果たすとは?
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『源氏物語』の中には数多くの恋愛が描かれており、それらのなかには恋文のやりとりから始まるものもある。その際、やりとりをしている男女はお互いに言葉を交わしたことはなく、姿さえ見ていないことが多い。そのような状況から、男女がお互いに顔を合わせ、言葉を交わすようになるまでの間に、その人物について知ることのできる有効な手段となるのが恋文である。また、お互いの気持を伝達し、より恋愛を進展させるというはたらきをもっている。恋文は、男女の恋愛において重要な役割を果たすものである。 しかし、恋文がこれ以外のはたらきをする場合もある。若菜下巻で、柏木から女三の宮へ送られ源氏に発見される恋文には、明らかに他の恋文には見られない特徴がある。それは、源氏という恋愛当事者以外の人間に見られてしまうことである。源氏物語の中に恋文は二六二通ある。その中で恋愛の当事者以外が見ているものは、十通である。その中でも特にこの恋文は源氏に二人の密通の事実を知らせるという大きな役割を担っているのである。恋を育む手段としての恋文の本来の役割とは異なる特殊な役割を持つことで、物語の展開に大きな影響を及ぼしているのである。そこで本論では、この恋文の特殊性を明らかにすることで、場面を動かす鍵としての恋文の役割を考えていきたい。 柏木は女三の宮との結婚を望んだが、女三の宮は源氏に降嫁することになる。しかし柏木は女三の宮のことを諦めることができない。そんな折に六条院で女三の宮の姿を垣間見る機会に恵まれ、柏木はその思いを恋文に託す。そしてついに柏木は女三の宮と密通し、女三の宮は懐妊する。源氏は女三の宮の懐妊を不審に思うが、柏木から女三の宮への恋文を発見して、密通の事実を知ることになる。 密通露見のきっかけとなった恋文と、女三の宮を垣間見た直後の恋文が送られた状況を対比させて見ていくことにする。 文が送られた状況を見ると、垣間見直後の文が送られたときに、源氏が女三の宮のもとを訪れることは少なく、柏木はそのことを知っていて恋文を送っている。この場面では、恋文が源氏に見られる可能性は比較的低い。それに対して密通後には、柏木は源氏が女三の宮のもとを訪れていること承知しながら恋文を送る。ここでは、文が源氏に見られる危険性は高い。このことから、柏木が冷静さを失っていることがわかる。源氏が女三の宮の部屋から退室したすきに、恋文を受け取った小侍従がそれを女三の宮に渡す。この小侍従の行為によって、柏木の恋文が源氏に見つかる可能性はさらに高まる。また、女三の宮は、自分の立場を考えれば、柏木からの恋文は絶対に他人の目に触れてはならないものである。しかし、彼女は不用意にも褥の下という見つかりやすい場所にそれを隠し、それが源氏の目に留まることになる。このように、三人の思慮のなさのために源氏に恋文が露見するという状況が生み出されたのである。 垣間見直後の恋文は、文面自体が語られていて、そこに含まれる和歌も明らかにされている。そしてここでの柏木の恋心が和歌によってぼかされ、この恋文はあからさまに恋を語るものにはなっていない。 しかし、密通後の恋文は文面が明らかにされていない。だが、源氏の視点からその内容を推察することができるものになっている。文面がないことで、本来恋文の主体となるべき和歌がなく、文章のみで書かれている可能性が考えられる。ここに文面が提示されていない理由としては、本文に「二重ねにこまごまと(p240-1〜2)」とあることから、文面を提示するには長すぎるということが挙げられる。そしてもう一つ、文面を提示するだけの価値が与えられていないことが考えられる。それは、この文に対する源氏の言葉にも見られる。世間から一流の人間として認められている源氏の視点から文を語っていくことで、この文に対する評価が絶対的なものとして読み手の中に位置づけられていくのである。 このような特殊な書かれ方をされることで、恋文は事情を知らない第三者にも二人の関係をはっきりと示しうるものとなる。そして、この柏木の恋文は、その働きを充分に発揮するという結果になるのである。 先にも述べたように、この恋文は、源氏の視点から描写されており、地の文にその内容が具体的に書かれることはない。それによって、読み手は源氏の評価をそのまま恋文、ひいては柏木本人に対する評価として受け止めることになる。