ドキュメンタリーとは?

ドキュメンタリー(documentary)とは、映画フィルムもしくはビデオなどの映像記録媒体で撮影された記録映像作品の事を指す。
記録映像、記録映画とも言われ、テレビ番組として放送する場合もある。文学におけるノンフィクションに相当し、「取材対象に演出を加えることなくありのままに記録された素材映像を編集してまとめた映像作品」と定義される。個別の作品については様々な手法がとられている。一般的にはドキュメンタリーは制作者の意図や主観を含まぬ事実の描写、劇映画 (Drama film) ・ドラマは創作・フィクションであると認識されているが、本質的に差はないと実務者(森など)に指摘されている。
ドキュメンタリーの歴史は映画と共にはじまった。リュミエール兄弟による歴史上最初の映画『工場の出口』(1895年)は、その名の通り工場の出口にカメラを設置して、従業員らが出てくる様子をワンショットで撮影しただけのものである。それにつづき『列車の到着』 (L'Arrivee d'un train en gare de La Ciotat) (1896年)では観客はスクリーンの映像を現実のものと見間違えて大騒ぎしたという。これらは上記の定義においてはまさしくドキュメンタリーである(被写体となった群衆のなかにリュミエールらが仕込んだ関係者が含まれることは映画における史上最初の演出ともいわれる)。リュミエールらが撮影したその他の映像(家族で会食している場面など)も一種の記録映画と言える。
初期の映画においては世界各地の風景が盛んに撮影され、大衆に向けて興業された。これも紀行ドキュメンタリーのさきがけともいえる。
しかしながら、初期の映画においてはフィクション・ノンフィクションの境界は曖昧であり、のちに生まれる様々なジャンルへは未分化に状態にあった。この段階ではただ映像が映っていること、物珍しいものが映っていることに観客の関心が始終した。(この流れの中で、演劇を固定カメラによって撮影した映像から劇映画が生まれていくことになる。)
やがて映画という媒体の持ついくつかの可能性がはっきりするなかで、記録媒体という要素を重視しながら自らの問題意識を作品に投影する意志を持った制作者が現れてきた。ドキュメンタリーの父と言われたロバート・フラハティ(アメリカ、1884年 - 1951年)やヨリス・イヴェンス(オランダ、1899年 - 1989年)、ジガ・ヴェルトフ(ソビエト、1896年 - 1954年)などがそれである。
フラハティは代表作である『極北の怪異 (Nanook of the North) 』(1922年)を、イヌイットナヌーク一家と一年間共に生活しながら制作した。イヴェンスは当初『橋』(1928年)や『雨』(1929年)によってアヴァンギャルド映画作家としての評価を得たが、これらの映像制作はその後の一貫した記録映画作家としての活動の序章となっている。ヴェルトフは代表作『カメラを持った男』 (en:Человек с киноаппаратом) の制作などを通して、現実の徹底的な記録を至上とする記録映画主義「映画眼」を提唱し、後の記録映画作家達に影響を与え続けている。
こうした1920年代の成果をもとに1930年代にいたって、イギリスの記録映画作家ポール・ローサ (Paul Rotha) 、ジョン・グリアスン (John Grierson) らが提唱した「英国ドキュメンタリー映画運動」など、映画のもつ教育効果、宣伝効果を利用して社会を変革する意図をもった映画制作が隆盛した。現代の「ドキュメンタリー」という用語はこの運動が発祥とされる。
しかしながら、こうしたドキュメンタリーの技法や技術が確立されるにともなって、映画の大衆宣伝能力が注目され、国家的なプロパガンダを目的とした作品も多くあらわれた。特に第一次世界大戦以降、総力戦を遂行可能にする施策の一つとしてプロパガンダ映画の製作が重視された。
たとえば、レニ・リーフェンシュタール(1902〜2003)の作品『意志の勝利』(1935年)はナチスの党大会を記録した映像であるが、当時としては究めて洗練された映像作品として仕上げられており、その美的印象によって大衆をナチズムに誘導したとされる。そのため未だにドイツでは上映が禁止されている。(こうした映画では必ずしも現実をありのままに記録しているとは限らず、制作者や体制の思想に沿うように現実が歪曲して描かれる傾向が強い。)
