レ・ミゼラブルとは?

『レ・ミゼラブル』(Les Miserables)は、ヴィクトル・ユーゴーが1862年に書いた、ロマン主義フランス文学の大河小説である。
日本では始め、森田思軒が一部を「哀史」の題名で訳したが完訳には至らず、黒岩涙香が翻案。『噫無情』(ああむじょう)の題名で1902年(明治35年)10月8日〜1903年(明治36年)8月22日、萬朝報に連載された。
1本のパンを盗んだために19年間もの監獄生活を送ることになったジャン・ヴァルジャンの生涯が描かれている。作品中ではナポレオン1世没落直後の1815年からルイ18世・シャルル10世の復古王政時代、七月革命後のルイ・フィリップ王の七月王政時代の最中の1833年までの18年間を描いており、さらに随所でフランス革命、ナポレオンの第一帝政時代と百日天下、二月革命とその後勃発した六月暴動の回想・記憶が挿入される。当時のフランスを取り巻く社会情勢や民衆の生活も、物語の背景として詳しく記載されている。
マリユスは若き日のユーゴー自身が、コゼットは彼の妻アデール・フーシェと愛人のジュリエット・ドルーエがモデルだと言われている。アンジョルラスは革命の大天使と謳われたルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュストがモデル。
原題 Les Miserables は、「悲惨な人々」「哀れな人々」の意味であるが、黒岩涙香の訳した「ああむじょう」は Les Miserables の韻をも含んだみごとな翻訳題名として、日本では『噫無情』(ああむじょう)、『ああ無情』の題名が定着している。中国語圏では『悲惨世界』あるいは『孤星涙』と訳されている。
1815年10月のある日、75歳になったディーニュのミリエル司教の司教館を、ひとりの男が訪れる。男の名はジャン・ヴァルジャン。貧困に耐え切れず、たった1本のパンを盗んだ罪でトゥーロンの徒刑場で19年も服役していたのだ。行く先々で冷遇された彼を、司教は暖かく迎え入れる。しかし、その夜、大切にしていた銀の食器をヴァルジャンに盗まれてしまう。翌朝、彼を捕らえた憲兵に対して司教は「食器は私が与えたもの」だと告げて彼を放免させたうえに、二本の銀の燭台をも彼に差し出す。それまで人間不信と憎悪の塊であったヴァルジャンの魂は司教の信念に打ち砕かれる。迷いあぐねているうちに、サヴォワの少年プティ・ジェルヴェ (Petit-Gervais) の持っていた銀貨40スー[1]を結果的に奪ってしまったことを司教に懺悔し、『正直な人間』として生きていくことを誓う。
1819年、ヴァルジャンはモントルイュ=スュール=メールで『マドレーヌ』と名乗り、黒いガラス玉および模造宝石の産業を興して成功をおさめていた。さらに、その善良な人柄と言動が人々に高く評価され、この街の市長になっていた。彼の営む工場では、1年ほど前からひとりの女性が働いていた。彼女の名前はファンティーヌ。パリから故郷のこの街に戻った彼女は、3歳になる手前の娘をモンフェルメイユのテナルディエ夫妻に預け、女工として働いていたのだ。
しかし、それから4年後の1823年1月、売春婦に身を落としたファンティーヌは、あるいざこざがきっかけでヴァルジャンに救われる。病に倒れた彼女の窮状を調べた彼は、彼女の娘コゼットを連れて帰ることを約束する。実は、テナルディエは"コゼットの養育費"と称し、様々な理由をつけてはファンティーヌから金を請求していたのだ。それが今では100フラン[2]の借金となって、彼女の肩に重くのしかかっていた。
だが、モンフェルメイユへ行こうとした矢先、ヴァルジャンは、自分と間違えられて逮捕された男シャンマティユーのことを私服警官ジャヴェールから聞かされる。葛藤の末、シャンマティユーを救うことを優先し、自身の正体を世間に公表する。結果、プティ・ジェルヴェから金40スーを盗んだ罪でジャヴェールに逮捕される。『終身徒刑(=終身刑)』の判決を受けて監獄へ向かう途中、軍艦オリオン号から落ちそうになった水兵を助け、海に転落。通算5度目となる脱獄を図る。
そして、1823年のクリスマス・イヴの夜。今は亡きファンティーヌとの約束を果たすためモンフェルメイユにやって来たヴァルジャンは、村はずれの泉でコゼットに出会う。当時、コゼットは8歳であったにも関わらず、テナルディエ夫妻の営む宿屋で女中としてタダ働きさせられている上に夫妻から虐待され、娘たちからも軽蔑されていた。ヴァルジャンは静かな怒りをおぼえ、テナルディエの要求どおり1500フラン[3]を払い、クリスマスの日にコゼットを奪還する。
道中、後を追ってきたテナルディエを牽制したヴァルジャンは、コゼットを連れてそのままパリへ逃亡する。パリに赴任していたジャヴェールら警察の追っ手をかいくぐり、フォーシュルヴァン爺さんの協力を得たふたりは、ル・プティ・ピクピュス修道院で暮らし始める。母のことをあまり覚えていないコゼットは、ヴァルジャンを『父』として、また『友達』として心の底から慕い、愛し続ける。ヴァルジャン自身もコゼットを『娘』として、あらゆるたぐいの愛情を捧げる絶対的な存在として、彼女にまごころからの愛を注ぎ続ける。
フォーシュルヴァン爺さんの没後、パリのプリュメ通りにある邸宅に落ち着いたヴァルジャンとコゼットは、よくリュクサンブール公園に散歩に来ていた。そんなふたりの姿をひとりの若者が見ていた。彼の名はマリユス・ポンメルシー。共和派の秘密結社『ABC(ア・ベ・セー)の友』に所属する貧乏な弁護士である。ブルジョワ出身の彼は幼い頃に母を亡くし、母方の祖父に育てられたが、17歳のとき、ナポレオン1世のもとで働いていた父の死がきっかけでボナパルティズムに傾倒し、王政復古賛成派の祖父と対立。家出していた。マリユスは美しく成長したコゼットに一目惚れし、『ユルシュール』と勝手に名づけ、何も考えられないほど彼女に恋焦がれてしまう。
テナルディエの長女エポニーヌの助けを得て、マリユスは『ユルシュール』の住まいを見つけ、同じころ彼に惚れていた『ユルシュール』ことコゼットに、ようやく出逢うことができた。この出逢い以降、ふたりは互いを深く愛し合うようになる。だが、1832年6月3日、コゼットはヴァルジャンから、1週間後にイギリスへ渡ることを聞かされ、それをマリユスに話してしまう。ふたりの恋路は『突然の別れ』という最大の試練に塞がれてしまった――。
コゼットと、彼女に絶対的な愛を捧げるジャン・ヴァルジャンとマリユス――この3人を中心とした運命の渦は、ジャヴェール、テナルディエ一家、マリユスの家族や親しい人々、犯罪者集団『パトロン=ミネット』、そして『ABCの友』のメンバーまで巻き込んで、『悲惨な人々』(レ・ミゼラブル)の織りなす物語をあちこちに残していく。大きくなった運命の渦は、七月革命の影響で混沌のなかにあるパリを駆けまわり、やがて1832年6月5日に勃発する『六月暴動』へと向かってゆくことになる……。
これは、ひとりの徒刑囚が偉大なる聖人として生涯を終えるまでの物語であり、その底を流れているのは、永遠に変わることのない真実の『愛』である。
1769年にブリーのファヴロールの貧しい農家の子供として生まれた。父親はジャン・ヴァルジャン、母親はジャンヌ・マティユー (Jeanne Mathieu)という。情の深い、考え込むタイプの男。
両親を幼い時に亡くし、年の離れた姉に育てられるが、25歳の時に姉の夫が死去。1795年の終わり頃、姉の7人の子供達のために1本のパンを盗んで逮捕されてしまう。1796年に器物損壊と密猟の罪を併せて5年の刑を言い渡され、トゥーロンの徒刑場へ送られるが4度も脱獄を図ったため、19年間もの歳月を監獄で過ごすことになる。
1815年10月に出獄した時、すでに46歳となったヴァルジャンは長い監獄生活のなかで人間社会に対する憎悪の塊となってしまっていたが、ミリエル司教の情愛により改心する。
1815年の12月、モントルイュ=スュール=メールにやって来た彼は、『マドレーヌ氏』 (M. Madeleine)と名乗る。産業で成功し、人望を集めた結果、1819年に国王ルイ18世の命で市長の座に就く。1823年の1月にファンティーヌを救い、コゼットを連れ帰ることを約束するが、その約束が果たされるまでに1年近くを要することとなる。
1823年のクリスマスにテナルディエ夫妻からコゼットを奪還した後、パリへ向かう。フォーシュルヴァン爺さんに匿われ、プティ・ピクピュス修道院[4]で庭師として暮らす。以降、フォーシュルヴァン爺さんの弟の名を借り、『ユルティーム・フォーシュールヴァン』(Ultime Fauchelevent)として生きていくこととなる。
1829年10月、60歳になったヴァルジャンは、フォーシュルヴァン爺さんの死をきっかけにプティ・ピクピュス修道院を出、コゼットとともにプリュメ通りの庭園つきの邸宅に引っ越す。母屋にコゼットと老女中トゥーサン (Toussaint)を住まわせ、自身は小さな門番小屋で質素な生活を送る。
恋愛を知らないヴァルジャンにとってコゼットとは、娘・母・姉妹……女性が持つすべての立場を兼ね備えた絶対的な存在だったが、コゼットはマリユスと結ばれてしまい、更には自らの素性を知り軽蔑するようになったマリユスによって、引き離されてしまう事になる。
悩み、苦しみ、時には哀しみと絶望を味わいながらも、常にミリエル司教の説く『正しい人』であろうと努め、日々を過ごす。
ネタばれに注意: ここには、ジャン・ヴァルジャンに関する、作品の 「核心」 に至る内容が記述されています。
コゼットを保護してからは、常に警察に怯えながら暮らしていた。ゴルボー屋敷、プティ・ピクピュス修道院での生活を経て、プリュメ通りの邸宅以外にも2件の家を借り、国民兵としてパリの市門を守っていた。合計3件の邸宅を借りた理由は、ゴルボー屋敷に住んでいることがジャヴェールにばれてしまい、コゼットを連れて逃亡せざるをえなかった経験からくるもので、プリュメ通りの邸宅にいることが分かっても別に借りた邸宅にすぐに移ることができるからだといえる。国民兵として市門を守ったのは、徴兵検査を逃れることができなかったためであったが、市民としての使命を果たせるという喜びと、国民兵なら警察も怪しまないという利点があったからだった。
