脚色とは?
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特に強いサプライズはなしだが、ここでも『ドリームガールズ』落選。 公開前は相当強いコンテンダーのはずだっただけに失望も大きい。 『Borat』候補入り等 脚色部門ならではの候補入りが目立つ。 キュアロン作、フィールド作等最後の最後までギリギリのラインの作品もありけしてイージーな部門ではない。 この部門も脚本部門同様にほぼ当確マークが出せないのが辛いが上位3人のいずれかに決まるものと思われる。 特に、モナハン氏は娯楽色の強い本作を単なるリメイクではない新しいアメリカのギャングものとして洗いなおしており台詞の決め方も鋭いので、オリジナルよりも台詞の多さという意味を入れればモナハン版は非常に優れている。 彼の現時点での優位は揺らがない。 後の2作も有力ではあるが舞台がイギリスであることや、政治色、セクシャルな色合いがそれぞれ濃いので、その部分をどれだけ肯定的にオスカー会員に捉えられるかにかかっている。 『キングダム・オブ・ヘブン』からいきなりの大ブレイク。 45歳の新人だなんて伊達じゃあありません。 香港ノワールを米国アイリッシュマフィアものに翻訳してしまうあたりギャングものに精通しており、ニコルソン爺が「役が小さい」と文句たれれば、書き換えてしまう柔軟さも今後が期待されます。 ジュラシック・パークの続編も控えており、どちらかというと賞レース作品より娯楽作品での成功を考えているあたり、オスカー会員から「がんばって」票が望めるかもしれません。 『クローサー』も駆け引きやら嘘やらが濃厚に立ちこめ、今度は女同士の友情の裏側を思いっきり嫌な面引き延ばしで見せつけ、人によっては完全に拒否反応を起こしそうです。 なんでー?!前作『愛についてのキンゼイ・レポート』はオスカーから助演女優以外締め出しを喰らってしまいました・・。 俺はビル・コンドン、オスカー受賞作『シカゴ』の脚色やったのに・・・。ヒドイ仕打ちだ。許せない!!とか何とか言っていませんね、ビル・コンドン先生は。 今回黒人オール・スターキャストでショウビズ界を舞台に華やかなミュージカルで観客を魅了します。 「ちょこっと人を集めてやった試写でだめだった」とかいう理由では駄目。 その決断を促したマーケティング部門は即刻首にしましょう、 せっかくたくさんの人がスクリーンでこの作品を観る機会を駄目な仕事で奪ったのですから当然ですね。 何かと映像に注目が集まっていますが今、世界中で起きている「不都合な真実」を物語にした手腕高く評価されていると言って良いでしょう。 |
[ 154] 脚色
[引用サイト] http://www.asahi-net.or.jp/~IS8T-HGS/sub5-adapted-screenplay-july.html
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ニュース報道を鵜呑みにしてはならないということは頭ではわかっていたが、ここに、自分のことがからんでくると、痛切にそう感じる。 さらには、ねじまげて伝えようとする意図があれば、話を少し書き換えるだけで、読み手に全く逆の印象を与えてしまうことが可能であると、私のことを書かれた腹立たしさと同時に、言説発信者のひとりとして、自分がそうしてはいないのかと恐さを感じた体験があった。 とある女性団体での講演で「皆さん、痴漢に遭ったときほんとうに嫌な思いだけでしたか?内心少しはうれしかったのではないですか?」とまで発言、周囲の大顰蹙を買った ここで書かれた発言を、私が、女性団体の講演で行ったというのだ。こんなことは言っていない。このように書かれると、私が話した主旨を完全にねじ曲げて伝えていることになる。言説を発信すれば、誹謗中傷を受けることもでてくるという証左なのかもしれない。 女性団体で講演したのは1回しかない。