とんねるずとは?
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コンビ芸人だがとんねるずはボケとつっこみの役割が特に分れていないスタイルである。デビュー当時のプロフィールにはそんな自分たちの存在を“カリスマ芸人”と記載していた。とんねるずは現在の若手お笑い芸人における、特定の師匠を持たないお笑い芸人の草分け的存在である。 共に東京都出身で帝京高等学校を卒業。在学中、石橋は野球部、木梨はサッカー部に所属。この2つの部の交流は盛んで、部室内でのモノマネや一発芸などを披露を通じ、それぞれの部の「一番面白いヤツ」とお互い認識したのが出会いのきっかけ。当時は主に先輩や先生のモノマネなどで、共に校内の人気者であったという。 石橋は高校在学中から「ぎんざNOW!」(東京放送)や「TVジョッキー」(日本テレビ)をはじめとした、素人参加番組の常連であり、アントニオ猪木のモノマネやスポーツ選手の形態模写をはじめとする芸で一部の視聴者から注目されていた。なお同時代のライバルには竹中直人がおり、TVジョッキーのザ・チャレンジ(素人お笑い勝ち抜きコーナー)グランドチャンピオン大会で第3代チャンピオン石橋と初代チャンピオン竹中が対決している。 また石橋ほどの頻度ではないが主に和田アキ子のモノマネで素人参加番組に顔を出していた木梨を、高校卒業の記念として石橋が誘い、所ジョージ司会の「ドバドバ大爆弾」に出演。それがコンビとして初めてのテレビ出演となる。「お笑いスター誕生」の出演までは、賞金を合計で多く得るために、意図的にバラバラで出演することもあったという。 帝京高校卒業後、2人は一般企業(石橋はホテルセンチュリーハイアット、木梨はダイハツ)に就職するものの、「お笑いスター誕生」へのチャレンジ決意を機に再会。漫才ではなく、モノマネや一発ギャグ、学校やアイドルタレントの一コマを演じるコント等面白いものは何でもエネルギッシュに演る多彩さで、素人ながら5週目まで勝ち抜く(当時のコンビ名は「貴明&憲武」)。 それを契機に2人は退社、1980年に正式にコンビ結成。コンビ名も「とんねるず」と改め「お笑いスター誕生」にプロとして再挑戦して挑むが、惜しくも10週目で落選してしまう。またこの時期、同番組NTVの赤尾プロデューサーの紹介で、赤坂のクラブ「コルドンブルー」におぼん・こぼんの後釜として所属。芸風がクラブの客層に全く合わず、厳しい下積み修行時代を過ごした。 ちなみに、現在のコンビ名「とんねるず」は、NTVプロデューサー(当時)・井原高忠(通称:ター様)が貴明のTと憲武のNをもじった「とんまとのろま」と「とんねるず」を提案し、本人たちに選ばせた(井原はザ・ピーナッツの命名者でもある)。 1981年には西城秀樹司会の朝の情報番組「モーニングサラダ」にレギュラー出演も、些細な事から前出のNTV・赤尾プロデューサーと衝突。一貫してNTV系番組出演タレントであったとんねるずは同局から完全に干されることになる。この間は新宿御苑のパフォーマンスバー「KON」に出演するなど、再び下積み時代を過ごした。また、この頃は同じショーパブ系タレントであるビジーフォー(いそがしバンド)やアゴ&キンゾーらと交流を持ち、グッチ裕三宅に居候していたこともある。 その後、西城秀樹の初代マネージャーが設立した新事務所「AtoZ」の所属第一号タレントになり再浮上の機を窺うことになった。同事務所の社長は、当時のお笑い芸人には無縁だったスタイリストをとんねるずに付け、派手なブランドの代名詞でもあったK-FACTORYの衣装をコンセプトとするなど、イメージプロデュース戦略を図った。また現在に至るまでとんねるずの重要なブレーンであり、彼らの楽曲の作詞を行っている秋元康との出会いもこの時期である。 こうして周囲の環境も整え、エネルギーも充分に蓄えたとんねるずは1983年、深夜の人気番組「オールナイトフジ」を皮切りにテレビ復帰。当初は番組後半に5分のコーナー「とんねるずの見栄講座」をもらったに過ぎなかったが、その後「とんねるずの何でもベストテン」「とんねるずなっわけだぁ!」とコーナーや番組内のOA時間が早まるにつれ、学生を中心とした、若者に爆発的な支持を集め、翌1984年に放送した同番組の「女子高生スペシャル」の発展形としてスタートした「夕やけニャンニャン」(1985年-1987年)では片岡鶴太郎、吉田照美を脇役に追い立てるほどパワーと存在感を示した。 