離れとは?
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活字離れ(かつじばなれ)とは、識字率が高い国や地域において、書籍や新聞など文字媒体の利用率が低下する事を言う。 一般に識字率(文字を読み書きする能力を有する者の全体に対する割合)が上昇すると、活字媒体の利用率も上昇する。しかし、識字率が非常に高い値を維持し続けている国や地域においては、他メディアの躍進などによって活字媒体の利用率がある程度低下する場合があり、この現象を「活字離れ」という。 活字離れは、教育者や保護者が学生をはじめとする若者について、あるいは識者らが社会全般の傾向として、言語能力の低下、勉学意欲の減退など、知的水準が落ちていると主張するとき、その原因として挙げられることが多い。また出版不況の原因ともいわれる。活字離れはしばしば社会問題のひとつとされ、活字媒体を好まない者を否定的に断じるとともに、そのような者をいかに減らすかが話題となる。 現代の先進国では様々なメディアが大衆に情報を提供している。活字離れでは他メディアの隆盛による活字メディアの衰退という意見もあり、他メディアの消費動向と活字メディアの消費動向の比較がしばしば行われている。 アメリカの市場調査会社GfK NOPの調査[1]によると、本と新聞、雑誌など活字媒体を読む時間は、調査対象30カ国の平均が週6.5時間であった。活字媒体を読む時間の上位5カ国は順にインド(週10.7時間)、タイ(9.4)、中国(8)、フィリピン(7.6)、エジプト(7.5)であり、下位5カ国は順に韓国(3.1)、日本(4.1)、台湾(5)、ブラジル(5.2)、イギリス(5.3)となっている。 同調査ではテレビ視聴時間、ラジオ聴取時間、インターネット利用時間も同時に調べているが、活字媒体と明らかに競合しているメディアは存在しない。読書時間下位の台湾と上位のタイがインターネット利用時間の1位、2位であり、日本はいずれも下位である。タイ・フィリピン・エジプトはテレビ視聴時間の上位国でもある。日本と韓国はラジオ聴取時間の26位、29位となっている。 ただ、これらの比較では「平均値」同士を比較している面もあり、特にその内容に踏み込んでのデータ比較は困難である。以上のデータを見るだけでも、メディア間の接触時間比較では、あまり相関性がみられない。 日本新聞協会経営業務部の調査[2]によると、国内の新聞発行部数は1990年代にピークを迎え、その後は微減傾向となっている。 書籍・雑誌の販売部数もまた1990年代にピークを迎え、約10年間、販売部数も販売総額も漸減傾向にある(2004年の書籍販売は8年ぶりの増加となるなど下げ止まりの兆しはある)。 1980年より年1回行われている『読売新聞』の読書週間世論調査[3][4]によると、1990年代後半以降、月に1〜3冊読んだ人が1冊も読まなかった人を上回るようになり、無読率は50%前後を推移している。とくに50代以上の各年齢層では過半数が読書をしていない。 一方、20代の読書離れも指摘されている[5]。学生層の読書量減少は顕著で、1985年に1割だった無読率は2005年には4割弱へ増加し、また月4冊以上読んだ学生は4割から2割へ減ったという。一方、後述する全国学校図書館協議会では、青少年層向けの活字媒体(ライトノベルや良質な児童文学・ベストセラー小説)の流行により若者の活字媒体への関心は増加し、読書量も増大していると見ており、読売新聞の調査とは相反している。 1947年に始まった『毎日新聞』の読書世論調査によれば、2002年に調査開始以来最高となる59%の書籍読書率を記録し、雑誌読書率も84%に達した[6]。なお2003年の調査では雑誌読書率が急落している[7]。 社団法人の全国学校図書館協議会は『朝日新聞』と共同で、1968年より毎年1回、「5月中に読んだ本の冊数」という調査を行っている。 高校生の調査結果を見ると、1970年代の平均4.5冊から1980年代に上昇し、平均7.4冊(1984年と1988年)まで達した。1990年代には低下傾向となったが、2000年代に入って急上昇し、波はあるものの2003年には平均8冊、2004年にも7.7冊という高水準を記録した。 小学校・中学校の児童・生徒の調査結果は長らく平均1〜3冊の水準(小学生で1.5冊未満、中学生で2冊前後)だったが、2000年代になると高校生と同じく急上昇し、2004年調査では小学生で1.8冊、中学生で3.3冊という調査開始以来の高水準に達した。 逆に「5月中、全く本を読まなかった」いわゆる無読率は高年齢層ほど高く、1980年代後半から1990年代にかけては、高校生の約60%、中学生の約50%、小学生の約15%であった。しかし2004年調査での無読率は高校生42.6%、中学生18.8%、小学生7%と減少している。 中国の識字率は1980年代には8割未満だったが、2000年代に入って90%を突破した[8]。しかし中国出版科学研究所の調査によれば、逆に識字者の読書離れが進み、1999年調査では60.4%だった読書率が、2006年の調査では48.7%へ低下した。 同研究所は、生活の変化に伴って読書に割ける時間が減った事や、新しいメディアの普及に伴い、そちらに人が流れている他、旧来の学術書や教養を扱った書籍よりも、実用書や功利的なハウツー本の需要が増える傾向を指摘している。 出版産業がピークアウトした1990年代半ばより、読書離れは大きな社会問題としてクローズアップされるようになった。 読書離れを「日本語の乱れ」や「考える力の減退」といった様々な他の現象と関連付ける言論が目立つ。「活字離れは若者の問題」という意識も強い。大学生の読書率・読書量の低下は進学率の高まりと入試の緩和が原因ともいわれるが、評論家や大学教員など知的エリート層を中心に初等・中等教育の劣化や学習意欲の衰退などの表れとする声が上がった。子どもの読書に高い教育効果を見込む保護者が多い[9]こともあり、読書離れの解消を小中学校・高校の教育に期待する世論が形成された。その結果「朝の読書」運動などが広まり、50代以上の世代の無読率が高止まりする一方、小学生の読書量は2000年代に過去最高となった。 総務省統計局の社会生活基本調査[10]によると、「趣味としての読書」の行動者率は1986年以降40%前後で推移しているが、1年あたりの平均行動日数は1986年の103日から2001年の85日へ次第に減少している(高齢化の進展により無読率の高い高齢者層が増加した影響も含む)。インターネット利用の普及などが活字離れにつながったというアンケート調査結果も出ている[11][12]。これらの調査結果は「読書意欲はあるが、読みたい本が減った」という広汎に支持される意見を裏付けている。 このように、子どもに本を読ませたいという観点から学校や図書館などの公共機関に、自分が読みたくなる本が増えてほしいという観点から、出版社に一層の努力を求めるコンセンサスが形成されている。 日本の出版業界における「活字離れへの対応」は、書籍の軽薄短小化という数十年来の流れの中に位置づけられる。気軽に手に取ってもらえるよう、新書など薄く小さく安いパッケージの比率を高め、文庫も増やしてきた。版面の改善も進められ、高齢者や若い読者にアピールする読みやすく大きなフォントの使用、1ページあたり行数・文字数の抑制、といった工夫は常識となりつつある。ロングセラーの書籍を改版してフォントを大きくする、海外作品の古典の翻訳をわかりやすい訳文に改める、などの作業も続けられている。 また書籍への関心の経路を増やすため、コミカライズによって漫画読者層にアピールしたり、書籍の映像化や映像作品の小説化など、様々なメディアミックス展開が行われている。こうした大きな需要を掘り起こす試みに加え、小さな需要に応えていく試みとしてオンデマンド出版や電子書籍などIT技術を活用したインターネット経由の通信販売が普及しつつある。現在、電子書籍の大半は漫画作品だが、活字の書籍も着実に増えている。 その他、読書を支援する環境が充実しつつある例として、絶版問題に対応して、世界最大の古書店街としても知られる神田神保町が共同で運営する古書専門販売サイト、復刊を推進するサイトの登場などが挙げられる。 新聞の発行部数は1997年にピークアウトした後も微減にとどまっているが、新聞購読者の高齢化が進展しつつあり[13][14]将来が危ぶまれるようになった。 ただしインターネットにおける文字情報主体のニュース記事読者者数は紙媒体の新聞購読者の減少数を大きく上回っているため、活字離れという文脈で話題になることは少ない。また日本新聞協会の調査によると、新聞を「大いに信頼できる」「だいたい信頼できる」と答えたのは、50歳代で92%、20歳代で83%[15]である。インターネットは書籍と同等の長文記事を読むには不適な媒体とみなされているが、新聞記事のような短文ならばむしろ情報消費者の利便性を増進すると考えられており、紙媒体の凋落は新聞社の経営問題に過ぎず、社会的な影響は大きくないという見方が強い。 有料記事の需要落ち込みに対応し、広告モデルを全面的に採用したフリーペーパーや無料サイトによる生き残りを模索する一方、解説の充実などコンテンツの充実による有料紙媒体存続や有料会員制サイトの方向性も目指している。 ^ 「書籍 ・ 雑誌読書率(16 歳以上)は過去最高,小,中,高校生の雑誌読書率は過去最低 ― 2002年版“読書世論調査”(毎日新聞社)の概要―」『出版教育研究所通信』No.2、日本エディタースクール、2002年6月13日。 ^ 鈴木道弘、中本輝雄、大漉実知朗、滑志田隆 「第56回読書世論調査」 毎日新聞、2002年10月27日。 カテゴリ: 教育問題 | 情報教育 | 情報社会 | マスメディア | 読書 | 社会問題 | メディア問題 |