彼が名乗った偽名は、マドレーヌ、ユルティーム・フォーシュールヴァンのほかに、ユルバン・ファーブル(Urbain Fabre)がある。『ゴルボー屋敷待ち伏せ事件』でテナルディエ一家とパトロン=ミネットに監禁されたときに使った。
1832年6月4日、彼は謎の人物が投げ込んだ一通の手紙に驚愕し、プリュメ通りの邸宅を引き払ってロマルメ通り(現在のサント・クロワ・デュ・ブルヌドリ通りとブラン・マントー通り付近)7番地のアパルトメンへ引っ越してしまう。
コゼットの心を奪ったマリユスに嫉妬した彼は悩み苦しんだ挙げ句、コゼットの恋人を救うため、このアパルトメンからル・シャンヴルリー通りのバリケードに向かう。国民兵の軍服を脱いで妻子もちの男を逃がした彼は、銃は持っていても決して敵を殺さない“奇妙な存在”として注目される。さらに彼は、瀕死の重傷を負ったマリユスを背負って下水道を通り、バリケードから脱出する。
コゼットとマリユスの結婚式の翌日、マリユスに自身の正体を明らかにする。それ以降、ロマルメ通りのアパルトメンに独りで住み、自分から距離を置いたことと、マリユスが彼を敬遠したこともあり、コゼットとは疎遠になっていく。徐々にコゼットのいるフィーユ・ドゥ・カルヴェール通り6番地にある娘夫婦の邸宅へ行くことが難しくなり、肉体的にも精神的にも衰弱していく。そんな彼の心を支えていたのは、コゼットが《腰巾着》と呼んでいた荷物の中身――8歳のときのコゼットが着ていた喪服――であった。
1833年の晩夏の夜。遺言を残し、コゼットと二度と逢えないことを嘆いていたちょうどその時、真実を知ったマリユスがコゼットを連れて彼を迎えに来る。彼はふたりに様々なことを話す。模造宝石のこと、自分が託した60万フランを使って『男爵』にふさわしい生活をすること、テナルディエ一家をゆるすこと、銀の燭台をコゼットに託すこと、コゼットの母の名前はファンティーヌであること、自分の幸せと引き換えにコゼットを幸せにしたファンティーヌに心から感謝すること……それだけ言い残すと、天国から立ち会っているミリエル司教、ポンメルシー夫妻に看取られながら、幸福な気持ちに浸りながら天国へ旅立った。64歳で死去。
彼の亡骸はペール・ラシェーズ墓地の目立たぬ場所、大きなイチイの樹の下に埋葬された。墓石には何も刻まれていない。そのかわりに、木炭で4行の詩句が書かれている。
10歳年下の妹バティスティーヌ嬢 (mademoiselle Baptistine)と、女中であるマグロワール夫人 (madame Magloire)との三人で慎ましく暮らす司教。プロヴァンス生まれ。バティスティーヌ嬢のほかにふたりの兄弟がおり、ひとりはフランス軍の将軍、もうひとりは知事をつとめた。彼には崇高なまでの子供らしさと深い愛があり、ある日彼は1匹の蟻を踏み潰すまいとして足をくじいてしまったことさえあった。しかし、一方ではナポレオンを嫌っている。
若い頃に結婚し、社交や色恋に埋もれていたが、フランス革命のいざこざによって家族は四散し、イタリアに亡命。肺の病を患っていた妻を亡くした後、子供がなかった彼は司祭となって帰国する。1804年にブリニョルの主任司祭となった彼は、1806年にディーニュの司教に任命される。以後、地域の貧しい住民のために慈善活動を続け、自らは倹約に倹約を重ねた生活を送ったことから、『ビヤンヴニュ(歓迎の意)閣下』 (monseigneur Bienvenu)と呼ばれて民衆に慕われる。その噂はディーニュ周辺に広がり、山賊すらも盗んだ寺院の宝を彼宛に返すほどである。
「無学の人間に教育をほどこし、自らが作り出した闇に責任を負うことこそ社会の責務である」、「罪を犯すことがあっても常に正しき人であるべき」というのがモットー。ある出来事がきっかけで人が他人の命を裁く死刑という制度に疑問を抱くようになる。そのような思想と言動から、彼は出世コースを外れた《はぐれ者》になってしまうが、彼は微塵も気にせず慈善活動に明け暮れる毎日を送った。
1815年10月のある日、行き場のないジャン・ヴァルジャンを司教館に泊めてもてなしたが、その夜、彼に銀の食器を盗まれてしまう。次の日の朝にヴァルジャンは憲兵に捕らえられるが、ミリエル司教は彼を咎めず「食器は私が彼にあげた物だ」と言って放免させる。唖然とするヴァルジャンに向かって、さらに二本の銀の燭台を差し出し、「正直な人間になるために、この銀器を使いなさい」と諭す。昔から残っている数少ない宝と大伯母の遺品を託した彼の行動は、ヴァルジャンの人間性を大きく変えることとなる。
1821年のはじめ、82歳で永眠。当時『マドレーヌ氏』であったヴァルジャンはその報せを知るや否や、彼のために喪服を着て過ごした。
1780年に、服役囚の父と、同じく服役囚のトランプ占いのジプシー女の子供としてトゥーロンの徒刑場で生まれた、ブルドッグのような顔つきの男。社会から外れ、「普通の人間として」社会に関われないという絶望から、自身の境遇やそれと同じ境遇に属する人間を憎み、社会を守る人間であることを選ぶ。その素養が備わっていたこともあり、彼は警察官となる。
禁欲主義で生真面目かつ自分にも他人にも厳格な男。社会秩序を絶対的に信奉する法の番人であり、これに逆らう者には公正だが容赦なく振る舞ったため、町のならず者達を震え上がらせる。『パトロン=ミネット』に名を連ねていた者も彼を恐れた。
1820年に40歳で捜査官 (inspecteur; 私服警官と呼ばれる刑事の階級で、現在のフランス警察のlieutenant (警部補)に相当)となってモントルイュ=スュール=メールに赴任するが、有名人であるマドレーヌ氏のことを、昔トゥーロンで見たジャン・ヴァルジャンではないかと疑い続ける。
ある日、バマタボワといざこざを起こしたファンティーヌを逮捕するが、マドレーヌ市長が自らの裁量でファンティーヌを釈放してしまった事に憤慨し、とうとう彼をジャン・ヴァルジャンとしてパリ警視庁へ告発しに行く。結果、シャンマティユーの一件でついにヴァルジャンを捕らえるものの、後に逃げられてしまう。ヴァルジャンを逮捕するための助っ人としてパリに招集され、警視庁の上層部にその熱意を買われた彼は一等捜査官 (inspecteur de premiere classe; 現在のフランス警察のcapitaine (警部)及びcommandant (上級警部)に相当)としてパリに駐在することになる。
しかし、職務をまっとうしていくうちに、『ジャン・ヴァルジャン』という人物について深く葛藤していくようになり、ついには……。
ネタばれに注意: ここには、ジャヴェール警部に関する、作品の 「核心」 に至る内容が記述されています。
彼は六月暴動の際、警察のスパイとしてアンジョルラス率いる暴徒に紛れ込むが、ガヴローシュに正体がばれて捕虜にされてしまう。その時、彼を救ったのが、意外にもジャン・ヴァルジャンであった。ヴァルジャンは彼を殺せる状況であったにも関わらず、彼を処刑するどころか、空砲を撃ち、彼を“処刑した”ことにして取り逃がしたのだ。さらに、マリユスを助け出したヴァルジャンを見るなり、彼は馬車を呼んで、ヴァルジャンと一緒にジルノルマン邸へマリユスを送り届けた。
ヴァルジャンの願いを聞き入れ、ロマルメ通りの邸宅へヴァルジャンを連れて行ったが、彼はヴァルジャンを逮捕することなくその場から立ち去った。聖人と化したヴァルジャンを逮捕しようにも、逮捕できなかったのだ。ヴァルジャンと対峙することで、彼は自身が信奉してやまなかった法にも欠点があり、法が語っていることは必ずしもすべてではないこと、社会は完璧にできていないことを痛感させられたのだ。
頼るものを失い、完全に打ちのめされてしまった彼は、シャトレー広場の派出所で意見書をしたためた後、1832年6月7日未明、ノートルダム橋の欄干から投身自殺を図った。52歳で死去。
1796年生まれの、美しい髪と前歯を持つ可憐で純粋な美女。モントルイュ=スュール=メール生まれの孤児で、ファンティーヌという名は通りすがりの人からつけられた。町に教会がなかったため洗礼を受けていない。10歳で近隣の農家へ出稼ぎに行き、15歳でお針子娘としてパリに出た彼女は、トゥールーズ出身の老学生フェリックス・トロミエス(Felix Tholomyes)と夫婦のように愛し合い、1815年、19歳のときに娘コゼットをもうける。しかし、1817年にトロミエスが突如故郷へ帰ってしまったことがきっかけで生活が一変。翌年の春、57フラン[5]を支払ってコゼットをテナルディエ夫婦に預けると、故郷にあるマドレーヌ氏の工場で働くことになる。
だが、その言動から、女工仲間から疎まれ、怪しまれる存在になり、しまいには隠し子がいる事がばれて工場を解雇されてしまう。この頃からコゼットの養育費の支払いが滞り始める。シャツを縫う仕事を始め、身体を酷使し、それでも金が足りないときは娘のために自分の大事な前歯と美しい長い髪も売って金をつくった。何もかも売ってしまって金が足りない彼女は、ついに売春に走ってしまう。生活苦に陥るたびに、彼女の精神はコゼットへの愛で高揚し、精神的に麻痺していくようになる。
コゼットを手放してから5年目の冬、27歳になった彼女はバマタボワ氏 (M. Bamatabois)というハイカラ男といざこざを起こして逮捕されそうになったところを、マドレーヌ市長ことジャン・ヴァルジャンに助けられる。コゼットを手放した頃から胸を患っていた彼女は、ヴァルジャンにコゼットのことを託し、コゼットと再会できるよう計らってもらうが……。
ネタばれに注意: ここには、ファンティーヌに関する、作品の 「核心」 に至る内容が記述されています。
解雇は、ヴァルジャンが真実を知らないところで起きてしまった。ヴァルジャンに保護された頃には、彼女はすっかり堕落しており、精神的にすさんでしまっていたのだ。最初は自分を解雇したヴァルジャンをひどく恨んだが、真実を知ったヴァルジャンが謝罪し、自分たち母娘を身受けしてくれると言ってくれた時には、すっかり彼を信頼していた。
