幸福とは?
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『幸福について』を読んでみます。解説をするつもりはありません。「幸福」についてのヒントを探し、私なりに考えたことを書こうと思っています。 1 感謝の心 2 幸福の条件 3 幸福への道 4 快楽と幸福感 5 天与のもの 6 太陽は万物に等しく照る 7 愛を感じる心 8 童心、無心、素直さ 9 小説「幸福者」 10 家庭の幸福 11 嫉妬と同情 12 現実への認識 13 友情 14 理想と現実 15 克服 16 生と死 17 健康 18 大調和の道 19 生き抜く勇気 20 適度な快楽 21 健康な精神 22 善意と根気 23 鍛錬−天運 24 夫婦愛 25 健全な社会と健全な個人 26 他人の幸福を喜ぶ心 27 己を知る 28 よき政治と今みんの幸福 29 美しき日本の誕生 私が読んでいる「幸福について」は、「武者小路実篤人生論集4 幸福の条件」(講談社・1966年刊)に収録されているものです。古い本です。 人の目、人からの評価を気にして生きている人は、まず自ら幸福を感じることが大事。そのためには感謝すること。 私が気になったのは、親と遺伝が幸福に大きく関係する、と書いているところだ。親の性格、クセ、病気、子育てのやり方、生活環境などが子供の幸福に影響を与えるのは間違いはない。また、その親からの遺伝を子供が受け継いでいることも確かだ。しかし、そういう親の比較や決まっている遺伝のことを考えてもしかたがない。結局は自分の今の環境の中から、自分の幸福を見つけ、さらに求めて自分の環境を変えていくしかない。 過去の不幸や自分の欠点は幸福に変えることができると、私は信じている。それができれば、過去に不幸なことのあった人、性格に問題があった人ほど、より大きく確かな幸福をつかむことができる。私はそういう人たちをたくさん見てきている。過去の不幸や、性格の欠点は、自分の幸福になる能力を大きく向上させる最上の材料となる。そう考えることが自分が幸福になる方法だと思う。 武者小路実篤さんも、「しかしだから生まれが万事をきめるとは言えない」と書いている。そして、次のようにも書いている。 「性格は中々なおらないものである。しかし、生まれながらに幸福になれないときまっている人は沢山いるとは思わない。大概の人は、一寸した注意で幸福にもなれ、不幸にもなれる人と思う。ただ幸福になるには日常の注意と努力が必要である」 そのとおりだ。もう1つ私はつけ加えたい。1つの性格が人間のすべてではない。人間は誰でも欠点を持っている。1つの性格のためにその人が不幸だというのは、幸福になる努力をしない言い訳でしかない。私たちが味わうことができる幸福はそんなせまいところだけにあるのではない。いくつかの問題を抱えていても、それを見つけようとすれば、私たちは幸福を得ることができる。 「尊敬すべき幸福な人は、逆境にいても、つまらぬことはくよくよせず、心配しても始まらないことは心配せず、自分の力のないことは天に任せて、自分の心がけをよくし、根本から再生の努力をする人である」 快楽を得るのにも努力がいることは多いし、タナからボタモチのような幸福もある。私は幸福感を得るのは主に習慣によると考えている。しかし習慣にするためには、はじめに意志と努力が必要だ。でも習慣にさえなってしまえば注意も努力もいらなくなる。 さっき「幸福を得るには絶えざる注意と努力がいる」と書いていたではないか。ということは、幸福と幸福感(もしくはそのメカニズム)を区別しているのだろうか?さらにこの章の最後には、 私は快楽なときに、「幸福だなぁ」と思えることが大事だと思う。快楽はたくさんある幸福の中の一種だと思う。たくさんの幸福の中のどれを選ぶかはその人しだい。一時の快楽だけでは、飽きたり、生活に支障がでたりすることも考えられるが、それも程度問題。どんなことでも過ぎると問題がある。だから快楽を追求しても過ぎなければいいと思う。そういうのに飽きたり、苦しくなったらやめればいい。快楽を頭から否定はできない。 「過ぎてはいけない」に関して例外がある。