あるいはとは?

「あるいは」と私が書くとき、今見つめているもの、向きあっているものが含む何事かを否定しているという気持ちをぬぐいきれず、そして何事かを否定するということは、私に先立って存在するものに対して私の思いを押しつけること、暴力を振るうことであろうから、私が「あるいは」ということばに対して感じた欲情というのは暴力に似ているかもしれないと思うのだが、その暴力とは私が私を守るためにやむを得ずとった手段なのか、あるいは私自身の本能の奥に抑えがたく存在するものが自然にあらわれたものなのか私はわからないし、もし私の奥に存在するものがあらわれたものであるなら、私はそのとき私自身によって暴力を振るわれているのか、あるいは私が私に暴力をふるっているのか、または暴力を振るい、振るわれるという二重の関係を生きているのか判断しかねるが、この判断できないという状況こそが、あるいは欲情に似ていて、その類似性が私に「あるいは」ということばに対して欲情していると思わせているのかもしれないと思うのは、私の欲情というものが、(あるいはあらゆる人間の欲情がそうであるかもしれないが)、冷静に見つめてみると、そこには必ず欲情に身をまかせたいと思う私と、それを抑えようとする私の存在という関係があり、関係のなかでおこなわれるあらゆることがらには作用と反作用の運動があり、そのうねりのようなうごめき、入り乱れによって欲情というものはより煽られるものだと感じ、奔流に身をまかせる側に身をおくか、抑制する側に身をおくかによって、それは違った動きに見えるものだから、それを正確に再現しようとするなら、二重の描写が必要になると気づき、このように考えるのは、私が本当に冷静になったために可能だったのか、あるいはこうした考えは逆に、抑制の効かなくなった頭がかってにでっち上げている嘘なのか、単なることばの疾走なのか、たぶん私以外の人間からみれば明瞭なことがらではあるだろうけれど、他者にとって明瞭であることが私にとって真実であるかどうかは別の問題なので、私はただ考え続けるしかないのであり、あるいはこうした考えるという行為のなかに、あるいは書くという営みのなかに、欲情のあの一瞬に似た快楽を分泌する何かがあって、それが脳を錯乱させ、酔わせているだけのことなのかもしれない。
「あるいは」と私が書くとき、今見つめているもの、向きあっているものが含む何事かを否定しているという気持ちをぬぐいきれず、そして何事かを否定するということは、私に先立って存在するものに対して私の思いを押しつけること、暴力を振るうことであろうから、私が「あるいは」ということばに対して感じた欲情というのは暴力に似ているかもしれないと思うのだが、その暴力とは私が私を守るためにやむを得ずとった手段なのか、あるいは私自身の本能の奥に抑えがたく存在するものが自然にあらわれたものなのか私はわからないし、もし私の奥に存在するものがあらわれたものであるなら、私はそのとき私自身によって暴力を振るわれているのか、あるいは私が私に暴力をふるっているのか、または暴力を振るい、振るわれるという二重の関係を生きているのか判断しかねるが、この判断できないという状況こそが、あるいは欲情に似ていて、その類似性が私に「あるいは」ということばに対して欲情していると思わせているのかもしれないと思うのは、私の欲情というものが、(あるいはあらゆる人間の欲情がそうであるかもしれないが)、冷静に見つめてみると、そこには必ず自分の中の欲情に身をまかせたいと思う私と、それを抑えようとする私の存在という関係があり、関係のなかでおこなわれるあらゆることがらには作用と反作用の運動があり、そのうねりのようなうごめき、入り乱れによって欲情というものはより煽られるものなのだが、奔流に身をまかせる側に身をおくか、抑制する側に身をおくかによって、それは違った動きに見えるものだから、それを正確に再現しようとするなら、二重の描写が必要になるということになるが、このように考えるのは、私が本当に冷静になったために可能だったのか、あるいはこうした考えは逆に、抑制の効かなくなった頭がかってにでっち上げている嘘なのか、単なることばの疾走なのか、たぶん私以外の人間からみれば明瞭なことがらではあるだろうけれど、他者にとって明瞭であることが私にとって真実であるかどうかは別の問題なので、私はただ考え続けるしかないのであり、あるいはこうした考えるという行為のなかに、あるいは書くという営みのなかに、欲情のあの一瞬に似た快楽を分泌する何かがあって、それが脳を錯乱させ、酔わせているだけのことなのかもしれない。
