古いとは?
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わたしたちは次のことを知っています.わたしたちの古い人が彼とともに十字架につけられたのは、罪の体が無効にされて、わたしたちがもはや、奴隷として罪に仕えることがないためです.(ローマ6:6) 昌幸と源二郎は美絵子の淹れたブルーマウンテンを味わっている。渋みと酸い味とがほどよく混ざり合って、何んとも言えない味と香りとを醸し出している。例の有田焼の、渋いけれども洒落たカップがうまくその雰囲気にマッチしている。話が弾んでいる。土曜日のくつろいだ午後のひと時である。源二郎が言った。 「エペソ人への手紙には’新しい人’(2:15)があるし、ローマ人への手紙には’古い人’がありますが。これは、やはり大いに関係がありますねえ。」(9.新しい人)1 「そうですね。古い人も過ぎ去って新しい人が登場する。これこそ、ほんとの’新登場’というわけだ。」5 「ノーだね。このところがどうもモヤモヤしている。ローマ人への手紙6章6節の十字架の理解が曖昧なのだ。」10 「そう。その通り。ウォッチマン・ニーはキリストの十字架の経験が即、私たち信者の経験だと言っている。二千年前の主の経験がなぜ私たちの経験だと言えるかということについては解らないと言っている。お手上げなんだ。」 これらのことについては既に前に交わったことであった。(「対話2」、「受肉からその霊」(論文)を参照) 「いやあ、皆さん、なかなか苦労していらっしゃる。その前に、この古い人というのは何かはっきりしとこうよ。」 「そうですね、受肉から十字架に至るまでの’客観的な私たち’でしょうか。これが’古い人’と定義すべきでしょうね。それから、共に命を与えられ、共に復活した(エペソ2:5-6)のが’新しい人’(2:15,4:24)ですね。」 源二郎はこれまで、昌幸にいろいろな質問を浴びせられてきたおかげで、随分と、適切な答えが出来るようになってきた。昌幸も嬉しい。 「OK、その通りだ。そして、いずれも、団体の一人の人だ。古い人はキリストの肉体の中での’客観的な私たち’であり、’新しい人’は栄光化されたキリストの体の中での栄光化された’客観的な私たち’だ。」 「そうですね。ところで、パウロは’わたしたちの古い人’という言い方をしているのですが、これは何でしょうねえ?」 「うむ、そうなんだね。この’わたしたち’というのは、恐らく現在の私たち、即ち、今生きている私たち、’主観的な私たち’のことだ。その私たちから見たあの’客観的な私たち’、旦て、キリストの肉体の中にあって、弱く、不敬虔で、罪深くまた神の敵であった私たち、ということを言っているんだと思う。」 「『ああそうだ、私たちの古い人、あの主イエスの受肉以来、彼の肉体の中に取り込まれていた’客観的な私たち’は既に主イエスと一緒に十字架に付けられて殺されてしまったんだ』、というわけですね。」 「では、この古い人なんですがね、今、あなたは団体の一人の人と言われたんですがねえ、団体的でない個人の古い人という意味には取れませんか?」 「ええ、エペソ人への手紙4章にはですね、’古い人を脱ぎ捨てる’(4:22)という所がありますよね。これは何か自分の個人的なものを脱ぎ捨てると言ってるんじゃないですか。」 「うん、私もそれは考えた。そうかも知れない。個人的な古い人と取っていいと思う。しかしだ、’新しい人’に対する’古い人’ということを考えると、団体的と考えられる。」 「だから、両方の意味があっても良いんじゃあないのかな。団体的な一人の’古い人’、と個人的な私の古い人、とね。」 「ここの、個人的な意味の’古い人’というのはね、我々の肉、つまり、天然のわたし、と同じものと考えていいのじゃあないかと思うんだ。」30 「だってね、エペソの4:22では’古い人’を脱ぎ捨てる、と言ってるだろう。脱ぐ。これは、我々の実際の主観的な経験なのだよ。’新しい人’を着るのと同じようにね。’新しい人’を着るときに、実際我々が脱ぎ捨てることが出来るものと言えば、それは自分自身の肉だろう?現象としては、魂の肉の部分、つまり造り変えられていない部分に’新しい人’がその霊(御霊)として浸透することだ。これが、古い人を脱ぐことだ。