帰るとは?

たかはし・しゅんすけ●1954東京都生まれ。人材マネジメントコンサルティング会社ザ・ワイアット・カンパニーの日本法人社長を経て独立。現在はワトソン・ワイナット・アジアパシフィックリージョンリージョンのアドバイザー、慶應義塾大学非常勤講師などを務める。著書多数。
前回は経済面やスキル面でのリスクヘッジというキャリアのリスクマネジメントのお話をしました。
しかし、万全のリスクヘッジをしたとしても、ポストから外されたりて、あるいは会社が突然倒産してしまったりなど、キャリアには依然として多くのリスクがあるわけです。いくら経済的に余裕があり、幅の広いスキルを持っていたとしても、そのような境遇に陥ると、人間は精神的に落ち込むものです。
アメリカでは平気で首を切るといわれますが、そのアメリカでも首を切られるということは、配偶者との死別に匹敵するくらいのストレスが人間にかかるといわれています。そんな最悪の事態に出くわしたとき、精神的なバッファ(緩衝物)を持っていることが非常に重要になります。
日本の場合、会社からリストラの宣告を受けても、家族に打ち明けられず毎日朝になると家を出て行くなんて話まであります。
それは、会社丸抱えの人生を送り、会社にすべてを捧げてきたために、「帰るところ」を失っているということです。いくら会社でひどい目にあっても、かならず味方となり精神的なバッファになってくれるのが「帰るところ」なんです。「帰るところ」が会社だったら、会社でひどい目にあったときに向かう場所がありません。
帰るところというのは、一般的には家庭だと思います。ですから、キャリアにおける最大のリスクマネジメントは家庭をきちんと帰るところにするということです。
家庭には、「帰るところとしての家庭」と「行くところとしての家庭」という2種類があります。寝るとか食事するなど”特別なこと” がなければ会社の人間と飲んでいるという人にとっては、家庭は「行くところ」になっているのです。
会社の上司と喧嘩して降格を言い渡されたとしましょう。それを家族に話したときに、
「あんた、恥ずかしいじゃない。なんてことをしてくれるの」と言われたなら、それは家庭が「帰るところ」になってないということです。 反対に、「そんなことでくよくよするんじゃないわよ」と励まし、バッファになってくれたなら、実はこれが大きなリスクヘッジになるわけです。そういう家庭を持っている人は、キャリアにおいてリスクをとれるので結果として成功する確率は高くなります。それがないと守りに入ってしまうのでリターンが上がりません。
欧米の場合、地域のボランティアや宗教などのコミュニティ、ブラジルならサッカークラブ、イギリスならパブというように、さまざまな社会人が属し、仲間が集まるところがあります。
そこに集まる人々は仕事で勝負する人ではなくて、仕事でひどい目にあっても自分の味方になってくれる人です。このような「帰るところ」を家庭の他にもっていれば強い。趣味を持つことも帰るところを確保することになるでしょう。
とにかく「精神的に帰るところ」を持つということがキャリアにおける最高のリスクマネジメントだということです。

