存在とは?

存在(そんざい、existence)とは、この世界の多様な現象を把握するために、一定の条件を満たした現象群を統合した呼称。一般的にはその現象群が物理的因果関係を持つ時、その現象群は存在する、と認識される。例えば何らかの塊に力を加えて動いた時、我々はその塊が物理的に存在すると認識する。そして、その表面の色、模様、感触から材質が木である事が分かり、又、形状から機能を推定する事でその塊を「椅子」として認識する。
又、そのような物理的存在を過去や未来、或いは別世界に移動して想像する時にも、その物は存在すると考えられる場合もある。例えば、椅子を動かしたという記憶がある時、我々はその椅子がかつて存在していたと考える。又、多世界論理では様々な世界にそれぞれ椅子が存在し、(椅子に腰掛ける時)我々の意思がそのうちの一つを選択するという形而上学を展開する。これらの存在感覚の底辺を成していると思われるのは「実存感」(reality)であると思われる。
科学的な物の考え方によれば、現実世界は、感覚的に受け取れる物事から構成されている。地球から遥かに遠い星々も、肉眼か、でなければ望遠鏡などを使って観測する事ができ、それゆえに「あの星は存在している」といえる。細菌など微視的な事物についても同様である。
一般に自然科学は存在する物事についての理論的説明であり、理論によって予測された通りの振る舞いが、実験や観測によって確認できるかどうかを頼りに考察を積み重ねていく営みである。そこで、観測不可能なものについては、科学的には存在しているともしていないともいう事が出来ない。
このように観測や実験を通じて確認出来る存在は、しばしば科学的存在と呼ばれ、神や超常現象、死後の世界などのように確認する事の出来ない物事と区別される。又、多くの観察や実験結果と一致するような既存の科学の理論と大きく矛盾をきたす物事は、その存在が疑わしいとされ、科学的存在とは考えられない。
社会的存在という考え方もあり、これは簡単に言ってしまえば、その人物の社会における尺度を軸にその存在をはかるものである。社会における尺度は、社会的地位や、社会に対する影響力などがある。(例えばショパンは音楽界において重大な存在であるが、当時は音楽家の社会的地位は現代よりは低いものとされていた。)
社会的地位が高いと見做される職業に就いていたり、社会的重要性や貢献度の高い業績があれば、その人物は社会的に存在すると言えるが、逆にその人物でなくても代用可能な労働をしている者、また、昔の隠者、現代の引きこもりやニート等はそれぞれ、社会的には存在が応分に希薄であると言える。 存在価値も参照。
感覚が必ずしも頼りにならない事は、錯覚や幻覚、夢などを通じて多くの人が感じ取っている。又、人によっては、時間や空間のどこかに「果て」のようなものがあるとしたらその「向こう」には何が在るのか、あるいはただ無が存在しているのか、無が存在出来るのか、といった素朴ながら答えがたい疑問を持つ事もある。あるいは、自分が経験している物事全てが実は夢なのではないか、自分はいつかそこから目覚めてまったく違う世界にいるのではないかという可能性も、文学や漫画などでしばしば採り上げられる。そうした考えを突き詰めると、自分が普段接している物事が本当に存在しているのか、自分が普段は存在していないと考える物事(架空の物事、信仰の対象となっているが信じていない人々には感じ取れない物事、など)は本当に存在していないのか、といった迷いを持つ事もある。
諸々の宗教の中には特殊な体験(神の顕現や悟りなど)を通じて通常の感覚では捉えられない物事に遭遇する場合もある。それに基づいて、日常感覚や一般に「科学的」といわれるような存在や現実世界についての理解が誤っているとされる事も少なくない。
哲学においては、古代ギリシアのプラトンやアリストテレス以来、存在をどう捉えるかについて様々な考え方が提出されてきた。近代の哲学者の間でも、「物自体」は決して知る事が出来ず、それゆえ、ある物が「在る」かどうかについては断言は出来ないのではないか、という疑問は繰り返し提起されてきており、第一級の思想家と見なされている人々の間でも意見の一致を見ていない。
しかし、以下の事はいいうる。それは、西洋哲学史においては、「存在」が「無」よりも遥かに大きな重要性を持っており、無は存在の否定としてしか扱われなかったという事である。このヒエラルキーは、存在(Being)に対して無が非-存在(Non-being)としか呼ばれない、という言語的な事実によって裏付けられる。