その後も「オールナイトニッポン」「トライアングル・ブルー」などレギュラー番組を順調に増やしてゆく。 またこの頃、新・ど根性ガエルのテーマ「ピョン吉・ロックンロール」以来のシングル「一気!」をリリース。 テレビでは、ゴールデンタイムの初の歌番組となった、TBSの「ザベストテン」でのコーナー「今週スポットライト」で「一気!」が歌われた際の格好と、態度が普通の芸能人とあまりにも、かけ離れていた(学生服に微動を打にせずいつもの二人とは違う芸風だった事などが)ことが、一般人には、大きなインパクトを与えるなど、彼らの勢いと、視聴者の驚きが見事にシンクロし、大きなヒットを記録をする。この出演をきっかけに、深夜番組だけでなく、本格的にとんねるずを世に知られる事となった。 同曲は「オールナイトフジ」のコーナーでも毎回歌われ、セットを壊す、思い余ってTVカメラを倒壊させる、自ら勝手に「カリスマ芸人」と名乗る、などのインパクトある言動で、視聴者に強烈な印象を与えた。ちなみに1985年には、「一気!」のあまりの人気に、前述のとおり断絶状態であったNTVが動き、「スーパージョッキー」に歌手としてとんねるずを呼ぶことで、当時の関係者だけが知る事実上確執の「手打ち」となった。 このようなアイドル的な人気も集める一方、「コラーッ!とんねるず」や「夕やけニャンニャン」などで披露するコントにお笑いファンからも注目されるようになる。二人とも180cm前後の長身でお笑い芸人としては珍しく、ルックスも良かったことから、女性からの人気もあった。 当時はこの人気も一時的なものと見る向きもあったが、「とんねるずのみなさんのおかげです」で本格ブレイク。「仮面ノリダー」「保毛尾田保毛男」などのコントが好評で、放送当初は視聴率30%超えを連発。それと並列するように音楽活動にも精力的に臨み、ヒットを重ねスターの座を不動のものにする。 その後も「ねるとん紅鯨団」「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」といった長期レギュラー番組に出演。「とんねるずのみなさんのおかげです」が終了し、充電期間を挟み「とんねるずのみなさんのおかげでした」とリニューアルした後も長きに渡って一線で活躍する、漫才ブーム以降を代表するお笑いコンビである。 近年は別々での仕事が目立ち、石橋は得意のスポーツ、料理を題材にしたレギュラー番組出演、木梨はそのお気楽キャラを生かしたCM出演など、両名ともに活動の幅を広げている。 デビュー当時は、それほどでもなかったが、オールナイトフジ出演以降に若さとエネルギー全開「ナ!訳だァ!」節炸裂の過激トークや、スタジオで所狭しと暴れるなどの勢いに任せた行動が茶飯事だった。そのためか、テレビを観ている視聴者はおろか共演者すらも笑顔がひきつるようなハプニングもしばしばで、そのハチャメチャな行為を繰り広げるその光景は常に賛否の渦中にいた。特に出世番組ともいわれる「夕やけニャンニャン」ではアイドルによって態度が激しく違うため、自分が好みのアイドルが不本意なイジられ方をすると「あの石橋や木梨の態度は絶対に許さない」と不満を買った。しかしこれらも本人たちの計算とも言え、視聴者が自らをブラウン管の彼らに投影できるような身近なスタンスこそがとんねるずの魅力でもあった。 なお、とんねるずのトークの中にはその時代の流行を反映した言葉が多く用いられている。例えば「○○みたいな〜?」と語尾に付ける言葉は若者中心に使われているが、これは主に東京近郊の女子大生が使う言葉を敢えてとんねるずがTVで誇張して用いることで、全国的に広まった。 他にも「ねるとん紅鯨団」から端を発した「ねるとんパーティ」「ツーショット」、「ねる様の踏み絵」で使われた「元サヤ」など、彼らが発信元となった言葉は数多い。また、今では普通に使われる「○○系」「○○状態」も彼らが発信源である。 「内輪ネタ」もとんねるずの特徴である。ただし、これはある一部の放送関係者だけに向けた発言である事が多く、しかもその発言内容も視聴者にはわかりづらいものがほとんどであった。(古くはひょうきん族でもこの傾向は見られ、当時は“楽屋落ちネタ”と呼ばれた)。また、「とんねるずのオールナイトニッポン」ではトーク内容がほとんどスタッフ(放送作家、マネージャー、プロデューサー、高校時代の友人など)の話題で占めるため、ハガキ職人の書くネタの内容もその話題を受ける格好で放送関係者絡みのネタが目立ち、常連のリスナー以外が番組に馴染みづらいという側面もあった。 