またフィンランドにもカレリア地域の問題が残されている。 なお、構成共和国には、ソビエト連邦から離脱する自由が憲法で認められていた。しかし、連邦離脱の手続きを定めた法律はなく、ソビエト連邦の末期にミハエル・ゴルバチョフが定めた連邦離脱法は、極めてハードルの高いものであった。このためバルト三国は連邦離脱法を無視し、1990年に独立することになる。 また、国際連合(国連)にはソビエト連邦そのものとは別枠でウクライナ、白ロシア(現・ベラルーシ)が独自に加盟したこともあった。 ペトログラードのデモに端を発する1917年の2月革命後、漸進的な改革を志向する臨時政府が成立していたが、第一次世界大戦でのドイツ軍との戦線は既に破綻しており国内の政治的混乱にも収拾の目処は付いていなかった。 同年8月にラーヴル・コルニーロフ将軍による反乱が失敗した後、ボリシェヴィキに対する支持が高まった。そこでボリシェヴィキは武装蜂起の方針を決め、10月下旬に権力奪取を成功させた。その後の列強による干渉戦争や内戦にも勝利して権力を確立した。ボリシェヴィキは1919年に共産党と改称した。 1922年に行われた全連邦ソビエト大会で国家樹立が宣言され、ソビエト社会主義共和国連邦が成立した。しかしその僅か2年後の1924年1月にレーニンは死去する。 レーニンの死後、独裁的権力を握ったヨシフ・スターリンは政敵であるトロツキーの国外追放(その後トロツキーは亡命先のメキシコで、スターリンが送り込んだ刺客により暗殺された)を皮切りに、反対派を徹底的に排除して、自らを頂点とした一国社会主義路線を確立した。 1928年から行われた第一次五ヶ年計画の中核に置かれたコルホーズが代表する、強引な農業集団化に伴う「富農」追放や飢饉によって死亡した人数は、推計によって最大約700万人に達する可能性もあると言われている。 無理な農業集団化の強行により、1932年〜1933年には大飢饉が起こり、500万人とも1000万人とも言われる餓死者が出た。 特にウクライナにおける飢餓は甚だしく、400万人から700万人の餓死者が出た。2006年にウクライナ政府はこの飢餓をウクライナ人に対するジェノサイドと認定している。この「拙速な集団化政策」はウクライナ人弾圧の為に意図してなされたものであると言う説も有力である。 1930年代に大恐慌により多くの資本主義国が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けずに高い経済成長を達成したが、その経済成長は政治犯や思想犯を中心とした強制労働(実質的な奴隷制度)に支えられ、その富は共産党の上層部に集中して配分された。 スターリン時代の大粛清時(ピークは1936年から1938年)には裁判を経ない処刑や強制収容所での過酷な労働等によって、一説には1200万人以上の人が粛清されたとされる。なお、大粛清による犠牲者数には諸説があるが、当時行われた正式な報告によると、1930年代に「反革命罪」で死刑判決を受けたものは約72万人とされる(但し、過酷な取調べ・尋問の過程で死亡した者や、有罪判決を受けて劣悪な環境下で服役中に死亡した者の人数については正確な統計が残されていないため、その人数を合わせれば犠牲者数は増大するであろう)。 独ソ不可侵条約に調印するヴャチェスラフ・モロトフ(後列中央はヨアヒム・フォン・リッベントロップとスターリン) 政権を掌握したヨシフ・スターリンは、ポーランドやルーマニアなどの東ヨーロッパ諸国を社会主義化し、自国の衛星国として、第一次世界大戦後にその勢力を急速に強めていたアメリカやその同盟国であるイギリスなどの「帝国主義」国との緩衝地帯にする計画を持っていた。 しかし1930年代に入ると、ドイツに「共産主義打倒」を掲げたアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権に就き、同じくポーランドやチェコスロバキアなどのドイツ支配圏の東ヨーロッパ諸国への東方拡大を狙い始めた。その後両者は東ヨーロッパ諸国の支配権を巡って激突することとなる。 ドイツとは当初独ソ不可侵条約を結び、1939年のドイツのポーランド侵攻の際にはポーランドの東半分のガリツィアなどを占領した。またバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国に進駐した。さらに親ソ政権を組織し、反ソ連派を粛清或いは収容所送りにして、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニアにベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアと北ブコビナに進駐し、領土を割譲させた。さらに隣国のフィンランドを冬戦争により侵略してカレリア地方を併合した。 1941年6月に独ソ戦いわゆる「大祖国戦争」が開始され、その結果ソ連は連合国側として第二次世界大戦に参戦した。ドイツ軍の猛攻とスターリンによる無理な作戦の遂行がたたり、開戦後まもなく首都モスクワに数十キロに迫られた他、レニングラード攻防戦やクルスクの戦い等により軍民併せて数百万人の死傷者を出したものの、日ソ中立条約による日本軍の不参戦やイギリス軍やアメリカ軍などによる西部戦線における攻勢、アメリカなどによる軍事物資提供による後方支援のおかげもあり、最終的にドイツの首都であるベルリンを陥落させ勝利した。 その際にソビエト軍は、「ベルリン入城は英米連合国揃って行う」との密約[要出典]を無視したばかりか、ベルリン陥落後もドイツ領内侵攻を続けたためアメリカを慌てさせた。ソビエト軍はドイツの兵士や市民が降伏、投降した後でも市民殺害や婦女暴行など傍若無人の乱暴な振る舞いを続けるため、ソビエト軍を恐れたドイツ軍は防衛地域を放棄して反転西進しアメリカ軍に降伏するようにした。これによりソビエト軍はドイツの東側を難なく占領することが出来、その後の東西ドイツ分割を招くこととなった。 なお、独ソ戦の開始以前に日ソ中立条約を結んでおり、大戦中を通じ交戦状態になかった日本(大日本帝国)に対しては、連合国首脳によるヤルタ会議における密約(ヤルタ協定)に基づき、大戦末期の1945年8月8日になって不可侵条約を一方的に破棄し、ソ連対日宣戦布告をし千島列島や南樺太、満州国(現在の中華人民共和国東北部)、朝鮮半島北部に侵攻した。 この際にソビエト軍は、自国の占領地を少しでも増やす目的から日本軍の降伏による停戦さえ無視し侵攻を続け、多くの捕虜を自国内に連行し、劣悪な状況下でインフラ整備等の労働力として酷使した為、その多くが死に至り、生き残った者達に対しても、日本への帰国後に共産革命を起こさせるべく共産主義教育をおこなった(シベリア抑留)。これらの国際法を無視した行為とその後の対応が後の北方領土問題、シベリア抑留問題の原因となった。 第二次世界大戦の勝利によりソ連はドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。 又、開戦前に併合したエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国への支配、ルーマニアから獲得したベッサラビア(現在のモルドバ)の領有を復活させた。