また、マルティン・ハイデッガー以降、「基礎的存在論」と呼ばれる哲学の一分野が大きく取り上げられるようになった。ハイデッガーは「存在者」(Seiende、ザイエンデ)と「存在そのもの」(Sein、ザイン)を分け、前者は後者を生成の根源とすると考えた。自然科学は「ものが存在する」の「もの」すなわち「存在者」の方を問い、「存在すること」その事は問わない。しかし、ハイデッガーなどは、まさに「存在すること」その事を問うたといえる。この問いは純粋に哲学的で、一般に理解されている自然科学の存在の理解とは次元が異なる話である。どのようなものが「存在する」にせよ、「存在する」という事だけは変わらない。ちなみに、この問題を最初に定式化したのは、古代ギリシアのパルメニデスである。彼は、その詩的な著作の中で、「存在するもののみが存在する」とし、「無は無い」と考えた。ただし、これも又、自然科学がしばしば取り上げる「無」とはそもそもの次元が異なる議論である。西洋の無は、存在の否定であり、本当の意味で「無い」という事である。よって、無を考える事は出来ない。 一方、ハイデッガーやパルメニデスにおける「存在」と、東洋的な「絶対無」との関連を指摘する声もある。代表的な論者は井筒俊彦であるが、ハイデッガー自らもこの事を認めていると見られる。すなわち、存在も絶対無も突き詰めれば同じ事柄をいっており、それが世界のありかたの根源的な次元である、と考えられている。ここでいわれている絶対無は単なる非-存在(Non-being)ではなく、無でありながらも、存在と無の対立を超えてそれらを包摂するような「存在者を生じさせるもの」である(無の項目を参照されたし)。
一部の理論物理学では、宇宙の誕生の過程やミクロの世界の物質の振る舞いを数学的に考察する中から、我々の現実世界以外の平行宇宙や虚時間における物理過程などに言及する事がある。ここでは、現実世界として一般に考えられているような世界の外があり、そこに何かの物事が存在、進行していると呼べば呼べそうな事態がある。
又、コペンハーゲン解釈と呼ばれる量子力学の有力な一解釈によれば、物質を量子のレベルで把握する場合、そこには細かな粒子状の存在物とそれらを隔てる空間とがある訳ではないとされる。単一の量子は空間内に広がりを持って確率的に分布しており、特定の一点に存在する訳ではない。観測行為が起こると、そこで初めて、特定の位置が確定される。(シュレーディンガーの猫、アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス、ベルの定理も参照のこと)
以下に挙げる例は、物質や物体のように何らかの実体を持つと見なされる存在の例である。物質や物体と同様にこれらの実体もまた、現象、運動、反応、変化を起こすことができ、精神現象、社会現象などというものがある。これらの中には実際にはなんらかの現象、運動、反応、変化を見ているだけで、実体と言えるものはない場合もあるが、どこまでを実体と見るかは文化的歴史的に複数の見方があることが多い。
物質。 多くの現代人の通念としては、物質ばかりが実体的存在として重視される傾向がある。だが、相対性理論によれば物質(質量)も、あくまでエネルギーの状態のひとつにすぎない。物質は反物質と衝突すると対消滅を起こし、いわゆる"物質"としては消滅し、質量がエネルギーとなって放出される。(比較的身近な例では「ポジトロン断層法」、「陽電子」の項が参照可能)
生命 生物は物質でできているが生命は物質ではない。ただし現代的自然科学の見方では生命または生命力という実体があるわけではなく、生命活動や生命現象があるだけである。
情報。 情報はエネルギーの様々な状態である電磁波、磁界、光、"物質"などにより、変化自在に運ばれ、表現される。いわゆる"物質"には必ずしも依存してはいない。

[ 142] 存在 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8