この頃には胸の病気は診療所でもどうにもできないほどひどく悪化しており、精神も混乱していた。彼女は「コゼットに逢える」という幸福感に浸りながら、ヴァルジャンが書いた委任状に署名する(この委任状はテナルディエに対し、有効な手段となる)。
だが、診療所にやってきたジャヴェールに、頼りにしていた市長マドレーヌが徒刑囚ジャン・ヴァルジャンであることを伝えられ、コゼットにも逢えないと知ってしまった彼女は、ベッドの上でショック死してしまう。
1879-1882年出版のユーグ版 (Edition Hugues)のために画家エミール・バヤールによって描かれたコゼットの木版画
コゼットというのはファンティーヌがつけた愛称で、本名はユーフラジー(Euphrasie)。ユーフラジーはエウプロシュネが由来の名。
1815年にファンティーヌとトロミエスとの間に出来た娘。純粋無垢で心優しく、心を許した他人に身をゆだねる、素直で明るい少女。
1818年の春、まもなく3歳になるという年齢でテナルディエ一家に預けられ、世間では『ル・アルーエット』(l'Alouette, ひばり)と呼ばれていた。物心つかないうちにテナルディエ一家に預けられたため、母のことをほとんど覚えておらず、母が『ファンティーヌ』という名前であることも知らない。
幼い頃からテナルディエ一家からむごい仕打ちを受けていたため、ネガティブで弱弱しい子供になってしまっていた。体格も、8歳だというのに6歳前後にしか見えないぐらいほど小さくやつれていた。が、1823年のクリスマスにヴァルジャンに引き取られてからは、これまで手にすることの出来なかった《愛する機会》を手に入れ、ヴァルジャンに親愛の情を抱くようになっていく。
フォーシュールヴァン爺さんが住み込みで働くパリのプティ・ピクピュス修道院で教育を受けるようになり、それ以降はフォーシュルヴァン爺さんの姪『ユーフラジー・フォーシュールヴァン』(Euphrasie Fauchelevent)として生きていくこととなる。修道院での生活は、彼女に笑顔を取り戻させ、極端に激しかった人見知りもすっかり改善された。
14歳のときに修道院を出た彼女は、プリュメ通りの邸宅で何ひとつ不自由しない生活を送るが、自分のために生活を切り詰めているヴァルジャンを常に心配している。ジャン・ヴァルジャンを『お父様』 (pere)と呼んで彼を心から慕って愛し、彼の精神的な支柱となっていくが、彼の素性に関しては何も知らない。
やがて成長して美人になった彼女は、リュクサンブール公園にて、マリユスより半年ほど遅れて彼に惚れてしまう。そして、自宅の庭園で再会したマリユスと激しい恋に落ちてしまう。様々な試練に見舞われたものの、1833年2月16日、晴れてマリユスと結婚。60万フラン[6]近くの財産を持つ『百万長者のポンメルシー男爵夫人』となり、ジルノルマン邸で夫とその家族らと幸せに暮らしていくが、それは同時に今まで共に生きてきたジャン・ヴァルジャンとの、悲しい別れでもあった。
先述の通り、彼女のモデルは若き日のユーゴーの夫人アデールと愛人の女優ジュリエット・ドルーエである。コゼットの美貌と彼女への愛情は、若き日のユーゴーを惹きつけたアデールのそれと混同するし、幼少のコゼットの境遇は、両親と別離して非道なおじに育てられ、結局修道院に入ったジュリエットのそれと一致している。愛人がたくさんいたユーゴーだが、二人は特別な存在であったがゆえに、その分身ともいえるコゼットには幸福であってほしかったのだろう。
その証拠と思われるのが、ふたりの結婚式の日である。コゼットとマリユスが結婚した1833年のマルディ・グラはユーゴーとジュリエットが正式に愛人関係を結んだ日なのだ。本来ならば1833年のマルディ・グラは2月19日であるが、本作では2月16日となっている。
ヴァルジャンの不可解な言動と、彼の素性を知り軽蔑を抱き敵視するようになった夫マリユスの行動により、徐々にヴァルジャンに引き離されるようになっていくが、真実を知ったマリユスがすすんでヴァルジャンとの再会を希望する。昔のように父娘一緒に同じ屋根の下で暮らしたいと望むが、ヴァルジャンは危篤状態にあった。晩夏の夜、ロマルメ通りのアパルトメンで、銀の燭台の灯す薄明かりのもと、夫婦一緒にヴァルジャンの最期を看取ったのだった……。
パリで弁護士をしながら暮らす貧乏な青年。自由主義者で夢想家。自身の行動を後々後悔する事が多い、激情的だが内省的な性格の持ち主。黒髪に黒目、中背の美青年。1810年に生まれるが、母を1815年に喪い、父は母方の祖父ジルノルマンに勘当される。ジルノルマンに大切に育てられるが、幼少の頃から鬱積していた祖父への不快感と父の死をきっかけにボナパルティズムに傾倒。思想の違いから祖父と対立して家を飛び出し、各地を転々としていたが、ヴァルジャンとコゼットも暮らしていたゴルボー屋敷の屋根裏部屋に落ち着き、親友クールフェラックの誘いを受けて、『ABCの友』に所属するようになる。
ある日、リュクサンブール公園で『ルブラン氏』(M.Lebelanc)ことジャン・ヴァルジャンとコゼットの親子連れに出会う。最初はふたりのことをさほど気にせず、コゼットにも心惹かれていなかったが、半年後、美しく成長したコゼットに心を奪われてしまう。そして、拾ったハンカチのイニシャルから『彼のユルシュール(son Ursule)』と勝手に命名する。しかし、1832年2月3日の夜、ある事件がきっかけでゴルボー屋敷から夜逃げ同然で逃亡し、ヴェルリー通り16番地にあるクールフェラックの家に世話になるようになる。
しばらくして、エポニーヌの協力を得て、プリュメ通りにある『ユルシュール』ことコゼットの自宅の庭園で彼女と再会する。それからというもの、コゼットとの逢瀬を重ね、全てを忘れ愛にのめり込んでいくようになる。だが、ふたりの恋路に立ちふさがった試練を乗り越えられず、絶望の淵に追いやられた彼は六月暴動に身を投じる。
この暴動ののち、祖父と和解。翌年の2月にコゼットと結ばれ、弁護士『ポンメルシー男爵』として多忙ながらも愛と幸せに満ちた生活を送っていくが、コゼットを守ろうとしてとった行動が、取り返しのつかない悲劇を招いてしまう事になる。
ネタばれに注意: ここには、マリユス・ポンメルシーに関する、作品の 「核心」 に至る内容が記述されています。
数々の文庫本の紹介にもあるように、彼は若き頃のユーゴー自身がモデルとなっている。ナポレオンに仕えた軍人の父、王党派の母、主張の異なる両親の諍い、父の職務ゆえの別離、父の没落、父との再会とボナパルティズムへの理解――ユーゴーの人生はそのままマリユスの少年時代の境遇に反映されている。そして、闘争に明け暮れるその姿。まさにユーゴーの分身と言っても過言ではない。
父の遺言に従い、彼はワーテルローの戦いで父の命を救った男テナルディエを探していた。死んだ父に代わり、テナルディエに恩を返そうと固く誓っているが、その行方はわからなかった。しかし、隣人ジョンドレットがテナルディエであると知り、ショックを受ける。彼が破産して、一家ともども行方知れずになっていることは、5年前(=1827年)、モンフェルメイユを訪れたときに知ったが、まさか、こんな形で彼を見つけるとは思ってもいなかったのだ。さらに、テナルディエが『パトロン=ミネット』と手を組んで、『ユルシュール』の父を自宅に監禁して金を要求する様を見て愕然とする。しかも、『ユルシュール』のものだと思って拾ったハンカチがルブラン氏のものであると知って幻滅してしまう。結局テナルディエたちは逮捕されてしまうが、あまりに衝撃的な事件だったので、ゴルボー屋敷を引き払ったのだ。
結婚式の翌日、ヴァルジャンから「自分は徒刑囚だ」と聞かされ、恐怖し混乱した末にヴァルジャンと決別し、妻コゼットからも彼を無理矢理引き離そうとする。だが、弁護士としての活動にいそしむ1833年の晩夏、テナルディエが来訪したことで、自らの過ちを思い知る事になる。“善人”とうたわれた市長マドレーヌの正体がヴァルジャンであったこと、六月暴動の際、ヴァルジャンはジャヴェールを処刑したように見せかけて逃がしたこと、何より瀕死の重傷を負った自分を救った人物がヴァルジャンその人であったこと――命の恩人であるヴァルジャンへの恩を結果的に仇で返してしまった事を知った彼は、ヴァルジャンをおとしめて金をせしめようとしたテナルディエに罵詈雑言を言い放ち、急いでコゼットを連れてヴァルジャンを迎えに行くが、全ては手遅れであった……。
『テナルディエ』とは苗字であり、ファーストネームは不明。パリ郊外のモンフェルメイユで宿屋(安料理屋)を経営する根っからの小悪党。背が低く、やせぎすで病人のような男。小学校に行っており文章は書けるものの、『サービス料』を『サーヴス料』と誤記するなど、言葉尻になまりが出てしまうのが欠点。
1815年6月のワーテルローの戦いでは軍曹だったと自称しているが、これは全くのでたらめで、酒営(=酒売り)兼かっぱらいが本業であった。このときにかっぱらった遺品を質に入れた金で宿屋を開いた。
客室の鏡1枚にも客に宿賃をふっかけるほど、ラクに金を搾り取る方針で宿屋を経営していたが、コゼットを引き取った頃には早くも宿屋の経営に行き詰ってしまい、借金がかさみ始めていた。しかし、本気で商売に取り組もうとせず、コゼットの衣類を全部パリの質屋に入れ、幼い彼女を女中としてタダ働きさせて精神的に虐待する一方で、ファンティーヌに《養育費》と称して様々な理由をつけては金をせびり続けた。だが、コゼットを預かってから5年が過ぎた1823年のクリスマス・イヴに、白髪の謎の男が宿屋を訪れる。できる限り金を搾り取ろうと大金をふっかけるが、コゼットに関わることであればどんな法外な金額にも応じる『謎の男』ジャン・ヴァルジャンに驚き、コゼットを1500フランで引き渡す。しかし、15000フランでも応じたかもしれない金持ちらしき男に、当時抱えていた借金とほぼ同額の額面でコゼットを「売って」しまったことを、彼は後後まで後悔することになる。
