というとは?

オンド・マルトノという楽器がある。オンドというのはフランス語で「電波」の意、そしてマルトノは製作者の名前だ。なので直訳すると「マルトノさんの電波」となるらしい。そんな謎の楽器が奏でる音楽を聴いてきました。
今回聴きに行ったコンサートはピアノ、ボーカル、テルミン、オンド・マルトノという構成だった。テルミン(ロシアで発明された世界初の電子楽器。乙幡さんの記事参照)の時点ですでに普通ではないが、さらにオンド・マルトノだ。どうなっちゃうんだろう。期待に満ちた観客を前にして、いよいよコンサートは始まった。
圧倒的な難解さだ。音を言葉で表すのは難しいが、簡単にいうと、わけがわからない。最初に演奏されたデュオという曲は、チェロをオンド・マルトノで、のこぎりをテルミンで表現しました、と言っていた。のこぎりて。オンド・マルトノは例えるならば中国の二胡みたいな音色がしていた。記事の最後に紹介するHPにサウンドファイルがアップされているのでぜひ聞いてみて欲しい。
ひとつ曲が終わるとまず舞台裏から拍手が起こる。そして我に返ったように会場も拍手をする。初めて聴く人にとってはどこで拍手していいのかすらわからないのだ。
難解すぎて眠くすらならない。しかしそれでもすばらしい演奏は本能に訴えかけてくる。曲が進むにつれて我々観客も徐々に不思議な世界へと引き込まれていった。
そもそもオンド・マルトノというのはどのような楽器なのだろうか。コンサートの後に「質疑応答」という時間があったので(そんなコーナーのあるコンサートも珍しい)いろいろ教えてもらった。写真は演奏者の市橋若菜さん。国内には数えるほどしかいないという奏者の一人。
オンド・マルトノは1928年、フランスで開発された。鍵盤があるのでオルガンのようにも見えるが実際は全く異なり、弦楽器の演奏をイメージして作られているのだという。演奏者はリボン(弦だと思います)へと繋がるリングと呼ばれる部品を右手の指にはめて鍵盤に沿って左右に動かす。これが弦楽器でいうところのフレット(弦を押さえる部分)にあたるのだとか。鍵盤はあくまでもリングの位置の目安ということだ。
楽器自体はあまり知られていないが効果音的に使われていることが多く、普段知らずに耳にしていることがあるらしい。たとえば水戸黄門の弥七の登場の音(ひゅーんという音)とかゴーストバスターズのお化けが飛び回る音とか、実はオンド・マルトノで演奏されているのだという。
そして左手でスイッチを操作して音を出す。要するに弦楽器でいうところの弓の役割だ。「引き出し」と呼ばれる操作部には小さなスイッチがずらっとレイアウトされていた。
ぜひとも実際に触らせてもらいたかったのだけれど、この楽器、現在は製造されておらず大変に貴重なのだ。今回は残念ながらここまで近づくのが精一杯だった。カメラのストラップとか引っ掛けて倒したりしたら、僕はもうここにはいない。
次に音の出る仕組みだ。弦の操作で発生した音波は音としてこちらのメタリックと呼ばれる装置から出力される。見た目銅鑼(ドラ)だが、やはり銅鑼らしい。周波数の異なる音波が共鳴して銅鑼を震わすということだが、原理はよくわからない。
そのひとつがこちら、パルムと呼ばれる装置。ますます難解になってきた。構造はよくわからないが、裏表に弦が張られた琵琶みたいな物体だ。内部で共鳴した音が弦を揺らす。
そしてその下にあるのがプリンシパルと呼ばれる装置。これも出力装置だ。内部に大きなスプリングが仕込んであり、それが震えることにより音が出る。
オンド・マルトノ全景がこちら。総重量は100キロを超えるが、今回の演奏者市橋さんはツアー中は一人で移動させているのだと言っていた。はじめは市橋さんがなぜこの楽器を選んだのか不思議に思っていたのだが、説明を聞いているうちに自分でも欲しくなってきた。でも売るなら5億、と言われて僕の場合あきらめた。
世の中には僕たちの知らないものがたくさんあり、それらにはそれぞれの専門家がちゃんといるのだ。まだまだ世界は個性に満ちているのだと思った。はじめるなら他の人がやっていない楽器を、という方、オンド・マルトノなんてどうでしょう。

[ 67] @nifty:デイリーポータルZ:オンド・マルトノという楽器
[引用サイト]  http://portal.nifty.com/2007/04/25/b/