「あるいは」と私が書くとき、今見つめているもの、向きあっているものが含む何事かを否定しているという気持ちをぬぐいきれず、そして何事かを否定するということは、私に先立って存在するものに対して私の思いを押しつけること、暴力を振るうことであろうから、私が「あるいは」ということばに対して感じた欲情というのは暴力に似ているかもしれないと思うのだが、その暴力とは私が私を守るためにやむを得ずとった手段なのか、あるいは私自身の本能の奥に抑えがたく存在するものが自然にあらわれたものなのか私はわからないし、もし私の奥に存在するものがあらわれたものであるなら、私はそのとき私自身によって暴力を振るわれているのか、あるいは私が私に暴力をふるっているのか、または暴力を振るい、振るわれるという二重の関係を生きているのか判断しかねるが、この判断できないという状況こそが、あるいは欲情に似ていて、その類似性が私に「あるいは」ということばに対して欲情していると思わせているのかもしれないと思うのは、私の欲情というものは、(あるいはあらゆる人間の欲情がそうであるかもしれないが)、冷静に見つめてみると、そこには必ず自分の中の欲情に身をまかせたいと思う私と、それを抑えようとする私の存在という関係があり、関係のなかでおこなわれるあらゆることがらには作用と反作用の運動があり、そのうねりのようなうごめき、入り乱れによって欲情というものはより煽られるものなのだが、奔流に身をまかせる側に身をおくか、抑制する側に身をおくかによって、それは違った動きに見えるものだから、それを正確に再現しようとするなら、二重の描写が必要になるということになるが、このように考えるのは、私が本当に冷静になったために可能だったのか、あるいはこうした考えは逆に、抑制の効かなくなった頭がかってにでっち上げている嘘なのか、単なることばの疾走なのか、たぶん私以外の人間からみれば明瞭なことがらではあるだろうけれど、他者にとって明瞭であることが私にとって真実であるかどうかは別の問題なので、私はただ考え続けるしかないのであり、あるいはこうした考えるという行為のなかに、あるいは書くという営みのなかに、欲情のあの一瞬に似た快楽を分泌する何かがあって、それが脳を錯乱させ、酔わせているだけのことなのかもしれない。
「あるいは」と私が書くとき、あるいは私は何事かを否定しているという気持ちをぬぐいきれず、何事かを否定し、つまり私というものを、私に先立って存在するものに対して押しつける、暴力を振るうことに対して私は欲情しているのかもしれないと思うのだが、その暴力とは私が私を守るためにやむを得ずとった手段なのか、あるいは私自身の本能の奥に抑えがたく存在するものが自然にあらわれたものなのか私はわからないが、もし私の奥に存在するものがあらわれたものであるなら、私はそのとき私自身によって暴力を振るわれているのか、あるいは私が私に暴力をふるっているのか、または暴力を振るい、振るわれるという二重の関係を生きているのか判断しかねるが、この判断できないという状況は、あるいは欲情に似ているかもしれないと思うのは、私の欲情というものは、(あるいはあらゆる人間の欲情がそうであるかもしれないが)、冷静に見つめてみると、そこには必ず他者と自己という関係があり、関係のなかでおこなわれるあらゆることがらには作用と反作用の運動があり、それはどちらに視点を置くかによって違った動きをするものだから、それを正確に再現しようとするなら、二重の描写が必要であるということと密接な結びつきがあるからであろうが、このように考えるのは、私が本当に冷静になったために可能だったのか、あるいはこうした考えは逆に、抑制の効かなくなった頭がかってにでっち上げている嘘なのか、単なることばの暴走なのか、たぶん私以外の人間からみれば明瞭なことがらではあるだろうけれど、他者にとって明瞭であることが私にとって真実であるかどうかは別の問題なので、私はただ考え続けるしかないのであり、あるいはこうした考えるという行為のなかに、あるいは書くという営みのなかに、欲情のあの一瞬に似た快楽を分泌する何かがあって、それが脳を錯乱させ、酔わせているだけのことなのかもしれない。

[ 51] あるいは
[引用サイト]  http://www.asahi-net.or.jp/~kk3s-yc/yachi/Ppoem/aruiha/07aruiha.html