更にこれらの新領土から多くの住民を追放し、代わりにロシア人を移住させた。 また、極東では日本の領土であった南樺太及び千島列島を占領し、領有を宣言した。 さらに、日本が旧満州に持っていた各種権益のうち、関東州の旅順・大連の両港の租借権や旧東清鉄道(南満州鉄道の一部)の管理権の継承を中華民国に認めさせた。 戦後ソ連はドイツの支配からソ連の支配圏とした東ヨーロッパ諸国の反対派を粛清し、スターリン主義的な社会主義政権を導入しこれらをソ連の衛星国とした。ワルシャワ条約機構などにおける東側諸国のリーダーとして、アメリカ合衆国をリーダーとする資本主義(西側諸国)陣営に対抗した。 1952年に死去したスターリンの死後新たな指導者となったニキータ・フルシチョフはスターリン批判を行い、その行過ぎた全体主義的独裁の政策を大幅に緩めた。しかしソ連が極端な警察国家、監視国家であることには変わりなかった。彼は食料生産に力を注ぎ一時的には大きな成功を収めるものの、あまりにも急な農業生産の拡大により農地の非栄養化、砂漠化が進み、結局はソ連は食料を海外から輸入しなければならなくなった。 なお、東欧のソ連衛星国ではスターリン批判以降しばしば改革共産主義運動や反体制運動が発生したが、ソ連はこれらの運動のいくつかに対しては武力介入し、これを鎮圧し、反対派を殺害・処刑・投獄した(ハンガリー動乱、プラハの春など)他、有形無形の圧力をかけ収拾させた。 また、第二次世界大戦から崩壊までの間を通じて、アメリカとの間では直接戦争こそ生じなかったものの、ベルリン封鎖などの有形無形の敵対行動や朝鮮戦争やベトナム戦争などの世界各地での代理戦争という形で冷戦と呼ばれる対立関係が形成された。特に限りない軍拡と、核兵器の開発競争は世界を核戦争の危機に晒すものだった(1962年のキューバ危機など)。その開発競争が如何に杜撰であったかは、後年のチェルノブイリ原発事故の経緯が物語っている。原子炉構造に問題があったにもかかわらず当初は運転ミスと断じられ、プリピャチ市民は放射線の恐怖を殆ど知らずに日常の日と変わらずに日光浴や散歩をする人さえいた。 1960年代に入りフルシチョフ体制が安定するとアメリカとの関係は多少改善が進んだ。しかし社会主義の純化を進めており、フルシチョフの改革路線に懐疑的であった毛沢東率いる中華人民共和国との関係は国境地帯における軍事衝突(ダマンスキー島事件)や北京のソ連大使館襲撃事件が起こるなど逆に悪化した(中ソ対立)。 その後1964年に、農業政策の失敗と西側諸国に対しての寛容的な政策を理由に失脚させられたフルシチョフに代わり、強硬派のレオニード・ブレジネフが指導者となると国内問題を放置することが多くなり、官僚の世襲化など体制の腐敗が進み、食料や燃料、生活必需品の供給が滞るようになり、国民の多くは耐乏生活を強いられるようになっていった。また、これに合わせるように東側諸国全体の経済が次第に沈滞していった。 1979年にブレジネフは、隣国のアフガニスタンに成立した共産主義政権を支える為にアフガニスタン侵攻を行ったものの、結果的に西側諸国による猛反発を受け、翌年に行われたモスクワオリンピックの大量ボイコットを招くことになった。この侵攻は1989年まで続き、国際社会からの孤立を招いただけでなく、莫大な戦費を10年間の長きに渡り浪費することや多くの戦死者を出すことによって、ただでさえ沈滞していた経済をますます圧迫する結果になった。 1982年に死去したブレジネフの後継者となったユーリ・アンドロポフや、アンドロポフの死後に後継者となったコンスタンティン・チェルネンコも、アンドロポフと同じく長い闘病生活の末に病死したため、具体的な政策を殆ど実行に移せなかった。この両名の時代においてますます深刻化した経済的危機を打開するべく、1985年3月に登場したミハイル・ゴルバチョフの指揮下でペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)が進められた。 これにより、長きに渡った一党独裁体制下で腐敗した政治体制の改革が進み、1990年にはこれまでの一党独裁制にかわって複数政党制と大統領制が導入された。しかし、情報公開や報道規制の緩和は長年抑えられていた民族感情を刺激し、ソ連邦を構成していた各共和国では急速に分離独立の動きが強まっていく。 また、これらのソビエト連邦における改革を受けて、1989年から1990年にかけて東ドイツやハンガリー、ポーランドやチェコスロバキアなどの衛星国が相次いで民主化を達成した。その殆どは事実上の無血革命であったが、ルーマニアでは一時的に体制派と改革派の間で戦闘状態となり、長年独裁体制を強いてきたニコラエ・チャウシェスクが改革派による即席裁判で死刑となりその結果民主化が達成された。なお、ソビエト連邦は冷戦初期に起きたハンガリー動乱やプラハの春の時と違い、これらの衛星国における改革に対して殆ど介入しなかった。 ソビエト連邦を含む東側諸国の相次ぐ民主化により冷戦状態は事実上崩壊し、これらの動きを受けて1989年12月に地中海のマルタでゴルバチョフとアメリカ大統領のジョージ・H・W・ブッシュが会談し、正式に冷戦の終結を宣言した(マルタ会談)。 そして1991年3月17日には連邦維持の賛否を問う国民投票が行われ、投票者の約76%が連邦維持に賛成票を投じることとなった(バルト三国の様に独立志向が強い共和国では投票はボイコットされた)。その後新連邦条約に基づき連邦を構成する各共和国への大幅な権限委譲と連邦の再編が行われる予定だった。 しかし、それらの改革路線がソ連崩壊に結びつくことを危惧したゲンナジー・ヤナーエフやウラジーミル・クリュチコフらの保守派によって8月にクーデター(ソ連8月クーデター)が発生したものの、ボリス・エリツィンら改革派がこれに抵抗し、さらに軍や国民の多く、さらにアメリカやフランス、日本やイギリスなどの主要国もクーデターを支持しなかったことから完全に失敗に終わる。 クーデターの失敗によってクーデターに賛同した保守派が失脚したことにより国家組織が崩壊、ゴルバチョフはクーデター後にソ連共産党書記長を引責辞任し、議会はバルト三国独立を承認した。 さらに同年12月、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ共和国が独立して独立国家共同体(CIS)を創設、残る諸国もそれにならいCISに加入し、この年の12月25日にソビエト連邦は完全に解体した。 ロシア革命直後と末期を除くと、ソビエト連邦共産党による一党独裁制。民主集中制・計画経済を基礎とするいわゆるソ連型社会主義と呼ばれる体制は、党官僚による抑圧的な体制であり、言論などの表現や集会、結社の自由は事実上なかった。このため、カール・マルクスが唱えた社会主義の理想とは大きくかけ離れ、一般の労働者・農民にとっては支配者がロマノフ朝の皇帝から共産党に代わっただけで、政治的には何の解放もされていない体制となってしまっていた。そのため実質的最高指導者である書記長は「赤色皇帝」とも呼ばれる。 特に、スターリン時代は粛清によって、多くの人々が殺害され、スターリン主義のもと、社会主義・共産主義は抑圧的な体制とイコールになってしまった。