ビートたけしとは?
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このページは半保護の方針に基づき、一部ユーザーによる編集から保護されています。 ビートたけし(本名:北野武(きたの たけし)、1947年1月18日 - )は、東京都足立区梅島出身のテレビ司会者、お笑いタレント、映画監督、俳優、東京芸術大学大学院映像研究科教授(監督領域)、元漫才師(ビートキヨシとともに、ツービートとして活動)。情報番組の司会を数多くこなす他、ピアノ、タップダンスも行う。また、立川談志の門下生でもあり、「立川錦之助」という高座名も持つ。 オフィス北野に所属し、この事務所の中心人物でもある。タモリ・明石家さんまとともに、「日本のお笑いタレントBIG3」の一人にあげられ、また、映画監督としては世界的にも評価が高い。愛称は「たけちゃん」・「殿」・「たけし」(所ジョージなどからは「おじさん」と呼ばれている)。映画監督関係では「北野武」、それ以外では「ビートたけし」を名乗ることが多い。 東京都足立区島根町にて、ペンキ職人の父・北野菊次郎と、母・北野さきの四男(次男が夭折し、実質は三男として育つ)として誕生。「竹のようにどんなものにも耐えてすくすく伸びてほしい」という願いから、「武(たけし)」と名付けられた。色白で細面、身体は小さいが俊敏で友人からは「ターチ」と渾名された。兄姉とは年が離れていたため、祖母に非常に可愛がられて育った(家族構成は「家族・縁戚」を参照)。 足立区立梅島第一小学校に入学。この頃から野球に熱中するようになるが、教育熱心だった母の薫陶が功を奏し成績優秀だった。特に算数と図画工作が得意だった。鼻筋通った中々の美童だったため、近所のおばちゃん連中に「アメリカさん」と呼ばれ大変もてはやされた。小学校卒業後は母親が進学校を希望したため、近隣の十中を差し置いて、遠く離れた足立区立第四中学校に越境入学させられる。中学では野球部に入部。のちに東京オリオンズに入団する成田文男も同時期所属していた。かつての美童も骨格逞しいニキビ面の青年に変貌。一気にもてなくなった反動でニヒリズムへと走った。卒業後、東京都立足立高等学校に入学。高校時代は軟式野球部に入部。それとは別に、短期間ヨネクラジムにボクシングを習いに通っていた。 高校を卒業後は母親の薦めで、明治大学工学部(後の理工学部)機械工学科に現役入学。しかし大学2年の時、家出同然に一人暮らしを始め、新宿界隈でぶらぶらと日を送るようになる。 学生運動にも参加したが熱心ではなく、ジャズや新風俗に傾倒する。“LeftyCandy”や新宿ACB(アシベ)、風月堂などに入り浸った。たまに来る依頼でジャズ喫茶のボーイもしていたが、ジャズの見識は一部で有名であった。新宿のジャズ喫茶「ビザール」では、若松孝二、小水一男、高橋伴明らと知り合う。「ヴィレッジ・ヴァンガード」で、早番のボーイとして働いていた時は、連続射殺事件で逃走中だった永山則夫が遅番のボーイとして働いていた。当時「ジャズ・ビレッジ」の壁に書かれていた文章を気に入っており、後年これを基にして曲を作った[1]。 この頃は青春の葛藤期でもあり、友人の下宿に居候しアルバイト三昧の青春時代を過ごした。菓子の計り売りや実演販売員、ビルの解体工、クラブのボーイなど仕事先を転々とする。羽田空港の荷役では、ジャズ喫茶の常連客だった中上健次と共に働いた[2]。のち通訳になろうと思い立ち、留学費用を稼ぐ目的で日本交通早稲田営業所に入社、タクシーの運転手を務めるも半年で退社し、通産省前のガソリンスタンドでアルバイトをしていた。この間、若松孝二との縁で「新宿マッド」「腹貸し女」など、幾つかの若松プロ初期作品に端役で出演している。 学生運動は収束に向かい新宿からはフーテンが閉め出されるようになる。自身も去就を模索する必要に迫られた。芸能分野に興味はあったものの、かつて友人達が没頭していたアングラ演劇などには馴染むことができず、「理工系なので文学的なものはわからない、しかし演芸なら自分にも理解できるだろう[4]」という理由で、いつしか芸人を志望するようになった。 1972年(昭和47年)の夏、東京都台東区浅草にあったストリップ劇場・浅草フランス座で、芸人見習い志願としてエレベーターボーイを始める。地味な風貌だったため、当初は笑芸人に向かないと評されたという。当時、たけしと思しき人物を見かけた井上ひさしも「不機嫌そうな青年[5]」と、その印象を述べている。 やがて、同劇場の経営者兼座長「浅草の首領」こと深見千三郎に師事し、前座芸人・北千太(北野姓と師匠の名前から。尚名前は頻繁に変わった)としてコント(軽演劇)を学ぶ。幕間コントに出演して腕を磨き、芸人としてタップダンスの修業にも励む。座員の多くが深見を近付き難い存在として見ていたが、たけしは物怖じしなかったため深見から気に入られた。舞台ではアドリブを駆使し、言葉の拾い方に独特の斬新さがあったため一目置かれるようになった。 フランス座時代は長いものではなかったが、師匠の深見をはじめ重要人物が多い。座付き作家見習いをしていた井上雅義は、後にビートたけしの漫談エッセイにおける取材・構成を担う。また、見習いコメディアンとして入座したハーキーと呼ばれる人物は、ツービート初期の芸風に多大な影響を及ぼしたとされる。一時期コンビを組むほど深い関わりがあったが病気により頓挫。その詳細は多く語られる事がなく、楽曲「浅草キッド」の歌詞に面影をとどめるのみとなっている。 当時フランス座には、兼子二郎という2年先輩の芸人が出入りしていた。深見千三郎が浅草ロック座から移籍してきた際、一緒に移ってきた男で、コントのほか漫才にも手を拡げていた人物だった。兼子は漫才の相方がトラブルで抜けたため代役を捜しており、一緒にコントを演じた経験があるたけしに白羽の矢を立てた。