「あるいは」ということばに私は欲情してしまったが、なぜ具体的な何かを指し示すでもないことばに刺戟されてしまったのか、なぜそれが書き留めなければならない唯一のことばであると思ってしまったのか、あるいは書き留めなければ誰かに奪われ悔しい思いをするだろうと感じてしまったのか、意識の奥のあいまいな領域からから探り出そうと思い、あるいは逆に意識の表層に浮かんだもの、表層すぎて意識とも思えないほど軽い領域から揺らぎつつうごめく何かをすくい取ろうと思い、あれこれ考えているうちに、私は意識の深みと表層を往復しすぎて、あるいは意識をつきまぜすぎて、あらゆるものを濁らせてしまったらしく、気がつけば、私が「あるいは」ということばにいつ出会ったのかさっぱりわからなくなっていて、私の方から「あるいは」に近づいて行ったのか、あるいは「あるいは」の方から私の方に近づいて来たのか、あるいは何か(その何かが私には思い当たらないのだが)が媒介してくれて偶然出会ったのかもわからず、そんなふうにいつ出会ったか記憶にないからこそ、あるいはどのように出会ったかという記憶がないからこそ、急に欲情し、その欲情にとらわれてしまったのかと思うしかなくなっているのかもしれないのだが、もしそうであるなら、私は「あるいは」ということばに欲情しているというよりも、欲情という概念に欲情しているような感じなのではないかとも反省せざるを得ないのは、私が「あるいは」ということばについて何も知らないからであり、あるいは「あるいは」ということば自身について何も語ることができないからであり、つまり、私に語ることができるのは、あるいは語っているのは、「あるいは」ということばについてではなく、欲情について私が考えていること、あるいは勘違いしていることにすぎないということが反映しており、そのことを考えれば考えるほど、「あるいは」ということばへの欲情は私の内でどのように準備されたのだろうかという疑念が浮かび上がり、私はどのように苦悩していいかわからないほど苦悩し、あるいは何を考えているのかと笑い出すしかなくなってしまうが、あるいはこの苦悩と笑いの交錯というものが肉体の愉悦とどこかで似通ったところがあり、あるいは私はそれを無意識に知っていて、欲情していたのかもしれないという気持ちにもなってくるが、あるいはこうした考えこそまったくの見当違いであり、私は私の求めている何かにたどりつきつつあるのではなく、あるいは何らかの答えというものを手にいれつつあるのではなく、逆に何かから遠ざかりつつあるか、あるいは本当のものを失いつつあるか、あるいは取り返しのつかない状況に陥っているのかもしれないし、あるいは状況はいつでも明晰であり、ただ私の思考が混濁しているために私には何もかもがわからくなっているだけなのかもしれない。
「あるいは」ということばに私は欲情してしまったが、なぜ具体的な何かを指し示すでもないことばに刺戟されてしまったのか、なぜそれが書き留めなければならない唯一のことばであると思ってしまったのか、あるいは書き留めなければ誰かに奪われ悔しい思いをするだろうと感じてしまったのか、意識の奥のあいまいな領域からから探り出そうと思い、あるいは逆に意識の表層に浮かんだもの、表層すぎて意識とも思えないほど軽い領域から揺らぎつつうごめく何かをすくい取ろうと思い、あれこれ考えているうちに、私は意識の深みと表層を往復しすぎて、あるいは意識をつきまぜすぎて、あらゆるものを濁らせてしまったのか、言い換えるなら、私が「あるいは」ということばにいつ出会ったのかさっぱりわからなくなっていることに気づき、私の方から「あるいは」に近づいて行ったのか、あるいは「あるいは」の方から私の方に近づいて来たのか、あるいは何か(その何かが私には思い当たらないのだが)が媒介してくれて偶然出会ったのかわからなくなっていることに気づき、そんなふうにいつ出会ったか記憶にないからこそ、あるいはどのように出会ったかという記憶がないからこそ、急に欲情し、その欲情にとらわれてしまったのかと思うしかなくなっているのかもしれないのだが、こうした場合、私は「あるいは」ということばに欲情しているというよりも、欲情という概念に欲情しているような感じなのではないかとも反省せざるを得ないのは、それはつまり、「あるいは」ということばについて私が何も知らないからであり、あるいは「あるいは」ということば自身について何も語ることが出来ないからであり、つまり、私に語ることが出来るのは、あるいは語っているのは、「あるいは」ということばについてではなく、欲情について私が考えていること、あるいは勘違いしていることにすぎないということが反映しており、そのことを考えれば考えるほど、「あるいは」ということばへの欲情は私の内でどのように準備されたのだろうかという疑念が浮かび上がり、私はどのように苦悩していいかわからないほど苦悩し、あるいは何を考えているのかと笑い出すしかなくなってしまうが、あるいはこの苦悩と笑いの交錯というものが肉体の愉悦とどこかで似通ったところがあり、あるいは私はそれを無意識に知っていて、欲情していたのかもしれないという気持ちにもなってくるが、あるいはこうした考えこそまったくの見当違いであり、私は私の求めている何かにたどりつきつつあるのではなく、あるいは何らかの答えというものを手にいれつつあるのではなく、逆に何かから遠ざかりつつあるか、あるいは本当のものを失いつつあるか、あるいは取り返しのつかない状況に陥っているのかもしれないし、あるいは状況はいつでも明晰であり、ただ私の思考が混濁しているために私には何もかもがわからくなっているだけなのかもしれない。