[ 91] 活字離れ - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%BB%E5%AD%97%E9%9B%A2%E3%82%8C
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HOME > 雑誌サイト > 日経エレクトロニクス > 問題は理系離れではなく,電気系離れということ 昨日のブログでは最新号(2006年7月17日号)の特集について,菊池編集委員が大学で進行する「理工離れ」「電気離れ」について触れましたが,本日はその内容をもう少し掘り下げたいと思います。 問題は大学の理系学部を志願する学生が減っているのではなく,工学部への志願者が減っているということです。文部科学省の調査によれば,1992年に比べて2004年の工学部の志願者数は60%に減っています。これに対して,医学・歯学・薬学部は50%増えています。つまり,理系離れではなく,工学部離れが進行しているのです。 とりわけ電気系学部の志願者の減少は深刻です。それは各大学で如実に表れています。東京大学では専門課程への進学振り分け時の学科別の基準点でかつては上位だった電子・情報関連が下から二つを占める状況になっています。一方,いわゆる関東6大学で「電気系学科の偏差値が50を切り始めた」(河合塾)など,電気系学部離れが加速しています。 しかも,大学や大学院卒業時には電気系出身の学生が専門知識を生かせるはずのメーカーへ就職せず,銀行や証券会社,コンサルティング会社などへ就職する事例が増えています。こうした状況は日本のメーカーへ悪影響を及ぼし始めています。大手企業はまだまだ優秀な学生を確保できるかもしれませんが,中堅企業では人材を確保できない状況が既に始まっているからです。 こうした状況はやがて大手企業もむしばみ始めるはずです。取引先の中堅企業が人材不足となれば,いつかはその企業の技術力の低下を招き,大手企業の事業競争力にも影響を及ぼしかねないからです。今後は中堅企業だけでなく,大手企業も技術者不足について真剣に取り組まざるを得ない状況になりつつあるのではないでしょうか。 ですが,少しだけ朗報もあります。本誌がニュース配信サービス「NEニュース」を通じて実施した技術者調査によると,「自分の子供にも技術者になるように勧めたい」との問いに対して「そう思わない」と回答した割合は53.5%と半数以上に上りますが,2004年に比べて約5ポイント減っています。わずか5ポイントですが,今後もこの状況が続いてくれればと願ってやみません。 ■工学系の中で,電気系が他に比べて減少幅が大きいのでしょうか? 機械系と比べても顕著なのでしょうか? プロ野球選手や芸能人に夢があるのは,圧倒的な収入と美女との出会い。同じ理系でも,医療系の収入と出会いの数は工学系と比較になりません。 学生が難しい仕事内容を判断して企業を選んでるとは思えません。収入もあり,出会いもある。要は,工学系が“モテる職業”であれば,多少大変な仕事であっても,誰もが目指すものになるのではないでしょうか? ■私は,機械屋として30余年,開発/設計に携わってきた会社を自己都合で退職し,海外のメーカに勤務しはじめた。正直ベースで,やっと報われたと言う印象である。 日本だけかどうか分からないが,多くの技術屋は,苦労の割りに金にならない,かっこいい資格にありつけないなど,「武士は食わねどーーー」的な仕事であることが現在の風潮にマッチしないため,工学部離れが進むのかと思う。 また,電気屋は,大部分の製品で機械屋が表に立つ場合が多く,「縁の下のーーー」の場合が多い。これも風潮にマッチしていない。 とにかく,技術者にも,弁護士,医師と同じ独占権の有る資格を与え,華々しい生きがいの場を与えよ。日本を救うために。(2006/10/25) メーカーの給与が低いという議論が多いですが,そうではなく,金融系の給与が高すぎるのです。自らは何も創造していないのに,それを右から左に流すだけで暴利を得ているのは,どう考えてもおかしいです。国政として,金融取引で得た利益に対しては,高い税金を掛けるなどの施策が,不公平感を是正するために必要と思います。 もし,その様な施策を執らないのであれば,国は物造り立国を止めて,金融立国を目指すという事でしょう。(2006/10/25) その原因は,技術者の需要に対して供給が多すぎるためだと思います。このまま理系離れが進み,技術者のギャラがアップしてくれば,理系離れも収まるのではないかと思います。 もっともその頃には,10社近くもある大手家電メーカーも淘汰が進んで,2〜3社になっているのではないかと思いますが。−−つまり,メーカーの数が多すぎる → 過当競争 → 技術者の薄給 → 理系離れ ということなのではないかと思います。(2006/09/10) 提言など,誰も聞いてくれません。直接,実力で有無を言わさず行使しなければ,日本では何も変わりません。島国なのに農業を手厚く保護し,人材でしか世界と勝負できないのに教育を疎かにしている日本を変えるには,それしかありません。(2006/07/29) ■現状,夢が無い安月給のサラリーマンが関の山では,誰もそんな将来に自分の人生を賭けたいとは思わないのではないでしょうか? そこで,産業界および国や自治体などに対してはそれぞれ以下を提言したいと思います: 企業に対しては,技術者の処遇(特に収入面で)を改善することや管理職以外でベテラン技術者の地位や待遇を維持できるような仕組みを真剣に考えること(私が以前勤務していた外資系企業ではテクニカル・ラダーと称して管理職にならなくても技術者としてフェローなどと呼ばれる最高位を目指せるような仕組みがありました)を望みます。技術者を厚遇し仕事の遣り甲斐や地位,QOLが得られる企業であれば,人材の獲得に苦労しないでしょうし,技術者を粗末にする企業は淘汰されていくでしょう。 また,所轄官庁や政治家の関係各位に対しては,技術者が独立起業する際の優遇策(税制や官庁によるベンチャー優先調達制度など)やセーフティネット(敗者復活がしやすい仕組み)の整備,技術ベンチャー特区の創設などの各種の制度面や法制面を中心とした仕組み作りを希望します。 また,この際に,そのような仕組みの適用を日本人だけなどと島国根性でセコイことを言わずに,外国人や外資系企業などにも認めて,内外からヒトやカネを広く募れるようにするのが,国際的な技術立国日本の進むべき道だと思います。 青色発光ダイオードの発明者である中村先生の講演を聴いたことがありますが,今のように閉塞感が漂い,夢が無い社会では,電機関係の技術者はどんどん減り,有能な人材は北米や欧州など技術者が夢を実現して力を発揮できる地域に流出し,インドや中国との競争に敗れ,アジアの三流国家に落ちぶれてしまう危険性があると感じます。 そうなる前に,一日でも早く産官学を挙げて日本の電気・電子関連業界の活性化の手を打つべきだと考えます。 子供も,電子・情報系を専攻し,修士まで行きましたが,メーカーではなく金融系のコンサル会社に就職しました。メーカーに魅力がないのが理由でしょうね。リストラの嵐が吹き荒れていたのをみていましたから。正直,金融系の年収には勝てませんし。 産業界等から「何人要る」と言われて,そういう受験生が「居る」かどうかを確認せず,どんどん工学部を定員増したり,新設したタタリでしょう。返品物の卒業生を作らざるを得ないのはこのためであり,本来は,大学数や学生定員を大幅に減らすより手はありません。 それにしても,もともと電気系の技術は楽しいものです。それなのに,極めて劣悪な処遇によって若者を「電気嫌い」にしてしまった電気系企業の経営者は,将来の日本に対して,もっと責任を感じるべきです。 もっと厳しいことを言いたいのですが,禁止用語を使うことになりそうなので,これくらいで。(2006/07/20) ■NEのブログを読ませてもらうと,毎回毎回,気分が悪くなる。記事に,というわけでなく,あまりにひどいコメントに対して。 そもそも,このブログってやつは,記者がこう思ったということを書き込み,ある程度,読者の反応を見て,掘り下げた記事にしようという試みであろうはずなのに,毎度毎度,「掘り下げが足りない」だの「イメージでものをかたるな」だの,揚げ足取りばかり。 イメージで語らせてもらうが,コメントに出てくるような揚げ足取りの人間が多いから,日本のエレクトロニクス分野が沈没していっていることに気づいていただきたい。 機械系では,CAE/CADソフトの技術者の評価は究めて高いものがあります。歯車解析の新しい近似手法を開発すれば,一種の英雄です。これは,機会系では,試行錯誤を一回多くすると,数億円飛んでしまうためです。しかしながら,電気系では,いくら電磁界解析の新しい手法を開発しても,全く評価されません。