中嶋とは?

この項目ではプロ野球選手の中嶋聡について記述しています。コンピューター技術者の中島聡については中島聡をご覧ください。
中嶋 聡(なかじま さとし、1969年3月27日 - )は、北海道日本ハムファイターズ所属のプロ野球選手。ポジションは捕手。背番号は32。愛称は「サメ」。秋田県北秋田市出身。
2008年開幕時点で、阪急ブレーブス(現・オリックス・バファローズ)に在籍したことのある現役選手は千葉ロッテマリーンズの高木晃次と中嶋の2人だけである。
秋田県立鷹巣農林高校から1986年のドラフト会議で阪急ブレーブスに3位指名され入団。数年間二軍生活が続いたが、1989年に球団名がオリックス・ブレーブスに変わってからは正捕手だった藤田浩雅の不調により正捕手を獲得。藤田はその後高田誠との交換トレードで読売ジャイアンツ(巨人)に移籍した。球界随一の強肩もさることながら優れた打撃センスも持ち合わせていたため、一時は「メジャーリーグに一番近い捕手」とまで言われた。オリックス時代には4番を務めたこともある。
しかし、90年代中盤あたりから徐々に打撃が低迷し、藤田とのトレードで巨人から移籍してきた高田誠や三輪隆との併用となった。
1997年オフにフリーエージェント宣言をして西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)に移籍。正捕手の座に挑戦したが、長年西武一筋で信頼感のある伊東勤(後の西武監督)に勝つことは出来なかった。その後、1999年に入団した松坂大輔専用の捕手として起用されることが増えたが、打撃の低迷に加えて西武が若手捕手育成の方針を取ったため、2002年には出場機会が激減して大半を二軍で過ごした。同年オフに石井義人、細見和史との交換トレードで富岡久貴と共に横浜ベイスターズへ移籍。2003年の開幕戦では先発マスクを被ったが、故障もあり結果を残せぬままオフに金銭トレードで日本ハムに移籍した。
2005年は当初3番手の控え捕手のはずだったが、正捕手高橋信二の度重なる故障、實松一成(現・巨人)の不調もあり捕手でチーム最多の出場機会を得た。
2006年は先発出場は僅か2試合と激減したが、ストッパー・マイケル中村との相性の良さから、試合後半を任される「抑え捕手」の地位を獲得。捕手としてはチーム最多の79試合に出場し、チームのリーグ優勝と日本一に貢献した。2007年からは一軍バッテリーコーチを兼任、開幕直後に一軍登録を抹消されるも、調子の上がらないマイケルをサポートするため再度昇格し、そのまま最後まで一軍で抑え捕手として活躍。この2年はマイケルの専属捕手といった状態である。
2006年10月22日の中日ドラゴンズとの日本シリーズ第2戦(ナゴヤドーム)の9回表に右前安打して達成。過去、オリックス、西武時代にも日本シリーズに出場、安打を打っており、所属した3球団で出場、安打を記録。3球団での出場は史上7人目だが、3球団での安打は史上初。
1988年10月23日、阪急ブレーブスとしての西宮球場最終戦にてダメ押しとなる3ラン本塁打を放ち、山田久志の引退試合に花を添えた(この本塁打が阪急球団最後の本塁打となった)。
1990年9月20日の対日本ハム戦(東京ドーム)で、投手の星野伸之が打者・田中幸雄に投じた球を素手(右手)で直接捕球した。星野は、90km/hを下回るスローカーブが持ち球であり、星野のスローカーブの球速の遅さを示すエピソードである。さらにこれをそのまま140km/h近い「剛速球」で投げ返したこともあって両軍ベンチで大爆笑が起こり、ベンチに戻った星野は中嶋に激怒している。この「素手キャッチ」は星野が投球練習をする時にもしばしば見られたことである。
古田敦也(元ヤクルト選手兼任監督)が1989年のドラフト候補になった際、レギュラー獲りへの不安からか「中嶋さんのいるオリックスだけは遠慮したい」と言った程、アマ球界でも強肩は知れ渡っていた。オリックス時代には「(球速の遅さで有名な)星野が中嶋に投げる球より、中嶋が星野に返球する球の方が速い」と言われた事がある。
1990年10月6日のロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)戦では、併殺を狙ってインフィールドフライをわざと落球したが、逆にロッテに点を与えてしまった[1]。同様のミスは達川光男ものちに犯している。
