静御前とは?
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義経の訃報(ふほう)を聞き郡山市の池に身を投げたとされる静御前伝説を表現した日本舞踊「静の舞」が16日、花柳寿美雄さんによって鎌倉市の鶴岡八幡宮舞殿で披露された。 この舞殿は、約820年前に静御前が離ればなれになった義経を慕いながら「しずのおだまき」を舞った場所。花柳さんの優雅で悲しげな舞に静御前の姿が重なり、悲恋物語に思いをはせた。 静御前が鎌倉は鶴岡八幡宮の舞殿で舞ったのは文治2(1186)年4月8日のこととされる。その後の静御前の消息は長く不明とされたが、820年目に当たる今年10月16日。この由緒ある舞殿で人々は、驚くべき舞台を目の当たりにした。 それは「みちのく安積の里に於ける静の生涯」を伝えるもので、東北を代表する舞踊家の一人花柳あやめ会会主、花柳寿美雄師による「静御前のあさか舞」と古来から郡山市大槻の長泉寺・梅花講が伝える御詠歌「静御前和讃」、それに多田桂禅会が伝承する民謡「静御前節」の三部作が、静御前が舞ったその地で奉納されたからである。 朝からあいにくの雨となったが静御前は、雨ごいの白拍子でもあったのだから当然の日和かもしれない。鶴岡八幡宮・二の鳥居には数日前から「郡山商工会議所創立80周年記念・静終焉の地・静御前堂・静の舞奉納」の大看板が堂々と掲げられていた。 全国には、静御前伝説の地とされる所は23カ所にも及ぶ。だが郡山市が唯一、この聖地である鶴岡八幡宮をはじめ鎌倉市観光協会、全国源氏の会の皆様から認めていただいた。この名誉は、末代まで語り伝えられるのではあるまいか。 開演の迫る2時近くになると雨は小降りになり、秋山住職の教導する梅花講の壮観な和讃も進み、郡山商工会議所の大高善兵衛会頭のあいさつ、鎌倉市観光協会の歓迎の言葉も済んで、いよいよ花柳流の長唄「しずの苧環(おだまき)」が吟じられると、雨はぴたりとやんだ。 師は舞いながら衣装を替え、「奥州へ下る静の旅姿」へと移られた。やがて静は安積・花輪の里へたどり着くが、哀れ静は義経の訃報(ふほう)を耳にし御前淵へと身を投じてしまうのである。 見入る観客は、初めて知るこの場面に大きな驚きと、その優美にして崇高な静の最期に、涙を浮かべる人も一人二人ではなかった。 企画に際しては、大高会頭をはじめ郡山文化協会の今泉正顕会長、開成山大神宮の宮本勝重宮司、鶴岡八幡宮の吉田茂穂宮司、全国源氏の会の福島裕鳳氏、鎌倉市観光協会関係者皆様の並々ならぬご尽力のたまものであったことを明記しておかねばならない。 舞台最後は、毎年3月28日での静御前例大祭に奏される民謡「静御前節」が多田桂禅会の皆さんによって演じられ、一連の奉納の式典は幕を閉じた。 この催しを記念し、静御前堂奉賛会は鶴岡八幡宮ご賛同のもと桜の苗木を境内に植樹し、傍らに「静桜・静御前終焉の地・福島県郡山市」と記した碑を建立。末永い鎌倉市との友好を確認した。 |
[ 114] 静御前ホームページ
[引用サイト] http://www.shizukagozen.gr.jp/mai/top.html
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栃尾市は平成18年1月1日に長岡市と合併しました。旧栃尾市のページは平成17年12月31日以降更新を行っておりません。 「判官びいき」という諺があるように、日本には古くから「九郎判官」と呼ばれた源義経を愛惜する気風が色濃く伝えられています。天才的な戦略で平家を滅亡させながら、様々な誤解から実の兄の源頼朝の意向によって攻め込まれ、31歳で世を去った悲劇の人物「義経」。 私たちの住む栃尾市には、その義経の短い人生を彩った3つの源氏伝承が伝えられています。 義経の寵愛を受けた「静御前(しずかごぜん)」の墓、義経の身代わりとなって死んだ佐藤継信と忠信兄弟の母「乙和御前(おとわごぜん)」の伝承、弓の名人「那須与一(なすのよいち)」が在城した古戸城址…。 栃尾市では、今年、NHKの大河ドラマで「義経」が放映されていることを機会に「ふるさとの源氏伝承」のPRにつとめることになりました。越後が誇る歴史の里「栃尾」。大勢の源氏ファンが栃尾市においでくださいますようお待ちいたしております。 静の母は磯禅尼(いそのぜんに)という※白拍子だったといわれ、静も母と同様に白拍子になり、京の都で舞を舞っていました。生来から際立った美貌の静は、源氏の若大将源義経の目にとまり、その愛妾となります。 ※白拍子(しらびょうし)…平安末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞を歌い舞う遊女 やがて、義経は兄の頼朝の怒りをかって頼朝に追われる身となり、静と別れます。