ユーザはシステム不具合に遭遇すると気軽に「バグった!」という言葉を連発しますが、システム開発に関わる我々からするとバグという言葉を聞くと心臓に悪いのでやめてほしいといつも思っています。そもそもバグという言葉にはプログラムの不具合という程度の意味しかないわけですが、世の中を見渡してみると、バグという言葉はどうも広い意味で使われすぎているように思います。そこで今回はバグという言葉について考えてみようと思います。
バグという言葉が大衆化したのはファミコン時代からではないかと思います。ファミコンで気軽に遊ぶ子供達が、動作不具合を見つけるや「バグだ。バグった」の大騒ぎ。ファミコンの場合システムトラブルの原因にはプログラムの不具合の他にカセットの差し方が悪い、ほこりがたまりすぎてショートした、熱暴走等々様々な要因があったわけですが、子供達はそれらをひっくるめて全て「バグった」という言葉で片付けてしまいました。ここからバグという言葉に対する誤用の一般化が始まったのではないかと思っています。
社内でシステムを使ってもらっていると、たまに「これはバグですか?」という問い合わせが来ることがあります。調べてみると、元々要件定義になかったので実装していなかった機能についてだったり、ユーザに使い方を誤解されていたりといった場合がとても多いです。これらは明らかにバグではないです。何故なら動作結果はどうであれ仕様通りであり、プログラムの不具合ではないからです。
ユーザにとって、自分自身が想定しない境遇に陥った場合それらはすべて「バグ」と片付けてしまいます。ユーザにとってシステムは一つのブラックボックスであって、自分の思い通りに動かなければ原因がどんなことであれ「バグった」状態であると片付けてしまいます。
しかし我々がユーザに対して「これはバグだ」「これはバグではない」という説明をいちいちしたところで全く効果はないと思っています。何故ならユーザにとっての関心ごとはシステムが正常に動いているか動いていないかであって、これまではそれを「バグった」という一言で説明できていたわけです。もし我々がバグという言葉の正確な定義を教えたとしてもユーザがそのような便利な言葉を簡単に手放すとは思えません。
そう考えると今後も「バグ」や「バグった」という言葉はシステム不具合と同義語で使われ続け、消えてなくなることはないと思われます。心臓に悪いですけど。
jspやapacheなどのエラーメッセージって、いかにもシステムトラブルだ〜って画面でどきっとしますよね。たしかにあの画面を見ればユーザが「バグった〜」と大騒ぎするのもわかる気がします。
そこで私はエラー画面をもっとユーザフレンドリーにすることをお勧めします。たとえばエラー画面を4コマ漫画にしてどう対応すればいいか教えてくれるとか。
ただ残念なことにそういった本質的ではない部分にはなかなか工数や予算をかけられない事情もあるんですよね。そういった遊び心を取り入れられるような楽しいシステム開発を行いたいものです。現実逃避工数(?!)をそちらに回すとよいかもしれません。
国内某有名ITベンチャー企業に創業メンバーとして携わる。国内最大規模のシステムを構築運用してきたほか,社内情報システム業務を経験。韓国の交友関係が豊富なことから,韓国関連で多数のシステムインテグレーションを行ってきた。

[ 68] バグという言葉について:佐野裕のサーバ管理者日記:ITpro
[引用サイト]  http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Watcher/20061002/249584/

