同年とは?
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外務省案内 | 渡航関連情報 | 各国・地域情勢 | 外交政策 | ODA | 会談・訪問 | 報道・広報 | キッズ外務省 | 資料・公開情報 | 各種手続き KEDOの主な設立目的は、北朝鮮が独自に建設した既存の黒鉛減速炉(核兵器の原料となるプルトニウムの生産が容易)の活動を凍結し、最終的には解体することを条件に、軽水炉(核兵器の原料であるプルトニウムの生産が比較的困難で、また国際的監視に服させやすい)2基を建設し提供すると共に、軽水炉第1基目の完成までの代替エネルギーとして、年間50万トンの重油を供給することにありました。 2002年10月、北朝鮮がウラン濃縮計画を認めたことを契機として核兵器開発疑惑が再び深刻化したため、KEDOは、2002年12月に重油供給を停止、さらに2003年12月より、軽水炉プロジェクトを「停止」し、北朝鮮の対応改善を待ちましたが、その後、2005年2月には、北朝鮮は核兵器保有宣言を行うなど、軽水炉プロジェクトを推進する基礎が完全に喪失されたと判断されるに至ったため、2006年5月、KEDOは軽水炉プロジェクトの「終了」を正式に決定しました。 北朝鮮は、1993年3月、核兵器不拡散条約(NPT)からの脱退を表明し、IAEA保障措置協定の遵守を拒否しました。同年6月の米朝協議の結果、北朝鮮はNPT脱退の発効を中断しましたが、北朝鮮による保障措置協定違反はその後も続き、翌1994年5月、黒鉛原則炉からの核燃料棒抜き取りに着手するに及んで、同年6月、IAEAは北朝鮮に対する協力を停止(医療分野を除く)する決定を行いました。これに反発した北朝鮮がIAEAからの脱退を表明し、国連安保理が対北朝鮮制裁決議について非公式の協議を行うなど、危機感が一気に強まりました。 この危機を打開するため、同月カーター元米大統領が訪朝し、金日成主席(当時)との会談等を経て、1994年10月、米朝間で「合意された枠組み」が署名されました。これにより、(a)北朝鮮が、NPT締約国にとどまる他、IAEA保障措置協定上の義務履行を通じた核開発の検証、既存及び開発中の核施設の凍結・解体等を行うこととなり、その代わりとして、(b)米国は、「国際コンソーシアム」を通じて、出力合計約2000メガワットの軽水炉(出力約1000メガワットの軽水炉2基)を北朝鮮へ供与するとともに、第1基目の軽水炉完成までの間、黒鉛減速炉の凍結に伴い失われるエネルギーの代替として、年間50万トンの重油を供与することとなりました。 この「合意された枠組み」を受けて、1995年3月、日米韓3か国はKEDO設立協定に署名し、北朝鮮における軽水炉プロジェクトの資金手当て及びその供与並びに暫定的な代替エネルギーの供与等を目的としたKEDOが「国際コンソーシアム」として正式に発足しました。 1995年12月、KEDOと北朝鮮との間で軽水炉プロジェクトに関する供給協定が締結され、KEDOが北朝鮮に対し出力1000メガワットの軽水炉2基を提供すること、軽水炉完成後北朝鮮は3年の据え置き期間を含む20年間で無利子返済することが合意されました。 この供給協定の締結を受けて、1997年8月、北朝鮮咸鏡南道(ハムギョンナムド)琴湖(クムホ)地区の軽水炉建設用地において、土地の造成を中心とする準備工事の着工式が行われ、軽水炉建設に向けての工事が開始されました。2001年9月には、北朝鮮から建設許可が発給され、サイトの掘削工事が始まり、翌2002年8月には軽水炉建屋基礎部分へのコンクリート初注入式典が開催されました。 しかしながら、2002年10月、北朝鮮は、訪朝したケリー米大統領特使に対して、ウラン濃縮計画の存在を認める発言を行いました(その後一転して否定)。これを受け、同年11月に開催されたKEDO理事会は、それまで実施されてきた毎年50万トンの重油の供給を同年12月より停止すること、また、将来の重油の供給は、北朝鮮がウラン濃縮計画を完全に撤廃するための具体的かつ信頼できる行動をとることにかかっていることを決定しました。 