そしてとは?
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人に頼り、ものを必要とするこれまでの癒しでは、何も変わらない、変えられないことを知っているから、ムーは癒し畑を耕す。心が道具になり、想いで人を癒せなければ、誰も成長せず、進化しないことを知っているから、皆の自由意思の前に機会の種を蒔く。 本来、病みの原因を浄化し、未来に繋がる原因の癒しでなければ、癒しとは言えない。かたちにとらわれ、結果にこだわる(原因を無視する)癒しは、単に負の連鎖を強くするだけ。人に依存心や被害者意識を植え付け、病みの蓄積を慢性化させるだけ。 未来を想い、最高の原因でいることを実践すれば、健康で平和な自分があたり前になる。喜びの性質も大きく広がり、存在そのものが優しさと癒しになる。望むのは、「癒しの時代」ではなく、「時代そのものが癒しの世界」。ただ原因でいて、心のままに想いを大きくすればいい。それだけで、そのままで癒し癒される最高の未来の原因になる。 心身がダウンしていても、意識(気持ち、心のあり方)である程度はカバーできるけど、意識にムラが生じると、ハートの躍動は止まり、心身が酸欠状態になる。日頃から感情の主導権を握る自分でいれば、すぐにでも次へと変化し、意識の状態も安定するけど、その前段階の感情のコントロールさえもクリアーしていないと、「変化したい病」を患ったままになる。 感情のコントロールは、幼い大人。感情の主導権は、純粋な大人。その違いは、不安と安心、結果と原因。つまり、簡単に言えば、その想いが本物かってこと。 存在するすべてのものが癒し癒され、生かし合うことを知り、自らもそのひとつとしてそれをさりげなく実践している人の心の風景では、普通感覚で次元層を自由に透過する体験をしている。それは、柔らかく透明感のある心の意思(エネルギー)が、思考を超えた多次元世界で行う生命のワーク。記憶に残らない(思考の域に触れない)ゆえ、かたちある言葉として認識することはできない。 面白いもので、時空を超えたエネルギーワークは、記憶(記録)して残そうとすると、ガラクタになる。それを研究の対象としたり、上手く人に伝えようと思考に力が入ったりすると、真実から離れてしまう。生命は変化、止まることのない新しい瞬間の連続。あるひとつの体験にこだわると、エネルギーの停滞(浪費)になってしまい、本来の生命でいられなくなる。 常に変化し、多次元的に無数の意思が重なり合い、生命は生命でいられる。そこは、存在するすべてのものが癒し癒され生かし合う、あまりにシンプルな調和の世界。そのひとつひとつの融合空間の中にすべてがある。宇宙の神秘も創造のエネルギーもみんなそこにある。 「必要の無い現実を経験することはない」のフレーズが馴染んでくると、「思いは(思えば)実現する」のセリフが可笑しくなってくる。だってその思うことが、もうすでに自分が実現させた現実だし、その思いの前には、その思いを生じさせたこれまでの自分という原因がある。 つまり、今の自分は、自らが望んで実現させた自分だということ。自分をどこか別のところに置き、原因に無責任のまま結果だけを求めようとするから、思考レベルのお遊び(=願望実現へのこだわり、潜在意識への働きかけ)に熱くなる。 「どんな願望を抱くか」の前には、「どんな自分がそれを望むか」という、原因の大切さがある。「今を生きていること自体(この現実)が、すでに願望実現なんだよ〜!」と、未来の君も言っている。 変化する今をさりげなく真剣に生きていると、自分が変化していることに気づかない。変化するのが生命(自分)なのに、その変化を感じなくなる。そう、これが本当の変化、そして生命。生命本来の変化に乗り、変化そのものでいれば、変化していることに気づかない。ごく普通のこと。 ふと心が休息をとり、何気に振り返るという身体レベルの行為に戯れるとき、大きく変化している自分に気づく。変化することを意識している自分では体験できない、真の変化。ただそれを想い出すだけ。それでOK。生命は進化し続けるプロセスそのもの。こちらと向こうの差が無い、原因だけの世界。思考を働かさなければ、過去も未来も、もちろん結果も無い。その変化する今の中で、宇宙のすべてのエネルギーが繋がっている。 生命が真に進化するとき、それはあたり前の平均値が向上(高次化)するとき。何も使わず、何にも頼らず心身の病みが改善することを体験すれば、それは奇跡という名の普通体験、自然現象であることを知る。そしてその先には、ふとした想いだけで人が癒され、またその先には、ただいるだけで、癒し空間が創造されるようになる。当然そのプロセスの中で、表現者たちの縁のエナジーは力強く広がり出し、凄いとされることを普通感覚であたり前に行っている現実がある。 なぜムーエナジーは、病みの原因を浄化できるのか? それは、ムーエナジーがどこまでも原因のエネルギーであり、すべての存在の原因(宇宙大自然の根源世界)と繋がるものだから。どんな状況でも常に原因でいるから、簡単に原因を癒すことができる。そこでは、かたちある結果を容易に通り抜け、かたちの無い原因を幾層にもわたって包み込み、癒し、変化に乗せ、自身(生命)の自由意思と自由創造の権利をしっかり握ってもらう。 望ましい未来に繋がる最高の原因でいれば、原因のエネルギー(ムーエナジー)によって、楽しみながら遊び感覚で、病みが浄化される。細胞たちが喜ぶ原因を生きていれば、すぐにでも改善・回復へのプロセスを歩む。そして望ましい現実と想いが重なり、これまでの原因の過去が、新しい今に引き寄せられた未来と出会う。それは、向上したあたり前の平均値の中のひとこま。 考えるという行為から離れ、思考を自由にさせる中でただ想いのままにヒーリングをしていると、いつのまにか、これまでの今とは違う新しい今を感じ取るようになる。