その効果としては、恋文を発見してからの源氏の心理が、読み手の中に自然に入るということが考えられる。恋文を発見してから、源氏の心理は複雑に揺れ動いていく。その揺れは、源氏の視点から文を捉えることでより一層詳細になる。 では、源氏の心中はどのように変化していくのか。その描写は物語の中で実に具体的になされている。源氏は、この恋文の書き方を非難し、書き手である柏木を批判する。それから女三の宮に対しては、 と、その思慮のなさを非難する。この「さればよ」という表現から、源氏がかねてから女三の宮の無思慮さを気にかけていたことがわかる。そして源氏は女三の宮のこれからの扱いについて思案する。 しかし、この恋文の特殊性は、現在の事実だけでなく、源氏に自身の過去を振り返らせている点にも見られる。様々に考えを巡らせる中で、源氏は過去の藤壺中宮との密通を想起し、故桐壺院を思うに至る。 故院の上も、かく、御心には知ろしめしてや、知らず顔をつくらせたまひけむ。思へば、その世の事こそは、いと恐ろしくあるまじき過ちなけれ」と、近き例を思すにぞ、恋の山路はえもどくまじき御心まじりける。(p245−11〜13) ここで源氏は、自分が昔の父院と同じ立場にあるということに気づき、その罪の深さを実感する。しかし同時に、柏木の行為が他でもない昔の自分と重なることにも気づくのである。だから、彼は柏木を全面的に非難することはできない。自分の過去の過ちと、現在直面している事実との間で、源氏は苦悩しなければならないのである。 人よりはこまやかに思しとどめたる御気色のあはれになつかしきを、あさましくおほけなきものに心おかれたてまつりては、いかでかは目をも見あはせたてまつらむ。 さりとて、かき絶へほのめき参らざらむも人目あやしく、かの御心にも思しあはせむことのいみじさ(p248−9〜14) などと思い悩み、宮中へも参上しなくなってしまう。たった一通の恋文の動きが、順調だったはずの彼の人生を暗転させたのである。彼は、源氏への畏怖と、女三の宮への恋情の間で苦悩しながら、やがて死んでしまう。 また、女三の宮は、密通が源氏に露見したことがわかり、ただ泣くばかりである。その様子は、柏木を彼女に取り次いだ小侍従に と思わせるほどに幼く、頼りのないものである。そして、その幼さ、思慮のなさが柏木との密通という過ちを招いたことの裏付けとなっているかのようである。 一般に、恋文は物語の中で恋愛関係を進行させていくという役割を担っている。それに対して、ここまでみてきた柏木の恋文は、女三の宮との関係を進行させるだけではなかった。源氏をも巻き込み、源氏と女三の宮、源氏と柏木の関係を変化させ、物語の中に新たな展開を導き出す契機になるものなのである。この恋文は、源氏と藤壺中宮の不義、女三の宮に対する柏木の異常な執着心、不用意な人物とされる女三の宮の性格づけなどを切り離して考えることはできない。独立してここまでの物語の流れを作ってきたものが、その背景として、同時に、効果的にはたらいている。さらに、恋文自体に、他の一般的なはたらきを持つ恋文には見られない特殊性を持たせることで、恋文が物語の展開にまで大きな影響を及ぼす存在となっているのである。この恋文を契機として、源氏の苦悩、女三の宮の出家、柏木の死が描かれる場面へと移っていくことになる。つまり、ここでの柏木の恋文は、場面を動かすという役割を果たしていると考えられる。そして、恋文がこのような役割を持つために、この恋文を読み解くことで、それに関わる場面を読み解くことができるのである。この恋文は、これに関わる源氏、柏木、女三の宮の三人の運命を決定づける場面を生み出すという役割を持つことで、その場面を読み解く鍵としての役割を果たしているのである。 |
[ 113] 『源氏物語』研究 恋文の果たす役割
[引用サイト] http://okumedia.cc.osaka-kyoiku.ac.jp/~kokugo/gakkai/99semi/chuuko/chuuko99.html