人前で話をすることがかなり回数になると、どこで何を発言したのかを逐一覚えているわけはない。女性団体での私の発言がどうであったのかは定かではないが、女性団体とはちがう別の場所で、次のようなことを語った記憶はある。 生涯、1回も痴漢に会ったことがなかったとして、「私の人生はラッキーだった」と思うかどうか 女性の人権を踏みにじり、相手の合意なくして、自分の欲望のはけ口としての痴漢行為が卑劣であるのは当然の前提として、ここでは、セクシュアリティの微妙さという別の視点からの話をした場面であったわけで、痴漢行為をいささかも容認する主旨ではなかった。 障害を持つ女性がいた。傍からみて、明らかに障害をもっている人だとわかる状況の人だった。その人が、あるときに、電車の中で痴漢にあったという。痴漢にあうという唾棄すべき体験なのだが、このことをきっかけに、その女性は明るくなったというのだ。 障害をもっている。だから、周りは、自分を女性扱いなどしてくれないと、たぶんそういう思いだったのだろう。もちろんここには、女性として認められるかどうかが男性側の「扱い」の反映であるというように、ジェンダーの視点からいうときわめておかしな考え方だといえるのだが、だからといって、その障害をもった女性が思っている気持ちをトンデモナイことと非難する権利が誰にあるだろうか。 一方では、障害者に卑猥な行為をしても、相手は訴えないだろうから安全だなどという、立場の強弱を利用した、障害者への差別と女性への差別という二重の卑劣な行為を行っていることが、この問題のウラに潜んでいる。だから、こういった問題を語るのは、誤解を招くこともありとても難しい。二重の人権侵害を行った痴漢をいささかでも容認することはできない。かくして、セクシュアリティの微妙な彩を語ることは、人権問題との間で、まさに綱渡りをすることになる。それでも、封印し口をつぐむことになれば、私たちの視野は広がらない。こういった問題に触れるのはリアクションを考えればもちろん恐い。それでも、話さないことは話すことよりもっと悪いことだと考えて語る場面もあった。 大学に入る前なので、20歳にはなっていない若い頃のことだ。当時、東京で大学浪人をしていて予備校に通っていた。しかし、親元を離れたこともあって、ときどき(しばしばか?)女装しては電車に乗り新宿などの繁華街を歩いていたことがあった。若く、自分の性のリビドーをコントロールできにくい年齢ということもあったのか、男性である自分が嫌で、女性でありたいとかなり一途に思っていた時期だった。 この時期、電車のなかで、初めて痴漢にあう体験をした。ここらあたりのいきさつは、私の本『私はトランスジェンダー』に詳しく書いているので参照していただきたいのだが、ここでは、今回のエッセイに関係する部分を引用しよう。 必死に電車を下り、やっとの思いでアパートの部屋にたどり着く。部屋の真ん中に座り込んだとたん、全身の力が抜け、さっきのことが、痴漢のことが、何度も何度もフラッシュバックする。まだあのときのショックと興奮で体中が火照っていた。 たしかにとてもショックだったのだが、時間が経つと、心の片隅では別の声も聞こえてくる。 このように言い切るのはたやすい。痴漢をするときの男性が、相手の女性の人格や感情をまったく無視していることは明白だ。女性を自己の欲望を果たすためのモノとして見ている、というのもよくわかる。 私たちのようなトランスジェンダーの場合、男性からの痴漢行為を通して、自分の「女性性」を確認する、という屈折した心理が働くことがないと断定できるだろうかということ。もちろん、トランスジェンダーの人がみんなそうだというわけではないが。 生物学的に女性に生まれていれば、自分が女性であることを他人から確認してもらおうなどという発想すらありえないだろう。スカートをはくのも、化粧をするのも何もためらう必要はない。でも、男性に生まれたら、女性でありたい、あるべきだと思い、他人からも女性と見てもらいたいと願っても、それは容易なことではない。