槇原とは?

槇原 敬之(まきはら のりゆき、1969年5月18日 - )は、大阪府高槻市生まれのシンガーソングライター。作詞家・作曲家・編曲家でもある。愛称は「マッキー」。大阪府立春日丘高等学校卒業。三浪の後、当時憧れの存在だった桑田佳祐もかつて在籍していた青山学院大学文学部第二部(夜間部)英文学科に入学したが、芸能活動が忙しくなり中退。所属事務所はワーズアンドミュージック。所属レコード会社はエイベックス(レーベルはJ-more)。
オリジナル曲に関しては、ほぼ全曲の作詞、作曲、編曲を槇原本人がこなす。楽曲作成については、「詞先(しせん)」と呼ばれる、詞を先に作る方法を多用する。作詞の題材は、主に日常の生活に起こる出来事や恋愛模様であり、現実感のある言葉を用いた表現が選ばれることが多い。反対に観念的表現が直接的に用いられることは少ない。特に初期の作品では、恋愛における男性の幼さ、弱さをアイロニックに表現するような歌詞に独自の特色が見られる。最近の楽曲では少し傾向が変わってきたようで、SMAPに提供した「世界に一つだけの花」や「僕が一番欲しかったもの」など、生きることや人のアイデンティティについて深く掘り下げた、本人が言うところの「ライフソング」を数多く発表している。
同じくミュージシャンのローリー(すかんちのローリー寺西)は従兄である。槇原・ローリー共に、実家は地元・大阪府高槻市の電器店経営。一族には日産の元レーシングドライバー寺西孝利がいる。槇原本人は、兄弟がおらず一人っ子である。
保育園の保育士がピアノで弾いた「エリーゼのために」に感銘を受け、ピアノを習い始める。その後イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』に出会い大きな衝撃を受けると共に、以降槇原オリジナルの楽曲(特に音作りの部分)に多大なる影響を与える。中学2年からは、友人と作曲を開始。当初ボーカルは機材の少なさを埋める程度のものだったが、カーペンターズに影響を受けてボーカルの楽しさに目覚めた。製作したテープを近所のレコード店にたびたび持ち込み、「close to you」という2曲入り300円のテープが発売される事になる。これが槇原にとって人生で初めて市販された音楽となった。
1984年、当時坂本龍一が担当していたNHKのFMラジオ番組『サウンド・ストリート』のデモテープコーナーに、アーティスト名「C・M・C」で「HALF」と言う楽曲を応募する。(ちなみに、この「C・M・C」は実質槇原の1人ユニットであり、後に発売されるサンストのコンピレーションアルバム(『Demo Tape-1』後述参照)のライナーノーツにも、「作詞・作曲・歌・演奏−槇原範之」とクレジットされている。又この曲のレコーディングとミキシングエンジニアを担当していた沢田知久氏は、当時から槇原の親友で、後にメジャーデビュー後の槇原の作品のエンジニアも担当する事になる。)楽曲を聴いた坂本から「良いバランスで仕上がっている。言う事なし」と絶賛を得て、番組では異例のフルコーラスが放送された。その後、同企画での優秀作品をまとめたアルバム『Demo Tape-1』(MIDI)に収録される。
大学受験浪人中も音楽活動を続け、受験生や応援するファンの間で話題になった。ラジオ番組において、番組のスポンサーであった駿台予備校を読み上げた際に、「僕、予備校時代には駿台予備校に通っていたんですよ」と語っていた。
1990年3月 「AXIA MUSIC AUDITION '89」で、グランプリと「一万人審査員賞」を受賞。この時のサポートギタリストは寺西一雄(ローリー)。
1990年10月25日 シングル『NG』とアルバム『君が笑うとき君の胸が痛まないように』でWEAミュージック(後にワーナーミュージック・ジャパンに併合)よりデビュー。
1991年6月10日 3枚目のシングル『どんなときも。』発売。167万枚を売り上げ、シングル、アルバム通じて自身初のミリオンセラーとなった。これは現時点におけるシングルの自己最高売上記録でもある。映画『就職戦線異状なし』主題歌、ケンタッキーフライドチキンのCFソングであり、1992年春の高校野球入場行進曲にも選ばれた。また、この頃、バラエティ番組ウッチャンナンチャンのやるならやらねばの中でウッチャンナンチャンの内村光良が「ドンナトキモ槇原」という、槇原をデフォルメしたキャラクターを演じていた。
出身校である大阪府立春日丘高等学校の先輩に嘉門達夫がいる。嘉門と槇原でどちらが先に年末の『NHK紅白歌合戦』に出場するかを競ったが、槇原は1991年の同番組に出場が決定し、先を越す。(嘉門は翌1992年に出場)
1996年 全曲ネイティブ・スピーカーによる英語詞のアルバムをリリース。同アルバムからシングルカットされた楽曲のPVはイギリスのデザイン集団Me Companyが制作、CGを駆使したアニメーション作品が話題を呼ぶ。
1999年8月 覚せい剤取締法違反で逮捕される[1]。本人は300万円の保釈金によって保釈、その後に執行猶予付きの有罪判決を受けた(懲役1年6月、執行猶予3年)。このときCDが発売元のレコード会社によって店頭から回収される動きがあり[要出典]、ファンが買いに走ったために、過去の作品の売上が伸びるという現象が起こった[要出典]。