ナチス・ドイツは自らの活動について詳細に映像記録を残したが、このなかにはユダヤ人強制収容所の映像なども含まれていた。こうした、もともとはナチスの記録・宣伝用として撮られた記録映像を素材として使用し、反対にその犯罪性を告発した記録映画の代表作がアラン・レネ(1922〜 )の『夜と霧』である。
また、1930年代から、映画カメラは文化人類学のフィールドワークに活用されるようになった。こうした映像を活用した人類学は特に映像人類学 (Visual anthropology) と呼ばれ、撮影された映像を人類学映画と呼ぶ。ここでは映像は記録者の主観的な解釈に影響される事のない絶対的な客観性をもった記録手段として捉えられている。人類学映画は純粋に学術的記録であり、今日的な意味でのドキュメンタリーとは一線を画するが、ドキュメンタリー映画作家たちに一定の影響を与えてきたと言われる。
第二次世界大戦後、ドキュメンタリーは、産業映画・教育映画と呼ばれる分野から、新植民地主義 (Neocolonialism) 、資本主義への異議を唱えるプロパガンダ的なものにいたるまで多様化し、さらにテレビジョンの登場・普及によってテレビ・ドキュメンタリーという放送を前提とした作品分野が登場した。
その中で、古典的スタイルのドキュメンタリー制作は深刻な社会的問題に連動して盛んに制作された。たとえばベトナム戦争の時代にはヨリス・イヴェンスは米軍の北爆に曝されるハノイに入り、市民の日常を撮影し て『ベトナムから遠く離れて』(1967年)や『北緯17度』(17e parallele: La guerre du peuple 1968年)を制作した。なかでも『ベトナムから遠く離れて』はクリス・マルケルやジャン・リュック・ゴダールなどフランスの気鋭の映画作家たちとの共作となった。日本人では、牛山純一がテレビドキュメンタリーとして『南ベトナム海兵大隊戦記』を制作した。日本においてはほかに『絵を描く子供たち』を制作した羽仁進、水俣病を追求し続けた土本典昭や三里塚闘争を描いた小川紳介、『ゆきゆきて、神軍』の原一男などが活躍した。
さらに8ミリ映画、16ミリ (16 mm film) 映画、ビデオカメラなど廉価に扱える機材が普及したことで、極めて私的な世界を扱った個人映画も勃興した。たとえばジョナス・メカス (Jonas Mekas) の『リトアニアへの旅の追憶』(Reminiscences of a Journey to Lithuania 1972年)はアメリカに暮らす作者自身が生まれ故郷であるリトアニアを訪ねる様子を自らの撮影で構成した。一見ホームビデオ的な作品であるが、世界中で個人映画の記念碑的作品として支持された。
一方で、観客の劣情に訴える娯楽としてのドキュメンタリー映画もテレビ・ドキュメンタリーの普及以前には流行した。これらは世界各地の大都市の夜の風俗、退廃的・奇怪なイベント、欧米以外のアジア(日本も含む)やアフリカの民族の「野蛮な」風習を切り取ったものである。特にグァルティエロ・ヤコペッティの『世界残酷物語』(1962年)は海外旅行の珍しい時代に世界の奇習を紹介して大ヒットを記録し、以後1980年代前半に衰退するまでこの手のドキュメンタリーは数多く制作された(これらの映画はモンド映画と呼ばれている)。しかしこれらのモンド映画は当初から多くのやらせを含んでいたほか、ヨーロッパの側から劣った東洋やアフリカを見るというオリエンタリズム的な視線があったことが批判されている。モンド映画ブームの後半にはやらせの手の内を見せる半ばフィクション的なものが登場したほか、観客もやらせの存在を暗黙の了解として楽しむようになり、やがてテレビによるショッキングな特集番組などに吸収されて消えていった。