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今回の記者の眼には,書籍とセミナーの宣伝および筆者が検討している新プロジェクトの説明が含まれている。読み進める方は,これらの点をご了承いただきたい。 最近,筆者がもっとも感銘を受けた言葉は,「プロフェッショナル責任(Professional Responsibility)」である。きっかけは,プロジェクトマネジメントの書籍を作ったことであった。プロジェクトマネジメントの最新トピックについて,外部の専門家に寄稿してもらったところ,テーマの一つにこの言葉があった。プロジェクトマネジャはプロフェッショナルとしての責任を果たさなければならないということだ。 米国のプロジェクトマネジメント推進団体であるPMI(プロジェクトマネジメント・インスティチュート)は,プロジェクトマネジャの知識体系に,「プロフェッショナル責任」を追加し,プロジェクトマネジャの資格試験でこのテーマの設問を設けている。PMIは調査研究を通じ,プロフェッショナル責任の骨子を五つに整理した。非常によくできているので紹介したい。 説明に使うプロフェッショナルの例として,「記者」を取り上げることにする。当サイトは“IT Pro”であるから,本来はITプロフェッショナルを例にして説明するほうが分かりやすい。だが,そうすると「プロジェクトマネジャやSEはプロとしての責任を果たせ,などと書いているが,そういうお前はどうなのか」と読者の方から書き込まれそうである。そこで,先回りすることにした。 実は7月15日号の日経コンピュータで,ある銀行の情報システム開発の失敗について原稿を書き,問題点を整理するために,PMIが整理したプロフェッショナル責任の定義を借用した。その原稿を書いているうちに,「記者として自分はプロフェッショナル責任を果たしているかどうか」と自問自答せざるをえなくなった。 プロジェクトマネジャに関する定義を記者にあてはめるのは,そうおかしなことではない。そもそもプロジェクトマネジメントといった場合,情報システムだけではなく,エンジニアリング,建設など様々な業種のプロジェクトを含んでいる。企業経営そのものをプロジェクトの集合体としてとらえる,エンタープライズ・プロジェクトマネジメントと呼ぶ考え方もある。つまり,経営者もプロフェッショナルなプロジェクトマネジャであるべきである。 日本語訳は,プロフェッショナル責任について筆者に教えてくれたプロジェクトプロの峯本展夫社長によるものである。プロフェッショナルは,法律や倫理規定を遵守し,顧客や一般社会,ステークホルダー(プロジェクトの利害関係者)を守らなければならない。その前提として,個人の健全性が求められる。 のっけから重たいテーマである。記者にとって厳禁なのは,取材とお金をからめることであろう。取材をするときに,取材先に金を渡すことはないし,無論,受け取ってもいけない。特定の企業に肩入れすることもよろしくない。 筆者はお金については大丈夫である。しかし,正直にいえば,尊敬できる取材先と,どうしても批判的になってしまう取材先がそれぞれある。ただし,そうした意識が記事の内容や量に関連しないように注意している。 例えば,ある企業にとって結果としてプラスとなる記事を書いた場合,その企業の課題も意識して取材し,書く。あるシステム・インテグレータが「動かないコンピュータ」に悪役として出てしまった場合,そのインテグレータが成功した開発例を探す,といった具合である。ただこれもあまり意識しすぎると不自然なことになる。 筆者は,コンピュータ関連ジャーナリストとしてプロフェッショナルのつもりである。だが,なにがプロの能力かと言われるとなかなか難しい。コンピュータ関連知識(技術動向,ベンダー動向,顧客動向)は前提として,企画力,取材力,執筆力といったあたりになろうか。これだけではあんまりなので,それぞれの能力についてプロといえる水準を規定しようと思ったが,筆が止まってしまった。 休憩して,ジャーナリストの任務を改めて考えてみた。筆者の結論は,「新しい情報を提供する」というものである。新しいというのは,いわゆるスクープだけを指さない。最新の先端技術の骨子と意義を分かりやすく書くことも大事だろうし,「動かないコンピュータ」のような,関係者しか知らない事実を引っぱり出すことも重要である。新鮮な情報を提供できる企画力と取材力,執筆力が問われるわけだ。 この調子でうなっていると,なかなか次のテーマに到達しない。読者も退屈だと思うので,以下は早足で進むことにする。 プロジェクトマネジメントのプロフェッショナルは,個人として得た教訓やベストプラクティス[用語説明]を,プロジェクトマネジメントの知識ベースへ提供し,プロフェッショナル同士が知識を共有できるようにすることが求められる。 この点については,筆者は失格である。せいぜい,長年の記者活動を通じて得た勘所をまとめた心得集のようなものを作って,編集部に配属される新人に渡しているくらいである。 