「あるいは」ということばに私は欲情してしまったが、なぜ具体的な何かを指し示すでもないことばに刺戟されてしまったのか、なぜそれが書き留めなければならない唯一のことばであると思ってしまったのか、あるいは書き留めなければ誰かに奪われ悔しい思いをするだろうと感じてしまったのか、意識の奥のあいまいな領域からから探り出そうと思い、あるいは逆に意識の表層に浮かんだもの、表層すぎて意識とも思えないほど軽い領域からからすくい取ろうと思い、あれこれ考えているうちに、私は意識の深みと表層を往復しすぎて、あるいは意識をつきまぜすぎてしまったのか、つまり私が「あるいは」ということばにいつ出会ったのかさっぱりわからないことに気づき、私の方から「あるいは」に近づいていったのか、あるいは「あるいは」の方から私の方に近づいて来たのか、あるいは誰かが紹介してくれて偶然出会ったのかわからないことに気づき、そんなふうにいつ出会ったか記憶にないからこそ、あるいはどのように出会ったかという記憶がないからこそ、急に欲情し、その欲情にとらわれてしまったのかとも思うのだが、こうした場合、私は「あるいは」ということばに欲情しているというよりも、欲情という概念に欲情しているような感じなのではないかとも反省せざるを得ないのは、それはつまり、「あるいは」ということばについて私が何も知らないからであり、あるいは「あるいは」ということば自身について何も語ることが出来ないからであるという事情が反映しており、つまり、私に語ることが出来るのは、「あるいは」ではなく私の思い、あるいは思い違いにすぎないということが反映しており、そのことを考えれば考えるほど、その欲情は私の内でどのように準備されたのだろうかという疑念が浮かび上がり、私はどのように苦悩していいかわからないほど苦悩し、あるいは何を考えているのかと笑い出すしかなくなってしまうが、あるいはこの苦悩と笑いの交錯というものが肉体の愉悦とどこかで似通ったところがあり、私はそれを無意識に知っていて、欲情していたのかもしれないという気持ちにもなってくるが、あるいはこうした考えこそまったくの見当違いであり、私は私の求めている何かにたどりつきつつあるのではなく、あるいは何らかの答えというものを手にいれつつあるのではなく、逆に何かから遠ざかりつつあるか、あるいは本当のものを失いつつあるか、あるいは取り返しのつかない状況に陥っているのかもしれない。

[ 52] あるいは
[引用サイト]  http://www.asahi-net.or.jp/~kk3s-yc/yachi/Ppoem/aruiha/05aruiha.html

ナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有し、比表面積が大きな金属酸化物と、それらの製造方法を提供する。また、ナノチューブ形状を有するため高比表面積であって、光触媒活性の高いアナターゼ相の二酸化チタンや、高い色素増感能力と電子伝達能力を有する二酸化チタン等も提供する。さらには、ナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する金属酸化物であって、高活性な触媒あるいは触媒担体、電子材料、光材料等も提供する。金属化合物あるいはその有機溶媒溶液と、界面活性剤と、水とを接触させて混合して固化することで、ナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する金属酸化物を製造する。
ナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する、比表面積が大きな金属酸化物とそれらの製造方法で、高活性な触媒や触媒担体、電子材料、光材料等、光触媒活性の高いアナターゼ相の二酸化チタン、高い色素増感能力と電子伝達能力を有する二酸化チタン等
