とてもとは?

私の言語感覚には明治とかそれ以前のものが混じっているらしい。というのは、「とても」という言葉を「非常に」といった肯定的な意味で使うことがとてもできないからである。
この「とても」という言葉が肯定の意味で使われるようになったのは、明治末期以降のことらしい。そこで、その流れを少し追ってみた。
今は2の意味で使われることが多く、1も多少は使われる、という感じだろうが、どういうわけか私はとても2の意味で使うことができないのである。
このごろの若い人たちは「あの映画は全然いいんだ」とか「あそこの食事は全然うまいよ」とかいう。この場合の「全然」は「非常に」「大変」という意味である。
しかし、「全然」は、本来は「全然出来ない」「全然感心しない」のように、否定の言い方を伴う副詞で、意味は「まるっきり」である。それを「全然いい」「全然うまい」と肯定表現に使うものだから、年寄りたちからは、とんでもない使い方だと非難される。
ただし、このような使い方は、前例がないわけではない。今、東京では「とてもきれいだ」「とてもうまい」のように、「非常に」「大変」の意味で「とても」を使う。しかし、本来は「とても出来ない」「とても動けない」のように、「とても」は「どうしても」の意味であり、否定表現を伴う言い方なのだ。それが、明治四十年代ごろから、学生たちの間に愛用されて、今では、東京の口頭語としては普通の使い方となってしまっている。
中でも有名なのが芥川龍之介の「とても考」で、「とても」は必ず否定を伴っているはずなのに、数年前から「とても安い」「とても寒い」などと使われている、といったことを大正末年に書いている。
この「とても考」というのは、大正九年に書かれた『澄江堂日記』の「とても」と「続「とても」」のことであろう。
「とても安い」とか「とても寒い」とか云ふ「とても」の東京の言葉になり出したのは数年以前のことである。勿論「とても」と云ふ言葉は東京にも全然なかつた訳ではない。が、従来の用法は「とてもかなはない」とか「とても纏まらない」とか云ふやうに必ず否定を伴つてゐる。
肯定に伴ふ新流行の「とても」は三河の国あたりの方言であらう。現に三河の国の人のこの「とても」を用ゐた例は元禄四年に上梓された「猿蓑」の中に残つてゐる。
すると「とても」は三河の国から江戸へ移住する間に二百年余りかかつた訳である。「とても」手間取つたと云ふ外はない。
肯定に伴ふ「とても」は東京の言葉ではない。東京人の古来使ふのは「とても及ばない」のやうに否定に伴ふ「とても」である。近来は肯定に伴ふ「とても」も盛んに行はれるやうになつた。たとへば「とても綺麗だ」「とてもうまい」の類である。この肯定に伴ふ「とても」の「猿蓑」の中に出てゐることは「澄江堂雑記」(随筆「百艸」の中)に弁じて置いた。その後島木赤彦さんに注意されて見ると、この「とても」も「とてもかくても」の「とても」である。
「続春夏秋冬」は明治38年に河東碧梧桐が編纂した句集。とすると、「とても」が肯定の意味で使われるようになったのは、どうやら明治末のことで間違いないようなのだ。
それから十年ほど経った昭和六年、中山由五郎著『モダン語漫畫辭典』によると、こんな流行語として描かれている。
琴の音色ぢや無い。「トテモ」と「シャン」とが合成した略語で「おいトテシャンが行くぜ」とか「妾トテシャンでせう」なんて、モボ、モガに使はれる言葉だが、あんまり上品なもんぢやァない。
元来「とても」なる言葉は「とても駄目だ」とか「とても敵(かな)はない」と云つた具合に、否定の語を伴ふべき筈であるが、これが一たび近代式使用法に従ふと、反對に「とても好き」とか「とても善い」と云つた風に、最上級を現はす場合に使はれて、しかも百パーセントの效果を収めてゐるから面白い。時には「とても」の次に置くべき語を省いて、近代味を一層漂はせることもある。例へば「信子さんは帝大のMさんと、とても……なんですつて」の如く。
「とても」と「もろ」とが私通して出來た言葉である。女學生間に勢力のある語で、とてもウルトラな「とても」である。「今日の試験、とてもろに難しかつたわ」と云つた具合で、實に鮮やかなもんである。
このように、「とても」は本来否定表現なのだが、肯定表現として使われるようになり、現在に至るようなのである。しかし、明らかに現代人である私がなぜ「とても」を否定表現でしか使えないのだろうか。我ながら不思議だったのだが、同様の感覚を持つ人のエッセイがあった(今回のこの記事を書いたのは、このエッセイを見つけたのがきっかけである)。