たけしも外世界への誘惑に勝てずフランス座を出る決心をする[6]。劇場を離れたことは結果的に師匠・深見の失望と怒りを買うことになった。 東京の漫才師として演芸場に出るためには漫才協団に所属している必要があったため、松鶴家千とせの紹介で松鶴家千代若・千代菊に入門。松鶴家二郎・次郎と称した。当初は正統派の掛け合い漫才で全く芽が出ず、フランス座にいた頃よりも貧窮した。兼子が一時コロムビア・ライトの付き人をして生活を凌いでいたため、その縁で空たかし・きよしと名乗り営業に出たこともあった。演芸場のギャラは安いため、地方キャバレーなども回るようになるが、たけしは漫才を聞こうとしない酔客相手の仕事を嫌い、出番をすっぽかしたり酩酊して舞台に上がることが多かった。しかも店をこき下ろすネタを掛けたり、客やホステスに喧嘩を吹っ掛けたので、しょちゅう舞台から降ろされていた。そのため兼子は場繋ぎに使う奇術ネタをいつもポケットに忍ばせておかなければならなかった。そしてこの頃から一種の開き直りをみせ、暴走ネタ・危険ネタに走るようになってゆく。 紆余曲折ののち、2人はコンビ名を変えて最初から出直す事に決めた。新しい名前の候補を考えるうちに、たけしが学生時代ジャズ喫茶でアルバイトしていた話が出た。それに絡んだコンビ名「ツービート(two beat)」が選ばれる。「漫才師らしくなくていい」というのが決定理由だった。こうして兼子は「ビートきよし」、たけしは「ビートたけし」となる。 そんな折に大阪で新進漫才師として頭角を現して来たB&Bのスタイルに触発され、スピードを早めて喋りまくるスタイルへ変貌した。 服装もタキシードに蝶ネクタイからアイビー・ルックに変えて、古臭い漫才師の様式から脱却を図った。当初ツービートは代演などで松竹演芸場の舞台に上がっていたが、支配人に認められてからは出演回数も安定するようになる。毒舌の限りを尽くした掟破りのネタもさることながら、音曲漫才の楽器を拝借して現れたり、座布団の上に座って漫才を行なうなど型破りな舞台が多く、ツービートが漫才を始めると(他の芸人が観に行くので)楽屋が空っぽになると評判になった。浅草ではコント55号以来の珍事だったため、いずれ世に出ると噂されるようになった。 演芸場での人気とは裏腹に、その破壊的な芸風は一部の関係者に受け入れられず激しい弾圧を受けた[7]。漫才協団から脱退を求める声すら起きたという。1976年(昭和51年)には、協団が主催するNHK新人漫才コンクールに初出場、客の受けは抜群に良かったものの審査員は昭和のいる・こいるに賞を与えた。以降3年連続で出場したがツービートが最優秀賞を獲得することはなかった。場内の爆笑をさらったにも関わらず一切評価されなかった経験はトラウマとなり、後々まで遺恨を残すこととなった。のちにライバルと目されるセント・ルイスは1977年(昭和52年)のコンクールで最優秀賞に輝き、一足先にその名を知られるようになっていた。 1978年(昭和53年)、新宿高田馬場の芳林堂書店前で持ちネタ全てを披露する漫才ライブを開催。「マラソン漫才」と称したこのイベントを企画したのは高信太郎という演芸マニアの漫画家で、漫才コンクールでのツービートにいちはやく注目し売り出しに参与するようになった。高は文化系各方面に顔が利いたため、作家の橋本治、演芸評論家の山本益博といった著名人や、有名雑誌編集者などが会場に訪れ話題を呼んだ。また、当時その縁で高平哲郎、赤塚不二夫、九州から上京して間もないタモリらのグループと交わっていたが、ある種の文化人サロンを思わせるムードが演芸場育ちの肌に合わず、じきに離れた。しかし赤瀬川原平を介して知り合った篠原勝之とは、以降長きに渡る友誼となった。 1980年(昭和55年)、マンザイブーム(旧来の“漫才”と区別される為にカタカナ表記)のムーブメントが起こり、「赤信号みんなで渡れば恐くない」「寝る前にきちんと絞めよう親の首」などの毒舌漫才と毒舌ネタを売り物に一躍茶の間でも知られる存在となる。ブームで知られるようになった漫才師の中では、B&B、紳助・竜介、ざ・ぼんち等に続くに人気位置であったが、毒舌が故に全ての客層ではなく、新しいものを求める男性層に支持層を集める傾向を見せた。著書「ツービートの わっ毒ガスだ」は、最初のヒット著作となった。オールナイトニッポンの単独でのDJも好評で、同様のユーザ層に支持された。漫才ブームから成功の兆しを感じ、更なる躍進を抱いた時に相棒のきよしから『もう漫才はやめたい』と申し出があり、事実上の漫才休止状態に。フジテレビTHE MANZAI-5 を最後にツービートは活動を止め。“タレントビートたけし”として当時の怪物番組「8時だよ全員集合」の牙城を崩すことになるオレたちひょうきん族で“タケチャンマンのビートたけし”として漫才以外でも世間に知られるようになる。以降、単独で司会をする番組を多く持つようになる。 ニッポン放送系の深夜放送ラジオ番組「ビートたけしのオールナイトニッポン」でビートたけしの評価は一気に高まる。本人が当時を述懐するに『とにかく一人で喋ると間が空く事がものすごく恐かった』と言う通り、トークの速度はものすごく密度が濃い。当時のファンの中心層であった大学生は必ずテープに録音してから何度も聞き直さないと全内容が捕捉出来なかった程であった。ただ横で笑っているだけのように見られていた放送作家の高田文夫は、実はたけしのハイテンションを絶妙な間合いの合いの手で支えていた。当時は同じ事務所の(たけしが紹介した)片岡鶴太郎も共に参加していた。この番組から出た本は今で言う“語り起こし”で構成は主に高田によるものであった。また、ハガキ職人と呼ばれた熱心な投稿者の存在も大きく、このスタイルは後の「とんねるずのオールナイトニッポン」「ナインティナインのオールナイトニッポン」「伊集院光 深夜の馬鹿力」等、お笑い系パーソナリティの放送構成モデルとなった。