日間とは?
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ヒロシマの九日間 被爆直後のヒロシマ爆心地で、死体の収容や焼却に従事した若き兵士の九日間を綴ったノンフィクション小説 多くの皆様から、「読みたいけど書店に本がない」、「どこで買えばいいのか?」など、ヒロシマの九日間の重版に関するお問い合わせを頂いておりましたが、11月30日に第二刷が重版されました。 現在、全国の書店に並んでいると思いますが、在庫がない書店もあるかと存じます。 「ヒロシマの九日間」のカバーデザインは、私の娘(アリヤマデザインストア:池田千草)が作成いたしました。 このイラストは、林重男氏(元中国新聞社)が撮影の写真を参考に制作しました。 「ヒロシマの九日間」が多くのマスコミに注目されています。その一部をご紹介します。 6回連載の「家族史のなかの原爆・戦争」という特集で著者と主人公の池田義三が紹介されました。 政治経済の専門誌「月刊公論」に紹介され、絶賛をいただきました。た。 「ヒロシマの九日間」第1刷での本文中に、江田島の海軍基地に存在した特殊潜航艇が「回天」であるとの誤記がありました。 実際は、江田島の海軍基地に存在した特殊潜航艇は二人乗りで、一人乗りの回天とはまったく別のものであります。 回天は、山口県周南市の徳山湾に浮かぶ大津島が主たる訓練基地として知られています。 「ヒロシマの九日間」第1刷での本文中に、ヒロシマに投下された原子爆弾の中心温度を摂氏5万度と記載いたしました。筆者が調査した文献では5万度となっていたことから記載したものですが、出版後において数名の方から「摂氏100万度が正しいのではないか?」とのご指摘がありました。 確かに多くの記録書籍や先般放映されたNHKのドギュメント番組でも「100万度」を採用しておりました。 このため、第2刷では「摂氏100万度を超える」と修正することにしました。 このホームページ上で、「ヒロシマの九日間」に関わる誤りを記載しております。この誤りは、読者の方々からご指摘があり、筆者が再調査して修正したものです。 「ヒロシマの九日間」は、戦争小説という観点だけはなく、記録小説として後世に伝えたいという願いを込めておりますので、記録性については正確を期したいと考えております。 お気付きの点がありましたら是非ともご一報いただきますようお願いいたします。 広島、長崎の被爆から60年以上が経過し、世界で唯一の被爆国であるわが国でも、被爆の状況や惨状を語れる人間は極僅かとなりました。残念ながらあと数年を経過すれば、世界中で原爆を知る人は皆無になることは間違いありません。 私の父・池田義三(写真右)は、昭和19年、17歳で陸軍船舶兵特別幹部候補生として入隊し、昭和20年8月6日早朝に爆心から4キロ地点の広島市宇品西2丁目で被爆、その後8月7日早朝、人類として初めて爆心地に踏み入り、遺体の収容や焼却作業に従事しました。 私は、その有様を父から伝え聞き、また存命である被爆者の方々にもお目にかかり、その他多々の文献を調べるなどして、2005年に父の被爆体験をテーマにした実話小説の「ヒロシマの九日間」を執筆、この「ヒロシマの九日間」は、2006年6月に文芸社から企画出版されました。 出版後、朝日新聞や中国新聞、そして月刊公論などで書評が掲載(後記)され、数々のインターネットサイトでも紹介されるなど、各界で評価を得るに至っております。 60年前のこの街は、一瞬の穿孔によってすべてが破壊され、人々は瞬きもできない間に溶かされてしまった。 しかし、今現在の広島には、それらの惨状を思い起こせる物は何一つ残っていなかった。 私は、陸軍士官学校を受験することになり、兵舎で独り特訓に励むことになる。 そんなある日、中隊長から突然呼び出しがあり、捕虜になった時の心構えを詰問される。 江田島には、北に陸軍の教育隊が、南には海軍兵学校が、いずれも当時の日本国の重要使命を担う教育学校が隣接されていた。 私は、毎日同僚から離れてマルレによる特攻訓練を受けることになる。 一方、山ひとつを隔てた海軍兵学校では、特殊潜航艇による特攻訓練が連日続けられていた。 昭和20年8月6日早朝、軍需物資調達の命を受けた私たち9名は、広島市の中心部にある司令部倉庫に向かうため江田島から上陸用舟艇に乗り込み瀬戸内海を北上、7時に宇品西2丁目に上陸しドラム缶にもたれて輸送トラックの到着を待っていた。 