当時とは?
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失踪当時の状況 通学のため家を出て、途中、仕立物をお客に届け、学校へ行ったきり消息不明。学校には出席していなかった。 失踪当時の状況 午後、パーマに行ってそのまま行方不明。翌日、観劇の約束もしており、自殺などは考えられず。 失踪当時の状況 前日、高校時代の友人の家に泊まりに行く。翌日、別の友人と買い物をしたり、函館山へ遊びに行く。20日の夕方、友人と喫茶店2軒で時間をつぶし、帰宅するため、午後9時ごろのバスに乗るために2人でバス停に向かう。「前日に宿泊した友人の所へ泊まる」と言って、バスで帰る友人と別れた。以後、行方不明。 失踪当時の状況 当時の住まいは会社兼寮。近くの銭湯に1人で行くと言って寮を出たまま。1967年9〜10月ごろ、本人のペンフレンドの女性(尼崎か神戸など関西地区)の手紙を見つけ、状況をしたためたが、返事なし。 失踪当時の状況 同日、実家に帰ってくると下宿先に伝言を残して外出。失踪。25〜35歳くらいの東北なまりと思われる不審者が3名、別々の船に乗り込んでいた。当時、別の漁師の話では、不気味な雰囲気を持った人たちで、東北の人としたら3月ごろまでいるのが不思議だと思ったという。4月初めに3人とも姿を消したという。 失踪当時の状況 失踪時間は午後8時30分ごろ。当日、同僚の結婚式が夜にあった。午後8時30分ごろ、新婚旅行への出発を見送りに行くと、時刻表を指して時間を確認し、出かけたまま。警察の報告では、駅で見かけた人はいなかった。荷物も持っておらず、社内預金もそのまま。 失踪当時の状況 大阪で新しい仕事場が決まったというので、友人が上野駅まで見送りに行き、その後、行方不明。 失踪当時の状況 高校3年の学期末試験最終日、お昼ごろに帰宅し、自宅から歩いて5分の海岸にバットの素振りをしてくると出かけたまま失踪。高校卒業後の就職も決まっていた。夕方5時を過ぎても戻らないので、父と姉が海岸に行ってみると、波打ち際にバットが転がっていた。その日は海はベタ凪で、水島さんは遠泳の名手であり、溺れた可能性はない。 失踪当時の状況 卒業式の答辞を読むことになっていたので、制服のボタンを買いに行き行方不明に。 失踪当時の状況 友人とバイクで海水浴へ行き宿泊。夜中にトイレに行くと外へ出たまま戻らず。貴重品は枕元に残したまま。高校生活を楽しんでいた。 失踪当時の状況 テーブルの上に「8月2日神戸へ行く」のメモがあった。1969年9月、家主より1カ月家に帰っていないと電話があった。本人から一度も連絡がない。パスポートがなくなっていた。会社へ給料の問い合わせがあったが、取りに来なかった。 失踪当時の状況 友人宅を訪ねた帰りに、浜の方へ行くと言ったきり消息を絶つ。就職も決まっていた。 失踪当時の状況 当時北朝鮮人らしい女性と交際をしていたが、女性の背後に北朝鮮人らしい数人の男性の存在があることが分かり、その女性と別れたいという旨を語ったのが最後でその後消息を絶つ。 失踪当時の状況 6月13日に「淡路島に遊びに行く」と連絡があった。背広のポケットから同日付のフェリー切符が見つかる。池田警察署で付近の川・池・沼を捜索、親族で箕面公園一帯を捜したりしたが見つからない。大学学生寮で、その後よど号グループのリーダーになる田宮高麿と一緒だった。6月15日はボーナス支給日だったが、口座に全額振り込まれているので、持ち歩いたとは思えない。 失踪当時の状況 朝、妹と一緒に家を出て、10分くらい離れた旧西鉄路面電車の電車停留所で別れる。その後、消息不明。 失踪当時の状況 交通事故を起こし、勤務先を退社。ある会社に入社したらしいが、親兄弟にも会社名、仕事内容は言わなかった。昭和45年11月ごろ、酒田市のいとこの家に来て2時間ほど話をして帰り、その後、行方不明。 失踪当時の状況 正月に帰省する二女を迎えに宮崎空港へ行く途中、ガソリンスタンドに寄った後、消息を絶つ。都城市へよってから国道269号線を走っていくと言っていた。 