それは「幸福過ぎる」こと。「私は幸福過ぎる」と言う人がいれば、それはその判断が間違っているだけ、「私はすごく幸福」が正しい。そういうのは多くの場合、人に対するポーズか、余程の悲観主義者だ。 前章の最後に、「本当の幸福は天与のものである」とあった。幸福は運命で決まっている、と採れなくもない。そうではないようだ。この章で武者小路実篤は、次のように書いている。 そのとおりだ。自分に与えられたものを生かすしかない。自分に与えられた資質、環境、出来事を幸福に生かせばいい。 ここで、「私には特別いいもの与えられていない」と考えた人がいるかもしれない。ここに書かれた天与のものをプラスのイメージをしている人が多いと思う。私はマイナスのものも含めて天与のものだと思う。天からは不幸なものも与えられることもある。それらも自分の幸福に生かせると思う。与えられた一見不幸なことを大きな幸福に結びつけた人はたくさんいる。 どんなに幸福そうな状態にいる人でも、本人が幸福を自覚していなければ、その人は幸福ではない。その自覚をもたらしてくれるのが、感謝や反省などの方法である。これは幸福のキーポイントの1つだ。 「分に応じて」という表現が何か卑屈な感じがしないでもないが、「自分なりに」のように考えれば、そのとおりだと思う。 完全な幸福(望みが高すぎる)、不可欠な幸福(執着しすぎる)など、幸福を求めすぎると幸福になれない。やはり、分に応じた自分の幸福が誰にでもあるということだろうか。 私は結果だけでなく過程の幸福も大事だと思う。夢を持って生きている今の幸福、人を幸福にしようとする幸福、困難も含めていい経験をする幸福、自分が成長しつつある幸福。このような幸福は結果ではなく、ただ自分がすれば得られる幸福である。これなら誰にでも得られる幸福だと思うのだが・・・ 「一人一人の人間に愛されているというよりも、神とか、天とか、自然とか、真理とかに愛されていると思う方がやや正体にちかい感じである」 「ある人は幸福を感じ、ある人は同じ目にあっても不幸を感じるのは何かと言えば、それは心の用意のちがい、心の置き処がちがうからである」 「幸福を感じ易い人と感じにくい人があるが、それは幸福の神のせいではなく、感じる人間の心の用意のちがいである」 そのとおりだと思う。童心は精神世界の言葉を使えばインナーチャイルド(内なる子供)、誰もが心の中に持っている。子供のように素直に幸福を感じられたら、と思う。 私はたぶん大学の時に「幸福者」を読んだが、内容はまったく憶えていない。いずれ読み直してみようと思う。 「不幸は不幸として悲しむことに僕は賛成する。不幸まで無理に幸福と思おうとするものは、悲しみの意味を知らない。自然に悲しむべき時は悲しむがいい」 私は「幸福になる方法」の5番めに「不幸を幸福に変える」を入れている。私も一時的な不幸はあり、悲しむべき時は悲しんでいいと考えている。よくないのはいつまでも不幸を引きずって生きたり、過去の不幸のせいにして今をあきらめたりすることだ。そういうことから立ち直り、幸福に暮らすための方法として、過去の一時の不幸を生涯の中での幸福に変えることをお勧めする。 ここで私が学ぶ点は、不幸に遭った直後に性急に先の幸福を求め過ぎないことだ。悲しむべき時が去ってから、不幸を幸福に変えるように心がけることが大事だ。 対人的な考え方で自分が嫉妬して苦しむのはよくない。「対天的」は武者小路実篤的考え方のようだ。私なら対自的がいいと思う。人の幸福よりも自分の幸福を基準にすればいい。 そのためには、現実で起こる事実を受け入れ、幸福になるように考え行動し、結果のいかんにかかわらず、その経験の中から自分の幸福になる能力を向上させていくのがいい。(言葉では簡単だ) 「よき友を持つものは、自分の方でもよき友になれるものでなければならない。自分だけが得することは不可能である」 友に求めすぎてはいけない。理想の友を求めてはいけない。友に依存してはいけない。本当の友は、互いの欠点も受け入れた上で適当な距離でつきあっていけるものだと思う。 