また、ドキュメンタリーの制作技法がステレオタイプ化し、手持ちカメラなどドキュメンタリーに特有の技法を逆手に取って臨場感・本物感のあるフィクション(ドラマ)が制作されるようなケースが1970年代以降現れ、こうした手法はすでにハリウッドなどでも一般化している。さらに日本においては1980年代頃から伝統的な取材・構成形式の他に、ドラマとともに構成された「ドキュメンタリードラマ」 (Docudrama) (アメリカでは1970年代に確立された形式である)、クイズやスタジオでのトークショーなどを織り交ぜた「ドキュメントバラエティー」などが登場し、それぞれ一般化している。1990年代以降、テレビ放送では「リアリティーショー」と呼ばれる、一定の極端な設定のもとでの、台本なし(という建前)の、視聴者から募った素人出演者など登場人物の言行を固定カメラで観察するというスタイルが世界的に流行した。この技法は真実らしく表現するという意味では、その監視カメラ的な映像故に斬新であったが、演出された(または虚構の)撮影対象を表現手法よって真実らしく見せてしまう実例が目立つ。
リアリティー番組や実話再現番組、警官密着番組などの隆盛により、人々が台本のあるドラマよりも真実やドキュメンタリーらしく見えるものを好みつつある傾向が明らかになってきた。また、2001年のアメリカ同時多発テロ事件の影響でドラマは打撃を受け、一方で監督本人や素人が社会問題などに突撃するリアリティー番組に似たスタイルのドキュメンタリー映画が良い興行成績を出すようになった。『華氏911』や『スーパーサイズ・ミー』などはその例である。
フィクションとノンフィクションの境界は曖昧なものとなり、全体としてはドキュメンタリーは以前ほど「真実」と近しいものとしては受け入れられなくなりつつある。
ベトナムから遠く離れて (1967年、フランス) クリス・マルケル、ジャン=リュック・ゴダール、アラン・レネ、ウィリアム・クライン、ヨリス・イヴェンス、アニエス・ヴァルダ、クロード・ルルーシュ
残酷を超えた驚愕ドキュメント・カランバ (1983年、イタリア) アントニオ・クリマーティ、マリオ・モッラ
ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ (映画)(1999年、独・米・仏・キューバ) ヴィム・ヴェンダース
河村雅隆 『ドキュメンタリーとは何か』テレビ・ディレクターの仕事 ブロンズ新社 ISBN 4893091026
佐藤真『ドキュメンタリー映画の地平』世界を批判的に受けとめるために〈上〉凱風社 ISBN 4773625058
佐藤真『ドキュメンタリー映画の地平』世界を批判的に受けとめるために〈下〉凱風社 ISBN 4773625066
この項目「ドキュメンタリー」は加筆依頼に出されており、内容をより充実させるために次の点に関する加筆が求められています。
加筆の要点 - ドキュメンタリー映画・番組としての最近のもの、華氏911やプロジェクトXのような有名なものに関しての加筆をお願いします。
カテゴリ: 加筆依頼 | ドキュメンタリー | ドキュメンタリー映画 | ドキュメンタリー番組 | 映像作品

[ 100] ドキュメンタリー - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%BC

国際情報波として定評ある衛星第1放送がお届けする直球ドキュメンタリー番組。世界を揺るがせた大事件のその後、誰も目を留めない社会の底辺で進んでいる恐るべき事態。世界中で起きているあらゆる出来事に目を配り、多彩なテーマ、素材にタブーなく、真っ向から取り組みます。
「BSドキュメンタリーは、ある意味テレビの原点だよね」。昨今新聞、テレビで引っ張りだこの、ある大学教授が私に言った言葉です(もちろん、私がこの番組の担当だと、彼は知りません)。普通には行けない土地の、普通では立ち会えない出来事を体験する。確かに、テレビというメディアが持つ特性を愚直に守っているという点で、原点かも知れません。暗いと言われようが重いと言われようが、この直球真っ向勝負を貫きます。(衛星放送局・山崎秋一郎)
1972年2月21日、ニクソンが米大統領として初めて中国を訪問した。東西冷戦の真っ只中での米大統領による訪中。それは、朝鮮戦争以来20年にわたる対立に終止符を打つ歴史的なできごとだった。極秘裏に準備を進めたのは、ヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官(米国)と周恩来総理(中国)。キッシンジャーの行動は、数名の大統領側近以外には一切知らされず、時に国務省をも欺いての極秘作戦だった。世界に衝撃を与えたニクソンの訪中から35年。ここ数年、当時の外交交渉の膨大な記録が、外交文書やメモだけでなく、ニクソンやキッシンジャーの会話のテープなど、アメリカ側から次々に公開され、その全貌が明らかになってきている。