その後1824年から1826年の間に[7]宿屋が破産したため一家でパリに移住し、ジョンドレット (Jondrette)と名乗るようになる。ゴルボー屋敷[8]の屋根裏部屋に住み、悪事を働く一方で、善人と思しき人物宛に手紙を書いては娘たちに届けさせるという、乞食まがいの生活をして暮らす。
1832年2月3日、手紙を読んで自宅を訪れた『ルブラン氏』ことヴァルジャンから大金をせびり取ろうと、モンパルナッス以外の『パトロン=ミネット』の主要メンバーとともに自宅に彼を監禁するが、ジャヴェールの手で家族や仲間とともに検挙されてしまう(=『ゴルボー屋敷待ち伏せ事件』)。
『パトロン=ミネット』のメンバーとともにラ・フォルス監獄に収容されていたが、息子ガヴローシュらの助力で脱獄に成功。のちに『男爵になり損ねた男・テナール(Thenard)』として、コゼットと結婚したマリユスの前に姿を現すが……。
脱獄を助けた息子ガヴローシュの顔を覚えていない上に(※暗い中で見えなかったこともあるだろうが)、感謝の言葉ひとつかけなかった。その後は下水道に潜伏し、警察の追っ手から逃れていた。六月暴動で重傷を負ったマリユスを抱えたジャン・ヴァルジャンと交渉するときも、ヴァルジャンが持っていた金を「山分けしよう」と言いながら独り占めし、ヴァルジャンとの遭遇を自分が有利になるような口実にしようとした。
『テナール』と名乗った彼は、マリユスに嫌悪感をもって出迎えられた。妻と娘を連れて植民地の村へ向かうために2万フラン欲しいと言って、ジャン・ヴァルジャンの悪党ぶりを証明しようとする。しかし、かえってそれはヴァルジャンの偉業をたたえることになってしまい、彼の立場を悪くする結果につながる。それはマリユスを激昂させる結果となるが、アメリカでもらえる2万フラン[9]の手形と大量の紙幣をせしめることができた。その金で唯一生き延びた家族・アゼルマと渡米するが、そこでも身を持ち崩し、最終的に奴隷貿易に身を投じることになる。
1815年、マリユスの父ジョルジュをワーテルローで助けたのは、兵士の遺留品をかっぱらっていた時に偶然生きていただけにすぎなかったからだった(そのとき、ジョルジュの持ち物もかっぱらっている)。ちなみに、マリユスに教えられるまでは、命を助けた人物は『将軍』だと思い込んでいた。
テナルディエの妻(ファーストネームは不明)。宿屋のおかみ。赤あざでデコボコした顔に口ひげをはやした、口八丁手八丁の恰幅の良い大女。夫よりは12〜15歳ほど年下である。窓ガラスや家具すら震え上がるほど響く声と、くるみを一打で叩き割るほどの怪力の持ち主。夫に負けず劣らずの悪党だが、息子ふたりを売るときに一抹の寂しさを覚えたこともあり、若干の良心は持っている模様。
自分の娘は可愛がるが、自分の息子や他人の子供には愛情を持てず、夫しか怖がらない偏った心の持ち主。それゆえに、里子のコゼットに無茶な肉体労働をさせたり、顔面を殴ったりするなど肉体的な虐待を加えた。ゆえにコゼットは彼女を極端なまでに恐れた。
1800年代初頭に有名だった作家ピゴー・ルブランやデュクレー・デュミニルの書いた、淫猥でくだらない小説をよく読み、娘たちに読んでいた小説の登場人物の名をつけ、おめかしさせて、荷馬車にぶらさがった大きい鎖でできたブランコで遊ばせていた。しかし、息子のガヴローシュが泣き続けても、彼女は「くさくさしちまう」と言って放置し続けた。
実はガヴローシュの弟をふたり産んでいるが、手持ち無沙汰であったため、1823年、パリ在住の悪女マニョンに月10フラン[10]の貸賃で息子たちを売った。
その後、夫や子供たちとともにパリに移住。娘たちには愛情を注いでいたが、夫への愛情は冷めていった。ゴルボー屋敷での一件で夫や娘たちとともにジャヴェールに逮捕され、みじめな最期を迎えることとなる。
ネタばれに注意: ここには、テナルディエ夫人に関する、作品の 「核心」 に至る内容が記述されています。
『ゴルボー屋敷待ち伏せ事件』では、男たちが次々と降参する中、最後までジャヴェールに抵抗した。が、結局、先に逮捕されたふたりの娘の身の上を嘆きながら、夫と一緒に逮捕される。サディズムの語源となったサド侯爵も収監されたサン・ラザール監獄にて、予審中に獄死した。
テナルディエの長女。本名はエポニーヌ・テナルディエ(Eponine Thenardier)。エポニーヌはユリウス・サビヌスの妻エポニーナ(Eponina)のフランス語形で、女神エポナに由来する名。
テナルディエ一家のなかで唯一フルネームが紹介されている、栗色の髪の毛の少女。1815年の終わりに生まれたので、コゼットとは同い年である。母親の寵愛を受けて育ち、コゼットを軽蔑した。幼い頃はきちんと教育も受け、村娘ではなく町娘と思われるほど綺麗な格好をしていたので愛らしかった。貧民としてパリに移り住んでからは、父親の悪事を手伝い何とか生きている。
1832年2月2日の夕刻、妹アゼルマと一緒に警察から「ヅラかっている」最中に落とした手紙がきっかけでマリユスと知り合う。マリユスに恋心を抱くが、そのときすでに彼の目はコゼットに向けられていた。それでも彼女は、マリユスの恋の相手がかつて女中であったコゼットとは知らないまま、マリユスのために影となり、彼の恋の成就を手助けしたり、彼の知り合いの世話をしたりする。一度はプリュメ通りの家でコゼットとマリユスが会っていたときにテナルディエとパトロン=ミネットの4人の頭とブリュジョンが押し入ろうとしたところを命がけで守ったこともあった。
それらはすべてマリユスの笑顔が見たかったからなのであるが、その気持ちに気づかないマリユスは、彼女に笑顔を見せると約束していてもその約束などすっかり忘れ、笑うかわりに5フランを与えた。しかしそんなことがあっても決して彼への気持ちはさめなかった。その過程で、かつては口にしていた隠語も喋らなくなり、みずぼらしい身なりをしていても美しく見えるようになっていく。
ヴァルジャンに『出て行け』と書かれた手紙を投げ込んだ謎の人物の正体は彼女である。彼女は作業服を盗み、男装して、プリュメ通りに現れたのだ。マリユスに六月暴動への参加を促し、ロマルメ通りでコゼットからマリユスあての手紙を受け取ったのも、バリケードにすべりこんだマリユスを1発の銃弾から護るために身を挺したのも、すべて彼女であった。
彼女がマリユスを暴動に誘い出した背景には、「現世で結ばれないなら、同じ場所で死にたい」という、マリユスを愛する彼女のいじらしさが現れている。コゼットからの手紙をマリユスに渡したのも、彼の前では“行いの悪い貧乏人”ではなく、愛する人をあざむかない“純粋な女”であり続けたかったからであろう。
彼女の手のひらと胸を貫通した銃弾は致命傷となり、1832年6月5日の夜、最期のときに自分の思いを打ち明け、マリユスに看取られながら、本望のままこの世を去る。約束通りマリユスに自分の額に接吻してもらった。16歳という若さだった。
テナルディエの次女。褐色の髪の毛の少女。母親に『ギュルナール』(Gulnare)と名づけられてそうになっていた。エポニーヌと共に母親から溺愛され、姉や母と同様にコゼットを見下した。貧しさで身を持ち崩した彼女は、姉と一緒に父親の悪事を手伝っていた。ヴァルジャンが家を訪れる前、窓ガラスに片手を突っ込まされて大怪我をしたこともある。が、その数時間後に発生した『ゴルボー屋敷待ち伏せ事件』で、最初に逮捕される。
のちに逮捕されたエポニーヌと一緒にマドロンネット監獄に収容され、《証拠不十分》として釈放された後、どう生きてきたか詳細は知られていない。が、身を焦がす恋愛をしていない彼女は悪の道に走っていたことだけは確かで、低俗な隠語を喋り、父にもぞんざいな口をきいていた。1833年のマルディ・グラ限定で警察の下司女(下級女役人)として働かされていた。しかし……。
マルディ・グラの時、顔に黒いヴェールを身につけた下品な少女として登場。父の依頼を嫌々ながら引き受け、コゼットとマリユスの婚礼馬車の後をつけることになる。その後の詳細はテナルディエの項を参照のこと。
パリの路上でたくましく生活する典型的な浮浪児。色白で、ひ弱そうだったが、陽気な性格でいつも歌を歌ったり、はしゃいだり、たえず人をからかったりしている。しかし、同時にこの上もなく暗くうつろな心を抱いている。
1820年の冬にテナルディエの長男として生まれる。エポニーヌとアゼルマの実弟だが、両親(とくに母親)に愛されず放置された。しかし彼はそのことを特には気にしていないらしい。というのも、別に誰も恨んではいなかったし、親とはいかなるものかを理解していなかったのだ。それでもやはり親が恋しかったのであろう、父親の脱獄に手を貸したときには父親が自分に気がついてくれるのを期待してか、しばらくそばの石に腰を下ろしていた。が、目もくれなかったため彼はそのまま立ち去って行った。
そんな親の愛を知らない哀れな子供ゆえ、家族とパリへ出てからはバスティーユ広場の巨大な象の建造物の腹の中が彼の住処となり、日の明るいうちは路上で過ごすようになる。三ヶ月に一度くらいは家に帰ってくるのだが、歓迎されずにいるため、またもとの往来へと戻っていく。だが、『ゴルボー屋敷待ち伏せ事件』で、帰る家とそこにいるはずの家族をなくしてしまった。
冬でも麻のズボンをはき、大人物のどたどたと音のする靴を履いている。まったく大人を怖がらず、モンパルナッスをはじめとするさまざまな悪党や、『ABCの友』のメンバーたちと付き合っている。役者の知り合いもいて、姉のエポニーヌに芝居の切符をあげたりしている。ナヴェ(Navet)という浮浪児仲間もいる。
歌のレパートリーは幅広く、ラ・マルセイエーズ、流行のシャンソン、彼が作詞した即興替え歌、まったくのオリジナルなどをいつも歌っている。タンプル大通り界隈の大人たちからは『プティ・ガヴローシュ (Petit Gavroche)』(小僧ガヴローシュ)と呼ばれ、邪険に扱われる。
