アントラーズとは?
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「フットボールドリーム」が、アントラーズのテーマ。この壮大な夢を、周辺地域はもとより 全国のサポーターへ向けて発信するための起点となるのが、鹿島アントラーズ・クラブハウスです。ファンとチームの交流の場となるラウンジやショップ、 プロチームとしては最高レベルの機能水準を誇る夜間照明完備の4面もの練習グラウンドやトレーニングルーム。鹿島アントラーズ・クラブハウスは、日本サッカー界の掲げる理想をはるかに越えた、プロフェッショナルの殿堂です。フットボールドリームの生まれる空間。 環境や設備など、細部にいたるまで整えられた施設はどこまでも機能的であり近代的。しかしこのクラブハウスには、アントラーズを愛するすべての人を暖かく迎え入れる優しさと開放感にあふれています。ここははフットボールドリームの生まれる空間。 1F/エントランスホール・クラブショップ・監督室・ドクタールーム・マッサージルーム・トレーニングルーム・ロッカールーム(トップ用、サテライト用、スクール用、ビジターチーム用)・スクールスタッフ室・審判控室 2F/クラブオフィス・ミーティングルーム・ボードルーム・ゲストルーム・プレスルーム 自然光が明るく差し込むガラス張りのエントランスホール。吹き抜けの天井は広々としていてゆったりとくつろげる。 サポーターのためのレストラン「鹿ガーデン」。広大なグラウンドが一望でき、選手たちのトレーニング風景を自由に見学できる。 選手たちのパネル写真なども飾られている サポーター必見、アントラーズのキャラクター商品を豊富に揃えたクラブショップ。 約20種ものトレーニングマシンを設置したトレーニングルーム。選手たちがデータに基づいたメニューに従い、体力向上を図る。 トップチームが使用する更衣室。 スペースはゆったり。一人ず つ使用できる。ほかにサテライト 用、スクール用、ビジター用の 更衣室もあり、すべてシャワールーム付き。 2階にあがってすぐ右手にあるクラブオフィス。チームの様々な情報 は、すべてここから発信されている。 報道関係者のためのプレスルーム。選手への個別インタビューの場としても使用 される。 アントラーズカフェでは、お得でおいしいワンコインのセットの他にもランチセットからデザートまで置いてありますので、クラブハウスにお立ち寄りの際は、ご利用ください。 |
[ 163] 鹿島アントラーズ オフィシャルサイト
[引用サイト] http://www.so-net.ne.jp/antlers/institution/chouse.html
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鹿島アントラーズ(かしまアントラーズ、Kashima Antlers)は、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。 主要タイトル(Jリーグ年間、天皇杯、リーグカップ)において、Jリーグ史上最多の10冠を誇る名門クラブ(スーパーカップ、A3チャンピオンズカップを含めると14冠)。2000年シーズンは国内3大タイトルのJリーグ、ナビスコカップ、天皇杯を全て制し、史上初の3冠を達成している。(現在の所、この3冠を達成したクラブは他に存在しない。) チーム母体は住友金属工業蹴球団。1991年Jリーグ加盟。 ホームタウンは茨城県鹿嶋市(合併前は鹿島郡鹿島町と大野村)・潮来市・神栖市に2006年からは鉾田市、行方市も加わった。1995年に鹿嶋市が誕生して以後もチーム名は地域名の鹿島のまま。なお当時ホームタウンは原則として1チーム1市区町村だったが、鹿島に限り特例で周辺市町村との広域ホームタウンが認められた。 ホームスタジアムはカシマサッカースタジアムで、練習場は鹿島アントラーズクラブハウスグラウンドを使用している。 2007年に、ファンクラブ事務局を東京から鹿嶋のカシマスタジアムに移転した。茨城大学との提携やカシマススタジアムの指定管理者にもなり、カシマウェルネスプラザをオープンさせるなど健康事業にも取り組んでいる。また、サッカー以外にもミニバスケットボール、テニスのスクールを開催している。テニス競技とは結びつきが強く、デビスカップ開催時にはアントラーズのボランティアスタッフが試合運営をアシスタントした。 チーム名の「アントラー (antler)」は英語で鹿の枝角を意味し、鹿島神宮の神鹿にちなみ、枝角は茨城県の茨をイメージしている。