失踪当時の状況 当日、姉妹の絵が入賞し、お祝いのために待ち合わせていた。何時間たっても現れないので不審に思い、アパートを訪ねると、特に身辺整理したふうもなく、普段の生活状況のままだった。車が青森市内に1週間置きっぱなしだったので、近くの人が通報。車内には買ってきたままのもやしとあじゃら餅があった。 失踪当時の状況 学生運動(代々木系)の活動歴あり。昭和48年1月以降、連絡がない。昭和45年8月ごろ、ある男性が「妹が『生涯の伴侶を見つけた』という手紙を残して消息を絶った。住所を知らないか」と平山さんら2人の写真を持って訪ねてきた。 失踪当時の状況 教習所に行き、行方不明。家の中はそのまま、荷物を持って出ていない。教材の入った小さな袋だけ。 失踪当時の状況 「夕方に電話があったら出かける」と出かけたきり行方不明。翌2日夜、男性の声で電話があり「今更仕方がないだろう」と言って切れた。 失踪当時の状況 昭和48年3月に家出。その後二人で暮らしていた様子。そのアパートを親御さんが訪ねた1週間後引き払う。当初は墨田区押上に在住、その後、福岡、東萩、津和野、札幌、女満別、知床、摩周湖、釧路、小樽、舞鶴、大阪と転々とする。遠山さんの友人にアルバムなどが送られてくる。 失踪当時の状況 当日朝8時に勤務先に明日より出社すると電話をしている。29日に友人3人がアパートに来たが留守、30日の正午まで待つが帰ってこない。 失踪当時の状況 同年6月、東京を出発して東南アジア一周を目指して1人で旅に出る。20カ国をまわり、パキスタンで1973年11月8日付の便りを最後に消息を絶つ。1974年1月に帰国すると便りにあった。 失踪当時の状況 1974年1月12日、会社に出勤。退社後、帰宅せず、糸島郡志摩町芥屋大門(けやのおおと)近くの海岸に車が放置されていると連絡。車内に男性の免許証、コートが置いたまま。両人の靴が片方ずつ落ちていた。 失踪当時の状況 昭和49年、郷里に帰ると連絡があり、荷物も送ってきたが、その1週間弱後に「やり残したことがあり、遅れるが必ず帰る」との手紙が届く。その後、本人は帰らず、以来、消息不明。 失踪当時の状況 外出したまま行方不明。10年以上前(不確か)に女性より不審な電話があった。家は庄川近く。このあたりは北朝鮮工作員の接触地点(連絡を取り合う場所)、浸透ポイント(不法上陸する場所)が多い。 失踪当時の状況 昭和49年8月初め、朝8時の仕業時間前に同居(住み込み)の大工から「昨夜、夜釣りに出かけたまま戻らない」と報告がある。会社前面の岸壁に本人の作業靴を発見。港内、湾内を捜索する。海上保安庁小浜分室は問題地点の対岸にあったが、小浜外港の埋め立て工事に伴い移転、巡視船も昭和49年に移動するなど、港内の警備は空白状態だった。 失踪当時の状況 「直ぐ帰る」と言って自転車で出たまま帰宅せず。鉢ヶ崎海水浴場付近で自転車が発見され、沖合いにボートが浮いていてその中に靖彦さんの草履と靴下があった。ボートは倉庫に保管されていたもの。 失踪当時の状況 大学寮の仲間と神津島へ行く。午後1時ごろに家を出て以後、行方不明。前日に山へ行くようなことを言っていたので、神津島村の天上山(海抜574メートル)を捜索するが、発見できず。 失踪当時の状況 母親にたばこを買いに行くのを頼まれ、300円のみを持って家を出てそれきり消息不明。 失踪当時の状況 当時、両親でスナックを経営していた。店を開けた後、1人いた従業員に「ちょっと出てくるから」と言って店を出たまま行方不明。 失踪当時の状況 北海道の富良野で過ごした後、旭川駅の荷物一時預かりザックを預けその後消息を絶つ。11月初旬に不審な電話があったが、以来手がかりは全くない。 失踪当時の状況 自宅近くの編み物教室に行くと家を出て消息不明。普段着で現金も持っていなかった。この夜、自宅から約200メートル離れた松林で本人と2人の男が話をしているのを近くの人が目撃、「何をしている」と声をかけると男がこの人を殴り、その直後、片方のサンダルを残したまま、2人の男と松本さんは姿を消した。