ちなみにガヴローシュという名前は本当の名前ではなく、彼の父親が偽の名前を使っていたのをまねして「ガヴローシュ」と妙な名を名のっている。ユーゴーはこのことを「何らかの理由で素性を隠すため、本名を断ち切ってしまうのが惨めな家族の本能みたいなものである」と語っている。
一度床屋に施しものをねだっていた幼い7歳と5歳の兄弟に白パンをおごってやり、自分の住処に泊まらせてやったのだが、実はその兄弟は自分の弟たちであった。結局、彼らはお互いにそのことを知らないまま別れてしまった。
実はマリユスはガヴローシュを救おうとしていたのである。マリユスがエポニーヌから手紙を受け取った後の6月5日12時頃、自分の父を結果的に救ったテナルディエの息子ガヴローシュを救うため、コゼット宛に書いた手紙をガヴローシュに持たせ、すぐにバリケードから出て、翌朝コゼットに届けるよう指示する。しかし、最後まで戦いたいガヴローシュは手紙をさっさと届けることにし、ロマルメ通りでたまたま出くわしたジャン・ヴァルジャンに手紙を厄介払いした後、田舎者から荷車を盗んだり、軍曹といざこざを起こしたりなど、好き勝手にやって、戻って来てしまう。
結局、1832年6月6日、「この防塞には10個ばかりの弾薬しか残らないだろう」――アンジョルラスのその言葉を聞いたガヴローシュは、カゴを手に、敵側が落とした弾丸を拾うために散弾が飛び交う中をバリケードの上を動き回った。初めはその小さい体と、霧のようにたなびいている硝煙のおかげで、敵に見つかることなく通りのかなり向こうまで進むことができたが、進みすぎてしまい、敵の格好の標的にされてしまう。しかし彼は少しもひるまず、帰ってこようとしなかった。
当時ひそかに流行していたシャンソンの替え歌のルソーやヴォルテールを愚弄する歌をうたい、敵の銃弾から華麗に身をかわしながらまるでギャマン[11]の妖精のように弾を拾っていたが、途中で2発の銃弾を受けてしまう。1発目では何とか起き上がり、両手を高々と上げて、また歌を歌い始めたのだが、歌が終わらぬうちに、2発目を受け、バリケードの上で絶命。まだ12歳であった。
パトロン=ミネット (Patron-Minette, 子猫男爵) とは、1830年-1835年にかけてパリで暗躍した悪党集団。4人の頭を中心に構成されている。『パトロン=ミネット』という名は、朝に仕事が終わるという意味からつけられた。彼らは夜に頃に目を覚まし、ラ・サルペトリエール救護院 (Hopital de la Salpetriere) の近くの草原に集まり、そこで会議を開く。そして、ひと肌ぬぐ必要があり、金になる悪事ならば、4人の頭はそれぞれ必要なだけのを手下を他の頭に貸して(頭自身も参加して)悪事を働くのだった。
頭のひとり。自称:化学者。ひよわで薄っぺらい身体をしているが、気取り屋で饒舌で動作が大げさな男。道化役者をやったり、『国家の元首』の石膏や肖像画を売ったりしてきたが、家族を故郷に捨て、立身出世のために単身パリへやって来た。ひとくせもふたくせもある男で、心の奥底で何を考えているか全く分からない。
1832年2月3日の、いわゆる『ゴルボー屋敷待ちぶせ事件』で逮捕され、テナルディエらとともにラ・フォルス監獄に収容されたが脱獄に成功。
『パトロン=ミネット』の頭のひとり。年齢は40歳弱で、ラルシュ・マリオン通りの下水道を隠れ家にしている。6フィート(約183センチ)もある身の丈と大理石のような胸板、青銅のような腕の筋肉、巨人のような胴と小作りの頭……それから怪力の持ち主で、ヘラクレスを思わせる男である。が、怠け者で働こうとは思わず、代わりに人殺しを平気でやってのけていた。
1815年のブリューヌ元帥暗殺事件が起きたとき、現場となったアヴィニョンで人夫の仕事をしており、暗殺に関わったと考えられている。
『パトロン=ミネット』の頭のひとり。夜になると穴から出てきて、朝になると穴に帰る『闇』のような正体不明の男。「クラクスー」という名前はあだ名で、本名は誰も分らない。本人いわく『パ=デュ=トゥー』 (Pas-du-tout, 皆無)。光を向けられると仮面をかぶり、腹話術で他人と話をした。仮面の下の素顔を見たものはおらず、本当に顔があるのかどうかすら疑われた。
『ゴルボー屋敷待ちぶせ事件』で逮捕されるも、ラ・フォルス監獄へ搬送中に行方不明となる(ちなみにこの事件では顔を見せ、本当の声で笑っている)。六月暴動以降、彼のその後を知る者はいないというが……。
『パトロン=ミネット』のひとり。まだ二十歳を迎えていない美少年。つねに流行の服を身にまとう伊達男で、「おしゃれをするため」に犯罪を犯し、「どろぼう」になりたい『のらくら者』。女性的でしなやかだが、残忍な性根の持ち主。もとは浮浪児だったが成長段階で犯罪(とくに殺人)に手を染め、18歳の段階で多くの人間の命を奪っていたことから、世間に恐れられていた。あらゆる悪徳を身につけ、あらゆる罪悪に憧れ、最大の罪に飢えている。
『ゴルボー屋敷待ちぶせ事件』では、外で見張りについていたエポニーヌと話し込み、彼女が逮捕される前にその場を立ち去ったため、唯一警察の追っ手から逃れることができた。
『パトロン=ミネット』の腹心のひとり。プランタニエ(Printanier)、ビグルナイユ(Bigrenaille)という別名を持つ。タバコを好む。
3人の頭とふたりの仲間とともに『ゴルボー屋敷待ちぶせ事件』に加担するが逃げ遅れて逮捕され、そのまま判決を受ける。
『パトロン=ミネット』の腹心のひとり。父親も犯罪者。うわべは暗愚で愚鈍に見えるが、実は機敏でこざかしい若者。
パンショーらとともに『ゴルボー屋敷待ちぶせ事件』に参加するも逮捕されてしまう。しかし、刑吏を油断させたところで脱獄を決行する。
パンショー、ブリュジョンらとともに『ゴルボー屋敷待ちぶせ事件』に参加するが、ひとり酔いつぶれてしまい、あっけなく逮捕されてしまう。
監獄間の仲介役を務める悪女。かつてはジルノルマン邸で女中『ニコレット』として働いていたが、ジルノルマン氏をゆすり、彼から『ふたりの息子たちの養育費』として月80フラン[12]という大金をせしめていた。が、1823年の春、流行病で息子たちを1日で喪ったため、テナルディエ夫妻の幼い息子ふたりを買った。これ以後、
テナルディエの息子たちとイギリス人の女泥棒ミス嬢(Mamselle Miss)とともにクロシュペルス通りで暮らしていたが、1832年の春、警察の強制捜査のメスが入れられ、ミス嬢と一緒に逮捕されてしまう。子供たちは彼女たちの逮捕に気づかなかった。
ABCの友 (Les amis de l'A B C) とは、成立してから間もない共和派の秘密結社。『ABC』とは、民衆(Abaisse)を意味し、民衆の向上を目的に結成された。メンバーの大部分は、労働者と学生たちであった。活動拠点はル・シャンヴルリー通り(rue de la Chanvrerie,現在のランバントゥー通り)の居酒屋コラント(Corinthe)とサン・ミッシェル通りのル=カフェ=ミュザン(le cafe Musain)である。主なメンバーは次で述べるが、孤児であるフイイー以外は、家族に王党派や正当理論派の人間がいた。
『ABCの友』に所属する若作りで天使のような容姿端麗の22歳の青年で、結社の首領。富裕な家庭の一人息子。一徹な理想主義者として革命の論理を代表し、マリユスのボナパルティズムの主張を諭す。革命についてはかなり詳しく、些細なエピソードまで知っていて、それについてあたかも自分がそこにいたかのように語れる。その美貌のなかに、司教と戦士の性格を併せ持つ。彼にとって祖国は恋人であり、祖国と革命が青春のすべてになっている。
1832年6月5日、ラマルク将軍の葬儀のあった夜、他の共和派と共に決起し、居酒屋コラントを中心としてバリケードを築き、マリユスらとともにバリケードに立て篭もって暴徒たちを指揮する。後にこの暴動は六月暴動と呼ばれるようになる。
『ABCの友』に所属する青年で、結社の哲学面での指導者。『シトワイヤン』(Citoyen、公民という意味の革命用語)が好きで、人間そのものに愛着を感じている。教育問題に最大の関心を抱いており、教育および道徳水準の向上を社会に願っていた、空想的なまでに思索的な男。マリユスのボナパルティズムの主張を「自由になること」の一言で捻じ伏せた。
仲間とともに六月暴動に参加し、バリケードを作る際はアンジョルラス・クールフェラックとともに指揮を取っていた。
マリユスの『親友』のひとりで、『ABCの友』に所属している学生。結社の中心的存在。その素養たる人間的な丸みと喜色を持っている。コゼットの実父トロミエスに似ているところはあるが、最大の違いは義侠心にあふれているところである。父親は『ド・クールフェラック(de Courfeyrac)』という貴族の姓を名乗る地方の名士。マリユスを『ABCの友』の仲間に引き入れた。ジャン・ヴァルジャンを『ルブラン (白髪) 氏』 と命名した張本人。
『ABCの友』に所属する、心優しくて情が深いロマン主義派の学生。自らを『ジュアン』と呼ぶ。文学に精通し、東洋語学も大学教授クラスの領域までマスターしている。社会問題を日々探求する一方で、自然をこよなく愛している。アンジョルラス同様、金持ちの一人息子。善良で繊細な性格のため臆病に見えるが、実は大胆な性格の持ち主。
孤児として育った扇作りの職工で1日3フラン[13]ほどしか稼げないにも関わらず、独学で諸言語を覚えた努力家。『ABCの友』に所属している民族主義者で、「世界を救済する」ことを唯一のモットーとしている。大らかで、深い包容力の持ち主だが、『祖国を持たない人間』がいてはならないと考えており、1772年(=ポーランド分割)を激しく憎悪している。
革命以外の暴動や騒動が大好きで、11年間大学生を続けている裕福な農家出身の放蕩息子。おしゃべりで浪費家で無謀に近い大胆さを持つ裏で、見かけによらず深い洞察力と思索を持っている。法学部に属しているが「決して弁護士にはならない」というのをモットーにしている。『ABCの友』に所属し、様々なカフェに出向いては他の団体とのパイプ役となって活躍している。