スターリンの没後も国家反逆罪等で逮捕又は亡命を強いられた人は増え続け、ソビエト連邦解体までの70年間に6200万人以上に及ぶ人々が粛清された。これらは現行のロシア政府が1997年に認めた公式データであり、粛清の全容を部分的にしか公開していない。この中には日本人抑留者や亡命日本人も含まれているが、日本政府は謝罪や賠償を現行のロシア政府に求めようとはしていない。 なお、スターリン時代からゴルバチョフが大統領制を導入するまで、国家元首はソビエト最高会議幹部会議長であったが、実権はソビエト連邦共産党の書記長にあった。なお書記長と最高会議幹部会議長を兼任した者もいる。 外交関係では、社会主義国(東側)陣営の盟主としてアメリカ合衆国を筆頭とする資本主義国(西側)と対決(冷戦)していた。 成立当初は孤立したが、独ソ戦で侵攻してきたドイツを撃退・打倒した第二次世界大戦後に、東ドイツやチェコスロバキア、ブルガリアなどの東ヨーロッパ諸国を衛星国とし、東アジア(中華人民共和国やベトナム、北朝鮮など)、中南米(キューバやチリ、ニカラグアなど)、アフリカ(アンゴラやリビア、コンゴなど)などでも「民族解放」や「反帝国主義」を唱える社会主義独裁政権の成立を後援し、アメリカや西ドイツ、イギリスやフランスなどの西ヨーロッパ諸国、日本などの資本主義国と対峙した。 ソビエト連邦の支援により、蒋介石率いる中国国民党との国共内戦に勝利した中国共産党によって1949年に成立した中華人民共和国とは当初協力関係にあったが、1950年代後半より両国の指導層による相手国への非難の応酬や大使館乱入事件が起きるなど徐々に関係が悪化した。 1960年代の後半には領土問題による軍事衝突(ダマンスキー島事件などの中ソ国境紛争)や指導層の思想的な相違の問題から中ソ対立が表面化した。両国間のこの様な対立関係は、その後中華人民共和国における内乱である文化大革命が終結する1970年代後半まで続くことになる。 その様な中で、ソ連を牽制しようとしたアメリカが1970年代に入り急速に中華人民共和国に近づき、国交を結び、その後アメリカの同盟国である日本も中華人民共和国と国交を結んだが、独裁体制を敷きソ連と対峙していた毛沢東の死去と文化大革命の終焉によりソ連と中華人民共和国の関係も改善された。 ロシア時代に日露戦争で戦い完敗した日本とは、ソビエト連邦成立後も満州国との国境などで度々軍事的衝突を起こしていた。その後第二次世界大戦中の1941年4月に日ソ中立条約が締結されたものの、ヤルタ会議において連合国間で結ばれた密約を元に、1945年8月にこれを一方的に破り日本に対して参戦し、その上日本が降伏した後も侵略を続け北方領土などの多くの日本の固有の領土を違法に占拠した。その上多くの日本人捕虜を戦後長い間拘留し強制労働に処し、その多くを死に追いやった。この件に関してはロシア政府は近年ようやくシベリア強制労働の被害者・遺族に対して謝罪と賠償を始めつつある。 その後、1956年に日ソ共同宣言を出して国交を回復したものの、日本がアメリカの同盟国であることや北方領土問題が解決されなかったために関係改善は進展しないまま推移。冷戦終結、ソ連崩壊を経た現在でも日本と事実上の後継国家となったロシアの間には正式な平和条約の締結が成されていない。 なお、冷戦の最中には日本社会党などの左翼政党や、ベトナム戦争に反対するべ平連などの左翼的な反戦・市民運動組織に対し、資金援助や情報の提供、武器の供与など有形無形の指示・援助を行い保守勢力に揺さぶりをかけたことが判明している。また、KGBなどが中心となり大使館員などに偽装した多くのスパイを政府内部や自衛隊などに送り込み、ラストボロフ事件などの数々の事件を起こした。 このような様々な活動を行った結果、与党である自由民主党の国会議員をはじめとする保守勢力における共産主義者や左翼への警戒心を増大させ、「反共産主義」を掲げる統一協会とその関連団体である勝共連合と接近し、岸信介など多くの有力な自由民主党議員が統一協会と協力関係を結ぶ一因となったと言う意見も多い。その一方で、自由民主党の国会議員にも様々な工作を仕掛けただけでなく、これらの中には自主的にソ連とのパイプを利用して利権を貪る者がいた。その様な中で、ソ連の樺太侵攻を描いた映画『氷雪の門』が製作された際には、日ソ関係の悪化を恐れた自由民主党と外務省が映画の製作者側に圧力をかけ、公開中止に追い込むという事態を招いている。 社会主義国陣営の盟主として、資本主義国の事実上の盟主となっていたアメリカ合衆国とは「冷戦」という形で対立し、1950年代における朝鮮戦争や1960年代におけるベトナム戦争など、代理戦争という間接的な形で軍事的対立をしていたが、全面的な核戦争に対する恐怖が双方の抑止力となったこともあり、直接的かつ全面的な軍事的対立はなかった。 しかしベルリン封鎖やキューバ危機などでは全面的な軍事的対立の一歩手前まで行った他、U-2撃墜事件における領空侵犯を行ったアメリカ軍機の撃墜など、限定的な軍事的対立があったのも事実である。 また、この様な対立関係にあったにもかかわらず、冷戦下においても正式な国交が途絶えることはなく、双方の首都に対する民間機の乗り入れが行われていた。しかし、大韓航空機撃墜事件やソ連のアフガニスタン侵攻などの事件があった際には、「制裁措置」として民間機の乗り入れが時限的に制限されたり、スパイ事件などが明るみになり、一方の外交官がペルソナ・ノン・グラータとして国外追放になると、それに対する「報復措置」として、もう一方の国の外交官を同じ容疑で国外追放するなど、茶番じみた外交的駆け引きが行われていた。 外国への個人的理由での渡航は、亡命と外貨流出を防ぐということを主な理由に原則的に禁止されており、国交がある国であろうがなかろうが、当局の許可がない限り渡航は不可能であった。また許可が下りた場合でも様々な制限があり、個人単位の自由な旅行は不可能であった。さらに、旅行者は外国から帰国すると必ずといっていい程諜報部から尋問を受けるので本人にはその意思が無くても外国で見たことを洗いざらい喋らねばならず、結果的にスパイをしてしまうというケースが多かった。 また、西側諸国人との交際や結婚は事実上不可能な状態であった上、衛星国人との結婚でさえも当局からさまざまな妨害を受けたと言われている。なお、外国航路を運行する船舶や外国で演奏旅行をする楽団などには、乗務員や楽団員の亡命を阻止し、外国における言論を監視するために必ず共産党の政治将校が同行していた。 アメリカを筆頭とする西側諸国への対抗上、核兵器や核兵器を搭載可能な超音速爆撃機、大陸間弾道ミサイルや大陸間弾道ミサイルを搭載可能な原子力潜水艦などを配備し、強力な軍事力を保持していた。 しかし、こうした強力な軍事力の維持は軍事費の増大をもたらし、国民経済を疲弊させた。また、1979年から10年続いたアフガニスタン侵攻は泥沼化し、何の成果もなく失敗。多大な戦費や人命を失っただけでなく、ソビエト連邦の威信をも低下させた。また、大韓航空機撃墜事件のような民間機撃墜事件を引き起こすなど、共産主義的な官僚主義と非人道的さが西側諸国の反発を買った。 また、ワルシャワ条約機構の中心国となり、東ヨーロッパ諸国に基地をおき、ハンガリー動乱、プラハの春など衛星国での改革運動を武力鎮圧し、ワルシャワ条約機構加盟国のみならず、北朝鮮や中華人民共和国、キューバや北ベトナムなど、世界中の反米的な社会主義、共産主義国に対して小銃から爆撃機にいたるまで各種の武器を輸出した。