だからこそ、女性として見てくれる他人の視線に快感に近いものを感じてしまう。 痴漢という人権を冒涜する行為ですらも、セクシュアリティが織りなす彩のなかでは、自分のアイデンティティを確認することになることだってありえたのだ。現在のように、フェミニズムもなく、性同一性障害よトランスジェンダーよと言えなかった昔は、十重二十重に入り組んだ心理状態があったとしても不思議ではない。今の状況を知るだけで過去を推し量ってはいけない。 私の事例や障害者の女性の事例は、「痴漢=卑劣行為」と断罪しただけで語り終えるという単純な心理ではないことに、少しでも思いを馳せていただければ幸いだ。 私の講演を聞きにきている人の中には、フェミニズム運動をやっている女性やジェンダーフリー教育を実践している女性もけっこういる。そういう女性の前で、上記の話をすることがかなりきわどいことであることは百も承知である。それでも、多様な心理があるという話を私はしたかった。 「私の人生はラッキーだった」と思うかどうかという私からの問にたいして、とあるところでの、性教育に携わっている女性からは、概ね、YESとNOが半々である意見を聞くことができた。きわどい質問に、率直に答えてくださった女性の方々に感謝している。 さて、冒頭に載せた女性団体で話したという「周囲の大顰蹙を買った」と書かれた件について、このような事実はない。どうしてここまでして嘘を書かなければならないのか、全く理解に苦しむ。 女性団体で、この痴漢の問題を話したかどうかは記憶は定かではないが、百歩譲って、仮に話していたとしよう。 きわどい問題であるため、必ずしも、私の真意が理解されたとはかぎらず、なかには「トンデモナイ」と非難の目で見る人もあったのかもしれない。それは納得できることだ。事実、私の著書を読んで、上記の部分について批判めいたメールをいただいたこともある。私に対して厳しく批判する人がいたとしてもそれは不思議ではない。しかし「周囲の大顰蹙を買った」となると、事実とは全くちがってくる。 女性団体での講演で、質問のときに、とくに詰問されたということもなかったし、その後、女性団体の主催者メンバーの方と、かなりの時間、飲みあって語らった。しかし、この痴漢問題に関する話題は全くでなかった。さらには、後日、この女性団体のある方が関わっている雑誌から、講演に来ておられた女性の方を通じて、8000字という長文での原稿依頼を受けたことがあった。「周囲の大顰蹙を買った」のであれば、そんなイカサマ的な人物に、どうして原稿依頼をするだろうか。この事実をもってしても、「大顰蹙」という言い分がいかに嘘であるかがわかるのだが、他人を攻撃しおとしめようとする意図を持てば、事実はどうとでも曲げられるという好例だ。 歪曲されたアナウンスを、「それはちがう」と反論するのはなかなか難しい。表に現れた事象をどのように解釈するかで事実すらちがってくるからだ。あなたの解釈と私の解釈がちがった場合、どちらが事実かの証明は極めて難しい。 ここでとりあげた事例は、「周囲の大顰蹙を買った」はずなのに、顰蹙を受けた本人に、女性団体に入っている方を通じて原稿依頼があったというような、事実のねじ曲げを否定しうる合理的な事象が存在したことで、明確に証拠をつきつけて反論できたケースにすぎない。多くのケースについてはなかなかこうはいかない。多くは、明確な反証をすることが難しく、下手をすると「いいわけをしている」とすらみなされる。 脚色された事実を流してしまうと、批判を受けた当人の事実を吹き飛ばしてしまうことにもなりかねない。他人を批判するということは、かように恐いことだと、言説を紡ぐものとしての自戒としたい。さまざまな角度からのクロスした事象の積み上げを探る努力を惜しんではならないと思う。 幸い、今のところは、私への攻撃は、必ずしも人の心をつかんではいなくて逆効果を生んでいると判断している。