定説とは?

成田のホテルでミイラ化した男性の死体発見! このようなマスコミ報道のインパクトもあってか、ライフスペースの人たちが使う、「定説」という言葉に興味を持った。なあに、定説の意味を知るだけなら手元にある国語辞典をひけばすむわけで。僕が、関心を持ったのは、ライフスペースのメンバーが多用する「定説」という言葉の使われ方であった。僕には、彼らの語る「定説」が、真理なり正義の根拠、難しく言えば、真理や正義を人間が感じ理解するための認識根拠として使われているように思われたのだ。
20世紀もあと1年余りになった今、「正義とは何か」なり「真理とは何か」を問題にするのは、いかにも時代遅れなことくらい僕にもわかる。だから、ここでは「正義」や「真理」が、歴史的にどのように使われてきたかを一瞥した上で、ライフスペースに立て篭もる人々が、極めて特殊な人々なのか、あるいは、逆に、けっこう普通の存在なのかを考えてみたい。
語彙使用の場面に着目すれば、正義も真理も、「私は、これこれの根拠にもとづいてこう考える。だから、君達も、そのように考えその線に沿って行動しなさい。」という主張を背後から支えている点では同じだろう。語義をこう緩く捉えると、正義と真理の個々の内容は、時と場所によって自ずと多様になる。
これらは、すべて、正義であり真理として社会の中で機能した。なあに、食や婚姻や言葉に関するタブーを筆頭に、異文化間コミュニケーションのフィールドを少し探せば、時代や地域的で多様な正義や真理はいくらでも見つけることができる。しかし、内容は多種多様であるにしても、人間はいつの時代でもどこの地域でも、他人に対して、「私はこう思う。ゆえに、君もそう思いなさい。」と語るための根拠を追い求めてきたこともまた容易に確認できよう。
ところで、正義と真理は同じものだろうか? 先の段落で例示した6項目は異質なものの寄せ集めではないのか? 最初の二つ、親分の命令と天皇の命令は、正義や真理ではなく暴力に支えられた威力であり、次の二つは所謂イデオロギー、残り2個だけが真理に関係するんちゃうやろか? どない思はります?
Noである。僕の考えではNoなのだ。前に僕は、言葉が果たす役割に着目した。ある言葉が他人の意見や、異論・反論・オブジェクションを封じるのに効果的かどうか、そこだけに僕は注目して、正義・真理とそれ以外を区別したのだ。でもしかし、「正義と真理はどう見たって別物でっせ」と言う声があがるかもしれない。確かに、国語辞典、広辞苑や旺文社の国語辞典を引けば、正義と真理はおよそ別物である。
正しいすじみち。人の行うべき正しい道義。社会全体の福祉を保障するような秩序を実現・維持すること。(広辞苑)
ほんとうのこと。まことの道理。実在的関係・事態を正しく言い表している判断内容のもつ客観的妥当性。形式的意味においては、思考の法則にかなっているという意味での思考(判断・推理)の正しさ。(広辞苑)
国語辞典によれば、真理は法則と事実の一致をその核心とし、他方、正義は道徳と行為の一致を生命にするものらしい。例えば、「親は4ヶ月前に死んだのか否か」は真理を求める問いであり、「親を、検死の名目で殺された子は千葉県警に復習すべし」は正義にかなうかどうかを吟味される主張ということなのだろう。
しかし、僕は天邪鬼よろしく、語の用法の観点からは正義と真理は同じだと思う。理由は二つある。20世紀初頭の現代数学の革命、ソシュールの一般言語学、構造主義、ウィットゲンシュタインや論理実証主義の哲学によって概念実在論や素朴実在論が粉砕された後、命題が事実と一致することとその命題がある法則の一部を構成することは異質なことであり、事実の積み重ねは法則の普遍妥当性をいささかも保証しないと考えられるようになった(このへんの経緯を、科学方法論からではなく、科学史からスケッチした代表が、クーンである)。現代科学では、権威ある学説といえども、専門家集団の中での多数決によってやっとその権威を獲得しているにすぎないと考えられている。「科学的な問題は多数決で決着をつけるわけにはいかない」、とはもう古語なのだ。
科学的な真理だけでなく、個人の倫理観や美意識も、ある意味では多数決で決着がつく。 正義と真理が現代ではほぼ同じと考えるもう一つの理由はこの認識にもとづいている。個人の個人的な道徳意識や好き嫌いさえも、マクロ的に観察すれば時代や伝統の函数だということが、20世紀後半の歴史学、フランスのアナール学派やドイツ社会史学派の研究を通して明らかになってきたのだ(誤解なきように。前の段落で述べたように、この経緯もあくまで、僕は、専門家の中での多数決の結果でしかないと考えているわけですよ)。
ところで、レヴィストロースを始祖とする構造主義人類学は、時代と地域を異にする多様な文化の中に、構造的な共通性を発見した。これは前の段落の記述と矛盾しないだろうか? 全然。
そのような共通性を抱えながら、イスラームやギリシア正教や南方仏教という個々の文明圏の中では、他の文明圏とクリアカットに隔絶した世界観や人生観を持ち独特の生活や生涯を送ることが人間の実相と僕は思っている。伝統や文化の中で育まれた世界観や道徳観こそ多数決の中の多数決の結果ではないか。構造主義的な普遍性なんぞは、現在の全人類のミトコンドリアが延々と20万年前から続く共通のDNAを持っているロマンティクさに比べればなんぼのもんじゃ、てなわけでんな。