現在でも第三世界にはソ連製の武器が大量に流通している。 それだけでなく、軍事技術をこれらの国に輸出した他、将校などを派遣して軍事訓練を行ないこれらの国における軍事技術の向上に寄与し、その中には、モスクワのパトリス・ルムンバ名称民族友好大学や各種軍施設などにおけるスパイやテロリストの養成や資金供与、武器の供与なども含まれている。また、朝鮮戦争やベトナム戦争などの代理戦争の際には、友好国側を積極的に支援しただけでなく、朝鮮戦争においては当時の指導者のヨシフ・スターリンが、北朝鮮の金日成に対して事実上開戦を指示したと言われる。 また、冷戦期間を通じて、日本やアメリカ、ヨーロッパ諸国などの西側諸国や、南アメリカやアジア、アフリカ諸国の非社会主義政権国における社会主義政党や反政府勢力、非合法団体やテロ組織を含む反社会勢力、反戦運動団体(その多くが事実上の反米運動であった)に対する支援を行い、その中には上記と同じく各種軍施設などにおけるスパイやテロリストの養成や資金供与、武器の供与なども含まれていた。ただし、同時に資本主義国で整備が遅れていた社会保障や労働運動の向上に一定の成果を見せたという側面も無視できない。 航空宇宙技術では、アメリカとの対抗上、国の威信をかけた開発が行われた(宇宙開発競争)。人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げ成功、ユーリ・ガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行の成功、宇宙ステーション「ミール」の長期間に渡る運用の成功などの宇宙開発の他、原子力開発の分野に至るまで、ソ連は人類の巨大科学に偉大な足跡を残している。現代のロケット工学や宇宙開発の基礎はソ連のコンスタンチン・E・ツィオルコフスキーが築いたものである。 また、航空機でもミコヤン・グレビッチ設計局(ミグ)、イリューシン設計局、ツポレフ設計局などによって独創的な機構を持つ戦闘機・爆撃機・輸送機や旅客機が製造され、現在でも各国で使用されている。第二次世界大戦中にT-34を開発し、連合国だけでなく、ドイツ戦車にも大きな影響を与えた。また、世界最初の空挺部隊を創設したのもソ連軍である。 しかし、一方ではそれが軍事費とともに国家の経済を疲弊させたほか、航空宇宙技術や重工業を優先するあまりに消費財の製造が後回しにされ、民衆を苦しめる結果になった。また、チェルノブイリ原発事故に見られるように人命や健康、自然環境の保護などへの意識が低いまま原子力開発や工場の建設などが行われた。このため、地域によっては土壌や河川に深刻な放射能汚染が発生し、多くの人が健康被害を受けることになった。 また、末期になると進んでいたはずの原子力技術や航空宇宙技術でもアメリカのそれに対して10年単位で見劣りするようになり、軍用の製品や技術を東芝や日立などの日本のメーカーから導入することもあった。半導体・集積回路技術でも大幅に後れを取り、西側のようにデジタルコンピュータの急速な進歩と普及を、ついになし得なかったことも、いわゆるハイテク分野で決定的に立ち後れた原因だった。 なお、これらの先進技術、特に宇宙開発や原子力開発は外国人立ち入り禁止の閉鎖都市で行われ、これらの都市は地図に記載されなかった。 経済面では計画経済体制がしかれ、農民の集団化が図られた(集団農場)。1930年代に世界恐慌で資本主義国が軒並み不況に苦しむ中、ソ連はその影響を受けずに非常に高い経済成長を達成したため、世界各国に大きな影響を与えた(詳細は計画経済を参照のこと)。しかし、その経済成長は政治犯や思想犯を中心とした強制労働に支えられ、その富は共産党の上層部に集中して配分されていた実態がその後明らかになった。また、1960年代以降は計画経済の破綻が決定的なものとなり、消費財の不足などで国民の生活は窮乏した。 また、流通の整備が遅れたため、農製品の生産が十分にあったとしても、それが消費者の手元に届けられるまでに腐敗してしまうという体たらくであった。その為に闇市場のような闇経済や汚職が蔓延し、その様な中で共産貴族がはびこるという結果になった。そもそも計画経済を他の産業と比べて自然に左右され、成果が保障されない第一次産業にも導入したのは大きな間違いであったといえる。毛沢東が大躍進政策で生態系や、経済の常識をまるで無視した増産計画で大失敗をしたのもこれに起因している。 東西対立の世界構造の中で、軍事に高い技術と莫大な資金が投じられる一方、国民生活に必要な電化製品や消費財の開発と生産、物流の整備はおろそかにされ、西側諸国に比べ技術、品質ともに比べ物にならない製品でさえ、入手するために数年待たなければいけないというような惨憺たる状態であった。殆どの電化製品や自動車の技術は、西側諸国の技術より10年以上遅れていたといわれている上、その多くがフィアットやパッカードなどの西側の企業と提携し、旧型製品の技術供与を受けたものであった。 なお、西側諸国の電化製品や化粧品、衣類などの消費財の輸入、流通は原則禁止されていたものの、モスクワなどの大都市のみに設けられたグムなどの外貨専用デパートで入手することが可能であった。しかし、実際にそれらを購入することができるのは外国人か共産党の上層部とその家族だけであった。そのため、マールボロのタバコやリーバイスのジーンズなど多くの西側製品が闇ルートで流通していた。 上記のように、電化製品や消費財、工作機械や自動車などの技術や品質が西側諸国のそれに対して決定的に劣っていたことから、西側諸国に対しての輸出は、農産物や魚介類などの第一次産品や、原油や天然ガスなどのエネルギー資源が主であった。また、通貨のルーブル自体が、国外で通貨としての価値が低かったこともあり、エネルギー資源の貿易がある国を除いては、西側諸国との貿易収支はおおむね赤字であったか非常に少ないものであった。 それに反して衛星国や社会主義国との間の貿易は、それらの多くの国の外貨が乏しかったことや、ココムなどの貿易規制により西側諸国からの貿易品目が制限されていたことから、一次産品やエネルギー資源はもとより、西側諸国では相手にされなかった電化製品や消費財、工作機械から自動車、航空機などの軍事物資に至るまでが輸出された。また、その多くが事実上の援助品として、バーター貿易など無償に近い形で供給された。 広大な国土は主に航空機によって結ばれていた。なお、国内の航空路線網は唯一にして最大の航空会社である国営のアエロフロート・ソビエト航空によって運行されており、長距離国際線や、航空機によってのみアクセスが可能な僻地や、舗装された滑走路が整備されていない地方空港への運行が可能なように、大型ジェット機からターボプロップ機、小型複葉機まで様々な機材を運行していた。 同じく国際線もアエロフロートによってのみ運行されていたが、ソビエト国民の海外渡航や国外からの旅行者のソビエト国内における移動に大幅な制限があるにもかかわらず、国力と友好関係を誇示することを目的に、西側の主要国や東欧の衛星国、キューバやアンゴラ、北朝鮮などの友好国をはじめとする世界各国に乗り入れを行っていた。