「真理」というと、何か科学的なもの、「真理の追求」というと何か宗教的なものを、又は逆に連想、もしくはその言葉の前後にある環境に応じて様々な分野のことに感じます。
しかしながら、「真理」というものは、分野に区分できるものでもなければ、分野全てを統轄できるものでもありません。
「真理」とは、言葉では表現できないイメ−ジであり、これを宗教というフィルタ−をかければ「宗教的な真理」となりますし、科学というフィルタ−をかければ「科学的な真理」、社会というフィルタ−をかければ「社会的な真理」などというように、様々な媒体による表現が可能かもしれないというだけです。
人類は、自然環境を破壊し、人類同士で戦争を行い、友人・知人とは争い、家族でさえ断絶という状態があり、これらのことで日々悩んでいます。
しかし、宇宙船に乗り、地球を外から見た人々の印象は、国境や争いや人類と環境などという境界がいっさいない生命体としての地球を感じます。
放映されている地球の姿だけでは全てを伝えることができませんが、実際に地球を外から見た人々には、これをイメ−ジすることができるのです。
「真理」は「宇宙の誕生」そのものであり、これを観た人々はその時点で同じイメ−ジ、宇宙が一つの生命体なのであるという感覚になります。
こう表現している言葉が適切かどうかは、日本語という媒体を用いて、これまでの経験の中で表現しているのであり、問題があるかもしれません。
これと同じように「真理」を観た人々も、宇宙を生命体として、これの一部を形成する人類の生き様を本来のものにし、そして宇宙の生命体としての営みを健全なものにしたいと祈るのです。
健全なものにしたいと思う意志を達成させるために、人類の「救済」という目標を置きその実践方法、もしくは「真理」を観るという体験をさせようとするのが「宗教」です。
イメ−ジとしての「真理」を共通の言語として、誰でもが理解できるようなシステムとして表現していこうとするのが「科学」です。
しかしながら、どちらの分野も一般の人々には難解すぎて注釈付きの文章を四苦八苦しながら文字を読み、イメ−ジを、文章の流れを読むことができなくなっているのです。
ただ、日常的な文字を使用し、表現していくような比喩的な表現では、どうしても「そんなこと信じられない」となってしまうのかもしれません。
ここで「宗教」とは仏教を中心とした様々な東洋哲学、「科学」とはユダヤ・キリスト教を中心とした西洋哲学と示した方がわかりやすいかもしれません。
「東洋哲学」と「西洋哲学」はトランスパ−ソナル心理学では「内向」と「進化」、「神は内」と「神は外」、「波動(変化)」と「粒子」、「女性」と「男性」、「知恵」と「知識」、「全体性」と「極小・極大性」、「非二元性」と「二元性」などというように様々な表現をすることができますが、いずれにしても、手法が違うだけなので、求めるものは同じ、すなわち「真理」なのです。
物理的に見るというのは、科学の進歩に伴い、宇宙のはての映像や情報を見るとか超無影響型顕微鏡による映像や情報を得ることかもしれません。
悩んだあげくある瞬間に解決してしまう「ピンとくる」というのもあるし、会った瞬間にこの人はこういう人なのではないかと「ピンとくる」というのもあります。
まさに「宇宙の始まりなど」のイメ−ジが「ピンとくる」ということで、しゃれではありませんが、「ピント来る」、すなわち「焦点が合う」という表現が良いのかもしれません。
釈迦の悟りを得るまでの流れをそのまま実践すれば得られるだろうとしたのが修行と言われている行為なのかもしれません。
ただ、一つ言えることは、深く意識を集中させること、すなわち「瞑想」することにより、「真理」を観ることができるということです。
何かを一生懸命、一所懸命やっている状態、他のことなどまったく感じていない状態、であれば良いのです。
ようするに「意志を深く集中させること」をコントロ−ルできるようになるために「瞑想」という行為を訓練するのだと思ってください。
「西洋哲学」では「瞑想」の変わりに「瞑想」状態と同じ行為を装置などの外部に代用させることが基本で、見た事実そのものを真実とするです。
「西洋哲学」と「東洋哲学」の両者が同じ真理を観て、始めて人々は全て「真理」を見ることができたというふうになるのです。
では「瞑想」するとなぜ「真理」が観える、すなわち「悟る」のかということについて説明したいと思います。
人類(とりあえずこうしておきます。)に共通に持っている意識で、通常の状態では思い出すことのない「心」の声を聴くということ、すなわち「内向」ということなのです。
ここではあまり詳細な説明をしませんが、「トランスパ−ソナル心理学」という「第4の心理学」と言われているものが、このことを表現しようとしていますので、もし興味があれば、読んでみてください。
「おまえは真理を観たのか?」という質問が出そうですが、「観たと思います」とお答えしたいと思います。
ただ、今多くの人々が「そうではない、そうではない」と社会構造に対して疑問を抱いてきていることは間違いのないことなので、「真理」を観る人々も今後は加速度を上げて増加するのかもしれません。
なぜなら、これまでの知識と異なるイメ−ジ・思いなので、「どうにかなってしまったのではないか。精神病にでもなってしまったのではないか。」という思いとなり、救いを求めるような行為に走るかもしれません。
正しく導く知恵を持った人々が回りにたくさんいますので、それこそ「ピンとくる」相手を選ぶ自分の勘を信用し、自分で相手を決めてください。

[ 69] 「真理」というもの
[引用サイト]  http://www.neting.or.jp/show-time/ku/00/19/ku_19.html



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