【請求項1】 金属化合物あるいはその有機溶媒溶液と、界面活性剤と、水とを接触させて混合して固化することを特徴とするナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する金属酸化物の製造方法。【請求項2】 金属アルコキシドの有機溶媒溶液と、界面活性剤と水、あるいは界面活性剤の水溶液とを混合して固化することを特徴とする請求項1記載のナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する金属酸化物の製造方法。【請求項3】 金属アルコキシドの有機溶媒溶液に界面活性剤を溶解した有機溶液に、水を混合して固化することを特徴とする請求項1記載のナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する金属酸化物の製造方法。【請求項4】 金属アルコキシドが、原子量が30以上で価電子数が4の金属のアルコキシド、または価電子数が3の金属のアルコキシドであることを特徴とする請求項1ないし3いずれかに記載のナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する金属酸化物の製造方法。【請求項5】 金属アルコキシドが、価電子数4のTi,Ce,Hf,Sn,Zr,Geあるいは価電子数3のFeのうちのいずれか1種であることを特徴とする請求項4記載のナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する金属酸化物の製造方法。【請求項6】 金属アルコキシドが、価電子数4の金属のアルコキシドの異なる2種、または価電子数4の金属のアルコキシドのいずれか1種と価電子数3あるいは2の金属のアルコキシドのいずれか1種との混合物であることを特徴とする請求項1ないし3いずれかに記載のナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する金属酸化物の製造方法。【請求項7】 請求項6に記載の製造方法において、金属アルコキシドの混合比を変化させることを特徴とするナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する金属酸化物の製造方法。【請求項8】 請求項6または7に記載の製造方法において、金属アルコキシドが、価電子数4のSi,Ti,Ce,Hf,Sn,Zr,Geのアルコキシドの異なる2種、またはそのいずれか1種と価電子数3のFeあるいは価電子数2のZnのいずれか1種のアルコキシドとの混合物であることを特徴とするナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する金属酸化物の製造方法。【請求項9】 金属アルコキシドのアルコキシル基が、炭素数1〜6のトリまたはテトラアルコキシル基であることを特徴とする請求項1ないし8いずれかに記載のナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する金属酸化物の製造方法。【請求項10】 有機溶媒は、ジケトン化合物であることを特徴とする請求項1ないし9いずれかに記載のナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する金属酸化物の製造方法。【請求項11】 界面活性剤が、陽イオン界面活性剤であることを特徴とする請求項1ないし10いずれかに記載のナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する金属酸化物の製造方法。【請求項12】 陽イオン界面活性剤が、脂肪族アミン塩である請求項11記載のナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する金属酸化物の製造方法。【請求項13】 金属アルコキシドと界面活性剤のモル比を0.5:1〜8:1とすることを特徴とする請求項1ないし12いずれかに記載のナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する金属酸化物の製造方法。【請求項14】 283〜373Kの温度で、0.1〜500時間の条件で固化することを特徴とする請求項1ないし13いずれかに記載のナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する金属酸化物の製造方法。【請求項15】 請求項4ないし14いずれかに記載の製造方法において、金属アルコキシドがチタニウムアルコキシドであり、チタニウムアルコキシドの有機溶媒溶液と、界面活性剤の水溶液とを混合して固化するとき、界面活性剤の水溶液のpHが2〜5であり、濃度が0.5mol/l以下であることを特徴とするナノチューブ形状を有する二酸化チタンの製造方法。