その「スタッフを表舞台に出す」というスタイルの一つの形が「野猿」の結成であり、その「スタッフネタ」から生まれた番組企画、コントも多数。でとんねるずならではのものであった。 近年、お笑いタレントがバラエティ番組の中で出演アイドルを面と向かって呼び捨てにする場面は珍しくはない。しかしこの点もとんねるずが元祖といってよい。それまでは礼儀として、また業界の暗黙のルールとしても“御法度”であった。 これは旧世代の芸人/漫才師の在り方に由来する。彼らの仕事は演歌歌手の前座が多く、正月の隠し芸大会等でもあくまで歌手や人気アイドルを引き立てる幇間であり、“歌手のおかげで食べさせてもらえる”意識が強かった時代の名残である。萩本欽一、タモリはもちろん、毒舌と言われたビートたけしでさえも、誰かを呼び捨てにするのは、本やラジオ、TVの各メディアで本人がいない場所に限られていた。これは明石家さんまを含めた漫才ブーム系芸人でも同様に守られており、呼び捨てはあくまでも芸人の先輩後輩や仲間の“同業者間”でのみ許されるものであった。もしもこれを侵せば業界から抹殺されかねないほどの約束事とも言え、対スポーツ選手でもこれは同様であった。 この状況の変化は、ビートたけしの登場から始まっている。大学生活を経験したという意味で芸人としては異色の存在であったビートたけしは、歌手やアイドルが実は間抜けで頭が悪いという面をどんどんネタにすることと、本格的な哲学をも怖じずに知的に語る活躍によって、お笑いタレントの地位を徐々に上げていった。ビートたけしが開拓したマルチタレントカテゴリに位置するとんねるずのルールは明快で、体育会のルールをそのまま芸能界へ持ち込んだ“年齢が上か下か”という点にのみ基準を置いている。年下は問答無用で呼び捨て、そしてスタッフや関係者には目上であっても“ちゃん”付けかあだ名を付けて呼ぶというものである。素人系のオールナイターズからおニャンコまでは躊躇なく呼び捨て、アイドルに対しても、当初から比較的絡む率が高かったシブガキ隊辺りから、「薬丸、テメー!」のような呼び捨てもハッキリと確認されるようになる。それ以後は、必要に応じて呼び捨てにしているようである。 傍若無人とも取れる行為であるが、とんねるずの場合は過去の風習も充分承知した上でのことであり、自己プロデュースの一環ともいえる。ガキ大将キャラ・とんねるずだからこそ周囲も納得して認めているものでもあり、これが業界に受け入れられたのは、芸人として確固たる結果を残しているためだろう。 とんねるずの二人はともに幼少時から超の付くTVっ子であり、特に「8時だョ!全員集合」のザ・ドリフターズをはじめ「カックラキン大放送」の堺正章、井上順、ラビット関根らのマンザイブーム以前のバラエティ番組全盛の時代の影響が強い。マンザイブームの時期はともに部活動に忙しかったこともあり受けた影響は少なく、独特の個性を持つコンビとなった。 バラエティ以外で影響を受けた者としては矢沢永吉、アントニオ猪木、「傷だらけの天使」の萩原健一らが挙げられる。 石橋貴明は素人時代にTVジョッキーで竹中直人と知り合いそれ以後親交が続いている。またお笑いスター誕生の出演者らとも交流を深めた。特にシティボーイズとはお互いネタを見せ合い評論し合う仲であった。他に小柳トム(現BGBブラザートム)や草野球友達としてツーツーレロレロ等と交流があった。1983年の再デビューまではショーパブ出演で知り合ったビージーフォー等と親交を深めた。特に、石橋とグッチ裕三との関係は、ホモかと思われるくらい仲が非常に良く、現在では妻鈴木保奈美と含めて家族ぐるみの付き合いをしている。大木こだまとはお笑いスター誕生以来の交友がある。 元々師匠も持たず、お笑いとは言え、漫才でもなくコントと言っても従来のスタイルではないとんねるずは他のお笑いタレントと共演する事が難しく、事務所と秋元康のイメージ戦略の中で常に番組の中にコーナーを設けて個別に好きな事をさせてもらえる環境を選び、新しいタイプのタレントの価値を模索する事になる。その為に先輩お笑いタレントと絡む番組は選ばず、表面上はマンザイブーム系のタレントとの共演は殆どなく、同業者の交流も前出のお笑いスター誕生系タレントが中心であった。