というのは、私が攻撃を受けた場に居合わせた、現実の場での私とおつきあいがある女性から、「みんな(攻撃者に対して)怒っている」「頑張ってほしい」などの励ましの手紙をいただき、攻撃者の意図は空振りに終わっていると考えられるからだ。 過去には(というより、つい最近まで)、私自身も、「自分の正義」を振りかざして、これが正義の理論だとばかりに殴りかかっていったことがあった。故日高六郎さんは、『戦後思想を考える(岩波新書)』のなかで、「〈正しさ〉と〈かしこさ〉だけでは、ほんとうに人びとを納得させることはむずかしいのではないか」と書いている。〈正しさ〉と〈かしこさ〉を振りかざしてつきすすんでいった過去の自分があったのではないか。そしてそのときには、私の主張は空振りに終わっていたのではないかと、自らを反省させられる。 自分がつきすすんでいっているときには、その馬鹿さ加減はみえてこない。攻撃が自分に降りかかり、そして他の人から励まされたりすると、つきすすむ攻撃者の馬鹿さ加減がみえてくる。人間の認識とは、かように皮肉にはたらくものだ。 こんな境地になると、攻撃者への怒りも半分以下になってくる。昨日の自分をみているようで、むしろ苦笑いの気持ちにすらなる。まだまだ達観する歳でもないと思うが、気持ちにフッとゆとりが出てきたのは不思議だ。 |
[ 155] 「人間の壁」佐賀県の先生方と
[引用サイト] http://miyazakirumiko.jp/Essey054.htm
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すべての機能をご利用いただくためには、JavaScriptの設定を有効にしてください。設定方法は、ヘルプをご覧ください。 一言メッセージ :映画を観るは易し、作るは難し。いつの日かイーストウッドのようになりたい。Make my day! 今話題の『電車男』にハイド挑む!___なんて、大げさなものじゃありませんが、本を読んだ時から脚色案が色々と頭によぎってきました。それを簡単に書き留めてみようと思います。 その前に、『電車男』について詳しくない方は、まずは表の人格ジェレミーが書いた映画の感想記事「『電車男』___ネット発の純愛コメディ キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!!」をご覧下さい。 2ちゃんねるで書き込みがなされていた時は違ったかもしれないが、一冊の書物としての『電車男』の面白さはまさにそこにある。"電車男"の書き込みに一喜一憂する"名無し"たち。時に"電車男"を励ましたかと思えば、気付けば彼らこそが"電車男"に励まされている。こんな奇妙な関係を描かずして『電車男』とは呼べないとハイドは思うのです。その点においては、映画版『電車男』は健闘していたがちょっと浅いという印象。狙いがロマンティック・ラブ・コメディになっていたので、あれはあれでいいんですけどね。 ネットの特異性と言えば、もう一点あります。それは、書き込まれた言葉が書き込んだ人物の本心かはわからないこと。これを表現するために、コメントと人物の不一致を前半に印象づけたいと思います。 (例)"電車男"を励ますコメントを書いているのに、仲間や恋人とバカにしている。 それ故、"電車男"に夢中になると地が出て来てしまうのはありうること。 ⇒「真か偽か」の議論が熱くなっていくと、"名無し"たちの熱狂ぶりも観客に伝わる。 まぁ、こんな感じでしょうか? 映画ではオタク3人組が"爆撃"を受けるイメージ映像が使われていましたが、お互いに顔もわからない仲間たちという設定にした方が、ネットの特異性と彼らが"電車男"を通して繋がっていくのがわかりやすいでしょう。 本作の面白さは、「モテない男たちが"電車男"のコメントで傷ついていく」というスレの特異性にもあります。そこで、導入部で観客にしっかりと認識させる必要があるでしょう。 うん。こんな感じかなぁ? この後、時を遡り、平和に軽い"爆撃"を受ける住人たちを描いてから物語に入っていけば、2ちゃんや本を知らない人にも、上手く伝わるでしょう。 