次第にそのまんま東をはじめとした弟子志願者が現れはじめ、日本一周をラジオで中継させたりする『弟子やめさせコーナー』もあり、鶴太郎と交代するようにたけし軍団も放送に加わる様になった。放送の構成は週の出来事をおもしろおかしく話す内容が大半だが、時に三島由紀夫に傾倒するや、2時間三島を語る等の“講義モード”になったときもあった。また、中国で日本人修学旅行生が鉄道の大事故で亡くなる等の社会的な問題が起こった際には放送をボイコットしたり、風邪による体調不良で休んだこともあった(このときは急遽軍団が番組を引き受けていた)。ほかにも、たけしが放送中ずっとファミコンの「ポートピア連続殺人事件」をプレイしていたこともあった。この時も基本的に軍団が放送していたが、たけしは時折ゲームについて話し、その会話の中で偶然犯人を名指ししてしまった。 明石家さんま、島田紳助、片岡鶴太郎たちと出演した『オレたちひょうきん族』(フジテレビ、メインはたけし)は、当時のお化け番組『8時だョ!全員集合』 (TBS) を放送終了に追い込み、80年代のバラエティ番組の金字塔となった。なお同番組の収録をしょっちゅう休み、そのたびに明石家さんまや島田紳助にネタにされた。来なかった理由を「オバケが出たから」と言い訳したこともあった。 同番組の人気コーナーで、たけしが主役のヒーローコント『THE タケちゃんMAN』は当時一世を風靡し、これにあやかって学校給食に「タケちゃんマンライス」なる料理が登場するようになった。 1982-1984あたりからTX気分はパラダイス等に出演している最中たけし軍団という弟子志願者(正式な門下は取らない主義の為“ボーヤ”と呼ばれる)の人数が集まって来た事から、集団で行うバラエティの展開を模索しNTV系スーパージョッキー、TBS系笑ってポン、お笑いサドンデス等と相まって各種のスペシャル番組にも取り組むも、まだファン層は新しいものを求める男性の大学生や若年層社会人に限られたコアな認知度だった。また博識が評価されTBS世界まるごとHOWマッチ等で文化人的な出演要請も増えて来た。 当時のレギュラー番組全てであるが、このうちNTV ANB TBS CX全ての20時台の最高視聴率をマークした。尚、たけし城、元気、スポーツ大将は全て実質ビートたけし本人の企画・構成によるものである。その他放送以外に歌手としてのレコードリリースとライブ活動、文学小説の出版、“たけしの挑戦状”等のゲーム制作も行っており、フライデー襲撃事件が起こる迄の期間はバラエティ時代の黄金期と言える。 事故後、辰吉丈一郎との対談中「俺、もう笑わせなくてもいいんじゃねえかって思う。ビートたけしが映ってるから、それでいいじゃねえか、そう思われるようになりてえ。なにもおかしいことは言わない。俺がいるんだよ、俺が。それだけで勝負してえ」と発言[8]。 自著「時効」の中で四十代中盤を迎えたあたりから頭の回転が鈍り言葉が出にくくなる、突っ込みが鈍くなるなどの年齢からくる衰えが出始めたが当時はまだまだタレントとして盛りで世間が俄然たけしの毒舌を期待していたためギャップで悩んだと述べている。そして同著の中ではもう若いときのような毒舌は出来ないからテレビに出る時はおもしろいおじさん的な立場で出られればいいとも述べている。 マンザイブームは、それまでドリフターズや萩本欽一などお笑いスターを中心に据えて存立していたバラエティ番組を大きく変えるきっかけになった。「オレたちひょうきん族」で茶の間に認知されたビートたけしは、その「ひょうきん族」自体では明石家さんまへの突っ込み役に徹することが多かったが、「お笑いサドンデス」「笑ってポン」等でそれまでの平和型のコントやギャグよりも、むしろ過激で無謀な方向性のギャグを志向した。 そして1985年以降のバラエティ黄金期では一般視聴者(素人)を重要な役割で参加させる番組を提示する。それまでバラエティ番組は(欽ちゃんファミリーの「気仙沼ちゃん」などごく一部の例外を除いて)あくまで芸人主導のものとされていた常識を覆し、ビートたけしは素人とたけし軍団を対抗させる形で、素人も主役に据えているのが最大の特徴である。「風雲!たけし城」では、たけしと軍団が構える『たけし城』に様々なゲーム形式の障害を乗り越えて行くという「攻略ドラマ」を中心に据えた番組構成を示した。考え抜かれた各ステージにおける参加者のリアクションの面白さは世界的な普遍性を持ち、世界各国で吹き替え版はもとより、権利を購入して現地キャストで製作した番組が放送されて人気を博した(一方本家のTBSは、同じ緑山スタジオを舞台に「筋肉番付」「SASUKE」等、「たけし城」をヒントにしたフォロワー番組を作り続けている)。 「スポーツ大将」では陸上競技、草野球、ママさんバレー、サッカー、水泳等の『昔取った杵柄』自慢の素人とたけし軍団が競う趣向をとった。たけし軍団では歯が立たない場合は100m走ではカール君、水泳ではトビウオ君、野球では球道君といった機械仕掛けのキャラクターが登場し、シュールな笑いを喚起した。「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」では様々な素人を『街の話題』的に取り上げたり、ダンスが若者に浸透してきているニーズをいち早く察知し「ダンス甲子園」のコーナーを設けるなどの企画が光った。象徴的なのは番組内の企画コーナー「たけしサンタ」であり、子供が寝静まった枕元にサンタの扮装をしたたけしがプレゼントを届け、気づいて起きた子供のリアクションを愉しむというもの(この「元気が出る…」のスタイルは「ねるとん紅鯨団」や「浅草橋ヤング用品店」へ引き継がれる。いずれも制作会社がIVSテレビ制作、テリー伊藤の演出)。 