ただし同年齢のタレントとは盛んに交流を深め、田原俊彦、久保田利伸、チェッカーズ等はプライベートでも会う友人である。このようにどちらかと言えばお笑いタレントに偏らず、タレント全般で幅広い交流を持つのがとんねるずの特徴でもある。 タモリはとんねるずが素人時代、お笑いスター誕生出演時にあまりに突飛なネタで他の審査員からさほど共感を得られなかったなか、「お前らなんだかわからねえけど面白い。」と褒めたことからとんねるずは好印象を抱いている。(2007年10月4日放送の「とんねるずのみなさんのおかげでした」でタモリと共演した際に)とんねるずは、「タモさんがお笑いスター誕生の審査員じゃなかったら僕たちはこの世に出てなかった」と語っている。この当時、とんねるずを褒めていたのはタモリと赤塚不二夫だけであった。 志村けんは、石橋の中学生素人時代の相方(島崎伸一・現制作プロダクション経営)が、ドリフターズの付き人になったことから、当初は石橋と付き合いが深かったが、後に木梨との付き合いが深まり、木梨自身もキャラクター設定、コントの作り方などで志村から多大な影響を受けたこともあり一時は「コンビ結成」の噂が立つほどだった。この件について石橋自身が志村本人に抗議して終息するという一幕もあった。ただこの付き合いの過程の中で、とんねるずはイザワオフィスとつながりを強めることに成功。後の独立へとつながる。 若手芸人との共演はナインティナインのねるとん紅鯨団出演を境に(その後、岡村隆史は1997年3月の「とんねるずのみなさんのおかげです」最終回の「仮面ノリダー最終回スペシャル」にてノリダーの分身役を演じた)積極的になり、年々増加傾向にある。また、吉本興業所属の芸人とも共演が多くなったのも特徴で、いわゆる「ダウンタウンファミリー」と呼ばれる今田耕司や東野幸治とも2000年以降共演する機会を持っている。また前出のナインティナインやロンドンブーツ1号2号、天然素材らは自らも語る通り、とんねるずの影響を直接受けた世代である。 一方で、同じくお笑い第三世代のダウンタウン(浜田雅功、松本人志)との共演はほとんどなく、唯一同一番組に出演したのは1994年に放送された『FNS番組対抗!なるほど!ザ・秋の祭典スペシャル』のみである。そのため一部のファンの間では不仲説が囁かれているが、どちらもそれぞれ看板番組を持てる力量のメジャータレントなので、帯番組で共演させる意味は業界的にほとんどなく、実際の所はお互い特別な感情は持っていない。過去にあったビートたけし、タモリ、萩本欽一の不仲説と同じ類と思われる。 余り知られていない事として、『お笑いスター誕生』時代に草野球の助っ人要員としての始まりで交流のあったビートたけしを元祖マルチタレントの先輩として尊敬している。この事はとんねるずの著書に記載されている。とんねるずブレイク後、オールナイトニッポンのスペシャル番組(そのときに第一部を担当していたパーソナリティー全員が集まった)で共演した際には、恐縮して静かなとんねるずに対して、ビートたけしは歌を披露し、「歌だして、とんねるずの人気を落としてやろうと思ったけど、俺はムリだな」と発言し、とんねるずを苦笑させている。また、ビートたけしの弟子であるそのまんま東(東国原英夫・宮崎県知事)などとは深く交流している。 また、横山やすしとは「うちの子にかぎってパート2」の第2話で最初で最後の共演を果たしている。また、やすしと同学年の田村正和と関口宏とも共演した。奇しくもやすしが演じた居作新太郎が経営する新聞配達店の店員の青年役を演じた。 フジテレビのバラエティ番組「オールナイトフジ」のレギュラー当時、「一気!」の歌唱中、エキサイトした石橋が1台数千万円するテレビカメラにしがみついて倒し、壊してしまった。それから数年はフジテレビのNG名場面集番組などでその場面が繰り返しオンエアされ、倒したカメラを前におののく二人の姿は初々しくも微笑ましい。ちなみに放送業界にも保険という制度があるため、弁償は免れている。また同番組では青年の主張をやはり歌いながらセットに登りまくり破損している。ただ、同局の当時の看板音楽番組だった「夜のヒットスタジオ」の出演時は、プロデューサーの疋田拓の持つあまりの威圧感に萎縮してしまいカメラ転倒パフォーマンスを行うことはできず、石橋がカメラに近づき、木梨が「危ねえぞ!」と注意するに留まっている。 TBS「ザ・ベストテン」でも「一気!」の歌唱中にテレビカメラを倒している。