記者の仕事は,どうしても独りだけでやらざるをえない面がある。一つの原稿を複数人で書くことは難しい。取材協力先(ニュース・ソース)は,なかなか他の記者に紹介しにくい。これは単に出し惜しみしているわけではない。ニュース・ソースの方は個人的な信頼関係に基づいていろいろ教えてくれるのであり,ほいほいとその名前を同僚に言えないのである。 プロフェッショナルとして自身のコンピタンスを強化するのは当然である。前出の峯本社長によると,「能力(competence)という語は,知識(knowledge)の対極をなす用法がある」そうである。つまり,PMIは,「単なる知識の習得にとどまっていてはならない」と指摘しているわけだ。 記者としてのコンピタンス増強の例をざっと上げると,人脈拡大,文章能力や会話術(語学含む)の強化,となる。筆者は,「毎日新しい人ひとりに会う」ことを目標にしていたが,ここ数年はデスク業務が多く,未達成である。 このテーマを書くとどうも歯切れが悪い。その理由にようやく気が付いた。記者には,ITプロフェッショナルの世界にあるような専門資格制度がない。極論すれば,自分で記者と名乗れば記者になれる。海外であると,ジャーナリスト向けの大学講座があったりするが,筆者は受講したことはない。記者になった一年目に情報処理技術者試験の二種を取得したが,これをコンピタンスに入れたら読者から怒られるだろう。 ステークホルダーとは,プロジェクトマネジメントによく出てくる言葉で,利害関係者のことである。情報システムでは,顧客の経営者,利用部門,システム部門,インテグレータ,メーカー,協力ソフト会社などを指す。競合する要求や目的を持つステークホルダーの利害を公正に調整することが,プロジェクトマネジャの使命である。 記者の場合は,取材先,原稿を読むデスクや編集長,原稿を誌面にする制作部門,雑誌を販売する部門,広告主,広告部門,そしてなんといっても読者,これらがステークホルダーと言える。 現実には利害調整などほとんどしておらず,「読者のため」といって押し切ってしまうことが多い。「動かないコンピュータ」は,取材先と広告主からすれば,掲載してほしくない記事であるが,あえて掲載している。また,原稿を締め切り通りに書かないと,制作部門に打撃を与える。この点では筆者はプロフェッショナル失格である。 プロジェクトでは,個人や民族,文化など様々な相違に配慮して,互いにプロとして協調的な関係を築くことが求められる。記者の場合,チームの仕事は少ないし,読者以外のステークホルダーと協調する必要はあまりない。 ここでは,「差異を認める」という点について触れる。プロジェクトマネジメントのカギは,コミュニケーションである。プロジェクトプロの峯本社長によると,「プロとしての協調関係を築くために今後,異文化とのコミュニケーションあるいはそのマネジメントに焦点が当たる。文化的な多様性を認め合うという認識が希薄な日本人にとってこのテーマはかなり難題」という。 確かに欧米と日本の情報化を見ると相当に違いがある。これは記者としての課題だが,欧米の企業がどのような体制でどんなシステムを作っているかについて,案外書いていない。「米国企業の情報システム部門の人数は,同規模の日本企業の10倍」,「米国企業のほうが日本企業より大型のメインフレームを大量に使っている」といった面白いテーマがいくつかあるので,今後調べて記事にしてみたい。 以上,「プロフェッショナル責任」の範囲は極めて大きい。それでも,企業や社会がプロジェクト型になっていくため,個人一人ひとりが自立できる専門性を持ち,プロフェッショナルとして組織に対して毅然と自己主張していく必要がある。これに対して組織は,プロフェッショナルとその仕事を評価でき,プロが本領を発揮できる場や仕組みを作るべきであろう。 日経コンピュータ編集部は,筆者がプロフェッショナル責任という言葉を知るきっかけとなった書籍「プロジェクトマネジメント大全」を7月15日に発売する。7月15日には出版を記念して,「プロジェクトマネジメント・サミット2002」とよぶセミナーを開催する。セミナーには,米PMIの幹部のほか,プロジェクトマネジメントに関する論客が多数登壇する。こうした方々の発言から,プロフェッショナル責任を感じ取っていただけると思っている。 最後に私事について書く。7月1日付で通算約14年在籍した日経コンピュータ編集部を離れた。