終わりとは?

『歴史の終わり』(れきしのおわり, The End of History and the Last Man)は、アメリカの政治経済学者フランシス・フクヤマの著作。1992年にFree Press社から出版された。三笠書房の翻訳版のタイトルは『歴史の終わり』だが「歴史の終焉」として言及されることも多い。翻訳は渡部昇一が行った。
「歴史の終わり」とは、国際社会においてリベラルな民主主義と資本主義が最終的な勝利をおさめ、それ以上の社会制度の発展が終わり、社会の平和と自由と安定を無期限に維持するという、将来における仮説である。歴史とは、戦争や内乱における国家興亡の歴史であり、世界史上永遠を誇った国家体制は存在しなかったが、歴史の終わった民主国家体制は例外であり、戦争やクーデターのような歴史的大事件はもはや生じなくなる。それゆえ、この時代を「歴史の終わり」とよぶ。
ベルリンの壁崩壊を受けて冷戦が終了し、「悪の帝国」であったソ連の崩壊と自由主義の盟主であったアメリカの勝利という経験をうけた議論であり、アメリカ的な自由を流布することが歴史の目的であるとするアメリカ的な歴史観を端的に示した議論でもある。又、ベルリンの壁崩壊、冷戦の終了、ソ連崩壊という歴史と価値観の大転換を受けた歴史学の混乱も示している。
フクヤマはそれまで共産主義の正当化に使われてきたヘーゲル哲学をリベラルな民主主義、資本主義の正当化のために用いた。
また、よく「歴史の終わり」は、「社会主義体制にたいする資本主義体制の勝利宣言」といわれるが、厳密に言えば、経済体制というよりも政治支配体制について本質的に述べた論文であり、正確には「ソビエト的な前衛主義による一党独裁や、指導者原理によるカリスマ的支配にたいする、多数決原理によるリベラル民主主義体制の勝利」と呼ぶほうが本旨に合っている。
フクヤマの『歴史の終わり』は、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル、カール・マルクス、フリードリヒ・ニーチェの歴史哲学と実存主義哲学について論じたものである。フクヤマはヘーゲルのコジェーブ解釈を利用し、マルクスの歴史哲学とニーチェの実存主義哲学を批判する。(しかし、フクヤマはニーチェの近代批判を高く評価しており、そのリベラル民主主義批判は、マルクスよりも本質的で根源的だと述べている。フクヤマはニーチェ哲学を論破したと言うよりも、政治体制領域に入ってこないように、個人レベルの領域に限定化したと読んだほうが正確である)
フクヤマにとって、歴史とはさまざまなイデオロギーの闘争の過程であり、リベラル民主主義が自己の正当性を証明していく過程である。 よって、民主主義が他のイデオロギーに勝利し、その正当性を完全に証明したとき歴史は終わる(歴史の弁証法的発展が完了する)。
世界史上に起こった戦争は、本質的にはみな名誉や気概、正当性を賭けたイデオロギー闘争(階級闘争や経済的利害の衝突ではなく)であり、歴史には栄華を誇った大国は数あるが、非民主国家はみなその不合理性ゆえに崩壊した。真に安定性のある政治体制は、民主体制のみであると、フクヤマは考えている。フクヤマ的な歴史解釈によれば、第二次世界大戦は、持てる国vs持たざる国の闘争というよりも、民主主義vs全体主義(ナチス的な民族至上主義)vs共産主義の戦いになる。
マルクスは、歴史の発展は経済的な階級対立にあると主張したが、フクヤマはむしろ精神的な優越願望・対等願望(これはそのままニーチェ哲学の貴族道徳・奴隷道徳に類比できるだろう)の対立によって生じると主張する。優越願望とは、他人よりも上に立ちたいという野心であり、向上心であり、勝利への執着心である。対等願望とは、差別はいけない、傲慢になってはいけないというような、キリスト教的な博愛主義、平等主義である。出身や人種、性別、宗教などによる差別がなくなれば(それは法制度的には男女普通選挙制など、各種の政治的権利の平等によって達成される)、もはや歴史を発展させる要素はなくなる。必ずしも、経済的な平等や、生産手段の共有化を達成する必要はない。人間が憤りを感じる不合理は、あくまで機会の平等、ルールの平等が破られた場合であり、公平な自由競争の結果としての不平等(スポーツの勝敗や成績、学歴、収入、企業内のでポストの差など)は、納得して受け入れる。政治的権利、機会、ルールの平等が達成されたら、もはや不合理は存在せず、大規模で組織的な内乱も反乱も起きなくなるので、歴史は終わる。