[ 161] 帰るところはあるか
[引用サイト]  http://www.president.co.jp/pre/special/ess/012.html

中流階級のつつましやかな家、六畳の間、正面に箪笥があって、その上に目覚時計が置いてある。前に長火鉢あり、薬缶から湯気が立っている。卓子台が出してある。賢一郎、役所から帰って和服に着替えたばかりと見え、寛いで新聞を読んでいる。母のおたかが縫物をしている。午後七時に近く戸外は闇し、十月の初め。
母 たねが、ちいと相手が気に入らんのだろうわい。向こうはくれくれ云うてせがんどったんやけれどものう。
母 けんど、一万や、二万の財産は使い出したら何の役にもたたんけえな。家でもおたあさんが来た時には公債や地所で、二、三万円はあったんやけど、お父さんが道楽して使い出したら、笹につけて振る如しじゃ。
母 私は自分で懲々しとるけに、たねは財産よりも人間のええ方へやろうと思うとる。財産がのうても、亭主の心掛がよかったら一生苦労せいで済むけにな。
母 そんな事が望めるもんけ。おたねがなんぼ器量よしでも、家には金がないんやけにな。この頃の事やけに、少し支度をしても三百円や五百円はすぐかかるけにのう。
賢一郎 おたねも、お父さんの為に子供の時ずいぶん苦労をしたんやけに、嫁入りの支度だけでも出来るだけの事はしてやらないかん。私たちの貯金が千円になったら半分はあれにやってもええ。
母 そんなにせいでも、三百円かけてやったらええ。その後でお前にも嫁を貰うたらわしも一安心するんや。わしは亭主運が悪かったけど子供運はええ云うて皆云うてくれる。お父さんに行かれた時はどうしようと思ったがのう・・・。
賢一郎 そうですか。あいつは中学校でよく出来たけに、小学校の先生やこしするのは不満やろうけど、自分で勉強さえしたらなんぼでも出世は出来るんやけに。
母 お前の嫁も探してもろうとんやけど、ええのがのうてのう。園田の娘ならええけど、少し向うの方が格式が上やけにくれんかも知れんでな。
母 でもおたねをほかへやるとすると、ぜひにも貰わないかん。それで片が付くんやけに。お父さんが出奔した時には三人の子供を抱えてどうしようと思ったもんやが・・・。
新二郎 (和服になって寛ぎながら)兄さん! 今日僕は不思議な噂をきいたんですがね。杉田校長が古新町で、家のお父さんによく似た人に会ったと云うんですがね。
新二郎 杉田さんが、古新町の旅籠屋が並んどる所を通っとると、前に行く六十ばかりの老人がある。よく見るとどうも見たような事があると思って、近づいて横顔を見ると、家のお父さんに似ていたと云うんです。どうも宗太郎さんらしい、宗太郎さんなら右の頬にほくろがあるはずじゃけに、ほくろがあったら声をかけようと思って、近よろうとすると水神さんの横町へ、こそこそとはいってしもうたと云うんです。
母 杉田さんなら、お父さんの幼な友達で、一緒に槍の稽古をしていた人やけに、見違う事もないやろう。けどもうお前、二十年にもなるんやけにのう。
新二郎 杉田さんもそう云うとったです。何しろ二十年も会わんのやけに、しっかりした事は云えんけど、子供の時から交際うた宗太郎さんやけに、まるきり見違えたとも云えん云うてな。
母 まあ、そりゃ杉田さんの見違いやろうな。同じ町へ帰ったら自分の生れた家に帰らんことはないけにのう。
母 あれも、もう十年も前の事じゃ。久保の忠太さんが岡山へ行った時、家のお父さんが、獅子や虎の動物を連れて興行しとったとかで、忠太さんを料理屋へ呼んで御馳走をして家の様子をきいたんやて。その時は金時計を帯にさげたり、絹物ずくめでえらい勢いであった云うとった。それからはなんの音沙汰もないんや。あれは戦争のあった明くる年やけに、もう十二、三年になるのう。
母 若い時から家の学問はせんで、山師のような事が好きであったんや。あんなに借金が出来たのも道楽ばっかりではないんや。支那へ千金丹を売り出すとか云うて損をしたんや。
母 ああそうやそうや。つい忘れとった。(台所の方へ立って行く、姿は見えずに)杉田さんが見たと云うのもなんぞの間違いやろ。生きとったら年が年やけに、はがきの一本でもよこすやろ。
母 (台所から食事を運びながら)そうや、お父さんは評判のええ男であったんや。お父さんが、大殿様のお小姓をしていた時に、奥女中がお箸箱に恋歌を添えて、送って来たと云う話があるんや。
新二郎 おたあさん、今日浄願寺の椋の木で百舌が鳴いとりましたよ。もう秋じゃ。・・・兄さん、僕はやっぱり、英語の検定をとる事にしました。数学にはええ先生がないけに。
賢一郎 うむ、何しろ一生懸命にやるんだな、父親の力は借らんでも一人前の人間にはなれると云う事を知らせる為に、勉強するんじゃな。わしも高等文官をやろうと思うとったけど、規則が改正になって、中学を出とらな受けられん云う事になったから、諦めとんや。お前は中学校を卒業しとるんやけに、一生懸命やってくれないかん。
おたね (座りながら、やや不安なる表情にて)兄さん、今帰って来るとな、家の向う側に年寄の人がいて家の玄関の方をじーと見ているんや。(三人とも不安な顔になる)
(四人は黙って、食事をしている。ふいに表の戸がガラッと開く、賢一郎の顔と、母の顔とが最も多く激動を受ける。しかしその激動の内容は著しく違っている)
(二十年振りに帰れる父宗太郎、憔悴したる有様にて老いたる妻に導かれて室に入り来る、新二郎とおたねとは目をしばたたきながら、父の姿をしみじみ見つめていたが)
母 お前さん、賢も新もようでけた子でな。賢はな、二十の年に普通文官云うものが受かるし、新は中学校へ行っとった時に三番と降った事がないんや。今では二人で六十円も取ってくれるし、おたねはおたねで、こんな器量よしやけに、ええ所から口がかかるしな。