「とても」というのは本来、どのような方法を尽くしても実現不可能だといったときに用いられる副詞であり、語源的には否定表現を接続させるのが正しい使い方であった。それが今日では、「大変」「非常に」に代わる言葉として、「とても美しい」「とても立派だ」のように用いられているのだが、この言葉の変化の兆しはすでに明治時代に始まるようだ。しかし私は、「とてもかくても」「どのようにしても」という言葉の意を思い浮かべるので、肯定表現に用いられると奇異に感じてならないのである。
つまり、「とてもだめだ」というような表現のイメージが強すぎて、肯定に使われると奇妙に感じてしまう、ということのようだ。
明治40年代、学生のあいだで「とても」を肯定の意味で使う「誤用」が広まった。それは芥川龍之介も眉をひそめる表現だった。だが、昭和に入って次第に流行語として定着し、今では教科書(特に英語)でも堂々と肯定表現として使われるようになったわけである。今やそれは正当な意味の地位を占めるようになったといえよう。
今誤用とされている言い方も、何十年後かには教科書に載っているかもしれない。だからあまり目くじらを立てても仕方ない部分はあるのだが、大塚愛「さくらんぼ」の歌詞の中の「書きあらわせれない」という部分はやっぱり変だと思う。

[ 97] とても使えない「とても」の話 [絵文録ことのは]2004/05/27
[引用サイト]  http://kotonoha.main.jp/2004/05/27totemo.html

よく話を聞いてみると、彼にとって「とてもじゃない」という言い回しは「とても、と言うほどの高レベルではない」との意味なのだそうです。
そもそも世の中には「とてもじゃない? 何それ初めて聞いたよ変な言い方」なんて人もいるかもしれないし。
職場の同僚に持ちかけてみたら、そんな下らんことにつき合っていられないという目で見られるし。(しくしく)
敢えて辞書などで調べることはしませんでした。正解は藪の中です。と言うか、正解があるのかどうかわかりません。
私は敢えて辞書で調べてみました。が、「とてもじゃない」の形では載ってないのですね。そりゃそうですね、「とても」+「じゃない」ですもんね。
どうもこれ理屈で考えてもだめですね。あなたは「とても無理」と「とてもじゃないが無理」ではどちらがより無理だと思いますか?
「とても無理」の方が文法的には正しいし意味も通るし、でもあまり使わないんですよね。んな「とてもじゃないが無理」があるんだったら「たわしじゃないが無理」「いたちじゃないが無理」だってあってもいいじゃないですか。少なくとも間違ってはいない。たわしじゃないんだから。
あっ!「せわしい(忙しい)」と「せわしない(忙しない)」の関係に、もしかして似てるのかな〜。そんなことないかな〜(-_-;)
>広辞苑第四版と大辞林第二版にはどちらにも「とても無理」と「とてもじゃないが無理」の両方に相当する用例...があるとはいってはたぶん間違いですね。ごめんなさい。正確にいうと辞書に見つかる用例は「とてもできない」と「とてもじゃないができない」...でしす。
わたくしはどちらも使っています。そして、否定の気持ちが強いときは(2)の方を使います。今まで何の疑問もなく使っていましたが、ここで問題になっているのをみて、ふと不安になりましたので、わたくしも辞書を引いてみました。広辞苑第四版と大辞林第二版にはどちらにも「とても無理」と「とてもじゃないが無理」の両方に相当する用例があるようでした(どちらも見出し語「とても」のなかだよ〜ん)。ちょっと安心しました。
考えてみるに「とても」って言葉は他の言葉との親和性がよくて、たいていの状態を現す言葉は「とても」の後に続けて使えるんだけど、そんな中で「とても無理」って不自然になる数少ないケースではないでしょうか。
「無理」の部分に別の単語をあてはめてみます。「とても巨乳」「とてもじゃないけど巨乳」・・・。「とても」の方が大きそうですね。「とてもブス」「とてもじゃないけどブス」・・・。「とても」のほうがヤバそうですね。「とても花粉症」「とてもじゃないけど花粉症」・・・。日本語として間違ってますね。
自分で質問を出しておきながら、内心「これは完全試合が予想されて不採用になりそうだなー」と思っていましたが…。
また、ダンナになり代わりまして御礼申し上げます。仲間がいるのを知って、きっと喜ぶことでしょう。(今夜は仕事で不在)