『存在と時間』(そんざいとじかん、"Sein und Zeit"、1927年)は、ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーの主著。「ものが存在するとはどういうことか」というアリストテレス『形而上学』以来の究極的な問いに挑んだ著作であるが、実際に出版された部分は序論に記された執筆計画全体の約3分の1にすぎない。しかし、それにも関わらずこの作品は20世紀哲学の生んだ最も衝撃的な作品として大きな影響力をもちつづけており、それ以降の哲学の潮流の多くが『存在と時間』をその思想的源泉の一つとしてもっている。実存主義や構造主義、ポスト構造主義(とりわけジャック・デリダの脱構築)など、その影響の及んだ範囲の広さは測り知れない。
エドムント・フッサールによって創刊された『哲学および現象学研究のための年報』の第8巻(1927年)において発表された。ハイデッガーはすでに師フッサールと見解の相違を見せはじめていたものの、『存在と時間』の献辞は「尊敬と友情の念をこめて」フッサールに捧げられた(ナチス政権下の1942年に刊行された第5版では削除されていた)。
このうち、実際に書かれたのは第1部第2編までにすぎず、そこで論じられているのは現存在についてである。序論以降ハイデッガーが何度も言明している「存在一般についての問い」に関する考察が書かれるべき〈本論〉は第1部第3編「時間と存在」という、書名自体にも似た標題をもつ章であると考えられるが、そこでハイデッガーが何を書くつもりであったのか、なぜそこへ至る前に中断されてしまったのかは長いあいだ謎とされてきた。
ハイデッガー自身の証言などから、1923年には『存在と時間』の草稿が書かれていたことが知られていたが、その所在は長らく不明だった。同年にハイデッガーはフライブルク大学の非常勤講師からマールブルク大学への異動が決まっており、そのさいに現在執筆中の著書の概要をまとめたものを審査論文として提示するよう要求され、『アリストテレスの現象学的解釈──解釈学的状況の提示』と題した論考をパウル・ナトルプへ提出していた(通称「ナトルプ報告」)。この論考が『存在と時間』の初期草稿に当たるのではないかと推測する向きと、「アリストテレスの現象学的解釈」と『存在と時間』がいかなる関係をもつのか疑問視する向きとがあったが、この「ナトルプ報告」も行方不明となっていたため結論は出なかった。しかし1989年、マールブルク大学と同時期にやはりハイデッガーを招聘しようとしていたゲッティンゲン大学のゲオルグ・ミッシュに提出した同内容の論考が発見され、その内容から「ナトルプ報告」が『存在と時間』の初期草稿であるとする推測の正しかったことが証明された。そこで明らかにされている本論はアリストテレスの読解を通した古代ギリシアから中世を経て近代に至る存在論、ひいては西洋哲学全体の読み直しであり、問題の第1部第3編「時間と存在」はこの歴史的考察の基盤となるものであること、また序論はその準備段階にすぎないものであること、したがって実際に刊行された『存在と時間』は長大に膨れ上がった序論が本論へたどりつく前に中断されたものであることなどが明らかになった。
1927年の初版以来、この本の末尾には「上巻」の文字があったが、ハイデッガーは1953年の第7版からこれを削除し、後半を書き次いで完成させることを断念する意思をついに明らかにした。弁明としてハイデッガーは、後半を書き加えるには前半もすべて書き直さなければならなくなってしまうことや、存在への問いそのものまで諦めたわけではないこと、それに関しては新著『形而上学入門』(同じく1953年出版)を参照してもらったほうがよいということなどを挙げている。こうして未完成のまま残された『存在と時間』は、現存在についての緊密な分析と解釈をなし遂げてはいるが、その全体的な計画に関する宣言には反して「存在一般の意味」を解明するまでには至らなかった。しかし、その野心的な企図は後の著作において異なる方法によりながら執拗に追求されることとなる。
この著作でハイデッガーが取り上げるのは、存在の意味についての問い――ものがあるとはどういうことなのか?――である。これは存在論の根幹をなす問いであり、存在者としての存在(「在るもの」として「在ること」)についての研究としてアリストテレスによって定義された(『形而上学』)。この問題に関しては、命題論理的な見地から展開されたアリストテレスとカント以来の(それぞれの哲学的立場は大きく異なるが)伝統があるにも関わらず、ハイデッガーはそこから離れたアプローチをとった。この伝統には、「理論的な知識はひとりの人間と彼を取り巻く(彼自身も含めた)世界内の存在との根源的な関係を意味する」という命題が内在しているためである。