番組では、封印を解かれた外交資料、未発表の資料映像、そして米中の当事者へのインタビューをもとに、20世紀最大の外交上の“事件”であるニクソンの訪中の全貌を前・後編で描く。●前編「疑心暗鬼と模索のなかの対話 〜キッシンジャー訪中の舞台裏〜」キッシンジャーは、訪問先のパキスタンで「胃腸を悪くして休む」と、48時間公式の場からとつぜん姿を消す。周到に仕組まれた芝居だった。極秘裏に側近らと北京に向かったキッシンジャーは、周恩来との世紀の外交交渉に臨んだ。両国首脳が、腹を探り合いながら、“極秘連絡”を取り合い、キッシンジャーが北京に降り立つまでをスリリングに描く。●後編「知られざる水面下の交渉 〜“キッシンジャー・周恩来会談”と“ニクソン・毛沢東会談”〜」1972年2月、中国を訪問したニクソンと毛沢東の会談。毛は「哲学の話がしたい」と、政治的な話を避けつつも、ニクソンと世界情勢の共通認識を固めようと話題を導いて行った。「上海コミュニケ」の発表に至るまでの緊迫した外交交渉を描く。
「人類に対する犯罪」として世界から非難され続けた南アフリカのアパルトヘイト。1994年、ネルソン・マンデラ政権の誕生をもってそれは消滅した。しかし、アパルトヘイト崩壊の具体的なプロセスについては、いまなお多くの謎が残されている。アパルトヘイト廃止の第一歩となったのは、90年2月のマンデラの釈放であった。27年間獄中にあった反アパルトヘイト運動のリーダーが突然解放されたのはなぜだったのか。マンデラの釈放をめぐる交渉は、ロンドンでの秘密会談で進められた。欧米による経済制裁を追い風にマンデラ釈放を迫るアフリカ民族会議(ANC)と、妥協につぐ妥協を強いられる国民党(NP)政府。番組では、釈放の二年前から秘密裏に始まった激しい駆け引きの様子を中心に、デクラーク大統領をはじめ、アパルトヘイト終焉に深く関わった当時の関係者の証言を駆使して、マンデラ釈放の舞台裏を具体的に明らかにする。(マンデラ氏、デクラーク氏は共に93年ノーベル平和賞を受賞)
♪僕の手につかまって 僕らがいるところへ来て 涙もない、争いもない、飢餓もない新しいアフリカへ南アフリカ・ヨハネスブルグ。旧黒人居住区最大の街ソエトは住民の大多数が貧困にあえいでいる。犯罪とエイズによる死が日常化。若者たちは路上で洗車や売り子をしてわずかな日銭を稼ぎ、何とかしのいでいる。アパルトヘイト終結から14年、経済成長の恩恵を受けた白人、富裕層の黒人との所得格差は実に33倍へと広がる。ソエトの若い世代はこう嘆いてきた「結局僕たちには何も無い」。しかし、歌を歌いながら明日に希望を託そうとする若者たちがいる。ソエトに暮らす10代、20代を中心につくったゴスペルコーラス・メメザ・アフリカ。2年前、今の境遇から抜け出す為プロを目指し結成した。メンバーには親や家がない者もいる。家族のように彼らは、毎夕、仲間の家のガレージに集まり、語り合い、歌う。仲間と歌うことで、絶望せず犯罪の誘惑も防ぐ。リーダーのジミーは言う「“ここ”で生きていくためには不満を言っているだけではダメだ。自分たちで変えねば」番組は、ソエトで生きるメメザ・アフリカのメンバーの日常を密着取材し、ガレージでの青春を見つめていく。
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[ 101] NHK BSオンライン
[引用サイト]  http://www.nhk.or.jp/bs/bsdoc/

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[ 102] NHKオンライン|ドキュメンタリー/教養
[引用サイト]  http://www3.nhk.or.jp/toppage/navi/documentary.html

マスメディアには載りにくい、しかし意義のある多数のドキュメンタリー映画やビデオ/フォトジャーナ
ル・映像作品・アート等が、関心ある人々へ広がる一助となるために開設された、主に関西圏で開催される情報を相互提供するメーリングリストです。
イスラエル人監督エイアル・シヴァンは、故郷を南から北まで彼らが名づけた「ルート181」に沿って一緒に旅をする。1947年11月29日パレスチナを
分するため採択された国連決議181条の中で描かれた境界線を辿り、その土地土地に住む様々な背景を持つイスラエルやパレスチナの人々に出会う。彼らの