また事件前日、前前日の二日間不審な黒のクラウンが事件現場であるビニールハウスの前に停車していた。近所の方が『往来の邪魔になるから車をどけて欲しい』と言ったところ、車中から三人の男性が出てきたとの情報がある。 失踪当時の状況 マグロはえなわ漁船で、11月24日、平良港を出航、12月20日頃帰る予定が戻らず。第11管区保安本部が海、空から捜索したが、船影、浮遊物など手がかりは全くなし。家族が海外まで探しに行くが手がかりなし。 失踪当時の状況 昭和52年11月8日にマグロ延縄漁船第8協洋丸で泊港を出航。波照間方面で操業後、11月18日に平良漁港に入港。11月24日、平良港を出航、12月20日ごろに帰る予定が戻らず。第11管区保安本部が海、空から捜索したが、船影、浮遊物(木船である)など手がかりはまったくなし。乗組員は合計7人。 失踪当時の状況 失踪当時は名古屋のプレハブ工事現場で働く。昭和52年3月に妹に手紙で、2人で沖縄に行くと書いてあり、4枚写真が同封。3カ月前に実家で会った時とは別人の様相。2カ月で帰るとあったが、今日まで連絡なし。預金通帳、印鑑も一緒に妹に送付。家財、布団などすべてごみなどに処分。昭和53年2月までは実家に電話、手紙あり。失踪後、半年、1年後、女性の声で「範行さんいませんか」と電話が2回あった。誰何すると、同級生と答えたが、誰か分からず。2回目は会話のなかで女性の口から「青森」という言葉が出た。 失踪当時の状況 車で出勤途中で失踪。1週間後、高岡市の海岸近くで車(三菱ジープJ-54)がキーをさしたまま放置されているのが見つかる。車内に運転免許証、財布、空の弁当箱が残されていた。 失踪当時の状況 仕事で寄港した舞鶴に上陸し、東舞鶴のスナックを出た後行方不明。スナックから船までは徒歩で30分以上かかり、タクシーを使わなければ戻れないが、スナックからタクシーは呼ばなかった(舞鶴には流しのタクシーはなく、必ず電話で呼ばなければならない)。 失踪当時の状況 交際中の女性を自宅まで送るといって車で友人宅を出たまま2人とも行方不明。家出、自殺のそぶりはない。通帳も印鑑も持っていない。まとまった金銭も持っていない。双方の家族は交際していることを知らないので、障害とは成り得ない。自動車が見つかっていない。28日夕方、自宅に電話があり、「俊之つかまっているよ」との内容。幼い女の子のような、たどたどしい言葉だった。28日に無言電話。両親が失踪に気づいたのは、会社から無断欠勤していると連絡を受けた22日か23日。 失踪当時の状況 下宿で洗濯機を回しているとき生徒に呼び出され、白い車に乗せられて行ったまま行方不明。 失踪当時の状況 当日は父親たちが下宿へ荷物を取りに行き、本人は汽車で浜松に帰るため、午前9時半ごろに下宿を出て、50〜60メートル先の角を曲がるところまで見送った。その後、行方不明。当時小雨で、傘1本、電車代と本人の小遣い程度しか持っていない。 失踪当時の状況 同僚と飲みに出かけ、翌16日午前4時頃、自宅前でタクシーを降り、その後行方不明。現場は終夜人通りの絶えない繁華街。 失踪当時の状況 職を変えたいと実家に電話があり、金銭だけは持って出たようだが、着替えなど身の回りのものは残したまま、以来何の連絡もなし。 失踪当時の状況 図書館に行くと言って出かける。4日後、新潟県柏崎市荒浜海岸にセカンドバックが落ちていたとの連絡。失踪の3年4カ月後から無言電話が4年半ほど続く。 失踪当時の状況 登山に一人で出かけた。その後行方不明。大山登山口南川原駐車場に止めたままで、午後6時20分到着のメモを残す。車内で仮眠をしたものとして米子警察遭難救助隊が捜索を1週間続けるが手がかりなし。警察犬は大山寺経堂まで行くがそこからはすすまない。 失踪当時の状況 同僚と共に得意先に届け物をしてその同僚と神田駅で別れたあと消息不明。 失踪当時の状況 大分県南海部郡上浦町出身、失踪当日、休暇を取って大宮の運転試験場へバイクの免許を取りに行ったが、同日7時ごろ、「これから13分のバスで帰る。