この命題を峻拒してハイデッガーがとったのは現象学的な方法である。この方法を徹底させることにより、現象学を定式化したフッサールのうちにすらなお見られたアリストテレス的/カント的な認知主義の残滓を一掃しようと考えたのである。フッサールと同様に、ハイデッガーは志向性の現象を考察することから始めた。人間の行為は、何らかの対象や目的を(建築という行為ならば建物を、会話ならば話題を)目指す限りにおいて志向性をもっている。ハイデッガーは志向性を「関心(Sorge)」と呼ぶが、これは「不安(Angst)」の肯定的側面を反映している。ここでいう「関心」は志向的存在に関する基本的な概念であり、存在的なあり方(ただ単にあるだけの存在)とは区別された存在論的なあり方(存在という問題に向き合いながら存在すること)として、存在論的に意味付けられたものである。
註:存在者が存在することは前提的に了解した上でその性質や他の存在者との関係などを問う態度を存在的(ontischen)といい、自然科学などがこれにあたる。存在論的(ontologisch)とは、存在者が存在することそのものを問う態度を指し、形而上学や現象学がこれにあたるが、ハイデッガーはこれらも不十分であるとの考えに立ちながら『存在と時間』を書いた。
理論的な知識が表現するのは志向的な行為のうちの一種にすぎず、それが基づいているのは周囲の世界との日常的な関わり方(約束事)の基本形態であって、それらの根本的な基礎である存在ではないとハイデッガーは主張する。彼は「実存的了解」(実存を実存それ自体に即して了解する)と、「実存論的了解」(何が実存を構成するかについての理論的分析)の二種類に分類した。これは、「存在的―存在論的」と呼応するものであるが、人間存在に範囲を限定したものである。ものは、それが日常的な約束事のコンテクスト(これをハイデッガーは「世界」と呼ぶ)の中に「開示される」限りにおいて、そのような存在者である(そのように存在する)のであって、そのコンテクストを離れても客観的に認められる固有性をもっているからではない。カナヅチがカナヅチであるのは、特定のカナヅチ的性質をもっているからではなく、釘を打つのに使えるからなのである。
こうした方法はまた、デカルト的な実体のない「われ」――純粋な思惟者としての「われ」――の否認を必要とする。デカルトが「われ思う」だけは疑いえないものとしたとき、思っている「われ」の存在様式は無規定のまま放置されたとハイデッガーは述べている。その一方でハイデッガーは、人間の行為に関するいかなる分析も「われわれは世界の中にいる」という事実から(世界を「抽象的に」見る風潮に則らずに)始めなければならない、したがって人間の実存に関して最も根本的な事柄はわれわれの「世界=内=存在(In-der-Welt-sein)」であると主張した。人間もしくは現存在(Da-sein)とは、世界の中で活動する具象的存在なのだということをハイデッガーは強調した。したがって彼は、デカルト以来ほとんどすべての哲学者が自明のこととして依拠する「主観 ― 客観」という区別をも拒否し、さらには意識、自我、人間といった語の使用も避けた(ハイデッガーは「人間」の代わりに「現存在(Da-sein)」という)。これらはいずれもハイデッガーの企図にはそぐわないデカルト的二元論のもとにあるためである。
ものがわれわれにとって意味をなすのは、そのものがある特定のコンテクストの中で使用できるためであり、そしてこのコンテクストは社会的規範によって定義される。しかし、元来こうした規範はみな偶発的で不確定なものである。こうした偶然性は、不安という根源的な現象によって明らかにされる。この不安の中に、すべての規範が投げ出され、ものは本来の無意味さの中に、特になにものでもないものとして開示される(少なからぬ実存主義者によるハイデッガー解釈に反して、これは実存のすべてが不条理なものであるということを意味しない。正確にいうならば、実存がつねに不条理の可能性を抱えているということである)。不安の経験は現存在の本来的な有限性をあらわにする。