フクヤマは歴史を動かす原動力は、認知を求める奴隷の労働だと主張する。気概が、優越願望が、人間のモチベーションを駆り立て、歴史を発展させるのである。貧困そのものが問題なのではない。貧困であると言うコンプレックス、劣等感、ルサンチマン、認知の欠如が、階級闘争の原因になるのである。戦争や内乱が起きるのも、経済的利害ではなく、気概のぶつかり合いによって起こる。現実に第1、2次世界大戦は、戦勝国も敗戦国も、両方大損害をこうむって、両者得るところなく終わった。戦争はもともと経済的には不合理な行為であり、戦争原因は居丈高に盛り上がった民族主義やナショナリズムにある。命あっての物種である以上、単純に経済的利害のみで動く人間は、むしろ戦争を避けようとする。命がけで戦うのは、命よりも大事なものがあるからである。(これは、戦争の原因を経済的利害の対立に見ようとするマルクス主義的唯物史観、レーニン的な帝国主義論に対する批判である。)
また、歴史の進歩という概念そのものが西洋的、キリスト教的であり、歴史はカオスであり、法則を見出すことは不可能であるという予定調和な運命論的歴史観批判(当時はマルクス主義的唯物史観の運命論的・決定論的歴史観の挫折から、『歴史の法則性』という概念そのものが懐疑的に見られていた)に対して、フクヤマは民主主義の普及は不可逆的な要素であり、じゅうぶん進歩と呼びうると主張する。歴史は弁証法的に発展するものであり、ただ繰り返されるものではない。紆余曲折を経ながらも、民主国家が増えていると言うのは否定できない歴史的事実であり、歴史には否定できない法則性が厳然と存在するとフクヤマは主張する。
フクヤマは、いまだ民主化を達成していない国や地域を歴史世界、民主化を達成した近代国家や地域を脱歴史世界と呼ぶ。いまだ歴史(イデオロギー闘争)を行っている世界と、それが終わった歴史以後の世界という意味である。これらの世界では、互いに行動原理が異なる。歴史世界では、マキャベリズム的陰謀術数や、パワーポリティックスや軍事主義が幅をきかせ、性懲りも無く他国を侵略したりするだろう。しかし、脱歴史世界では、トラブルは民主的な対話によって回避され、軍事的緊張も起きなくなる。事実として、以前は慢性的な交戦状態にあった欧州も、今ではまったくといっていいほど軍事的緊張感は存在しない。国家行動を考える上では、宗教や文明の違いよりも、民主国家か独裁国家かの違いで判断するほうが合理的かつ効果的だと考えている。
政治学における現実主義とは、国際情勢をパワーポリティックス、物理的な軍事バランスによって判断する考えである。国際関係論で大きな影響力を持つ考え方だが、フクヤマは脱歴史世界ではもはやこの考えは有効ではないと指摘している。たとえば、ソ連が崩壊したのは軍事的に弱体化したためではない。ソ連は究極兵器である核を持ったまま内部崩壊したのである。これは現実主義や軍事バランス論では説明できないことだ。ソ連が崩壊したのは、政府が軍事的に弱体化したためではなく、支配の正統性を失ったからである。また、アメリカとカナダの国境線は、軍事的には真空地帯であるのにもかかわらず、どちらもその隙をついて侵攻を企てたりはしない。かつては世界大戦の震源地となった欧州も、今ではその国境線沿いには、治安維持程度の警察力しか配置していない。民主国家間では、軍事的に強いから攻め込まれない、軍事的に弱いから攻め込まれる、などという現実主義的なパワーポリティックスは通用しない。民主国家は、トラブルは民主的な対話によって回避され、互いの主権や正当性を評価し合っているため、それに異議を唱える軍事行動などは起こらないのである。これは民主的平和論と呼ばれ、その論客であるマイケル・ドイルやブルース・ラセットをフクヤマは高く評価している。しかし、民主国家同士の大規模な戦争はもはや起こらないだろうが、今後も民主国家と独裁国の闘争は起こりうるだろうとフクヤマは主張し、そこではまだ現実主義が有効だろうと考えている。
タイトルの『歴史の終わりと最後の人間』の「最後の人間」は、ニーチェ哲学の概念である。 ニーチェは、民主主義的な価値相対主義の中に埋没し、平等を愛して、他人と争うことを嫌い、気概を失った人間を「最後の人間」と呼ぶ。(これはヘーゲルの哲学に出てくる、「最初の人間」に対比させて造った概念である。最初の人間たちは名誉のために命がけで戦い、勝った者は主人となり、負けたものは奴隷となった)
