森繁とは?
|
1913年大阪府生まれ。本学商学部を経て東宝新劇団入団。NHKアナウンサーなどを経て終戦後から映画・舞台・テレビに大活躍。文化勲章受賞、芸術選奨文部大臣賞受賞など多数の栄誉に輝く。代表作に「屋根の上のヴァイオリン弾き」「佐渡島他吉の生涯」など多数。 88歳を迎えた今もなお、矍鑠として活躍されている本学の大先輩の俳優・森繁久彌さん。まさに日本を代表する俳優の一人で、文化勲章をはじめ数々の栄誉に輝いている。そんな森繁さんは芝居をこよなく愛し、早稲田をも愛している。88歳の森繁大先輩が、本紙のために語ってくださったエピソードの数々をお届けしよう。 私は当時の第一高等学院から商学部へ入りました。大学では「演劇研究部」に入りましたが、結局途中で辞めましたけれども。劇研時代に、東京女子大に通っていた家内と知り合ったことが一番大きな想い出かな。うまいこと言い含めて結婚してね、そのままずっと来ました。たくさんの人と付き合いましたけれど、みんなの心の中にいい印象が残っていれば嬉しいですね。 僕は別に役者になろうと思って「演劇研究部」に入ったわけじゃなく、いつのまにか役者になって、それが今でも続いている。 大隈講堂でも芝居をしましたよ。岸田国士の芝居なんかをね。その当時の早稲田っていうところは、だらしないところもあったけれども、みんなが己を謳歌してたような気がするね。 「『屋根の上のヴァイオリン弾き』のこと」−森繁先輩はミュージカルの名作「屋根の上のヴァイオリン弾き」を九百回演じるという金字塔を打ち立てた。そのエピソードは余りにも有名である。 あれはいい芝居だけど哀しい芝居だね。900回やりましたが、やればやるほど哀しくなる。ユダヤ人が迫害されて、住んでいるところを追われる話でしょ。非常に本が良くできていて、演出も立派でしたね。演出はサミー・ベイスという人で。舞台が開く前に一カ月半も稽古をして、公演中でも十日に一回ぐらいレッスンがあるんですよ。「役に慣れ切ってしまうといけない」って言うんでね。よくあの厳しい稽古をやりましたよ。自分でそう言うのもおかしいけれど、あれを73歳までやったんだから、よくやったものだと思いますね。年を取ってからはエラかったですね、四時間に近い芝居ですから。 この芝居は昭和五十六年の五月に大隈講堂でもやりましたよ。ダイジェスト版でずいぶんカットしたものでしたが、学生さんが喜んで舞台を観てくれて、いつまで経っても拍手が鳴り止まない。あれは嬉しかったなぁ。昔踏んだ大隈講堂の舞台の上で芝居をして、早稲田へ「帰って来た」という気がしましたね。 早稲田と言えば、この間大隈講堂で一人芝居した島田正吾先生もこの芝居が好きでね。「俺もこの芝居やりたいよ」って言うから「どうぞ」って言ったら、「たくさん唄わなくちゃいけないからなぁ。俺にはねぇ」って言ってましたね(笑)。 レッスンは厳しかったけど、サミーは良かった。まず最初に、「自分の役の履歴書を書け」と言うんだ。自分がどういう経歴の人間なのか。そして次に、「お前が住んでいる家の設計図を書け」とか「この街の設計図を書け」とかね。そういうことはすぐに芝居に役に立つわけじゃないんだけれども、そういったものの集大成みたいなものが芝居の中で人物の厚みを作るんですね。 有吉佐和子さんが原作を書いた『恍惚の人』ね、あれを撮った時にカメラマンの岡崎さんっていう人が夢中になりましてね、最後の場面を撮っている時に、監督が「カット!」って言ってるのに、「まだまだ!」ってカメラを回してて。あの時のカメラマンの気迫は凄かったなぁ。鬼気迫るものがありましたね。 この映画は本当に困りました。撮っているうちに僕が本物の「恍惚」、つまりボケ老人のようになってしまって。撮影所で助監督が「おじいちゃん、あそこまで行って帰って来るんですよ。わかる? できる?」なんて聞くんだ。それほどに役の中に入って行ってしまったんだね。 昭和三十年代から四十年代にかけては喜劇の「社長シリーズ」なんかもずいぶんたくさん撮りましたねぇ。四十本以上は撮ったでしょう。今でも時々深夜に放送したり、ビデオになったりしているみたいだけれども。 「森繁語録」−森繁先輩の独特な口調の中には人生の重みを経てきた貴重な言葉がたくさんある。今回のインタビューでも多くの言葉が語られた。