「真に理想を実現しようと思うものは、よく現実を知って、現実の力と性質をよくのみこみ、それを生かすことに面白味を感じ、困難にあっても、勇気を失わず、ますます自己の真価が発揮出来るのを喜ぶ」 「笑って死ぬ、あとのものの幸福を望んで死ぬ、人類のために役立つことを喜んで死ぬ、子供の幸福を考えて死ぬ」 幸福な死よりも幸福な生き方を考えたほうがいい。少なくとも自分の死ぬときがわかるまでは。でもそれが何ヶ月も前にわかる人はあまりいない。わかったと思ってもそれが正しいとは言えない。わからないで死ぬ人もいる。 当り前のこと、でも大事なこと。身体の調子が良ければ気分もいいし、気分が良ければ身体もイキイキしてくる。身体の調子が悪いときに気分がよくなるようなことをし、気分の良くないときには元気に身体を動かすのも幸福になる方法だと思う。 「病気になっても病人になるな」と言われる。病気はその人の一部だけど、病人はその人そのものだ。「病は気から」とも言う。病気の時に修業するというのは、超前向きだ。 イキイキと生きる、心が生きるとはどういうことだろうか。どうすればいいのだろうか。考えるより、やりたいことをやったほうがいいのかもしれない。 これも当り前だけど、大事なこと。正しい生活で重要なこと、健康、人、お金(仕事とお金の幸福な使い方)。 自分をよりよく生かす、自分の能力を発揮する、自己実現。その多くは、夢や目標、そして、人の役に立てること。 今の日本では特に生きぬく勇気がなくても生きていけるような気がする。ただし、幸福に生きるためには、時に勇気も必要だと思う。 快楽も幸福の要素の1つだが、どの幸福が良い悪いなどとは言えない。幸福は、人それぞれ、その場、その時で変わる。 幸福を素直に感じられる精神、将来の不安におびえない精神、夢や希望を持てる精神、人の幸福を願える精神、前向きに生きられる精神。 「謹しむことを知るのは大事だが、自分のなすべきことは勇気を持ってなさなければならない。根気よく、勤勉で、不精をしないことが大事である。 たしかに、さけようのない不幸や、予期せぬ不幸に出会うこともある。しかし、運命が決まっているわけでわない。自分の心がけと行ないによって将来は変わっていく。 人の幸福を喜ぶことが、義務感や道徳心に基づく振るまいや、人の目を意識したポーズだったら、そうしたくないと思ってもしかたがない。 「幸福になるには、用心深く、注意深く、しかも善意を持って、皆の幸福を望み、そして現実と運命の力を知り、自分相当の生活を謹み深くすることである」 |
[ 68] 『幸福について』武者小路実篤
[引用サイト] http://www.din.or.jp/~honda/tokio14.htm
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この項目では心理的状態について記述しています。映画作品については幸福 (映画)をご覧ください。 幸福(こうふく、Happiness、Happy)とは、自ら満ち足りていると感じており、安心している心理的状態のこと。 幸福は極めて主観的なものである。恋愛に例えれば分かりやすいが、個人・個性の数だけ価値観があるが、あくまでも本人の主観的な価値観によって、本人が満ち足りていると感じている心理状態をいう。 客観に外形的様式として所定の状態があるわけではない。また、幸福度を数値化(定量化)することも出来ない。例えば、本人以外の誰かには “幸福ではない”と見える状況にいるとしても、その評価はあくまで観察者の主観におけるものであり、その状況を当人が幸福だと感じていれば、それはまさしく幸福である。 幸福を欲求の充足に結びつけて考えてしまう人にとっては、欲求が満たされればそれは以前の状態に比べて幸福ということにはなるが、この欲求の正体が分からず、自分が何を求めているかが理解出来ずに焦燥感に駆られる人や、欲求に主導権を譲り渡してしまったことで、欲求が限りなく膨張しつづけそれを満たしつづけることが出来ず苦しむ人も少なくない。そんなこともあり、欲求に重点を置いた社会心理学者アブラハム・マズローの説明では、人の欲はある段階を達成すれば更なる高い段階を基準とするために「絶対的幸福というものは存在しない」などともされた。