何か買い物はないか」と寮の友人に電話連絡したまま消息不明。警察は公開捜査を行ったが、目撃証言もなく、安否につながる情報もない。家出するような動機もない。同日21時ごろ、最寄りのバス停と寮の間の民家の人が、犬が激しく鳴くのを聞く。翌朝、その家の人が畑の中に今津さんの両方の靴を発見。周囲に争った形跡はなく、わざと目立つように不自然に投げ捨てられた状態。 失踪当時の状況 アパートの机の引き出しには免許証、預金通帳、キャッシュカード。旅行かばん、衣類はそのまま。1日付の新聞は部屋の中にあった。 失踪当時の状況 12月4日、大学で午前の授業を受け、1時過ぎに学食で友人と食事をとった後、校門近くで友人と別れた。夜8時過ぎに友人宅へ泊まると家に電話あり。翌朝8時15分兵庫県警城之崎署から竹野町弁天浜でバッグが見つかったとの電話。 失踪当時の状況 友人と舞鶴方面へドライブ。帰り道、綾部駅前で夕方友人と別れた後消息不明。 失踪当時の状況 林田さん所有の遊漁船1トンで午前4時頃出港、その後消息を絶つ。海と空から捜索を続けたが見つからず。パーソナル無線を持っていたのに連絡がない。べた凪だった。 失踪当時の状況 「一世丸」5トンで一人で漁に出発して翌3日朝6時に帰港する予定であったが行方不明。8月10日に海上保安庁から竹島沖南南東25キロで漁船発見と連絡が入るが、予想操業海域で何らかの理由で航行不能になったとしても潮流の関係からその場所へ移動することはなく不審なことのひとつ。左舷前方に他の船と衝突した痕跡。付着した塗料から相手が分かると思われたが、海上保安庁からその後連絡はない。遺体が上がらないことも不審な点である。 失踪当時の状況 漁船に1人で乗り込み、元浦港南西漁場で操業。午後2時ごろ、ほかの漁船に目撃されているのが最後。日没後も帰港しないので諏訪瀬島の漁船、海保巡視船、航空機による捜索を行った。翌24日、諏訪瀬島切石港沖合で無人のまま漂流している船を発見。船は燃料切れだったが、トローリングをしていた状態で糸も垂れたままだった。不明となった1〜2年後、無言電話あり。毎日夜12〜1時、1カ月くらい続く。無言だが無線(モールスの音)と思われる音が聞こえた。 失踪当時の状況 1989年8月21日に自宅を出て列車で小樽へ出発、22日と23日は先輩と一緒、24日に先輩が先に帰り1人、摩周湖釧路コース宿泊、25日に小清水原生花園コース泊、26日にユースを出発したところまで確認できたが、その後不明。宿帳の文字も本人のものと確認。1週間の予定で出かけた。家出、自殺は考えられない。運転免許の書き換えもしていない。 失踪当時の状況 同日勤務終了後、勤務先を出てから消息不明。日中、勤務先に男性から電話がかかり、上司が取り次ぐ。誰なのか、どういう内容なのか分からないが、話は短かった。本人の車は井原市の書店の駐車場にあった。車内は荒らされていなかった。仕事関係の届け先があり、そこに本人が午後6時には少し遅れると電話している。着の身着のまま、免許証、財布、ハンカチなどの入った小さなバッグだけを持っていた。キャッシュカードは井原の小田川の土手に四つ折りにして投げてあったのを近所の人が見つけた。平成3年3月31日には結婚が決まっていて、休日には楽しく準備していた。帰りが遅くなる時はいつも何の用事で遅くなると電話を入れてくるが、この日はなかった。 失踪当時の状況 3月27日夜、慶州ユースホステルにチェックインし、翌朝10時に荷物を置いたまま外出し、その後消息不明。 失踪当時の状況 7月19日、富良野ラベンダー祭りに登別駅レンタカーで出発。1泊2日の予定だったがホテルが取れず車中泊。10月26日十勝岳中腹のホテル瑞雲閣の駐車場でレンタカー発見。免許はなくなっていた、銀行預金は引き出されていない。 失踪当時の状況 隣町の祖母宅へ行くと言って出かける。その日は戻らなかったので友人の家に行ったのだろうと思っていたら、翌朝出勤していないことが分かる。家族で探したところ、能代市能代浜で車が見つかる。