箇所とは?
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洪水の時には、その洪水により堤防が壊されたり、洪水が堤防を越えてあふれ出したりしないように、地域の水防団の方々が土のうを積むなどの「水防」活動をして、堤防を守ります。そうした事態をいち早く察知するため、洪水が一定の規模になると(警戒水位)水防団の方々は危険な箇所がないかどうか、堤防を点検します。ただし、堤防の点検区間は長いため、現在の堤防の高さや幅、過去の漏水などの実績などから、あらかじめ水防上重要な区間を決めておけば、より効率的に堤防の点検ができ、危険な箇所の早期発見につながります。 このような考えから、毎年重要水防箇所を定めるとともに、洪水期前には関係者により、その年の重要水防箇所を確認する合同巡視なども行われています。 河川の警戒にあたる水位をいいます。河川水位が警戒水位に達すると、水防関係諸機関が準備を開始します。 ● 重要水防箇所は、その箇所の堤防の状態などにより「堤防高」「堤防断面」「漏水」などのいくつかの種別に分類されます。さらに、その種別ごとに、その箇所の状況に応じて2つの重要度に区分されます。 計画高水流量規模の洪水の水位(高潮区間の堤防にあっては計画高潮位)が現況の堤防高を越える箇所。 計画高水流量規模の洪水の水位(高潮区間の堤防にあっては計画高潮位)と現況の堤防高との差が堤防の計画余裕高に満たない箇所。 現況の堤防断面あるいは天端幅が、計画の堤防断面あるいは計画の天端幅の2分の1未満の箇所。 現況の堤防断面あるいは天端幅が、計画の堤防断面あるいは計画の天端幅に対して不足しているが、それぞれ2分の1以上確保されている箇所。 法崩れ又はすべりの実績はないが、堤体あるいは基礎地盤の土質、法勾配等からみて法崩れ又はすべりが発生する恐れのある箇所で、所要の対策が未施工の箇所。 漏水の履歴はないが、破堤跡又は旧川跡の堤防であること、あるいは基礎地盤及び堤体の土質等からみて漏水が発生する恐れがある箇所で、所要の対策が未施工の箇所。 水衝部にある堤防の前面の河床が深掘れしているがその対策が未施工の箇所。 橋台取り付け部やその他の工作物の突出箇所で、堤防護岸の根固め等が洗われ一部破損しているが、その対策が未施工の箇所。 水衝部にある堤防の前面の河床が深掘れにならない程度に洗掘されているが、その対策が未施工の箇所。 河川管理施設等応急対策基準に基づく改善措置が必要な堰、橋梁、樋管その他の工作物の設置されている箇所。 橋梁その他の河川横断工作物の桁下高等が計画高水流量規模の洪水の水位(高潮区間の堤防にあっては計画高潮位)以下となる箇所。 橋梁その他の河川横断工作物の桁下高等と計画高水流量規模の洪水の水位(高潮区間の堤防にあっては計画高潮位)との差が堤防の計画余裕高に満たない箇所。 ● 新しく堤防を作った「新堤防」、過去に堤防が決壊したことのある「破堤跡」、以前川だった所が堤防となっている「旧川跡」については、過去の経験から注意を要する箇所、また破堤などの履歴を残すため「要注意区間」として整理しています。 出水期間中に堤防を開削する工事箇所又は仮締切り等により本堤に影響を及ぼす箇所。 堤防を新しく作ってから、3年以内の箇所。新堤防が、上下流の堤防や地盤の土となじむまでには時間がかかり、また洪水の経験がなければ、堤防としての機能の確認ができないため、作ってから3年間は要注意区間とします。 過去に破堤(堤防が決壊すること)したことがある箇所。地質が弱いことも多く、必要な対策が完了しても要注意区間とします。 以前は川であったところが現在では堤防となっている箇所。地質が弱いことが多く、必要な対策が完了しても要注意区間とします。 |
[ 118] 重要水防箇所
[引用サイト] http://www.kkr.mlit.go.jp/kinan/river/suibou.html