これら各局視聴率トップを誇った番組のほとんどがビートたけし本人の企画と構成であり、そのキーワードは『夢』であるといえる。一般視聴者が様々な形で参加し愉しむというコンセプトはどれも一貫したもので、ファミリー参加型の家族リレーや家族大会等、視聴者が後々までも自らの語り草にできるような良質な番組であった。 オープントークで『と、言うわけで』から始まる独特のフレーズは当初「どういう訳なんだよ!」と突っ込みを貰う為のものであったが、今では疑問を持たずにそれ以後のタレントが当たり前のように用いている。『肉付けされた白骨死体みてぇな顔じゃねぇか』のように『?みたいな?』の例え表現形式もツービート時代にビートたけしが使い始めたもので、以後のお笑い系タレントがやはり当たり前に用いている。『わけのわからねぇ事言ってんじゃねえ!』の『わけのわからない』の表現も以前は日常で用いられる事はさほど無かったが、常用されるようになったのはビートたけし以後である。[要出典]余りに浸透しすぎて居るが故にこれらの言葉を今日では誰も意識する事がなくなっている。 当初は売れっ子芸能人であることで撮らせてもらっていたが、ヴェネチア国際映画祭 金獅子賞をはじめ国際的な賞も得ている。(各作品の詳細は「監督作品」を参照のこと) [1989年]]、北野が初めてメガホンを取った「その男、凶暴につき」は、当初 監督:深作欣二 主演:ビートたけしで映画化されるはずであった。松竹の映画プロデューサー・奥山和由は両者の間で交渉を進めたが、たけしのスケジュールが合わず「リハーサルはしない」「演技は本番一回きり」という難しい条件が提示された。深作は60日間の拘束を主張したため交渉は決裂、監督を辞退した。そこで奥山は人物的魅力と話題性から、たけし自身に監督の依頼を持ちかけたところ、テレビの仕事と両立させることを前提として承諾。一週間おきの撮影という珍しい形態が採用され、ここに映画監督・北野武が誕生した。 ビジュアル面での最大の特徴は、「キタノブルー」と評される青の色使い。また、多くの作品で登場人物の「死」が描かれ、青みの深い画面のもたらすひんやりした映像感覚とあいまって、全編に静謐な不気味さを醸し出している。 こうした一貫したカラーを持つ一方で、撮影時のアングルや編集のリズム、自身の絵画の導入、CGによるエフェクトなど、一作ごとに新たなチャレンジや創意も感じさせる。映像に一層の格調高さを与えている久石譲の音楽(3作目以降)も重要な存在である。 東京芸術大学に2005年4月に新設された大学院映像研究科の教授および映画専攻長に就任した。監督領域の教授は北野武と黒沢清の二名のみである。また、次兄の北野大も淑徳大学の教授だったので兄弟で教授となる。 2007年、第60回カンヌ国際映画祭に招待された。その際、マスコミをシャットアウトした上で松本人志(同じくカンヌ国際映画祭に招待された)と対談を行った。松本は、自らの初監督作品である『大日本人』の上映途中で席を立つ観客にショックを受けたと語り、たけしは「こんなことは当たり前だ。10年も映画監督をやればどうにかなる。他の監督より才能がある」と慰めた一方、同じくカンヌ映画祭に来ていた(招待は受けていない)木村拓哉等に対しては「ん? キムタク? あんなのただの観光客だろ」と切り捨てている。 2007年8月、カンヌ映画祭にて「GLORY TO THE FILMMAKER」賞が新設されることとなった。これは「監督!ばんざい」に基づいてつくられたもので、現地時間の8月30日に行われた表彰式に出席した。 日本の映画監督故・黒澤明とも会った事があり、たけしは黒澤を敬愛している。たけしのベスト映画は『七人の侍』である。 明治大学特別卒業認定者(2004年)。血液型O型。趣味は野球、音楽、映画、ゴルフ、数学の勉強。好きな食べ物はおにぎり、九州ラーメン、から揚げ、コロッケパンなど。星座は山羊座。 大学が理系であった事からも分かるように、数学に対する造詣も深く、「もし道を間違えなかったら、数学の研究者になりたかった」とも語っている。また、かつて「ここがヘンだよ日本人」に出演した少女の、「数学なんか学んで何になる」という言葉に対し、「世の中の全ての現象は数学に支配されており、数学で説明できる」と反論した。しかし「平成教育委員会」の算数の授業で、「数学は答えさえ合ってれば良い」との理系出身者とは思えない理由で、論拠が誤っている正解者を優等生に選出したこともある。ただしこの発言は「数学は答えを導くための式は何通りも存在し、解答として掲載されている計算式に必ずしもこだわる必要はない」あるいは「解答した理由も合わせて答えよ、という設問ではないことから、時にはこういった手段を限定的に用いることもかまわない」といった意味に過ぎない、との解釈も成立する。 父の叔母で実質の祖母である北野うし(1877年生)は明治時代に娘義太夫の花形であった。長兄が宇野製作所取締役営業本部長の北野重一、姉を挟んで、次兄がタレントで明治大学教授、工学博士の北野大。妻は元漫才師の北野幹子(旧姓・松田)、長男の篤(あつし)、長女の井子(しょうこ)。レーシングドライバーの松田秀士は義弟である。 長兄・重一は若い頃から秀才で機械工学に造詣が深かった。英語も堪能でGHQの通訳をしていたことがある。老境に至っても盛んで、たけしに「兄貴には絶対敵わない」と言わしめた。 たけしが芸人を志したとき北野家の誰もが反対したが、長兄・重一の妻(たけしにとっては義理の姉)だけは「武さんは必ず出世する」と断言したという。 2004年10月に長女の北野井子が調理師と入籍し、2005年3月9日に女児を出産し、たけしは「おじいちゃん」となった。しかし同年6月、離婚調停中であることが発覚した。また長男の北野篤もオフィス北野所属のタレント・たかだゆうことできちゃった婚をした。