言い換えれば、思いが新しくされることであり(4:23)、’新しい人’を着ることであり(4:24)、これはまた、造り変えであるし(2コリント3:18)聖化(ローマ15:16)でもあるわけだ。」 「私が最近ね、幾つかの注解書を調べてみたんだよ。この古い人をどのように説明しているかと思ってね。」 と言って、六章六節の解説の箇所を開けた。既に付箋が付けあったので、目的の箇所をすぐに開けることが出来た。 「『これはキリストの恵みに捕らえられる以前の人のことであり、したがって、ガラテヤ2:19,20以前の人のことであり、パウロにしてみればダマスコ途上の回心以前の彼であり、彼のような人を指していっているものである。』 となっている。つまり、要するに、未信者ということ、古い人というのは。」 「’パウロにしてみればダマスコ途上の回心以前の彼’と言ってるんだから、明らかにそうなんだよ。ところが、もう少しあるんだ。」 「うん、続けてこうあるんだよ。ゴーデーという人の言ったことを引用してね、『古い人とは堕罪したアダムのことであり、そのアダムは、原罪によって規定されている自己愛の権(ちから)の支配下にある人間の、我(が)の中に表れているものである。』とね。」45 「うん、そうなんだ。でもそこでね、『そのアダムは、原罪によって規定されている自己愛の権(ちから)の支配下にある人間の、我(が)の中に表れているものである。』というのだ。これはなんだと思う?」 「そりゃ肉でしょ、要するに。罪の下にある我(が)の中に表れるアダムは即ち、自己の表現ですから、肉ですよ、これは。」 「そうだね、自己は要するにアダムの表現だからね。だから、ここでは、古い人とは肉である、ということになるんだよ。」 「うむ、古い人というのは、堕落したアダムによって代表された未信者のことである。そして、アダムの性質は罪の支配下にある我(が)即ち、自己によって表現される、ということだろう。」 「なるほど、ところで、その古い人が十字架につけられるわけですが、そこの所は、どう説明されてるんでしょ?」 「ただ、こう言ってるんだ。『信仰的経験の事実はキリストと共に十字架につけられること、それは、罪の体が滅んで、罪の奴隷となることがない事であった。』で終わりなんだよ。」55 「そう。キリストと共に十字架につけられることは、信仰によって経験することであるということだろう。事実、私たちは経験してきたのだからね。しかし、古い人=未信者、あるいは、古い人=肉、などという定義をして、それが十字架に付けられて死んだ事実を言っておきながら、現実には生きている古い人、即ち、私たちの肉、これをどう説明するのか。この矛盾が説明できない。だから、ここの所は、そーっと逃げ出すわけだ。」 「そうさ、そこが知りたいのだよ。キーポイントさ。ところが、その大事な所がうやむやなのだ。だから、悪いけど、誤魔化しってのを感じるね。わからんなら解らんとはっきり言えばいいのだ。ウォッチマン・ニーのようにね。ところが註解者のプライドなんだろうけど、それを言わない。適当な説明でごまかす。これがいけない。」 「経験はね、キリストにおける事実の適用なんだよ。キリストの事実の認識があって、その後、その霊(御霊)を通して経験がある。これが一般的だ。しかし、’客観的な私たち’の存在が解ったことによって、この最も曖昧なところが解消して我々の認識は非常に明瞭になったのだよ。」 「この’客観的な私たち’の認識がない限り、ここの正しい説明はできない。したがって、恐らく全ての注解書はできてないと思う。」 昌幸はまた書棚の所へ行って、ホッジのローマ人への手紙の注解書を取り出す。そして、該当の個所を開けた。これにも付箋が着いていたので難なく開けることが出来た。 「サンデー&ヘッドラムは’私たちの古い自己’。カルヴァンは’母の胎から生まれたときに持って生まれた性質’だ。言い方は少しずつ違うけど、同じ肉だね、古い人というのは。」 「回復訳はですね、’私たちの魂の中の天然の命、神によって創造され、罪の故に堕落した私たちの存在そのもの。’と言ってます。やっぱり同じものですね。天然の命、肉ですね。」 「うむ、そうなんだ。同じものだね。でだ、このように定義してだよ、十字架をどう説明するかなのだ。聖書はね、’共に十字架に付けられた’は 'sunestsaurwthee' という言葉で、過去に於ける一度限りの出来事を示すアオリストという時制で書かれているのだ。