フクヤマは歴史終焉論を単純な「アメリカ勝利論」、「資本主義万歳論」と言うよりも、むしろ寂寥感のあるイメージで語っている。歴史の終わりとは、壮大な歴史の動きの終焉であり、もはや大革命も大戦争もおき得ない。カエサルやチンギス・ハン、ナポレオンのような英雄も現れない。50、60年代の学生運動のような大きな政治的ムーブメントもおきず、人々はただ淡々と日常生活を過ごすだけ。しかし、それが果たして本当に人間を幸せにしていると言えるのか? 近代化を完成させ、すべてのプロセスを終えてしまった人間の寂しさ、ニヒリズムの到来もフクヤマは指摘しているのである。
フクヤマの説に対し、サミュエル・ハンチントンは著書『文明の衝突』の中で「支配的な文明は人類の政治の形態を決定するが、持続はしない」とし「歴史は終わらない」と主張した。 このように、「歴史の終わり」への批判として、ハンチントンの「文明の衝突」論が挙げられることが多いが、文明の衝突論と歴史終焉論はもともと思考軸が違うことに注意を払う必要がある。
ハンチントンが言うように、文明による価値観の違いが衝突を生むということは十分ありえる。しかし、その文明の衝突を回避する唯一の方法は、リベラルな民主主義の普及のみである。発展途上国の宗教戦争や民族紛争は、民主主義理念の普及が不十分だから起こるのである、というのがフクヤマの考えである。フクヤマは9・11同時多発テロ後も、「まだ歴史は終わったままだ」という見解を示している。フクヤマにとって、リベラル民主主義とは、文明圏や宗教圏よりも高次にある普遍的なイデオロギーであり、けしてキリスト教圏やアングロ・サクソン文化圏などに固有なものではない。日本や韓国、台湾、インドのようなアジア諸国にも民主主義は普及し、プーチンの強権主義が批判されるロシアも一党独裁に回帰するような動きは見られない。5大国の最後の独裁国である中国も段階的な民主化を進めている。反米的なイスラム教国であるイランも限定的だが民主体制は維持されており、フセイン体制崩壊後のイラクの国民議会選挙にも多くの有権者が参加した。「歴史の終わり」が発表されて10年以上たつが、その間、フクヤマの「歴史とは世界が民主化していく過程である」という主張は、揺らぐどころか、ますます精度を増しているとフクヤマは考えている。
フクヤマは、リベラル民主主義は、合理的で普遍的な正当性を持ったイデオロギーであると述べている。これは誤解を恐れずに言えば、『民主主義絶対正義論』である。価値相対主義を信条とするリベラル民主主義が絶対正義へと化し、不寛容な政策を採る。これは古くから言われていた民主主義の持つ危険性であり、矛盾である。アメリカのブッシュ大統領が、『中東の民主化』を掲げ、ありもしない大量破壊兵器をでっち上げて軍事侵攻を開始した。独裁者はそれだけで悪なので、武力に訴えて追放してもよいと言うアメリカの行動は、やはりフクヤマ的な歴史終焉論が大きな思想的背景になっているのは否定できない。
しかし、フクヤマの歴史終焉論は歴史哲学であり、現状論ではない。歴史段階が成熟していないところに、不用意に民主主義を持ち込んでも混乱するだけである。確かに今イラクを始め、中東は混乱している。それは石油と言う地下資源に恵まれすぎているので近代化、工業化する必要が他国よりもないという側面もあるだろうし、イスラム教の政教分離が現段階では不十分であるという側面もある。
イラクの混迷は文明や宗教の差と言うよりも、歴史段階の差であり、時間はかかるが必ず中東にも民主主義は根付くとフクヤマは考えている。

[ 98] 歴史の終わり - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E7%B5%82%E3%82%8F%E3%82%8A

与作さんは「骨挫傷」と診断されました。「打ち身」より重症で「ヒビ」より軽症な骨の怪我だそうです。凄い所に住んでいるんだな〜と、自分自身びっくりしました。こんなところにぃ〜〜。
※♪夏の終わり♪の歌、オフコース、森山直太郎が思い浮かびますが、他にもたくさんの方の歌があるんですね〜。アルバムの収録曲が多いのですね※夏の終わり - Jitterin’Jinn夏の終わり - ペギー葉山夏の終わり - 香坂みゆき夏の終わり - CHAGE&ASKA夏の終わり - 石川よしひろ夏の終わり - Something ELse夏の終わり - トワイス・アズ・マッチ夏の終わり… 五味美保夏の終わり - チャゲ&飛鳥夏の終わり - 矢沢永吉夏の終わり - MOOMIN夏の終わり - キャロル夏の終わり - スィートショップ夏の終わり - 山口由子夏の終り - 南沙織夏の終り - 中村雅俊夏の終り - 矢野顕子夏の終り - 浜田省吾夏の終り - ジュディ・オング2007-08-30 11:18 