孫誕生後は自宅にちょっと顔を出して、娘の住む家に帰宅。孫をおんぶしたりと面倒を見ているらしい。 1986年12月9日に、たけし軍団とともにフライデー襲撃事件を起こし逮捕。懲役6ヶ月、執行猶予2年判決(東京地裁、確定)。たけしのレギュラー番組で人気だった天才・たけしの元気が出るテレビ!!や痛快なりゆき番組 風雲!たけし城、スーパーJOCKEYへの出演を謹慎のために半年間欠席した。襲撃した理由は、当時たけしが交際していた女子大生にフライデー記者が校門で急襲取材をしたための報復と言われている。また、たけしを弟子の様に可愛がっていた横山やすしは「悪いのは、たけしやない!悪いのは雑誌『フライデー』や!」とフライデーの取材方法に対して痛烈に批判をした。 ちなみに襲撃直前のたけしと軍団を、車で通りがかった堺正章が発見、会話を交わしている。また、襲撃後に連行されて行くたけしと軍団を、講談社「ホットドッグ・プレス」の編集部にいた山田五郎が目撃している。 1987年、映画監督・深作欣二は、謹慎中の身にあったたけしと京都において初対面。その印象を「非常に鋭い顔をしている。笑っていても目は笑わんし、顔立ちが独特だ。いろんな人間とシビアな闘争をしてきた男の顔だ」と述べた。 1994年8月2日午前1時40分。東京都新宿区の都道で飲酒運転での原付バイク事故を起こし、入院生活などで半年間ブラウン管から姿を消していた(反則点数7点、免許停止30日)。酒気帯び運転にて書類送検されるも起訴猶予。退院時、顔面は半分麻痺した状態だったが、リハビリにより回復し、復帰当時は「頭にボルトが入っていて飛行機の金属探知機に引っかかる」「顔面麻痺が治らなかったら芸名を顔面マヒナスターズにします」と自らの怪我をネタにした。また、たけしが司会を行っている番組は他の出演者が司会代理を行っていたが、平成教育委員会はたけしと仲の良い明石家さんま、所ジョージ、大橋巨泉が代理講師を務めた。 事故の朝、フジテレビ「おはようナイスデイ」(当時司会・生島ヒロシ)は時間を延長して放送。TBS「モーニングEye」では、まだ生死が判明していない段階であるにも関わらず、司会の渡辺真理が号泣してしまった。テレビ朝日「やじうまワイド」のコメンテーターだった大島渚は「僕は彼の心情を思うと、友人として何も言う気にはなれない」とコメントを差し控えた。 上記事故で生死の境を彷徨っていた時、たけしの夢の中に既に亡くなっていた逸見政孝が出てきたという。たけしは、「あれは、まだ俺が死んじゃいけない。って逸見さんが言いに来てくれたんだろうな」と、退院後のインタビューで答えた。 人間は「振り子」であるとして、「思い切り悪いことのできる奴は思い切りいいこともできる、思い切りバカなことのできる奴は思い切り真面目なこともできる」旨の発言をしている。映画監督として評価を得た後もバラエティ番組に出演することにはそうした理由もあると明言している。 自称は「俺」「僕」「オイラ」。「元気が出るテレビ」最終回の挨拶では「僕は…僕ってのはおかしいか。俺は…」と途中から言い直しているように、かなり意識的に使い分けている。「オイラ」は下町・職人言葉の位置づけで、自身が育った島根町が職人街だったことと関連する。また、近畿方言に圧倒されていた放送・演芸業界で、意図的に東京方言を使うように心がけていたとされる。 スポーツは野球・サッカー(Jリーグより以前の国内・海外選手に詳しい。)を愛好している。特に草野球チームとしての「たけし軍団」ではピッチャーを務めマウンドに立つこともある。野球をする時の彼は真剣で、軍団に本気で恐れられた。ファン感謝デーの余興の試合(軟式)とはいえ阪神タイガースに勝ったこともあり(1991年)、「阪神13位」とスポーツ紙を賑わせた。 たけしの物真似をする際の動作として定番化している頻繁に首をひねる動作(ただし、たけし本人は1990年代以降はあまり見せなくなっている)は、癖ではなく若手時代に負った怪我の後遺症である。『週刊ポスト』での連載コラムの一節で本人が明らかにした。それによればツービート時代、「トランポリンで飛び跳ねながら漫才をやってくれ」と頼まれ、稽古中に頭から落下してしまい頚椎を負傷。幸い大事には至らなかったが、しばらくの年月にわたり首に違和感があったとの事。 テレビ朝日「やじうまワイド」がお気に入りの朝番組で、他局の番組中でも頻繁にネタにした。あまりにもあちこちで吹聴するので、司会の吉澤一彦アナウンサーが「今日はたけしさん見てますかね」と放送中に呼びかけるほどであった。 色川武大はビートたけしを評して「才能は切れるが、それだけにいいところを一人占めしようとしすぎる」とし、榎本健一・藤山寛美・萩本欽一と並べて「自分の手足を切ってゆく」タイプの芸人に分類した[9]。(対極として、古川ロッパ・森繁久彌・タモリの名を挙げた) 1983年、思想家・吉本隆明は三浦雅士との対談や信濃毎日新聞の連載などで、しばしばビートたけしの事について触れた。そして栗本慎一郎との対談集の中で、たけしの話芸を「自分を異化することによって自然の流れとしてしまう芸風」と評した[10]。のちに吉本が「海燕」誌上で植谷雄高と論争になった際、たけしは『もっと阿呆になれ、吉本!』という文章を発表し「吉本さんは言い回しが難解」と指摘した。 たけしに対しては進歩派を自認する人の中には否定的な評価をする人物もいる。古くは漫才ブームのころ、不道徳漫才の筆頭ツービートを槍玉にあげて倫理崩壊を論じあげる文章が多く見られた。そしてそういった論調の文章を、笑いが多様化する現代において「化石化した評論」として嗤う図式も幾度となく繰り返された。 1981年、ルポライター・鎌田慧が「ツービートの残酷ギャグはファシズムの兆し」と、朝日ジャーナルに批判論を執筆[11]。