謹慎中、美輪明宏の著書『紫の履歴書』に影響を受ける。後に、『Listen To The Music 2』において美輪の「ヨイトマケの唄」をカバーした。
2000年 以前所属していたワーナーミュージック・ジャパンに復帰移籍し、11月にアルバム『太陽』で活動再開。
2004年8月 13枚目のオリジナルアルバム『EXPLORER』とベストアルバム『Complete Recorded』が発売され、翌月にはアルバム総売上枚数が1,000万枚を突破。男性ソロ歌手としては井上陽水、長渕剛に次いで3人目であり、初チャートインから13年2ヶ月での達成は史上最速記録となった。
2006年3月 14枚目のオリジナルアルバム『LIFE IN DOWNTOWN』で、アルバム総売上枚数が井上陽水を抜き、男性ソロ歴代1位となる。
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「TIME AFTER TIME」(原曲はシンディー・ローパー)が『ブロードキャスター』エンディングに採用された。
村上"ポンタ"秀一音楽活動30周年記念アルバム『マイ・プレジャー』で「LOVE SPACE」(オリジナルは山下達郎)をカバー。
蛇口を止めて FNS地球特捜隊ダイバスター『ベストヒット曲集』にM.ノリユキ&ユリッペ名義で収録予定だったが、発売直前に収録見合わせとなった。(作詞/遠藤達也、作曲/槇原敬之)
21ヶ月 〜シンガーソングライター槇原敬之の時間が止まった時 (TOKYO FM、2001年5月30日放送) - 槇原が前述の逮捕後、はじめて公の場でその前後の事を自らの口で語った。放送後、賛否両論が起きた。深夜帯かつ地域の限定された放送にもかかわらず、同時間帯ではTBSラジオ『コサキンDEワァオ!』(当時はこの時間帯に放送)に次ぐ、高い聴取率を記録。平成13年度日本民間放送連盟賞参加作品・優秀賞受賞。出演:坂上みき、大橋俊夫、槇原敬之。
FNS地球特捜隊ダイバスター第63話〜67話(フジテレビ、2007年放送) - 新隊員「M.ノリユキ」役で声の出演。
^ この曲について松本零士との間で意見の対立する騒動があり、そのためCMソングの放送中止などを受けてしまった。2007年、槇原は松本に対し、著作権侵害不存在確認等請求訴訟を提起し、盗作の証拠が示されなければ、2200万円の損害賠償請求をするとしている。
エイベックス・エンタテインメントとのアーティスト契約プレスリリース エイベックス・グループ・ホールディングスによる
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | 日本のシンガーソングライター | 日本のミュージシャン | 日本の歌手 | 日本の作詞家 | 日本の作曲家 | 1969年生 | ワーナー・ミュージック・グループのアーティスト | EMIミュージック・ジャパンのアーティスト | エイベックス

[ 152] 槇原敬之 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%87%E5%8E%9F%E6%95%AC%E4%B9%8B

1969年5月18日大阪府高槻市生まれ。90年「AXIA MUSIC AUDITION '89」で、グランプリを受賞。この年シングル「NG」とアルバム『君が笑うとき君の胸が痛まないように』でデビュー。翌年6月発売のサードシングル「どんなときも。」がミリオンセラーとなる。96年にはオリジナル楽曲を英語圏のライターに委ねた全曲英語詞アルバム『Ver.1.0E LOVE LETTER FROM THE DIGITAL COWBOY』をリリース。03年、SMAPに提供した「世界に一つだけの花」がダブルミリオンを記録。11月7日、15枚目のオリジナルアルバム『悲しみなんて何の役にも立たないと思っていた。』がリリースされる。www.makiharanoriyuki.com/
インタビュー場所は槇原敬之の仕事場のレコーディング・スタジオ。入ってまず目に付いたのは、壁の神棚におわす弁天様だった。芸能の神様である弁天様は、琵琶を抱えて微笑みながらスタジオを見渡している。「美術家の方に彫ってもらったんですよ。本当は琵琶じゃなくてフライングVっていうエレキギターを持ってるのを頼んだんだけど、“そんなもの、知らない”って言われて」と槇原は笑う。デビュー17年を迎えた槇原は、ニューアルバム『悲しみなんて何の役にも立たないと思っていた。』を完成させたばかりの仕事場でくつろいでいる。まず、彼にとっての仕事、ということについて聞いてみた。「20歳までは実家で生活してたんですよ。家は商い、電気店をやってたんで、働く両親を見ていた。母親は店番。父親は商品の配達から戻ってくると、夜遅くまで修理をしたり。ツラいところを見るのもさることながら、それを乗り越えるところも見てると、“苦労はしてみるもんだな”と思いましたね。二人を尊敬してました。