日常生活をフィルムに収めながら、「ルート181」に凝集された過去や現在を話者から巧みに引き出していく。イスラエル・パレスチナのみならず私たちが
1976年に軍事独裁政権に拉致され殺されたアルゼンチンの映像作家レイムンド・グレイザー。彼が遺した作品、家族を映したホームムー
像を縦横に駆使、彼の人生と1960年代、70年代のラテン・アメリカの反戦映画や解放運動の歴史が描かれる。小気味よいテンポとサスペンスフルな展開、
そして全編を包み込む魅惑的な音楽の中から、CIAや独裁政権が破壊できなかった記憶と理想が立ち上がる。
「わたしの季節」は、滋賀県野洲市にある重症心身障害児(者)施設第二びわこ学園が、創立40周年を迎え新設移転を前に、そこ
に暮らす人たちの今、生きている命の確かな息づかいをみつめて、ありのままの日常を、述べ3年にわたって迫った長編ドキュメンタリー映画です。
文化庁映画大賞、山路ふみ子映画福祉賞を受賞するなど、好評を博し、大阪、滋賀では劇場上映もおこなわれました。
学園に何ヶ月も泊まり込み、入所者、職員、家族との信頼関係を培いながらも、「人が生きる」喜びと厳しさを正面から
見つめつづけ、自身も製作中に脳梗塞で倒れられ「いのち」を実感された小林茂監督に貴重な体験をお話していただきます。
イスラム教徒の虐殺事件の考察を通じて、インドにおけるヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立を捉える。正統
インドを標榜するヒンドゥー政党によるイスラム教徒への圧迫、衝突。ヒンドゥー教徒、イスラム教徒両者の証言により憎悪の形成と増幅が丹念に描かれてい
9.11以降私たちは、憎悪と不寛容の政治が主流派に受け入れられ、舞台の中央に立つまでになった世界に生きている。右派勢力は、ヨー
リカの全土で強固な支持基盤を固めつつあるようだ。それは、反移民、反イスラムの巧みな言論によって焚きつけられたナショナリズムである。アメリカ大統領
選挙では“テロとの戦い”が議論を支配し、どちらの候補者も相手よりもよりよく“奴らを追いつめて殺す”ことを約束した。罪のないイラク市民への爆撃を正
当化するために、虚構の諜報活動を利用することが合法となったような世界、米軍に“取り込まれて”いないジャーナリストを精密爆撃やロケット弾で攻撃する
ことが許されるようになった世界、破廉恥な政治家が油井を分割し、再建を業者に請け負わせて3,600万ドルのボーナスを手に入れるような世界、赤ん坊が
殺され、手足を切断されるのも“コラテラル・ダメージ(巻き添え被害)”として許容されるこの世界で、私たちはかつてないほどの大きな困難に直面してい
人類の歴史上、今までにも暗黒時代は数多く存在し、その残虐さはしばしば似たようなレトリックによって正当化されてきた。憎悪、絶望、
の映画を製作しながら、私は2002年から2004年のインドと1930年代のドイツに、衝撃的な類似性を見いだした。グジャラートでは国家によって支持
されたイスラム教徒への虐殺行為が起こり、その影響が色濃く残るなか、学校では人種隔離が行われ、都市や村ではゲットー化がすすみ、イスラム教徒に対する
India』で助監督を務め、映画とテレビの分野でキャリアを築きはじめる。インドでチャンネル[V]、スタープラス、ヴィジャイテレビの3つのチャンネ
ルを企画・設立。現在はインディペンデントのドキュメンタリー映画製作に戻っている。前作の『余震──村は何処へ行くのか』(2002)は、ビッグ・ミニ
DV(アメリカ)、ジーヴィカー(インド)の映画祭で最優秀ドキュメンタリー映画賞を受賞し、他にも2002年から2003年にかけて8つの賞を受賞し
VISION地球環境映像祭を含め100以上の国際映画祭で上映されたが、政府の主催するムンバイ国際映画祭への出品は拒否された。
南京大虐殺とは何であったのか? 当時、南京に滞在していたジョン/マギー牧師が記録した貴重なフィルムに、映像資料の発掘、
731部隊とその姉妹部隊の全てを現地調査。被害地域の調査記録や、部隊の関係者16名の証言を記録する。
阪神大震災で被災し、神戸市灘区六甲小学校に暮らした人々の1年間。体育館に生まれた「町」が消えていく。