これに対し北朝鮮は、2002年12月、核関連施設の凍結解除及び同施設の稼働と建設の即時再開を発表し、続いて、黒鉛減速炉、燃料加工工場及び再処理施設の封印撤去、IAEA査察官の国外退去等の措置を一方的に取りました。更に翌2003年1月10日には、NPT脱退を表明しました。 こうした一連の北朝鮮の言動に対し、IAEAは数次に亘り理事会決議を採択し、北朝鮮に対して、速やかにかつ検証可能な形で、いかなる核兵器計画も放棄するよう求め、国連安保理も本件を取り上げました。しかしながら、北朝鮮は、更に2003年10月、「8000本余りの使用済み核燃料棒の再処理を成功裡に終了した」と公式に表明するなど、改善が見られなかったため、同年11月のKEDO理事会において、軽水炉の建設を同年12月1日より「停止」することを決定しました。 その後も、北朝鮮は、2005年2月には核兵器保有宣言を行うなど、核問題をめぐる言動をエスカレートさせ、軽水炉プロジェクトを推進する基礎が完全に失われたと判断されるに至ったことから、同年11月のKEDO理事会において、軽水炉プロジェクトを終了すべしとの基本方針が共有されました。 その後、KEDO理事会メンバー(日、米、韓、EU)間で、法的・財政的問題等につき協議を行った結果、2006年5月のKEDO理事会において、軽水炉プロジェクトの「終了」を正式に決定しました。 KEDOが軽水炉プロジェクトの「終了」を決定したのは、北朝鮮がKEDOと北朝鮮との間で結ばれた供給協定に定められた措置(注)を履行しなかったためです。したがって、KEDOは、供給協定に基づき、KEDOが被った金銭的損失について、北朝鮮に対して支払を要求していきます。 NPTの締約国の地位にとどまり、「合意された枠組み」に定められたとおりに、同条約に基づく保障措置協定の履行を認める。 |
[ 100] 外務省: 朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)
[引用サイト] http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku/kedo/
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1949(昭和24)年の夏は、米占領軍と日本の保守勢力(第3次吉田内閣)によって、100万人を超える労働者の首切り(失業者170万人以上)が計画されていた(行政機構刷新及人員整理の関する件)。これにたいする労働者のたたかいで、国鉄労働組合はその中心的な勢力の一つを構成していた。また同年1月23日に実施された総選挙で日本共産党は、4議席から一挙に35議席へ躍進した(大都市ではほとんどの候補者が第1位となった)が、共産党は当時労働組合に大きな影響力を有していた。 その直前の1月1日には中国共産党軍が北平(北京)に入場し、中国制覇が目前に迫っていた⇒10月1日、毛沢東主席、北京天安門広場で中華人民共和国成立を宣言⇒10月7日、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立。 1949(昭和24)年7月6日初代国鉄総裁下山定則(さだのり)氏(47歳)が常磐線綾瀬駅(東京・足立区)付近で轢死体となって発見された怪事件。総裁は5日朝、三越本店(東京・日本橋)にはいったまま行方不明になっていた。 5日は国鉄当局がGHQ(連合国最高司令官総司令部)の命令で人員整理(9万5000人の首きり)案をだす予定であったことから 、政府は「他殺と推定される」といい、暗にストライキとをかまえている労組や労組に強い影響力を持っていた共産党を牽制するとともに、これらの組織が関与しているよう匂わせる。 殖田俊吉法務総裁は、この事件に関して「共産党がこの種の暴力事件を行うとは信じない。しかし万一このようなことがあれば、国民はこれに対抗するであろう」との談話を発表。 