広告批評でツービート擁護論を展開していた鶴見俊輔と論争を繰り広げた(鎌田は志村けんが流行させた「カラスの勝手でしょ」についても触れ「コミュニケーションの遮断である」と指摘)。もっともこの論争自体も、夕刊フジにエッセイを連載していた小林信彦から、「要は漫才ブームに便乗して、いたいけな学生に週刊誌を売りつけようという」魂胆、と評された。 それ以外にも辛淑玉がたけしの軍団に対する態度について権威主義的で弱い者いじめをしていると主張しているほか、佐高信や諸井薫も同様の主張をコラムなどで主張している。また、これ以外でもフライデーを発行している講談社系列の雑誌はたけしの言動について肯定的なスタンスよりも否定的なスタンスで記事を書くことが多い。 また田中康夫とは笑っていいとも!の「五つの焦点」コーナー中にたけしが乱入する騒動を起こして以来の因縁があり、たけしを自らと同じく「価値紊乱者」、既存の権威への挑戦者としつつも、1980年代中盤にはたけしの立川流への入門や軍団創設について「肩書きや権威など、精神的ブランドに依拠しており(当時たけしがなりたいと語っていた)日本のレニー・ブルースになりそこねた」と評していた。ただし田中はフライデー襲撃事件の際にはたけしを擁護する見解を述べ(事件の記録をまとめた『たけし事件』に収録されている)、たけし側も著書中に「田中の康夫ちゃん」との記述が見られ、「平成教育委員会」にも出演するなど、親交も持った。一方で「ドナルドダックのように嫌われることも厭わず周囲に毒を吐く存在であったはずが、ミッキーマウスのように優等生的存在になりつつある」といった意味の論評も並行して行っている。また、宮沢りえが貴花田と婚約し、「捨てられた」形になった際に疲れきった扮装で会見に臨んだ際や、バイク事故直後、顔面麻痺状態で会見に臨んだ際は評価したが、その後の本格復帰を決めた際は「芸能界の一線からは退いた方が良かったのではないか、取り巻きや軍団を養うためだとすれば自活を促すべきだったのではないか」と書いている。たけしの方も田中の長野県知事就任直後の「名刺折り曲げ事件」の際には「バカなことしている」と田中を批判している。ただしこれをたけしなりの賛辞と捉え、互いに認め合っていると見ることもできる。 監督作品には一部の作品を除き、自らも出演している。その際は原則として、出演は「ビートたけし」名義、映画監督活動は「北野武」名義となっている。 映画監督としてのキャリアスタートは、主演映画に当初予定されていた深作欣二監督の降板に伴って実現する事となった。既存の刑事ドラマへの挑発とも言える、アンチヒロイックな意欲作。警察の実態はフライデー襲撃事件での逮捕時に目にした事実を存分に盛り込んで、リアリティを追求した描写となっている。 観客の解釈にチャレンジするかのような謎めいたストーリー。タイトルの意味も映画の中で語られることはない。前作も不条理な結末であったが、本作も引き続き生々しい暴力表現と不条理な展開が盛り込まれており、北野武の映画における暴力のイメージ追求がうかがえる。 それまでの暴力的なイメージを一新し、「“死”は誰にでも平等に訪れるもの」をテーマに、聾唖者の純粋な恋愛悲喜劇と、理不尽の存在を描いた。それまで北野作品=暴力という先入観から彼の作品を疎んじていた淀川長治が、評価を180度変えて熱烈に支持。この頃から「映画も作るビートたけし」ではなく「映像作家・北野武」のイメージと評価が形成され始める。また、久石譲と初めてタッグを組んだ作品。 沖縄の海と空の鮮やかなブルー、その中に終始ただよう濃厚な死の雰囲気が鮮烈な傑作。シネフィルや多くの批評家達から熱狂的な支持を得て、日本を代表する映画作家の一人としての地位を主に海外で確立した。 これまでの賞賛・評価を真っ向から否定するようなナンセンス・コメディ映画。「ビートたけし第一回監督作品」とクレジットされ、バイク事故を起こす直前に完成、復帰後に公開された。のちに曰く「映画とかお笑い自体も全部馬鹿にするような映画にしたいと思ってやったのに、なんにも馬鹿にできなくて、単なる出来の悪い、お笑いにもならないような映画になってしまった[12]」。多くの映画評論家に黙殺される結果となったが、淀川長治は「斎藤寅次郎、マック・セネットの再来」と絶賛した。 1994年のバイク事故からの生還・復帰作。ボクシングジムのシーンは北野自身のボクサー経験を活かし、現役ボクサーが観ても耐えうる作り込みがなされている。 「死」と「暴力」を、詩情豊かに提示するという難題を形にした北野の代表作。ヴェネチア国際映画祭でグランプリ(金獅子賞)を受賞したのを筆頭に、日本を含め世界各国で数々の賞を受賞。フランスの権威ある映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』誌で北野武自身が表紙を飾った特集が組まれたことや、ヨーロッパでは大学の卒業論文に北野映画の研究を取り上げる学生もいるなど『キタニスト』と呼ばれる熱烈なファンも登場した。海外主要映画賞の受賞をきっかけに、北野武監督に対する日本での評価が手のひらを返すように一変。興行面でも、配給網がぜい弱な松竹系から、足かせのない独立系制作へ移行し、商業的成功と無縁だった状況が好転する事になった。 道楽者の菊次郎と武少年の奇妙で愛情あふれる関係を丹念に描いた、北野作品では異色の「私小説的」映画。高齢の母さきが入院したのをきっかけに、亡き父、北野菊次郎へのオマージュとして、またHANA-BIで成功した自分への重要な区切りとして、マーケットを意識せずに「今どうしても撮りたいシャシン」として製作。しかし、単に中年男と子供のロードムービーには終わらず、後半は延々とコントが描かれるなど、北野ならではの分裂的な展開を見せる。 初の海外ロケ作品で、アメリカに攻め込んだヤクザを描く。