尼崎事故はJR西日本だけの問題なのか。他のJR会社に大事故の心配はないのか。こうした疑問を抱えて、私たちはJR東日本の千葉支社管内を取材した。そ
こから見えてきたのは、京成スカイライナーとスピードアップ競争をくりひろげる成田エクスプレス、組合差別によってベテラン運転士に見習いをつけない労務
管理、夜も昼も働く外注労働者の悲鳴と、安全切り捨てだった。線路には傷や破断が続出し、民営化と利益優先主義のゆがみがいたるところに吹き出していた。
法・教育基本法の文字が消え、教職員には「君が代」斉唱時に立たなかっただけで重い処分が課せられている。処分された教職員は、03年の10・23通達
(「君が代」強制の通達)以後、のべ345名に達した。カメラは2003年から2006年にわたって不起立の教職員たちの想いと行動、そして教え子たちの
姿を追う。ここから見えてきたのは、国家主義の抬頭とそれに必死に抵抗する人々のドラマだった。本ドキュメンタリー作品では、停職処分とたたかう根津公子
アメリカ主導の多国籍軍は、湾岸戦争で「劣化ウラン弾」を使用しました。この兵器により、ガンと白血病が大量発生し、今なおイ
ラクの子ども、大人たちを苦しめています。その被害は参戦した多国籍軍の兵士にまで及んでいます。中東カタールの衛星テレビ局・アルジャジーラが、イラク
だけでなく、アメリカ、イギリス、ドイツなどで取材し、劣化ウラン弾の被害実態を報告したものがこのビデオです。
イラク戦争では、2200トンの劣化ウランが使われた。それは、イラク住民だけでなく米軍兵士と家族に汚染被害を拡げている。このビデオでは、イラク戦争
百、何千の人々が住居を失い、多くの町が貯水の水位下に沈む。そのひとつ詩人李白で有名な四川省奉節(フォンジエ)の町にカメラは目を向ける。貯水間近な
2002年1月から、住民最大の関心事である移転問題を軸に、先の生活の不安を抱えた人々の葛藤と逞しさを、次第に移住に向けて動き出す町の情景と共に描
三峡そして奉節行きを前にした私たちに、友人たちは口々にこう言った。----かの「詩の都」の優美さをぜひとも
撮って来てほしい、そこには杜甫や李白の詩が刻み込まれているのだから。そして三峡の雄大さをぜひとも撮って来てほしい、それは大自然の詩なのだから。そ
れから、はつらつとして素朴な三峡の人々と、歌うような船頭たちのかけ声をぜひとも撮ってきてほしい、それこそが詩なのだから。----もちろん。私たち
けれど一体どのような詩ならば、ひとりの老人がやるせなく流す涙を、あるいは十把一絡に扱われた苦力たちの犬のような生活を書きとめることができたのだろ
う。廃墟のなかで誰もが口喧しく話題にするのは「家」のことだけ。家こそが理想のすべてであり、価値のすべてなのだ。そこにいかなる詩的優美さも見い出す
ことができなかった私たちは、教会へ向かった。教会ならば何がしかの詩が謳われているのではないだろうか。だが、そこで謳われる詩の一節までもがすべて家
貧困、失業、個の権利の喪失、公平性の原則の欠如、非理性、功利的価値観。それでも人は生きて行かねばならない。私たちがそこで向き合った真実とは、私た
ちの心を占める恐怖だった。渦巻く恐怖のなかでカメラが見つめたのは、人間性が廃墟のなかに沈みゆくありさまでしかなかった。
1966年、重慶生まれ。1986年から1991年まで北京の中央戯劇学院で学び、その後広州のテレビ・
重慶に戻りライターになる。2000年から2001年まで新聞「渝洲服務導報」のチーフエディターを務める。
1971年、重慶生まれ。1994年から1998年まで重慶テレビニュース部に勤め、フォトジャーナリス
田舎町。ひとり暮らしのふたりの老人、彼らの日常にカメラは寄り添う。終の棲家として老人ホームへの移住を
決意した90歳のグレタ、周りを雑草が囲む荒れ果てた家で3匹の猫と暮らす79歳のアルベルト。人生を見つめながら自分らしく生きようとするふたりの自然
な選択までの微妙な心の揺れ。監督はそれらを注意深く見つめ、人間が必ず辿る老いの問題を繊細に描き出す。
この映画は、普遍的で不可避なある問題に焦点をあてている。肩書きや育ちは関係なく、誰もが遅かれ早かれいつかは自問自答しなくてはならない問題。その問
年、ヨーテボリ生まれ。スウェーデン南部のビョーンストルプで育つ。2003年、ヨーテボリ大学芸術学部写真映画学科映画監督コース卒業。その後、プラハ