ただし、幸福をもっと深く探求する哲学や教えなどにおいては、絶対的幸福というものの扱いは異なるようである。 この辺りは「曲肱の楽しみ」(曲肱:肘枕で寝る事・貧しい事の例え)等の語が端的に表している通り、やはり「楽しい」「幸福である」という状態はその主観において主体的に見出す事であり、如何なる状況においても「ものの見方」を変えたり、自らの「心のありかた」を意識的に選び取ることよって見出すことができるとされている。 なお、法律でも幸福は扱われている。基本的人権には幸福追求権が含まれており、法律上誰でも等しく幸福になる権利を有していると考えられている。この幸福追求権は、他人の幸福追求権を不当侵害しない限りに於いて、制約される事は無い。他の表現をするならば、いくら己の幸福を追求していようが、他者の幸福を侵害しないことには注意を払う必要がある、ということである。 人間は古来より幸福になるための方法に深い関心を寄せてきた。幸福についての考察や、幸福であるためにはどのような生き方をすべきであるか、その方法論を提示した文章・書物は、一般に「幸福論」と呼ばれている。 人間は古来より物質的豊かさを求め、飢えた状態よりも満腹した状態を、吹き曝しで寒いよりもしっかりした屋根と壁の暖かい住居や暖かい衣服を求めてきた。しかしその一方では幸福が精神の在り様にも依存することから、幾ら足掻いても満たされない部分を精神性の追求に求めてもいった。例を挙げるなら死は不可避な損失だが、宗教が死後の概念を発明し、これが人の死に対する恐怖を癒してきた。また浄土や天国・極楽など、一種の救いとしてのシステムを設けることで、死は損失から希望にすら昇華されている。 原始宗教ではアニミズムなりシャーマニズムないしトーテミズムのように、自然と人間、あるいは人間と神秘(理解が及ばない現象など)の関係を問う様式で、現象を擬人化した精霊という概念を生み出し、その精霊を労わったり歓待することで便宜を図ってもらう様式も発展した。より近代化すると、現人神ないし神格のような「より高次の存在」を示すことで、宗教は自己組織化などの変化をしていった。 ただ報われない現世の救いを来世に求める思想はしばしば時の施政者によっても都合よく利用されたりもしており、こういった混乱は多かれ少なかれ様々な近代化された宗教の上で旧弊ともなっており、またその問題は新興宗教ないしカルトにおける搾取といった社会問題にも通じている。 とはいえ多くの宗教では、その理念の根底に「人を幸せにしたい」という哲学的思想があり、その方法論は宗教や宗派によっても様々ではあるが、これらは人が人間である以上、社会とは不可分であるという視点(→社会的動物)もあって、人個人から社会に於ける人間としての在り様に至るまで、戒律のような形で道を示したり、あるいは説話などを用いて諭す様式が見出せる。 こういった性質上、寺院を含む宗教施設の関係者は、一種のカウンセラーとしての社会的な機能を持っていたが、その一方で宗教施設はハレの日(祭り)におけるシンボルともなり、近代に於ける生活の中で節目を彩る要素でもあり、地域住人の不安や悩みを解消し、また地域社会の一体感を向上させる施設であった。しかし近代以降の日本では宗教観の衰退にも伴い、こういった社会的機能が求められない・機能を持たないこともあり、また新興宗教に対する否定感も手伝って宗教の形骸化は進行している。平成不況より日本人の自殺増大傾向は社会問題として2006年より日本政府も自殺総合対策会議を設置して対応策を進める中、宗教法人の中には自殺予防を呼びかけるキャンペーンを行っているところも2000年代より増加している。ただ、ケースによっては宗教絡みで自殺する者もいるなど、単純ではない(→自殺)。 例としては、ある人が子供の頃に憧れた職業に進むため、適性を無視してその方向に邁進、結果として途中で挫折した場合には、当人にとって大変な損失であり不幸である。よしんばその途中過程で、まだやり直しが利く段階での成功は、その瞬間には「幸福な出来事」といえるのかもしれないが、結果論から言えば「いよいよやり直しが利かなくなる状態に陥っただけ」ともいえる。 