ここでは「語録」の数々をご紹介しよう。 今までに演じた芝居の中で、特に「あれが好きだ」とか「これは嫌いだ」とか言うものはないですね。どれもその時にただ一生懸命演じるだけでね。 芝居でも「でしゃばる男」とか「でしゃばる女」が多くてね。人を掻き分けて出て来るようなのはダメですね。何の仕事でもそうだけれども、自分の分を弁えないとね。 演劇をやる人の中には、せせこましい気持ちが今でもありますね。あれは良くないね。「僕だけ」っていう排他的なね。それじゃ演劇という木は太りませんよ。 大指揮者だったフルトベングラーの言葉の中にね、「あなたが感動したのはあなた自身にあるのではない。今日観ていたお客様とあなたの間に生まれたのです」というのがあります。素晴らしい人の言葉には素晴らしいものがありますね。 舞台っていうのは、幕が降りた瞬間に消えてしまうでしょ。それは一番哀しいことだけれど、そのはかなさが素晴らしいんです。そこで、お客様の頭の中に少しでも「感動」という余韻が残ればこんなに嬉しいことはありません。 チャップリンに、「あなたの最大の傑作は何ですか?」って聞いたらね、「ネクスト・ワン」ってね(笑)。洒落てるでしょ。僕もその時に、ネクスト・ワンをしっかりやらないといけないと思ったなぁ。 演劇というものは敬虔なものでね。せっかく人が魂を込めてこしらえたんだから、その作品をもっと良くしようという気持ちがなくちゃいいものはできないね。 僕は芝居をする時にあまり気負わないんだ。「いよいよやるぞ!」というのはないね。ただスーッと舞台に出て芝居をやる。その中に何か一つでも光るものがあればいいと思うんだ。 良く芝居は「出」と「引っ込み」が重要だって言うでしょ。もちろん、そればかりが大切じゃなくて、みんな大切なんだけれども、「出」と「引っ込み」の瞬間には背筋がゾッとするような「何か」がありますね。 自惚れちゃダメです。しゃべるとそういうものが出て来ますから。一つのことに純粋にならないとね。芝居は自惚れが強いヤツじゃなきゃできないような気がするけど、それだけじゃダメなんだ。自分を固めないことがいいんじゃないかな。柔軟な精神や肉体を持たなければいけないと思います。 芝居ってものには先生がいないからね。ルールはありますが、芝居にはまり込んで、没入して。それでどこかで引いて見ている部分がないとね。 若い役者にね、「君はどこで科白を覚えるんだ」と聞いたらね、「頭です」。頭は必要だね。「頭だけかい?それじゃ首から上しかカメラで撮れないね。そのとき、手や足はどうなってるの?」。「あんまり考えてません」。「そうでしょ、科白は一度飲み込む。そうすれば、腹までカメラが引いても手や足が芝居をしてる。それでも、全身は撮れないね。そこで、覚えたものをいっぺん全部出す。それではじめて全身の芝居を撮ることができるんだ」って言ってあげるんだ。僕の理想だけどね。 芝居って難しいね。大抵の会社ならば、三年会社にいれば、その会社が何をするところかわかるんだけれど、芝居はわからないね。何年やっていてもわからない。難しいなぁ。 今の若い人には「意欲」がないように見えるねぇ。何かに向かって「これだ!」って進んで行くような。そういう気迫がないんじゃないかな。それから行儀が悪いね。そして好奇心がない。何でもいいから、一つを極めたい、という気持ちがないとね。芝居も同じだよ。 森繁先輩の健在な様子は5月4日(金)19時半〜21時半までNHK衛星第2放送で「森繁久彌 世紀を越えて88歳」と題して放送される。そちらも見逃せない。 |
[ 17] 森繁久彌
[引用サイト] http://www.waseda.jp/student/weekly/people/obg-930.html
|