2000年に和田一浩(現・中日)と背番号を交換[2]したが、中嶋によると背番号5は、「捕手の番号でない様な気がするから」という理由から、当時は捕手登録ながら、既に外野手としての出場が多かった和田に持ちかけたものだという(『ベースボールマガジン』より)。
2000年5月20日の古巣オリックスとの対戦は長野オリンピックスタジアムで初めて行われたプロ野球公式戦であったが、2回裏に先発のテリー・ブロスから左翼に本塁打を放ち、同スタジアムの公式戦第1号本塁打となった。
プロ野球選手としては比較的遅い30代後半まで独身を貫いていたが、横浜ベイスターズ在籍時に同球団のキャンペーンガールをしていたモデルの制野愛(現在は中嶋愛)と日本ハム移籍後の2004年9月に入籍している。
普段は近視のためコンタクトレンズを着用しているが、2005年シーズンの一時期眼鏡を掛けてプレーしていた。
2006年6月19日のセ・パ交流戦・阪神戦の試合前に行われたスピードガンコンテストで、球速146km/hを記録。中嶋より遥かに若い阪神・日本ハムの選手達を抑え優勝し、強肩健在ぶりを大いにアピールした。1995年のオールスターゲームでも146km/hを記録している。
2007年9月24日、福岡ソフトバンクホークス戦(札幌ドーム)の4-4で迎えた9回表二死、一打負け越しのピンチの場面で日本ハムはストッパー・マイケル中村を起用した。しかし9回裏には打力のある捕手・高橋信二に打順が回るため、高橋はそのままにして中嶋が一球毎にベンチから高橋にサインを送った。結果はマイケルが打者一人を討ち取ってこのピンチを凌ぎ、予定通り高橋は次打席終了をもって中嶋と交代した。
78福良淳一(ヘッド)|74厚沢和幸(投手)|81吉井理人(投手)|77中島輝士(打撃)|82平野謙(打撃)|89真喜志康永(内野守備)|87清水雅治(外野守備走塁)
72水上善雄(監督兼内野守備)|80野村収(投手)|73島崎毅(投手)|71山中潔(バッテリー)|76大村巌(打撃)|83荒井幸雄(打撃)|75川名慎一(外野守備走塁)
11ダルビッシュ有|12歌藤達夫|13須永英輝|14ライアン・グリン|16多田野数人|17宮本賢|18藤井秀悟|19中村泰広|20糸数敬作|21武田久|22建山義紀|25宮西尚生|27江尻慎太郎|28金澤健人|29八木智哉|30坂元弥太郎|34吉川光夫|35木下達生|36マイケル中村|38武田勝|42ブライアン・スウィーニー|43星野八千穂|44山本一徳|46植村祐介|47菊地和正|48津田大樹|49内山雄介|57松山傑|59金森敬之|60伊藤剛|66ダース・ローマシュ匡|67豊島明好|68浅沼寿紀
2高橋信二|32中嶋聡(バッテリーコーチ兼任)|37小山桂司|56駒居鉄平|62今成亮太|63渡部龍一|64鶴岡慎也
3田中賢介|4飯山裕志|5稲田直人|6中田翔|8金子誠|9小田智之|15ミッチ・ジョーンズ|23尾崎匡哉|24陽仲壽|31小谷野栄一|33三木肇|45今浪隆博|50市川卓|58高口隆行
1森本稀哲|7坪井智哉|10ターメル・スレッジ|26糸井嘉男|40金子洋平|41稲葉篤紀|51村田和哉|52紺田敏正|53工藤隆人|54大平成一|55佐藤吉宏|65鵜久森淳志
カテゴリ: 日本の野球選手 | オリックス・ブルーウェーブ及びその前身球団の選手 | 埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手 | 横浜ベイスターズ及びその前身球団の選手 | 北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手 | 秋田県出身のスポーツ選手 | 1969年生

[ 25] 中嶋聡 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B6%8B%E8%81%A1

中島悟はこの項目中嶋悟へ転送されています。テレビドラマの演出家については中島悟 (演出家)をご覧ください。
中嶋 悟(なかじま さとる、 1953年2月23日 - )は、元レーシングドライバーで、有限会社中嶋企画代表取締役社長。愛知県岡崎市出身。