「棺を蓋いて事定まる」(『晋書』・劉毅伝)という格言があるとおり、ある現象が、その人物にとって果たして本当に幸福か否かは、その後の長い期間を経過しなければ、単純には判別出来ない複雑性がある。なお落語には「人の値打ちと煙草の味は、煙になって判るもの」(意:煙草は火を付けて吸うまで良し悪しが判らないが、人は葬式が終わって火葬されるまでは、どれだけの価値があったかが正確には判じ難い。)という下りもあるという。 故事を引用すれば、古代中国の『淮南子』人間訓に「人生万事塞翁が馬」(元の僧、熙晦機の漢詩「人間萬事塞翁馬 推枕軒中聽雨眠……」の冒頭。)がある。「塞翁が馬」とも称されるこの話には、人の幸不幸は縒って作った縄の目のように、交互に訪れる(「禍福は糾える縄の如し」・幸も不幸も交互に訪れるため片方ばかりは続かない)などの類似する故事・説話・慣用句なども数多い。 人生万事塞翁が馬:ある塞(城塞)のほとりに、老人とその息子とが暮らしていた。ある日、彼ら親子の馬が突然逃げ出してしまったため、周囲の人々は馬を失った親子を気の毒がったが、当の老人は「不幸かどうかは果たして分からんよ」と、意にも介さない。間も無く、逃げ出した馬は立派な馬を連れて戻ってきた。不幸が転じて幸運となったために周囲の人々は親子の幸福を感心したが、老人はやはり意に介さない。間も無く、息子がこの馬から落ち脚が不自由となってしまったため周囲は同情したが、それでも老人は意に介さない。その後、戦争が始まって村の若者は皆兵に徴収され、ほとんどが戦死してしまったが、息子は脚が不自由であるため村に残った。こうして、老人と息子は共に生き長らえ暮らしたという話である。 ある人物が幸福であるか否かは、上述の様に、客観的なものではなく、あくまでも主観的な感情であるため、周囲から判断することは困難である。また精神病の上では幸福感が得られなくなる症状もあり、発症者には適切な治療が必要である。 幸福感を得られなくなる病気としてうつ病がある。この病気は絶望感で悶絶するもので、患者自身にとってうつ病は他に比較できない苦痛を発生させ、何ごとに対しても思考することが困難な状態に陥り、極度の絶望感に苛まされることになる。この状態では無意味に苦しいだけなので、現代医学の視点からすれば一刻も早く心療内科に駆け込み、適切な治療を受けるべきである。 うつ病は現代医学において治療法が確立されていることもあり、投薬などの治療によって回復後に本人自身が思い返して「一体何故あんなに思い詰めていたのだろうか」と呆れる程にドラスティックに回復する病気でもある。また同症の発症は「心の風邪」という形容詞が示すように、「誰でも発症する恐れがあるが、放置すれば命にかかわることもある(万病の元)」でもあるため、早めの治療こそが有効といえよう。 ところが、本人が病気と認めず治療もせずに絶望感のなかで頑張り過ぎた挙句自殺してしまうケースも、日本を含む先進諸国を中心に社会問題となっている。 この項目「幸福」は、調べものの参考にはなる可能性がありますが、まだ書きかけの項目です。加筆、訂正などをして下さる協力者を求めています。 このテンプレートは分野別のスタブテンプレート(Wikipedia:スタブカテゴリ参照)に変更することが望まれています。ただし、サーバー負荷軽減のため、スタブテンプレートの変更は加筆とともに行ってください。 |
[ 69] 幸福 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F