当たり前ながら、この恋物語の主人公たちの顔を誰も知りません。"名無し"たちは皆勝手に想像していたのです。 ならば、二人の実像を画面に出さない方がいいとハイドは考えます。映画版のような描き方の利点もわかった上で、敢えてハイドなら出さない方を選ぶのです。 そうですね。できることならば、作品内でピックアップする主要な"名無し"たち数人のイメージ映像で、二人の恋話を綴っていきます。よって、Aにとっては"エルメス"だけアニメの美少女キャラかもしれません。Bにとっては、"電車男"が"エルメス"を称する"中谷美紀"がそのまま登場するかもしれません。また、今ひとつ書き込みを信じていないCにとっては、"電車男"は40代ぐらいのブサ男かもしれません。はたまた、女性のDにとっては、とっても端正な顔立ちの"電車男"が登場するかもしれません。 ラストでは、"電車男"&"エルメス"らしき人物をちらりと登場させるのはアリでしょう。それを、"名無し"が目撃する。彼らは気付かない。でも、書き込み内に出て来た小道具(なんでもいいです)がキラリと光り、"名無し"は振り返る。こんな感じがいいかなぁ。 いずれにせよ、多彩なイメージで"電車男"&"エルメス"を描いた方が、ネット上で繰り広げられた奇妙な物語には適しているように思えます。監督で言えば、『鮫肌男と桃尻女』『Party7』の石井克人監督にお願いしたいような脚色案ですね。あっ、となると"名無し"さんとして我修院達也さんの出演は決定だなぁ(笑)。 これは、映画版にも出てきます。しかし、彼らが乗り越える壁が不明瞭なんですね。何にぶつかり、何を乗り越えたのかが「雰囲気」でしか描かれていません。色々尺の問題もあったんだとは想像できます。でも、こここそ面白いところだと思うんですが。 ハイドが脚色するならば、当然彼らの背景をしっかりと描くことに全力を尽くします。何にぶつかり、どう乗り越えたのか? 映画に出てくる瑛太演じるひきこもりならば、外に出てバスで女の子と出会う(?)のが成長とは思えないんです。むしろ、ひきこもったまま出なくていい。廊下に置かれた食器を取りにくる母親に「おいしかった」と壁越しに言うだけで、もう彼は成長したと思うんです。彼にとっては、家族と向き合うことこそが最大の壁だったのですから。 という訳で、また無責任に勝手な脚色案を披露してしましました^^;。こんな自己満足のための記事を最後まで読んで下さって、ホントありがとうございました! 名無し同士の出会いって、この時代これからも増えるでしょうね。。。私は、現に名無しの出会いとその素晴しさを味わっているだけに、余計伝わってくるものがあるんだろうな〜。この映画を通じて、ブロガーは増幅するように思うのは豆だけだろうか?そして、危険な出会いを経験する人も増えるような・・・・。。。。変な社会現象に発展しない事を祈りたい。 電車男、本屋で手に取りましたが、2Chanそのまんまで驚きました。できれば、リアルタイムで傍観したかったです。原作、映画も見てないですが、ハイド式脚色は好奇心をくすぐられました。ネットの特異性なくして、ただのラブストーリーに終わらせるのはもったいない。ブロガーは匿名といってもある程度本人が透けてみえますが、2チャンの投稿者は完全匿名。その名無し同士の虚像と実像を見せるとなればぐっと面白さが増すと思います。(ミミヅク) つまりハイドさんは「2人の恋愛」というよりはそれを取り巻く「ネットユーザーの群像劇」として脚色したわけですよね?この場合、主軸となるキャラはどのくらいの人数が適当なんでしょうか?あんまり多すぎると各個人の描写が薄くなる可能性がありますよね。でも、この案のラストは「それがそれぞれの…」という所がすごく余韻を残しそう!『映画』の方はやはり少しファンタジックだったのでしょうか?これはそれに対する逆アプローチですか?す、すみませんえらそうで…(>_<) 【まめさん】そうですね。