の歴史を知りたい」と、ビデオカメラを担いで貢寮(コンリャオ)にやって来たのは1998年、大学院生の頃だった。
彼女はその後、6年間にわたって撮影を続けることによって、奇しくも、民進党・陳水扁総統の政権交代に象徴される台湾の現代史そのものを記録していくこと
たまたま弟が映像の仕事をしていたことから撮れた、貴重な映像です。葬儀の裏側のどたばた、お金にからむ本音、独身長女の采配ぶり、善人と悪人の登場、墓
わたしが主宰するSSSネットワークで作った共同のお墓に集まる女性たちの姿。血のつながりを超えた関係がいかに素晴らしいか。
この映画は松原惇子の生き方、孫はいないけど、前向きな1家族の物語でもあります。気楽に見れますので、お友達をお誘いの上、ご覧いただければうれしいで
す。 葬送に関心を持っている人はもちろんのこと、女性が作った映画なので、たくさんのヒントがあると思いますし、どなたでも楽しめる映画です。
すべては一通の葉書から始まった。極普通のサラリーマンだった父が、世間を騒がせる教科書問題の渦中の人だったのである。新しい教科書をつくる会の会員通
の葉書を手に息子は父に追及を始める。この時、息子は父と子の政治対決という正攻法を採らなかった。むしろくすぐり戦術というゲリラ戦を選んだのである。
それとは知らぬ父は、息子のくすぐり戦術の前に本音をボロボロと語る。日教組主導の間違った歴史観、ロシアの属国、『法治国家でない』アジア諸国の反
発…、皆どこかで聞いた科白だ。母はこうした父に堂々と正攻法で夫婦喧嘩を挑み(といっても割れた皿についての局地戦ではあるが)、姉や姪もこの戦線に参
加してやんわり戦術に出る。こうして、普通の家庭に降って湧いた「教科書問題」にキャメラはプライベートに密着していく。裸にされた父が本音で語ること
は、教科書問題は結局自分の少年時代を甦生させたいという追憶と重なりあっていたことだ。国民学校で学んだ歴史観を戦後すべて否定された軍国少年特有の心
の隙間に「新しい教科書をつくる会」はしっかりと巣食っていたのだ。そうした隙間を狙う空恐ろしい根深さが見事にくすぐり出されていく。
70年安保闘争前夜、カルチェラタン闘争をはじめとする世界的な学生運動に呼応する形で結成された「大阪自主映画センター」制作作品。国際反戦デーに向
かって盛り上がった闘争過程を、その内部の矛盾を含めてドキュメントしようとしたもの。康浩郎が主宰し、センターに集まった100人近いスタッフによる集
団制作を目指した。この作品のプリントは長年行方不明で上映できなかったが、元・近畿自主上映組織の会(近畿自映組)の主宰者のもとで発見され、久しぶり
1969年の春以降、新宿駅西口広場はフォークを歌う者、論議を交わす者など、若者たちの解放区となっていた。5月には機動隊が入り始め、ついに7月24
日、この広場は”道路”に変わった(道路交通法で取り締まるための警視庁の工作による)。ベトナム反戦、安保粉砕、沖縄闘争勝利、三里塚空港阻止などが叫
ばれていた69年、日本の未来を想う若者たちの声を活写する。68年7月11日の機動隊による小川プロ襲撃事件以後、「さんや68冬」撮影中の竹中労逮
捕、国学院大学映画研究会の「仮題飢餓の饗宴27」ラッシュフィルム押収などが、鈴木清順問題(日活解雇と全作品封鎖)と共に、”表現の自由”への不法弾
圧として最大の問題となった。この作品も、被写体となっている人々への配慮から、公の場ではほとんど上映されなかった。
ーン・エイジャーのニノとドゥドゥ、そして彼らと友人のように接する監督。廃屋で生活する運命共同体の個性あふれる男性/女性たちもまたカメラに心を開い
ていく。暴力や麻薬中毒、強制送還されるかもしれない恐怖と施設での生活、アラブ系であることへの蔑視。ふたりは自分たちを取り巻く檻の現実を語る。痛い
『ガーデン』は製作するのに3年かかり、企画にはもっと時間がかかっている。学生の頃、ガーデンを通るたびに、そこで働く10代の子たちから目をそらし
つつも、何かしなければと思っていた。映画を作るために初めてガーデンに行った時、これは長くつらい旅になると悟った。まず最初に決めたことは、少年たち
のためにも、映画作家である私たちのためにも、この映画には何らかの希望が存在しなければならないということだった。
ニノとドゥドゥに会って、ふたりの友情の深さを理解するにつれ、希望がそこにあると感じた。ふたりはテルアヴィヴのダウンタウンにある「エレクトリシ