日本人初のF1フルタイムドライバー。現在は株式会社日本レースプロモーション(JRP)取締役会長も勤める。
名城大学附属高等学校卒業後、実兄経営のガソリンスタンドで働きながら本格的なレース活動を開始する。1973年の鈴鹿シルバーカップ第1戦でレースデビュー(決勝3位)。1975年にはFL500に参戦してシリーズチャンピオンを獲得。
1977年には当時「最強チーム」との呼び声の高かったヒーローズレーシングより鈴鹿F2/全日本F2000選手権とFJ1300に参戦、特にFJ1300ではシリーズ全7戦でポールポジション、全周回トップという圧倒的な強さでシリーズチャンピオンを獲得する。1978年には全日本F2に参戦しつつ、イギリスF3選手権にスポット参戦する。
1979年には生沢徹が結成したi&iレーシングに移籍し、富士GCシリーズでチャンピオンを獲得。1981年、1982年には全日本F2選手権でシリーズチャンピオンを獲得。1982年にはヨーロッパF2選手権にも参戦し、緒戦で2位表彰台を獲得するが、その後は資金不足に悩まされ成績は低迷した。そのため生沢徹と確執が生まれ1983年にi&iレーシングから離脱。自らの会社中嶋企画を設立するため、破格の契約金を提示したハラダレーシングに移籍をするが、チーム体制が整っておらず同年はチャンピオンを逃した。
1984年にヒーローズレーシングに復帰。そのときに車体はヒーローズが提供し、資金は中嶋企画がまかなうという当時としては例のない契約をした。1986年まで全日本F2選手権で3連覇を達成する(1981年、1982年、1984年については鈴鹿F2とのダブルタイトル)など、当時日本国内のトップカテゴリーには敵がいない状態であった。またレーシングドライバーを職業として定着させたパイオニアである。
独立して以降、ホンダ・EPSON・PIAAといった企業が中嶋を支援。何れの企業とも良好な関係が現在も続いている。
その一方で、1984年からはその開発能力の高さを認められてホンダのF1テストドライバーを務めるようになり、ウィリアムズのマシンをドライブするようになった。後のF1デビュー後にこの際の経験が生かされることとなる上、息子のF1デビューにもこの時のウィリアムズとの関係が生きることとなる。
1985年と1986年にはトムス・トヨタに乗りル・マン24時間レースや世界耐久選手権(WEC)にも参戦。特に1986年の「WEC in Japan」(富士スピードウェイ)ではトムス86Cを駆り予選トップタイムをマークするが、Tカーでのタイムのため無効となり「幻のポールポジション」となったことは未だにレースファンの間で語り草となっている。
1986年にはホンダのサポートを受け、全日本F2選手権への参戦の合間を縫って国際F3000選手権にもフルシーズン参戦し、慣れないコースや時差に戸惑いながらも堅実な走りを見せ、最高位4位を含む数回の入賞を果たした。
F1参戦以降はホンダとの関係を密にしているためホンダとの結びつきのイメージが強い中嶋だが、国内時代は必ずしもホンダ一辺倒だったわけではない。デビューからF2参戦までの間は、マツダ系ディーラーの碧南マツダの支援を受け、ファミリアやサバンナRX-3などで多くのレースに参戦した。
また全日本F2でホンダワークスとして参戦するのと並行して、1980年のフォーミュラ・パシフィック(FP)やその後のル・マン24時間レース・WEC JAPANなどでは、トヨタ系のマシンも数多くドライブしている。
一方で日産との関係は薄く、1979年のFPで星野一義の代役として数戦に出場した程度である。一説にはこのFP参戦時に、長谷見昌弘とチームオーダーの件で対立したことが中嶋から日産を遠ざけた一因といわれている。しかし、中嶋本人は『ホリデーオート』誌上で、日産・フェアレディZを思い出に残る車にあげていた(最初の愛車がフェアレディZだった)。
34歳にして日本人初のフルタイムF1ドライバーとして、1987年の開幕戦(ブラジルGP)でロータス・ホンダよりデビューを果たした。1991年で引退するまでの5年間、ホンダと初年度のチームメイトであったアイルトン・セナと共にバブル景気に沸く日本にF1ブームを巻き起こした。
F1での成績は、出走回数80回(決勝出走回数74回)、予選最高位6位(2回/1988年メキシコGP・日本GP)、決勝最高位4位(2回/1987年イギリスGP・1989年オーストラリアGP)、ファステストラップ1回(1989年オーストラリアGP)、総獲得ポイント16点であった。