【請求項16】 請求項4ないし14いずれかに記載の製造方法において、金属アルコキシドがチタニウムアルコキシドであり、チタニウムアルコキシドの有機溶媒溶液と、界面活性剤の水溶液とを混合して固化するとき、チタニウムアルコキシドと界面活性剤のモル比を4:1とすることを特徴とするナノチューブ形状を有する二酸化チタンの製造方法。【請求項17】 請求項4ないし14いずれかに記載の製造方法において、金属アルコキシドがチタニウムアルコキシドであり、チタニウムアルコキシドの有機溶媒溶液に界面活性剤を溶解した有機溶液に、水を混合して固化するとき、モル分率でH2O/Tiが2以下となるように水を混合することを特徴とするナノワイヤー形状を有する二酸化チタンの製造方法。【請求項18】 請求項4ないし14いずれかに記載の製造方法において、金属アルコキシドがチタニウムアルコキシドであり、チタニウムアルコキシドの有機溶媒溶液に界面活性剤を溶解した有機溶液に、水を混合して固化するとき、モル分率でH2O/Tiが4以上となるように水を混合することを特徴とするナノチューブ形状を有する二酸化チタンの製造方法。【請求項19】 請求項18記載の製造方法において、モル分率でH2O/Tiを4以上で調整することで、ナノチューブ形状の二酸化チタンの壁厚を制御することを特徴とするナノチューブ形状を有する二酸化チタンの製造方法。【請求項20】 請求項1ないし19いずれかの製造方法で製造された固化物に、焼成処理を施すことを特徴とするナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する金属酸化物の製造方法。【請求項21】 請求項20の製造方法において、固化物がナノチューブ形状を有する二酸化チタンであるとき、473〜873Kの温度で、0.5〜100時間焼成することを特徴とするナノチューブ形状を有する金属酸化物の製造方法。【請求項22】 請求項21の製造方法において、固化物がナノチューブ形状を有する二酸化チタンであるとき、573〜623Kの温度で、15〜24時間焼成することを特徴とするナノチューブ形状を有する金属酸化物の製造方法。【請求項23】 請求項21の製造方法において、固化物がナノチューブ形状を有する二酸化チタンであるとき、750〜800Kの温度で、0.5〜4時間焼成することを特徴とするナノチューブ形状を有する金属酸化物の製造方法。【請求項24】 請求項1ないし23いずれかの方法によって製造された、ナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する金属酸化物。【請求項25】 請求項24記載の金属酸化物であって、光触媒活性が高い二酸化チタンであることを特徴とするナノチューブ形状を有する二酸化チタン。【請求項26】 請求項25記載のナノチューブ形状を有する二酸化チタンが集合したメゾポア構造を有する光触媒活性の高い二酸化チタン。【請求項27】 請求項24記載の金属酸化物であって、高い色素増感能力と電子伝達能力を有することを特徴とするナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する金属酸化物。【請求項28】 請求項27記載のナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する金属酸化物を用いたことを特徴とする色素増感太陽電池用電極。【請求項29】 請求項24記載の金属酸化物であって、触媒あるいは触媒担体として用いることを特徴とするナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する金属酸化物。
 希土類金属化合物,すなわちスカンジウム,イットリウム,ランタンまたはランタニド・グル...
 6/00〜12/00に分類されない電気化学的な電流または電圧の発生装置;その製造
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[ 53] J-STORE(ナノチューブあるいはナノワイヤー形状を有する金属酸化物とその製造方法 足立 基齊)
[引用サイト]  http://jstore.jst.go.jp/cgi-bin/patent/search/detail.cgi?id=4723



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