六月暴動にはもちろん参加し、バリケード作りに精を出す。『ABCの友』のメンバーで一番最初に絶命した。
郵便局長の息子で、25歳にして禿げている法学の学生。南部出身ではない唯一の人物。親しい友達にはボシュエ (Bossuet)と呼ばれている。『ABCの友』に所属し、マリユスがクールフェラックと友人になる最初のきっかけを作った人物でもある。学はあるが、何事も成功しないのが彼の十八番で、父の持っていた畑と家を投機でなくしてしまった。
六月暴動に参加。ジョリー、グランテールとともに居酒屋コラントにおり、ル・シャンヴルリー通りにバリケードを設けるきっかけを作った。
『ABCの友』に所属する23歳の神経症気味でありながら、はしゃぎ屋という極端な性格を持つ医学生。脈拍を取り、血流を気に病み、鏡で自分の舌を観察するのがクセになっている。自分の名前に「L」を4つつけて、『ジョルルルリー』(Jolllly)と呼ばせていた。ステッキの先を鼻につける、知恵のある者独特の癖がある。自宅には宿なしのレーグルがしょっちゅう泊まっていた。
『ABCの友』に所属する無政府的懐疑主義の大酒飲みの学生。うぬぼれが強い。パリで学問をしている間に魚料理やビリヤードの名店を次々と開拓していった男。本人に嫌悪されても、自分が持っていないものを己の内に有したアンジョルラスをひたすら崇拝する。六月暴動の際はレーグル、ジョリーとともに酒を飲み、他のふたりをよそにずっと酔いつぶれていた。
マリユスの『親友』のひとりで、パリ郊外のオーステルリッツ村の田舎家に住み、藍の研究に没頭する老人。マリユスの父ジョルジュの数少ない賓客のひとり。兄はジョルジュの住むヴェルノンの主任司祭であった。老女中のプリュタルク婆さん(la mere Plutarque)と一緒に暮らしている。植物研究家で、サン・シュルピス教会堂の理事をつとめていた。が、兄の死、破産……と様々な不運により、無一文になっていったため、理事の職を辞し、オーステルリッツに定住した。
しかし、藍の研究が思うようにうまく行かず、大切な書物すら売ってしまうほど困窮した彼は、六月暴動に参加。そこで彼は意外な行動に出る。
マドレーヌ氏設立の診療所で慈善看護婦として働くラザリスト会修道女。若さも老いも感じない外見の持ち主で、沈着冷静で上品かつ芯の強い女性。必要最低限のことしか喋らない。ファンティーヌを看護し、その死を看取る。
モントルイュ=スュール=メールに住む老人。公証人というれっきとした職を持つ自分が没落していく一方で、いち労働者に過ぎなかったヴァルジャンが成功を収めていったため、彼を敵視していた。
やがて破産し、荷馬車引きとして働いていたある日、雨にぬかるんだ通りで馬車が倒れて下敷きになったが間一髪でヴァルジャンに助けられる。これをきっかけに膝を悪くしたため、パリのプティ・ピクピュス修道院の庭師の仕事を与えられる。
ユルティーム (Ultime)という名前の死んだ弟がおり、「以前助けてくれた礼に」と、パリに逃げてきたジャン・ヴァルジャンを弟ユルティームとして、コゼットを姪としてプティ・ピクピュス修道院に迎え入れる手はずを整えてくれる。
モンフェルメイユ在住の年老いた道路工夫。警察の監視下におかれており、職にありつけなかったため政府が道路工夫として雇っていた。
その丁寧すぎる態度と自身を卑下した言動、それに憲兵に対する態度から、モンフェルメイユの人々から「元徒刑囚」、「盗賊団の仲間」と疑われている。人並みだと思われるところは酒飲みだということぐらいである。記憶力は良いが間抜けな男。テナルディエとも付き合いがある。
ヴァルジャンが60万フランの財産を隠すためにモンフェルメイユの森に入るところを目撃してからというもの、“森の財宝”の存在を信じるようになる。やがて、パリに出た彼はパトロン=ミネットの手下として『ゴルボー屋敷待ち伏せ事件』に参加するが、酔っ払って眠ってしまう。釈放された後、ふたたびモンフェルメイユに戻って道路工夫や荷物泥棒の仕事をしていたが……。
ナポレオン軍の少佐。王党派のジルノルマン氏の次女と結婚し、1810年にマリユスの父となる。ワーテルローの戦いの最中に手柄を立て、ナポレオンから直に陸軍大佐に昇進し、男爵の地位を貰ったが、戦後政府に無効にされる。ワーテルローで重傷を負い、死にかけたところを『軍曹』テナルディエに“救われ”、彼を命の恩人であると思う。同時期に妻を失い、義父ジルノルマン氏にマリユスと会うことを禁じられた。しかし、伯母に連れられて教会へ礼拝に来るマリユスをじっと見守り続けた。
その後、ヴェルノンの橋の近くに家を構え、セーヌ川沿いに美しい庭園を築く日々を送るが、1827年、肺炎を患い、17歳になったマリユスが自宅にやって来た直後に、一通の遺書を残してこの世を去る。
彼のモデルとなった人物は、ユーゴーの父ジョセフ・レオポルド・シジスベール・ユーゴーであろう。ジョセフ・レオポルドはナポレオン1世のもとで軍人として戦い続け、スペイン貴族の資格まで与えられた有能な男であった。しかし、戦後政府によって名誉を剥奪され、一介の大隊長に過ぎなくなってしまう。
マリユスがジョルジュと離れて暮らしたように、ユーゴー自身も成長するまではジョセフ・レオポルドと離れて暮らすことがほとんどだった。しかし、ユーゴーが世に認められてからは付き合いが増え、ボナパルティズムや父の生き方を理解していくようになる。
マリユスの祖父にあたり、母親の違う二人の娘がいる(次女はすでに死去)。フィーユ・ドゥ・カルヴェール通り6番地の邸宅に住んでいる、2番目の妻に財産のほとんどを食いつぶされたブルジョワ。90歳を過ぎても、物言いも身のこなしもしっかりしている。洗礼名の『リュック=エスプリ』とは「使徒ルカ・聖霊」という意味をもつ。
好色家の社交人として知られ、ふたりの妻とたくさんの情婦を持っていたが、現在は50歳過ぎの長女ジルノルマン嬢 (mademoiselle Gillenormand l'ainee)や、バスク (Basque)を始めとする召使、全員まとめてニコレット (Nicolette)と呼んだ女中とともに暮らしており、元女中のマニョンに『息子』ふたりの『養育費』を支払っている。
1789年(=フランス革命)を心底憎み、ナポレオンの下で働く次女の夫ポンメルシーを勘当同然に扱うなど、生粋の王党派のため、後にボナパルティズムに走ったマリユスとも対立してしまう。
しかし、心の底からマリユスを可愛がっていた彼は、六月暴動をきっかけにマリユスと和解する。さらに自身の政治上の主張も捨て、マリユスが『男爵』と名乗ることを許した。しかも、一度反対したコゼットとの結婚を快諾し、彼女の美貌と境遇を心から絶賛した。
彼の存在には、ユーゴーの母ソフィア・トレヴュシェが大きく関わっている。ソフィアは王党派であり、それゆえ夫であるジョセフ・レオポルドと仲違いを起こすことが多かった。心の底からユーゴーの才能を認め、心の底から彼を愛する一方、彼の妻アデールとの結婚は猛反対していた。理由は身分差。その断りようから、アデールの両親にひどく嫌われたという。
しかし、ユゴーとアデールの交際がいったん止まってからしばらくして、ソフィアは永眠。ジルノルマンに母を投影することで、ユゴーは「こんな形で結婚を喜んで欲しかった」と想いながら、マリユスとコゼットの結婚の過程を書いたに違いない。
ジルノルマン氏の甥の子で、マリユスのまたいとこにあたる陸軍中尉 (lieutenant)。槍騎兵。美しい青年将校で、普段は家を離れ、兵営で暮らしている。長女のジルノルマン嬢にたいそう気に入られているが、見識が軽薄でうぬぼれ屋で礼儀がなっていないため、大伯父のジルノルマン氏には嫌われている。また、コゼットからもあまり良く思われていない。
本作は最初、パリとブリュッセルで発売された。というのも、ユーゴーは当時、フランス第二帝政およびナポレオン3世を拒絶したため、祖国を追放されてしまい、ベルギーを経て、イギリス王室領ガーンジー島にて亡命生活を送っていたからである。
本作の売れ行きが悪ければ、ユーゴーはペンを置く覚悟をしていた。が、発売当日は長蛇の列ができ、本作は飛ぶように売れた。一般人はもちろん、数人の仲間から本代を集めた低所得の労働者たちの多くも列に加わり、本作を買っていった。労働者たちは仲間に本作を貸し合い、回し読みしたといわれている。
ヴィクトル・ユーゴーは当初、本作の売れ行きを心配し、出版社に「?」(売れてる?)とだけ記した問い合わせの手紙を出し、「!」(売れて売れて!)とだけ記された返事を受け取ったといわれる。これは、世界一短い手紙であると言われている。
ちなみに、ユーゴーは本作の発表より前に何作か作品を完成させているが、出版社側は本作の完成のほうを待ち望んでいた。
20世紀初頭以来、数多くの作品が制作されてきた。ここではその一部を挙げる。原題はいずれも“Les Miserables”。
『噫無情』(1925年 フランス) アンリ・フェスクール、ルイ・ナルパ監督・脚本、ガブリエル・ガブリオ主演
『レ・ミゼラブル』(1957年 イタリア、フランス) ジャン=ポール・ル・シャノワ監督、ジャン・ギャバン主演
『レ・ミゼラブル』(1996年 フランス) クロード・ルルーシュ監督、ジャン=ポール・ベルモンド主演
テレビ映画、ストレートプレイの舞台などが数多く作られている。テレビ映画では1978年にアメリカで製作されたリチャード・ジョーダンのヴァルジャン、アンソニー・パーキンスのジャヴェール、ジョン・ギールグッドの司教、イアン・ホルムのテナルディエという物もあるが、フランスで2000年に製作されたミニシリーズ(全4回)は19世紀フランスの街並みを再現し、膨大な衣装やエキストラを投入した規模の大きなドラマ化となった。主演はもともと98年映画版に出演する予定だったジェラール・ドパルデュー。
主要スタッフは、やはりフランスの古典をドラマ化した1998年製作『岩窟王〜モンテ・クリスト伯』と同様、監督ジョゼ・ダヤン、脚色ディディエ・デュコワン、製作ジャン・ピエール=ゲラン、音楽ジャン・クロード=プティ。同作の映画化を熱望していたというドパルデューは、時間の制約から原作の改変・短絡が避けられない映画化に対し時間をかけて忠実に描写出来る長編ドラマのメリットを認め、プロデューサーも兼任した