昭和20年8月6日午前8時15分、一瞬の閃光が走り私たちは5メートルほど吹っ飛ばされ、しばし失神していた。 空には異様な雲がむくむくと湧き出ていた。 幸い軽傷であった私たちは、命令を遂行するため2台のトラックに分乗し広島中心部に向かう。 トラックは数百メーター走行したあたりで被爆者の群れと遭遇、ノロノロ運転を余儀なくされる。 はじめのうちは人間の姿であった被爆者たちであったが、時間の経過とともに重傷者が増してき、全身が焼け爛れ、とても人間とは思えぬ姿になっていた。 トラックは、助けを求める被爆者の群れに遮られ走行ができなくなり、やむなく重傷の被爆者を乗せ宇品海岸に引き返し、海岸の倉庫沿いに被爆者を避難させ、私たちは江田島に帰隊した。 江田島に帰隊した時には既に広島市街の救援命令が発令されていた。 このため私たちは、とんぼ返りの状況で午後7時頃に宇品海岸に上陸する。 そして隊列を組み徒歩で広島中心部に向かった。 途中、いたるところで哀れな姿の被爆者がたむろしていたが、私たちは被爆者を助けることもできず、千田町あたりで消火作業を行うことになる。 8月7日早朝、なんとか市街の消火を終えたが、私たちは広島市中心部の救援と死体処理にあたる命を受け、さらに徒歩で北上する。 私たちは、原爆ドームに程近い爆心地(紙屋町・八丁堀付近)に到着した。(人類として初めて爆心地に踏み入った) そこは、ただ瓦礫の原が続く空虚の世界であった。 そして、ところどころに未だ冷めやらぬ燃え殻が、かすかな煙を立ち昇らせていた。 私たちは早速遺体の捜索を開始したが、広大無辺の瓦礫の原には、亡骸はおろか、遺骨の欠片さえ発見できなかった。 しかし、瓦礫に埋もれた防火用水のなかには・・・・・ 爆心地の捜索をあきらめた私たちは、広島市内を縦断する元安川に向かった。 河川を見渡した私たちは驚きの声をあげる。 なんと、全身が真っ赤に茹でられたような被爆者の死体が、広い河川を埋め尽くすように折り重なっていたのである。 私たちは、それら哀れな遺体を焼却するため一体一体を背中に担ぎ、焼却場所まで運んだのだが、身の毛もよだつほどの恐怖から逃げ出したい気持ちでいっぱいであった。 私たちは毎夜、遺体の焼却場所の近くで眠った。 付近は死体を焼却した匂いと死臭が漂い、いくら慣れても吐き気が止まらない。 深夜、尿意をもよおした私は、輪になって眠る兵隊たちからソォーと離れて用便しようとしたが、すぐ目の前には世にも恐ろしい亡霊がゆらゆらと漂っていた。 被爆から5日目。 今日も相変わらず河川での遺体収容と焼却の作業が続けられていた。遺体を担ぎ上げようとした時、遺体の傷口に何か白いものが動いていることに気付く。 なんとそれは、遺体の体内から湧き出てくる大量の蛆虫であった。 1945年8月6日午前3時頃、約4トンの原子爆弾を積んだ米軍のB29爆撃機エノラゲイは、2機の随伴機とともにグァム島の北方、マリアナ諸島にある小さなテニアン島を飛び立った。 家族を探す老婆が3名の不良青年に取り囲まれる。 そこに現れた3名の憲兵、それは小豆島で偶然にも知り合った高島憲兵であった。 高島憲兵との奇遇な縁。 それは、小豆島で起こった偶然の出来事からであった。 8月13日夜、帰隊命令を受け、これでやっと地獄から開放されると私たちは飛び上がって喜んだ。 8月14日早朝、私たちは隊列を組み爆心地から宇品海岸に向かって徒歩で南下した。 途中、15日の消火作業の時に助け出した田原さんの奥様と再会する。 一緒に助けたご主人は、不幸にも既に亡くなられ、ご遺体だけがその場に放置されていた。 私たちは、ご主人のご遺体を荼毘にふすため焼却場所を探し回る。 帰隊する途中、御幸橋の袂でぼろぼろの服を着た少年に呼び止められる。 少年に引っ張れて瓦礫の中に入っていくと、そこには重傷を負った少年の姉が横たわっていた。 姉の傷口を見れば、大量の蛆虫が湧き出ている。 生きた人間の傷口にも、蛆虫は繁殖していたのであった。 指折り数えてみれば九日間。 「ヒロシマの九日間か・・・」思わずつぶやいた。 |
[ 187] ヒロシマの九日間 公式ホームページ
[引用サイト] http://www.hiroshima9.com/