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まさかに備え、わたしたちの家のまわりの危険箇所を確認し、災害に備えて避難場所・避難経路について、普段から話し合っておくことが大切です。 愛媛県では、概ね5年ごとに県内全域について危険箇所を調査し、その結果を土砂災害危険箇所マップとして広く公開しています。 平成15年3月に公表となった新しい調査結果では、愛媛県内で15,190箇所もの危険箇所の存在が明らかとなりました。 この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)を複製したものである。(承認番号 平15総複、第616号) ★谷や斜面に貯まった土・砂・石等が、梅雨や台風などの集中豪雨による水と一緒になって、一気に流れ出してくるのが土石流です。破壊力が大きく速度も速いので、大きな被害をもたらします。 ★土石流危険渓流調査では、土石流発生の恐れが高いとされている3°以上の渓床勾配を有する渓流のうち、土石流により人家や公共施設に被害を及ぼす恐れがあるものを抽出しています。 ★比較的緩やかな斜面において、地中の粘土層など滑りやすい面が地下水の影響などでゆっくりと動き出す現象を地すべりといいます。一度に広い範囲が動くため、ひとたび発生すると住宅、道路、鉄道、耕地などに大きな被害を及ぼし、川をせき止めて洪水等を引き起こすことがあります。 ★地すべり危険箇所調査では、地形図や空中写真の判読により、地すべり地形を呈する地域の面積が5ha(市街化区域等にあっては2ha)以上で、人家や公共施設等に被害を及ぼす恐れがある箇所を抽出しています。 ★地面にしみこんだ水分が土の抵抗力を弱め、弱くなった斜面が突然崩れ落ちるのががけ崩れです。突発的に起こり瞬時に崩れ落ちるので、逃げ遅れる人も多く、死者の割合も高くなっています。また、地震をきっかけに起こることもあります。 ★急傾斜地崩壊危険箇所調査では、傾斜度30°以上でその高さが5m以上の急傾斜地のうち、がけ崩れにより人家や公共施設等に被害を及ぼす恐れがある箇所を抽出しています。 恐ろしい土砂災害を防止するために、現在様々な対策がおこなわれていますが、それだけでは十分に災害を防ぐことはできません。被害を最小限に抑えるためには、ひとり一人が気象情報等に注意して早めに避難することが大切です。 ※危険箇所は地形解析及び現地調査によって把握されたものです。マップに表示している場所以外でも、土砂災害が発生する可能性はあります。 ※地すべり危険箇所については、調査時点において“地すべり等防止法”第51条に基づく国土交通省所管の地すべり防止区域となりうる箇所についてのみ掲載しています。 |
[ 119] 土砂災害危険箇所マップ
[引用サイト] http://www.pref.ehime.jp/070doboku/070sabo/00005743041124/dmap/index.htm
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御府内八十八ヶ所(ごふないはちじゅうはちかしょ)とは、弘法大師ゆかりの八十八ヶ所のお寺を、祈願のためにお参りする東京版お遍路コースです。 御府内八十八ヶ所のお寺をお参りする人は、お経を写した写経を納め、その証明として御本尊の宝印(赤い宝印なので朱印ともいいます)を納経帳(朱印帳)に押してもらいます。 御府内とは、江戸時代に江戸城(現在の皇居)を中心として品川、四谷、板橋、千住、本所、深川の内側の地域です。 納経(のうきょう)とは、お経を写して、お寺に奉納することをいいます。おもに「般若心経」を書写して納めます。 般若心経(はんにゃしんぎょう)は、中国の玄奘(げんじょう)というお坊さんが訳した『摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみったしんぎょう)』というお経です。 これは玄奘(三蔵法師)が、孫悟空・猪八戒・沙悟浄の三人をお伴として天竺(今のインド)へ、仏さまの教を求めにいったお話です。(物語の中の孫悟空などは架空のものですが、玄奘は実在の人物です ) そこでたくさんのお経を持ち帰り翻訳をしました。『般若心経』もその中の一つで、そのお経は、奈良時代や平安時代に海を渡り、日本にも伝えられたのです。 この『般若心経』は、『大般若波羅蜜多経』という600巻、600万文字もある膨大なお経を、わずか276文字の中に凝縮したお経で、ここには、悟りをひらくための教えが説かれています。 