車内には身の回りのものが全て残っていた。 失踪当時の状況 海上保安庁、海上自衛隊の航空機、巡視船などの捜索でも漂流物一つ発見されず、沈没の可能性は薄い。 失踪当時の状況 ほかの船員と4人で飲み、本人だけ午後11時ごろ、先に船に帰る。仲間の1人がタクシーで船まで送り、本人は岸壁から船へかけてある木の橋を渡って船に入る。その仲間は引き返し、再び飲み、午前0時15分に船に帰る。翌朝午前8時ごろに部屋を見たが、部屋にいなかった。食堂に本人が外出時着ていたジャンパー(財布あり)と履いていた靴だけが残っていた。 失踪当時の状況 8月28日「福井へ10日から2週間仕事で行ってくる」とメモを残し家を出る。同日、福井県三方五湖農協西部でガソリン34リットル給油、9月1日以降網走、阿寒湖などで給油。同月14日北海道消印で、本人が本人宛てに書いた封書届く。本人の部屋へ置いておくが、3週間過ぎても帰らないので開封すると、車番号、銀行口座番号、印鑑、暗証番号、車のキーが入っていた。9月12日に青森みちのく新町で5万円下ろしている。12月19日北海道苫小牧駅前交番より車が見つかったと連絡。 失踪当時の状況 悩みがあるが、前後の状況から自殺失踪は考えにくい。海岸に本人所有の車が鍵がついたまま発見される。その後、一切連絡なし。 失踪当時の状況 会社の寮から車で出かけ、そのまま行方が分からなくなった。最後に姿を見たのは寮の管理人さん。その辺に買い物に行くような感じで車で出かけた。前日午前中に出勤し、帰りに買った単行本3冊が机の上に置いたまま。銀行預金は引き出されていない。車は見つかっていない。免許証の更新もない。行方不明になる1週間前、実家に電話、4月下旬に大学時代の友人の結婚式が九州であり、それに出席してから帰省するので、ゴールデンウイーク後半に帰ると話していた。 失踪当時の状況 勤務先のあった広島県中区本通りのビルから自宅までの間の道でいなくなったと思われる。29日に両親が広島に行き、部屋を見たが、帰った様子がなかった。現金50万円が置いてあった。10月1日に広島東警察署に行き届け、異性関係が原因とは思えず、事件性が強いと言われた。警察の話では、午後10時30分ごろに店を出て帰宅したという。平成8年11月14日が運転免許証の更新日だったが、更新していない。住民の異動もなし。何の連絡もなし。 失踪当時の状況 4月24日午後4時15〜30分ごろ、「艇庫へ行く」と出かける。午後6時10分ごろ、世久見岸壁で海を見ている宮内さんを目撃した人がいる。6時45分までその目撃者は付近にいたが、その間、カヌーが海に出たのを見てはいない。同日夜帰宅せず。以後、行方不明。 失踪当時の状況 失踪前、1週間くらいで作業終了するからと電話で知らせ、その後失踪。翌日、警察に捜索願を出す。11月13日ごろに行った時は当地の警察や消防団が山狩りなど3日間捜索。何も出てこず、捜索打ち切り。12月7日、本人の車が川沿いで発見される。八雲警察署にレッカー移動され、指紋採取をしたが、きれいにふき取られ、何も出てこなかった。まったく音信不通。 |
[ 179] ANN NEWS
[引用サイト] http://www.tv-asahi.co.jp/ann/info/0110/index.html
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そう言われるとありがたいような気がしてくるけれど、実際には昔の成分はどれくらい残っているものなんだろう。 というわけで、タレを少しづつ継ぎたして使う、という部分だけをマネして、最初の成分がどれくらい残っているかを検証してみよう。 分かりやすいように、創業当時のタレを青い水(写真右)、継ぎたす用のタレを黄色い水(写真左)にして、まざっていく水の色の変化を見ることにする。 具体的には、創業当時のタレ(青)をちょっとだけ捨てては、同じ量の「継ぎたすタレ」(黄色)を創業当時の方に入れていく。 