その鋭い枝角で勇猛果敢に立ち向かい勝利を目指すという意味も込められている。 チームは、一年ごとのスローガンとは別に「FOOTBALL DREAM」を常に掲げ、地域と共に頂点を目指す。 チームマスコットは、クラブ創設時より「しかお」。シカをモチーフにしたキャラクターである。さらに1997年3月2日にしかおと結婚したと言う設定で、「しかこ」が登場。1999年8月1日にしかおとしかこの間に誕生したと言う設定でアントンが登場した。 また、監督により戦術を頻繁に変えるチームが多いJリーグにおいて、開幕からほとんどの試合をDFを4人配置する4バックで戦うなどチーム戦術に一貫性のある数少ないチームである。 ジーコが所属していたこともあり、ブラジルのサッカー界とも強いパイプを持つ。Jリーグが開幕した1993年以降、所属した外国籍選手は全員がブラジル人選手(2006年現在)である。その中にはジョルジーニョやレオナルド・ベベットなど、サッカー王国ブラジルでも一線級に値する選手たちが鹿島でプレーしていた。 太平洋戦争後の間もない1947年、空襲の爪跡を残す大阪市に住友金属蹴球同好会を創部した。1956年には住友金属蹴球団に改称。1973年に日本サッカーリーグ2部に昇格。1975年に茨城県の小さな町だった鹿島町(現・鹿嶋市)に移転した。さらに1部昇格を狙うには、いろいろな苦労があった。当時、他の実業団チームは契約制を導入し始めていた。外国人選手をはじめ国内でも実力の高い選手と契約を交わしてプロとしての意識づけを行い、レベルを高め、戦力の強化を達成してきた。 しかし、住友金属は徹底したアマチュアイズムを貫いており、また社内にはほかに多くのスポーツ団を抱えていたので、蹴球団だけを特例としてノンアマチュア化(プロ化)することはできなかった。 1985年、1部への昇格を果たす。しかし結果は12チーム中11位と再び、2部リーグに降格せざるをえなかった。 1986年には、1部への返り咲きを果たした。しかし1部リーグでは12チーム中10位。翌年には12チーム中11位とまたしても2部に降格した。転機となったのは1989年。プロサッカーリーグ(Jリーグ)設立が具体化され、住友金属蹴球団もプロリーグ参加を表明。しかし「2部リーグのチームの力じゃ、プロリーグでやっていけないだろう」、「人口が少なくサッカーが盛んとはいえない鹿島で観客を集めることは困難」と誰もがそう思っており、さらに当時のJリーグ理事長・川淵三郎からは「とにかく住金が加入できる確率は限りなくゼロに近く、99.9999%ダメだ」と言われたが、住友金属蹴球団は、「まだ0.0001%の可能性はあるんですね」と言い返した。その後、1人のブラジル人がやってきた。それがブラジルが生んだスーパースターで、元ブラジル代表主将ジーコ(前日本代表監督、現:フェネルバフチェ(トルコ)監督)である。ジーコが加入してきたのは1991年(川淵三郎によると、「当初、紹介した古河電工(現:ジェフユナイテッド市原・千葉)にそのまま加入してもらおうと思っていたが、当の古河電工はジーコ入団に難色を示し、その後断りをいれた。そのため、新たに住友金属を紹介したところ、住友金属のアピールもあって、ジーコの入団が実現した」と話している)。当時チームは2部リーグに甘んじていたが、ジーコのスーパープレイは他チームの選手を翻弄した。そして、日本初の本格的サッカー専用スタジアムとして建設されたカシマサッカースタジアムをホームスタジアムとして、念願だったJリーグ加盟を果たし、チーム名も「鹿島アントラーズ」と改称、プロクラブとして新たなスタートを切った。 初代監督には本田技研サッカー部の宮本征勝が就任。選手も長谷川祥之や本田泰人などJリーグ入りを断念した本田技研の選手を中心に補強。ジーコ・アルシンドなどブラジル人選手を中心にJリーグ開幕を迎えた。開幕戦は名古屋グランパスエイトとのホームゲームで「ジーコとリネカーの対決」が注目されたが、ジーコのハットトリックとアルシンドの2ゴールで5-0で圧勝、白星スタートを切った。勢いに乗ったチームは開幕シリーズである1993年1stステージを制覇。しかし、1994年1月に国立霞ヶ丘競技場で2試合が行われたJリーグチャンピオンシップでは2試合で1分1敗となり、初代年間王者はヴェルディ川崎に譲った。第2戦ではジーコがPK(キッカーは三浦知良(ヴェルディ川崎))の際にボールへつばを吐く遅延行為で退場(この日2枚目の警告)となり、大きな話題となった。 1994年のサントリーステージ(1stステージ)終了後にジーコは現役を引退したが、その後もテクニカル・アドバイザーとして鹿島に深く関わり、実兄のエドゥーが宮本の後任監督として指揮を執った。