日本で最もよく知られ、親しまれているお経でもあり、今もたくさんの人達によって、この『般若心経』が書き写されています。 般若心経は慣れないと1時間くらいかかりますが、この観音経なら短時間で書き上がることが出来ますので、巡礼の納経には最適です。 一般的には、納経帳(朱印帳)の場合は300円、納経軸の場合は500円くらいですが、お寺によって違うので必ず確認してみましょう。 順番にこだわる必要はありません。1番からお参りすることを順打ち、88番からのお参りは逆打ちといい、いずれも順番通りは、結構大変です。 筆記用具にこだわる必要はありませんが、筆で挑戦してみるのも悪くないですよ。(御利益が倍増するかもしれません!?) ですから常識はずれの時間にお参りしたり、大人数での突然訪問、あるいはマナーが悪かったりすると、お参りをお断りされることもあります。 お大師様の像の周りに4本の柱が立っており、それぞれの柱の下に、四国霊場4道場(発心、菩提、修業、涅槃)の砂が埋めてあります。 札所はその名のとおり、巡礼の証として、また様々な思い、願い事を込めてお堂に木札を打ちつけ、納める場所でありました。 お堂に木札を打ち付けると建物を傷める為、現在では行われておりませんが、その名前だけが現在も残っているのです。 弘法大師といつも一緒であるという「同行二人(どうぎょうににん)」 という信仰を高めるための一つの修行です。 お参り中は、弘法大師さまの御宝号「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」を心の中で念じながらお参りします。 たとえば道中に出会った人には親切にするとか、期間中は不平不満は言わないとか、無理のない決め事をもってお参りすると、ずいぶん感じ方も違います。 一日にたくさんのお寺をお参りする場合は、次の切符を使うとお得の場合があります。(平成16年5月現在) |
[ 120] 御府内八十八ヶ所 とうきょうおてらめぐり/真言宗豊山派 金剛院
[引用サイト] http://www.kongohin.or.jp/ohenro.html
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四国八十八ヵ所(しこくはちじゅうはちかしょ)は、四国にある88か所の弘法大師(空海)ゆかりの札所の総称。「四国遍路」(しこくへんろ)・「四国霊場」とも言う。 江戸時代ごろから西国三十三箇所観音霊場、熊野詣、善光寺参りなど庶民の間に巡礼が流行するようになった。そのうちの一つが四国八十八ヵ所である。これを模して小豆島には小豆島八十八ヵ所霊場・江戸には御府内八十八ヵ所霊場など、全国各地に大小様々な巡礼地が作られた。「移し」または「写し」とも呼ばれ、四国遍路隆盛の証左とも言われている。 他の巡礼地と異なり、四国八十八カ所を巡ることを特に遍路と言い、地元の人々は巡礼者をお遍路さんと呼ぶ。八十八ヵ所を通し打ち(後述)で巡礼した場合の全長は1200 - 1400km程。自動車を利用すると打戻りと呼ばれる来た道をそのまま戻るルートや遠回りのルートが多いので徒歩より距離的には増える傾向にある。観光バスや車を利用する場合は10日前後、徒歩で巡ると40日前後かかると言われている。 遍路は順番どおり打たなければならないわけではなく、各人の居住地や都合により、移動手段や日程行程などさまざまである。1度の旅で八十八ヵ所のすべてを回ることを「通し打ち」。何回かに分けて巡るのを「区切り打ち」という。また、順番どおり回るのを「順打ち」、逆に回るのを「逆打ち」という。うるう年には逆打ちをする遍路が平年に較べ多いとの印象をもつ人もいるらしい。これは閏年に逆打ちを行うと倍の御利益があるとも、お大師さん(弘法大師)とすれ違うと云う言い伝えがあるからだろう(実際に多いかどうかは不明)。 遍路(巡礼者)は札所に到着すると、ある程度決められた手順(宗派によって多少異なる)に従い、本堂と大師堂に参り、般若心経など決められた読経を行い、その証として納札(後述)を納め、納経所(のうきょうじょ)で寺の名前や本尊の名前、本尊を表す梵字などを墨書し、納経印を押したのものを納経帳(のうきょうちょう)に受領することができる。