死体を検分した(執刀は桑島講師)古畑種基東大教授は、「死後礫断」説(「死体に生活反応が見られず、死後轢断である。但し、睾丸、局所、手にごくわずかな生前の出血を」みる=他殺説)をとり、これに対し、中館久平慶大教授らは「生体礫断」(自殺説)を主張(中館教授は死体を見ていないし、その意見も医学雑誌に発表したもので、「睾丸と局所の出血は生前なくても飛び込み轢断の死体によく見られる」というのが主な論点)、法医学論争がマスコミをにぎわせる。 警視庁下山総裁事件特別捜査本部(異例の刑事140人を投入、捜査1課だけでなく、捜査2課も参加、さらに東京地検も4名の検事が担当)は、断定を避けながらも自殺説をとり、同年12月31日、捜査本部(捜査1課は自殺説、捜査2課と地検は他殺説であったといわれている)は解散、64(昭和39)年7月には自殺が他殺が不明のままに時効が完成した。 下山総裁は、7月5日午前8時20分ごろ、上池上の自宅を国鉄の総裁用乗用車黒塗ビュイッグ41年型で出勤した。いつもの通り大西運転手が運転したが、大西供述によると、行動は、銀座・白木屋前電車通り⇒三越本店前電車通リ⇒神田駅西口通路前⇒丸の内・千代田銀行本店(現・東京三菱銀行)下車、20分間行内へ⇒日本橋・三越本店南口到着(午前9時37分)となっている。下山総裁は大西運転手にはじめ、「買物がしたいから三越にいってくれ」といったのだが、途中で「白木屋でもよいから真直ぐに行ってくれ」といい、白木屋も三越本店も9時半の開店で時間が早くまだ閉っていたので、上の行動となり、最後に開店間もない三越に入ったまま姿を消したのである。なお、千代田銀行に入ったのは、総裁の貸金庫があり、それに用事があったからだが、銀行員は立会っていないので、総裁が金庫から何を出したのか、あるいは何をいれたのかは不明である。 自殺説は、失踪前に総裁が神経衰弱ぎみであったこと、姿を消してからのち、下山らしい人物を目撃したという数人の目撃者の供述を根拠にしている。下山に似た1人の男がその日、現場付近をうろついていたことは、根拠のないことではなかった(実に17人の目撃証言がある。しかし物証はなにひとつない)が、それが本人であったか、ダミーであったかについて論争がある。 「5日午後2時ごろ上品な男が玄関にきて『6時ごろまで休ませてくれ』というので主人にきいて2階4畳半に案内して窓を開けると、窓に腰かけて『涼しいですね。水を一杯下さい」と言い、この時靴下を見ながら下に隆りて茶をもって上り宿帖に記入を申出ると『それは勘弁してくれ』と言うので、そのまま一番良い布団を持って上って下に降りた。それで5時20分分ごろに手が鳴るので私が行くと支度をして階下8畳の間に来て立っていて、黒革財布から200円とチップ100円を出して(何れも古い100円札)渡し、玄関で靴の紐を結ぶようにかがんでから午後5時30分ごろ立去った。 その男の人相着衣は丈5尺7寸位、色白面長ふくらみのある顔で眉毛の間が普通の人より空いていてロイド眼鏡をがけ髪を7、3に分けており上品な優しい顔でした。それで無帽で鼠色背広、白ワィシャッ、ネクタイをしてチョコレート色ヒダの在る進駐軍様の靴、紺木綿の靴下、黒革財布、眼鏡、荷物はなくて単独で、酷似するので7日に西新井署に届出る」 他殺説をとる作家松本清張は『日本の黒い霧』で、「日本の『行き過ぎの進歩勢力』を後退させるための米占領軍による謀殺を主張している。 また、事件を長年にわたって調査した『朝日新聞」記者矢田喜美雄(当時)は、死体を運んだ時に線路上に点々と落ちたと推定される血液の跡をルミノール反応によって確認したが、当然それは死後礫断と鑑定した東大の解割結果とも合致するものであった。そして矢田は、70(昭和45)年になって、謝礼金をもらい死体を車のトランクから3人でレール上を運んだという男をつきとめた。矢田はその著書(『謀殺下山事件』)で、CIC(米・敵諜報部隊)が日本人を使って工作した謀略である」と断定している。 