これは、お店の人が毎日少しづつカメの中のタレを使っては、減った分を新しいタレで補給する、ということを模している。 これを繰り返すと、右側の青い水の量は一定のまま、左側の黄色い水だけがどんどん減っていくことになる。右側の水の色は、青に黄色が少しづつ混ざることによって、だんだん青から緑色になるはずだ。 上記のことを、左側の黄色い水がすっかりなくなるまで繰り返してみた。ぜんぶで500回、つまりうなぎ屋さんの500日をシミュレートするかたちだ。 500日、つまり約1年半たっても、右側のカメは完全に黄色にはなっていない。きれいな緑色だ。つまり、最初の青い成分がまだ半分は残っている、ということになる。 1年以上前のカメの中身が半分も残っているとは、けっこう意外だ。あながち江戸時代のタレも現在まで残ってたりするんじゃないか? ただしこれを1000回、2000回と繰り返すのはちょっとつらい。500回だけでも1時間以上かかってしまったから、2000回もやれば半日はかかる。 唐突だけど、カメの容積を V、一日に使う(そして継ぎ足す)タレの量を d、そして、n日後に右側のカメに占める最初のタレの含有率を Cnとすると、Cn は次のように計算される。 500ml という値が現実的でないならば、カメの大きさを50リットル、一日に使う量を100ccと考え直しても同じ結果になります。 これを見るかぎり、500日経過時点では、最初のタレはまだ4割は残っているみたい。上の実験の結果ともだいたい一致する感じだ。 1割を切るのは1152日め、つまり3年以上たってからということになる。最初のタレはこの後もしぶとく生き残り、10年後でもまだカメの中の0.67%を占めている。 とはいえ、100年後になるとその割合は、0.0000…18(0が32個ならぶ)にも小さくなってしまうので、たぶん江戸時代のタレは、残っていても分子1個とか、そんな感じになりそうです。 じっさいにはタレは完全に均一に混ざるわけではないし、カメに染みこむ分もあるかもしれない。いま食べている蒲焼のタレのほんのわずかでも、江戸時代の成分がそのまま残っているかもしれないと思ったほうが、幸せな気分になれますよね。 |
[ 180] @nifty:デイリーポータルZ:秘伝のタレに創業当時の成分は残っているか
[引用サイト] http://portal.nifty.com/koneta05/12/16/01/
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この間しまってあった昔のファイルを覗いてみましたら、90年の3月頃から日本人会設立の準備委員会の記録が残っていて、会合をなんども重ねていたことがわかります。私も、当時は水曜会の会長をしていた関係上、これらの会合にはほとんど出席しておりました。とくに89年ごろから当時の掘村参事官(現メキシコ大使)が、当地在住の日本人社会各層の人々に接触し、日本人会の設立を積極的に働きかけていたのを鮮明に記憶しております。設立の話の発端は、その当時急速にふえてきた日本人のプレゼンスによる摩擦の回避が必要となってきたことであり、そのためにスペイン人に日本人を理解して貰うには、どうしたらいいのか、どんな手段を講ずるべきかといった議論が、当地の大使館の方々や、地元の有識者や水曜会の人たちと間で起こっていたのが、一つの大きな理由でありました。例えば、活動としては、大使館や水曜会が行っているような文化面とか広報面の活動を統一化し総合的な効果を高める。これによりスペイン人の日本と日本人に対するパ−トナ−としてのイメ−ジを創り、相互理解を深めるように努力するというようなことが皆さんの頭の中にあったようです。もちろん、当然のことながら在住日本人の間の相互扶助と親睦も目的の一つに掲げられました。それと、邦人保護のための安全対策上のネットワ−クを作ると言うのも大きな目的の一つでした。 当時の大使は石井大使、次席は掘村参事官、そして日本人関連は佐藤領事(現在当地大使館参事官兼領事)が担当していました。