この、墨書し納経印を押したものは朱印・(御)宝印とも呼ばれ、寺の本尊を写したもので大切に扱わなければならないとされている。宝印は納経帳以外にも掛け軸、白衣にも受領できる。宝印目当てに急ぎ巡る遍路は、判取り遍路(はんとりへんろ)またはスタンプラリーと揶揄されることもある。八十八カ所全てを廻りきると「結願(けちがん、結願成就)」となり、その後、高野山(奥の院)に詣でて「満願成就」とする。 古代から、都から遠く離れた四国は辺地と呼ばれていた。平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生れた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされる。時代がたつにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海(補陀洛山寺#補陀洛渡海)の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。また、西行の白峰御陵(白峰寺)の参拝、弘法大師遺蹟巡礼や、一遍の影響もあるといわれている。室町時代には僧侶の遍路が盛んになる。 江戸時代初期に「四国遍路」という言葉と概念が成立したとされる。この頃には僧侶だけでなく民衆が遍歴しはじめる。17世紀には真念という僧によって『四国遍路道指南』(-みちしるべ)という今日でいうガイドブックが書かれている。手の形の矢印で順路を示した遍路道の石造の道しるべも篤志家によってこの時期に設置され始めたと言われる。修行僧や信仰目的の巡礼者以外にも、ハンセン病患者などの、故郷を追われた、もしくは捨てざるをえなかった者たちが四国遍路を終生行った。また、犯罪やそれに類する行為で故郷を追われた者も同様に居たといわれている。もっともこれらの者たちも、信仰によって病気が治るのではないかという期待や、信仰による贖罪であったので、信仰が目的であったともいえる。また、信仰によって病気や身体の機能不全が直るのではないかと一縷の望みをかけ、現代でいう視聴覚障害者や身体障害者が巡礼することも始まった。その後、地区によっては一種の通過儀礼として村内の若衆が遍路に出るといったこともあったとされる。 昭和30年代頃までは「辺土」と呼ばれ、交通事情も劣悪で、決して今日のような手軽なものではなかった。今日でこそその心理的抵抗は希薄になっているが、どこで倒れてもお大師のもとへ行けるようにと死装束であり、その捉え方も明るいイメージではなかった。しかしながら、次第に観光化の道を歩み始める。 近代以降、四国遍路はさまざまな場面で取り上げられることとなった。以下は、森正人の『四国遍路の近現代―「モダン遍路」から「癒しの旅」まで』創元社に詳しく紹介されているが、1908年には現在の『毎日新聞』の前身である『大阪毎日新聞』で、四国遍路の巡礼競争が企画された。全国紙での企画ではこれが最初のものであるらしい。1930年代には乗り物を用いて、旅館などに宿泊する人々が登場した。彼らは「モダン遍路」と呼ばれた。四国遍路は観光としてみなされたのだった。 観光として四国遍路を捉える人々に対して、伝統的な四国遍路を主張する「遍路同行会」が1929年に東京に誕生した。同書によると、現在のような四国霊場会は昔は存在しなかったが、1910年ごろに小林正盛という人物が組織された形跡があるらしい。ただし実質的な活動はしておらず、1942年に善通寺を中心とした「四国八十八ヶ所霊場会」が組織されたのが、四国側での活動組織となっている。この霊場会の組織に先立って1937年、大阪の南海電鉄によって「四国八十八ヶ所出開帳」というイベントが開かれた。このとき、それまで全寺院が協力して何かを成し遂げることなどなかったのに、初めて全寺院が団結して出開帳を成功させた。「この経験が、1942年の霊場会の成立と関わっているのではないか」と、同書は解説している。 現代においては、従来の信仰に基づくものや、現世・来世利益を期待する巡礼者も引き続き大勢いるが、1990年代後半からは信仰的な発心よりも、いわゆる自分探し、癒しとしての巡礼者が増えたといわれている。一時期減ったといわれるすべての札所を徒歩で巡礼する歩き遍路も同じころから増えた。