古代アテネの人々は見てそして語った。「ゼウス雨を降らせ給う」、と。中国の殷の王は、日照りが続くのは神の代理人たる自身の不徳のいたす所と考え、人民の年貢を免除した、そうな。
17世紀の科学革命の当事者達にとっては、科学とは真理を発見することを通して創造主の偉大さと慈悲を称える信仰の営みであった。ニュートンとライプニッツの天体力学を巡る論争を想起してみなさいって。二人の天才は互いに他の学説を「神の業を低く見積もる不遜な邪説」と論難しはったんでっせ。
18世紀の資本主義と19世紀の産業革命によって、人類史上初めて、真理と正義は別の戸籍に移ったと僕は思う。思想史的にこの画期をなすものはダーウィンである。マルクスがダーウィンにその主著を献じることを切望したのも当然なのだ。二人は、各々資本主義の精神と肉体を解明したのだから。マルクスが死んだ1883年、現代数学への一つの突破口となったカントールの論文が世にでる。これ以後、いったん引き裂かれた正義と真理は300年ぶりに同じ屋根の下で暮らすべく接近していく。最初は処女のように、後にはM.野村女史のごとく傲慢に。
ライフスペースに集う人々が、正義や真理の根拠を、単純に、教祖様の「発言」や「お筆先」に求めず、ドイツやアメリカの最高裁の判決(?)や世界的な名門大学で研究され認定された科学論文(?)に求めることは、極めて20世紀後半的だと僕は思う。確立し権威ある判例集と科学論文が現代の預言なのだろう。これは、正義や真理は、世間の常識ならびに専門家ギルド内での多数決の結果であるとする僕の正義と真理の用法分析にも合致する。
ライフスペースの「定説」は、科学的(?)真理である一方で、憲法秩序の内容として正義にもかかわっている。このことも、僕の考えと一致する(ライフスペースのホームページによれば、「日本は憲法を中心とする法治国家であり、日本国憲法の理念は、国際主義と定説主義」なのだそうだ。主張の内容を度外視すれば、この「定説主義」は最高裁長官を務めた田中耕太郎の「世界法の理論」のアイデアに近くはないだろうか。もしそうならば、ライフスペースの「定説主義」は現代自然法論の一種なのかもしれない)。
「定説」がライフスペースの人々にとって正義であり真理であることは現代の哲学的な地平から見てなんら非難されるものではない。ということは、いつの日にか彼らの「定説」が世間の定説に昇格する可能性がゼロではないということである(そんな馬鹿なってか? うんにゃ、例はなんぼでもありまっせ。例えば、科学的な調査によれば、南氷洋の鯨は増えている。なのに、捕鯨反対国はその事実を認めようとしない。これなんかは、「死体は生きている」より100倍も怪しい主張が文字通り国際的な定説になっている点で1000倍も凄まじい状況やと僕は思う)。但し、彼らの「定説」が今の所、世間の常識や世界の専門家の多数意見に反していることは自明である。
ある主張が確立し権威ある定説になるには、現代では科学的対論のマナーに則って、対論のアリーナで勝ちつづけるしかない。では科学的対論のマナーとは何だろうか? カルナップとポパーの論争から抽出すればそれは次の二つに絞り込めると思う。
主張が間違いであることを証明するにはどのような事実が生じればよいかが明確に示されていること(反証可能性)
現代の正義と真理は、膨大な知識の糸で編み上げられた蜘蛛の巣としての世界観である。この蜘蛛の巣の作者は、一握りの専門家ではなく世間と言ってよい(インターネットがウェブを構成するのは、現代における知識の存在論にとって隠喩ではなく直喩やと思わへんか?)。ある一人の思いつきやアイデアはこの蜘蛛の巣に組み込まれて初めて確立した知識となり世界観の正規の構成要素となる。そして、ライフスペースの「定説」の内容は、現在、世間で通用する知識体系とは無関係であろう。
整理しよう。ライフスペースの「定説主義」はそれを形式的に見た場合、哲学的には妥当である。しかし、その内容のハチャメチャさは措くとしても、現代の確立した定説、編み上げられたウェブとしての知識体系と無関係であること、確立した定説になろうとする者に要求される対論のマナーを守っていないこと、この二点でライフスペースの「定説」は真の定説には程遠い。
総括しよう。巨大な知のウェブを前にしては、すべての専門家も素人もその蜘蛛の巣の極々一部を少し知っているだけという現代思想の状況の中で、ライフスペースもオウムも生じるべくして生じたと思う。人類全体が保有するに至った膨大な知識の体系と個々の人間が持てる微々たる知識とのアンバランスが、「万能感を他者に感じさせるグル」を求めさせるのかもしれない。疎外体としての知識体系からの疎外感がカルトのトリガーになるという仮説である。人は自分の作ったトーテムポールに呪縛される。その際、トーテムポールは大きければ大きいほどよいのだろう。ライフスペースのメンバーが、ドイツの最高裁などのプリスティージアスな名称を多用するのも、それらの名称が彼等にとって知識の体系の象徴だからかもしれないね。

[ 171] 『定説』の定説
[引用サイト]  http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/E1.htm



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