経営者にしてみれば,近似手法を開発しても,削減可能な費用は,高々数百万円程度にとどまるためではないかと予想しています。このような状況では,電気をまじめに勉強しても何のメリットもありません。機械を勉強したほうが得です。 また,確率過程理論を用いて,雑音除去フィルタのソフトを設計しても,電気メーカでは,あたりまえの評価しか受けられません。それに対し,同じ確率過程理論を用いて,金利予測のソフトを設計すると,これはエリート扱いを受けます。これでは,電気系を希望する学生はあまりいないし,また,優秀な人間がいたとしても,電気メーカには就職しないのはやむをえません。 根本的には,電気系の産業は,もはや日本では基幹産業ではないということにつきるのではないでしょうか。私も,自分の子供には,電気系に行くことを勧めようとは思いません。(2006/07/20) ■工学部離れの原因についての言及が欲しいです。また,電気系出身の学生がメーカーに就職しないのがなぜなのか,その考察を聞きたいです。(2006/07/20) ■(1) NEの特集も読みましたが,イメージで語っているだけで,本当に探究心をもって記事を書いているのか,かなり疑問を持ちました。本当に真実を知りたいと言うのなら,文系・理系上位校(せめて10校程度)に協力を仰ぎ,進路選択時にでも,なぜその進路を選んだのか,学生に直接,アンケートでも取ったら如何ですか? 予断で書くのは,プロの仕事ではない。 (2) 「(理系)全体の志願者数は減っていない」のは,何の意味もありません。質の低下こそ問題にするべきです。ユーザーコメントにもあるように,数は文系・理系で平準化されるようになっているのですから。その質の低下は,電気系の問題としてだけでなく,ゆとり教育の「賜物」としても論じられなければなりません。理系はレベルの低い人の掃き溜めになった代わりに,文系が秀才の溜まり場になって,「文系新入社員のレベルが高くなった・レベルの高さに驚いた」なんて話は聞きませんから。 (3) 阪大 松繁氏の調査について,ぜひ,詳しく取り上げていただきたく思います。文系の高給職なんて,パイ・分野が限られているようなイメージを持っていました。また,ユーザーコメントにあるような待遇・地位等々も,「文系も理系も,状況は大して変わらないだろう」と思ったり。ただ,理系は苦労の割に報われない,文系は苦労の割に報われている,というイメージはあります。理系のデータだけでなく,文系のデータも示し,両者を比較・検討・検証した記事を望みます。(2006/07/20) ■「モノづくり日本」と言われながらも,金融や経営の世界の方が高収入で脚光を浴びる一方で,技術職の待遇は,あまり恵まれているとは言えず,非常に裏方的な舞台に追いやられているような気がします。その上,短期的成果が求められる昨今では,技術者自身も夢が見られず,また,子供たちにも夢を与える仕事ができない状況であるかもしれません。 最近,開設されているMOT(Management Of Technology)が日本で浸透し,経営者も技術を理解し,技術者も経営に参画することで,技術が表舞台に立ち,その地位を向上させることによって,再び,子供たちの憧れの職業となることを期待しています。(2006/07/20) 私の学生時代は,「エレキ万歳」で,電気系を落ちた奴が機械に来たが,電気を別にやりたい風でもなかった。そのへんは実はあまり変わっていない気がする。 研究開発部門を魅力的にするには,まず,工場部門と同じ管理体制を改めねばならない。営業並みの妙なノルマも一切やめる(百害あって一利なし。一例がクズ特許の山だ)。(2006/07/20) ■学生は,良くも悪くも世相に敏感です。就職先としての企業の人気ランキングは,世間の評判や利益の大小などで簡単に上下します。私の勤め先でも,採用プロジェクトと称して,大学へのOB訪問や会社説明会などに重点的に取り組んだところ,たちまち,人気ランキングの順位が跳ね上がりました。会社としての内実は全く変わっていないのに。 以上の意味で,理工系の,あるいは電気系の人気・不人気を志望学生の人数で測るのは,的を外す危険性が高いと思います。 実際,「大学に返品したい」ような人が大量に電気系を志望されても,喜ぶどころか,むしろ,さらに困ったことになります。もちろん,優秀な人の比率が一定ならば,母数は多いに越したことはないのですが,どうやら,比率一定則は成り立っていないようです。結局のところ,核になり得る人が何人いるかが肝心なのではないでしょうか。 そう考えたとき,少なくとも人材の供給面に関しては,私はあまり心配していません(個別の企業の浮沈はともかく,電機業界全体としては)。 核になり得る人物は,どの時代にも,それなりには存在しますし,少々の待遇の良否で道を選んだりもしないものです。 頭数の不足には,オフショア開発を活用しましょう。日経エレクトロニクス本誌記事にもありましたよね。これからはインドが重要だとか。 これからの電機企業に必要とされるのは,そういった「少数の核となる人物の能力を最大限に引き出せる組織運営」とか,あるいは「オフショア開発を活用しつつ,しかも技術の空洞化を起こさずに済む開発体制」などの組織運営方法が肝になると考えます。 単に学生からの人気を上げようとするよりも,有効なアプローチだと思うのですが。(2006/07/20) ■意見欄に「新入社員のレベルが低く,大学に返品したい」というのがありました。ごもっともです。しかし,入学学生が酷いのです。 私が勤めていた大学では,大半を指定校からの推薦で採ります。一応,面接はしますが,無試験です。そこで,「虚数って知ってる?」と聞くと,「YES」は2割しかいません。「それなら,どうして工学部(電子情報系)を希望したの?」と聞くと,「私は法文系志望でしたが,とても難しい。先生に相談したら,“工学部なら空いているから推薦して良い”と言われた」とのこと。こうでもしないと,底辺大学は成立しないのです。 こうなると,どこへ返品したらよいのでしょうか。現在の電子情報系大学の実情です。(2006/07/19) ■現在の日本では,技術が細分化されている上に,報酬や成果の面でも,工学系の技術者が自立しにくい条件が揃っていることが根本的な問題であると感じます。ただ,現状の分析や解析をいくらやっても,問題が解消するわけではなく,むしろ,「こんなにひどい職種なら,別の道を選びたい」と感じる若者を増やすだけです。 では,どのようにすれば,技術者にとって魅力が出てくるのでしょうか? 一例ですが,特許は発明者の個人所有とし,自立しても他社に移っても,あくまで発明者に帰属するように法律を改正すればどうでしょうか? 優秀な技術者がいなくなったら会社が困るので,報酬をあげざるを得ません。また,大学の講義で,理工系のための経営学などがあれば,開業医のように自立した技術者を育成できるかもしれません。 もちろん,すぐに実現できないことは分かっているし,経営側からは反対されるでしょうが,これくらいの乱暴なことをしなければ,技術者に魅力は出てこないと思います。(2006/07/19) 現在でも,春期交渉時には「電気業界には,自動車業界に入れなかった人が来ればばいいんだよ」というような経営の対応。電気が好きでも,国内で自分の将来を考えると,二の足を踏むのは無理ありません。(2006/07/19) それは,文系と理系の壁。昨今はこの壁を越えた体系の学問も登場し,若年層から解消方向にあると思われますが,現状では,組織の壁以上に大きな壁かもしれません。 相対的に専門職志向が強く,論理的合理的であるが,経営感覚に疎く,提言のできない理科系と,幅広い視野と優れた事務能力を持ち,人心を洞察しながら経営や管理を行うが,技術的理解度が乏しく,社会現象と経営環境の分析と統合を怠ってきた文系との壁が大きい。 小泉構造改革のご多分に漏れず,私の勤める会社も構造改革を行いましたが,この時,過去の働きや現状能力のわりに不遇な時期を過ごした技術者が多かったのではないか。これが日本社会全体の傾向にもあてはまり,本記事のような社会現象に結びついている。(2006/07/19) 日本の理工(特に工のようですが)離れは,日本の将来に大きな問題です。特にインドが国策で先端工業化に取り組んでいると見聞しています。アジアを牽引して行かなければならない日本は,早急に抜本的に手を打つ必要があると痛感します。(2006/07/19) ■電気志望者が減少しているのは,現象の1つで,厳しくても達成感があり,チャレンジが必要な分野への志望者が減少していることが問題の根源かも知れない。社会,会社が地味でも縁の下の力持ちを評価,待遇する仕掛けが必要だと思われる。根源は,広い意味の教育だと思える。(2006/07/19) 各種調査によると,生涯獲得賃金は,いわゆる文系職の方が大きくなっているのも事実ですから。結局,理系理系と口で言いながら,報酬的には報いていないことが遠因だと思います。(2006/07/19) ■工学系の学生の数が多い少ない以前に,実際の就職活動をした場合,有名大学でも希望の職業につける事は非常に厳しかった2000年代は,就職先であるメーカー系の求人がほとんど無かったことも原因ではないでしょうか? 就職できないなら学部を変えようと考えるのが普通だと思うのですが・・・。 ■世間から注目を浴び,時代の最先端を行く製品を世に送り出すことは,大きな喜びである。ところが,世に出た途端に,値をたたかれ安売りの目玉として扱われる「電気製品」の広告を見るたび,複雑な気持ちになる。多くの人の知恵とアイデアを盛り込んだものの,命は短く,当然,かかわった人たちへの見返りも期待に沿ったものとは言い難い。 好きで進んだ道とは言え,子供から相談を受けても,あまり勧めたくない。安売りの広告を見て単純に喜べるところにいた方が楽そうだ。(2006/07/19) ■メーカーの技術者の待遇は,要求される能力に見合ったものとはいい難い状況が多いようです。とりわけ,昨今の実績評価主義では,要するに「すぐに売れる商品」を開発しないと評価されないことです。しかも,商品開発に携わる企画や営業部門では,その売り上げに対して具体的な数値で評価を受けますが,技術者は漠然とした評価しか受けられません。 もともと自己アピールの下手な人が多い技術者が納得するような評価システムを導入しているメーカーは,ほんのわずかです。そんな状況ですから,本当に技術で評価されたい人は海外に出て行き,学生も技術者にならない,という状況なのでしょう。 メーカー自身が将来の自分の首を絞めているということの認識ができていないんでしょうね。目の前の利益追求のみなんです。日本における技術(者)の空洞化が叫ばれてから,もう何年もたっていますが,結局,対処療法的な対策しかとってこなかったつけが回ってきているんです。 私も,自分の息子には技術者になることはすすめません。やっぱり公務員がいいでしょうね。(2006/07/19) 弊社は地方のメーカですが,近年の新入社員のレベルの低さには驚いています。メーカに就職して何がしたのか,疑いたくなるほどです。彼らにとって見れば,遊ぶ金が入ればそれでよいと考えているのでしょう。誰が,このような学生を育てているのでしょう。大学に返品したいくらいです。 電気・情報系の学生や技術者のレベルを下げているもう一つの要因は,電気学会の独り歩きでしょう。例えば,国際電気学会への投稿まで視野に入れて,論文を英文で記述する等,学生や現場の技術者に対して開放されていないと感じられます。これでは,子供向け電気実験教室を主催して社会貢献しているように見えても,誰も電気系技術者になろうとは思わないだろう。 電気系技術者は,自ら勉強し,努力し,教材を自費購入しても報われず,やっていけない状況なのです。全ての製品は,技術者がいなければ実現できず,販売すらできません。せめて,もっと技術者の地位・評価を上げてもらいたいものです。(2006/07/19) ■日本は技術者への待遇が悪過ぎ,もっと成果に対する報奨を考える必要があると思います。例えば,何か新しい物を生み出した場合は,ロイヤリティーが在職中にはずっと付くとか。。。(2006/07/19) ■これまで,日本の大学では工学部が大きすぎたというだけのことではないのでしょうか? 東京大学で言えば,一学年3000人のうち1000人が工学部に進学するというのが,本当に正しいのかどうか,疑問に思います。(2006/07/19) ■電気/電子系技術者は,勤務が厳しいわりに社会的な地位も低く,収入も決して高くない。さらに,技術が細分化されて,達成感を感じにくくなってきた。現在,このような会社で働いている人の様子を高校生は敏感に感じ取っているのではないか。(2006/07/19) ■実は私も,電気工学を卒業しながら,工業デザインの道を歩んできていますが,電気がどんなに面白いかが,なかなか可視化しずらいんですね。マスコミの方々の関心も少ないから,若い人々が目に触れる機会が少なくなっているように思います。もっと,記事として取り上げてもらいたいですね。(2006/07/19) 以前は各メーカに多数の電気技術者がいて,製品の設計をメカ,ソフト技術者と協力して行っていました。しかし,半導体の成長と共に,電子部品は急速に成長し,電気技術者はその応用設計に追われ,業務がかなり難しくなっています。新人が基礎から勉強して,そのレベルに追いつくには,かなりの時間が必要となり,電気技術者の育成ができなくなってしまいました。 このため,ほとんどの企業では,高度な電気製品を外部の専業メーカへ任せ,電気技術者は購入品の技術管理・品質管理的な仕事になっています。これが,電気技術者の技術力が向上せず,新人の採用も少なくなっている理由と思われます。 ■先ほど投稿した内容の説明が不十分でしたので,追加説明します。「医学・歯学・薬学部」の3学部以外の理系(物理・化学等)を含めた増減も見てください。工学部の中の情報関係の人数はどうなっていますか?(2006/07/19) ■この記事のテーマを論証するには,「1992年に比べて2004年の工学部の志願者数は60%に減っています。これに対して,医学・歯学・薬学部は50%増えています」だけでは不十分です。「工学部志願者数の実減少人数」と「医学・歯学・薬学部の実増加人数」の比較が必要です。同じような比率でも母数が違うと,比較の意味を取り違えると思います。(2006/07/19) 私が学生だった10年前でも,東大工学部の学生の半分が文系就職でした。メインは銀行と商社。それが今日では,技術系のコンサル等も増えて,少しは専門性と結びつくようになったのかなと逆に感じますが,いかがでしょう。 個人の自己実現という観点から言えば,それなりに悪くない方向に向かっていると思います。そもそも,研究内容まで見て大学を決めてないんだし。メカトロ系でも,材料から情報まで,どれを専攻することになるか分からないですし,逆に受験の段階でそれを決められても困ります。「流動性」自体は,暗中模索ながらも高まっているように感じます。 技術の飽和,高度化に対する閉塞感ももちろんあるでしょうが,流動性が高まったことの自然な結果であるなら,今後,どういう流れが起きるかが大事なのではないかと思います。例えば,エンジニアを厚遇する雰囲気が出てくるとか,逆にもっと違ったジャンル(例えば環境,健康,福祉)において,人材が顕著に成長していくとか。 既存分野の衰退を嘆くのでなく,社会がこれを選んでいるのであれば,この先,何が必要かを考えることが先ず大事だと思います。国際競争力は半導体だけで決まるわけでもないですし。 全然,話は変わりますが,バークレーに遊びに行ったときに,飛行機を趣味にしてる方が多くて,「飛行機ってそんな簡単に買えるのですか?」と聞いたら,「エンジニアならそのぐらいの収入はあるでしょう?」と聞き返され,絶句したことを思い出しました。(2006/07/19) ■途中まで感心が高く読み進んだが,尻すぼみで突然,終わってしまった。もっと突っ込んで原因追求などをして欲しかった・・・。一例としては,「労苦が少なくても,税金で救われても,安泰・高給の銀行やらの優位の現状など・・・が遠因にあって」などの記述があってもいいと思う。ものつくりが感動的であっても,やはり工学部卒で技術職についたって,いい生活はしたい。(2006/07/19) ■「わずか5ポイント」とのことですが,それは景気回復につられた回答にすぎないと思います。半数以上が「そう思わない」と回答する状況は,全く変わらないと思います。(2006/07/19) 頑張っても儲からない技術者になるよりも,医師や金融・医薬関係者になった方が得だと,学生や親が周知されてきたためだと思う。これらの儲かる業界は,日本に外貨を持ってこない。つまり,日本はこれから,外貨を得られなくなるという暗示なのだろうか? 年金問題もあるので,貿易黒字,GDPの維持は,全国民にとって大切なことであり,政策問題にしていくべきだと思う。(2006/07/19) Annex会員の方はAnnexにログインしていただくと,クリッピングした記事をここに表示します。(ログイン/Annexへの新規登録 | Annexとは?)'; ソフトウエアにとって最も大切なものは何でしょうか。その答えが、しっかりとした設計・検証の方法論であることは論を待ちません。本書は、専門記者が最前線で取材・執筆した記事と、専門の技術者による講演内容をまとめ、組み込みソフトの開発方法論を中心に構成しました。 「自動車の排ガスに含まれるCO2を大気汚染物質と見なす」との歴史的判決が出たのは、2007年4月、早春の米国ワシントンにおいてであった。 妻が、バスタオルが欲しいので探せという。そういうの得意でしょ、と。今使っているものがどれも随分くたびれてきたので、一気に入れ替えたいらしい。 「福岡で起業するとしたら何をする?」。それを考えようと、鐘崎海岸にて海を眺めながら構想というか妄想に耽ってみた。寄せては返す波だけの、ただの海。… 各種システムの障害は,ソフトウエアの不具合によるもののほか,システムを構成する電子機器,もっと言えば,電子機器に搭載されているさまざまなデバイスの故障・劣化によることが少なくない。 今回はイノベーションについて考えてみたいと思います。製造業はグローバルに競争が激化しています。そんな中で競争力を高めるためには,イノベーションが必要不可欠となってくるわけです。 BPnetTRENDYnetビジネスパソコンITテクノロジー医療建設・不動産安全・安心経営とIT動画転職 |
[ 92] 問題は理系離れではなく,電気系離れということ - 日経エレクトロニクス - Tech-On!