ホンダやエプソンをはじめとしたスポンサーのバックアップや高いマシンの開発能力が認められたこともあり、有力チームで参戦を続けることができた。年齢的なことやレース環境の違いもありトップクラスの選手とのレベルの差は大きく、しかも有力チームとはいえ、1987年を除いては優勝するポテンシャルを持っていたわけでもなかったためにF1で優勝を飾ることはできなかったが、先述のオーストラリアGPでのファステストラップを見せるなど、「あと数年F1デビューが早ければ」と惜しむ声も多い。しかしながら、日本人にF1への門戸を開いた功績は大きく、日本のモータースポーツ史に残るだけでなく、パイオニア的存在として記憶に残るF1ドライバーの一人である。
1984年からホンダエンジンを搭載したF1マシンのテストドライバーをつとめた後に、この年の開幕戦であるブラジルGPにロータス・ホンダよりF1デビューを果たし、7位で完走した。この年は慣れないコースの上、信頼性が低いアクティブサスペンションに苦しめられ予選で中段になる場面が多く見られた他、マシントラブルに苦しめられたものの、4位1回、5位1回、6位2回の合計7ポイントを獲得し、グレーデッド・ドライバーの仲間入りを果たした。
4位に入賞したイギリスGPでは、ホンダエンジン車が1位から4位を占めた一角を担った他、地元の日本GPでも、「中嶋返し」や「大外刈り」と呼ばれる鈴鹿サーキット1コーナーでのアウト側からの追い抜きを2回も決めて6位に入賞した。この年のチームメイトは、後のワールドチャンピオン、アイルトン・セナであった。 なお、期待していたほどの成果を挙げることができなかったため、この年限りでアクティブサスペンションの実戦使用を中止したロータスだったが、これまでアクティブサスペンション開発に注力してこともあり、パッシブサスペンションや空力、トランスミッション等の開発が遅れ、翌年以降の低迷期へと繋がっていくこととなる。
初年度と同じくロータス・ホンダをドライブすることになったが、チームメイトは前年度のワールドチャンピオンのネルソン・ピケに変わった。開幕戦のブラジルGPで6位に入賞したものの、マシンのバランスの悪さや度重なるマシントラブルにより、これ以降はレース中でピケを上回ることもあったものの、入賞することなくシーズンを終えた。この年はコースに慣れたこともあり、ターボエンジンが圧倒的な優位性を持つメキシコGPや日本GPにおける予選6位など度々予選トップ10に食い込む活躍を見せ(その反面、モナコGPやデトロイトGPでは予選落ちを喫している)、決勝でもトップ10内フィニッシュを繰り返した。
しかし、当時のロータスは中嶋はセカンドドライバーと明確に割り切っていたため、チームの中嶋とピケに対する待遇差は歴然としていた。なお、ベルギーGP序盤で6位走行のピケに対し、中嶋はピケより上位の5位を走っていたものの、ほどなくしてピケに抜かれるという場面があったが、この順位の入れ替えはチームオーダーによるものではなく、シフトミスの結果であったと中嶋は自らのミスを認めている。
日本GPでは、開幕前日に母を亡くすという最悪の精神状態であったものの、自身の予選最高位である6位(5位のピケと同タイムだが、先にタイムを出したピケが上位となる)を獲得するも、ポールポジションのセナとともにスタートでエンスト。大きく出遅れたが、その後の鬼神の追い上げで入賞まで後一歩の7位まで挽回してみせた(鈴鹿は下り坂スタートのためアクセルコントロールが難しく、F2時代にも何度もミスしたことがある)。
シーズン序盤に来季のロータスに対するホンダエンジンの供給停止が決定されていたため、この年限りでの中嶋のロータス離脱は決定的に見えた。しかしロータスは、ホンダとの強力なコネクションに加え、EPSONやPIAAといったスポンサーを持つ中嶋と1年間の契約延長を行った。契約延長が発表された最終戦のオーストラリアGPで中嶋は初めてTカーを与えられたが、ロータスが中嶋に対してTカーを与えたのはこのレースが最初で最後であった。