「とても無理」の方は、”済みません・・・”って感じがするけど、「とてもじゃないが無理」の方は、”冗談じゃないよっ!!”って感じがします。
とてもじゃないが無理は、親しみを込めた間でしか使えない表現で、無理は強い否定、とても無理はその間って感じですかね〜。
これまで投票したことはありませんでしたが、これほど少数派に入ったのは初めてなので思わず書いてしまいました。
何かお願いしたとき「とてもじゃないが」といわれた瞬間、「とても」じゃ「ない」ならやれよ!...とずーっと思い続けてました。どんなに少数派だとしても、これは譲れません。「とてもじゃない」はまだやれる可能性がある表現だと思います。
「とてもじゃ、ないが」で切れ始めちゃって・・・とてもじゃ、とてもじゃ・・・「とてちてかん」とか「とっぴんしゃん」とか・・・。日本語って変・・・。
玄さん (ホームページ:○にげの字は最近日記しか更新できてない……) 00/03/05(日) 18:14
私は暇なときにもっと回りくどく、「“とても”とは敢えて言わないけどねえ、無理」と言っています。だから「とても無理」と「とてもじゃないが無理」は同レベルに無理です。
「とても無理とは言えないけれど」ってのは、「とても」→「言えない」とかかってると思うんで、比較として無理がないですか?(^^;
強いて翻訳すれば「とてもできる事じゃないけれど仮にやったとしても無理」ということだ、と解釈していますが。
私も「とても無理」は使いませんね。「とうてい無理」はよくいいますけど。したがいまして「とても無理」と「とてもじゃないが無理」のどちらがより強い意味かは判断つきません。あいすみません。
で、なぜ「〜じゃないが」がつくかと言うと、「とても」とはっきり言ってしまうと直接すぎてかなりきつい表現になってしまうので、

[ 98] 日本の標準 とてもじゃないが無理
[引用サイト]  http://matsuri.site.ne.jp/standard/std88.htm

【絵文録ことのは.】HOME|過去ログ表紙 > [ことば] > とても使えない「とても」の話
私の言語感覚には明治とかそれ以前のものが混じっているらしい。というのは、「とても」という言葉を「非常に」といった肯定的な意味で使うことがとてもできないからである。
この「とても」という言葉が肯定の意味で使われるようになったのは、明治末期以降のことらしい。そこで、その流れを少し追ってみた。
今は2の意味で使われることが多く、1も多少は使われる、という感じだろうが、どういうわけか私はとても2の意味で使うことができないのである。
このごろの若い人たちは「あの映画は全然いいんだ」とか「あそこの食事は全然うまいよ」とかいう。この場合の「全然」は「非常に」「大変」という意味である。
しかし、「全然」は、本来は「全然出来ない」「全然感心しない」のように、否定の言い方を伴う副詞で、意味は「まるっきり」である。それを「全然いい」「全然うまい」と肯定表現に使うものだから、年寄りたちからは、とんでもない使い方だと非難される。
ただし、このような使い方は、前例がないわけではない。今、東京では「とてもきれいだ」「とてもうまい」のように、「非常に」「大変」の意味で「とても」を使う。しかし、本来は「とても出来ない」「とても動けない」のように、「とても」は「どうしても」の意味であり、否定表現を伴う言い方なのだ。それが、明治四十年代ごろから、学生たちの間に愛用されて、今では、東京の口頭語としては普通の使い方となってしまっている。
中でも有名なのが芥川龍之介の「とても考」で、「とても」は必ず否定を伴っているはずなのに、数年前から「とても安い」「とても寒い」などと使われている、といったことを大正末年に書いている。
この「とても考」というのは、大正九年に書かれた『澄江堂日記』の「とても」と「続「とても」」のことであろう。
「とても安い」とか「とても寒い」とか云ふ「とても」の東京の言葉になり出したのは数年以前のことである。勿論「とても」と云ふ言葉は東京にも全然なかつた訳ではない。が、従来の用法は「とてもかなはない」とか「とても纏まらない」とか云ふやうに必ず否定を伴つてゐる。
肯定に伴ふ新流行の「とても」は三河の国あたりの方言であらう。現に三河の国の人のこの「とても」を用ゐた例は元禄四年に上梓された「猿蓑」の中に残つてゐる。