これをどのように説明するかなのだね。」 「C、ホッジはね、’十字架に付けられたと言われるのは、我々は彼の死と関わりがあるからであり、内側の罪の死は十字架の死に従って進行するからである。’と言っている。」 「だいたい同じですね。キリストを経験することによって、我々は罪の肉の死を経験することが出来る。」 昌幸 「そうだね。皆さん、だいたい同じことを仰ってる。面白いのはね、カルヴァンと同時代の人たちだと思うんだが、こんな解釈を挙げている、’古き人が死んだと言わないで十字架に付けられたと言うのは古き人が、なお、或る程度生き、そして、力を持っているためである’とね。」 「’古い人’を彼らの定義通りに’母の胎から生まれたときに持って生まれた性質’だとすれば、そういう解釈が有っても無理からぬことですね。現実に、その古い人が生きているわけですからね。」 「そうなんだ。無理しているけど、君の言う通りだね。’客観的な私たち’と’主観的な私たち’との区別が解っていない以上仕方のないことだ。」75 「回復訳は十字架のところを、’それは、神によって絶望と勘定されたので、十字架に置かれ、キリストと共に釘づけられました。’(フットノート、6:6−2)と言ってます。」 「’神のエコノミーによれば、キリストが十字架に付けられた時、わたしたちもその中に含まれていました。これは成就した事実です’(フットノート2:20-1)。」 「うん、わたしたちの古い人がキリストと共に十字架につけられた、ということは我々にとって地位的なものだというのだ。ほら、地方教会で言ってただろう、客観的な事実、あれと同じようなものだよ。」85 「ああ、なるほど。解りました。客観的な事実のことですね。そうそう、よく言ってましたね。その時は解ったような気がして、客観的な事実、客観的な事実、とよく言ったもんでした。」 「しかし、この解釈もよく解らないのだ。抽象的なんだよ。要するに、キリストの事実は我々の事実である、ということなんだ。ウォッチマン・ニーが、これをなぜそう言えるのか解らないと言ってたことだよ。」 「地位的、あるいは、法的というか英語でフォレンシック(forensic)とか言ってるようだけどね。同じようなものだよ。」90 「このような理屈は事実上、’見なす’ことなんだね。実際には、十字架についたのはキリストだけで我々はそこに実在したわけではなかった。しかし、聖書は、共に十字架に付けられた、と言ってるわけだから、我々も十字架に付けられたと’見なし’ましょう、という解釈なのだ。」 「回復訳で、’わたしたちもその中に含まれていました。これは成就した事実です’とは言ってはいるけれど、じゃあ、我々が、ホントーに十字架の所にいたのか、と言うと、彼らは、いや、キリストの中に含まれるのだ、と言う。そうは言うのだけど、本音は、十字架に掛かったのはキリストだけで、我々は十字架のところには実在しないのだ。」 「何かぼーっとした、非常に曖昧なものを感じますねえ。霧か靄(もや)がかかったみたいな。その’見なす’ってのは。しかし、それは嘘をついてることになりませんか?」 「勿論、聖書は嘘はつかない。だから、キリストと共に十字架につけられた、という以上は、存在論的にも、’共に十字架に付けられた’のでなくてはならないのだ。でないと、嘘になってしまう。’みなし十字架’では絶対ダメ。」 「そういう解釈が永年にわたってキリスト教界を席巻(せっけん)してきたのだよ。この曖昧さを徹底的に打ち破るのが’客観的な私たち’という存在なのだ。」 「全く。その証拠に我々は集会から追い出された。サタンは我々が’見ること’を非常に恐れる。だから、見た者達に対して色んな悪さをするのだ。」 「そういうわけだったんですねー。はっきりしてきました。サタンが我々の目を覆ってきたわけだ。しかし、今や、開かれた。’客観的な私たち’の故にハレルヤですね。主に感謝します。」 「いや、全くその通りです。確かに、一つの奥義が開けると、あとがズズーッと見えて来ましたねえ。いやほんとに、芋蔓式に。」110 |
[ 101] 古い人
[引用サイト] http://www.d3.dion.ne.jp/~higa_nob/j/j_039_furuihito.html