この年も引き続きロータスでドライブすることになったが、ホンダからのエンジン供給が止まったために、非力なカスタマー仕様のジャッド(ティックフォード・チューンの5バルブ仕様を投入する予定だったが、トラブルが頻発したため、実戦ではフランスGPで投入されただけに止まった)にエンジンが変わり、ワークスエンジンを持つトップ4チームに比べて明らかにマシンのポテンシャルは劣っていた。チームメイトのピケはシーズン中盤に連続入賞を果たすなど戦闘力に劣るマシンながら元ワールドチャンピオンの意地を見せ、中嶋もイギリスGP、ドイツGPやポルトガルGPなどで好走を見せたこともあったが、シーズン全般的に予選、決勝ともに中位以降に沈む事が多かった。ベルギーGPでは予選初日に上位に顔を覗かせたが、決局ピケと共に予選落ちを喫する結果となった。これは名門として長い歴史を誇るロータス史上初の屈辱であった。 なお、この年の中嶋は既にモナコGP、カナダGPでも予選落ちを経験しており、これがシーズン3度目の予選不通過であった。
しかし、豪雨となった最終戦オーストラリアGPでは、予選下位からのスタートだったもののレース序盤から次々順位を上げ、レース終盤にはウィリアムズ・ルノーをドライブする3位のリカルド・パトレーゼを追い回した。スリップストリームに入るとエンジンが(前のパトレーゼのマシンが巻き上げた)水煙を吸い込みミスファイアを起こしたため、結局パトレーゼを抜くまでには至らなかったが、日本人F1ドライバー初のファステストラップ(レース中の最速周回記録)を記録し、デビューイヤーのイギリスGP以来となる自己最高位の4位に入賞した(後述「雨のナカジマ」)。なお2004年に佐藤琢磨が同じく日本人初となるラップリーダーを記録するまでの間、日本人ドライバーとして唯一の「1位」の記録を持つドライバーであった。
前年のシーズン中より、アロウズ、ティレル、オニクスなど複数の中堅チームと移籍交渉を行い、最終的にはティレルに移籍することになった。非力なフォードエンジンを使用するため、前年に続き苦戦を強いられることが予想されたものの、開幕戦のアメリカGPで6位入賞を果たした他、日本GPでの6位入賞を含む3回の入賞を果たすなどまずまずの成績を残した。しかし、シーズン中盤に6連続リタイアを喫するなど、度重なるマシントラブルに見舞われたこともあり、シーズンを通して完走がわずか5回という完走率の低いシーズンとなった。
また、チームメイトのジャン・アレジも2位表彰台2回を含む3回の入賞を果たすなど、マシンのバランスのよさを生かした結果を出したが、中嶋同様に完走率の低いシーズンを送った。なお、この年の第3戦サンマリノGPでデビューしたティレル019は、初めて本格的なハイノーズを導入した画期的なマシンであったが、中嶋本人は前年型のティレル018のハンドリング特性をより好んでいたという(本人曰く「確かに018よりタイムは出るけんだけど、なんか乗りにくいんだよねぇ」)。
チームオーナーのケン・ティレルは、ロングランでのタイヤテストや決勝用タイヤの皮剥きのための走行等、地味ながらもチームに不可欠な作業を黙々とこなす点(アレジはこのような作業を非常に嫌った)を始め、開発能力や確かなセッティング能力などを理由に挙げ、中嶋に対して高い評価を与えていた。
昨年に続きティレルでの参戦となった。当時、高い戦闘力を持ち、かつ前年マクラーレンにダブル・タイトルをもたらしたホンダV10エンジンを搭載することが決まっていたため、前年以上の好成績を収めることが期待された。
しかしながら、フォードV8エンジンに比べ重くて大きいエンジンを積んだことからマシンバランスが悪化し、パワーの飛躍的な増加から駆動系トラブルも頻発した。それでもサンマリノGPではリタイヤするまで4位を走行するなど、シーズン序盤こそ期待を抱かせる走りも見せたが、シーズンが進むにつれてティレル020の相対的な戦闘力は低下し、決局シーズンが終ってみれば入賞は開幕戦のアメリカGPの5位(ちなみに4位はチームメイトのモデナ、6位はラルースの鈴木亜久里)のみという結果に終わった。 この年のティレル失速の原因として、ホンダV10エンジンによるマシンバランス悪化という根本原因の他、ピレリタイヤの開発主導権をV8エンジン搭載のベネトンに握られてしまい、V10エンジンのパワーにマッチしたタイヤを手に入れられなかったことと、デザイナーであるハーベイ・ポスルスウェイトがシーズン序盤にチームを離脱したためにマシン熟成作業が遅々として進まなかったことも挙げられる。また、中嶋本人は体力と視力の衰えに相当悩んでいた。