また、バックパッカー的な感覚やトレッキングを楽しむ感覚で遍路をする者も増えたといわれている。今治明徳短期大学など、四国の大学・短期大学の中には歩き遍路を自分を見つめなおす機会ととらえ、教育課程に組み込んでいる学校もある。 伝統的には、四国遍路は「歩き」(歩き遍路と呼ばれる)で、1日30km歩いても約40日を要する。一時期は峠道や山道などの旧来の遍路道も廃れ、幹線道路になった遍路道は車の排気ガスが充満するなど歩き遍路にとってはつらい状況になったが、排気ガス規制や、寺院や地元の人たち、へんろみち保存協力会などによって、遍路道の整備や復興、道しるべの設置などが行なわれ一時期よりは歩きやすくなった。国道55号などの遍路道と幹線道路とが一体化している道や旧来の遍路道では、遍路装束の歩き遍路を目にすることができる。歩き遍路向けに歩き遍路のルートを解説した書籍も何点か販売されている。また、全行程ではないが、いくつかの区間においてハイキングも兼ねたウォークガイド本も出ている。 昭和40年代からの四国内の道路事情の改善もあり、大型観光バスによるお四国巡りの団体巡礼が企画催行されている。何泊もしながら1回で回り切る本格的なもの、一国参りといって一つの県内を回るもの、原則日帰りで、1回で10か寺程度ずつお参りし、何回かのツアーに参加して結願となる手軽なものなど、さまざまである。地元の会社が主催する四国発着の団体巡礼もあるが、大手ツアー会社が主催する関西や中国地方からの団体巡礼も多く、近年では関東などからの団体巡礼も増えている。団体巡礼では本堂や大師堂での読経は先達(後述)や僧侶が先導してくれ、納経帳に判を貰うのは添乗員が代行してやってくれる。このようなツアー会社やバス会社主催の団体巡礼以外にも、札所や寺院、各地の参拝団(講)が主催する団体巡礼もある。小規模な団体や大型バスが通行できない札所への参拝は、マイクロバスやジャンボタクシー等も利用される。 体力や身体的な理由などですべてを徒歩で巡礼するのは無理だが、できる限り歩きつつ公共交通機関を利用する巡礼者もいる。2006年から、四国運輸局では、公共交通を利用した四国遍路のためのガイドリーフレットを作成、配布している。 自動車やオートバイを利用して、巡礼する人も多い。マイカーを利用したり、遠方からは四国でレンタカーを借りて巡礼する人もいる。四国の出先機関に赴任してきた人の中には、休日を利用して少しずつ計画的に回る人もいる。今では、高速道路を利用すれば、四国の主要都市からほとんどの札所へ日帰りが可能である。但し山道など道路事情が良くない区間、札所も多い。 自転車を利用して参拝する巡礼者もいる。ルートは自動車を利用する場合とほぼ同じだが、山寺などへのルートは急坂が多いため、登りはともかく降りは注意しないと危険である。きちんと(特にブレーキを)整備した自転車を用い、極端に安価な軽快車(ママチャリ)や折り畳み自転車は避けたい(ブレーキや構造上に問題がある場合が多い)。 ここまで四国遍路が盛んになったのは、貞享4年(1687年)に刊行された『四国遍路指南』という新書版の本の刊行による。この本を著したのは眞念という人であるが、そこには宿泊所情報なども盛り込まれており、遍路をしたい人にとって重要なガイドブックとなった。さらに、この本によって八十八箇所が固定化され、それまで順番などなかった札所の寺に順番が付けられたものと考えられる。 仮に一人で四国八十八箇所をめぐっても、同行二人(どうぎょうににん)と言って常にお大師さん(弘法大師)と一緒にいる想いで巡礼している。「同行二人」は参拝の道具にも記されている。同行二人の巡礼者ともう一人は弘法大師以外でも、亡くなった家族や先祖、帰依する如来や菩薩などのことを想っても良いとする教えもある。 笈摺(おいずる)とも呼ばれる。巡礼者が着なければならないとされる、白い着衣。四国八十八箇所の寺院や門前の店で購入すると「南無大師遍照金剛」と背中に書かれたものが一般的である。袖があるのもを白衣、袖無しのものを笈摺とする説明もあるが、はっきりと区別されているわけではない。宝印を受領するためだけの実際には着衣しない白衣は判衣とも呼ばれる。