すると「とても」は三河の国から江戸へ移住する間に二百年余りかかつた訳である。「とても」手間取つたと云ふ外はない。
肯定に伴ふ「とても」は東京の言葉ではない。東京人の古来使ふのは「とても及ばない」のやうに否定に伴ふ「とても」である。近来は肯定に伴ふ「とても」も盛んに行はれるやうになつた。たとへば「とても綺麗だ」「とてもうまい」の類である。この肯定に伴ふ「とても」の「猿蓑」の中に出てゐることは「澄江堂雑記」(随筆「百艸」の中)に弁じて置いた。その後島木赤彦さんに注意されて見ると、この「とても」も「とてもかくても」の「とても」である。
「続春夏秋冬」は明治38年に河東碧梧桐が編纂した句集。とすると、「とても」が肯定の意味で使われるようになったのは、どうやら明治末のことで間違いないようなのだ。
それから十年ほど経った昭和六年、中山由五郎著『モダン語漫畫辭典』によると、こんな流行語として描かれている。
琴の音色ぢや無い。「トテモ」と「シャン」とが合成した略語で「おいトテシャンが行くぜ」とか「妾トテシャンでせう」なんて、モボ、モガに使はれる言葉だが、あんまり上品なもんぢやァない。
元来「とても」なる言葉は「とても駄目だ」とか「とても敵(かな)はない」と云つた具合に、否定の語を伴ふべき筈であるが、これが一たび近代式使用法に従ふと、反對に「とても好き」とか「とても善い」と云つた風に、最上級を現はす場合に使はれて、しかも百パーセントの效果を収めてゐるから面白い。時には「とても」の次に置くべき語を省いて、近代味を一層漂はせることもある。例へば「信子さんは帝大のMさんと、とても……なんですつて」の如く。
「とても」と「もろ」とが私通して出來た言葉である。女學生間に勢力のある語で、とてもウルトラな「とても」である。「今日の試験、とてもろに難しかつたわ」と云つた具合で、實に鮮やかなもんである。
このように、「とても」は本来否定表現なのだが、肯定表現として使われるようになり、現在に至るようなのである。しかし、明らかに現代人である私がなぜ「とても」を否定表現でしか使えないのだろうか。我ながら不思議だったのだが、同様の感覚を持つ人のエッセイがあった(今回のこの記事を書いたのは、このエッセイを見つけたのがきっかけである)。
「とても」というのは本来、どのような方法を尽くしても実現不可能だといったときに用いられる副詞であり、語源的には否定表現を接続させるのが正しい使い方であった。それが今日では、「大変」「非常に」に代わる言葉として、「とても美しい」「とても立派だ」のように用いられているのだが、この言葉の変化の兆しはすでに明治時代に始まるようだ。しかし私は、「とてもかくても」「どのようにしても」という言葉の意を思い浮かべるので、肯定表現に用いられると奇異に感じてならないのである。
つまり、「とてもだめだ」というような表現のイメージが強すぎて、肯定に使われると奇妙に感じてしまう、ということのようだ。
明治40年代、学生のあいだで「とても」を肯定の意味で使う「誤用」が広まった。それは芥川龍之介も眉をひそめる表現だった。だが、昭和に入って次第に流行語として定着し、今では教科書(特に英語)でも堂々と肯定表現として使われるようになったわけである。今やそれは正当な意味の地位を占めるようになったといえよう。
今誤用とされている言い方も、何十年後かには教科書に載っているかもしれない。だからあまり目くじらを立てても仕方ない部分はあるのだが、大塚愛「さくらんぼ」の歌詞の中の「書きあらわせれない」という部分はやっぱり変だと思う。
「全然+肯定」はもともと誤用じゃないみたいです。それが明治以降、「全然+否定」だけに限定されて、最近「全然+肯定」が復活しているみたいです。
でも「全然」と「とても」は全然違う言葉で、「とても」に肯定の意味があったことは以前にはなかったようです。
「とても」は本来否定的意味を含めて用いられる言葉だったが、段々と肯定表\現として使われるようになり、現在に至るという興味深い内容。……[全文を読む]
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[ 99] とても使えない「とても」の話 [絵文録ことのは.]2004/05/27
[引用サイト]  http://www.kotono8.com/2004/05/27totemo.html



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