[引用サイト] http://techon.nikkeibp.co.jp/article/TOPCOL/20060719/119239/
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科学技術を振興させようという動きが活発になっています。そのため、理工系離れ、理科系離れ、理系離れ、理科離れを食い止めようと多くの人が考えています。しかし、それに成功すれば、理工系、理科系、理系の地位は経済原理に照らして低下するでしょう。理工系離れ、理科系離れ、理系離れ、理科離れは当然の現象なのです。 理系は専門分化が著しく、若い頃に専門的なことを多くやる点で、不利な側面があります。理系が専門的なことをやるうちに、文系は色々な経験を積んでいます。そして、歳をとった頃には理系は専門的な力が落ちています。文系は歳をとってから力が伸びます。だから、理系の人は晩年に不利になりやすく、文系は出世しやすくなります。 理科系の能力のピークは文系より若いうちにあります。理科系の若いうちの待遇を文科系より高くして、生涯賃金が釣り合うようにしなければなりません。今は、そうなっていないので、生涯年収が違うようです。いわゆる文理格差の問題です。理工系離れ、理科系離れ、理系離れの背景には、文理格差の問題があります。 政治家、企業の社長、高級官僚、裁判官などは、多くは文科系です。理系は出世しても工場長、研究所長どまりという悲観論もあります。実際にはそれより上に行く人もいますが、文系よりは少ないのです。政治家の上層部(特に総理大臣や閣僚レベル)、高級官僚(特に事務次官レベル)、裁判官などでは、文系がほとんどです。たとえば、理系の総理大臣は戦後はほとんどいません。官庁の上層部に理科系を探して見てください。この点でも、文理格差は存在しています。 理科系でノーベル賞を取った人を見てください。ノーベル賞を取る直前のその人の待遇はどうでしたか。最高の発明をした人の待遇を見てください。その人の手元にいくら残ったのですか。高級官僚の生涯年収を越えたとはとても思えません。経済団体の会長の方が、ノーベル賞受賞者より、少なくとも日本の中では社会的な影響力があるでしょう。モーツアルトより、大司教の方が力があったようにです。しかし、人類に対する貢献、社会への貢献度はとても大きいのです。人類に多大の貢献をした人の待遇は、文系・理系を問わず、それにふさわしいものになっていません。理工系離れ、理科系離れ、理系離れを防ぐには、トップレベルの待遇を改善して夢を与えることも重要です。 アメリカの国力は、どこから来ているのでしょうか。アメリカは欠点もあるけれども、すごい国です。あの国は優秀なる理科系を優遇しているからこそ、あれだけの国力があるのです。日本の文系の上層部の人も、アメリカには頭が上がりません。日本の文系と理系が協力すれば、日本の国力は飛躍的に上がるでしょう。理工系離れ、理科系離れ、理系離れを防ぐだけではなく、積極的に人材を活用することが、国力の増加に役立ちます。 理工系の方が、就職に少し有利という考えもあるでしょう。でも、別に待遇が良いわけではないでしょう。結局、出世しにくいのであり、待遇ではなく、就職が良いだけです。若いうちは良くとも、理科系は専門分化が激しいので、年齢とともに能力が落ちやすいのです。そして、歳をとるにつれて待遇の差が大きくなっていくのです。理工系離れ、理科系離れ、理系離れには、このような背景もあります。 日本は、理工系離れ、理科離れ、理系離れを食い止めようとしています。この国が傾いていくので、理科系を増員し、科学技術により、日本の競争力を高めてほしいという動きがあります。そのために、理科系の人の数を増やそうという大合唱が今後も続くでしょう。理工系離れ、理科系離れ、理系離れを食い止めるために、このこと自体は必要なことでしょう。しかし、理科系の人の数を無理に増やせば、待遇はますます下がるのであり、経済原理に反したことは実現できません。 子供たちに理科教室を開いたりして、理科離れを防ごうとするでしょう。理科に興味を持たせて、そちらに進学させるように仕向けるためです。でも、親は良く知っています。自分の子供が理科に興味を持たないようにするでしょう。理科離れです。 科学アニメ等を子供に見せて、科学に興味があるようにしようとします。でも、親は知っています。このようなものを見せないようにするでしょう。理科への興味は断ち切られるのです。理科離れです。 科学に興味を持つように、イベントを開きます。でも、親は知っています。男子であれ、女子であれ、このようなイベントに参加させないようにするでしょう。理科が好きにならないように無意識のうちに振舞うのです。あるいは不遇であることを色々な形で子供に伝えるのです。理科離れです。 あらゆる手立てを尽くしても、社会の現実を知っている人の目はごまかせません。子供達の幸せをちゃんと考えているのです。子供自身も、敏感に社会の流れを感じ取り、理科離れをしているのです。今は情報化社会なので、子供達も、はっきりと、あるいは薄々と感じ取るのです。昔のようには行きません。 もし理科離れを食い止めるならば、原因の除去、すなわち、理科系の社会的な地位や待遇が高くなければ難しいでしょう。待遇の問題を無視して、理工系離れ、理科系離れ、理系離れを食い止めるのは、情報化社会が進んだ現代においては、難しくなってしまったのです。 志望者が減ることによって待遇が持ち直すのではないかという淡い期待を一度でも持ったとすれば、その人は理科系人間でしょう。文科系の人はもっと社会を冷徹に見据える目があるようです。 私も淡い期待を持ったのですが、今は反省しています。恐らく、理系の地位向上運動がなされない限り、持ち直さないでしょう。志望者が少なくなれば、数を増やしたい人々は、奥の手を使ってでも、何としてでも増やすでしょう。それは、どんなことをしても止まることはないでしょう。そのことを知らないのが、典型的な理科系人間です。 手段はいくらでもあります。一つには、外国人労働者の導入です。中国やインドには安い賃金で働く人は大勢います。志望者は減るどころか、今後、爆発的に増えるのです。利益追求により、理工系、理科系、理系の待遇は、さらに下がっていくでしょう。 しかし、その前に、理工系離れ、理科系離れ、理系離れが深刻な問題であると宣伝するのです。宣伝を信じて、「これからは理工系の時代だ」などと思って、理工系離れを食い止めるためにそちらに進む人が出れば、このような手段を使わなくてすむからです。理工系離れのマスメディア等での報道を、今後の理系の待遇が改善される兆候と解釈してしまうのは、典型的な理系人間です。判断力の弱い若い人が犠牲になります。理工系離れはいけないことだという耳障りの良い情報が流れるでしょう。しかし、知っている人は知っています。社会の現実がどのようなものであるかを、通常は、親が一番良く知っているでしょう。かなり多くの親は、子供があえて理系に進むのであれば、医学部にしなさいというでしょう。理工学部離れはあっても、医学部離れはないのです。医学部の方が待遇がよいことを親は知っているからです。 理工系離れ、理科系離れ、理系離れを社会は問題視して「悪いこと」という風潮になっています。理科の先生で愛国者なら、何とか食い止めないとと思うかも知れません。しかし、そのような善意こそが、子供達を不遇へと送ることになるかもしれないのです。 理工系離れ、理科系離れ、理系離れを、待遇の問題を避けて解決しようとすると、原因の除去にならず、多くの矛盾が噴出することになるのです。子供達も、理系の勉強は実験もあって大変だけど、暗い人が多くて地味で、女子も少なく、社会に出ても使われる立場で報われない傾向にあることを明確にあるいは薄々知っています。 理工系離れ、理科系離れ、理系離れを、その待遇を改善しないで食い止めるというのは誤った考えです。それをすれば、国を救おうとして善意で理工系に進んだ人だけが、不遇を味わうだけです。 しかし、社会はそのような方向にいこうとしています。これは、昔はうまくいったからです。しかし、今は情報が広く知れ渡ってきています。 理工系離れ、理科系離れ、理系離れを、その待遇を改善しないで食い止めるというのは、日本が戦争のときに、ゼロ戦のパイロットを募集したのと同じです。熟練した質の高いパイロットは、日本の緒戦の勢いに貢献しました。しかし、日本は、パイロットを使い捨てにして死なせていったのです。しだいに、熟練していないパイロットが必死でかき集められました。しかし、人材が枯渇していったのです。人材の枯渇は見えにくいため、気づいたときには手遅れになっているのです。 日本は、これから厳しい時代となり、経済競争のために、理工系、理系の人々がますます重要になります。しかし、日本は、その人の待遇を下げるでしょう。日本は国力が弱いため、経済競争に生き抜くために必死なのです。余裕がないから、これらの人を安く使い捨てることには、抵抗しがたい魅力があるのです。その魅力が信じがたいほど強いものであることを知らないのが、典型的な理系人間なのです。日本は、理系の地位向上運動がなされなければ、恐らくその魅力に負けるでしょう。歴史は繰り返すのです。 理工系離れ、理科系離れ、理系離れは、人材枯渇のサインです。しかし、人材は必死でかき集められることになるでしょう。極端な話、誰でもいいから数集めをしようとするでしょう。もちろん、理工系の待遇はもっと低くなります。 理工系、理系は重要だから大事にされると考えるのが、典型的な理科系人間です。すでに博士が増員されました。博士は日本にとって重要だからです。それでは、増員された博士の待遇はどうなったでしょうか。博士の地位は著しく低下し、就職もままならなくなりました。いわゆるポスドクの問題です。重要な人材でも、社会的に力がなければ、低く処遇されていき、最も国にとって重要な若者も、最も低く処遇されるのです。嘘だと思わるなら、 さらに戦局が悪化すれば、理工系離れ、理科系離れ、理系離れを食い止めるどころか、日本のために、特攻隊として、これらの人々が大募集されるのです。国のために重要だと言われていた特攻隊の待遇はよかったでしょうか。死という待遇が与えられました。 お国の一大事であるとして、お国のために死ぬことが良いとされました。今、理科系離れ、理工系離れ、理系離れが問題であるとして騒がれています。