唯野とは?

窓の向こうは一面の雪野原。はて、今は真夏なのに。だが何のことはない、よく見るとそれは壁に描かれたスーパーリアルな窓の絵だった。筒井康隆の『文学部唯野教授』は、まるでそんな騙し絵のような小説です。そもそも小説が人物の行為を描く時、ふつうは適度な省略をほどこすものですが、これをなんの省略もせずに描いてみせたらどうなるでしょう。たとえば英文学教授の日常の行為を描くときに、
というたった一行ですますことだってできるわけです。しかしその講義のシーンを一切の省略なしに描いたとしたら、読者はどんな反応をするでしょうか。人の悪い作家、筒井康隆はそんな発想からスーパーリアルなトリックをしかけます。
一切の省略なしに描くと言いましたが、人間の行為を描くのに言葉で完璧にコピーできるのは「言葉を話す行為」だけです。だから主人公の職業は必ずしも大学教授である必要はなく、アナウンサーであっても落語家であってもちっとも構いません。けれども筒井は唯野氏を文学部教授にしなければならなかった。これにはやはり重大な意味があるわけです。唯野氏が英文学の教授であり、彼のおこなう講義の科目が批評理論であるとき、では何が起きるのか。読者の危機です。
とりあえず批評理論らしきものがとり扱われているこのような小説を読むということは、単に文学一般についての我々の姿勢が問われるだけではなく、読者がいま現に読んでいる『唯野』というこの小説への批評的態度そのものが問われることでもあります。批評という言い方が大仰ならば、読み方が問われている、と言い換えてもいいでしょう。同じことです。『唯野』を批評理論の解説書として読むような、よくある読み方の是非もまた問われているということです。いっぽう、批評理論の講義を読ませられる読者は、この時、虚構の講義室の中で唯野氏の講義を聴く受講生のひとりに居ながらにして変容させられてもいるのです。講義の部分を飛ばし読みにでもしないかぎり、このことに否も応もありません。つまりここにおいて筒井康隆は(次にかさねて述べるように)読者を力ずくで受講生にしてしまい、そうすることで小説『文学部唯野教授』への批評的態度を奪いさるという事態をひきおこすわけです。批評が求められながら同時に奪われる、このような奇妙な事態は二重拘束(ダブルバインド)といってもよいでしょう。読者の危機と断言するゆえんです。
筒井康隆が仕掛けた罠、それは講義の場面になるたびにこれが小説であることを忘却させることです。『唯野』の中の講義とは、つまるところ文学作品の「読み」に関するものなのですが、他でもない「読み」に関する講義を読むまさにその時に、読者は小説の読者であることから暴力的に遠ざけられてしまいます。小説の中の一登場人物となって、唯野教授の講義室の片隅にひっそりと座るあなたや私……。そう、受講生に成り下がる読者、というわけです。いや自分に限ってそのようなことは絶対にありえない、と言い切るためには、これがどんな小説なのかを暴き立てるか、さもなくばこの小説を読むのを即刻やめるか、ふたつにひとつの命懸けの選択をしなければなりません。
『近代日本の批評 II 』(講談社文芸文庫)の中で柄谷行人は『唯野』に反アカデミズムを見ています。柄谷ともあろう人が凡庸なことを言うものです。あの筒井康隆が大学を舞台に小説を書けば、どのみちそんな雰囲気のドタバタになるに決まっているではありませんか。これはもう筒井の生理的な体臭のようなものであって、ロラン・バルトが言う意味での文体レベルのものにすぎないのです。『唯野』がやっていることはその程度のものではなく、読者から読者性を奪うこと、すなわち読者を殺すこと、これなのです。唯野教授の講義について、柄谷はそのレベルの低さを指摘しています。しかしすでにお気づきのように、講義の内容自体に大した意味はありません。詮ずるところ、リアリズムの人として柄谷行人もまた罠にはまったというだけのことです。