当時の社長石坂泰三氏は、下山事件の10年後に、「整理断行をさらに勇気づけてくれたのが、ほかならぬ下山事件だった。あの事件に接して、これは組合にとって大きなマイナスだ、これならうちの整理も断行できると感じて多いに勇気を起こした。東芝再建は下山氏の死に追う所が大きい。ぼくは今でも同氏の犠牲は混乱したいろいろの争議に役だったと思っている。同氏の死は犬死ではないと思った」と語っている(1959年10月11日付『朝日新聞』)。 1949年に入り新聞各紙は、列車妨害事件をしきりに報道していた。49年7月7日付「朝日新聞』は1日から6日正牛までの6日間に東京鉄道局管内で発見された列車妨害事件は、小石などの練路妨害28、投石27、発砲(空気銃)3、器具盗難2、その他14、合計73件にのぼると報している。 49年7月15日午後9時24分、国鉄中央線三鷹駅構内で無人電車が突如車庫から走り出し、駅改札口と階段をぶち抜いて駅前の交番を全壊させて民家へ突入、6人の市民が死亡、重軽揚者は20余人にのぼった⇒三鷹事件犠牲者の碑 新聞は、「国鉄八王子管理部では、整理に反対して辞令返上闘争をつづけている三鷹電車区労組員の一部策動分子が故意に起こした事件ではないかと見て中川公安係長以下15名の鉄道公安官を急派し調査中」と報じた。 事件の翌日、吉田首相は、「定員法によるかく首がもたらした社会不安は、主として共産主義者の煽動による」との声明を発表した。 事件の翌々日から国鉄労組内の共産党員20人近くが次々と逮捕され、三鷹事件は共産党の破壊活動であると宣伝された。 吉田首相は長文の声明を出し、共産党は、虚偽とテロを戦法に社会不安をあおるとし、「人員整理は国家再建のために必要だ」と強調した。 7月18日、国鉄当局は国鉄労組中央闘争委員14人と中央委員45人の免職を発令、これによって共産党は労組内の主導権を失い、国鉄労紺は分裂状態に追い込まれ、7月21日、総数9万4人の国鉄大量人員整理は完了した。 三鷹事件は9人の共産党員と党員でない竹内景助の10人が共謀、犯行におよんだとして起訴されたが、裁判の過程で、架空の自白を誘導・強要した検察の取り調べが明らかとなり、共産党員9人のアリバイも明確となった。 GHQの命令によって最高裁判所が介入しようとしたが、東京地裁鈴木忠五裁判長は司法の独立を守るとしてこれを拒否するという一幕もあった。 50(昭和25)年8月の第一審判決は、「被告人らの共謀による犯行であるとする公訴事実は、いわば全く実体のない空中楼閣であった」とし、犯行は竹内1人によるものだと判断、竹内に無期懲役、9人に無罪の判決を下した。 51(昭和26)年3月東京高裁の第2審は1回の事実審理もないままに無実を主張する竹内に死刑を宣言した。 55(昭和30)年、最高裁は8対7で死刑を確定した。竹内被告は無実を主張、再審を請求したが認められないまま獄死した。 三鷹事件を契機とする国鉄労組の分裂によって日本の労組分裂の波は、大量首きりと闘う東芝労連にも押しよせた。 49年8月8日、福鳥県の東芝松川工場に対する人員整理のワクが発表され、労組は17目夜明けから24時間ストを予定していた。 この日、8月17日午前3時9分、東北本練の青森発上野行き旅客列車が、福島県金谷川駅から松川駅へ向かう半径500メートルのS字カーブにさしかがった地点で機関車と客車3両とが脱線転覆、機関士1人と助士2人が死亡したほか、630人の乗客のうち4人負傷、車掌1人、荷扱手2人、郵便係員2人が負傷した。 レールの継目板がはずされ、枕木の犬釘が大量に抜かれており、複数の人間による明らかに計画的な犯行であった。 翌18日、官房長官増田甲子七は、「今回の事件は今までにない凶悪犯罪である。三鷹事件をはじめ、その他の各種事件と思想的底流において同じである」との談話を発表した。これは、まだ何の調査も行われていなかった段階で、現場から260キロ離れた東京における発言だった。 9月10日になって、19歳の少年赤間勝美が別件の傷害容疑で逮捕され、その自白から、国鉄労組員10人と東芝松川工場労組員10人が次々と逮捕された。 