そして、理科系、理工系、理系に進むことが良いとされているのです。その意味を、このページを読む前にご存知でしたか。もっと希望的な観測を抱いていたのであれば、典型的な理系人間です。理工系離れ、理科系離れ、理系離れには、このような深い意味があるのです。 日本の経済戦局が悪化すれば、これが人材育成と大増員の大合唱となっていくでしょう。そして、外国人を含む増員にともなって、その待遇は、救いようもないほど、低下していくでしょう。理系の地位向上運動が必要なゆえんです。 理工系離れ、理科系離れ、理系離れは、その待遇の改善によって解決することが一番の解決です。それ以外の、理科教室とか、子供の理科離れを食い止める教育とか、子供たちに科学アニメを見せるとか、科学イベントをやるなどは、効果が薄いでしょうこれらは、待遇の改善という一番日本がやりたくないことから、目を逸らしてしまう危険があります。 待遇の改善策としては、若い頃の給与は、理工系の方が2割程度高くすべきでしょう。理工系の能力のピークは若い頃にあるので、若い頃に優遇しなければ、生涯賃金が釣り合わないからです。 このようなことを実現するには、理工系、理科系の人の広範な連帯が必要です。これは、文科系の人には自明なことなのですが、理科系の人にはそうではありません。理工系離れ、理科系離れ、理系離れを、誰かが防いでくれると期待してしまうのです。 理工系、理系の人は、何か具体的な得がないと、自分から動こうとしない傾向があります。損得計算が合理的だからです。そのような合理的な損得計算が、理工系、理系の人は非常に得意です。そして、そのような合理性により、理系、理工系の待遇は下落していったのです。 また、理工系、理科系の人は、人が良い人が多い傾向があるようです。耳障りのよい情報が流れていけば、すぐに誰かが将来待遇を引き上げてくれるだろうと考えてしまうのです。若い特攻隊員も、そうやって戦場に送られていったのです。 理工系ばなれ、理系離れ、理科系離れ、理科離れの解決には色々と難しい問題がありますが、待遇改善、文理格差の是正がなければ、理工系離れ、理系離れ、理数系離れ、理科離れの解決はないでしょう。待遇改善、文理格差の是正に向けて、理系は連帯していかなければならないでしょう。 理工系ばなれ、理科系ばなれ、理系ばなれ、理科ばなれの原因は、はっきりしています。「医学部ばなれ」などというものはないのに、「理工学部ばなれ」、「理工ばなれ」があるのは何故かを科学的に考えれば分かるでしょう。なぜ人は、医学部に先を争って入学するのでしょうか。 原因は昔からはっきりしています。理工系が大事なら近いうちに原因の除去が行なわれるだろうと考える人は、若い理工系の人だけでしょう。 私は、現象世界の成り立ちに探究心を持ち、高校のときに物理学に没頭しました。現実を良く知っていた文系の人とは、社会的な待遇面で大きく差がついたのです。文系の人は「物理学など生きていくのに必要ない」といいました。生きていくって何なのかと反発もしました。しかし、よく考えると、文系の人は、ずっと賢かったし、大人だったのです。社会の現実を思い知らされたときの苦痛は耐えがたいものがありました。同じ犠牲者を二度と出してはならないと思ったのです。 人の価値観は多様であり、待遇についても、金銭面、出世のしやすさ、雇用の安定、自由、やりがい、仕事の面白さ、時間的余裕、勤務環境、人類への貢献度など多数の側面のどれに重点を置くかは人により異なります。また、個々人は、やりたいことや適性などもそれぞれ異なっています。人の価値観はそれぞれ異なるので、上に述べたことは、個々人の価値観や適性に応じて、あてはまらないと感じられることがあるでしょう。人の価値観は多様なので、理系の待遇はむしろ文系より高いと感じる人もいるはずです。たとえば、就職のしやすさを重視する人は、理系の方が就職がよいことが多いことを重要視するかもしれません。 特に、自分の選択している職業については、地位が高いと感じる傾向にあることに注意が必要です。たとえば、技術者に、技術者と医者とどちらが地位が高いかを質問すれば、技術者の地位は医者より高いと答える人が一定数存在するでしょう。これは、技術者になった人は、技術が好きで、技術にやりがいを見出すという価値観や、技術に医術よりも適性を持っている傾向が強いからです。だからこそ技術者になった人も多いでしょう。中には仕事が給料の割りにきついどころか、技術が楽しいと感じ、むしろ医者の方が給料の割りにきついと考える技術者もいるでしょう。 ある価値観、考え方から見れば、技術者の方が医者より地位が高いのです。しかし、技術者離れと医者離れを比べれば、技術者離れの方が医者離れより問題になっているのではないでしょうか?医学部に志望者が集まらなくて医者離れが深刻だという話は聞きません。 技術者の地位が高いという価値観を根拠に、技術者の地位向上の必要性を否定する技術者もいるでしょう。しかし、重要なのは、将来の技術者となるかどうかを決める若者の動向です。現在の技術者の一部が、技術者の地位は十分に高いと感じても、仮に現在の若者が、理工学部より医学部に進んで医者になる方が地位が高いと感じるのであれば、技術者離れが生じます。 社会の中では、理系離れの方が文系離れよりは相対的には問題とされているのであれば、理系の地位向上は、文系の地位向上より重要なのではないでしょうか?多くの人が理系の地位向上のために積極的に動けば、理系の地位は向上すると思います。 |
[ 93] 理工系離れ、理科系離れ、理系離れ
[引用サイト] http://banare.rikoukei.com/
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理科離れ(りかばなれ)とは、理科に対する生徒・児童の興味・関心が低くなったり、授業における理解力が低下したり、日常生活において重要と思われる基礎的な科学的知識を持たない人々が増えていたりすると言われる一連の議論である。科学的思考力や計算力の低下により、特に高等教育において授業の内容を理解できない生徒が増え、専門的知識・技能を有する人材の育成が難しくなることが問題として指摘されている。 一般的に科学技術が発展している国ほど市民の科学的思考力が低下しているとの指摘もある。これは科学技術が高度になり複雑化するにつれてブラックボックス化し理解しにくくなっているという側面もある。ただ、日本では、一般市民の科学リテラシーが先進諸国と比較しても極めて低いことが指摘されている。 科学教育に関する一部の研究グループは、文部科学省が理科の学習内容を大幅に削減し、科学教育の質を低下させていることに対する揶揄を込めて理科離しと表現することがある。 現状では、理科離れの明確な定義は存在しない。それを指摘する根拠の一つとして、国際教育到達度評価学会が実施した「国際数学・理科教育調査」により、日本の生徒は成績が良いにもかかわらず、理科が面白いと思う生徒が極めて少ないことが挙げられる。「科学技術と社会に関する世論調査」でも、国民の科学技術に対する関心は先進諸国と比較して極めて低いとされる。このような状況を表現する一つの用語として、理科離れが使われるようになったと考えられる。 理科離れに関する研究は、専門的な研究対象としても位置付けられている。研究者に対する研究助成金として最も重要と考えられている、文部科学省科学研究費補助金では、時限付き分科細目の科学高等教育の分野において数学嫌い、理科離れの用語が使われており、大学教育の質の維持が著しく困難になっていると述べられている。また、文部科学省の科学技術・理科大好きプランでは科学技術離れの用語も使われている。 1977年に改訂された学習指導要領の内容について、学校教育全体における理科の位置付けが低くなったと指摘された。実際に、その頃から理科に関する生徒の興味・関心が低下し、理科の授業内容を理解することが困難になる場合が見られたとされる。 そこで、文部省は1989年に改訂された学習指導要領で、実験・観察を重視することを求めるようになった。実験を増やすことが理科離れを防ぐための問題解決の方法として考えられ、1990年代からはそのような運動が盛んに行われた。 この記事の内容の信頼性について検証が求められています。確認のための文献や情報源をご存じの方はご提示ください。出典を明記し、記事の信頼性を高めるためにご協力をお願いします。必要な議論をノートで行ってください。 ゆとり教育の推進により学校の授業時間数が削減され、学習指導要領が定める教科書の内容も、従来と比較して内容がじりじりと減らされてきた。そのため、多くの観察・実験・資料・データなどから原理と法則を見つけ出し、じっくりと理解を深めるような授業を構成しづらくなり、テキスト上の暗記が重視される傾向にならざるを得ない。言い換えると、学習事項の削減は暗記事項を減らすことを目的にしていたにもかかわらず、逆に与えられた知識がぶつ切り化し、児童・生徒に多様な事象を相互に関連付けて体系付けることを困難にしてしまったのである。こうして学習事項の削減は体験による認識を欠き、むしろ無味乾燥な暗記を増やす結果を招いたのであった[1]。その結果、理科の楽しさや本質が伝えられにくくなっている。 またその一方では、旧来の学習指導で無味乾燥な暗記が偏重され過ぎた結果、「テストが過ぎれば忘れてしまう」程度の知識が重視されてしまった反省から、体験や観察を重視するカリキュラムへの移行が見られる。しかし依然として個人の内部において論理体系を育んだり、その原理を探求するといった、理科=科学の根底にある探求が等閑になっている傾向も見受けられる。 実験や観察の結果を考察し、そこから結論や真理を導き出す過程が欠落した結果、現象のみの知識だけを持ち、その理由に対する理解に及んでいないケースが見られる。2004年4月には、小学生の4割が天動説的な説明の文章に「正しい」と回答しているといった報告も提出され、同問題をより深刻なものと受け止める向きも多い。しかし1989年や1998年に発表された学習指導要領では、「地球が動いている」ことを理科ではっきり学習するのは中学校であるので、天動説を信じている小学生が多いことは必ずしも驚くことではない。この背景には、児童・生徒たちによる日常理解や抽象概念の認識範囲の拡大など、発達心理学的な要素を取り入れる必要があるからである。 