経験枠にとらわれず、知識(記憶)からも自由でいて、思考そのものの性質も、以前とは違う自分を発見する。 その後で何かを思うと、それはもう大変なパワーになる。考えなくてもいいことを知り、思考を働かせなくても充分にヒーリングワークができることを経験すると、何気に考えた(思った)ことが、容易に時空を超えて未来に放たれ、望ましい現実の具現化を楽しむことができる。経験から自由になった思考は、これまでの知識の組み立てに過ぎない生命の無い思考とは異なり、どこまでも細かく浸透性があり、全体にとって必要とされる価値意識と方向性を育て、時を癒す。 唯一思考が質の良い働きをするとき、それは、思考を自由にさせる中で、ふと湧き上がる想いが、その材料(原因)となるとき。当然、考えることを常としている人、論理的・観念的思考の人には難しい。彼らは、考えてばかりだと、真に考えるという経験ができないことを知らない。 とらわれやこだわり、不安や怖れとは縁の無い、心の自由空間には、生命にとって望ましい現実創造の燃料が、いくらでも用意されている。 |
[ 147] 連繋
[引用サイト] http://www1.odn.ne.jp/sharla-mu/renkei.htm
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孤島から出られなくなった10人が1人ずつ殺されていくという、クローズド・サークルと呼ばれるジャンルの代表的作品であり、クリスティの傑作のひとつにあげられる。作者自身により戯曲化されており、何度も舞台や映画、テレビドラマとして上演されている。日本では早川書房が独占翻訳権を持つ。 イギリス、デヴォン州のインディアン島に、年齢も職業も異なる10人の男女が招かれた。しかし、招待状の差出人でこの島の主でもあるU.N.オーエンは、姿を現さないままだった。やがてその招待状は虚偽のものであることがわかったが、10人は島から出ることができなくなり、完全な孤立状態となってしまう。 10人が不審に思った晩餐のさなか、彼らの過去の罪を告発する謎の声が響き渡った。その声は蓄音機からのものとすぐに知れるのだが、その直後に生意気な青年が毒薬により、さらに翌朝には召使の夫人が原因不明で死んでしまう。残された者は、それが童謡『10人のインディアン』を連想させる死に方であることに気づき、またその場に始め10個あったインディアン人形が8個に減っていることにも気づく。さらに老将軍の、今度ははっきりと撲殺された死体が発見され、人形もまた1つ減っているのを確認するころにはもう皆は、これは自分たちを殺すための招待だった、そして犯人オーエンは島に残された7人の中の誰かなのだ、と確信する。 誰が犯人かわからない疑心暗鬼の中で、召使、老婦人、元判事、医者が死体となり、人形も減っていく。そして残された3人も最後には残らず死んでしまい、誰もいなくなった。後日警察の捜索が始まっても、誰が10人を殺したのかわからずじまいであった。 補足:原作の小説では島にいた10人全員の死亡で終わるこの物語だが、原作者アガサ・クリスティ本人による戯曲、及びそれを元にしている映画においては、もともとこの童謡の歌詞には最後の1人についてのくだりが異なる2通りのものが存在することを上手く利用し、生存者のあるラストに変更されている。 犯人はローレンス・ウォーグレイヴ判事。判事は幼年期から生物を殺すことを快楽としていたが、同時に正義感も非常に強かった。そのため、犯罪者に死刑判決を下す裁判官として両方の願いをかなえる職業についていたが、退官後は殺人の衝動を抑えきれなくなった。一方で正義感も強く、罪のない者を殺すことには抵抗したため、法律で裁かれない殺人をしている9人を集めて、一人づつ殺していく計画を実行したのである。 ウォーグレイヴ判事はアームストロング医師の信頼を得る。5人を殺した後で自分を次の犠牲者に装うことをアームストロング医師に提案する。犯人が想定しない殺人を偽装して犯人を動揺させることと、生きていないことを理由に自由に動き回ることを目的とし、アームストロング医師の同意を得る。死んだふりをしたウォーグレイヴ判事を検死したアームストロング医師が「判事が死亡した」と断言した。他の3人はアームストロング医師の判断に誰も口を挟まず、ウォーグレイヴが犠牲者になったと思った。 その後、ウォーグレイヴ判事は残りの4人も殺害する。たった一人となったウォーグレイヴ判事は事件のすべてを記述した手紙を瓶に入れて海に投げた後で、拳銃で他殺を偽装して自殺した。 原書名は『Ten Little Niggers』、直訳すると「10人の小さな黒んぼ」という意味のマザー・グースの1曲から採られている。このNIGGERは差別的なニュアンスの単語であり、アメリカで刊行されたときはこれを考慮して、『Ten Little Indians(10人の小さなインディアン)』となり、後に『And Then There Were None(そして誰もいなくなった)』となった。なお、そもそもアメリカでは『Ten Little Indians』の方がセプティマス・ウィンナーが1868年に発表していたことで広く知られていた(『Ten Little Niggers』の発表はそれよりいくらか遅れるとされる)。歌は現在、人種差別的という批判のため考慮されている。 そして誰もいなくなった、愛国殺人、フランクフルトへの乗客(世界ミステリ全集1、清水俊二、加島祥造、永井淳訳) 早川書房、1972年2月 |
[ 148] そして誰もいなくなった - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E8%AA%B0%E3%82%82%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F