赤間被告を含め全員が無実を主張したが、50(昭和25)年12月、福島地裁の第一審判決は、「本事件は、昭和24年7月、共同闘争を行うことになった国鉄労組福島支部、及び東芝松川労組の組合員である被告らの共同謀議によるもので、その謀議は同年8月13日に国労福島支部事務所で成立し、同月15日には具体的手順を、翌16日には脱線させる列車を決定した」ものであり、「さらに事件当日の午前2時頃に現地付近に集合し、列車を転覆させる作業を行った」として、5人に死刑、5人に無期懲役、残る10人は有期の懲役だった。 判決に疑問をもった作家広津和郎は、克明な調査をもとに雑誌『中央公論』54年4月号から「松川裁判批判」を連載したが、これに対し田中耕太郎最高裁長官は、「雑音に耳を傾けるな」と全国の裁判官に訓示を垂れた。 『真実は壁を透して』というパンフレット風の小冊子が送られてくると私はふと封を切ってぺ−ジをめくって見たのです。そして読むともなく眼をやっている中に、その文章にひきつけられ始めました。これは後に世間でわたしたちが甘いといわれた点なんですが、私はこれはうそでは書けない文章だと感じたわけなのです。そこに引き入れられて全部読み通してみると、どうもこの被告諸君は無実だ、としか考えられなくなって来ました。わたしは宇野浩二にその話をすると、宇野はすでに読んでいて、自分もあれはひどい事件だ、被告たちの訴えることが真実ではないかと思っているというのです。そこで会うたびに2人は松川事件について語り合いました(広津和郎--「歪曲と捏造による第二審の判決『事件のうちそと』)。 また、 「法廷記録および法廷に提出された証拠の一切を調べても、被告人諸君が松川事件の犯人であるということを証明しているものは一つもない。むしろ、被告人諸君がこの事件とは何の開係も無いということを証明しているものばかりである。よく人は、それならば誰が真犯人か、とわれわれに質問する。それに明確に答えることが出来れば、人を納得させるに都合がいいということをわれわれは知っているのであるが、しかし、残念ながら、今の段階では確実な返答をすることは出来ない。真犯人が誰であるか、ということを想像させる若干の資料が無いとは云えないが、しかし、それは想像させるに止って、キメ手であるとは云えない。 判決文は想像や臆測によって被告人諸君を真犯人と認定したことがいかに不当であるか、ということを検討しているのが私の文章である。その私自身が想像で真犯人を推測するなどということは、もとより避けなければならない」とも広津は云っている。 58年(昭和33)年になって、共同謀議が全く架空のものであることを立証する「諏訪メモ」があることを検察側が故意に隠していたことが明らかとなった。 59(昭和34)年8月、最高裁は原判決破棄、9月12日、仙台高裁への差ししを判決した。そして、やり直し裁判の結果、63(昭和38)年、被告全員の無罪が確定した。 平間高司と村上義雄の2人は、事件当夜土蔵破りを計画していたがうまくゆかず、家に帰る途中の午前2時30分ころ転覆現場から足早に立ち去った9人の大柄な男たちを目撃したことを、差し戻し審で証言した。黒っぽい服装の彼らは手ぶらで、足音も立てず「異様な雰囲気」だったという⇒映画・『にっぽん泥棒物語』 もう1人の目撃者である佐藤金作は、その夜、通りがかりにレールをはずす男たちを見た。修理か検査だろうと思って帰宅すると、その中の1人の日本人が跡をつけてきて「口外すればアメリカの裁判にかけられる」と脅した。 5日後、CIC福島事務所に出頭するよう見知らぬ男に告げられた。恐怖にかられた佐藤は、弟のいる横浜に逃げ、三輸車の運転手をして身を隠したが、2カ月後の1950(昭和25)年1月12日に行方不明になり、40日後水死休で発見された。知らせで弟が駆けつけたが,既に警察により遺体は火葬に付されていた。 警察は事故死として処理したが、 『日本の黒い霧』でこの3事件を追跡した社会派推理作家松本清張は、「大きな政策の転換は容易ではない。それにふさわしい雰囲気をつくらねばならない。