森繁 久彌(もりしげ ひさや、本名:同じ(旧姓:菅沼久彌)、1913年5月4日 - )は、日本の俳優。大阪府枚方蔵の谷(現・枚方市)出身。森繁事務所所属。森繁久弥と表記されることもある。通称:爺、爺や、モリシゲ、シゲさん。血液型はB型。身長171cm、体重78kg。 旧制第二高校教員、日本銀行、大阪市庁(現・大阪市役所)、大阪電燈株式會社等の重役職を経て、後に実業家となった父・菅沼達吉(1858?−1915?)と、大きな海産物問屋の娘であった母との間にできた3人兄弟の末っ子。江戸時代には江戸の大目付だった名門の出身だった。しかし、久彌が2歳の時、父が死去。母方の実家も、いろいろと子細、経緯等があって、馬詰姓から森繁姓となった。長男は馬詰家を継ぎ、次男はそのまま菅沼家を継ぎ、3男・久彌は森繁家を継ぐ事となり、名字も森繁となる。 堂島尋常高等小学校、旧制北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)、早稲田第一高等学院(現・早稲田大学高等学院)を経て、1934年に早稲田大学商学部へ進学。在学中は演劇部にて先輩部員の谷口千吉や山本薩夫とともに活躍、この頃に萬壽子夫人(当時、東京女子大学の学生)と知り合う。その後、山本たちが左翼活動で大学を追われてからは部の中心的な存在となり、アマチュア劇団に加わって築地小劇場で『アンナ・クリスティ』を上演したりした。 1936年、必修とされていた軍事教練を拒否して大学を中退。長兄の紹介で東京宝塚(現・東宝)新劇団へ入団。 その後は日本劇場の舞台進行係を振り出しに、東宝新劇団、東宝劇団、古川緑波一座と劇団を渡り歩く。下積み時代は馬の足などしか役がつかず、また日劇で藤山一郎ショーの舞台進行をつとめた時、藤山に頼み込んで通行人の警官役で舞台に立つもまったくうけなかった等、辛酸をなめたが、緑波一座では座長の古川緑波に認められ、またそこでは盟友となる山茶花究と出会う。1937年に一座を退座、1939年にNHKのアナウンサー試験に合格して満洲に渡り、満州電信電話株式會社の放送局に勤務。満洲映画協会の映画のナレーションなどを手がけ、甘粕正彦とも交流があった。 また、満州巡業に来た5代目古今亭志ん生や6代目三遊亭圓生らとも親交を結び、この頃、新京の劇団に所属していた芦田伸介と知り合う。アナウンサーになったきっかけは「徴兵制度を避ける為に、海外へ赴任できる当時としては数少ない仕事であったから」と、後の著書に記している。その一方で、川一本を隔てたソ連軍に対する謀略放送を行ったり(見つかれば確実に生きて帰れないほど接近したこともあったという)、蘭花特別攻撃隊(B29に体当たり攻撃を行う航空隊。本土での「震天隊」に相当)のための歌「空に咲く」の作詞も行っている。1945年8月に敗戦を新京で迎え、ソビエト連邦軍に連行されるなどして苦労の末、1946年11月に帰国した。 戦後も劇団を渡り歩き、この間の1947年に衣笠貞之助監督の『女優』に端役で映画初出演する。1949年に再建したばかりの新宿のムーラン・ルージュに入団、演技だけではなくアドリブのギャグを混ぜて歌も歌うなど、他のコメディアンとは一線を画す存在で、次第に注目をあつめる。 1950年にNHKがアメリカの『ビング・クロスビー・ショー』にならった『愉快な仲間』を放送、メインをつとめる藤山一郎の相手役のコメディアンとして抜擢されたことからムーランを退団。『愉快な仲間』は二人のコンビネーションが人気を呼び、3年近く続く人気番組となり、この放送がきっかけで映画や舞台に次々と声がかかり、一躍人気タレントとなった。 同じ年に新東宝で『腰抜け二刀流』で映画初主演。1952年に源氏鶏太原作のサラリーマン喜劇で河村黎吉が主演した『三等重役』に要領のいい人事課長役で助演、本作は好評を博して、のちに河村が急逝したこともあって、森繁が社長役として主演の『社長』シリーズへと発展する。また1953年にはマキノ雅弘監督の『次郎長三国志』シリーズに二枚目半の森の石松役で出演、シリーズ第8作の『海道一の暴れん坊』で無念の死をとげるまで大活躍する。 1955年に豊田四郎監督の『夫婦善哉』に淡島千景とともに主演、この映画での演技は、それまで数々の映画に出演して次第に確立していった森繁の名声を決定的なものにした。また同年、日活で久松静児監督の『警察日記』にも田舎の人情警官を演じ、これも代表作のひとつとなる。これにより単なるコメディアンから実力派俳優へと転進する。 『知床旅情』でシンガーソングライターとしてもデビューしている。『森繁自伝』で日本文芸家協会の推薦を受け、会員となった。 岐阜県海津市にある「水と緑の館」の名誉館長でもあり、同館へ寄贈した文章は達筆過ぎて判読に時間がかかるらしい。 