また、ジーコの「後任」としてアメリカW杯にブラジル代表として出場したレオナルドやジョルジーニョ が加入し、彼らの活躍で鹿島は強豪としての地位を築いていった。 1シーズン制で行われた1996年にはジョアン・カルロス監督により初めての年間王者に輝くがチャンピオンズファイナルでは決勝戦で名古屋グランパスに敗れ96年シーズンの完全優勝を逃がす。1997年には、ヤマザキナビスコカップと天皇杯を初制覇して「カップ・ダブル」を達成。サントリーステージ(1stステージ)優勝により出場したチャンピオンシップではジュビロ磐田に2連敗し、特に2戦目のカシマスタジアムでの敗北後には怒った観客がピッチ上での表彰式に乱入するという失態も演じたが、Jリーグは鹿島と磐田の新たな2強時代に入った事を日本のサッカーファンに印象づけた。1998年9月23日に長谷川が清水戦で、クラブ全公式戦初の通算100得点目(通算130得点)を達成。2ndステージ開始前にゼ・マリオ監督を招いて優勝し、チャンピオンシップでは磐田を下して、2度目のリーグ年間優勝を果たした。 1999年にはカシマスタジアムの改修工事が始まり、1stステージの主催試合は東京都新宿区の国立霞ヶ丘陸上競技場で行うようになった。また、一部の試合は石川県西部緑地公園陸上競技場(石川県金沢市)や富山県総合運動公園陸上競技場(富山県富山市)でも行われ、富山の試合では同県出身の柳沢敦がゴールを決めた。ただし、この年の優勝はシーズン冒頭のゼロックス・スーパーカップのみで、不振に陥ったクラブは自身初の監督解任を断行して、2ndステージ途中からはゼ・マリオに代わりジーコが総監督として指揮を執った。 2000年にはジーコの盟友ともいうべきトニーニョ・セレーゾが監督に就任(2005年までの5年間監督を務めた)。ナビスコ杯、Jリーグ年間王者、天皇杯で優勝しJリーグ発足以来初の日本サッカー三冠を獲得した。 2001年には、2年連続リーグ年間優勝、2002年には、ジーコが日本代表監督就任に伴って2002年にテクニカルディレクターを辞任。ヤマザキナビスコカップ優勝を果たした。ジーコの人脈を活かしたブラジル人選手の獲得、日本人有力選手の入団など戦力補強を上手く進めており、今やJ屈指の優勝争いの常連となっている。 年間王者には最多の5度輝いているが、実は年間総合の勝ち点で1位になったのは96年と97年の2度しかない。(磐田とヴェルディ川崎は3度)リーグ戦で安定した成績を残してきたライバル磐田に対して、鹿島はここ一番での勝負強さが光るチームである。このことがJリーグ最多9個(2002年当時)のタイトル獲得をもたらした。 2003年以降からは、リーグ制覇こそ成し得なかったものの、世代交代を押し進めながらリーグ上位の成績を残した。 ナビスコカップでも2年連続決勝に進出。 しかし、浦和レッズに0−4で敗れて連覇はならなかった。 リーグ戦では最終節にまたしても浦和レッズに引き分け、あと一歩のところで優勝を逃している。 2005年シーズンは開幕ダッシュに成功し、一時は2位に勝ち点差10以上をつけるなど優勝争いを引っ張っていった。 しかし、中盤に入るとガンバ大阪や浦和レッズ、ジェフ千葉、セレッソ大阪に追いつかれてしまい結局3位でシーズンを終えた。 2006年シーズンは、ブラジルの名門サンパウロFCをFIFAクラブ世界選手権(現:FIFAクラブワールドカップ)優勝へ導いたパウロ・アウトゥオリ監督が就任。 更にFWの柳沢敦が復帰、高卒ルーキーのサイドバック内田篤人の活躍などがあったが、シーズン途中に大黒柱だったMF小笠原満男がFCメッシーナ(イタリア)へ翌年6月までの期限付きで移籍してしまった。 チームは2点以上失点するゲームが多く、リーグ戦での成績は伸び悩んだ。 一方でヤマザキナビスコカップでは3年ぶりに決勝に進出。4年ぶり、10個目のタイトルがかかったナビスコカップ決勝でジェフ千葉と対戦したが、敗戦。天皇杯では、同年限りで引退を表明した本田を優勝で送り出そうとするも準決勝で浦和レッズに敗れた。 2007年シーズンは、コリンチャンスを率いて2000年の世界クラブ選手権(現クラブ・ワールドカップ)を制覇し、サンパウロ、サントスなど名門クラブの監督を歴任しているオズワルド・オリヴェイラ(ブラジル)の新監督就任を発表した。 5月12日のジュビロ磐田戦で勝利し、Jリーグチーム史上最速の公式戦通算400勝を達成する。また、6月16日のサンフレッチェ広島戦で本山雅志のゴールによりホーム通算500得点も達成した。