しかし、その目的から完全に採算度外視で運行していた上、そのサービスは西側諸国のものには遠く及ばなかったことから、西側諸国の多くでは格安な料金と劣悪なサービスでのみ知られていた。 また、海外からは多くの友好国の航空会社がモスクワなどの大都市を中心に乗り入れていたほか、日本やアメリカ、ドイツなどの西側諸国からも、日本航空やパンアメリカン航空、ルフトハンザ・ドイツ航空などの航空会社が乗り入れていた。なお、日本との間は日本航空とアエロフロートが東京(羽田空港、成田空港)、新潟(新潟空港)とモスクワ、ハバロフスク、イルクーツクとの間に定期便を運行していた。 シベリア鉄道を代表とする鉄道網によって各都市が結ばれていた他、衛星国を中心とした近隣諸国に国際列車も運行されていた。なお、モスクワやレニングラードなどのいくつかの大都市には地下鉄網が整備されており、社会主義建設の成功を誇示する目的で、駅構内は宮殿のような豪華な装飾が施されていた。 個人による自動車の所有だけでなく、自分の在住している地域以外への遠距離移動が事実上限られていたこともあり、西側諸国で行われていたような高速道路による国民の移動は一般的なものではなかった。なお、大都市の市街地にはバス路線網が張り巡らせられていた。 上記のように外国の放送の傍受が禁止されていた上、テレビやラジオ、新聞などのマスコミによる報道は完全に共産党の管制下に置かれ、国家や党にとってマイナスとなる報道は一切流れることはなかった。このような規制は外国の事件や、チェルノブイリ事故や大韓航空機撃墜事件のような国際的に影響がある事件に対してだけでなく、国内の政治、経済的な事件も、党幹部の粛清や地下鉄事故、炭鉱事故のような事件に至るまで、それが国家や党に対してマイナスの影響を与えると判断されたものは殆ど報道されることがなかったか、もし報道されても国家や党に対して有利な内容になるよう歪曲されていた。 また、共産党書記長などの党の要人が死去した際には、党による正式発表に先立ち、テレビやラジオが通常の番組を急遽停止し、クラシック音楽もしくは第二次世界大戦戦史などの歴史の映像に切り替わり、クレムリンなどの要所に掲揚されている国旗が半旗になるのが慣わしであった。このため、国民(と西側の報道機関)の多くは、テレビやラジオの番組が変更され、要所に掲揚されている国旗が半旗になる度に、どの要人が死去したかを推測しあっていたと言われている。 西側諸国の報道機関の特派員は基本的に国内を自由に取材、報道することは禁じられており、事前に申請が必要であったがその多くは却下され、たとえ許されたとしても取材先の人選や日程は全てお膳立てされたものに沿わなければならなかった。また、モスクワオリンピックなどの国際的イベントや、西側諸国の首脳陣の公式訪問が行われる際にソ連を訪れた報道陣に対しては、この様なお膳立てされた取材スケジュールが必ず提供された。 また、西側諸国の報道機関で働くソビエト人従業員も自主的に選択することは許されず、当局から宛てがわれた者を受け入れるのみとされ、その多くが西側諸国の報道機関やその特派員の行動を当局に報告する義務を負っていた。 党の要人が失脚した(もしくは粛清された)際にはその事実が即座に政府より正式発表されることはまれで、このため西側諸国の情報機関員や報道機関の特派員は、メーデーなどをはじめとする記念日のパレードの際にクレムリンの赤の広場の台の上に並ぶ要人の立ち位置の変化を観測し、失脚などによる党中央における要人の序列の変化を推測し、これを「クレムノロジー」と呼んでいた。 ソビエト連邦のプロパガンダは現代の手法を先駆けるものであり、ソ連は世界初の宣伝国家と呼ばれる(en:Peter KenezのThe Birth of the Propaganda State;Soviet Methods of Mass Mobilization 1985)。映画ではレーニンの「すべての芸術の中で、もっとも重要なものは映画である」との考えから世界初の国立映画学校がつくられ、エイゼンシュテインがモンタージュを編み出したことにより、当時としては極めて斬新なものになり、その精巧さは各国の著名な映画人や後にナチス・ドイツの宣伝相となるヨーゼフ・ゲッベルスを絶賛させた。宣伝映画を地方上映できるよう、移動可能な映写設備として映画館を備えた列車・船舶・航空機が製造・活用された(例:マクシム・ゴーリキー号)。看板やポスターではロシア・アヴァンギャルドから発展した力強い構図・強烈なインパクトのフォトモンタージュが生まれ、これは世界各国でしきりに使われた。 特にバベルの塔にも例えられる世界最大最高層の超巨大建築物を目指したソビエト・パレスは後世の建築家だけでなく、形態的にはイタリアやドイツ、日本などの建築に大きな影響を与えた。ソ連のプロパガンダはイワン・パヴロフやレフ・ヴィゴツキーなどの心理学者の理論に基づいていた点で先駆的だった。他にもブラウン管を使ったテレビを世界で初めて発案した専門家もおり、テレビの研究も活発だった。 言論・表現の自由がなかったため、文学者の中には亡命を余儀なくされるものや、ノーベル文学賞受賞のボリス・パステルナークのように受賞辞退を余儀なくされるもの、同じくノーベル文学賞受賞の ソルジェニーツィンのように国外追放されるものがいるなど、文化人にとっては受難が相次いだ。 革命直後のソ連ではウラジミール・レーニンが革命的な前衛芸術を奨励したため、抽象芸術や構成主義が生まれ、ロシア・アヴァンギャルドは共産党のいわば公認芸術となっていた。当時のソ連は世界初の電子音楽機器テルミンが作られ、モンタージュ映画が生まれるなど前衛芸術のメッカと化しており、外国から不遇だった多くの前衛芸術家がソビエト連邦の建設に参加した。例えば、前述したソビエト・パレスの計画にはル・コルビュジエ、ヴァルター・グロピウス、エーリヒ・メンデルスゾーン、オーギュスト・ペレ、ハンス・ペルツィヒといった新進気鋭のモダニズム建築家たちが関わった。レーニン自身もダダイストだったという学説も出ている(塚原史『言葉のアヴァンギャルド』)。 しかし、スターリン政権下の1932年に行われたソ連共産党中央委員会にて「社会主義リアリズム」の方針が提唱されて以降は、1930年代前半のうちに文学や彫刻、絵画などあらゆる芸術分野の作家大会で公式に採用されるに至り、これにそぐわぬものは制限され、次第に衰退することを余儀なくされた。 一方でバレエなどのロシアの伝統的な芸術は政府の後援の元高い水準を維持し、クラシック音楽でも、当局による制限を受けながらショスタコーヴィチらが作品を残し、ムラヴィンスキー率いるレニングラード・フィルハーモニー交響楽団などが名演奏を残している。 西側諸国で人気のあったロックンロールやヘヴィメタル、ジャズなどの音楽や、ハリウッド映画などの大衆文化は、「退廃を招く幼稚なもの」として原則的に禁止され、わずかに北ヨーロッパ諸国や西ドイツなどのポピュラー音楽や、衛星国や日本、イタリアなどの芸術的要素の高い映画のみが上映を許されていた。また、外国のラジオ放送を傍受することも禁止されていた。 スポーツでは国の威信をかけた強化策がとられ、いわゆるステート・アマチュアと呼ばれる国家の選手育成プログラムによって育成させられた選手が、オリンピックで数多くの栄冠を手にしている。