近年は年齢/体力的なこともあり、2004年正月放送の「向田邦子の恋文」を最後に俳優活動を行っていない。また90年代以降、恒例であった芸能関係者の葬式での弔辞も、2004年1月の坂本朝一元・NHK会長での弔辞を最後に行っていない。 2007年2月23日に「最後の作品」と銘打った朗読DVD「霜夜狸(しもよだぬき)」が発売された。これは1991年に舞台用に録音されながらも、お蔵入りになった作品を元に新たに編集したものである。他に、現代社会への憂いを込めた「久弥の独り言」も収録されている(これは元々森繁自身が録音する予定だったが、声が弱っていることから、親交の深い竹脇無我が代読したものである。この作品を以って、戦前からの俳優生活に事実上ピリオドが打たれることになった。とはいえ、今も天気の良い日は散歩や観劇に出かけ、食欲も旺盛でフォアグラやステーキを平らげ、ホットブランデーを愛飲するなど元気な日々を送っている(関係者談)。また、「体は思うように動きませんが、心は現役」というコメントも発表された。 1986年、早稲田大学の卒業式に記念講演の講師として招かれた際、大学から卒業証書を受け、正式に卒業を認められた。 記念すべき「徹子の部屋」第1回放送分のゲスト(1976年2月)であるが、放送中に突然徹子の胸を触り(台本だとは思われるが)、ちょっとしたハプニングシーンとなった。この時の映像は、バラエティー番組で「徹子の部屋」第1回放送シーンが流れる度に使われる。 NHKで放映された、過去の落語家・漫才師・芸人などを独断と偏見で評価しまくる番組内で、7代目立川談志が「最高の喜劇役者は森繁久彌ですよ!」と珍しく絶賛していた。 竹脇無我の父、竹脇昌作とはアナウンサー時代からの親友で、竹脇無我は、森繁と自殺した父の姿がだぶることから彼を「オヤジ」と呼び慕っている。 過去に射撃を趣味にしていた時期があった。所有していた散弾銃は独創的な機構を持つイタリア製の銘銃「コスミ」であった事が射撃界では知られている。 カテゴリ: 日本の俳優 | コメディアン | NHKの元職員アナウンサー | 馬主 | 引揚者 | 1913年生 | 大阪府出身の俳優 |
[ 18] 森繁久彌 - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%B9%81%E4%B9%85%E5%BD%8C
|
「フォトエッセー 碧い海をもとめて」(1992年、東京新聞出版局、写真・佐々木正和) 妻・森繁萬壽子(森繁万寿子)氏(著述家・故人)、祖父・森泰次郎氏(徳川家・大目付・故人)、父・菅沼達吉氏(学者・故人)、長男・森繁泉(元賀茂カントリークラブ取締役社長、1999/01/23死去) 枚方市生まれ。名家の生まれで祖父の弟は文人・成島柳北だといいます。森繁久彌誕生時、父・菅沼達吉氏はすでに54歳。森繁久彌が2歳のとき死去。 兵庫県西宮市鳴尾の堂島小学校から大阪府立北野中学(現・北野高等学校)に入学。北野中学時代は腕白でそのため1年留年したといいます。その後、上京し、早稲田第一高等学院を経て、1934年、早稲田大学商学部に入学。 北野中学時代から芝居好きだった森繁久彌は、大学在学時代も演劇熱が高く、所属した演劇研究部では、後に映画監督として活躍する山本薩夫や谷口千吉が先輩部員にいたものの、彼らが左翼活動で大学を追われたため、早くから部の中心的存在として活躍。アマチュア劇団・中央舞台(のち人間座)に参加して築地小劇場を借り、「アンナ・クリスティ」を上演したといいます。大学2年の1936年、演劇熱が高じて大学を中退。 兄の紹介で東京宝塚劇場(のちの東宝)に入り、日本劇場の舞台進行係を振り出しに、下積み劇団員として東宝新劇団、東宝劇団、古川緑波一座を渡り歩きます。東宝劇団では馬の脚を演らされるなど苦難の時代でしたが、緑波一座では古川緑波から一目を置かれました。 1937年、緑波一座を退団して、一念発起してNHKアナウンサー試験を受験し、1939年合格。アナウンサー面接試験では「合格しやすいように」在任地に遠隔地を希望。入社後、即、満州の満州電信電話株式会社の新京放送局勤務となり敗戦まで中国大陸で過ごしました。ここで森繁久彌は多数のラジオ番組の原稿書き、演出を経験したといいます。