このほかにわが国の理科教育では、例えば高等学校のカリキュラムにおいて地学を履修しないものが一般的になりつつある。これは大学での専攻の決定ばかりでなく、大学入試の受験対策で化学や物理を優先して地学を敬遠したり、高等学校で地学の授業がそもそも行われていなかったりすることなどが原因として考えられる。 短時間で限られた問題を正確に解くための、詰め込み教育や受験競争によって、理科の本来の目的の一つである理論的にじっくりと考察する態度が軽視されるようになった。また、理科が好きな生徒でも、受験競争が優先され理科に関する趣味を楽しむゆとりが少なくなっている。 教科書の編成でも、欧米の理科教科書は日本で言うならば学習百科事典に相当するボリュームのものを学校から生徒に貸与し、生徒はここから自分の関心の深い分野や切り口を探索できるようになっている。それに対して日本の教科書ではあらかじめ精選したメインストリームを設定し、これに沿った構図を無駄なくシステマティックに教授する構造となっている。確かに科学の論理的体系を整理した形で身につける上で日本の教科書は優れている面があるが、研究が進展しつつあるまだ十分体系化されていない背景部分が大幅に排除されており、生徒の多様な関心をすくい取る力に乏しいのみならず、現状の学説において「完成されたとされる」体系を受容するだけで、科学に対する能動的態度を損なう要素も指摘できる。 子供たちが自然に触れる機会が減少し、生物の観察や飼育などの体験を行う機会が減少したことにより、不思議だと思ったり、科学的な価値観を知ることで科学に興味を持つ子供が少なくなっているとされる[2]。理科が嫌いになるという意味の離れの傾向は、都市部と農村部で比較してもそれほど大きな差は無いことから、この問題は自然環境の有無よりも子供を取り巻く状況に依存する要素が大きいと考えられる。農村部での子供の自然体験の減少には、農村部での高齢化に伴う児童数の減少で年長の子供から年少の子供への自然の中での遊び方の伝承が途切れ、これによって子供が外で遊ばなくなったことも指摘されている。 また、かつては県ごとに組織されたローカルな自然史研究会・生物学会・地学会の類に加入し地域の自然に基盤を置く教材研究に努める理科教員が多かったが、近年は若い教員の加入が著しく乏しくなっており校務分掌の多忙化もあってこうした活動が低調になってきている。そのため、地域の自然に関して豊富な知識を持つ教員の数も減少してきており、児童・生徒への適切な助言をこなせない状況が生まれてきている。 おおよそ1960年代までの日本では、ラジオ少年(→工作少年)という言葉に代表されるような、電気製品の分解や修理、組み立てなどの電子工作を楽しむ子供が多かった。これは完成品が高いものでも、半完成品として販売されていたり、作成方法が公開されていることにより、部品を集めることによって作ることが可能になっていた。1970年代までは、それら子供向けの半田ごてを利用する、ラジオや無線送信機などの工作キットも多く発売された。実際問題として他の娯楽も少ない事から、比較的安価なそれらのキットを利用して、ラジオ放送を楽しむ子供らも少なくはなかった。アマチュア無線の存在もこの傾向に影響を与えていたと考えられる。 また、電気関係以外にも、物を作ったり解体したりする趣味や遊びが多数存在し、そのような子供に対する尊敬の念もあった。また親たちも家庭で使われる道具類を自分で修理したり自ら作成してしまうことも多く、それを子供に手伝わせる機会も頻繁であった。そこで得た興味や技術を糧にして、大人になってからも専門家として科学技術を支える重要な役割を務めていることが多い。 しかし、1980年代中頃から1990年代にかけてテレビゲームが普及したことや、家庭で用いられる電気製品が高度化して、分解や修理を行う必要性が無くなった(あるいは出来なくなった)事もあり、自然観察や工作を楽しむ子供は減った。また、さまざまな製品の値段が大量生産によって低価格化したことで、家庭で使う道具類を自分で修理しなくなり、道具を家庭で作るという行為に至ってはそれ以前に衰退していた。このことが、理科離れの原因の一つと考えられている[3]。 同じく1980年から1990年代以降には、子供向けの文化媒体(主に娯楽媒体)市場が拡大した。これによりプラモデルとミニ四駆の人気などのキャラクター商品が台頭し、電子工作キットの地位が相対的に下がった。また、子供向け娯楽媒体が一日の生活において一定の時間を占めるようになったため、子供らが日常の生活や手伝いを通じて、家庭内に普遍的に存在する様々な現象に関心を抱く機会が減っている事を挙げる向きもある。 またこの過程に関連して、読書時間も年々減少傾向にあると報告されている。2004年の調査では高校生でも、学校カリキュラム以外では一日の読書時間がゼロという生徒が4割を占めるなど、知的好奇心が低下したと考えられる傾向が見られる。この傾向は大学生にも顕著で、2000年代に前後して、大学受験の要求する学力レベルが中堅層から低下している中で、新書などの書籍を全く読まない、もしくは読む能力が無いという学生も多いと嘆く大学教授も存在する(詳細は「活字離れ」を参照)。このためか、知的好奇心をもって物事に取り組む層とそうでない層の能力の二極化が顕著となりつつあり、意思疎通が図りにくいと指摘されることもある。 科学技術への関心を持つ層は表面的なイメージや先入観のみで「おたく」というレッテルを貼られがちになり、おたくを嫌悪する層によってコミュニティから排除される可能性もある。近年では、若い女性が科学的な知識に富む男性を「おたく」として、恋愛や結婚の対象から排除することがある。進学先を決定する時期は、異性への関心が高まっている思春期に当たるため、このようなことが、男子学生の理科離れを促進しているという指摘もある。逆に言えば、いわゆる「おたく」のレッテルを貼られる類いの男子学生の日常的なコミュニケーションのなさを指摘することもできる。これは女性のおたくを示す俗語である腐女子にも当てはまるところがあるだろう。自分たちの専攻、興味や趣味を、日常から自己完結的に閉じ込めている限り、男女問わず古典的な「おたく」はおのずと敬遠されると考えられる[4]。 しかし、近年のインターネットの普及によるコミュニケーション促進が、「おたく的な気質」を必ずしもかつてのような内こもりではないものにしている面もある。また昨今のマスコミによる「おたく」の過熱報道により、その趣味や嗜好に理解を示す女性も増えてきている。さらに、時折科学技術への従事者に対してマスコミがこぞって注目をすることもある[5]。これは「女性は科学に関心を持たないのが普通」というかつてのステレオタイプ的な価値観が変わりつつあることの証左ともいえよう。 また、大学理系学部の男女比も重要な要素だろう。分野の違いにもよるが、理系学部は男性比率が8〜9割に上ることが少なくない。この傾向は、差はあれど高校時代の文系・理系分けから始まっている。これでは女性と交流する機会は文系の男性に比べて減少する割合が高く、高校〜大学〜大学院、そして社会に出てからも女性と交流する能力の低い男性や女性に抵抗感を持つ男性が理系に多くなるという事実は見逃せないだろう[6][要出典]。 特定の世代に限らず、血液型性格診断やマイナスイオンなどの様に科学的な根拠が全く無い疑似科学的な話を単純に信じ込む傾向が認められる[7]。これには近代以降、科学の術語の多くが時代に応じた科学的思考を伴って受容されたのではなく、しばしば科学的思考と対極のところに位置する伝統的なコスモロジーの中に位置づけられて受容されたことも、原因として考慮する必要がある。例えば現代における「黴菌」「伝染病」「遺伝病」「消毒」といった医学、保健衛生学の術語は、「穢れ」や「禊」の思想や聖書学的ライ病(ツァラアト)といった古典的な差別観を、逆説的に権威付け補完する術語として受容されている[8]。 また、社会人が広範な科学知識を現実の科学の発展に即して得る手段としての科学ジャーナリズムも、日本では基盤が貧弱である。高度経済成長期にホワイトカラー向けの、経済バブル期にもっと広範な大衆向けの科学雑誌の発展がありはしたが、その多くがバブル崩壊後に廃刊に追い込まれている。科学に対する興味が薄れることによって売上げが減少し、人目に触れる機会が減少することで、さらに科学に対する興味が薄れるという悪循環を生じていると考えられる。現在は一般向けの総合科学雑誌は岩波書店の「科学」、日本経済新聞社の「日経サイエンス」、ニュートン・プレスの「Newton」程度であり、前2誌もむしろ研究者、技術者向けの比較的高価な専門誌と認識され、ホワイトカラー層においてすら、敷居の高いメディアと認識されているのが現状である[9]。こうしたことから、日本における大衆特に高等教育を受けているホワイトカラー層の科学リテラシーの低さは深刻なものがあると考えられる。 ある程度体系だった科学リテラシーを持つには、各々の教育水準や幼少からの家庭環境も影響しているだろう。これに類する見方は教育社会学で研究されてきている。どのような過程であれ、問題解決に至るには、これらの見方も取り入れる必要があろう。 上記のような科学専門メディアの衰退の一方で原子力事故や感染症をめぐる問題など、現在の科学技術における失敗例や未解決の問題は数多く存在する。こうした問題は、科学技術を用いることによってしか解決が困難なものが多いにもかかわらず、一部には、それらの危険性ばかりを強調し科学技術そのものに対する不信感を持たせるような報道や世間の論調がある。また、科学技術に関わる科学者や技術者に人格的欠陥があるようなイメージを与え不当に貶めるような論調も少なくない[10]。これは報道側に科学に関する基礎的・社会的知見を欠いた文科系出身者が多いためと指摘する者がある。その一方で、マスコミやジャーナリズムに固有の批判的性質を大なり小なり考慮すると、そのように帰結するのは短絡的だという見方もある。 現在の日本では、理学・工学といった自然科学の分野で研究者・技術者を目指しても、大学院博士課程修了者の就職難問題の荒波にさらされる危険性がある(学歴難民、オーバードクターを参照)。また就職できたとしても法学や経済学などの社会科学専攻と比較して待遇が劣ることが多いとされる[11]。