特にアイスホッケーやバレーボール、バスケットボール、ホッケーなどの強豪国として知られオリンピックのメダル獲得数で常にアメリカや東ドイツなどと首位を競う存在であった。しかし崩壊後にそれらの選手の多くが違法ドーピングなどによる薬漬け状態であったことが当事者の告白により明らかになった。 なお、共産主義というシステム上、全てのスポーツが国家の管理下におけるアマチュアスポーツであると言う位置づけであり、よって資本主義諸国のようなプロスポーツ及びプロ選手は存在しなかった。 冷戦下ということもあり、国の総力を挙げてオリンピックの成功を目指したものの、前年に行われたアフガニスタン侵攻に対する抗議という名目で、日本や西ドイツ、アメリカなどがボイコットを行い事実上失敗に終わった。しかし、これ以降ソビエト連邦の崩壊までの間夏期、冬季ともにオリンピックが再び行われることはなかった。 そして、次回1984年開催されたロサンゼルスオリンピックでは、1983年のアメリカ軍によるグレナダ侵攻への抗議という名目で、ソビエト連邦と東ドイツのメダル王国をはじめ、東側諸国の多くがボイコットした。 |
[ 290] ソビエト連邦 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88%E9%80%A3%E9%82%A6
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わが国は,国益にそう限り,隣国ソ連との間に善隣友好関係を維持・促進することが,日ソ関係のみならず,極東の平和と安全に資するとの基本的立場に立つて,ソ連との友好関係の増進に努めているが,1970年を通じ,日ソ関係は,特に貿易,経済開発,文化交流等の分野でひきつづきかなりの進展を示した。 1970年は,1966年に日ソ間に締結された長期貿易協定の最終年に当るが,この協定が五カ年間に予想した日ソ間の貿易量は,既に1969年末にその目標に達したばかりでなく,1970年の貿易量は,輸出入合計で約8億2,100万ドル(通関統計)に達した。また,シベリア開発の定めの日ソ間の協力については,先に合意された極東森林資源開発に関する基本契約に引き続き,1970年末には,ウランゲル港建設に関する基本契約が日ソ関係者の間に取り決められた。他方,1970年は,万博の年であつたこともあり,ソ連からノヴィコフ副首相をはじめ要人の訪日が相次ぐなど人事交流の面でも活発な動きがみられたほか,70年末には,第二総領事館の相互設置について,日ソ間に合意が成立し,この結果,日本側は,レニングラード市に,またソ連側は,大阪市に,それぞれ総領事館を開設する運びとなつた。 このように,日ソ関係は,実務的な面で,密接の度合を深めつつあるが,それにもかかわらず,日ソ間の最大の懸案であるわが国北方領土の返還問題については,依然として解決のめどすらつかず,かえつて,ソ連側は,わが国の北方領土返還要求の運動を一部人土の策動によるものであると激しく非難する態度に出,また,1970年11月には,日ソ政府間に領土問題に関する声明の応酬が行われた。この間,多少とも,明るい材料と呼び得るものとしては,多年にわたり日ソ間の懸案であつたわが国北方水域におけるいわゆる安全操業問題について話合いが開始されたことである。本問題をめぐる第一回の日ソ政府間交渉は,1971年1月,モスクワで開始されたが,政府は,今後ともソ連側との話合いを通じ,本件の解決を計つてゆく考えである。 1970年8月の独ソ条約の調印,9月2日のソ連の対日戦勝25周年記念等を通じて,ソ連の新聞,放送など報道機関のわが国に対するいわゆる「軍国主義批判」あるいは「復讐主義批判」が増加していつたが,11月11日になつてオコニシニコフ在京ソ連臨時代理大使より森外務事務次官に対して,わが国における北方領土復帰促進運動を非難するソ連政府の口頭声明が行なわれるに至つた。 この口頭声明は,(イ)沖繩・北方対策庁の設置,北方領土問題対策協会の設立,北方領土返還月間の実施,国会議員による北方水域の視察,北方領土復帰促進国民大会の開催と同大会に対する総理府総務長官及び外務政務次官の参加等に見られるように,日本における北方領土復帰促進運動は明らかに日本の公的人士によつて奨励され,かつ指導されているものである。(ロ)かかる運動は日ソ善隣関係の発展と両立し得ないものであり,この運動が活発化することは,日ソ間の実際的諸問題の解決を困難にするのみである。(ハ)既に解決済みの領土問題を日本がとりあげることは,独ソ条約の調印等に見られる現下の国際情勢発展の全般的傾向に逆行するものである。(ニ)日ソ善隣関係の発展,国際緊張の緩和促進を一再ならず言明した日本政府が,上述のソ連政府の見解に十分な注意を払い,かつ,ソ連に対する非友好的な運動を中止することを期待するとの趣旨を述べたものである。 これに対して,政府は,11月17日,森外務次官よりオコニシニコフ在京ソ連臨時代理大使に対し,(イ)ソ連が北方領土の返還を求めるわが国民全体の熾烈な願望をわが国内一部人士の作為的な運動であるとみなし,しかも政府,国会等によって執られた一連の国内的諸措置に対してまで非難を行なつたことは,他国の国内事項に対する干渉の試みと考えざるを得ない。(ロ)北方領土復帰促進運動が日ソ両国関係の実際的諸問題の解決を困難にするとソ連が述べていることは,本末を全くてん倒した議論であり,むしろこのような態度こそ日ソ関係の安定的発展に対する否定的要因となることを惧れる。(ハ)北方領土問題は,歴史上いまだかつていかなる他国の領土ともなつたことのない日本固有の領土をソ連が不法に占拠したままわが国への返還を拒んでいる不自然な状態のみに由来する問題であつて,世界のいかなる他の領土問題とも比較し,ないし同一視され得べき問題ではない。(ニ)わが国はソ連との善隣関係の発展を求めており,日ソ関係を真に安定的な基礎の上に発展させるために,できるだけ速やかに北方領土問題を解決し,平和条約を締結することを希望している。ソ連が北方領土をわが国に返還することによつて日ソ間に平和条約を締結することこそ,ひとり両国関係のみならず,アジアにおける平和と安全の増進に資するゆえんであるとの趣旨を述べた政府の対ソ回答を口頭で行なつた。 1969年9月に愛知外相が訪ソした際,同相より,北方水域におけるいわゆる安全操業の問題を解決するため,(イ)日ソ間の領土問題が解決されるまでの暫定的措置として,ソ連側は歯舞群島,色丹島,国後島及び択捉島の周辺のおよそ3〜12カイリの水域における本邦漁民の安全操業を認めること。(ロ)右の安全操業が認められる場合には,わが方としてもソ連側に対し,なんらかしかるべき対応措置をとることを考慮する用意があること,の二点を骨子とするわが方の提案をソ連側に示した。その後1970年4月に至つて,ソ連側は日本側と具体的な交渉を行なう用意がある旨,およびソ連側の交渉責任者はイシコフ漁業相となる旨を明らかにした。よつて政府は関係各省間で協議の上,関係漁業者の要望をも勘案した一案を取りまとめて,7月にイシコフ漁業相にこれを提示した。 70年10月末イシコフ漁業相は本件交渉を実際に開始する用意がある旨を明らかにしたので,政府は駐ソ中川大使を代表としてモスクワにおいて11月23日より同相との間に本件交渉を行なわしめることとし,同代表を補佐するため,外務省,水産庁および北海道庁より数名の係官を派遣することとした。