そのための工作が一連の不思議な事件となって現われたのだと思う」と記している。 3事件とも真実(真犯人)は、今もって明らかではないが、共産党員や労組員が全く関係ないのに犯人にデッチ上げられたことだけは確かである。 この謀略により共産党は国民の支持を失い、労働運動は力を奪われた。その結果、49(昭和24)年6月から1年間で約100万人の労働者が職場を追われ、権力の大量首きりは成功することになり、レッドパージへの道が開かれた。 この判決が被告の無罪を証明しても、遂に事件の真相を追究し得なかったことや、今後の「真犯人」の追求の問題、また12年もの間被告の青春を奪い取った責任問題など幾多の課題が残されているが、私がそれについていいたいのは…、被告たちを一歩間違えば絞首刑台にでも送りかねなかった捜査当局、とくに玉川警視、武田巡査部長の取調べ方である。と同時に、彼らが一、二審および差戻し審で述べた偽証行為である。これにつづいては、捜査当局の意に迎合して真実の証言を曲げた証人や参考人の供述である。 この際これらを徹底的に追究すべきである。それを追求することが、今後の「裁判」を明るくする最も早い近道ではなかろうか。 それにしても、この判決に至るまでの広津和郎氏の8年間の努力は、どのように評価しても、しすぎるこいはない。氏の努力がなかったら、これほどの世論は起きなっかた。たとえ別の運動があっても、世問はそれを政治なものと解して関心を示さなかったと思う。広津氏の情熱的な正義感が世間の膨大な眼を松川裁判に向けさせたのである。 公正裁判を求める作家の連署(広津和郎『松川事件と裁判−検察官の論理』 岩波書店【1964年8月】)より引用 1948(昭和23)年4月27日午前0時4分、奥羽線赤岩・庭坂両駅中間を、青森発上野行402号列車が運行中、機関車と郵便車が脱線、高さ10メートルの土堤下へ転落、つづく荷物車と客車1台も脱線して、機関車、助手の2名が即死、技工は重傷後死亡した事件。 現場検証によると、事件発生の地点は、下り傾斜で半径300メートルのカープとなっており、脱線地点付近の犬釘と非常縮ざ目板が抜き取られていた。 予讃線事件は、松川事件の起きるほぼ3力月前の1949年(昭和24)5月9日午前4時23分ごろに起きた。四国の予讃線高松桟橋駅を出た宇和島行下り旅客列車が、浅海駅付近の愛娘県難波村大浦部落の切通しカーブに差しかかったところ、列車が転覆。機関助士1人が即死、機関士と乗客3名が負傷した事件。 現場検証によると、継ぎ目板3枚、ポルト8本、犬釘7本が抜き取られていたし、証拠品として押取されたバール、スパナにローマ宇の刻印があり、国鉄で使っていたものではないことなどが判った。 GHQの指令によって、共産党員およびその同調者を、公職や民間企業から罷免・解雇した政策をレッド・パージという。 実質的なレッド・パージは1949(昭和24)年に、全日本進駐軍要員労働組合横須賀分会での忠誠審査事件や、1,000人以上の教員パージではじまり、同年の官公庁の行政整理では、共産主義者を解雇対象の第1位にすることが秘密裏に指令された。 50年に入ると、軍国主義者・超国家主義者を対象とした46年公布の公職追放令が、共産覚員とその同調者に対象を転換し、共産党幹部24名追放、『アカハタ』幹部17名追放が指令された。 これに続いてマスコミでもパージがはじまり、民間企業や宮公庁、大学に広がって、最終的には1万2,000人余りが職場を首になった。 こうしたレッド・パージの背景にはアメリカの冷戦・反共思考の高まりや、朝鮮戦争の勃発、さらに共産党や在日朝鮮人運動の活発化などがあった。これに対して、3事件で急速に力を失った共産党に変わり、主導権を握った民同派が率いる労働組合は形式的には反対したが、対応は及び腰だった。 |
[ 101] 世にも不思議な3大(謀略)事件
[引用サイト] http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/3daijiken.htm