今まで評価されなかった北米市場にチャレンジしたが、結局商業的には成功を収めるには至らなかった。 「文楽が操る人間の道行き物語」をテーマにした実験作。『キッズ・リターン』以来の、複数の人間ドラマを同時進行させる構成をとる。赤い紐でつながれた登場人物像は、浅草修業時代に実在した、二人が紐で繋がっている乞食夫婦「つながり乞食」をヒントにしている。長期ロケにより美しい日本の四季をフレームに収め、芸術性も高く評価されたが、冒頭の文楽とその後のドラマのつながりなど、構成的バランスを欠く面もある。ともあれ常に新しいチャレンジの見られる北野作品の中でも、その内容、映像作りは大きなターニング・ポイントとなっている。 シッチェス・カタロニア国際映画祭グランプリ、ヴェネチア国際映画祭監督賞を受賞。北野が「おかあさん」と呼び、かつて出入りしていた浅草六区の大勝館会長、斎藤智恵子の誕生パーティーで呼ばれて『頼み事があるけど、断っちゃだめ』と製作するように頼み込まれ、前作より短期間で製作された作品。勝新太郎が演じたキャラクターの印象を払拭するかのような金髪、赤の仕込み杖の座頭市が型破りの活躍を見せる。全体に貫かれる「青」のイメージとリズム感あふれる編集。エンディングのタップや師匠深見千三郎仕込みの殺陣技術など、浅草演芸の伝統もたっぷり織り込まれている。依頼された企画であるがゆえに肩の力の抜けた娯楽作品に仕上がり、アメリカ人にも分かりやすいアクション、時代劇であることもあいまって念願の北米での評価も一気に高まった。 戦場のメリークリスマスで注目される。映画監督となってからは、Johnny Mnemonicでハリウッド・デビューも果たしているが、バトル・ロワイアルなど、監督作品同様、その評価は賛否が分かれる。自分以外の作品に出演する際は監督に意見しないようにしているという。上述の自らの監督作品は除いている。 20年大河バラエティ!目からウロコ…1986年バブル経済から2007年超近現代史さんま&所が解明!?人間は相変わらずアホか? (日本テレビ系2007年4月30日放送) FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島(1987、90)→FNSスーパースペシャル1億2000万人のテレビ夢列島91’→平成教育テレビ→FNSの日 1992年〜1996年は総合司会として参加、1987年は深夜に飛び入り参加。これによりBIG3が誕生した。また1992年の平成教育テレビの前日、笑っていいとも!に登場し、当時は明石家さんまも金曜レギュラーだった為、タモリ、たけし、さんまが正月のスペシャル、FNSの日以外で珍しく3人が集まったこともあった。1997年以降はFNSの日に登場していない。なお「タモリと俺って言ったら20年くらい前なら嫌いな芸人のベスト3に必ずいる芸人だった、さんまもかつてはそうだったね。けど、今はみんな好きな芸人ベスト10に入っている。世の中不思議なもんだね。」と以前番組中に述べたことがある。 イーストが初めて携わったたけしの番組。81年10月開始当初は宮崎美子の音楽番組だったが、82年4月からたけしにバトンタッチ。開始前に構成の景山民夫が会いたい人物の名を訊くと、たけしは田中角栄と江川卓の名をあげた(江川は実現)。ゲストに来た人物では売野雅勇と高橋ユキヒロが嫌いだったと後に語った。 なおビッグネームの割にCM出演は極端に少ない。ビールのCMに出演した際にはキャッチフレーズを口ずさんでいたが、某番組中において話が及ぶと、「あの、まずいビール」などと平気で語っていた影響もあると思われる。 浮浪雲(1990・TBS)★ - 視聴率的には振るわず、自身でもしばらくの間「はずれ雲」とネタにしていた。 連載コラムや著書の文章の殆どは、本人が多忙であるため、北野武が口述し、それをライターに文章として起こしてもらっている(コマネチ!2にて、本人のコメントによる)。 ビートたけしの幸せになってしまいました(1982.10.20 オールナイト・ニッポン サンケイ出版) ビートたけしのニッチもさっちも(1984.12.15 オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社) ビートたけしの幸か不幸か(1985.12.16 オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社) ビートたけしの不幸中の幸い(1986.12.16 オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社) ビートたけしのその男幸せにつき(1990.1.5 オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社) ビートたけしの幸せ丸十年(1990.11.22 オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社) はっきり言って暴言です(恋愛・結婚・SEX)ビートたけしのTVタックル(1994.6.21 テレビ朝日出版部) たけしメモ「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」10周年記念企画(1995.4.8 日本テレビ放送網) 北野まんぐり講座 足立区のたけし世界の北野 番組制作スタッフ編(1998.9.10 ソニー・マガジンズ) GOD BLESS YOU〜神の御加護を〜(ビートたけし&ザ・常夏's名義、ダンカン作詞・奥野敦士作曲) ただしたけしは「戦国風雲児」にはCM出演その他は一応したものの、「挑戦状」発売後コンピュータゲームへの情熱を失ったと見え、後の2作にはほとんど関与していないとされる。 小磯勝弥 NHK『たけしくん、ハイ!』