かつて柳瀬尚紀は筒井康隆との対談(『突然変異幻語対談』河出文庫)で、超虚構の講義が予告されたまま、『唯野』の中ではついに実現しなかったことを残念がっていました。何を残念がることがありましょうか。脚注つきで批評理論をやさしく解説するそぶりだけは過剰に示しておきながら、その実、「読み」をめぐる過酷な試練に読者を突き落とす小説となっている『文学部唯野教授』は、まさに「読み」をめぐる小説であるがゆえに超虚構なのであり、超虚構の講義の予告をしたまま、黙ってこの小説そのものを差し出すという、狡猾な自己言及性においてもまた超虚構なのです。『唯野』が抱え込んでいる小説的な欲望を探し当てるとするならば、それはみずからが超虚構として機能することより他にないでしょう。
筒井のような作家が超虚構の理論をご親切に教えてくれるなどと虫のよいことを考えてはいけません。アンドレ・ブルトンにならってこう言っておきましょうか。筒井康隆は悪意においてシュールレアリストである、と。講義というかたちをとるのではなく、実際に超虚構として機能する場面に読者を立ち会わせること。筒井ならではの強烈な毒はあるものの、小説がとりうる方法として、これはごく真っ当なものではないでしょうか。どこかはもう忘れましたが、インターネット上には、『文学部唯野教授』に出てくる理論のひとつひとつをつぶさに注釈してくれるサイトがあります。書き手は大学の先生です。理論への愛はあるのかもしれませんが、小説への愛という一点において、論外というしかありません。いや、みずから俎上に載せている批評理論のうちのどれかを援用して『唯野』を解読してみようという気配もないので、そもそも理論への愛にしてからが疑がわしいものです。批評理論の批評性ではなく、小説固有の批評性がここで徹頭徹尾追及されていることなど夢想だにしないらしいこのような大学教師の姿勢は、あらかじめ『唯野』の恰好の餌食となっています。その意味ではここに反アカデミズムを読み取ることができるかもしれません。しかしそれはこの小説の「ありよう」においてそうなのであって、柄谷行人のリアリズムの読み方から出てくるしかない反アカデミズムの陳腐さとは徹底して無縁であり、より本質的であるというべきでしょう。
この小説は、そこに描かれた大学教授の腐敗ぶりばかりが話題になって、メタフィクション(超虚構)としての側面が語られることあまりに少なく、そのため、とても不幸な作品となってしまいました。不可避的なことながら、日本の読者層の、リアリズム一辺倒の読みの実態が照らし出される結果ともなっています。筒井康隆は『唯野』より10年ほど前に『大いなる助走』という、文壇を舞台にしたドタバタ小説を書いています。『唯野』の学内政治のドタバタの部分は、実はかたちを変えた『大いなる助走』なのです。唯野教授自身、ペンネームを使って小説を書いている作家でもあるので、『大いなる助走』に描かれた文壇との密かな連接を見てとることができるのですが、とにかく10年も前の古いパーツを持ってきて、この新しい小説に組み込んだ形になっているわけです。古いからといって、どうこう言うのではありません。ただ、くりかえされる大学教授の愚行を、自分だけは安全圏内に身を置いたつもりで笑って見ていたはずの読者が、古いドタバタ小説に自足したまま、いつしか虚構の中の講義室に取り込まれ、いいように支配されてしまう存在として、逆に哄笑をあびせられているのだということに、そろそろ気がついてもよいのではないかと言いたいのです。
批評理論の講義にしても学内政治のドタバタ騒動にしても、超虚構の批評を成り立たせるべく、それぞれの役割を粛々と果たしているにすぎません。ときおり文学理論が好きなひとたちによって、テリー・イーグルトンの『文学とは何か ― 現代批評理論への招待』(岩波書店)という書物と『唯野』が比較検討されたりもするのですが、素朴な元ネタ探しやモデル探しを超えるほどのものを見せてくれたひとがどれだけいたでしょうか。そういえば唯野先生が書いたとされる『海霧』という小説は、筒井のどの小説がモデルなのかという問いを見かけたこともありました。主人公のモデルは作者自身なのだとでも言いたいのでしょうか。どんなに新しい理論で自分を装ってみても、日本の批評が、モデル探しをお家芸とするリアリズムから自由になるのは、なかなか容易なことではないようです。 (1998.6.27)