巡礼の途中でいつ行き倒れてもいいように死装束としてとらえる説もあれば、巡礼といえども修行中なので清浄な着衣として白を身につける、どんな身分でも仏の前では平等なのでみな白衣を着るとする説もある。 木製の杖で空海が修行中に持っていた杖に由来する。巡礼者が持つ金剛杖は弘法大師の化身ともいわれるほどで、宿に着いたら杖の足先を清水で真っ先に洗い、部屋では上座や床の間に置くなどの扱いをするのがならわしである。巡礼中、行き倒れた巡礼者の卒塔婆として使用されたといわれる。市販されているものは「同行二人」「南無大師遍照金剛」や梵字が書かれ、般若心経が書かれているものもあり、杖の上部の細工は塔頭を模している。橋の上ではついてはならない(後述)。 四国を時計回りに札所の数字を昇順に巡礼するのを順打ちといい、反時計回りに降順に巡礼するのを逆打ちという。第一番札所から巡礼を開始し、逆打ちする場合は第三番札所金泉寺から大坂峠越えで第八十八番札所大窪寺に向かうのが一般的であったといわれている。 映画『死国』では禁忌などのようにとらえられているが、順打ちよりも困難な場合が多く、ご利益が順打ちよりも大きく、順打ち3回分のご利益があると言われている。また、逆打ちだと順廻りしているお大師さんと遭遇する確率が高いので、この理由でご利益があるとも言われている。 道中、お遍路さんに対して地元の人々から果物や金品、善根宿など、お接待または接待とよばれ、食べ物や飲み物、手ぬぐいやときには現金を渡す無償の提供がなされる伝統がある。これに対し、遍路は持っているお札を「お接待」してくれた人に渡すことになっている。こうした文化のおかげで、昔は比較的貧しい人であってもお参りができたといわれる。今日でも四国西南部ではお接待の場ともなった「茶堂」が残っている。「お接待」の心は、接待することによって功徳を積む、巡礼者もまた弘法大師のある種の化身であるという言い伝えからや、一種の代参のようなものとか様々である。観光振興や観光従事者の研修等では「もてなしの心」と拡大解釈されることがある。もともと、関西で西国三十三箇所観音霊場の修行者、巡礼者に対して始まったとされるが、 観光化、俗化したために関西では早くに廃れたといわれている。四国以外の地域でも、接待講と呼ばれる講を組み、浄財を集め、四国で遍路にたいして接待をするということも行われた。 札所などにお参りし、納経した証に収める札。般若心経を写経したものを納めるのが正式とされているが、読経したのちに自分の名前を書いた納札を納めても良い。衛門三郎が自分が空海を探しているということを空海に知らせるために(空海が立ち寄ると思われる)寺にお札を打ちつけたのが始まりとされる。かつては木製や金属製の納札を山門や本堂の柱などに釘で打ちつけていた。このことから、遍路自体や、札所に参拝したことを「打つ」とも言う。現在では、お寺の建築物の損傷を避け、持ち運びの利便性を考え、紙製の納札を納札箱に入れることなっている。また、接待をしてもらったら、その人にお礼の気持ちも込めて納札を渡すのが決まりである。結願した回数によってお札の色を変えてもよい。1〜4回が白、5〜7回が緑、8〜24回が赤、25回以上で銀、50回以上で金、そして100回以上で錦の札となる。ただし、白より錦の札がより良いとされるわけではない。100回以上回っても白の納札を使う人もいる。 善人宿とも呼ばれる。広義では自宅の前を通った遍路に「一晩泊っていきなさい」と一夜の宿を提供するのも善根宿といわれる。一般的には「お接待」の心で善意で用意された簡易宿泊施設である。施設を提供するのは個人や企業、地域ぐるみなど様々である。 本来は寺院内で夜を徹して読経や真言を唱える修行をするための施設(お堂)だが、四国八十八箇所においては霊場が巡礼者にたいして用意した簡易宿泊施設という意味合いが強い。宿坊とは違い寝るだけの最低限の設備しかない(布団も基本的にはない)。かつては通夜堂を持つ霊場が多かったが、旅館などの宿泊施設が増えたことや、利用者のマナーなどの問題により減少し、現在では通夜堂を持つ霊場(小屋やガレージなどを一時的に利用しても良いとする霊場を含む)は2割程度である。 現在の愛媛県大洲市付近で空海が一宿を求めたがどの家からも断られ、仕方なく橋の下で寝ることとなった。