出演者にも「原作に忠実」と言わしめたほどであるが、ジャヴェールの最期やテナルディエ一家の末路を含む脚色はある。
この他青年期のヴァルジャンをドパルデューの息子ギョームが演じ、修道院長役でジャンヌ・モローも出演している。
撮影時から仏語の台詞、英語の台詞によるテイクを同時収録し、フランスで放映されたオリジナル版は4話合計で6時間、アメリカで放映された英語版は半分の3時間に編集された。日本で発売されているビデオ/DVDはアメリカ版である。
2002年にNHKがフランス版を日本語吹替えで放送した際、「岩窟王」NHK版と同じくドパルデューの吹替えは村井国夫であった。ミュージカル版でジャヴェール役を十年以上演じた後の登板で、一つの物語で相反する2つの役柄を演じた事になる。ミュージカル版にアンジョルラス役で出演した内田直哉も吹替え版ではテナルディエを演じている。
『日本ジャンバルジャン物語/愛無情』(1988年 東海テレビ) 榎木孝明主演 日本版(時代設定:明治〜昭和)として、昼ドラ枠で放送された。
ヴィクトル・ユーゴーの故郷であるフランス制作のアニメ版『レ・ミゼラブル』(監督/チボー・シャテル)があり、日本語吹き替え版のVHSもアートデイズから発売された。(50分×2本)
みなもと太郎の『レ・ミゼラブル』は、小説のパロディとして描かれたギャグ漫画。1973年から1974年まで『希望の友』(潮出版社)に連載された。
コゼットを主人公に設定したテレビアニメ『レ・ミゼラブル 少女コゼット』が日本アニメーション制作で、2007年1月よりBSフジにて放映中。
アメリカ人作家ローラ・カルパキアンによる続編『コゼット』(上・下巻)が三天書房より発売されている。ただし、内容が一部異なっているため、続編というより《アナザーストーリー》となっている。
^ プティ・ピクピュス通り62番地にある常時聖体崇拝を基本思想とするベルナール派修道院。修道院がなくなった後、パリ改造によりリヨン駅になったとされる。なお、プティ・ピクピュス通りという地名はユーゴーの創った架空の地名である。
^ 1823年までは宿屋があり、マリユスが父の遺言に従って宿屋を訪ねた1827年には宿屋は破産していた。
^ ロピタル大通り50番・52番地にある巨大なあばら家。生活苦にあえぐ者ばかりが住まう。管理人はビュルゴン婆さん(mame Burgon)。ヴァルジャンとコゼットが一時住んでいた頃の管理人の老婆(※名称不明)の後を継いだ。
^ “Gamin”。ユーゴーの著作『クロード・クー』で初めて登場した、《浮浪少年》を意味するユーゴーの造語。
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[ 37] レ・ミゼラブル - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%82%BC%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%AB

書きたいことも、書かなければならないことも、書いたほうがいいだろうこともいっぱいある。たとえばグロテスクについて、アナンケについて。しかし、今夜に向き合いたことは、いったい何がレ・ミゼラブルなのか。何が「ああ無情」なのかということのようだ。
むろん『レ・ミゼラブル』にも触れる必要はあるが、それだけでは今夜のぼくの気分はユゴーに向き合ったことにはならないようだ。 無情とだけ向き合いたい。けれども無情なのはジャン・ヴァルジャンではあるまい。ミリエル司教でもない。コゼットとマリユスの別離が無情の主語というのでもなく、また浮浪児ガヴローシュに何かが託されたともかぎらない。時代社会もレ・ミゼラブルで、ヴィクトル・ユゴーその人にもレ・ミゼラブルが沈殿している。
『レ・ミゼラブル』はぼくの子供時代からの愛読書のひとつだが、いつもこの「無情」がぐるぐる回転木馬のように動きまわっていた。
黒岩涙香が翻案した少年少女向け『ああ無情』(初期の標記は『噫無情』。明治35年から「万朝報」に1年間連載)を、中学を含めて3回は読んだ。 しかしそれからずっとたって、岩波文庫の『レ・ミゼラブル』が6冊にもなることを知って、びっくりした(最近、この6冊が分厚い4冊組になった)。これはアレクサンドル・デュマの子供用『巌窟王』が大人用の『モンテ・クリスト伯』では文庫7冊になるのに次いで、びっくりしたことだ。のちに『三国志』『水滸伝』の本体がこの膨張をはるかに凌いでいたのにも驚いた。いや、フランスより中国、と言いたいわけではない。馬琴の『南総里見八犬伝』ということもある。
そのうち、これも少年少女向けの『ノートルダムの傴僂男』としてドキドキしていた『ノートルダム・ド・パリ』を読んだ。これがユゴーと向き合った最初だったろう。
決定的だった。胸を突き上げるような痛切と哀歓、奈落と天界を脱兎のごとく昇降する落ち着かない感情、最も両極に離れあう美醜の二者が一挙に溶融する神秘。それが、まわりまわってノートルダム寺院の石造構造そのものであったという根本結構を提示していたなんて、ユゴーという表現者はいったいどこまで凄いのか、どこまで“知っている”のか。そういう驚きだった。
ついでに言っておくが、のちのちになって感じたのは、ユイスマンスもマンディアルグも、結局は『ノートルダム・ド・パリ』だということだ。 ジョン・ラスキンを読んでいて知らされたこともあった。ひとつは、ユゴーがフランス最大の詩人であったことである。このことも日本ではほとんど知られていない。『静観詩集』は神秘圧倒そのものなのにー。もうひとつは、ユゴーが自然観照においても他を抜きん出て、その岩石や鉱物に満ちた山塊を描いた絵画に、ラスキンがターナーに匹敵する賞賛をおくっていることだった。
さっそく調べまわってユゴーの絵をいくつも見たが、その通り。まさに岩石と鉱物が表現されていた。そこには、あきらかに「グロテスク」(岩塊的観照性とでも訳しておきたい)の本質に迫る表現力が横溢していた。
なんだ、そうか、そうか、グロテスクはユゴーこそが近代における確立者だったのか、と了解できた(だから石造のノートルダム寺院なのである!)。これものちに知ったことだが、このことはガストン・バシュラールもうすうす気がついていた。
しかしユゴーは、このグロテスクを自然そのものがもつ宿命と人間がもつ宿命との対比としても理解した。だからこそ、ノートルダム寺院では聖職者フロロと怪人カジモドが対照されたのである。 というわけで、ヴィクトル・ユゴーはとんでもない。説明がつかないようなことを仕出かしている。
そのユゴーが、400字詰にして約5000枚をかけて「レ・ミゼラブル!」という刻印をした。いったい、どんな暗示だったのか。以下、このレ・ミゼラブルとは何だろうということについて多少の思いを述べる。 まず、ヴィクトル・ユゴーは19世紀フランスそのものだったということを言っておきたい。1802年に生まれて1885年に83歳の生涯を閉じたからではない。 第1に、父親があまりにナポレオン主義者だった。ユゴーが生まれたのはナポレオンが皇帝になった2年前で、そのまますぐにマルセイユ・コルシカ島・エルバ島・ナポリに、ナポレオン軍の将校だった父とともに転居した。
ナポレオンは情熱的なナショナリストであって、王位簒奪者であって、革命簒奪者である。そのナポレオンをユゴーの父が一心に追ったことは、ユゴーを騒動に巻きこみ、ユゴーの思想を形づくった。
第2に、ユゴーが生きたフランス19世紀はその政治体制が史上まれにみるほどに変転きわまりなかった。政治文化も実にめまぐるしく動いた。これは幕末明治の比ではない。トップに立つ者の交替が過激に政治文化をいちいち色付けた。
そのなかでユゴーは父譲りの王党派にいたことで、揺さぶるような激動に巻き込まれる。 どんなめまぐるしさかというと、こうである。 ナポレオンが崩落したのちに王政復古をとげ(1815〜1830)、それが壊れて(七月革命)、オルレアン家のルイ・フィリップによる立憲王政になり、さらに1848年の二月革命で第二共和政になったかとおもうまもなく、ルイ・ナポレオンが出てきてクーデタをおこし、ナポレオン3世となって第2帝政になった。
ユゴーはこのときナポレオン3世に接近した状態にいて、王党派議員にさえなったのだが、やがて関係は冷え、ユゴーはベルギーに引っ込んだ。 ところが、ナポレオン3世はプロシアと普仏戦争をおこしてあっけなく敗退、スダンで捕虜になってしまう。この混沌を突いておこったのがパリ・コミューンの動乱である。ユゴーは政府軍の苛酷な弾圧に怒りを禁じえず、コミューン参加者がベルギーに亡命してくるなら自分が保護するという声明を出した。
こういうめまぐるしい変転のなかで、政治文化そのものがつねに色付きと表情と価値観を変えた。それが、あのフランス革命をおこした自由・平等・博愛の国でおこったのである。これは近代史のなかでもそうとうに特異なことで、このことを勘定に入れないでは、近代フランス文学は一も十もわからない。
このなかでバルザックもスタンダールも、ラマルチーヌもシャトーブリアンも、フローベールもランボーも、その精神を動乱させた。 第3に、19世紀フランスの中葉を飾ったのはロマン主義であって、その中心にユゴーがいたということだ。
フランスにおけるロマン主義は長めに見ると1830年から1930年にまでわたっているが、その最初の絶頂を「フランボワイヤン(真紅)のロマン主義」という。このフランボワイヤンをひっさげてユゴーはロマン主義の頂点に立った。『ノートルダム・ド・パリ』も『レ・ミゼラブル』もロマン主義文学の最高傑作である。
これは何を意味しているかというと、ギリシアやローマに対する憧憬を下敷きにした古典主義も擬古典主義も崩れて(それはディドロあたりで先駆していたのだが)、文学が自国自民族の歴史や文化に回帰しようとしたことをあわらしていた。加えてスタール夫人やシャトーブリアンによってカトリシズムが復活し、その動きをまきこんだラマルチーヌによって王党主義が芽生えた。
