我らとは?

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市民提案協働モデル事業Webサイト「かまがや我ら団塊の世代」の運営管理者を募集しています。このWebサイトは、定年後に地域で市民公益活動を希望する人を対象に、活動を行うための情報の交換や提供、活動の仲間づくりの場を提供します。
このWebサイトとサイト内に設ける掲示板”この指とまれ”の運営・管理、及び地域活動の環境整備や課題解決、団塊世代の代表として行政との意見交換など、団塊世代活動支援施策に反映する活動に参画していただける人を募集します。
コースは、日比谷公園から銀座、築地をぬけて勝鬨橋をわたり月島から佃島をとおり大手町、皇居、そしてゴールの日比谷公園までのおおよそ10キロのコースだ。
途中、月島で「もんじゃ焼き」をいただく。「月島路地ビール」でのどを潤し、熱々のもんじゃをハフハフとたいらげる。隅田川沿いでは、青くひろがる秋の空と弁柄色に染まる桜の紅葉を愛でながら歩いていく。
江戸の下町を進む。月島や佃島では路地の佇まいや家並みから漂う昭和ノスタルジー。高層マンションと古い家並みが共存する街。勝鬨橋からは、東京タワーが見えるものの周囲のビルに隠れがち。昔は東京のどこからもはっきりと見えたものだ。
芭蕉は、「漂泊の思ひやまず」と旅にでかけた。ちぎれた雲のように、いずこにか。そんな気持ちにさせる旅は、遠くの名所旧跡や有名観光地に行かなくても、常日頃と少し違った場所や時間に行き、日常から解き放されることで味わえるものでは。
徒然草に「いづくにもあれ、しばし旅立ちたるこそ、めさむる心地すれ」とある。われら団塊世代にとっては、住みなれた会社から、地域へと飛び出す事が旅立ちとも言えるかもしれない。これまで体験もし得なかった何かに出会う。通いなれた駅への道筋。曲がったことのない角を曲がったところに思わぬ「なにか」があるかもしれない。
11月25日(日)北初富第一自治会の皆さんによって、初富神社の境内で”もちつき大会”が催された。今年は暖冬で秋の訪れが遅く、境内の銀杏も余り色づいていない。毎年恒例となった”もちつき大会”に多くの家族連れが訪れ、つきたてのお餅を善哉やあべかわ餅にして美味しく頂いていた。
*聴覚障がい者(中途失聴者、難聴者)のためのコミュニケーション手段の一つ要約筆記の技術を学ぶ。定員:20人(多数抽選)費用:3000円(テキスト代など)申込:5月14日(月)まで
市内の障がい者団体などによるダンスや歌のステージ発表他
北方前板碑(ぼっけまえいたび)は、佐津間の民家の前に市の史跡資料を示す掲示板があるだけ。
板碑は中世(鎌倉・南北朝・室町・戦国時代)に限って作られた石製の供養塔である。頭部を山形に作り、2本の刻線を入れ、塔身には梵字や図象、文字などが刻み込まれている。市内から約200基の板碑が見つかっている。