寒さと旅人が杖で橋を突く音でまったく眠れず、一夜が十夜にも感じられた、という和歌が残っている。このため巡礼者は橋の下には空海がいるかもしれないから橋をわたるときは杖を突いてはならないというならわしがある。すぐそば、国道に面して永徳寺(番外霊場)があり、お参りする人も多い。現在、その橋は「十夜ヶ橋」と呼ばれ国道56号の一部となり、交通量の多いコンクリート橋になっているが、橋の下で空海を偲びつつ野宿することができる。雨期には冠水する場合もあり、夏季は蚊が多いので注意を要す。 四国八十八箇所のことを略して「お四国参り」あるいは「お四国」「お大師さん」と呼ぶことがあるが、四国には各地に民衆信仰としての地四国あるいは「ミニ四国」「新四国」と呼ばれるものがある。離島では島を四国に見立てて、八十八箇所を再現した島四国も瀬戸内海を中心に存在する。 四国八十八箇所霊場会では、昭和30年代に「公認先達」という認定制度を発足させた。ツアー会社の団体巡礼に同行する先達はほぼ「公認先達」である。徒歩による巡礼のガイドを引き受けてくれる先達もいる。公認先達は最低4周以上の巡拝経験が必要である。その上で研修を経て補任される。 弘化2年生まれ。四国八十八箇所巡礼を慶応2年から大正11年まで歩きで280回巡拝した。また、しるべ石を240基余りを建立した。 1000年を越える歴史を有する巡礼を基礎とした特異な文化であり、世界遺産への登録をめざす動きが四国にはあり、特に香川県が意欲的であるものの4県の中でも温度差があったが、2006年11月、文化庁に対して「四国八十八箇所霊場と遍路道」の「暫定リスト」への登載を求め、要望書を提出した。 また、民間で遍路道を含めて世界遺産登録に向けた活動を行なっている団体があり、その活動に積極的に関わっている札所もある。ただし、霊場会全体で見解が統一されているわけではない。ちなみに、キリスト教のサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路や日本の紀伊山地の霊場と参詣道は世界遺産登録されている。 結局、2007年1月には採択ならなかったが、四県関係者は今回の関係者の認識統一や採択に向けた課題も整理でき一歩前進と受け止めている。 現在、第三十番札所は「善楽寺(高知市一宮)」であるが、元来の第三十番札所は土佐一ノ宮高賀茂大明神(土佐神社)で別当の神宮寺が納経を行っていた(当時、高鴨大明神と神宮寺はほぼ一体の存在であった)。しかし、明治初頭の廃仏毀釈によって「神宮寺」は廃寺となり、高賀茂大明神の本地仏である阿弥陀如来も二十九番札所国分寺に移された。1876年(明治9年)、これを安楽寺へと移すこととなり、三十番札所も安楽寺が引き継いだ。善楽寺は神宮寺の塔頭寺院として葬儀などを執り行っていたが、神宮寺と共に廃寺となった。しかし1929年(昭和4年)に地元から葬儀を執り行う寺院の復興が望まれたため、埼玉県さいたま市にあった東明院の寺基を移す形で善楽寺を復興し、国分寺から旧神宮寺の弘法大師像や寺宝を引き継いだ。このころから善楽寺が「善楽寺は弘法大師巡錫地であるから第三十番札所である」というようになった。三十番札所が二ヶ所存在するような事態となった。1942年(昭和17年)には善楽寺を札所とし、安楽寺を奥の院とする取り決めがなされたが履行されず、二ヶ所併存状態が続いたため、遍路たちも戸惑いながら2つともに巡礼する姿が見られた。そのため、安楽寺を弘法大師ゆかりの阿弥陀如来を安置する本尊奉安の霊場、善楽寺を開創霊場として、どちらで納経を行ってもよいということとなった。さらに1993年(平成5年)元日より、「善楽寺」を第三十番札所に、「安楽寺」は第三十番札所奥の院とすることで正式に決着した。 明治維新による神仏分離令によって、それまでの第六十八番札所「琴弾八幡宮」の本地仏(本尊)の阿弥陀如来像をほぼ隣接する第六十九番札所「観音寺」の西金堂に移し、神恵院とした。これ以降、観音寺には一寺院の中に二つの札所が存在する。本堂と大師堂はそれぞれ存在するが、納経所はひとつである。 大相撲第六十八代横綱朝青龍明徳(あさしょうりゅうあきのり)の四股名は、第三十六番札所青龍寺にちなんでつけられた。