与作さんは「骨挫傷」と診断されました。「打ち身」より重症で「ヒビ」より軽症な骨の怪我だそうです。凄い所に住んでいるんだな〜と、自分自身びっくりしました。こんなところにぃ〜〜。
※♪夏の終わり♪の歌、オフコース、森山直太郎が思い浮かびますが、他にもたくさんの方の歌があるんですね〜。アルバムの収録曲が多いのですね※夏の終わり - Jitterin’Jinn夏の終わり - ペギー葉山夏の終わり - 香坂みゆき夏の終わり - CHAGE&ASKA夏の終わり - 石川よしひろ夏の終わり - Something ELse夏の終わり - トワイス・アズ・マッチ夏の終わり… 五味美保夏の終わり - チャゲ&飛鳥夏の終わり - 矢沢永吉夏の終わり - MOOMIN夏の終わり - キャロル夏の終わり - スィートショップ夏の終わり - 山口由子夏の終り - 南沙織夏の終り - 中村雅俊夏の終り - 矢野顕子夏の終り - 浜田省吾夏の終り - ジュディ・オング
いま編集に凝っていますので、音楽を探すのに必死になっています。情景にあった音楽って見つけ出すのがたいへんです。
画像の渓谷美というのですか、当然のことですが、渓流って本当に「V」の部分を流れているのですね。
忘れておりました。与作さん回復が早くてよかったですね!我が息子、取材の帰りに曽爾村で倉庫に激突、大きな事故にはなりませんでしたが、肋骨2本ほどにヒビが入り胸にサポーターをしておりました。先日やっとOKが出て、今は事故の事も忘れて仕事に精出しています。
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[ 99] So-net blog:山紫水明:夏の終わり
[引用サイト]  http://blog.so-net.ne.jp/uoop/2007-08-29-1

あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。
主の年2006年の元旦礼拝は、この年最初の主日礼拝となりました。普段の日曜日は、教会学校の礼拝、小礼拝、主礼拝、そして夕礼拝と、朝から夜まで、礼拝のために教会が聞かれています。しかし、元旦礼拝においては、そのすべてを一つにして、一回だけの合同礼拝として計画されました。小さいお子さんたちから若い人たち、壮年の人たち、高齢の人たちまで、教会全体が一つに集められた神の家族であることを、共に味わうことになりました。交通規制をはじめとするさまざまな障害を乗り越えて、今年最初の礼拝に集うことのできたお一人ひとりの上に祝福を祈ります。またそれそれの場所で祈りを合わせながら、特別な礼拝を覚えてくださった方たちの上にも、祝福を祈ります。新しい年の歩みが、神のご計画に基づいて、豊かな導きのもとに置かれますように。
正月三が日の鎌倉の様子をご存じの方は、八幡宮へと流れていく大きな人並みの中に、黄色いプラカードを持って立つ人たちのいることも知っておられるでしょう。世界の終わり、神の裁きのときは近い、悔い改めよ、と呼びかけるメッセージをテープで流し続けています。教会へと招いているわけでもないようです。ただ繰り返して、裁きを告げる言葉を響かせているのです。不安で不確かな時代であればこそ、家族の安全と健康を祈ろうとして、お参りをする人たちが集まってきます。その大きな流れの中にあって、さらに不安をあおるような脅しとも聞こえかねない言葉が、道行く人にどのように聞かれているのでしょうか。ほとんど皆、素通りしていくのです。もしかすると、元旦礼拝の説教題を見て、ドキッとした人がいるかもしれません。「万物の終わり」。鎌倉雪ノ下教会においても、三が日の路傍の声と同じことを語るのだろうか。新しい始まりを覚える喜びのときに水を差すように、恐ろしい裁きを告げようとしているのか。確かに、聖書は、この世界に終わりがあり、裁きのときが来ることをはっきりと告げているのです。けれどもそれは、私たちに不安を抱かせて、無理矢理、信仰に引きずり込むためではありません。むしろ、聖書が終わりを告げるとき、そこには、大きな喜びの響きが満ちています。望みが溢れています。なぜなら、世界の終わりというのは、滅びの予告ではなくて、歴史の完成を告げる言葉だからです。