父 そら何より結構な事や。わしも、四、五年前までは、人の二、三十人も連れて、ずうと巡業して回っとったんやけどもな。呉で見世物小屋が丸焼になった為に、えらい損害を受けてな。それからは何をしても思わしくないわ。その内に老先が短くなってくる、女房子のいる所が恋しゅうなってうかうかと帰って来たんや。老先の長い事もない者やけに皆よう頼むぜ。(賢一郎を注視して)さあ賢一郎!その杯を一つさしてくれんか、お父さんも近頃はええ酒も飲めんでのう。うん、お前だけは顔に見おぼえがあるわ。(賢一郎応ぜず)
賢一郎 (やや冷やかに)俺たちに父親があれば、八歳の年に築港からおたあさんに手を引かれて身投げをせいでも済んどる。あの時おたあさんが誤って水の浅い所へ飛び込んだればこそ、助かっているんや。俺たちに父親があれば、十の年から給仕をせいでも済んどる。俺たちは父親がない為に、子供の時になんの楽しみもなしに暮してきたんや。新二郎、お前は小学校の時に墨や紙を買えないで泣いていたのを忘れたのか。教科書さえ満足に買えないで、写本を持って行って友達にからかわれて泣いたのを忘れたのか。俺たちに父親があるもんか、あればあんな苦労はしとりゃせん。
新二郎 しかし、兄さん、おたあさんが、第一ああ折れ合っているんやけに、たいていの事は我慢してくれたらどうです。
賢一郎 (なお冷静に)おたあさんは女子やけにどう思っとるか知らんが、俺に父親があるとしたら、それは俺の敵じゃ。俺たちが小さい時に、ひもじい事や辛い事があって、おたあさんに不平を云うと、おたあさんは口癖のように「皆お父さんの故じゃ、恨むのならお父さんを恨め」と云うていた。俺にお父さんがあるとしたら、それは俺を子供の時から苦しめ抜いた敵じゃ。俺は十の時から県庁の給仕をするし、おたあさんはマッチを張るし、いつかもおたあさんのマッチの仕事が一月ばかり無かった時に、親子四人で昼飯を抜いたのを忘れたのか。俺が一生懸命に勉強したのは皆その敵を取りたいからじゃ。俺たちを捨てて行った男を見返してやりたいからだ。父親に捨てられても一人前の人間にはなれると云う事を知らしてやりたいからじゃ。俺は父親から少しだって愛された覚えはない。俺の父親は俺が八歳になるまで家を外に飲み歩いていたのだ。その揚げ句に不義理な借金をこさえ情婦を連れて出奔したのじゃ。女房と子供三人の愛を合わしても、その女に叶わなかったのじゃ。いや、俺の父親がいなくなった後には、おたあさんが俺の為に預けておいてくれた十六円の貯金の通帳まで無くなっておったもんじゃ。
新二郎 (涙を呑みながら)しかし兄さん、お父さんはあの通り、あの通りお年を召しておられるんじゃけに・・・。
賢一郎 新二郎! お前はよくお父さんなどと空々しい事がいえるな。見も知らない他人がひょっくり入ってきて、俺たちの親じゃと云うたからとて、すぐに父に対する感情を持つことが出来るんか。
賢一郎 義務があると云うのか。自分でさんざん面白い事をしておいて、年が寄って動けなくなったと云うて帰ってくる。俺はお前がなんといっても父親はない。
父 ええわ、出て行く。俺だって二万や三万の金は取り扱うてきた男じゃ。どなに落ちぶれたかと云うて、食うくらいな事は出来るわ。えろう邪魔したな。(悄然と行かんとす)
新二郎 まあ、お待ちまあせ。兄さんが厭だと云うのなら僕がどうにかしてあげます。兄さんだって親子ですから、今に機嫌の直る事があるでしょう。お待ちまあせ。僕がどなな事をしても養うて上げますから。
賢一郎 新二郎! お前はその人になんぞ世話になった事があるのか。俺はまだその人から拳骨の一つや二つは貰った事があるが、お前は塵一つだって貰ってはいないぞ。お前の小学校の月謝は誰が出したのだ。お前は誰の養育を受けたのじゃ。お前の学校の月謝は、兄さんがしがない給仕の月給から払ってやったのを忘れたのか。お前や、たねのほんとうの父親は俺だ。父親の役目をしたのは俺じゃ。その人を世話したければするがええ。その代り兄さんはお前と口は利かないぞ。
賢一郎 俺は父親がない為に苦しんだけに、弟や妹にその苦しみをさせまいと思うて夜も寝ないで艱難したけに、弟も妹も中等学校は卒業させてある。
父 (弱く)もう何も云うな。わしが帰って邪魔なんだろう。わしやって無理に子供の厄介にならんでもええ。自分で養うて行くぐらいの才覚はある。さあもう行こう。おたか! 丈夫で暮せよ。お前はわしに捨てられてかえって仕合せやな。
新二郎 (去らんとする父を追いて)あなたお金はあるのですか。晩の御飯もまだ食べとらんのじゃありませんか。
父 (全く悄沈として腰をかけたまま)のたれ死するには家は要らんからのう・・・(独言の如く)俺やってこの家に足踏が出来る義理ではないんやけど、年が寄って弱ってくると、故郷の方へ自然と足が向いてな。この街へ帰ってから、今日で三日じゃがな。夜になると毎晩家の前で立っていたんじゃが、敷居が高うて入れなかったのじゃ・・・しかしやっぱり入らん方がよかった。一文なしで帰って来ては誰にやってばかにされる・・・俺も五十の声がかかると国が恋しくなって、せめて千と二千とまとまった金を持って帰ってお前たちに詫をしようと思ったが、年が寄るとそれだけの働きも出来んでな・・・(ようやく立ち上って)まあええ、自分の身体ぐらい始末のつかんことはないわ。(蹌踉として立ち上り、顧みて老いたる妻を一目見たる後、戸をあけて去る。後四人しばらく無言)

[ 162] 菊池 寛『父帰る』(一幕)
[引用サイト]  http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/~matsuoka/Kikuchi-father.html



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