当時の司会者黒柳徹子らも顔面蒼白になり、石橋は弁償を考えたが、テレビ局にとってはこのようなアクシデントもそう珍しいことではなく、また故意にやった訳ではないと判断され、結局は保険によって解決されたらしい。 TBS「うたばん」(放送時スペシャルの為、番組名「とくばん」)では、木梨が番組内で獲得した商品をカメラにぶつけ転倒させている。木梨は「大丈夫ですか?保険に入っていますよね?」とマネージャーの尾崎に確認し、逃げるように撤収した(カメラは無事だった)。中居正広が観客を煽ったことで、場内は「オールナイトフジ以来!」コールになった。 テレビカメラの破壊ではないが、日本テレビの歌番組「歌のトップテン」にて、「やぶさかでない」の歌唱中にカメラを強奪するというハプニングがあった。当時の司会者徳光和夫と石野真子、さらには番組スタッフに迷惑をかけてしまい、のちのマネジャーが番組終了後に謝罪した。ちなみに強奪したのは、前述の「オールナイトフジ」「ザ・ベストテン」でカメラを破壊させた石橋である(木梨もつられて強奪し、石橋の局部を映していた)。 またこれもテレビカメラの破壊ではないがTBS「ザ・ベストテン」で過去に日本平での生放送で出演した時、とんねるずがスタッフの担ぐ御輿の上に乗り、客席の間の通路を通ってステージに向う演出を行ったところ、御輿に観客が殺到、御輿の上の木梨は最後まで「危ない!」と殺到する観客に驚き、石橋は御輿から落とされ、その後殺到する観客に殴りかかってしまった。その様子は司会をしていた黒柳徹子や小西博之は、ただ見ているしかないほど凄まじい状況であった。その後ステージには無事に上がったが、二人の衣装はボロボロになり、怒りのあまり石橋は会場に向かってマイクを通し、「ふざけんじゃねぇよ!この野郎!!てめぇら最低だ!」と吐き捨てた。その後の歌も木梨はまともに歌おうとしたが、石橋は怒鳴るような感じで歌った。 オールナイトフジのとんねるずコーナーで募集を行った舎弟軍団。応募条件は大学生。ここでも高卒が大学生を自由に扱う下克上美学が炸裂。当初は4チーム存在していたが、途中で突然解散を告げられ『もっこりーず&ぺにーず』だけが残る。石橋曰く「俺達のガンバルマンズだ!」との通り、カニを口でくわえたりさせられたり体力型の試練ゲームをチーム対戦型で『憲武チーム』と『貴明チーム』に振り分けて展開した。メンバーは古賀薬局、ボッキー潮田等。ユニフォームはもっこりーずが上半身裸で赤いタイツ、ぺにーずが同じく黒いタイツ。双方登場のテーマ曲があり、もっこりーずが『♪も、も、も、も、もっこり?ず?♪』とボッキー潮田がフォークギターを弾きながら本日のテーマに合わせた歌詞にアレンジして熱唱しつつ皆で組み体操のような振り付けを決める。というもの。対してぺにーずは宴会ノリで『♪ぺぺぺい、ぺぺぺい、ぺぺぺいぺい♪ぺにーずの、ちょっといいとこ見てみたい♪(アレンジが入り最後に)あんたはお強い♪』である。特定のメンバーはそのまま夕ニャンにも出演。このメンバーの中にはそのままオールナイターズと結婚したメンバーもいる。オールナイトフジの最終回に可能な限りのメンバーを集め一度だけ再結成された。 それから時を経て、2005年9月に放送されたみなさんのおかげでしたの特番「とんねるずの石田さんのおかげでしたオールスター大感謝祭」に古賀とポッキーが出演。とんねるずの二人と再会を果たすが、その際木梨に「懐かしすぎて誰かわかりません」と言われた。 とんねるずの勃興期のジャニーズタレントは少年隊、シブガキ隊、光GENJIがメインであった。若くルックスも良くスポーツのイメージも好印象のとんねるずは夜のヒットスタジオでは「パラダイス銀河」の光GENJIにライバル意識を燃やし、出演直前に衣装を変更するなど、アイドルをもライバルと見なす姿勢を剥き出しにする。ジャニーズ事務所は従来まではハッキリ別れていた「お笑いタレント」と「アイドル」のジャンルを跨ぐとんねるずに脅威とヒントを受け、当時、光GENJIのバックであったSMAP(当時はメンバー構成不確定)をバラエティも網羅する位置づけにすべく戦略を立てるなどの方向転換を行った。[要出典] 業界全体はここに波及を受け、各大手タレント事務所は「バラエティもこなせるアイドル」の発掘に大きくベクトルをとり、育成と名を打ち、養成所も有料で整備し、収益も生むバラエティ・アイドル(バラドル)製造へ変貌した。