(1985年)『続・たけしくんハイ!』(1986年)※役名は、西野たけし ^ 店の壁に書かれていた「強く生きよと母の声、死ねと教えし父の顔、何のあてなき人生なり」に続けて「死に場所探して生きるもよし」と加えて詞を作り、これに泉谷しげるが曲をつけた。『死んだ犬』 ^ たけしは日航系のAGS、中上は全日空系のIAUで働いていた。(ベルトコンベアの)ボタン押しの北野として有名だったという。 ^ 2004年9月7日、明治大学は、100単位以上を取得しながら何らかの理由で大学に行くことが出来なくなった人物(母さきはたけしの中退後も明大に学費を納入していた)に与える「特別卒業認定証」の第1号認定者とし、ならびに明大の知名度アップに貢献したとして「特別功労賞」を贈ると発表した。 ^ 所属していた期間は2年に満たず早い巣立ちだった。深見千三郎と親交が深かった佐山淳によると、当時フランス座は経営難でコント役者に支払う給料さえ事欠いていた。そんな状況にも関わらず、弟子の前では散財して見せる深見の性格にたけしは憚りを感じるようになったため、負担軽減を図って劇場から離れる決意をしたのではないかと推測している。(佐山淳『女は天使である』 スパイク、1997年) ^ 「もう一度浅草でやれっていうやつがいるけどさ、冗談じゃないっていうの。オレが浅草にいたとき、テメエらオレになにしてくれたってんだよ。ツービートをいちばんお客のいないところに出したりしたじゃないかってさ。オレがさ、自分で絶好調だと思った時代がいっぱいあるわけ。他の芸人連中もおもしろいっていってくれて、お客もいちばんおもしろいっていってくれたときに、オレは客のいねえところばっか出されたんだからさ。」ビートたけし「午前3時25分!」『平凡パンチ』平凡出版株式会社、1983年 カテゴリ: 編集半保護中の記事 | 出典を必要とする記事 | 日本の映画監督 | 日本の俳優 | コメディアン | ラジオ番組のパーソナリティ・DJ | たけし軍団 | 東京スポーツ | 東京都出身の人物 | 東京都足立区出身の人物 | 1947年生 |
[ 72] ビートたけし - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%9F%E3%81%91%E3%81%97
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日揮株式会社プロジェクト・エンジニア株式会社 マーケティングセンター【マーケティング・リサーチャー】★経験者歓迎...オムロン パーソネル株式会社電気回路・電子回路の設計エンジニア転職ならリクナビNEXT コメディアン。同時に、世界的にも知られた映画監督「北野武」でもある。コント集団「たけし軍団」を率いる。 1947年生まれ。東京都出身。明治大学工学部中退*1。浅草フランス座で深見千三郎の弟子として、修行を積む。 1973年に兼子二郎(ビートきよし=現ビートキヨシ)とともに漫才コンビ・ツービートを結成。1976年、漫才師の松田幹子と結婚(レーサーの松田秀士は義弟にあたる)。1980年の漫才ブームにより一躍人気を集め、翌81年に放送が開始された『ビートたけしのオールナイトニッポン』『オレたちひょうきん族』で時代の寵児となる。さらに1983年公開の映画『戦場のメリークリスマス』では俳優としての地位を築き、のちに映画監督となる布石をつくる。また同時期には自伝『たけしくん、ハイ』(1984年。のちにNHKでドラマ化)や小説集『あのひと』(1985年)などの著作を刊行したり、埴谷雄高と吉本隆明によるいわゆる反核論争に対して『朝日ジャーナル』誌上で批評を行なうなど新たなオピニオンリーダー的存在としても注目されるようになった。1986年、フライデー襲撃事件。懲役6ヶ月、執行猶予2年判決(東京地裁、確定)。1994年、赤坂御苑北側のカーブでバイク事故(反則点数7点、免許停止30日)。酒気帯び運転にて書類送検されるも起訴猶予。 お笑いマンガ道場, お笑いブーム, 打ち切り, 浅草フランス座, 大久保清, 太田出版, お笑いウルトラクイズ, 鬼瓦権造, オレたちひょうきん族, 飯野賢治, うなずきトリオ, 浅草キッド, お笑い居酒屋, 浅草東洋館, 江口ともみ 黒歴史::ゲーム, 北野武, コマネチ, 黒歴史::テレビ, 菊次郎とさき, 栗山千明, 高信太郎, 片岡鶴太郎, コマネチ大学数学科, 奇跡体験!アンビリバボー, 鬼畜, コミック雑誌なんかいらない!, 北野大, 北野映画 ジャケ4コマ, 戦場のメリークリスマス, 笑福亭鶴瓶, スーパージョッキー, 1986年, スーパーサッカー, そのまんま東, 三億円事件, 新潮新書, ストリップ劇場, 水道橋博士, 冗談, 3FET, ソナチネ 点と線NEW!, 「点と線」NEW!, ダンデライオン, 豊川悦司, たけしの万物創世紀, 谷隼人, たけしの挑戦状, たけしプロレス軍団, どーする?!TVタックル, 東京ダイナマイト, ぢ・大黒堂, Wヤング, 九十九黄人, ツービート, ダウソタウソ, たけし軍団, 土肥洋一, ダンカン, 田村章, タケちゃんマン, 武重勉, TAKESHIS’ 浮浪雲, 深見千三郎, ビートたけし, 万物創世記, 万物創世紀, BIG3, 浜田幸一, 平成教育2005予備校, 原口あきまさ, 間寛平, 風雲!たけし城, 百年の物語, ビートきよし, ビートいなにわ, 古舘伊知郎, ベストドレッサー賞 |
[ 73] ビートたけしとは - はてなダイアリー
[引用サイト] http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A1%BC%A5%C8%A4%BF%A4%B1%A4%B7