第9戦のドイツGPで、このシーズンを最後に引退することを発表。当時未曾有のF1ブームに沸く日本のファンに衝撃を与えた。なお、引退発表直後に行われたドイツGP予選では、このシーズンで唯一チームメイトのモデナより速い予選通過タイムを記録している。その年の日本GPが行われた鈴鹿サーキットはまさに中嶋一色に染まり、日の丸とともに「ありがとう中嶋」、「やらまいか中嶋」などの横断幕がサーキットを埋め、最後の鈴鹿で念願の表彰台が期待されたものの、残念ながらステアリングのトラブルによりリタイアという結果に終わった。
引退レースとなった最終戦のオーストラリアGPは、4位入賞・ファステストラップを記録した2年前と同じ雨のアデレードとなり期待を持たせたが、レース序盤にリアをスライドさせてマシンをコンクリートウォールにヒットさせてしまったため26台中最初にリタイヤを喫し、F1レーサーとしてのキャリアを終えた。
日本国内の各選手権で活躍していたころから雨のレースを得意とし、ファンの間からは「雨のナカジマ」と呼ばれていた。
ロータスでの最後のレースとなった、1989年の最終戦オーストラリアGP(アデレード市街地コース)では、予選に失敗し23番グリッドからのスタートとなったものの、大雨に見舞われチャンピオン争いを行うセナや1987年のワールドチャンピオンのピケなど多くの選手がクラッシュ。最終戦とあって年間順位がほぼ確定していることもあり、セナとチャンピオンを争っていたものの、ほぼチャンピオンを確定していたプロストは危険なずぶ濡れのコースで無理に走らず棄権するなど(プロスト、ピケ、セナ、マンセルとワールドチャンピオン達はすべて完走できず)最悪のコンディションの中、戦闘力の劣るロータス101・ジャッドで「雨のナカジマ」上位のマシンを次々と抜き去る見事な走りを見せ、ファステストラップ(1分38秒480、64周目)を記録した。
残り10周を切った時点で、3番手を走るウィリアムズ・ルノーのリカルド・パトレーゼの直後に迫り、日本人F1ドライバー初の表彰台を期待されたが、エンジンの電気系統のトラブルで抜くことができず(前述の通り、水煙の影響でエンジンがミスファイアを起こしていた)、また2時間ルール規定にも阻まれ、結局4位に終わっている。レース後、中嶋はまるでセナのように耳栓を格好良く放り投げ、当時の中嶋担当エンジニアであったティム・デンシャム(現・ルノーF1チーフデザイナー)と抱擁した。
後年、TVのインタビューで「なぜ雨のレースが得意なんですか?」との問いに「雨だと車が滑るけど、その分ハンドルが軽くなって操縦しやすくなるから、腕力が無い自分にとって雨のレースはチャンスだった」と答えている。また、「中嶋のマシンの挙動に対する感覚の高さが、車が滑りやすい雨のレースにおけるドライビングの巧みさの理由である」という評価も受けている。毒舌で有名なイギリスのBBCの名物解説者であり、それまで中嶋に対して高い評価を与えたことのなかった元ワールドチャンピオンの故・ジェームス・ハントは、後の1991年シーズン前に「(パフォーマンスの高いホンダエンジンを搭載したマシンをドライブしても)中嶋が表彰台に登れるはずがない」とこき下ろしたものの「だが、全戦が雨で開催されるなら、話は変わってくる」とも語っていた。
蛇足であるが「スキルはあるが体力が無い」という事実は、30代半ばという異例に遅いF1デビューを果たした中嶋を常に悩ませ続け、これを裏づけるように1991年、当時直線とシケインで構成されていたドイツ・ホッケハイムリンクでの予選(ドライ)でこの年初めてチームメイトのステファノ・モデナを上回った際、ティレルの元・テクニカルディレクターであるハーヴェイ・ポスルズウェイトは「直線で一息入れられるサーキットではナカジマは速い」とコメントを出している。
なお、2004年第7戦ヨーロッパGPで佐藤琢磨がレース中にトップでコントロールラインを通過し、公式に1位走行(ラップリーダー)を記録するまでは、F1の決勝レースにおける記録の中で「1位」として名を残した唯一の日本人ドライバーであり、ファステストラップに関しては未だに日本人ドライバーで唯一の記録保持者である。