近年の粗製濫造のバラドルの事情は嘆かわしいとの声はあるが、それはそれとして端を発したのは、とんねるずの存在なかりせしかばである。[要出典] 番組のスタッフはほぼ大半が大卒者である。自分たちが高卒でありながら芸能界で大成功したことを、むしろ出世的に(もちろんギャグとして)強調することが多かった(特に石橋)。弟子に東大生がいたのも「東大生が高卒の俺たちの弟子だぜ」とギャグとして使用。ちなみにその東大生の弟子とは、現在タレント・医師として活躍している吉田たかよしである。 ただし「ザ・ベストテン」出演時に高卒発言をした際には、共演者の小泉今日子や吉川晃司に「あたしは中卒。」「ボクは高校中退ですよ。」などと切り返される場面もあり、思わずとんねるずは沈黙してしまった。司会の黒柳徹子は「中学卒業でも偉い人はたくさんいるんだから威張らないで!!」と、とんねるずを叱責した。 とんねるずの二人は今は亡き歌謡界の女王美空ひばりとも生前は親交が非常に深く「お嬢」「タカ」「ノリ」と呼び合う間柄であった。とんねるずにとって美空ひばりはいわば芸能界の母のような存在と言えよう。 両者の出会いのきっかけは、とんねるずの大ファンだったひばりの息子、現ひばりプロ社長の加藤和也の誕生会に二人が呼ばれたことであった。その後もラジオ番組とんねるずのオールナイトニッポンに、ひばりがアポ無しで飛び入り出演した、とんねるずが出演していたオールナイトフジの生放送中にひばり本人から電話が入るなど、彼らのエピソードは枚挙にいとまがない。そのためか晩年の闘病の際、親交の深かった芸能人の見舞いにさえ「面会謝絶」の姿勢を崩さなかったひばりも、とんねるずの二人にだけは面会を許したという。 ちなみに、結果的にひばりの生涯最後のシングルとなってしまった「川の流れのように」は、奇しくもそのとんねるずが歌った「一気!」「雨の西麻布」「歌謡曲」などと同じ作詞・秋元康、作曲・見岳章のコンビによって作られた。 版権についてはかなり厳しく、2004年に発売された『夕やけニャンニャン』のDVDでは出演箇所はモザイクで消され、CSで再放送されている番組(『ひょうきん族』等)でも彼らのシーンはカットされるか、放送されない回も多い。これは一説に、版権管理に厳しいイザワオフィス傘下で独立し事務所を構えたこと(イザワオフィスはドリフターズやとんねるずに関しての映像使用許可依頼に対し、数秒でも高額を要求すると言われている)や、それまでにも所属事務所を転々としてきたため版権関係が複雑化しているのが原因とされている。実際、ベストアルバムが発売される際には「○○所属時代のベストアルバム」と分類されることがほとんどである。 1983年に新事務所所属となり本格的なタレント活動戦略を練る中で、当時新進の放送作家であった秋元康の前でネタ見せを行う機会があった。そのネタからつかこうへいの影響を洞察した秋元は本人らにこれを確認するが、彼らはつかこうへいの名前すら知らなかった。その事実が秋元を驚かせ、それを機に秋元はとんねるずに可能性を感じ、以後彼らの筆頭ブレーンとして番組構成や作詞をはじめとしたイメージ戦略に携る事となった。 とんねるずに関しての初期文献広告批評とんねるず特集では、彼らを“下克上タレント”と評している。芸人間では通常上下関係に関しては非常に厳しいが、とんねるずは“生意気”“成り上がり”“下克上”など媚びぬことをスタンスに定めている部分があり、志村けんや笑福亭鶴瓶などの大物芸人相手にすら、番組中志村けんへ突然攻撃を仕掛けたり、鶴瓶へ「ねえ笑福亭」と屋号だけで名前を呼ぶ等、半ば意図的に芸人の礼儀を裏切る事がある。しかしとんねるずは誰もが認める体育会系であり、控え室では「志村さん」「鶴瓶師匠」と呼びキチンと礼を踏まえている。 フジテレビ系「夜のヒットスタジオ」には番組リニューアル直後の1985年4月17日放送に「一気!」で初登場。以来、1989年にかけて、20回以上にわたり番組に出演し、様々な話題を提供した。石橋・木梨ともに「ベストテン」と同様に「夜ヒット」に対しても相当の思い入れがあるらしく、「みなさんのおかけでした」など自身の番組ではよくこの番組に関連したエピソードを紹介することがある。 オープニングメドレー終了後に行われる季節の風物詩を紹介するセクションで、価格にしてウン十万ともウン百万とも言われる高級胡蝶ランを紹介した際、木梨がいきなりこの花びらを食べてしまい、司会の芳村真理に真剣に注意されたことがある(因みに当時、この番組で使う植物の大半は、芳村のコネクションを活用して提供されていたと伝えられている)。