そのため中学校や高校で理科が得意であっても、大学で人文科学や社会科学系の文科系学部や医学部[12]、薬学部等の医療系学部に進学する生徒も少なくない。大学進学に当たって、実験や演習・レポートなどで学生生活を拘束されがちな理工系を敬遠し、文科系学部に進学するという傾向も目立った。また土木工学等は、理工学の一分野としては建築学についで暗記が多い、学生が男性ばかりで占められる(華やかさに欠ける)、泥臭さが感じられる、公共事業に対する悪いイメージ(汚職、談合等)等から、同じ工学部の機械や電気といった最新分野から軽蔑されている風潮がある。また、理工系と関係ない他分野の人間からもあまり良いイメージをもたれず、学科の名称を「都市〜」「〜システム」というように変更してイメージアップやカモフラージュをしようとしている姿勢や、同じ大学工学系学科と比較した場合の偏差値の低さなどが、一部の工学系の人間から批判、蔑視されている元凶となっている。 これらの現象には次のような背景が指摘されている。欧米先進国のみならず、ほとんどのアジア・アフリカ諸国では、高学歴者とは大学院の修士課程や博士課程の修了者を意味し、大学院修了者が政府機関や企業の指導者層として数多く登用されている。しかし、日本ではこうした社会的地位に登用されるのは有名大学の学士課程を修了した者である。現状では(専攻分野を問わず)大学院修了よりも学部卒のほうが圧倒的に人数が多く、基礎科学分野や科学技術分野の高度な訓練を受けた者は社会の指導的立場には立ちにくい構造になっている[13]。したがって、科学技術的な観点が政策決定や企業の意志決定に反映されるには、一定の障害やジレンマが生じると考えられる。これは近年のSTS(科学技術社会論)研究により論ぜられるべき点だろう。また、日本の銀行の融資システム上研究者によるベンチャー起業が困難であり、大学や既存の企業のサラリーマン技術者としてしか自己の有する技術によるビジネスチャンスを得られないという問題もある。 理科離れをなくすため、などの目的で、各地で科学実験教室や講演などが多数開催されている。また、授業の中で実験や実習を取り入れる動きも盛んである。2004年に、科学技術・学術審議会人材委員会は、修士号以上の学位を持つ教師(いわゆる教育職員免許法上の専修免許状の取得者)を増やすなどを盛り込んだ提言を公表した。また、各種の助成金を設けたり、科学技術を一般の市民に分かりやすく説明するための専門職を設置するなど、政策としての対応も見られる。これらは一つの対策として有効な方法であるが、あくまで対症療法的な対策であり、子供や教師を取り巻く社会環境の変化を改善することが最も重要とする意見がある。 また、子供に理科への興味を持たせることには注目が集まっているものの、社会人をめぐる状況、特に理系の社会的地位の低さなどについての議論は、まだ十分ではない。一般市民向けのイベントなどを開催しても、低学年の子供ばかりが集まり、青年層の参加がほとんど無いようなケースも見られる。さまざまな理科離れ対策が1990年代から活発になっており、それらに参加した子供達は高等教育を受けたり社会で働いたりする世代に成長した。しかし、理科離れ対策がその世代に与えた影響について、十分な調査・分析が行われた例は少ないので、今後の研究の進展が待たれている。 理科離れの問題は、優秀な生徒に特別な教育カリキュラムを提供するエリート教育としばしば混同されることがある[14]。しかし、理科離れは一部の特別な生徒ではなく、国民全体による知の問題とも解釈できるため、本来は同等に議論すべき問題ではない。理科離れ対策の本質は、学校や教師だけに一方的に責任を押し付けて解決する問題ではないというところにあり、社会全体の知的水準の向上、高等教育や知識人のあり方など、非常に広範な観点から見直すことが求められる。 理科離れによって、初歩的な統計や生物の知識を知っていればすぐにその無意味さが分かるデータでもそれが無意味であることに気が付かないことでそれらを利用して無意味なデータを科学的に立証されたことであると信じ込み、悪徳商法やカルト教団に騙される可能性が増大したり買ってはいけないやスーパーサイズ・ミーなどの科学的根拠が乏しいにも関らず特定の商品を危険と決め付けた情報に踊らされることになってしまう[15]。事実、疑似科学を利用した悪徳商法は多く、浄水器や空気清浄機・健康食品の一部製品では学術用語風の造語や根拠の無い数字の列記で効能を謳う物まであり、これら製品の販売がしばしば、不当表示や薬事法違反によって摘発される事件も発生している。 これら悪徳商法では、「○○大学教授」や「○○博士」といった、学歴や学位を持つ知識人が太鼓判を押した(若しくは考案者本人である)などとする宣伝文句が多用される[16]。しかし、ある程度の科学リテラシーや一方的な情報に流されない視点さえ持っていれば、その宣伝文句やデータなどに惑わされることはないとも考えられるが、多くの消費者にそれを期待することが難しくなっている風潮もあるといえよう(→バイブル商法)。 だが科学が歴史的に大学を揺り籠とし、大衆から離れて発展してきたことや、学術用語などの難しさもあいまって、「科学とは専門家のための学問である」という認識を大衆に与え続けている。このことから、科学の権威によりその様相のみに惑わされ思考停止してしまう大衆の性質もさることながら、科学・技術の適切な社会的認知をもたらせていない知識人のあり方に結果として問題があると思われる。また、学問上の所産が知識人により非科学的に濫用されることもあり、例えばゲーム脳のような問題はこれにあたると考えられる。 また、政策を立案する政府機関で指導的立場にあるスタッフに、高等教育機関にて理科系の学問を専攻した者が少ないという現状が指摘されている。これはつまり、日本の政府機関は厚生労働省など一部の官庁を除いて科学リテラシー能力が低く、科学・技術的な視点を必要とする問題への適切な対応や合理的な政策立案に差障りが生じているという見方である[17]。政策立案スタッフが必ずしも理科系の学問を専攻する必要はないかもしれない。しかし、政策科学的な視点からも、また国家を取り巻く諸争点や利害を考慮しても、専攻の差異に関係なく一定の科学リテラシー能力を養う必要があると考えられる。理科離れは、特に大衆化した大学での一般教育やアカデミズム復権を取り巻く問題や、学際的な視点、ひいては知と知識人の社会的なあり方を巡る問題とも関わっていくだろう。 ^ 但し、こうした暗記偏重・知識偏重の傾向はゆとり教育推進以前からあり、それを是正するためにむしろゆとり教育が推進された経緯も否定できない ^ しかし仮にこれが正しかったとしても観察能力が低下したという事であり、離れの引き金である好き嫌いという感情とは別であるという見方もある ^ 但し、その一方でパソコンの普及などでソフトウェアを自作する環境が出来、現在の電気製品の多くが往々にしてソフトウェアによって性能を実現していることを考慮すると、この指摘が必ずしも当たらないという見方もある ^ 他にも人間に感染する病原菌をもつにも関わらず愛玩する(ミシシッピーアカミミガメなど)などの傾向が挙げられよう(益虫・害虫参照) ^ 現在に続いたハンセン病や水俣病患者に対する激しい差別は、これらが要因のひとつとなった。加えて少なからざる科学者にもそういう姿勢が見られたことが、却って科学に対する不信を齎したとも言える ^ 「日経サイエンス」はアメリカの"SCIENTIFIC AMERICAN"誌の日本版だが、英語版本誌及び大半の他国語版がどちらかというとホワイトカラー層にターゲットを置いているにせよ、安価で大量に発行されている大衆雑誌の扱いとなっている ^ 逆に科学者や技術者が人格的に賞賛すべき人物であると、極端に持ち上げることもある。これも逆の意味で、彼らに対するメディアの扱いに疑問を持つ必要がある(田中耕一を参照) ^ 理系の生涯賃金の平均が文系より5000万円近く低いとする調査もある(大谷・松繁・梅崎「卒業生の所得とキャリアに関する学部間比較」)が、これについても製造業などの第二次産業とサービス業・金融業などの第三次産業の間の収入間格差の反映に過ぎないと言う見解もある。理工系学部を卒業しても製造業には就職せず金融業やサービス業に就職するケースも少なからず存在し、その場合に冷遇されているとは言い切れない ^ 但し、医師の収入については開業医か勤務医かによって収入差が大きかったりするなど、必ずしも理工系に比べて恵まれているとも言い切れない ^ 理科系の大学院修了者は、社会科学を専攻した学部卒キャリア官僚の補佐的立場と認識されているという見方もあるが、両者のキャリア実現の相違や学問におけるエートスの違い、日本が行政国家として発展してきた背景、企業の利潤追求目標との齟齬、もしくは卒業生数の差などで結果的にそうなっているという反論もある ^ 例えば、飛び入学が理科に優れた生徒の選抜を目的とすることから始まったことから、両者が混同される一因ともなっている ^ そのため、理科離れはそういった圧力団体と癒着した官僚機構や政府もしくはメディア企業によって、消費者が科学的思考を行い印象を排して実利のみで商品を選ばないように、積極的に理知的な人間の排除を意図的に進められているのではないかという陰謀論も一部に存在する ^ 明治・大正時代の医薬品広告などにも「○○博士推薦」と謳った宣伝文が既に存在している。また、医学は他の分野と比較して博士号の取得が容易で、医師であることとは違った位置づけでありながらも医学博士であるということが権威付けのために利用されることがある ^ ただ、理科系の学問を専攻した技官でさえも、その実科学的な知識と属する官僚組織や関連する業界の利益などを勘案して、全体としての利益を尊重するという現実もある(天下りの問題も関わってくると更に様相は複雑になる)。環境問題や捕鯨問題などでも政治的な利益を尊重しているのが実情である。 カテゴリ: 中立的観点に議論ある項目 | 出典を必要とする記事 | 教育問題 | 科学 | 技術問題 |
[ 94] 理科離れ - Wikipedia
[引用サイト] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E7%A7%91%E9%9B%A2%E3%82%8C