独りのプロフェッショナルとして活動すべく目下,新しいメディアを準備している。「またコンピュータ関連の雑誌を出すのか」と呆れる方が多いと思うが,日経BP社の既存の雑誌とはまったく違うものを出す所存である。 まだ会社の許可が降りていないので,詳細は書けない。基本姿勢は,「独りで発行する」,「本当のことを厳しく書く」,「情報量ではなく,質で勝負する」というもの。平たく言うと,一線の記者に戻ってどんどん原稿を書くということである。 17年前,記者になったとき,先輩から「記者のピークは30代半ば。そこから後は,デスクをやるか,過去の遺産で食いつなぐことだ」と言われた。どこかの産業でも,エンジニア30歳定年説が言われたことがあったが間違いであった。記者の世界でも間違いであることを証明したいと思っている。 ■「プロジェクトマネジャの重要性がもっと認知されるべきだ」,PMI東京支部の新会長が抱負 (2002/02/14) ■【記者の眼】「プロジェクトマネジメント後進国」の日本がナンバーワンになる日 (2002/01/11) ■【記者の眼】読者の意見に答える――日本のプロジェクトマネジメント問題について (2002/01/15) ■「IT関連プロジェクトマネジメントの遅れを取り戻す三つの方法」,JPMF筆頭副会長が指摘 (2001/11/19) 富士ゼロックス DocuWorks導入事例シリーズ 〜ドキュメントにまつわる経営課題を解決〜 キヤノン/キヤノンマーケティングジャパン キヤノンの「船積書類管理システム」〜船積書類を電子化し輸出業務を効率化 日本ヒューレット・パッカード 直線的に向上するパフォーマンス“クアッドコア×マルチプロセッサ”の威力 日本アイ・ビー・エム IBMがリリース 最大16CPUまで拡張可能なクアッドコア搭載ハイエンドx86サーバー 日本アイ・ビー・エム/日立製作所 POWER6搭載エンタープライズサーバーが“攻め”の情報化投資を加速 日本ヒューレット・パッカード 130万人が利用する“電子交付サービス”を支える,仮想サーバ環境 日本ヒューレット・パッカード 次世代ASPサービス展開を視野に,第3世代ブレードで社内メッセージング環境を刷新 日立製作所 エンタープライズサーバ事業部 日立だからできるN+1コールドスタンバイ 〜日立BladeSymphonyが選ばれる理由 日本ヒューレット・パッカード コンパクト第3世代ブレード登場 中小規模のシステムにこそ,ブレードのメリットを 日本アイ・ビー・エム ブレードサーバー市場における「IBM 4年連続シェアNo.1」の理由を探る 日本アイ・ビー・エム ITガバナンスとリスク管理〜3つのキーワードでITビジネスの価値を最大化 ブレインセラーズ・ドットコム 帳票設計変更の容易さと多機能さが魅力 作業効率が3〜5倍にアップ 日本アイ・ビー・エム 今,急がれる地球にやさしいITの実現 〜そのカギはITインフラのエネルギー効率化 情報システム 業務アプリケーション 上流工程 SaaS&Enterprise 2.0 グローバル・ソーシング ITpro協力誌 日経コンピュータ 日経コミュニケーション 日経SYSTEMS 日経情報ストラテジー 日経NETWORK 日経ソリューションビジネス 日経ソフトウエア 日経Linux 日経ニューメディア 日経BPガバメントテクノロジー 日経パソコン 日経BPソフトプレス IT経営 システム開発 プロマネ&アーキテクト ネットワーク最新テクノロジー 業績&業界動向 セキュリティ Windows オープンソース 製品&サービス・ディレクトリ 業務アプリケーション 設計開発 OS/DB/ミドルウエア サーバー/ストレージ 運用管理 ネットワーク セキュリティ SIサービス 通信サービス クライアント/OA機器 |
[ 114] 「プロフェッショナル責任」を果たす:ITpro
[引用サイト] http://itpro.nikkeibp.co.jp/free/ITPro/OPINION/20020707/1/