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この項目では北海道にあった広尾線幸福駅について記述しています。くまがわ鉄道のおかどめ幸福駅についてはおかどめ幸福駅をご覧ください。 幸福駅(こうふくえき)は、北海道帯広市幸福町にあった、旧日本国有鉄道(国鉄)広尾線の駅(廃駅)である。広尾線の廃止に伴い1987年に廃止された。駅名の縁起の良さから乗車券や入場券などで有名であり、廃止後も観光地として整備されている。 もとはこの一帯はアイヌ語で「サチナイ(乾いた川の意)」と呼ばれていた[1]。1897年(明治30年)、福井県大野から集団移住が行われ、入植者によって幸震の字があてられた。「ナイ」に震をあてたのは、地震のことを古語で「なゐ」といったことが理由である。これがのちに音読みされて「こうしん」となった[2]。その後、幸震には福井からの移住者(「福井団体」という)が多かったことにちなみ、集落名が幸福と改められた。 1956年11月1日、幸福に、広尾線幸福仮乗降場が設置され、翌年駅に昇格した。片面ホーム一面に線路一線の棒線駅の構造であった。 この駅は一部の旅人に注目されていたが、1973年3月、NHKの紀行番組『新日本紀行』において『幸福への旅 〜帯広〜』として紹介されたことから知名度が上昇した。 周りの駅は相次いで幸福駅までの乗車券を増刷し、幸福駅付近の商店も入場券の販売をするようになる。特に幸福駅より二つ帯広駅寄りの愛国駅と併せて、「愛国から幸福ゆき」という切符が一大ブームとなる。1974年にはこれを元にした歌「愛の国から幸福へ」(歌:芹洋子)も登場した。前年には7枚しか売れなかった愛国−幸福間の切符が、この年は300万枚、4年間で1000万枚も売れた。観光客が多数訪れるようになり、待合室の内外に利用者が名刺や使用済みの定期券などを記念に残すようになったのもこのころからである。 隣の大正駅を始めとして広尾線には愛国駅など縁起の良い名を持つ駅が点在しており、これらの駅との間の乗車券も活発に発行された。例えば「大正駅 - 幸福駅」で「たいそう幸福」といった具合である。あるいはそれらの駅相互の間でも「新生駅 - 大樹駅」などの切符が人気を集めた。 しかしこのブームも広尾線全体の営業改善にはあまり結びつかなかった。最末期は一日片道6本という同線の便数の少なさもあって、この駅を訪れる観光客自体観光バスやレンタカーを利用することが多かった。同線は1984年に第2次廃止対象特定地方交通線に指定され、1987年2月2日をもって幸福駅は広尾線とともに廃止となった。 幸福駅は当時に始まり、現在もなお継続する縁起の良い駅名の入場券・乗車券を求めるブームの嚆矢となった駅であり、全国のローカル線やローカル鉄道会社に記念入場券で収益を補うという新たなサイドビジネスを提案することとなった。幸福駅の事例により全国の縁起の良い名前を持つ駅、たとえば学駅・妻駅・真幸駅などが入場券をアピールしようとするのである。そして松浦鉄道の大学駅やくま川鉄道のおかどめ幸福駅、南阿蘇鉄道の南阿蘇水の生まれる里白水高原駅など、特に第三セクター鉄道において、入場券の販売を目的とした新設駅の駅名選定あるいは駅名改称なども起こっている。 幸福駅は廃止後も待合室・ホーム・レール共々そのまま保存されている。1990年代後半には農村公園として、観光バスも利用可能なアスファルト舗装の駐車場やトイレ、花壇などが整備された。現在でも、待合室には現役当時同様に名刺や定期券などがびっしりと貼り付けられ、1990年代半ば以後はプリクラシールもしばしば見られる。レール上にはディーゼルカー2両とモーターカー1両が静態保存されている。ホームの入り口には「幸福の鐘」が、付近には後述するイベントのための小屋が廃止後付け加えられた。 駅舎近くの売店では「愛の国から幸福へ」として知られる愛国駅から幸福駅ゆきの切符などのレプリカが販売されている。これらは地元企業により通信販売もなされている。 さらに帯広市の商工観光部観光課によって、「幸福駅ハッピーセレモニー」という結婚式風のイベントが夏季を中心に行われている。帯広観光コンベンション協会からは同駅の訪問者に対して「幸福からのメッセージ」というクリスマスカードを送るサービスも行われている。 幸福駅の場所は国道236号を帯広市街より南へ25kmほど。とかち帯広空港の西側に位置する。国道からはディーゼルカーが遠望でき、目印となる。帯広広尾自動車道の幸福インターチェンジも間近。十勝バス広尾線大正27号下車。 |
[ 70] 幸福駅 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E9%A7%85