また同様にカブトムシを紹介した際にはそのカブトムシを生で木梨が食べようとしたところ、口にハサミの部分が挟まってしまい、唇から出血してしまったこともある。 名物コーナー・オープニングメドレーではヒッピー風、羽織袴姿などといった怒髪天な衣装で登場し、敢て音程を全て外して次に登場する歌手の持ち歌を歌ったり、DJ風のアナウンスで次の歌手の紹介を行うなど、自由奔放ともいえる振舞いを行っていた。しかし、前述でも随所に触れられている彼らの本質ともいえる、その裏での「体育会」系の対応が功を奏してか、通常ならば、下手に自分の唄を歌われると明らかに不機嫌な表情を浮かべることが多い大御所の演歌歌手に至るまで、このことにつき注意・批判を行う者はいなかった。 疋田拓プロデューサー時代はよく彼の言動に関連した小ネタ(「今日は疋田ちゃん、○○なんだよ〜」(例:「時間が推しちゃってて不機嫌だんだよ〜」など)を披露していた。いわば、後年の彼ら特有の「スタッフいじり」の伏線ともいえるものである。 番組を見ていた美空ひばりからいきなり放送終了後、2人に電話がかかってきて、深夜であるにも関わらずひばりの自宅に呼び出され、番組内での行き過ぎたパフォーマンスなどに対して説教を食らったことがある。 1986年6月、「やぶさかない」での出演時に、共演していた大勢の女性バックダンサーに歌が佳境に差し掛かった辺りで(勿論意図的な演出なのだが)一斉に襲いかかられ、石橋はズボンを脱がされ、下半身はブリーフパンツ一枚という姿になり、その姿のままスタジオを走り回って歌を締めくくるという「オチ」が付いた。これには、視聴者から賛否両論の意見があったようで、番組史上に残る「迷」シーンの一つとして後年の総集編でも定番ネタとなっていた。 1987年3月、「嵐のマッチョマン」で初の番組トリで歌を披露。この際、郷ひろみら他の出演者が途中から歌に参加して、一気にヒートアップし、賑やかに番組を締めくくった。 1987年10月、マンスリーゲストとして出演していた久保田利伸に某演歌歌手が後ろから何度も蹴りを入れているのを見兼ねた石橋・木梨の二人は、久保田を庇ってすかさず仲裁に入り、事態は収束した。久保田はこの一件以降、とんねるずの二人に対し深い恩義を感じ、親交を持つようになった。 1987年12月、つのだ☆ひろの作品「メリー・ジェーン」をそのままもじった「ジャ二ー・ジェーン」なる歌を披露。この際、サプライズゲストとしてオリジナル版の作者であり歌手でもあるつのだが階段から「メリー・ジェーン」を歌いながら登場し、さすがの2人も珍しく動揺の色を隠せなかった。また、歌い終わった後、スタジオ内が微妙な空気になっているのを察知してか、木梨が「終りました?」と何故かスタッフの一人に確認する様子が映し出されていた。 1986年、「クイズダービー」にギャンブラーとして出場したとき、番組史上初めて第1問でいきなり持ち点3000点全部をはらたいらに賭けようとした。はらは確実に答えると見てこの行動に出たのだが、司会の大橋巨泉に「はずれたらなくなっちゃうからやめなさい!」と怒られたため、賭けることはできなかった。なお、番組の歴史上第1問で3000点を賭けようとしたのはとんねるずと若山富三郎(とんねるずとは逆の理由)のみである。 お笑い芸人としても成功を収めた彼らは、音楽活動でもトップクラスの実績を誇る。お笑いタレントがCDを出すことは珍しくないが、職業歌手並みに継続的なリリースの中でコンスタントにセールスの結果を出すタレントはめずらしい。 デビュー曲はアニメ『新・ど根性ガエル』の主題歌「ピョン吉・ロックンロール」。その後も「一気!」「雨の西麻布」など、音楽活動開始当初はどこかコミックソングを思わせるような曲を歌っていたものの秋元康や後藤次利、見岳章、友人の有名アーティスト(高見沢俊彦、玉置浩二、藤井フミヤなど)らが提供する曲の中には完成度が高いものもあり、「迷惑でしょうが……」や「おらおら」などは今でもファンの間で人気がある。 セールス的に大きく飛躍したのはシングル「情けねえ」以降といえる。以前は「初登場2位→翌週ランク外」がほとんどだったシングル売り上げが、「情けねえ」では数ヶ月もの間オリコンチャートの上位に位置するロングヒットを記録。