ティ・ガーデン」で体を売っている。この映画は1年かけて彼らの生活を追い、彼らの複雑な生活ぶりや、現実が姿を変え、友情が深まっていく様子を明らかに
していく。ふたりとも家族に虐待され家出をし、生活のために売春している。ニノとドゥドゥはサバイバーであり、その知性、ウィット、強い意志から、ガーデ
ンで売春する若者の間では“エリート”的な存在だ。彼らは息苦しいガーデンの支配から逃れたいと口にするが、手っ取り早く手に入る現金には中毒性がある。
ニノとドゥドゥはテルアヴィヴの街を舞台にした、サバイバルと友情の旅に私たちを連れていく。自然体でいようともがく彼らが、自分たちのおかれた状況を
理解していく。警察に抗い、殴られ、留置場に放り込まれ、客と交渉し、イスラエルの“システム”のなかでうまくやる。そんな日々でも、自分自身を受け入れ
よう、自らの運命を変えようとする。この希有な友情の物語は、10代の売春の過酷な現実を露にする一方で、イスラエルに住むパレスチナ人、アラブ系イスラ
尼崎事故はJR西日本だけの問題なのか。他のJR会社に大事故の心配はないのか。こうした疑問を抱えて、私たちはJR東日本の千葉支社管内を取材した。
こから見えてきたのは、京成スカイライナーとスピ−ドアップ競争をくりひろげる成田エクスプレス、組合差別によってベテラン運転士に見習いをつけない労務
管理、夜も昼も働く外注労働者の悲鳴と安全切り捨てだった。線路には傷や破断が続出し、民営化と利益優先主義のゆがみがいたるところに吹き出していた。
際映画祭で上映され、受賞歴も多数。海外にはBBC、チャンネル4(イギリス)、CBC(カナダ)、ABC(アメリカ)、NHK(日本)へ番組を提供。
両親は、牧場の牛を売り払い農場の閉鎖を決意する。残された畑も父親の怪我で売却されることに。高校卒業間近な妹の病気、心配するしかない母親。農場を継
がずに都会での生活を選んだ妹と監督。押し寄せる時代の波と、家族の日常を映し出しながら、父の撮りためた
8mmフィルムを眺め、ひとつの家族の物語をひとつの作品へと昇華させた。本作が長編デビュー作のフィンランド期待の監督によるセルフ・ドキュメンタ
その解決法をこのドキュメンタリーで探したかった。また、日本の右傾化を脅威に感じつつある今、アジアの平和を実現するために何が必要かを確認したかっ
た。共同作業は簡単ではなかったが、そのおかげで日本の内部を深く覗き見ることができたと思う。温かい心と固い意志を持った人々から、道を見出すことがで
日本と韓国でドキュメンタリーを作るというのは、その過程自体が日本と韓国の間にある様々な溝を認識し、理解していく作業でした。この『あんにょん・サヨ
ナラ』では、主人公のふたりの気持ちを通して韓国の方がなぜ靖国に対して怒るのか、それを受け止める日本人はどう思っているのか、そしてそれを受け止めら
れない靖国が、日本人が、なぜそれを理解できないのかを考えられるものになればと思っています。過去のつらい歴史にサヨナラを。
め、朝鮮半島の分断と、38度線によって政治や生活の面で隔てられた人々をテーマにした作品を発表。現在は、再統一、労働、売買春、環境などの社会問題に
加藤久美子 1975年生まれ。2002年から映像制作を始める。フィリピンの元「慰安婦」をテーマにした作品、9.11以後の暴力の連鎖や自衛隊のイラ
このドキュメンタリービデオは、今から27年前、全国の郵便局で働く「全逓」(全逓信労働組合、当時
人)の労働者が、「差別と合理化は許さない」と闘い(年賀状の郵便遅配〔闘争〕といった事で記憶されている人もいるだろう)、そのために61人の首切りを
含む、8183人の大量処分(1979年4月28日──いわゆる「4・28処分」)を受けたことから、それから26年余にわたって闘い続けてきた、当時の
郵政免職者25年の歴史は、戦後の大労組・全逓が労使協調に転落していった過程でもあった。なぜ労組
はだめになってしまうのか。そして再生の道はあるのか。この作品のもうひとつのテーマは「労働組合のおわりと始まり」である。

[ 103] ドキュメンタリー・フィルム・ライブラリー ホームページ
[引用サイト]  http://dofil87.hp.infoseek.co.jp/



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