存在者が開示されうる(コンテクストにおいて有意味にであれ、不安の経験において無意味にであれ)という事実は、いずれにせよ存在者は開示されうるという先行する事実に基づいている。ハイデッガーはそうした存在者の開示を「真実」と呼んだが、これは正しさというよりは「隠れのなさ」と定義される。この「存在者の真実」(存在者による自己発見)は、より本源的な種類の真実を含む。すなわち「存在者の存在が隠されていない、明るみに出された存在者の発露」である。これはギリシア語で「アレテイア(αληθεια)」と呼ばれ、アリストテレスやヘラクレイトスからハイデッガーによって引き出された概念である。
ハイデッガーにとって、現存在を規定するのはこの存在の隠れなさである。ハイデッガーの用語「現存在」とは、おのれの存在を関心事とする存在者であり、また、おのれの存在をそのように開示させる存在者である。ハイデッガーが存在の意味についての探求を現存在の本質についての探求とともに始めたのはこうしたわけである。存在の隠れなさは基本的に現世的かつ歴史的な現象である(本書を『存在と時間』と題したのもこのためである)。われわれが過去・現在・未来と呼ぶものは本来この隠れなさの見地に照応するものであり、時計によって測定される均一的な時間における排他的な三区域のことではない(難解をもって知られるこの本の最終章においてハイデッガーが証明を試みたように、時計の時間もまた隠れのない本来の時間から派生したものではあるが)。
総体的な存在了解は、現存在固有の存在に関する潜在的な知識を説明することによってのみ到達できる。ゆえに哲学は解釈という形をとる。これが、『存在と時間』におけるハイデッガーの手法がしばしば解釈学的現象学と呼ばれるゆえんである。『存在と時間』は未完に終わったため、全体的な計画に関するハイデッガーの宣言や、現存在とその時間内的な限界についての緊密な分析と解釈をなし遂げてはいるが、そのような解釈学的手法により「存在一般の意味」を解明するまでには至らなかった。しかし、その野心的な企図は後の著作において異なる方法によりながら執拗に追求されることとなる。
カントは『純粋理性批判』の序文で、外的世界の存在に関する完全な証明がいまだなされていないことを「哲学のスキャンダル」だと嘆いた(自分の著書がそれを与えるのだと自負した)が、ハイデッガーにいわせればそのような証明ばかりが求められることこそ哲学のスキャンダルであった(本書第1篇第6章第43節)。同時に彼の企図は非常に野心的であり、生物学、物理学、心理学、歴史学といった存在的なカテゴリーにおいて研究される特定の事物の存在には関心がなく、追求したのは存在一般についての問い、すなわち「なぜ何も無いのではなく、何かが存在するのか」(ライプニッツ)といった存在論的な問いであった。われわれにとってあまりにも近く自明なものである「存在一般」への問いこそ何よりも困難なものである。
ハイデッガーはこうした問いに対し、「いかにしてわれわれは世界と具体的かつ非論理的な方法で遭遇するか」「いかにして歴史や伝統がわれわれに影響を与え、われわれによって形成されるか」「事実上いかにしてわれわれはともに生きているか」「そしていかにしてわれわれは言語やその意味を歴史的に形成するか」といったことに注視するという最も具体的な方法をもって取り組んだ。こうした企図はヘーゲルのプラグマティズムを想起させるが、ハイデッガーは「絶対的」なるものへ向けた歴史的プロセスの綜合的な目的を断定しようというような考えはもっておらず、またより高次の統一における矛盾の解消(いわゆる弁証法)についても語っていない。
ハイデガーの見地においては、行為に対する理論の伝統的優位が逆転される。彼にとって理論的な見解というものは人工的なものであり、関わり合いを欠いたまま事物を見ることによってもたらされるものであり、そうした経験は「平板化」(Nivellierung)されたものである。こうした態度は、ハイデッガーによって「客体的」(vorhanden=すでに手のうちにある)と呼ばれ、相互行為のより根源的なあり方である「用具的」(zuhanden=手の届くところにある)な態度に寄生的な欠如態とされる。寄生的というのは、歴史のうちにおいてわれわれは、世界に対して科学的ないし中立的な態度をもちうるよりも前に、まず第一に世界に対する何らかの態度や心構えをもたなければならないという観念においてのことである。