しかるに,11月19日,ソ連政府は,在ソ日本国大使館を通じて,イシコフ漁業相が,70年12月8日から開催されるソ連邦最高会議の準備に忙殺されているため,11月23日に交渉を開始することが不可能となつた旨申し越したので,交渉は延期の止むなきに至つた。 その後12月末に至りソ側は翌年1月11日より本件交渉を開始したい旨通報越したので,政府は,1971年1月上旬関係省庁の係官をモスクワに派遣し,1月11日より同15日までソ側と交渉を行なつた。開会式におけるイシコフ漁業相の冒頭挨拶にも見られるように,ソ側は「小千島諸島」なる名の下に,対象水域としては,歯舞群島および色丹島の周辺水域のみを考えているようであるが,北方水域におけるだ捕事件の約47%が国後,択捉両島付近で発生しているので,これらの区域を含まない安全操業の取決めは,問題の解決とはなり得ない。政府としては,かかる基本的な立場に立つて,今後とも,ねばり強くソ側と折衝を続けてゆく方針である。 北方水域におけるソ連官憲による本邦漁船のだ捕抑留事件は,依然として頻発しており,1946年より1970年末に至るまで,ソ連側に抑留された漁船の総数は1,336隻を数え,抑留漁船員の総数は11,316名に達した。その間ソ連側から返還された船舶は823隻,乗組員は11,265名,だ捕の際または引取りの途中で沈没した船舶は22隻,死亡した者32名である。1970年末現在,491隻,19名が未帰還である。 1970年11月22日,帰港のため歯舞群島秋曾留島沖を航行中の明翔丸はソ連監視船に衝突され,乗組員全員はソ連側に救助されたが,船体は沈没した。この事件につき政府は,ソ連側に抗議するとともに損害賠償の権利を留保する旨,申入れた。 1970年においても,日ソ領事条約の規定に基づき,不法漁労のかどでソ連邦に抑留されている本邦漁船員と在ソ連日本国大使館館員との面会が引き続き行なわれた。すなわち1970年4月に13名,1971年1月に6名の抑留漁船員との面会が実施され,大使館員が抑留漁船員の健康状態,希望等を問うた。 政府は今後とも抑留漁船員の早期釈放を求めるとともに,右が実現するまでの間は,抑留漁船員との面会を引き続き行なつてゆく方針である。 1970年の日ソ貿易実績は,通関統計で輸出約3億4,200万ドル,輸入約4億7,900万ドルであつた。1969年に比べて,輸出が27%増加したのに対し,輸入の伸びは僅かに4%に過ぎなかつた。これによつて1968年以来の大幅入超(入超幅1968年2億8,500万ドル,1969年1億9,400万ドル)はかなり改善されて,1億3,700万ドルとなつた。 輸出が伸びた原因は機械類が伸びたためで,繊維,化学品,鉄鋼製品は横ばいであつた。船舶はしゆんせつ船以外は輸出皆無であつた。 一方輸入の方は,ここ数年間の傾向である横ばいが続いており,微増である。品目の内容も大きな変化なく,僅かに木材,鉄鉱石,白金属が増えている。原油はサハリン産のものが約60万キロ・リットル輸入されたが,黒海積のものは輸入されていない。 1965年に日ソ民間ベースで合意された日ソ経済委員会,ソ日経済委員会の合同会議,両国の専門委員の会合が重ねられた結果,1968年7月29日に日本のケイエス株式会社とソ連の木材輸出公団との間に「極東森林資源開発に関する基本契約」が締結されたが,これに続いて1970年12月18日に「ウランゲル港建設に関する基本契約」が日本のワイブイ株式会社とソ連のマシノインポルト貿易公団との間に締結された。いわゆる「シベリア開発プロジェクト」第2号である。 上記の2つのプロジェクトに続いて,「北サハリン天然ガス開発輸入」,「広葉樹パルプ材とチップの開発輸入」,さらに「ヤクート原料炭開発輸入」についても,日ソ経済委員会とソ日経済委員会との間で話し合いが行なわれている。 「極東森林資源開発基本契約」による輸出総額は約1億6,000万ドル,「ウランゲル港建設に関する基本契約」による輸出総額は約8,000万ドルと見積もられている。 日ソ両国は日ソ領事条約に基づき,1967年にそれぞれ相互にナホトカ市および札幌市に総領事館を設置したが,1970年12月,日ソ間において第二総領事館設置に関する書簡が交換され,その結果,日本側はレニングラード市に,ソ側は大阪市に,相互に総領事館を設置すること,および在レニングラード日本総領事館の管轄区城はレニングラード市,在大阪ソ連総領事館の管轄区域は大阪市とすることが合意された。 |
[ 291] ソ連
[引用サイト] http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1971/s46-2-1-6.htm
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ソ連崩壊(ソれんほうかい)とは、1991年12月25日にソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、同時に各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦が解体され消滅した事件である。 ソ連崩壊は、1922年の設立以来、アメリカ合衆国に匹敵する超大国として69年間続いたソビエト連邦が独立国家共同体(CIS)に取って代わられその国家格を失ったと言う事と、東側陣営の総本山として君臨し、前身のボリシェヴィキ時代を含めると1917年以来74年間続いたソ連共産党による社会主義体制が崩壊した事により、かつて世界を二分した冷戦の時代が名実共に終焉を迎えたと言う、二つの文脈において重要な出来事である。 1953年にソ連共産党党第1書記に就任し、1956年にスターリン批判を行ったフルシチョフは、社会主義の範囲での自由化・民主化を推めようとした。しかし党官僚の抵抗に遭い、1964年に失脚。後を継いだ党官僚出身のブレジネフの時代は、退歩もない代わりに進歩もない停滞の時代と呼ばれ、党官僚の特権化や物資不足・冷戦の激化ばかりが進んだ。 1985年3月、ソ連共産党書記長に選出されたゴルバチョフは、フルシチョフの失脚以来封印されていた社会主義の範囲での自由化・民主化に再着手した。これをペレストロイカと呼ぶ。それまで秘密のベールに包まれていたソ連共産党中央委員会にテレビジョンカメラを入れ、会議の模様を全国中継する等、グラスノスチ(情報公開)も推進した。しかし、1986年4月に起きたチェルノブイリ原子力発電所事故を、西側に指摘されるまで隠蔽するなど、改革の不充分さも露呈した。この後、ペレストロイカは速度を上げることとなった。 ゴルバチョフによるペレストロイカは外交面でも2つの新機軸を打ち出した。一つが冷戦体制を緊張緩和の方向に導く新思考外交、そしてもう一つが東欧における衛星国に対してのソ連及びソ連共産党の指導性の否定(シナトラ・ドクトリン)である。冷戦の緊張緩和については1986年ソ連軍のアフガニスタンからの撤退を表明。翌年1987年には当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンとの直接会談(レイキャヴィーク会談)を実現させた。