[ 149] かまがや 我ら団塊の世代
[引用サイト]  http://www.kamagaya-dankai.or.jp/

同じ故郷をもつ2人の著名人が、ふるさとをアポなしで探訪。青春の現場、はたまた感動の再会など、故郷に残してきた青春の痕跡を再確認する。
そのほか、スポコン少年だった山本譲二と宮本和知は下関市に、なぎら健壱と益子直美は柴又駅前から出発して葛飾区を訪ねる。
2人の故郷は釧路。デビュー当時、木之元亮はロケに向かう途中の羽田空港でカルーセル麻紀から「ロッキー」と大声で呼ばれたのが初対面だったという。新人の自分を同郷と認識してくれていたことがうれしかったと木之元。
カルーセル麻紀は、久しぶりに妹を訪ねた。“兄”との思い出や、母、父とのエピソードを聞く。中学時代のあだ名は「なりかけ」だったというカルーセル麻紀。当時、一番信頼していたのが級長の池田君。池田君は自分が家出をしたときにもカンパして助けてくれた仲。しかし彼は数年前に急逝。その池田君がカルーセル麻紀に渡そうと用意していたものがあるという・・・。それは?
木之元亮は、小学校への通学路を歩く。その頃仲良かった友人の榎本君を訪ねるが、昭和59年に他界したことを知る。
その後二人は漁港周辺をぶらり歩き。そこに共通の思い出が。木之元の父の親友が経営する炉端焼きの店に。「炉端焼き」は釧路が発祥の地だという。新鮮な魚介類の味に、故郷を感じる2人。2人にとって故郷とは?
山下桟橋周辺。ここは約30歳も年の離れた2人に共通する思い出の場所。黒沢年雄は、小学校1年ぐらいの時「アメリカへ行くぞ!」と思い立ち、船に潜り込んだが失敗。当時はアメリカは豊かさの象徴だった。石井正則は、伊勢佐木モールのゲームセンターで初めてのアルバイトを経験した場所。
黒沢は、若い頃ボーイをしていた歓楽街、通称“親不孝通り”を訪ねる。また、実家に帰る途中にあった思い出の中華料理屋も。当時珍しかった高級マンションを見て、いつか自分もと思い、その夢を後年実現させた思い出などを語る。
石井は、初めてのアルバイトをした伊勢佐木町界隈へ。その後、当時住んでいた保土ヶ谷の団地へ向かう。実家のあった公団住宅。そしてよく通った書店の主人が語る少年時代の石井とは?
一方黒沢が向かったのは、杉山神社。そこには黒沢がいろいろ悪戯をした罪滅ぼしにと贈った大黒様の石像が。
その後、2人にとって馴染みのある藤棚商店街へ。わが子のように石井をかわいがってくれた伯母と母のエピソードも。最後に2人は、中華街の重慶飯店で旅の総括をする。
山本譲二と宮本和知は、ひとまわりの年の差があるが、2人とも下関に生まれ育ち、スポーツ一色の青春を送り、社会人になるまで下関で過ごしている。宮本が巨人軍で活躍する頃から、同郷ということで2人は知り合った。2人とも野球少年で、下関駅前周辺が遊びや日常の起点だった。
2人の旅は、共に高校の下校時に寄り道した下関漁港の隣りのまるは通り。今ではずいぶん変わってしまった風景に2人は・・・。
山本譲二は、25年前、「みちのくひとり旅」が大ヒットし人気音楽番組「ザ・ベストテン」で下関から生中継した下関市営体育館前へ。故郷に錦を飾ったことを親父が一番喜んでくれたという。お父さんはその後急逝。生家のあった界隈で、家族や小学校の同級生との思い出を語る。
また、山本は長年苦労をかけた母に「みちのく御殿」と周囲の人が呼ぶ家をプレゼントした。そこで語られる亡き父への想いとは?
宮本和知は、彦島大橋を渡り、少年時代をすごした彦島へ。小学校時代は県大会優勝経験を持つサッカー少年だったという宮本。懐かしい西山小学校へ。中学校に入って、サッカー部の鬼コーチが恐ろしくて1日でサッカー部を辞め、野球部へ。野球部に転じた後も、時々助っ人としてサッカーの試合に借り出されていたという。因縁の鬼コーチとの対面は?通称「西山銀座」には、小学校時代のサッカーチームの後輩が営む店や初恋の人のお母さんが営む理髪店も・・・。
再び2人が合流した先は、フグ料理の老舗・春帆楼。宮本が父親の還暦祝いをした店であり、山本も子どもの頃から憧れていた名店。下関名産のフグ料理を味わいつつ、山本は自分と同じ団塊の世代にエールを送りたいと話す。
下町育ちの2人が待ち合わせ場所にしたのは、「男はつらいよ」の寅さん像が立つ柴又駅前。まずは、帝釈天参道を歩きながらそれぞれの思い出話を語る2人。益子がぶらりと参道のとある団子屋へ。実は店の看板娘は益子の同級生。
なぎら健壱は、駅前のレコード店「ワカナ堂」へ。歌手デビューした時、店主がなぎらのレコードをたくさん買ってくれたという。そして、お父さんを迎えに行った飲み屋へ。さらに、合併で名前が変わってしまう高校へ。どんどん変わっていく街並み・・・。そんな中、小学校の同級生と再会。当時、二人で埋めた「お宝」を発掘することに。
一方、益子はバレー人生のスタートとなった出身高校のバレー部の練習に参加。バレー部時代の友人・大貫さんと再会する。その後、練習帰りに寄り道した商店街をぶらり。昔の友人や顔見知りなどが、「結婚おめでとう」と声をかけてくれる。
再び合流した2人は、共通の思い出がある「双葉レストラン」へ。なぎらは高校時代によく食事しに行ったそうで、益子も家族でよく出かけたという。双葉レストランの隣りで進められている再開発、建設中の40階建てのビル工事を眺めながら、2人は・・・。

[ 150] 我らのふるさと 思い出探訪 :テレビ東京
[引用サイト]  http://www.tv-tokyo.co.jp/f-tanbou/



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