同曲にて第22回日本歌謡大賞の大賞受賞、ついにはNHK紅白歌合戦に初出場し、パンツ1丁で出演して「受信料を払おう」というペインティングをして話題をさらったのはあまりにも有名。その後のシングル「ガラガラヘビがやってくる」では悲願のオリコン1位を獲得し、ミリオンセラーを記録する。シングル「一番偉い人へ」でも2週連続1位となる。 ライヴも積極的にこなし、過去に“アーティストの聖地”ともいえる日本武道館で1986年から1995年までに掛け、計6回の武道館ライブを。それだけでなく1989年には東京ドームで5万人以上もの観客を前にライブを行う。お笑いタレントのコンサート規模では最大の部類である。 その後、「とんねるず」としてはしばらく音楽活動から離れていたものの、「とんねるずのみなさんのおかげでした」内で番組スタッフと結成した「野猿」で音楽活動を再開することになる。この野猿でも紅白歌合戦に出場し、2000年3月15日から17日に掛けて、武道館3Daysライブを行っている。 野猿の解散時にファンがショックを受けて自殺をしてしまったことから、2001年以後は基本的に番組内企画ユニットなどの軽薄な音楽活動は自粛傾向にある。 だが、2007年11月8日放送の「とんねるずのみなさんのおかげでした」内で、石橋が秋SP(詳細は番組記事参照)で久しぶりに「一番偉い人へ」を披露した際に手ごたえを感じ、石田弘と相談した結果、音楽活動再開を検討していると語った。ちなみに、木梨はいつも通りというべきかその話を聞いていないらしい。 また、音楽活動時のバックバンドにはDREAMS COME TRUE結成前の吉田美和と中村正人の二人が1988年頃一時在籍していた。中村は当時デビュー前の吉田に、大勢の観客との一体感、雰囲気を体感させるため、バックコーラスとしてとんねるずのライブツアーに同行させたのだという。過去にドリカムが「うたばん」にゲスト出演した際、その当時のVTRがオンエアされた。 「一気!」から秋元康がほぼ彼らの音楽活動に関わっているが、その戦略は「○○風」。原曲が存在した上でパロディ=フェイクの趣向としている。 「迷惑でしょうが…」=「前略おふくろ様」他 萩原健一(歌詞に“ぐでんぐでん"など萩原健一曲のキーワードが複数出る。全体のテイストは前略おふくろ様) 以上等原曲の特徴やサビ等がそのままあしらわれてアレンジされている。ポイントはとんねるずの世代背景を踏襲していることで、彼らの支持層の若者はこれらの楽曲を知らずに素直に評価する。またとんねるずと同世代か上の世代はこれを聴いて「ニヤリ」とする。この方法論は近年つんくがモーニング娘のプロデュースで踏襲している。過去にヒットした曲のエッセンスを採り入れれば曲の成功率は高まる理屈である。 映画『ウルトラマンゼアス』の主題歌「シュワッチ!ウルトラマンゼアス」も歌っている。これを収録したCDは非売品で、当時は映画の公開に合わせて出光が行ったキャンペーンを利用するか、劇場で前売り券を購入するかしてウルトラまいどCDを入手するしかなかった。2006年12月27日発売の「ウルトラマンシリーズ生誕40周年記念 ウルトラマン 主題歌大全集」が初の市販化となる。 過去に出光のCMに出演していた時のCMソング(「まいど まいど まいど まいど まいどでまいど〜♪」「あ〜ガソリンなくなる♪も〜ぉ〜お金な〜い〜よ〜♪」等)もCD化されているが(「これが出光のまいどCDだ。」)これも非売品であり、当時出光のガソリンスタンドのキャンペーン利用客のみが入手できた。 『とんねるずのみなさんのおかげです』のオープニングテーマだった「うなちん」は当初発売予定だったが、諸事情により中止となった。 FNNニュース工場(フジテレビ) - 1987年8月、夏休み中の佐々木信也とみのもんたの代行で出演。 とんねるずの一気スペシャル 天狗の友引大放送(1985年8月 22:00〜03:00、ニッポン放送) とんねるずのオールナイトニッポン(1985年10月〜1992年10月までの火曜1部を担当、ニッポン放送) カテゴリ: 質問があるページ | 出典を必要とする記事 | 書きかけの節のある項目 | とんねるず | NHK紅白歌合戦出演者 | お笑い芸人 | 日本の歌手グループ | ラジオ番組のパーソナリティ・DJ |
[ 112] とんねるず - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8B%E3%81%9A