出会い系サイトなどを利用せずとも、こうやって簡単に見知らぬ他人が出会える。これは素晴らしいことである反面、色々と問題があることも確かです。ミミヅクさんも書かれてますが、厳密に言えば、ブロガーの場合は"名無し"ではありません。でも、いくらでも嘘をつけるのはかわりませんからね。ブログは誰かを陥れる武器にもなりうる訳です。現に、まめさんもジェレミーなんかのネット恋人になったようですしね。知らないぞぉ〜〜〜!(笑) 【ミミヅクさん】ハイドもリアルタイムで体験したかったです。おぉ〜! ハイド式脚色案に興味をもってもらえて嬉しいなぁ^^。確かに『電車男』は恋愛ドラマの側面はありますが、それは他でやればいいこととも言えるんですよね。もっとも、本作をネタにリスクをおさえて映画を製作するためには、ハイド案よりも今回の映画化案の方が賢いとはハイドも考えます。でも、もったいないんだよなぁ〜〜!^^; 【miskatonic_mgs_bさん】やっぱり鋭いですねぇ〜!^^; そう、群像劇にするにはそこが問題になってくるんですよ。ただ、『ラブ・アクチュアリー』の成功からもわかるように、しっかりと脚本を練りさえすれば、19人の群像劇だって可能なんです。情報整理がうまくいけば、観客の混乱もないんですね。とはいえ、主要"名無し"は6組8名前後が適正じゃないでしょうか。脇役としてはうじゃうじゃ出すにしても。 【miskatonic_mgs_bさん2】ちなみに、上記脚色案は概ね映画化の概要を知る前に考えたものであり、映画化案と敢えて違えた訳ではありません。個人的には、もっとマニアックな小品として考えておりましたので。また、二人の恋愛を主軸に置かないと考えたのは、彼らの出会いは実話(かどうかわかりませんが)だからこそ目新しいのであって、ドラマ・映画の世界では決して目新しいものではありません。プロセスも至って単調ですし。その辺り、脚色を担当した金子ありささんも悩んだようで、後半の展開は原作とは変えています。まさに「"オタク"の成長物語」を主軸においているんです。この脚色プランは見事で、運び方に若干の不満はあるもののハイドも気に入っています。完成作には、ファンタジックな面もありますが、割とシビアな視点も持った作品ではあります。よかったら、ビデオ化されたら観てみて下さいね^^。 「実像を画面に出さない」こっちゃんも同感ですね。そーいえば、くまたんも、そんなコトを言っておりました。2チャンネル発の出版本とはいえ、その切り口については製作者サイドも大分悩んだのではないだろーか?こっちゃん的にはハイド版の方が絶対おもろいと思うナァ〜(*^o^*)こっちゃん 【こっちゃん】やっぱりくまたんさんも言ってましたか。ネット社会を描くためにも、これは避けられないものだと思います。製作サイドもきっと悩んだのだと思いますよ。ただプロジェクトが大きくなりすぎてしまった以上、妥当な判断だったとは思います。村上監督、金子さん、こんなところでぐちぐち言ってすみません!^^; でも、こっちゃんに褒められたからいいやっ♪ ハイドさんのオープニング案いいですね!私もそういうのを見てみたかった気がします。それこそ、「電車男」の真の面白さを描いてると思います。あと、主役の二人を出さないことで、名無しそれぞれの妄想を描くってのも面白そうですね。まあ、実際は映画としてなんぼ売れるかってところもあるんでしょうから、結局、今回のが妥当だと私も思います。あとはこれにちょっと膨らませたらもっと面白くなったかなって。 楽天広場<スコア順検索>にて、ただいま注目を集めているキーワード「電車男」でこちらの記事が29376件中、上位 16位にあるため、キーワードサーチのブログランキングで紹介させていただきました |
[ 156] ハイド、『電車男』を脚色する - HYDE LABO 〜シナリオのカクレガ〜 - Yahoo!ブログ
[引用サイト] http://blogs.yahoo.co.jp/hyde_labo/4608471.html