全日本F3000選手権(現:フォーミュラ・ニッポン)や全日本GT選手権(現:SUPER GT)などに参戦している自身のチーム(中嶋企画)の監督として現場を率いている。
同チームは高木虎之介・松田次生・小暮卓史といったドライバーを輩出しており、若手ドライバーの登用に積極的である。また鈴鹿サーキットが主催するレーシングスクール「SRS-K」「SRS-F」の校長も務め、これまで佐藤琢磨・松田次生・松浦孝亮などを同スクールより送り出している。2004年にはフォーミュラ・ニッポンを運営する株式会社日本レースプロモーションの会長に就任、観客数の低迷が続くフォーミュラ・ニッポンの建て直しにも本格的に乗り出した。
中嶋一貴は、12歳からカートを始め、2003年はフォーミュラ・トヨタ、2004年〜2005年は全日本F3に参戦。2005年はSUPER GT(GT300クラス)にも参戦し1勝している。2006年はトヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム(TDP)からユーロF3に参戦。2007年にF1の名門チームであるウィリアムズF1のテストドライバーに抜擢された。2007年はテストドライバーと並行してGP2にも参戦した(所属チームはDAMS)。一貴は一貫してトヨタのサポートを受けてレース活動を続けている(ただし前述の通り、父親も国内時代はトヨタと密接な関係を持っている)。日本レース界において父親の影響力が依然として強いのも事実だが、2世ドライバーであるという点を差し引いてもその才能は現在の国内若手ドライバーの中でナンバーワンと言える。
トヨタのサポートを受け続ける背景として、国内でのファンの人気と言う点でホンダに大きく見劣りすると認識したトヨタが、打開策として日本人ドライバーの育成に力を入れるようになり、良いタイミングでネームバリューのある中嶋悟の長男を招き入れることに成功したことによるものとの見方もある。そして、2007年F1最終戦のブラジルGPでウイリアムズよりF1デビューを果たし、2008年からはレギュラードライバーとしてウイリアムズをドライブすることが決定。親子2代のF1レギュラードライバーが誕生することになった。
中嶋大祐は、2004年より全日本カート選手権・ICAクラスに参戦、2005年にシリーズランキング4位となる。2006年、SRS-Fに入校。2007年よりFCJ(カーナンバー8)に参戦している。大祐は兄とは違い、父と同じくホンダとエプソンのサポートを受けレース活動を行なっている。
F1ブームが頂点に達した1990年11月21日、キティレコード(現:ユニバーサルミュージック)から「悲しき水中翼船」で歌手デビュー。作詞・作曲・プロデュースは東京バナナボーイズ。
中嶋本人は歌うことに抵抗があったが、スポンサー(エプソン)のCMソングであったことと、テレビ番組など人前で歌わないことを条件に承諾したという。また、レコーディング直前まで自身が歌うことを知らされず、「僕は前もって言われると考えちゃってほとんど“NO”って言っちゃうんだよ。その事をマネージャーが知っているから、直前まで隠したんだよね。」と、『F1ポールポジション』(フジテレビ)に出演した際に語っていた。
なお、折からのF1ブームと、上記のように発売に併せてエプソンのテレビCMに乗せて大量オンエアされたこともあり、多くのプロの歌手を押しのけオリコンの20位にランクインするスマッシュヒットとなる。
自動車雑誌「カーグラフィック」に、国際F3000時代の1986年から、引退する1991年にかけて毎月連載された日記調の連載を単行本にしたもの。
海老沢泰久の小説『F2グランプリ』(1981年、1984年に東宝より映画化)に登場するドライバーの「中野英明(映画では中野訓)」は、中嶋をモデルとしている。
カテゴリ: 日本のドライバー | 日本のF1ドライバー | 愛知県出身のスポーツ選手 | 1953年生 | 愛知県出身の人物

[ 26] 中嶋悟 - Wikipedia
[引用サイト]  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B6%8B%E6%82%9F



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