静は頼朝の追っ手に捕らえられ、鎌倉の頼朝の前に引き出されます。頼朝と妻の政子は静に舞を所望し、静はやむなく、扇を手に舞い始めます。 生き別れた義経を慕い切々と歌い舞う静に、頼朝は烈火のごとく怒り刀に手をかけます。その頼朝を妻の政子が「主を思う女心は、女にしかわからないものです」といさめました。政子の言葉に頼朝は怒りを解き、静は命を救われます。 傷心の静は、みちのくの平泉に落ちのびた義経を追って平泉を目指しますが、頼朝の兵たちが厳重に固める太平洋沿いの道は北上できません。そのため、静と従者たちは越後に出て、そこから山中を会津へ抜け、さらに平泉に向けて北上するという長い道のりを選びました。道中には、世情名高い八十里越えの難所があります。ところが長旅の途中、栃堀までやって来た静は病を患い栃堀に逗留することになりました。そして、建久元(1190)年4月28日、従者たちの看護のかいもなく静は若い身空で世を去ります。従者たちは栃堀の里人の手を借りて、小高い丘の中腹に静の遺骸を埋葬し、そのふもとに庵を造って静の霊を守り続けることになりました。この庵が、後の高徳寺であるとされています。 明治の末、静の話を聞き知った小向村のセイという娘が静を哀れみ、自らが機を織って稼いだ金を細々とたくわえ続け、静の供養のための石塔を建立しました。これが、今に残る栃堀の高徳寺の丘に建つ「静御前の墓」に隣接する石塔です。 ちなみに、歌手の三波春夫さんも生前、静御前の芝居をするために静御前の墓の参拝に訪れています。 源氏と平氏の屋島の合戦で、平氏一の剛勇を誇った能登守教経(のとのかみもりつね)が源義経をめがけて放った弓の矢から義経を守って息絶えた佐藤継信(つぐのぶ)。継信の弟の忠信(ただのぶ)は、兄の亡き後も義経の身辺にあって彼の警護を続けていました。やがて義経は兄の源頼朝の怒りに触れ、血を分けた兄に追われることになります。逃避行を続ける義経一行は、吉野山で敵の僧兵たちと戦います。このとき忠信は、志願して僧兵たちと戦って義経一行を無事に逃がす大役を果たしました。ところが後日、忠信も京都で頼朝勢に襲われ落命しました。 碑文には「妙照尼が出羽の国の羽黒神社を勧請したもの」と記されています。 継信、忠信という二人の息子と死別した母の乙和御前は、合戦で死んだ二人の息子を弔うため仏門に帰依し、妙照尼(みょうしょうに)という尼になります。 故郷の福島県信夫の里から越後にやって来て読経に明け暮れていたある晩、妙照尼の夢に羽黒大権現が現われ、「越後に霊場あり。そこに至りて国土を守り、諸人の願望を満たしめよ」と告げました。その地が栃尾市小貫でした。小貫にやって来た妙照尼が、出羽の国から羽黒大権現を勧請して今日の羽黒神社になったとされています。 源氏の勇猛な武士だった息子たちを思う乙和御前の深い愛が心にしみいるとともに、羽黒神社の石段下に建つ古い石碑が過ぎ去った遠い昔を今にしのばせてくれます。 文治元(1185)年2月、天下を意のままに動かしてきた平氏は、源義経の率いる源氏に追われ四国の屋島に陣を張っていました。暴風雨をついて屋島に到着した義経軍は、平氏の背後から猛然と攻めかかりました。不意の敵襲に乱れに乱れた平氏軍はわれ先にと海上へ逃げのび、やがて瀬戸内海の海上に船団を再編成して陸の源氏とにらみ合います。 那須与一が居城したと伝えられている古戸城址(右手前の森)と高徳寺(左奥) そのとき、平氏の船団の中から日の丸を描いた扇を竹ざおに結びつけた一艘の船が漕ぎ出します。「源氏の奴ばらよ、その手の弓矢で見事にこの扇を射抜いてみよ」。いきり立つ陸の源氏。やがての中から一人の武者が弓矢を手に駿馬を海に乗り入れます。武者は下野国(しもつけのくに)(現在の栃木県)那須郡から参戦している那須与一宗高(むねたか)でした。 波間の与一が射た弓の矢は、見事に扇を射抜きました。感嘆する敵味方。弓の名手那須与一が、日本史に名を残した有名な場面です。その後、与一は源頼朝から那須一族の惣領(責任者)の地位や土地を与えられますが、やがて、頼朝側近の梶原景時(かじわらかげとき)に陥れられて謹慎の身となり、越後下田郷の五十嵐小文治に預けられました。小文治は、与一を栃尾の赤谷の古戸城に住まわせたと伝えられています。古戸城は、刈谷田川と来伝川にはさまれた栃尾市赤谷の高台にあったとされ、その城址から静御前の墓が望めます。与一が静御前の墓を守っていたという説もあります。 |
[ 115] 「静御前の墓」 栃尾市の源氏伝承
[引用サイト] http://www.city.tochio.niigata.jp/bunka/gennji/index.html