僕は浪人していて、親の仕事を手伝ってました」高校生の時、憧れの坂本龍一のラジオ番組でデモテープをかけてもらい、そのうえ、褒められるという至福を経験。浪人しても音楽の道をあきらめず、歌を作っては録音していたのだった。そんな時、あるオーディションに受かってデビューすることになった。90年のことである。だが、それでも母親は槇原に大学受験を勧めた。槇原自身も迷っていた。「やっぱり親から見ると、音楽は遊びに見えたんでしょうね。ただ、自分と対峙して歌詞を書いていて、それを聴いてくれた人から“元気が出ました”って言われると胸が晴れた。受験とか、最近ではスポーツ・ジムとか(笑)、今まで僕はあきらめたことの方が多かったけど、どうしても音楽だけは捨てることができなくて」デビュー翌年の91年に、運命の「どんなときも。」をリリース。「そのころって、自分に向かって歌を書いてたところがある。堂々と人に意見を言えるほど、強くはない。けど、何か言いたい。何も言わないより、言った方が健康っていうくらいの感じで(笑)。正しいことを言っても通じないかもしれないけど、自分を信じて何かをやってる人を応援するような歌を作りたかった。みんながみんな、聴いてくれなくても、誰かが聴いていてくれればいい。そう思いながら作ってた。ツラく楽しい毎日でした」まず自分のために。でもそれが誰かに伝われば…。「どんなときも。」はみんなに聴かれて、ミリオンセラーになった。「やっと“音楽で仕事をしていこう”って思えた。だけど、こんなに早くブレイクするとはレコード会社も思っていなかったみたいで、最初は“短くて3年はかかる”って言われてた。その時、うれしかったんです。なぜって、3年は待ってくれるんだって思ったから。僕ってそんなふうにズレてるところがある。だからデビューしてすぐにブレイクして“一発屋”って言われたから、じゃ、全然違うタイプの曲を作ってもいいのかなって」この時、作った「冬がはじまるよ」は、「どんなときも。」と「もう恋なんてしない」のメガヒットの間にリリースされた知る人ぞ知る名曲。ヘソ曲がりではなく、本当に音楽のことしか考えていない槇原だから出し得たシングルだ。「やっぱり僕は人とズレている。でも、そこで救われたところがあって。今だったらできないなと思うくらい、慎重さに欠ける冒険をしてた。“あの人はこうよね”ってイメージを固定されたくなかったから、KYON2がしょっちゅう髪型を変えるように、自分も音楽スタイルを変えていきたかった」
「僕の25歳って、空白と言えば空白。お金は稼いだけど、忙しくて気絶してるみたいだった」それでも槇原は傑作「花水木」を含むアルバム『PHARMACY』を発表するなど、精力的に活動。やがて英語詞にチャレンジするようになる。27歳の時、洋楽好きだった槇原は自作曲をアメリカの出版社に委ねて、向こうのライターに作詞を依頼。全英語詞のアルバムを発表した。「25、26、27歳をどう生きるか。多少なら笑顔でリカバーできるし、間違ったとしても振り切って行くことも大事。他人の顔色を見なくてもいいと思う。失敗しないように生きる方が、身体を悪くしますよ(笑)」冒険心の衰えない槇原と、コンスタントなヒットを望むレコード会社との距離は次第に離れていく。マネージメントも音楽バブルの崩壊を予感して、槇原に音楽以外の仕事を勧めるようになる。実際、CD売り上げは下降していった。しかし、音楽だけが槇原のやりたいことだった。「人間、今まであったものが下がると、気持ちが落ちちゃう。けど、こういう時期が来るってことは、これをやり過ごせれば長くやれるってこと。またズレた考え方ですが(笑)。売り上げ枚数が下がっても、音楽の質が下がったわけじゃない。逆に、ひたすら音楽を作ってたアマチュア時代を思い出すことができた。おいしいものを食べるために稼ぐより、ものをおいしく食べるために仕事する方がいい」そう思う一方で、マネージメント側の思いも受け止めたかったが、「板挟みというか、パニーニの中身がプチュっと出ちゃうみたいに離れた。当時、天王洲に住んでた。あの辺の海って意外と暗い。毎日、窓から海をずっと見てた。周りに『ダメ』って言ってくれる人がいなくなって、それで僕自身がダメになっていった」。人間不信、薬物禍での逮捕。「最低の人間でした。トドメで捕まって。でも、その時、“誰のせいでもない自分”に気が付いた。そっからラクチンになった」デビュー以来、あまり話をしなかった父親と、話すようになったと言う。「今になって自分には父みたいなところがあるって気が付いた。遅くまでかかってちゃんと直した品物を、お客さんに届けに行く。僕がここで一所懸命アルバムを作って、みんなに届けるのと同じだなって」と言いながら、槇原はスタジオを見回すのだった。
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[ 153] 槇原敬之 - R25.jp
[引用サイト]  http://r25.jp/index.php/m/WB/a/WB000410/tpl/interview01_11/bkn/20071101/id/200711010201



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