日本でいうなら中国的な漢意を捨てて古意に入るということになるけれど、そこはすでにフランス革命をおこした近代ブルジョワ社会があってのこと、またそこにもうひとつの革命であったプロテスタントの宗教革命を意識のうえで切り捨てたあとでの、そういう特色をもったフランス・ロマン主義なのである。
ユゴーの出発点はここにあった。ユゴーが創刊した「コンセルヴァトゥール・リテレール」という雑誌の名前に、このことは端的に象徴されている。これは「文学保守」という意味なのだ。 第4に、政治変転めまぐるしく、ロマン主義抬頭のこの時期は、劇場性と演劇性が芸術文学活動の切り札になっていて、この面でもユゴーは断固として先頭に立っていたということがある。
とくに有名なのはエルナニ事件というもので、七月革命直前(1830)、ユゴーの『エルナニ』がコメディ・フランセーズで初演されて、これが古い文学と新しい文学の衝突現場となった。このときユゴーを奉じる青年たちは劇場のそこかしこに陣取って、沸き上がる野次を制して舞台を圧倒的成功に導いた。
王党ロマン主義はこの『エルナニ』によって確立したといってよい。ついでに言っておくけれど、近代フランスにはこういう“舞台をめぐる闘争の習俗”があるからこそ、アルフレッド・ジャリやトリスタン・ツァラやディアギレフやジャン・コクトーの劇場闘争が、たえず芸術運動の意相を破る突破口になってきたわけである。 第5に、これも書いておかなければならないだろうことだが、ユゴーには降霊術に心酔した時期があった。
上にも書いたように、ユゴーはナポレオン3世の追捕を逃れてベルギーのブリュッセルに引っ込んだのだが、その期間、ジャージー島にも滞在する。 この島は風光明媚な外観とは裏腹に、なんと幽霊が出る島だった。そこへもってきてユゴーをぞっこん気にいった驕奢なジラルダン夫人がここに乗りこんできて、毎夜、降霊術の宴を開くようになった。ユゴーはいささか迷惑げだったのだが、ところがある夜、テーブルが動いた。
それだけでなく、セーヌ河に溺死してユゴーを悲しませていた愛娘の霊が出た。 これでユゴーはすっかり心霊神秘主義に浸っていく。『静観詩集』はこの時期の感覚が言葉になっていて、W・B・イエーツに共感がある者なら、こういうユゴーの詩は見逃せない。
しかし降霊術も、やはりこの時代の典型的な産物なのである。流行だった。ユゴーはこうした19世紀フランスの時代の潮流の大半を呑みこみ、そして晦渋していったのだ。 以上は前提で、こういう背景と体験をもって、ユゴーはまず『ノートルダム・ド・パリ』を書く。
大聖堂司教補佐のクロード・フロロ、大聖堂の前庭で踊るジプシーのエスメラルダ、そのエスメラルダにありったけの純情を寄せる鐘つき番のカジモド。この3人が寺院を舞台に三つ巴に絡まった。
聖職者フロロはカジモドにエスメラルダを攫わせておいて、密かな欲望を成就しようとした。けれどもエスメラルダは王室近衛兵の隊長に心を奪われていて、フロロはそれが許せない。ついにフロロは我が身を制御できずに、策略を用いてエスメラルダを絞首刑にする。そこでカジモドがフロロを殺す。
これは最初にあげた対比された宿命を石造的に描こうとする「グロテスク」の方法をユゴーが独自に文芸獲得したということであって、また「アナンケ」(運命・宿命)の主題にユゴーが立ち向かったということである。
それとともにこの作品で、ユゴーは二つの実験をしてみせた。ひとつは、パリそのものであるノートルダム寺院を舞台にすることによって、ギリシア・ローマ型の古典主義に颯爽と反旗を翻し、これを使わずとも、普遍的な物語が現出しうることを見せた。もうひとつは、もはやカトリックと王党ではない民衆にこそ普遍的な物語が潜んでいるという確信をもったことだろう。
聖職者フロロの追落した欲望を描ききったことは、こうしてユゴーを新たな問題に向かわせる。しかし、そこに待っていたのがレ・ミゼラブルなのである。 このあとユゴーが向かった問題はおそらく「悪」である。それはナポレオン3世の悪であり、社会にすだく悪であり、一人の聖職者を襲う悪であり、自身にひそむ悪だった。
それぞれ吟味のうえに発表された『懲罰詩集』『リュイ・ブラース』『静観詩集』をへて、ユゴーは社会と人間の深淵から聞こえてくる喇叭(らっぱ)の音に、悪が交じっているのを聞き分ける。
この悪はいったい何なのか。どのように悪が排除できないことを認識すればいいものか。 そこで有名な『サタンの終わり』を詩の構造をもって描き切ろうとするのだが、ここには神や天使が出すぎていて、うまくいかない。それをするならダンテではないが、やはりヴェルギリウスの古典に倣うほかはない。
けれども、それはすでに19世紀フランス・ロマン主義が捨てた光景である。ユゴーは『サタンの終わり』を未完のままに放置する。では、どうするか。
こうしてユゴーが選んだのが、この現実社会そのものに巣食った神と悪魔を、天使と闇を、贖罪と宿命を、それらをすべて描ききることだった。 そのためユゴーは『諸世紀の伝説』を書いて、そこに世界の伝説をすべて埋めこんだ模型をつくった。最近は、この詩集こそがユゴー文学の解読の鍵だと騒がれている作品である。
しかしぼくが見るには、これは詩語を懸命に駆使した“世界模型"なのである。これはいってみれば、江戸社会の歌舞伎における『忠臣蔵』なのだ。それならこれに対して、ユゴーはもうひとつの鏡像として『東海道四谷怪談』を書かなければならなかったのだ。
『レ・ミゼラブル』がこうして準備されていく。 さて、ここまで書いてきて、念のために、周辺の文献から『レ・ミゼラブル』についての日本人の論評がどういうものになっているかを、ざっと調べてみた。予想はしていたものの、はたして、ろくなものがない。何ひとつ議論されてはいないといっていいほどである。
そのかわり、よくできているのは要約や翻案だった。黒岩涙香の『ああ無情』がまさにその嚆矢だが、それ以外の子供向けのジャン・ヴァルジャンもよくできている。7、8年前に出版された鹿島茂の『レ・ミゼラブル百六景』(文藝春秋)もユーグ版の挿絵ごとに物語を要約していて、まことによくできていた。
ようするにヴィクトル・ユゴーは日本では物語の作者でしかなかったのである(いや、きっといい評論もあるだろうが、ぼくはちゃんとは知らない)。 むろん物語としては完璧に近いものがある。ただしそれは『アンナ・カレーニナ』が完璧だったことに比較していうと、近代社会がもつ矛盾を描き切ろうとしていたことにおいて完璧なのであって、いいかえれば、その完璧から近代が封じこめたいっさいの矛盾が吹き出るところの用意が周到だったということなのである。 ぼくは、フランス・ロマン主義が古典主義を切り捨てたと言った。ユゴーたちは、フランス語で文芸をするにあたって、古典主義の面倒な規則を離れたのだ。
古典主義では「モ・プロプル」ということを嫌う。そのものずばりを言わないということだ。たとえばハンカチのフランス語は「ムーショワール」だが、これは「鼻をかんでやるぞ」(ムーシェ)という言葉からできている。
こういう言葉を絶対に使わないのが古典主義というものだった。これを「ペリフラーズ」(迂言法)といった。だからアルフレッド・ヴィニーがロマン派の初期の旗手として「ムーショワール」を詩の中で使ったときは、たいへんなスキャンダルになった。
そのほか「アンジャンプマン」(句またがり)や「三単一の規則」など、いろいろがある。これをフランス・ロマン主義は駆逐した。 そこまではいい。問題は、このようにして古典主義のレトリックを捨てたからといって、言葉の暗示性を失うわけにはいかないし、ましてや意味の暗示性を破棄することは不可能だということである。
そこでユゴーが試みたこと、それは現実の出来事をあらわす言葉によって多重な暗示性を取り戻すことだったのである。 ユゴーはあらゆる現実に自ら介入して、その行動や出来事がもつ二重多重の意味を体験してきた。そのために劇場で闘い、議員になり、亡命し、降霊術に耽り、コミューンの志士を受け入れた。
こうした体験は、ユゴーにとってはペリフラーズに代わる言葉そのものであったのだ。それは新たに装着された近代言語による意味の武器だった。それを詩にし、劇にしているうちに、ユゴーは気がついた。
意味の武器による砲列は、まだ誰も体験したことのない相互に矛盾しあう悲劇をつくりだしていることに気がついたのである。
そうなのだ。ユゴーは近代言語による周到な物語そのものを「レ・ミゼラブル」と名付けたのだ。ああ無情とは、つねに言葉がそこへ至れば必ずおこりうる根本矛盾をあばいてしまう最終暗示力のことなのである。 ヴィクトル・ユゴーは、19世紀フランスの人間社会の動向の大半を言葉にしてみせたお化け鏡のようなものだったのだ。
だから、その作品は瞠目すべき「言葉の社会」の出現だったのだ。文学とは、ここまでするのかという出来事だ。 しかしユゴーは、それこそが「レ・ミゼラブル」かもしれないと、そこまで読んでいた。言葉が言葉を殺し、言葉が言葉を救いあう。言葉が言葉を犯し、言葉が言葉を再生する。近代言語による完璧な物語とは、そういうものなのだ。ああ、無情。
最後に一言、付け加えておく。ユゴーの実験は近代文学の究極到達点だった。このため20世紀文学はこれを切り崩し、これを放棄することを課題とした。それは成功した。
ところが、そのうちに、ふたたびユゴーやデュマがもつ物語の悲劇的完璧に再帰しているジャンルが蹴り出てきた。そのひとつがアメリカン・シネマ、もうひとつがニッポン劇画とジャパン・アニメーションである。ああ、無情。

[ 38] 松岡正剛の千夜千冊『レ・ミゼラブル』ヴィクトル・ユゴー
[引用サイト]  http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0962.html



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