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長い間、僕は佐野元春の音楽を聴き続けてきた。それは僕のソウルをいつだってキックした。僕の背中をそっと押した。僕を支え、僕を包み、僕はそのようにして成長ということの意味を学んできた。 佐野元春の音楽はもういらないと思ったこともあった。佐野がハートランドを解散したときだ。佐野は新しい場所に向かおうとしている。イノセントの喪失というテーマにそれは円還を描いて何度も立ち現れるのだという答えを与え、行動をともにしてきたバンドを解散して、次へ行こうとしている。仮に佐野が新しい表現のフィールドとして選ぶものがロックン・ロールでなくても、それが佐野の選択であるなら構わないと僕は思った。僕はもちろん新しい佐野のトライアルを追い続けて行くだろうが、仮に佐野がもう二度とロックン・ロールを歌わないとしても、過去のレパートリーを再び演奏しないとしても、それが佐野の意志なら受け入れようと僕は思った。なぜなら、僕はもう佐野から十分すぎるほど多くのものを教わったのだし、それらは僕の中にもはや代え難いものとして深く根を下ろしているからだ。だから僕はそれを信じて生きて行けると思ったのだ。ロックン・ローラーとしての佐野が僕たちの前から姿を消すのなら、僕はそれを微笑んで見送ろうと思っていた。約束はもう十分果たされたのだ。 だけど、佐野元春は還ってきた。「十代の潜水生活」を初めて耳にしたとき、僕は泣いた。僕が佐野の曲を聴いて泣くのは特に珍しいことではないけれど(最近涙腺が緩んでるんだ)、この時、僕は本当に泣いた。僕は嬉しかった。一度はそのように見送った佐野が、しかしまたあまりに身も蓋もないシンプルなロックン・ロールとともに還ってきたことが。佐野は表現を老成させたり難解な文学性に逃避したりせず、ロックン・ロールというハードなメディアの前線に立ち続けることを選んだのだと僕は思った。その決断の明快さ、誠実さ、強靭さに僕は泣いた。佐野はあくまで約束を果たそうとしている。その表現がどのように形を変えたとしても、佐野は交わした約束をどこまでも誠実に守り通そうとしている。それは僕のソウルを再び強くキックした。 アルバム「Stones and Eggs」を聴いて、僕はそのことを考えずにはいられなかった。佐野元春がここでやろうとしているのは、彼を20年にわたって支えてきたファンとの約束を果たすことだ。佐野を支持し続けてきたファンが、佐野に何を求めているのか、佐野の音楽の何を信頼してきたのか、佐野はそうしたことに思いを巡らしただろうし、それに応えることで佐野はリスナーとの間に交わされた約束を果たそうとしたのだ。 僕はそれがこのアルバムを作品として必ずしも成功に導いたとは思わない。このアルバムが、トータルにバランスの取れた会心の名作だとも思わない。佐野自身の内発的な動機だけに基づいて、100%のアーティスト・エゴを出しきって制作されているかと問われれば僕は首を傾げざるを得ない。ここにはあまりに生硬で完成を急がれた言葉と、何かに対する配慮のようなものが色濃く残りすぎている。だが、それにも関わらず、僕はこのアルバムを愛する。 それはこのアルバムが、佐野元春から僕たちへのかつてないくらい真っ直ぐなメッセージだからだ。僕はこんなふうに成長してきた、僕はこんなふうに歩いてきて、今こんなところに立っている、どうだい、君は君の生をきちんと成長してきたかい、地に足をつけて歩いてきたかい、僕たちは約束しただろう、一緒にやってきただろう、このメッセージは君の目にどんなふうに映るのか教えてくれよ、だって、嘆いてばかりもいられないじゃないか、と。 僕はこれから、このアルバムについての最終的なレビューを書くつもりだ。そこで僕は、個々の曲や表現について、納得できないものには納得できないと、不用意なものには不用意だと、安易に思えるものには安易ではないかと書くだろう。作品に対してその出来の客観的な良し悪しを論じることは、その背景にある経緯や思い入れと別に、決して無意味なことではない、リスナーにもアーティストにもむしろ必要なことだと思うからだ。 だが、それにも関わらず、僕はこのアルバムを愛する。僕は佐野元春に応えたい、メッセージはきちんと伝わってる、僕は僕の足で立っている、僕は僕の生を成長している、そして、これからも一緒にやって行こう、僕たちは約束したのだから、と。そして、ありがとう、と。 見届ける、ということ、それが僕たちの約束だ。互いに、互いが一人前の大人として、自分の生に責任を持っているかを見届け合うこと、それこそが、僕たちの交わした約束の本質に他ならない。約束を果たすために、僕は自分の生に、佐野元春の音楽に、正面から向かい続けて行く。これからも。 |
[ 115] 約束を果たすために
[引用サイト] http://www.silverboy.com/silverboy/s&e07.htm