7月3日には期限付き移籍が終了した小笠原満男の復帰が発表され、復帰した小笠原はナビスコカップ準々決勝での勝利に貢献した。 7月29日には前年に引退した本田泰人の引退試合が、1993年のJリーグチャンピオンシップの出場メンバーを中心にした「鹿島アントラーズ1993対ヴェルディ1993」(4-2で鹿島アントラーズ1993の勝利)としてカシマスタジアムで開催された。また、8月12日のヴァンフォーレ甲府戦では野沢拓也によりJリーグチーム史上最速のリーグ戦通算900得点を達成した。10月以降、シーズン終盤に怒涛の連勝劇を見せ、11月24日には一時期勝点差10をつけられていた浦和レッズとのアウェー戦を1−0で下し、史上最速のリーグ戦通算300勝を達成した。 12月1日、リーグ最終節で清水エスパルスを3-0で下し、前節まで首位だった浦和レッズが負けたため、最後は延長戦廃止後のJリーグ最多記録となる9連勝で6年ぶりのリーグ優勝を決めた。またこのタイトル獲得により、Jリーグクラブ史上初の10冠を達成した。 茨城県のJリーグチーム同士の対戦。公式戦では2004年11月13日(茨城県民の日)の天皇杯4回戦で、水戸のホームである笠松陸上競技場で対戦しており、その時は13393人もの観衆を集めている。また、2005年からはいばらきサッカーフェスティバル(プレシーズンマッチ)としてシーズン開幕前に対戦している。 両チームともユニフォームカラーが赤色によるもの。両サポーターが非常に熱狂的であることでも知られる。地域性などで生まれたわけではないものの、盛り上がりという観点からすれば日本で最も盛り上がるカードのひとつであろう。 2006年終了時、鹿島は浦和に対し2点以上ホームでリードしながらも、逆転かあるいは同点にされるケースばかりで、アウェイでも最近は分が悪い。 95年のリーグ戦用2ndモデルには、シャツ・シルバー、パンツ・紺、ストッキング・シルバーを採用したが、諸事情により数戦使用しただけで、シャツ・パンツ・ストッキングをすべて白に変更している。(変更後しばらくは、93・94年に使用した2ndモデルを使用していた。) ユニフォームは袖に9個の星(Jリーグ年間、ナビスコ杯、天皇杯の優勝の数)がつけられている。2007シーズンで10冠を達成し、2008年シーズンには左胸のエンブレム上に、大きな星1つに変わる予定。星の数に関して、他チームサポーターなどから「紛らわしいので星はリーグ優勝の物のみにすべき」と言われることもあるが、他のクラブもリーグ以外のタイトルでも星をつけているなど、現在ユニフォームの星に関する統一したルールはない。 鹿島学園と提携するなど力を入れている。曽ヶ端準や野沢拓也らはユース出身である。ユース出身の選手は、鹿島アントラーズの選手一覧の下部組織出身者を参考のこと。 ジュニアユースチームとジュニアユースノルテチームの2チームがあり、ノルテチームは茨城県の県北の生徒で構成されている。Jリーグ U-13には、ジュニアユースチームとノルテチームの両チームが参加している。2008年につくば校を新設。 ホームゲームにおける広告看板(ゴール裏)は1995年以後、部分的に回転ロール盤を使用している。当初はゴール裏の内側部分だけだったが、1999年以後は外側(スタンドとピッチの中間。カシマスタジアム開催分は客席の最前列)の部分にも使用している。試合時間帯に応じてアントラーズの協賛スポンサーの広告を切り替えて表示している。これは浦和レッドダイヤモンズ、大宮アルディージャの主催試合にも使われている。(かつてはヴェルディ川崎の国立での主催試合にも一時使われていた。) 鹿島アントラーズ|浦和レッドダイヤモンズ|大宮アルディージャ|ジェフユナイテッド市原・千葉|柏レイソル|FC東京|川崎フロンターレ|横浜F・マリノス|横浜FC|ヴァンフォーレ甲府|アルビレックス新潟|清水エスパルス|ジュビロ磐田|名古屋グランパスエイト|ガンバ大阪|ヴィッセル神戸|サンフレッチェ広島|大分トリニータ コンサドーレ札幌|ベガルタ仙台|モンテディオ山形|水戸ホーリーホック|ザスパ草津|東京ヴェルディ1969|湘南ベルマーレ|京都サンガF.C.|セレッソ大阪|徳島ヴォルティス|愛媛FC|アビスパ福岡|サガン鳥栖 |
[ 164] 鹿島アントラーズ - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%B3%B6%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%BA