客体的存在と用具的存在に加えて、現存在の第三の様態として「共同存在」(mitsein)があり、これが現存在の本質となる。他者とは、孤立して存在する単一の主体「私」を除いたすべての人びとのことではなく、たいていの場合はひとが自分自身とは区別していない(ともにある)人びとのことである。例えば、「私」が作物を踏み潰したり土を踏み固めてしまわないよう注意しながら畑の周りを歩くとき、この畑は「私」にとって道具的なものであるが、同時に「誰か」の所有地として、あるいは「誰か」に手入れされている(他の「誰か」にとっても道具的である)ものとしても現れる。この「誰か」たる農夫は、「私」が思考のうちでその畑に付け加えたものではない。なぜなら、畑が耕され手入れされているという事実を通してすでに農夫は自らを現しているからである。このようにしてわれわれは世界内において他者と出会うのであり、またこうして現存在が他者と出会いともにある存在の仕方が「共同存在」であるとハイデッガーは述べる。
「共同存在」には好ましからぬ側面もあり、ハイデッガーは「世間」という語を用いてそれに言及する。つまりニュースやゴシップでしばしば見られるように、「世間では〜といわれている」というとき、一般化して断定したり、一切のコンテクストを無視してそれをやり過ごそうとしたりする傾向があるということである。何が信頼に値し、何が信頼に値しないのかという実存的概念が「世間」という考えに依拠して求められるのである。たんに群集のあとを追って他の人々に習うだけでは何の妥当性も保証されないし、社会的・歴史的状況から完全にかけ離れたことが妥当なことだとみなすことなどできないにもかかわらず、「世間」がその平均性のみを妥当なものとして指示するのである(本書第1篇第4章第26 - 27節)。
時間もまた斬新な方法によって考察される。ハイデッガーは、時間というものはアリストテレス以来まったく同じように解釈されてきたと主張する。つまり「過去・現在・未来」という三つの時間が均質的に、しかも無限に続いて存在するというものである。しかしハイデッガーは、根源的な時間とはそれ自体で存在するものではなく、現在から過去や未来を開示して時間というものを生み出す(みずからを生起させる)働きのようなものだと主張する。また現在もそれ自体で生起するのではなく、「死へ臨む存在」(Sein-zum-tode)としてのわれわれが行動する(あるいはしない)ときに立ち現れるものである。したがってアリストテレスの均質的な「過去・現在・未来」という時間はこの根源的時間からの派生物にすぎないとして、これらの派生現象を可能にする根源的な「時間性」(Zeitlichkeit、Temporalitatとも)の概念を提示した。
存在論に関する計画の一環として、ハイデッガーは過去の西洋哲学の再解釈を企てた。彼は理論的な認識がなぜ、またいかにして存在にとって最も本質的な関係をもつものであると見なされるようになったのかを解明しようとした。その試みは哲学的伝統の解体(Destruktion)という形式によってなされたが、これは存在論の歴史において一般的な理論的態度が根強く、そこへ埋没している従来の哲学に則りながら存在についての根源的な経験を暴くという解釈的戦略である。こうした「解体」は、「破壊」のような否定的な意味にばかりではなく、「改築」のような肯定的な意味にも解釈する必要がある。『存在と時間』においては、デカルト哲学の解体が(本格的に展開されるはずであった後半は書かれなかったものの)いくぶん見ることができる。また後の著作においてはアリストテレスやカント、ヘーゲル、プラトンなどの哲学を解釈するのにこの手法を用いた。ジャック・デリダの脱構築は(ハイデッガーの方法とは違いがあるにせよ)この方法からきわめて大きな影響を受けている。
『存在と時間』は初期ハイデッガーの最も偉大な業績であるが、他にも以下のような重要な著作が同じ時期に書かれている。

[ 143] 存在と時間 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93

私は幼少の頃から母に連れられ、母の指導の元、厳しい宗教的修行をした結果、霊の姿を視、声を聞き、神様の声を聞き、その内容が現実にあったことを屡々経験してきた。長じて学校に入ると、誰も、霊の世界、神の世界を信じてくれなかった。