ペトロの手紙は、はっきりと告げて言います。「万物の終わりが迫っています」。確かに、この地上に永遠に続くものは何もありません。すべての物は過ぎ去ります。かつて、人間の生活はどこまでも発展していくのだと勝手に思い込んで、バラ色の未来を思い描いた時代がありました。しかし、今日では誰もが、地球そのものに寿命があるということに気づき始めました。地球の温暖化、オゾン層の破壊。さまざまな面で、環境破壊が進んでいます。今や地球の命が死に瀕している。そういう言葉が、ただの脅しではなく、現実味を帯びてきました。やがては地球と共に人類が滅びる日が来る。それは決して子ども向けのテレビ番組の話だけではなくなりました。私たち自身も、いつまでも若いわけではありません。次第に年老いていきます。体力の衰えを感じ、気力が弱っていくことを自覚します。やがては、自分の命の終わりのときが来ることを意識せざるを得なくなります。若いときにはそれほど意識しなかった「終わり」というものが見えてくるのです。私たちの置かれている現実を見渡してみても、確かに、終わりが来る、ということは避けがたく思われます。
けれども、聖書が私たちに「終わり」の事柄について告げるとき、そこには、明らかに、単なる滅びとは違った響きがあるのです。聖書が「終わり」について語るとき、それは、私たち自身の経験に基づいて、感覚的に捕らえる終わりとは違います。時間の中に生きているものが、古び衰え、やがて滅びに向かっていくというのとは違うのです。聖書の一番初めには、神が天地万物を造られた、天地創造の有り様が記録されています。この世界は何となくできたのではありません。偶然の積み重ねで進化してきたというのでもありません。神がすべての物をお造りになりました。そこから世界と人間の歴史が始まりました。そして、すべての物に始まりをお与えになった神が、すべての物に終わりをもたらされるのです。神は、何の考えもなしに、思いつきで世界を造られたのではありません。神は、ご計画に従って世界を始められました。そしてまた、ご計画に従って、世界を終わらせられるのです。
聖書が、「万物の終わりが迫っています」と告げるとき、それは、滅びへと向かいつつある世界と人間を見つめながら、絶望的に語っているのではありません。すべてを終わらせられる方と向かい合うようにして、望みをもって語るのです。なぜなら、神が終わらせられるのであれば、初めにご計画なさったとおりに、すべてを完成してくださると信じることができるからでず。万物の終わりとは、神のご計画に従って言えば、万物の完成されるときです。神のご計画は必ず成し遂げられるのです。そのお始めになった御業を完成するために、神は、ご自身に背いた私たち人間を救うための道をさえ開いてくださいました。この世界には、はっきりと、クリスマスの恵みが刻まれています。神のご計画は、私たち人間を救うために、その独り子を地上に遣わすほどの、深い愛の御心をもって成し遂げられるのです。それならば、どんなにこの世界に悪がはびこり、誰もが滅びを予測せざるを得ないような現実の中でも、なお神に望みを置くことができます。神は、初めの目的にかなうようにすべてを導き、御業を完成される。そのことを、御子イエス・キリストによって、信じることができるのです。
そうであればこそ、万物の終わりを見つめて生きる生き方は、それを終わらせられる、神を仰いで生きる生き方でなければなりません。世界と私たちが、造り主である神のまなざしのもとにあることを知る。それは同時に、終わりの日の裁き主である方のまなざしのもとで生きることです。だから御言葉は私たちに勧めて言うのです。「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい」。万物の終わりのときとは、イエス・キリストが再びお出でになるときであり、私たちの救いが完成されるときであることを信じているならば、あわてることはないのです。捨て鉢になることもありません。落ち着いて、神の前にひざをかがめて、祈りに生きるのです。そしてお互いの間には、愛をあつく保つのです。
