柳沢とは?

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柳沢敦(やなぎさわ あつし、1977年5月27日-)は、富山県射水郡小杉町(現射水市)出身のサッカー選手である。ポジションはFW。
スペースの作り方、オフ・ザ・ボール(ボールを持たないところ)の動きが得意。2002年日韓W杯での日本の得点にも貢献した。
反面ストライカータイプの選手ではないため、「点の取れないFW」という批判が多く、ゴール前での積極性・確実性を欠き、またメンタル面が弱いという欠点があるといわれる。本人も「点を取るだけがFWではない」[1]「たとえGKと1対1になっても、必ずしもシュートは打つ必要がない」等と語り[2]、そのことが物議をかもしたこともある。特に代表でのパフォーマンスには賛否両論があり、トルシエ時代にはゴール前フリーの場面でラストパスをシュートせずに見送り、監督の逆鱗に触れて途中出場ながらわずか5分で交代させられたこともある[3]。傾向としては2001年のイタリアとの親善試合でのボレーシュートのような難易度の高いゴールが多い一方で、ドイツW杯でのクロアチア戦(後述)のような大一番の試合でフリーの簡単なシュートを決められないことも多く、それが批判の要因となっている。
一方、ジーコやブッフバルトなどは彼の能力を高く評価している。特に日本代表監督であったジーコは、フォーメーション・ポジションの変更に対しての柔軟さを買って、代表メンバーに柳沢をコンスタントに召集した。
2006年 - 現 在 鹿島アントラーズ(2006年3月1日から6月30日までレンタル移籍、2006年7月以降は完全移籍)
中学時代にU-15日本代表に選ばれる。富山第一高校時代からJリーグのスカウトの注目を集め、高校3年の時の高校選手権では超高校級プレイヤーとして大会の目玉となった。
1996年:富山第一高校卒業後、鹿島アントラーズに入団。1年目から出場し、リーグ戦で6得点をあげる。
1998年:22得点をマークし鹿島のエースに成長。岡田ジャパンでA代表初招集され、1998年2月15日の親善試合オーストラリア戦で代表デビューを飾る。4月4日の対京都パープルサンガ戦では1試合4ゴールも記録している。5月5日の対ジュピロ磐田戦でもハットトリックを達成。しかしゴールへの執着心に欠ける点を岡田監督から指摘され、フランスW杯の最終メンバーに入るには到らなかった。
1999年:トルシエ監督下のU-23代表ではエースとして期待されていたが、1999年代表合宿を抜け出して当時の恋人梨花と密会していたことを写真週刊誌フライデーに掲載され、一時期代表に呼ばれなくなった。
2002年:日韓ワールドカップにFWとして選出される。W杯ではゴールを決めることができなかったが、ロシア戦で決勝点につながるアシストを記録している。献身的なプレイが評価され、2003-2004シーズン開幕前にイタリアセリエAの古豪サンプドリアに期限付き移籍ではあるが念願の海外移籍を果たす。同年12月24日、モデルの小畑由香里と入籍。
2003年-2004年:サンプドリアではリーグ戦15試合に出場するも無得点に終わる。サンプドリア側に契約延長の意思は無くサンプドリアを退団。柳沢は引き続き海外でのプレーを希望したため、鹿島には戻らず同じセリエAのFCメッシーナと契約する。(鹿島からの1年間の期限付き移籍)
2004年-2005年:メッシーナではリーグ戦22試合に出場するも、またも無得点に終わる。またこの期間、ジーコからも日本代表の召集がかからなくなた時期があった。シーズン途中からMFとして主に左サイドで起用されるようになる。W杯アジア最終予選イラン戦を控えた2005年3月22日、藤田俊哉の負傷離脱後に日本代表に緊急招集。これが2004年7月13日の親善試合セルビア・モンテネグロ戦以来8カ月ぶりの召集だった。イラン戦では途中出場を果たし、福西のゴールにつながるポストプレイをこなした。6月3日のバーレーン戦では1トップとして先発に復帰し、6月8日の北朝鮮戦では5試合523分ぶりのゴールをあげた。またコンフェデレーションズ杯のメキシコ戦でもゴールをあげる活躍を見せた。
