市民とは?
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市民権 (citizenship) は、市民革命を背景にした国や多民族国家では国籍と同じ意味で使われることもあるが、特に法的な権利と義務との関わりで用いられる。国籍と区別して用いられる場合は、その所属する国家内における市民たる資格を意味し、国籍が他国との関係で問題になるのに対し、市民権は国内問題として扱われる。国内で市民権を有する者と有しない者とを区別する場合は、参政権などが完全である者か否かで区別することが多い。国民国家思想の強い日本のような国では市民権は重視されることは少ない。 「市民」がその理想とするところの社会、共同体の政治的主体としての構成員を表すのに対して、「国民」はその「国家」の国籍を保持する構成員であり主権者。 市民と国民は相互に置き換え可能な場合も多いが、そうでない場合もある。たとえば、絶対王制国家の場合、国民は全て臣民であり、市民ではない。また一方でEU市民(EU加盟国の国民のこと)のように国家とは直接に結びつかないような形の市民権もあり、この場合市民を国民と言い換えるのは適切でない。 市町村においては輩出され、或いは当地で活躍した功労者に対して名誉市民の称号を贈る制度を設けている。関連するものとして名誉町民、名誉村民などの称号もある。また、都道府県レベルにおいてもそれぞれ、名誉都民、名誉道民、名誉府民、名誉県民などの称号を設けている。 社会の政治的主権者としての「市民」の定義は様々であるが、以下ようなニュアンスを含んでいると解釈されることが多い。 市民は、自らが市民社会における主権者であることを自覚して、社会的な権利と義務を遂行するとともに、一般意思の実現のために行動する。 以上はニュアンスの問題であって絶対的なものではないが、日本では実際に「市民」という語が左翼の政治的運動で多用されるため、右翼は「市民派」「市民運動」「地球市民」等と言った「市民」と言う言葉が付く行動やその団体を「反体制的=左翼的」なものだと看做す傾向がある。 日本の保守は、「国民」もしくは「公民」を好んで用いることが多い。佐伯啓思は市民を英語のcivicと訳した上で、そのcivicのもう1つの訳語である「公民」を当てている。逆にリベラルは市民という言葉に、ある種の理想像を投影し、好んで用いる傾向がある。これは「既存の共同体としての国家を構成する個人は、その国籍を保有する国民である」と現実主義的に考えるか、「個人が先にあって、その共同体として世界国家がある」と理想主義的に考えるか、個人と国家の関係に対する観念の相違に基づいているものとも考えられる。しかし、日本共産党などは「個人の共同体としての国家」という考え方に立ちながら、「市民」より「国民」という言葉を使うことが多い。また、「市民」は「ブルジョアジー(資本家)」とも訳せることから、新左翼はむしろ「市民」を嫌い、「人民」を使う傾向が強い(勿論「国家」を前提とする「国民」も使わず、「国民」を使用する共産党を批判の対象としている)。 一部の左翼は、国家の枠組みを超える「地球市民」なる言葉を好んで使う。一方左翼に批判的な者は、「地球市民」を非現実性の象徴として嘲笑的に用いている。 古代ギリシアのポリスや、共和制古代ローマにおける男性の自由民は、投票権を持って政治に参画するとともに、兵士として共同体の防衛義務を果たした。彼らは都市国家の住民として「市民」と呼ばれた。(ラテン語で civitas) ブルジョワが経済階級、あるいは身分としての側面を強く持っていたのに対し、シトワイヤンは階級性を排除した、抽象的な市民概念である。 シノペのディオゲネスは、既存の国家(ポリス)を超越した世界政府を構想した。その世界政府の国民がコスモポリタンである。この思想はストア派を介して近代にも受け継がれた。イマヌエル・カントは歴史の終極としての世界政府の理念を論じ、その現実的な不可能性を認めはするものの、現実に有効な法としての世界市民法の可能性を論じた。彼の世界市民法の具体的な内容は、世界市民として現状の各国の市民(国民の意)は相互に訪問権を認められるべきであるといったものである。 |
[ 161] 市民 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E6%B0%91