[ 35] 『文学部唯野教授』を読む
[引用サイト]  http://www2s.biglobe.ne.jp/~ant/tadano.html

女性お笑いコンビ「オセロ」の中島知子が妊婦役にチャレンジ。しかも、その妊婦というのが奇想天外。「十月十日(とつきとおか)」と言われる“出産の定義”を大きく覆し、主人公は何と27ヶ月もの間、お腹の中に子どもを宿す。さらに生まれ出る子どもは、通常であれば1歳半の年令に当たるため、“ハイハイ”はせず、歩行する可能性が高いという。まさにこれは、人類の超進化形。『三年身籠る』は、そんな「前代未聞の出産劇」に、「男と女の関係」や「家族の有り方」などを交えた、オフビートな大人のメルヘンである。
そんな本作で、監督・脚本・原作の三役を務めたのが唯野未歩子。これまで女優として活躍し、『フレンチドレッシング』(1998)や『地と骨』(2004)などに出演。それぞれの作品で独特の存在感を放ってきたが、それは製作側に回っても健在。様々な視点をもって、「人間の根源と性質」にアプローチしている。
__「女優」のイメージも強い唯野さんですが、今回監督をされて、どういうあたりに違いを感じましたか?
ドキュメンタリー番組で、動物の赤ちゃんが生まれてすぐ歩く姿を観て。「人間の赤ちゃんも、生まれてすぐに立ち始めると、女の人は子育てが楽になりそうだな」と思いまして。「そうなったらイイな」という希望ですね(笑)。
初めは、監督をするつもりはなく、シナリオだけを書いていたんです。その後、監督を務めることになり、脚本も二稿ぐらいまで書き上げたところで、小説化の話も出てきて。映画として出来上がり、公開されるまで、本当に3年かかりました。
__それにしてもオセロの中島知子さんの演技が良いですね。そのキャスティングに至る経緯は?
主人公・冬子は、(妊娠のために)すごくお腹が大きくなるし、夫の徹には浮気されるし。でも、それを耐えているような、暗いイメージの女性にはしたくなかった。中島さんは、少女っぽい雰囲気があるし、芯は通っているけどおっとりもしているし。ピッタリだなと。
__あと、出演者である西島秀俊さん、塩見三省さん、お2人とも非常に素敵な男性ですよね。なのに、映画の中では魅力的に見えない(笑)。そこがすごく良かったです。やはり、“引き出し方”があるのかなって。
いわゆる「イイ男」ではないですよね。そして、それをとても自然に演じて下さいました。ただ、(本作に対する)捉え方が、男性は女性とちょっと違うんですよね。内容について話をしたとき、女性の皆さんは「分かった、やってみる」と勇敢な感じだったんですが、男性の方々はコミュニケーションが必要でした。西島さんには、「冬子の妊娠1年目は9歳くらいのイメージで演じて下さい。2年目は中学生、3年目は高校生くらいになるように」とお願いしましたし。
__あと、『三年身籠る』で印象的なのは、何と言っても食事のシーン。その意味合いは、どういうものがあるのですか?
キャラクターの1つですね。女の人がいっぱい集まると、料理をすごくたくさん用意しちゃって、笑いながらそれを食べるとか、夫の料理の腕前が徐々に成長していくとか。そういう風なことを、食べものを通して伝えていこうと。
女性はもちろんですが、男性の方もぜひ。有り得ないような突飛なお話ですけど、笑って観て頂きたい。「家族って何だろう」「男の人は、女の人とどうやって関わっていけばイイんだろう」ということを考えるきっかけになれば。
『三年身籠る』は、ある意味突拍子もないテーマを機軸にしていることから、ややもすれば語り過ぎる部分も多くなる危険性があったはず。しかし、唯野監督自身が非常に日常的なところから着想を得ているためか、演出における装飾は、極力抑えられていている。そのため、とてもシンプルに、そしてダイレクトに、観る側はこの物語を受けとめることができる。それでもやはり、“三年身籠る”という題材そのものに関しては、インパクトが大きい。最後に彼女は、「子どもを“三年身籠る”ことになってしまったら?」という質問に、こう答えてくれた。
『甘んじて受けます(笑)。ただ、いつ生まれるかは、親が決めるのではなく、子どもが決めること。子どもが「外に出られるかな」って考えたときに(出産は行われる)。もし「10歳までいる!」って言ったら、うん、10年でも(笑)』
1973年10月2日生まれ、東京都出身。1994年より矢口史靖と鈴木卓爾の自主製作プロジェクト「ワンピース」15作品に女優として参加。1997年に斎藤久志監督作『フレンチドレッシング』で女優として本格的にデビューし、毎日コンクール・スポニチグランプリ新人賞を受賞する。その後は黒沢清監督作『大いなる幻影 Barren Illusion』、北野武と共演した崔洋一監督作『血と骨』などに出演。また、2003年よりNHKの番組『中学生日記』に脚本を提供している。『三年身籠る』で長編映画監督・脚本家デビュー。同名の原作小説(マガジンハウス刊)も手がけている。
『ケータイ刑事 THE MOVIE バベルの塔の秘密 銭形姉妹への挑戦状』インタビュー

[ 36] eo映画・ドラマ|『三年身籠る』 唯野未歩子監督 記者会見
[引用サイト]  http://cinema.kansai.com/interview/060223_interview2.html



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