モンゴルから相撲留学していた明徳義塾高等学校の近くにある青龍寺の石段でよくトレーニングをしていたため、角界に入り青龍寺より許可を得て四股名とした。ちなみに「明徳」は、母校の名からつけた。 江戸期の巡礼では河川や湾口の通行に渡し船を使うことがあり、吉野川、浦戸湾、須之内湾、四万十川などにあった。2005年末までは四万十川にも渡し船があったが、現在では浦戸湾の種崎・長浜間の渡し船(県営フェリー)が残るのみである。巡礼者が渡し船を使うと多くの場合渡し賃が無料(接待)であったと伝えられている(現在の浦戸湾の渡し船は巡礼者でなくとも無料)。歴史的な経緯から渡し船に乗った以外を徒歩で結願した場合は、全て徒歩で結願したとみなされる。 歩行不可能、困難な巡礼者はかつて「いざり車」に乗って巡礼した。これは現代でいう車椅子にあたるもので、小さいものは台車のようなものだが、大きなものは小屋に両輪がついたようなもので、この中で寝泊りできたという。遍路では主に後者の小屋タイプが使われていた。村によってはいざり車をみかけると隣村まで押していく、という決まりごとがあったと伝えられている。 江戸時代、土佐国(現高知県)では巡礼者の入国、出国は甲浦(現東洋町甲浦地区)と松尾峠(現宿毛市)の関所二ヶ所のみとされた。入国してからも札所以外の立ち寄りは禁止など厳しい制限がかけられた。また遍路狩りのようなこともあったと言われている。また、四国でもっとも廃仏毀釈が激しかったのは土佐であり、このようなことから、巡礼者の間では「鬼国土佐」などと呼ばれることもあった。といっても、入ってしまえば、草の根を分けてでも取り締まることはそうそうなく、気候温暖ですごしやすく、民衆の接待は他の国と同様であったため、冬には乞食遍路が集まってきたといわれている。そのため晩秋のころからは遍路に対しては関所を閉じるということもあった。 国や自治体では、四国八十八箇所やその他の史跡や自然を辿る道を「四国のみち」として各種整備している。旧来の遍路道が「四国のみち」が重なっている場合などは、「四国のみち」として案内版や登山道の整備などがされているが、かならずしも「四国のみち」と旧来の遍路道は一体となっているわけではない(札所間のルートで四国遍路とは関係がない史跡が組み込まれて遠回りになる場合がある)ので、遍路道を辿りたい場合には注意が必要である。 宮崎建樹『四国遍路ひとり歩き同行二人 地図編 第8版』(へんろみち保存協力会、2007年) - これから下三冊は書籍流通ルートには乗っていないが、通販もしくは同書を取り扱っている札所・門前店で購入が可能である。 四国R-14(2000年 制作:北海道テレビ 水曜どうでしょうプロジェクト2000) - 上記企画内で起きた事件を基にお遍路にまつわるテレビドラマを制作・放映。出演・TEAM-NACS(大泉洋、森崎博之、音尾琢真、安田顕、戸次重幸)ほか。 NHK総合テレビ 土曜ドラマ「ウォーカーズ〜迷子の大人たち」 - お遍路を通じて、すべての悩める日本人に贈るメッセージドラマ。出演・江口洋介、三浦友和、戸田菜穂、原田芳雄ほか。 NHK総合テレビ 「野のきよら山のきよらに光さす」 - 夫を殺した母と娘2人が四国八十八ヶ所の巡礼に出る。出演・左幸子、吉田日出子、杉田かおる、田村高廣ほか。 ザ!世界仰天ニュース - 過去の特番にてあべこ(胡蝶蘭)他、男女各1名のデブキャラ芸人が長期間かけて四国八十八箇所を回るというロケ企画を敢行。その内容を番組内で数回に分けて放映された。 夢へんろ ?どんな時も希望をすてず? 2007年6月3日・吉祥寺 前進座劇場。6月23、24日・松山市民会館中ホール。主催:みかん一座、NPO法人ニュースタート事務局 後援:愛媛県/松山市/読売新聞東京本社/愛媛新聞社/朝日新聞松山総局/日本テレビ/南海放送/愛媛経済同友会ほか - 引きこもり・ニートから再出発を始めた若者たちが、みかん一座のメンバーと共演。主催するNPO法人は、毎年、引きこもりの若者を歩き遍路へと導く企画運営にも携わっている。 |
[ 121] 四国八十八箇所 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%9B%BD%E5%85%AB%E5%8D%81%E5%85%AB%E7%AE%87%E6%89%80