「愛は多くの罪を覆う」と教えられています。相手に対する深い愛があれば、むやみに相手の過ちを暴いて、人を傷つけるようなことはしない、ということでもあります。しかし、この勧めが、終わりの日を来たらせる方のまなざしのもとで告げられていることを思うならば、ただ相手を思いやって、その罪を隠し、見ないふりをするということではないはずです。むしろ、罪を罪として見つめ、深く悲しみながらも、その罪を赦すことを求めているのです。私たちは、それそれに、主イエス・キリストの十宇架のゆえに罪を赦していただいた者たちです。だから、主の教えに従って、互いに罪を赦し合うのです。私たちが、人の罪を赦すなどというのは傲慢ではないか。赦すことができるのは神だけだ。そういう思いを抱く人がいるかもしれません。しかし、私たちはそう言って、開き直ってはならないのだと思います。どうせ自分は罪人なのだから、人を赦すことなどできない、と言って開き直るならば、私たちの罪を赦すために十宇架の死を死なれ、私たちが新しい命に生きるようによみがえられたイエス・キリストの救いを見くびることになります。祈りをもって、互いの罪を赦し合う。お互いを受け入れ合う。そして不平を言わずにもてなし合う。そのような愛の交わりを築いていくのです。
元旦の礼拝が成り立つためにも、多くの愛の奉仕が献げられました。礼拝のために仕える人たちがいるのです。そして、御言葉を語り、聖餐を分かつ教師が立てられました。それそれが愛に生きる喜びを味わいながら、神が召してくださった奉仕に生きることによって、豊かな礼拝の交わりが造られるのです。聖書が繰り返し語る言葉の響きに、注意深く耳を傾けていただきたいと思います。御言葉は命じるのです。「愛し合いなさい」、「もてなし合いなさい」、「賜物を生かして互いに仕え合いなさい」。そこには一人のお客さんもいません。私たちは、互いに愛し合い、もてなし合い、仕え合うのです。目に見える愛のわざだけではありません。たとえ自分には何もできないように思われたとしても、祈りによって仕え合うことができます。執り成し合うことができます。そして、愛し合い、もてなし合い、仕え合う交わりの中に、あの方のお姿が見えてきます。礼拝の交わりの中心に、あの方が共にいてくださいます。私たちを愛し抜いてくださった方、私たちを今も、御言葉と聖餐によってもてなしてくださる方、そして何よりも、ご自身の命を献げて私たちの救いのために仕えていてくださる方。私たちが、この御方のもとに共に集い、この御方を共に仰ぐとき、御言葉の約束がそこに実現していることを知るのです。「それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン」。
聖書は、私たちのことを「神のさまざまな恵みの善い管理者」と呼んでいます。本当の優れた管理者は、自分の持っているものが、自分のものではない、ということを知っています。それはあくまでも、主人である方からあずかっているものです。この世界も、私たち自身も、神が栄光を受けられるために、神の栄光を現すために、神ご自身がお造りになり、神からおあずかりしているものなのです。だから、私たちに託されている賜物を、土の中に隠しておいてはなりません。互いのために生かして用いることを通して、神の栄光を現すのです。神のご計画のために献げるのです。教会は、いつでも、いつまでも、共に集まることを大事にしています。集まって一緒に礼拝をします。教会まで体を運ぶことのできない人のためには、教会から出かけていって、その人を囲んで礼拝をします。神によって召し出され、互いに手を差し伸べる交わりは、何よりも礼拝の中で一つの恵みに共にあずかることから始まるのです。ただ説教を聞くだけならば、自分一人、ラジオやテープ、インターネットで聞くこともできるでしょう。しかし、聖餐の恵みを分かち合うためには、集まる必要があります。神から恵みを与えられ、それをまた隣りの人に差し出していく。そのようにして、一つの糧を共に分かち合う中で、主によって結び合わされた恵みを生きるのです。
一年の初めに、聖餐にあずかります。新しい年も、聖餐の食卓に連なり続けて歩みます。聖餐制定の言葉の中で、使徒パウロは教えました。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。主は再び来られます。万物に終わりをもたらし、私たちの救いを完成するために、主は再び来られます。そのときまで、御言葉を聞き続け、聖餐を祝い続け、主の栄光をたたえて、共に歩み続けたいと願います。教会に連なる皆さまおひとりひとりの上に、心より、新しい年の祝福を祈ります。

[ 100] 説教0601 「万物の終わり」
[引用サイト]  http://www.yukinoshita.or.jp/tsuushin/s0601.htm



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