このころに満州各地をルポした「森繁ルポタージュ」が国定教科書に採用されました。 1945年の敗戦を新京で迎え、一時的にソ連軍に抑留されます。このころ2歳で父親を亡くしていた森繁久彌にとって父親代わりでもあった兄が戦病死。引き揚げの混乱で亡骸に会うことなく帰国。帰国は1946年11月。 帰国後は、帝国座ショウ、空気座などを転々とし、このころ映画「女優」(1947、衣笠貞之助監督)へ出演し映画初出演。1948年7月には菊田一夫の紹介を得て有楽座での創作座公演「鐘の鳴る丘」(菊田一夫・作)に出演。翌1949年には、再建されたムーラン・ルージュに入り、「蛇(ながむし)」で主役を演じ、続けて「太陽を射る者」(1949年)では歌を唄う場面にも挑戦してその存在が認められ始めました。 1950年、ムーラン・ルージュを退団し、師事していた古川緑波の紹介でNHKラジオの人気番組「愉快な仲間」に出演しレギュラーに。長い下積みで培った幅広い芸域が重宝されるようになります。 同じ1950年、映画「腰抜け二刀流」で初主演。1952年には主演映画「三等重役」が喜劇として高い評価を得て喜劇俳優として人気を不動のものにしました。その後、森繁喜劇はペーソス味をもつようになり、1955年、淡島千景と共演した映画「夫婦善哉」が注目を集め、決定的な評価を得ることとなりました。その後、同じ豊田四郎監督による映画「猫と庄造と二人のおんな」や、映画「神坂四郎の犯罪」(1956年)、「南の島に雪が降る」(1961年)、「青べか物語」(1962年)など高い完成度の作品を発表する一方、「喜劇駅前」シリーズや「社長」シリーズなどの喜劇シリーズをヒットさせ、その芸の幅に一段とひろがりをもつに至り不動の人気を獲得しました。その後も「恍惚の人」(1972年)で好演するなど映画への出演を重ね、出演映画は300本を超えるといわれます。 森繁久彌の活躍は映画での活躍にとどまりません。テレビドラマでも草創期から活躍し、テレビ本放送が始まった1953年には早くも『生と死の一五分間』(NTV)に出演。デパートの屋上から投身自殺をしようとする男の15分間を描いた心理ドラマだが、15分間を描くのに、放送時間は30分というのが実験的でした。 1958年には、テレビ放送開始によって映画が斜陽産業となることを予言したドラマ『マンモスタワー』(KR)にも出演。 1964年にはテレビドラマ『ナショナル劇場/七人の孫』(TBS)がヒット。続いて『ナショナルゴールデン劇場/だいこんの花』シリーズ(1970〜、NET)などでテレビドラマでのホームドラマの定型を築きました。『だいこんの花』では息子役の竹脇無我と息のあったところを見せ、本物の父子のようだと評されました。ここで森繁久彌は向田邦子を見出して脚本家として重用するなどドラマ界に多大な影響を残しました。 音楽活動の方面では、「知床旅情」を発表。もともと「知床旅情」は映画「地の涯てに生きるもの」の撮影のため1960年3月から7月にかけて北海道、知床・羅臼村を訪れた森繁が村を去るに際して即興で作った歌「サラバ羅臼」がもとになっています。哀愁あふれるこの歌はその後、1962年に「NHK紅白歌合戦」で「知床旅情」と題して森繁自らによって歌われ、1965年にはレコード化されました。さらにその後コンサートツアーで北海道を訪れた加藤登紀子が流氷を見た感動から突然、演目にないこの歌を歌ったといいます。うろ覚えで歌ったため森繁作詞の原盤とは歌詞が若干異なってしまいましたがこれが1970年、「知床旅情」としてレコード化され今日も口ずさまれています。 舞台活動での活躍も持続。1962年には森繁劇団を結成、1967年からスタートしたミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」は上演900回、総観客動員165万人を記録。森繁久彌の演じたテヴィエ役の存在感は現在も語り継がれています。 このほか、出演するラジオ番組「日曜名作座」(NHK)は放送2000回を突破するなど実に多彩な活動を現在も旺盛に続けており、日本のエンタテイメント界の巨星の一人です。 |
[ 19] 森繁久彌(森繁久弥)
[引用サイト] http://www.tvdrama-db.com/jinmei/morihisa.htm