グル−プとしては、レストラン会、旅行会、武道会、通訳協会、地元の商工会、スペイン人を夫にもつ大和撫子の集まりであるなでしこ会、それと企業の団体である水曜会などがありました。レストラン関係では、どん底の矢野さんとか花友の池永さん、旅行関係では宮本さんとか川口さん、商工会からテイミ−ルの田中さん、武道会の山下さん(現会長)、なでしこ会の安部さんと川端さん、ア−チスト会の加藤画伯、大学関係ではマドリッド自治大学の近藤教授、水曜会からは富士通の江口さんとかJALの河村さんなどが代表でなんども会合を開きました。 これだけの異なったグル−プが発起人となって会の設立を企画したので、結構いろいろな雑音も入りましたが、しかし、日本人会設立の気運が強く、関係各位の献身的な努力によって一年がかりで何とか設立まで漕ぎ着けることができました。この間に、他の国の日本人会の規則とか活動状況などを官民一体となって調査に協力したことを覚えております。 ところで、ヨ−ロッパにある他の国の日本人会の状況を調査してみると、一番設立が古いのが英国で、1950年10月です。その次に古いのがフランスで、1958年9月です。そしてベルギ−が1979年、イタリ−が1987年となっております。ドイツは当時調査しなかったので、手許のファイルに記録が残っておりません。この4ヶ国の中で、ベルギ−は日本人会と商工会が同じ釜の中に入ってやっておりました。当地のように日本人の数の少ない所は、できれば同じ組織内に一般部と商工部が存在する簡便な組織の方が好ましいと思いますが、商工部として既に水曜会が設立されており、この中に日本に本社を持つ企業に所属しない地元企業を含めることは無理がありました。それと当地在住の個人の方々を一緒にすることも難しい話でした。 実を言うと、私は初代会長になる予定ではなかったのです。当時の三菱商事の責任者であった細野さんが初代会長になることに関係者の間で内々決まっていました。ところが、細野さんが社命により突然ロンドンに転勤がきまり、私(スペイン三井物産)にお鉢が回ってきたというわけです。いわば、私はピンチヒッタ−であったわけですが、これがレギュラ−として9年間も常時出場ということになりました。ということで、4月16日の設立委員会で正式に会長候補になり、その後6月9日の設立総会で会長就任を要請され、これを受諾する羽目になりました。従って、私は今でも、細野さんを転勤させた三菱商事の人事部を怨んでいる次第です。役員候補としては、副会長に東銀の沢木支店長、レストラン会から池永さん、武道会から山下さん、理事には成田参事官、福森日本人学校長、スペイン富士通の江口社長、加藤画伯、勝さん(通訳協会)、阿部さん(なでしこ会)、安藤さん(自営業)、河村さん(日本航空)、藤野さん(三越スペイン社長)などの方々が候補者にあがっていました。事務所は、グランヴィアにある三越の裏手のモステンセ広場に面したビルの一部屋を借りることにしました。事務局長も、当時在西16年の岡田さんにお願いすることになりました。更に、初年度予算の作成、設立登記、会員募集などやることは山ほどありました。初年度は、特に総務部長の藤野さんとか財務部長の鎌田さんなどが先頭に立ってとても熱心に仕事をして頂きました。 このような皆さんの大きなお力で、1991年6月19日に第1回の総会が開催されて、マドリッド日本人会が無事に発足しました。その後、すぐに会員の募集を開始しました。同年の9月までに法人会員が30社、個人会員が約40名入会しました。私は、この年の3月まで水曜会の会長を務めておりましたので、特に水曜会所属の企業の入会勧誘には人一倍注力いたしました。もちろん、当時の副会長をはじめ理事の皆さん方も大変な努力をされて、当地の在住の企業や個人の入会を勧誘されたことは言うまでもありません。現在まで日本人会が存続できたのも、この時の関係者の努力でかなりの基盤ができたからです。 |
[ 181] 設立当時の状況
[引用サイト] http://www.acjmad.com/txt/kaisetsuritu.html