大学で哲学を学んだが、理論だけでは真理を把握できないと悟り、二十四歳から、ヨーガ、断食、毎夜三時間の睡眠、長時間の瞑想の行を始めた。自己の個人的存在性の殻を破り、人間の存在性をこえた霊、神々、神との合一に至る霊的進化のために、数年間、毎日、命をかけて行に励んだ。この間の、神との合一に至る宗教的経験を存在論的に解明したのが、第一章の「宗教経験と存在」の章である。
この章を書きつつ、この宗教経験の世界を何らかの方法で科学的に証明しないと、一般人、科学者には理解してもらえないと思った。それから物理学、電気学、数学、統計学、生物学、生理学、解剖学等を夢中になって勉強し、経絡の気エネルギー、自律神経、免疫系の機能を測定するAMIその他の新しい器械も三〜五個発明し、それらを使って、物理的時空に制約されないPsiのエネルギーと物理的時空に制約される物理的エネルギー間の転換を行なう気エネルギーの機能を科学的に証明し、さらに、Psiのエネルギーのセンターであるチャクラの存在を科学的に証明した。
以上のような、宗教経験による霊的進化と、それによって生じる身体的変化、Psiエネルギーのコントロールによる物理的現象の生起等を、上記のAMIその他の機器で科学的に実験し、証明した。
上の宗教経験とAMIによる科学的実験の結果とを通じて、物理的世界における存在の相互作用とその因果関係、物理的時空をこえた霊、神々の世界における存在と相互作用、遂には究極的存在である創造神と、これらの物理的世界、霊的世界とを貫いて双方向の自己否定を通じて働く相互作用を明らかにした。
このようにして、物理的科学の真理、超物理的霊、神々の世界の真理、霊、神々の世界をこえた神の世界の真理、それらを貫く普遍的真理を、具体的体験と実験結果を説明しつつ、論理的、物理的に明らかにしたのが本書である。
セム族宗教のキリスト教、イスラム、ユダヤ教は、A=A、A≠nonAの同一律に拘り、キリストやムハンマドが神との一致において体得した神の意識の内では凡てが同質の1である。この1は、1+1=2、1―1=0の1ではなく、無限の1を同質のものとして包摂する1であることをないがしろにし、神に救われた魂も、天国で個性をもった一つの魂として区別する。
アジアの宗教、仏教では、凡ての存在は縁によって生じる相互依存的存在であり、無自性であり、自主独立的存在はないと説く。しかし、無自性の筈の個々の人間もそれぞれ異なった独自性をもち、霊界においても個人性をもつ魂である。個としての存在性を超越し、解脱しない限り、この個人性は持続する。これを仏教では無明と言う。
セム族宗教は人間存在の個別性、A=A、A≠nonAを固守し、仏教は無差別性、同質性、A=A、A=nonAを主張して、個別性を無視する。
第三章の「種々の存在次元における存在と相互作用の論理」では、自然、人間、神の存在性、それらの相互作用と、それらを超えた絶対について、存在論、相互作用の観点から、一種の形而上学的論理学を数式を用いて構成してみた。
セム族宗教のキリスト教、イスラム、ユダヤ教は、A=A、A≠nonAの同一律に拘り、キリストやムハンマドが神との一致において体得した神の意識の内では凡てが同質の1である。この1は、1+1=2、1―1=0の1ではなく、無限の1を同質のものとして包摂する1であることをないがしろにし、神に救われた魂も、天国で個性をもった一つの魂として区別する。
アジアの宗教、仏教では、凡ての存在は縁によって生じる相互依存的存在であり、無自性であり、自主独立的存在はないと説く。しかし、無自性の筈の個々の人間もそれぞれ異なった独自性をもち、霊界においても個人性をもつ魂である。個としての存在性を超越し、解脱しない限り、この個人性は持続する。これは仏教では無明と言う。
セム族宗教は人間存在の個別性、A=A、A≠nonAを固守し、仏教は無差別性、同質性、A=A、A=nonAを主張して、個別性を無視する。
この本では、私の長年の宗教体験を「宗教経験と存在」の章で詳説し、その後数十年をかけて、魂の存在と宗教経験を科学的証明をするための実験を行なった。それらの結果に基づいて、自然、人間、神、絶対の存在性、それらの相互作用と、それらを超えた絶対について、存在論、相互作用の観点から、一種の形而上学的論理学を数式を用いて構成してみた。

[ 144] 存在と相互作用の論理
[引用サイト]  http://www.shukyoshinri.com/sonzai/index2.html



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