2005年-2006年:2005-2006シーズン開幕前には柳沢本人が残留を希望しメッシーナに完全移籍を果たす。ただ、このときはメッシーナ側に移籍金を満額払える余裕はなかったため移籍金の半額だけ払うという「共同保有」の形を取った。そのため、契約が満了した場合の優先交渉権は鹿島に残り、Jリーグのクラブが獲得を打診する際の窓口も鹿島になるという形を取った。しかし、出場機会は乏しくノーゴールが続いた。苦しいシーズンが続いたが日本代表に召集されたホンジュラス戦では2ゴールをあげるなどの活躍もみせた。2007年11月現在、これが最後の国際Aマッチのゴールである。ドイツW杯の出場に向け、12月には出場機会の少ないことに不満を訴えクラブに移籍を希望。2006年2月28日に契約は解除され、2006年3月からW杯終了の6月末まで古巣鹿島への期限付き移籍という形で了承された。
2006年:鹿島では背番号は13番。日本での復帰戦となった2006年3月11日のJリーグ開幕戦のサンフレッチェ広島戦ではスタメンでフル出場、ハットトリックを達成。これがJリーグでは、自身3度目のハットトリックとなった。しかし同年3月25日のジェフ千葉戦で右足の痛みを訴えて交代、翌日に右第5中足骨骨折で全治2カ月と診断された。怪我の影響が心配される中、2006年ドイツW杯日本代表の23人に選出される。5月30日の本選前のテストマッチドイツ戦で試合に復帰。ドイツW杯では対オーストラリア戦、クロアチア戦に出場。最終戦のブラジル戦は欠場。W杯終了後にはレンタル元のメッシーナとの交渉により、鹿島アントラーズへ完全移籍した。オシム新監督就任後の日本代表には選出されず、J復帰元年は4得点に終わった。
2007年:本田泰人の引退を受けて鹿島の新主将に就任した[4]。選手会長との兼任。4月21日に左第5中足骨(小指)骨折。ナビスコ杯準々決勝第二戦の広島戦で85日ぶりに復帰。2アシストを記録。Jリーグでは第5節を最後にフル出場がなく、田代有三、興梠慎三の台頭でスタメン落ちも多くなってきている。
メッシーナでは、ゴールを決めることは出来ず、「点が決められないFW」として非難されることもあった。([5])
メッシーナでは、なおレッジーナとの海峡ダービーで決勝アシストを決め「柳沢は海峡の王様だ」との見出しが地元紙に載ったことがあった[6]
出場機会の減少にもかかわらずメッシーナ2年目のシーズン開幕前には今年の注目選手として特集記事を組まれたり、地元ではMFとしてある程度の評価を得ていたようではある。
05-06シーズン開幕前にレッジーナでプレーしていた中村俊輔がスコティッシュ・プレミアリーグのセルティックに完全移籍、フィオレンティーナでプレーしていた中田英寿がFAプレミアリーグのボルトンへ期限付き移籍したため、05-06シーズンにイタリア・セリエAでプレーする唯一の日本人プレイヤーであった。
ドイツW杯2戦目の対クロアチア戦では、ゴール目前で加地亮が大きなチャンスを作るもそのチャンスをシュートミスで逃した[7]。世界各国のメディア・著名人からも厳しい評価を受け[8][9][10]、これに関して柳沢は試合後「急にボールが来たので」(俗に言う『QBK[11]発言』)と釈明[12]。プロのFWにあるまじき態度であるなどとしてネット社会を中心とした従前からのバッシングが激化。これまで柳沢を擁護してきたジーコさえも、後日ブラジル報道陣とのインタビュー中に「準備不足」と批判した[13]。そのシュートについて、ボールに触れた時点で実はオフサイドであり、仮にボールが枠内に入っていてもノーゴールだったのではないか、あるいはパスのスピードが速く、それほど簡単にシュートを打てる状況ではなかったのでは、などとして一部のファンの中には同情的な意見もある。また、加地のキックは柳沢へのパスではなくゴールを狙ったシュートであり、それがミスで柳沢のところに来たとの見方[14]もあり、三浦知良も「(柳沢は)こぼれ球を狙っていた」[15]と推察している。
ゴールを決めないFWのイメージが強いが、6大陸すべての対戦相手からゴールを挙げるという珍しい記録も持っている。
俺のシュートを受けてみろ!-若きストライカーの自画像(1997年、主婦と生活社、ISBN 4391120364)
カテゴリ: 編集半保護中の記事 | 日本のサッカー選手 | サッカー日本代表選手 | オリンピックサッカー日本代表選手 | 鹿島アントラーズの選手 | サンプドリアの選手 | メッシーナの選手 | 富山県出身のスポーツ選手 | 1977年生

[ 129] 柳沢敦 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E6%95%A6



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