この会談では当時アメリカが進めていたSDI(スターウォーズ計画)を巡ってレーガンと対立したが、当時の2大大国が話し合いによって歩み寄りの姿勢を示すことが世界に対して示された意義は大きい。 シナトラ・ドクトリンに関してはゴルバチョフ就任当初から各国共産党に対して内々に示されていたが、88年のベオグラード宣言の中でこれを明文化し世界中に対してソ連が東欧諸国に対する指導制を放棄した事を表明した。こうしたソ連の変化に対していち早く対応したのがハンガリーとポーランドであった。この2カ国はいち早く民主化運動に乗り出し、特に1989年8月にハンガリーで行われた汎ヨーロッパ・ピクニックは同年11月にベルリンの壁崩壊を引き起こした。ベルリンの壁崩壊を引き金に各国の共産党政権は次々と下野。自由選挙による新政権が成立した。この一連の東欧革命に対しても、ゴルバチョフは早急な東西ドイツ統一とそれに伴う北大西洋条約機構(NATO)の拡大を警戒したのみで、ハンガリー動乱やプラハの春(チェコ事件)の時のように武力による民主化運動を鎮圧すると言う立場を取らなかった。 こうした東欧の民主化革命はソ連に対しても連邦制の動揺という形で跳ね返ってくる事になった。エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国の独立要求である。こうした連邦内の動揺に対してゴルバチョフはソ連の国内改革によって事態を収拾しようと試み、1990年連邦に対しての強大な権力を与えた大統領ポストを創設。自らソビエト連邦初代大統領(そして結果的に最後の大統領)に就任した。 バルト三国の独立については、東欧諸国とは違いソ連軍を投入し武力で鎮圧する立場を取った。同時にゴルバチョフがこれらの国に入って市民と対話しようと試みるも、ソ連軍の介入によって逆に独立感情が高揚。結局リトアニアが1991年3月、エストニアとラトビアは8月に独立宣言を行い、従来の15共和国による連邦体制は崩壊した。 1991年8月19日、守旧派の党官僚によるクーデター(ソ連8月クーデター)の失敗はソビエト連邦とソ連共産党の崩壊を決定的なものにした。クリミアでの軟禁を解かれたゴルバチョフは直ちにソ連共産党の解体を指示。ここに1898年に創設され、世界最初の共産主義政権を打ち立て、全世界の共産主義政党をリードしたソ連共産党はその歴史に幕を閉じた。またゴルバチョフの求心力は決定的に失落、かわって反クーデター運動をリードした、ボリス・エリツィンが新生ロシアのリーダーとしてその存在感を大きなものにしつつあった。又ウクライナもソ連邦からの離脱を国民投票で決めており、12月8日に急遽行われたロシア、白ロシア、ウクライナの代表者による秘密会議においてベロヴェーシ合意が宣言され、3カ国のソ連邦の離脱とEUと同レベルの国家の共同体の創設が確認された。その後ロシア共和国をはじめとした12共和国によってソ連に変わる新しい枠組みとして独立国家共同体(CIS)が創設され、ソ連はその存在意義を完全に喪失した。こうした中で12月25日、ゴルバチョフはソ連邦大統領辞任を決意し、辞任と同時にクレムリンに掲げられていた赤旗も降ろされることとなった。その直後にモスクワでは市民によってレーニン像が次々と破壊されていき、これはソ連崩壊を象徴する場面の1つとなっている。 「労働者の祖国」と呼ばれたソ連の崩壊は、社会主義の実験の失敗を意味すると同時に世界的な混乱を引き起こした。それ以前からソ連への批判色の強かった日本共産党こそ「歴史的巨悪であったソ連共産党の解体を両手を挙げて歓迎する」と述べたものの、日本国内で東側の立場を代弁していた日本社会党は事実上消滅し、社会主義を放棄した国々の旧共産党は、次々に社会民主主義政党に衣替えしていった。また、西側の社会民主主義政党は、「第三の道」と呼ばれる中道・リベラリズムに近い方向へ路線転換を図っていった。東欧革命を反スターリン主義革命に転化できなかった日本の新左翼は、敗北と言われた。ソ連のスターリン主義を主要打撃対象としていた日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(通称、革マル派)は、「世界史的大逆流」と解釈不能に陥った。新右翼活動家の野村秋介は、闘争目標を失ったとして朝日新聞社社長室で拳銃自殺した。 アメリカ合衆国と唯一互角に戦えると思われていた二大パワーの一つ・ソ連の消滅によって、アメリカ合衆国は唯一の超大国となり、他の国際連合全加盟国が結束してもアメリカには対抗出来ない状況となっていった。 史上最大の全体主義体制とも呼ばれたソ連であったが崩壊後は、旧共産党員やロシア人を中心とするかっての中上層階級の国民からソ連時代を懐かしむ声が上がったと言われている。最終的には破綻をきたしたものの、見かけ上はアメリカと肩を並べる大国に成長し、「偉大で強い祖国」であったソ連時代は、確かに国民は監視社会で窮屈だったが、一方で社会保障制度も整備され、日常品も質は悪いが安い値段に抑えられるなど、収容所(ラーゲリ)で強制労働に従事させられていた政治犯や思想犯を除いた一般の人間にとっては、最低限の生活も保障されていたのである。 ソ連崩壊後に出現した政権は、いずれも市場経済化を標榜した。ただし市場経済への移行は一朝一夕には進まず、旧ソ連諸国家を含めた東欧では1990年代を通して経済状況が進展しなかった事から、モルドバ等において、東欧革命によって一旦は退席した旧共産党系政権が政権の座に復帰する事態もしばしば現れた。 ただし2000年代中頃までの中期的な視野に立って見た場合、ソ連の衛星国であった東欧諸国の市場経済化は概ね達成され、2004年にはスロベニア、ハンガリー、チェコ、スロバキア、ポーランドと旧ソビエト連邦構成諸国家のうちバルト三国のリトアニア、ラトビア、エストニア、合わせて東欧7ヶ国が欧州連合(EU)加盟を果たした。2007年には、ルーマニア、ブルガリアがEUに加盟し、かつてのソ連の衛星国はすべて欧州連合の一員となっている。特にスロベニアは既に国民一人当たりの国内総生産(GDP)がポルトガル、ギリシャを上回っており、スロベニア系企業の東欧諸国への進出も活発である。 またCIS諸国の中ではウクライナではソ連型社会主義への回帰をはっきり謳うウクライナ共産党が一定の勢力を維持している一方で、2004年大統領に就任したヴィクトル・ユシチェンコは将来的なEU入りを掲げている。しかし、その後の選挙で親ロシア派政党が政権を執るなど、現在も政治的混乱が続いている。 スターリン批判 ? ハンガリー動乱 ? 第二次中東戦争 ? スプートニク・ショック ? 金門砲戦 ? キューバ革命 トルーマン・ドクトリン ? マーシャル・プラン ? ドミノ理論 ? ニクソン・ドクトリン この「ソ連崩壊」は歴史に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ歴史)。 カテゴリ: ソビエト社会主義共和国連邦 | 東欧革命 | 1991年 | 歴史関連のスタブ項目 |
[ 292] ソ連崩壊 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%B4%A9%E5%A3%8A
